秀郷が築いた唐沢山城址と伝・秀郷の墓所、他 

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唐沢山城址は東北道佐野ICから北へ約11km、首都圏からの場合は佐野SAから5km北の岩舟JCTから北関東道に入り、佐野田沼ICで降りると便利だ。最後の工事区間だった佐野田沼ICと太田桐生ICの間は平成23年3月19日に完成した。山頂の城址は無料駐車場完備・拝観無料、地図および唐沢山神社の公式サイト(各、別窓)を参考に。遺構はかなり広い範囲にあり起伏も多いから、佐野観光協会提供の城跡案内図(別窓)を携帯するとかなり重宝する。
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唐沢山は250mにも満たない低山だが深い谷と崖が入り組んだ要害で、西暦900年代の初頭に藤原秀郷が北関東支配の拠点とした。頂上の本丸跡に建つ唐沢山神社の創建は明治十六年(1883)で祭神は藤原秀郷、神社の南西約3kmの東武佐野線・吉水駅近く(新吉水町254)に墓所伝承の塚が残る。
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藤原秀郷は下野大掾(律令制による地方官吏)藤原村雄の子で、上野国赤岩(現在の群馬県邑楽郡千代田町の利根川北岸)に生まれた。田原(京都の田原・または近江の田原郷)で育ったため田原(田原)藤太と名乗ったとされるが、詳細は明らかではない。成長した後は下野国(栃木)の在庁官人(実務を担当した下級官吏)として勢力を伸ばし、生誕の赤岩近くに舞木城(赤岩城)を築いた後に唐沢山に築城して本拠地とした、と伝わる。
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右:秀郷最初の築城跡と伝わる、利根川北岸・赤岩の光恩寺  画像をクリック→拡大表示
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天慶二年(939)に平将門が天慶の乱を起こしたとき下野掾兼押領使(軍事・警察の指揮官職)に任命されて平定、功績により武蔵守・鎮守府将軍を兼任するようになった。三上山(滋賀県野洲市)の大ムカデを退治した伝説が名高い。これは上野国赤城山の神と下野国二荒山の神がそれぞれ大ムカデと大蛇に姿を変え、日光の戦場ヶ原で戦ったダイナミックな神話を連想させる。
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秀郷の子孫は五代に亘って鎮守府将軍に任じ唐沢山城に本拠を置いた。六代目の成行は平家の家人(御家人)として勢力を伸ばし 八條院領の足利荘に移って(藤姓)足利氏を称した。やがて時代は移り、平家の衰退と共に源姓足利氏が勢力の拡大を図り始める。源姓足利氏は清和源氏系、義家--義国--足利義康と続いている。
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後に足利から駆逐された九代目の足利俊綱は廃城となっていた唐沢山城に戻って再起を図ったが、頼朝の御家人となった対抗勢力の小山朝政の攻撃を受け、同盟関係にあった 源(志田)義憲と共に滅ぼされた。
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戦国時代には秀郷の子孫で庶流の 佐野基綱が本拠とした。北の越後上杉勢と南の小田原北条勢に挟まれて苦しい立場に陥ったが、天正五年(1577)に上杉軍の猛攻を受けても落城せず、後に小田原北条氏と和睦してその勢力下に入った。
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秀吉が覇権を握った安土桃山時代の小田原攻めで北条氏は滅亡したが、佐野氏は秀吉の武将富田知信の次男信吉を養子に迎えて旧領三万五千石を安堵された。豊臣氏滅亡後は外様として徳川氏に仕え、慶長七年(1602)2月に唐沢山城から江戸の大火を見た城主佐野信吉は急遽見舞いに駆け付けたが「将軍居城の江戸を見下ろすとは無礼」と家康の怒りを受けた。直後には信濃流罪、唐沢山城も「山城禁止令」を受けて700年近い歴史を閉じて廃城となった。幕府による計画的な豊臣系外様大名潰しだろう。ただし23年後に三代将軍家光の赦免を受け、信吉の二人の子は旗本として佐野家の再興を許された。
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もちろん「江戸を見おろした」や「山城禁止令」の真偽は不明。佐野信吉は江戸大火の慶長七年(1602)に春日岡(JR佐野駅北口)で築城を始め、未完成の同十二年(1607)に居城を移し同十九年(1614)に改易されている。この佐野城は未完成のまま廃城となり、現在は城山公園として遺構が保存されている。


     

        左: 大手口左の避来矢(ひらいし)山は元々は現在の駐車場部分まであり、頂上の平場に武器庫などの軍事施設があった。「避来矢」とは藤原秀郷が
近江三上山の大百足を退治した時に 龍神から贈られたと伝わる甲冑の名である。山頂には唐沢山神社に尽くした人を祀る霊廟が建っている。
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        中&右: 大手口の枡形を。左画像は外、右は城内から。避来矢山と左の天狗岩に挟まれた部分で、車の通行のため昭和時代に広げられた。


     

        上: 望楼の跡と伝わる天狗岩。「唐沢七名石」の一つ(残り六名石は不明)で、南に突き出した岩が天狗の鼻に似ているため、この名が付いた。
元々の天狗岩は避来矢山の西端で、中間を切り崩して城の大手口を造ったのだろう。柱状節理の硬い岩角が突き出していて歩きにくい。


     

        左: 天狗岩から南側の眺望。遠くに左側から張り出している山並みは万葉集に詠われた「みかも山」(229m)だろうか。
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             詠み人知らず   下毛野 三毳の山の 小楢のす ま麗し児ろは 誰が笥か持たむ
              〜下野の三毳山に生えている小楢の木のように愛らしい娘は 誰の食器を持つ(嫁になる、の意味)のだろうか〜
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        中: 天狗岩から西側の眺望。右の台形は多分直線で60km離れた荒船山(1423m)、とすると遠くの中央は八ヶ岳(最高峰は2899m)かな。
八ヶ岳なら、こちらは直線で100km以上。結構遠くまで見えるもんだねぇ。
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        右: 天狗岩から北側の眺望。すぐ下に駐車場の隅にある売店の屋根が、もう少し背伸びすると北関東自動車道が一望できる。


     

        左: 参道は山頂の右側を巻いて神社本殿が建つ本丸方向へ。鳥居の手前右に神社直営の 唐沢山荘、その先に西の出城・天徳丸跡が残る。
更に、磨り減った石段を進むと籠城戦の最終防衛ライン・四っ目堀に懸かる神橋が見えてくる。左側には城の水源である「大炊の井」。
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        中&右: 「大炊の井」は築城の際に厳島大明神に祈り霊夢に従って掘ったもの。直径8mで深さ9m、対岸の帯曲輪とは20mの高低差がある。
積み上げた石垣は約7m四方で水面まで1.8m、深さ9mの底に松材の枠を組んで水脈まで更に堀り進んでいる。現在に至るまで千年の間、
水が涸れたことはなかった、と伝わっている。


     

        左&中: 四っ目堀に懸かる神橋。本丸の城山と駐車場横の避来矢神社の間にある谷を利用したのが四っ目堀で、現在は浅くなっているが元々は
巾5間(約9m)・深さ2間(約3.6m)だった。神橋は木造の曳き橋であり、大炊の井まで攻め込まれた時は引き上げて本丸を守った。
藤原秀郷の子孫で城主の佐野昌綱は越後の上杉謙信に従ったが再三反逆して北条氏康に与し、謙信に攻められた際には辛うじて四っ目堀で
食い止め落城を免れた、という。堀の両端は深く切り落とされて側面からの攻撃を防ぐ構造になっている。
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        右: 斜面の右を巻いて本丸に登る大手道。石段の突き当たりが南の曲輪跡(現在の社務所)、右側の一つ目堀の外にも物見櫓があった。


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        上: 本丸跡の神門に登る石段。頂上の平場には唐沢山神社の本殿が建ち、祭神として築城主の下野押領使・藤原秀郷を祀っている。
残念ながら、柵があるため裏手の本殿に廻ることはできない。華美を排した、かなり豪壮な雰囲気を持っている。この周辺に残る石垣の大部分は
藤原秀郷時代(1100年前!)の遺構と言われている、らしい。


     

        左: 南曲輪跡の社務所裏から都内の方向を。空気の澄んだ冬の晴天には新宿の高層ビルも確認できるが、秋の紅葉や春の桜も捨てがたい。
        中: 表御殿左側の石組み。秀郷の時代と江戸時代初期の遺構の区別が漠然としており、かなり悩ましいのも事実。詳細の説明が望まれる。
        右: 本丸の南側、表御殿の石垣はこの城で最も古い遺構らしい。表御殿は別名を「取次の丸」と呼ばれ日々の軍務の指揮所が置かれていた。
南側には大手道に下る石段、北側には本丸に登る石段があったが廃城と共に壊された、と伝わっている。


     

        上: 武者詰所のあった二の丸跡。本丸裏手に登る石段両側の石組み(右手は表御殿と本丸を隔てる石垣に続く)も古色蒼然として美しい。
二の丸は本丸よりも2間(約3.6m)低く、東西約35m×南北約20mの広さで周囲を高さ2mの石垣で固めている。


     

        上: 2014年11月末、妻の両親の墓に詣でた帰り道に唐沢山城址を散策。一週間ほど前が紅葉の最盛期だったらしいが、まだ見事だった。
全山が紅く染まった風景ではなく、広葉樹や針葉樹が混在する中での紅葉もまた美しい。南裾の鳥居から駐車場までは約2.5kmで西側の山裾
からは1.4kmの登り坂だから、まつに難攻不落の要害だったと表現すべきだろう。




伝・藤原秀郷の墳墓


     

        左: 西側の東武佐野線吉水駅近くから唐沢山を。道の駅の どまんなかたぬま (別窓)と吉水駅の中間付近に藤原秀郷の墳墓と伝わる古墳が残る。
更に2km北の田沼駅西隣の一瓶塚稲荷神社は唐沢山南の富士村(現在の富士町)に秀郷が創建した五社稲荷の一つ。文治ニ年(1186)に
佐野成俊( 佐野基綱の叔父)が唐沢山城を再建した際に城の北西に移して社殿を創建したもの、と伝わる。
墳墓から足利郊外の樺崎八幡宮(法界寺跡)まで9km、法玄寺法楽寺鑁阿寺のある中心部までは14kmだから周遊できる。地図はこちら

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        中: 唐沢山神社が境内(飛地)として管理する藤原秀郷の墳墓。高さは3m、周囲の平坦面と切石まで含めると直径約36mもある。
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        右: 墳墓一帯の字名は東明寺。秀郷が開基・知海法印が開山和尚の大岡山東明寺(元和三年・1617年廃寺)があったため東明寺古墳とも呼ばれる。
残念ながら廃寺の痕跡も確認できていないらしい。


     

        左: 知海法印の和歌...月影のすはの湊にすむ夜半は またきにむすふ氷なりけり   東明寺も知海法印も、詳細については不明。
        中: 墳墓から直線2.5kmの唐沢山頂を見る。史料では秀郷の生没年は不明だが、伝承では正暦二年(991)に没して東明寺に葬られた。
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        右: すぐ横の小さな祠は田原八幡。東明寺が廃寺になった90年後の宝永二年(1705)に地元の有志が墳頂の祠を移設して建立したもの。
東明寺旧跡は判然としないが墳墓一帯の旧字名が東明寺なので近隣にあったのは間違いない。
 
元和二年(1616)4月17日に没した家康の遺体が翌年3月15日に日光東照宮へ運ばれる際に途中の惣宗寺・佐野厄除大師(公式サイト)、
(正式には春日岡山転法輪院惣宗官寺を称する。)で一泊、東明寺住職が召集に応じなかった(遅参した、とも)ため廃寺処分となった、と伝わる。
秀郷の庶流子孫である佐野氏の本拠となった唐沢山城は家康の命令で慶長七年(1602)に廃されたため、佐野氏庶流と思われる秀郷菩提寺の
東明寺住職が15年前に本城を失った遺恨から参集を拒んだ、と考えるのも面白い。


     

        左: 墳墓から500m北の興聖寺は安貞二年(1228)に秀郷の子孫佐野国綱が築いて同族の岩崎義基に委託した興聖寺城(清水城・吉水城)跡。
唐沢山の西麓を守った平城跡で、敷地周囲には土塁の痕跡が見事に残る。義基以後も岩崎氏の居住が続き、永正年間(1504〜1521)に
12代後の棟梁・左馬頭重長が4km北の岩崎城へ移り、大永元年(1521)には弟の秀綱が入った。慶長十九年(1614)には唐沢山城が廃されて
当主の佐野信吉は信州松本へ流され改易、後に子息久綱と公当の願いを容れて旗本として佐野氏の再興となった。
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        中: 最初の城主・岩崎義基は木曽(源)義仲 の息子  清水冠者義高 だったとする伝承が残る。入間川で堀親家の郎党・籐内光澄に討たれた義高は
入間川で殺されずに佐野まで逃げ、佐野国綱の庇護を受けて岩崎義基を名乗った、と。残念ながら根拠は乏しく、系図などでは義仲と藤姓足利氏
との接点は見出せないが、北條氏の娘が藤姓足利氏とも婚姻しており、源姓と藤姓の双方に関係を持っていたのは確認できる。
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境内には土塁や水濠の痕跡が鮮明に見られ、更に300m弱西の第二公園にも土塁の痕跡(詳細は下記)がある。清水城跡・興聖寺 栃木県誌
などによれば、安貞二年(1228)に佐野国綱が岩崎義基のために築いたとある。後に子孫が代々居住したが、永正年間(1541〜1521)に義基
から12代後の左馬介重長が岩崎城へ移り、大永元年(1521)に佐野秀綱の居城となった。
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        右: 慶長十九年(1614)の佐野氏改易から20年後の寛永12年(1635)に田之入(約1km東の田之入町)にあった興聖寺がこの地に移転した。
土塁が囲む館の跡は東西116m×南北133m、一辺が約200mある足利の鑁阿寺よりも一回り小さいが土塁外側には水濠遺構も確認できる。
全盛期には本丸・南二の丸、三の丸の曲輪が水堀で囲まれ、有力家臣の侍屋敷が周囲を固めていたらしい。
古文書ではこの城を「清水御城・清水ノ城・吉水の城」などと記録しており、昭和以後刊行の城郭大系などには興聖寺城として紹介されている。


     

        左: 土塁が囲んでいる興聖寺の境内が本郭跡。、最盛期の興聖寺城は東武鉄道吉水駅付近まで、600m四方に及ぶ壮大な規模だったらしい。
現在は敷地の半分以上が墓地で遺構などはまったく残っていない。南側と南東側の土塁は竹薮と雑草に覆われて形状を確認するだけだが、
西側の県道に面した部分に登ることができる。土塁巾は5〜7mで高さ約3m、水濠跡の一部は約5mの巾がある。
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        中: 県道に沿った土塁に登って南側を撮影。大きく育った樹木が多く、昔日の雰囲気は残っているが奥までは確認できそうもない。
        右: 北側に伸びる土塁の周辺は整備が行き届き本来の形状を髣髴とさせる。左側(西)の水濠は県道の開通に伴って既に痕跡を失っている。


     

        左&中: 興聖寺の山門から300mほど東の公園敷地にも土塁跡が残っている。全盛期の姿を思わせる出城か、あるいは東郭の痕跡か。
        右: 秀郷墳墓(東明寺古墳)と興聖寺と土塁跡の鳥瞰図。県道西側の道の駅には広い駐車場があり、周辺史跡散策の根拠地に利用できる。




藤原秀郷と将門に縁のある鶏足寺(旧名を世尊寺)

足利市内の西に位置する鶏足寺は旧名が世尊寺、嵯峨天皇の大同四年(809)に東大寺の僧である定恵により天台宗の寺として創建された。鎌倉期の
文永六年(1269)前後に下野の薬師寺から慈猛を迎えて真言宗の改宗したと伝わっている。改宗の年代には諸説があり、確定には至っていない。
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天慶二年(939)の平将門の乱に際して、将門追討の勅命を受けた 藤原秀郷は世尊寺の法印に将門の調伏を指示した。法印は土で作った将門の首を
置いて祈り続け8日目には眠りに落ち、3本足の鶏が血まみれの将門の首を踏みつけている夢を見る。鶏の笑い声で目を覚ました法印は土の首に鶏の
足跡が3つ付いているのを見た。それから17日が過ぎた満月の日に秀郷は将門を討ち取り天慶の乱は終了、勅命により世尊寺は「鶏足寺」と改名された。
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鶏足寺には平安時代の 銅製寺印力王の太刀などの文化財(共に別窓・栃木県のサイト)が残されている。


     

        左: 正式には仏手山鶏足寺。将門調伏後に五大明王像・両界曼荼羅が、寛元元年(1243)に88代後嵯峨帝から力王の太刀が下賜された。
        中: 車道を使わずに山門から続く登り道を歩く。鎌倉時代の弘長三年(1263)には境内の五大尊堂に梵鐘(重要文化財)が鋳造されている。
        右: 右へ迂回する車道と駐車場も造られているが、山門の手前にも車は停められる。ここでは静かな雰囲気を楽しみつつ徒歩で参詣したい。


     

        左&中: 鎌倉末期の建造と伝わる四脚の勅使門。勅使参向の出入りに使うため通常は閉じられ、日常は総門を使うのが本来らしい。
        右: 天文22年(1553・川中島合戦の頃)の兵火で全山を焼失、現在の本堂は享保17年(1723)、護摩堂は正徳二年(1732)に再建された。


                 藤原秀郷から藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏に続く系図
鎮守府将軍    鎮守府将軍 鎮守府将軍
武蔵守      美濃守   下野国押領使 下野守
藤原秀郷─┬─千常─┬─文脩──┬─文行───公行─┬─公光─┬─公清───(佐藤氏)───
     │    │     │         │    │
     │    │     │         │    ├─経範───経秀───
     │    │     │         │    │
     │    │     │         │    └─公季───公助─┬─公宗        ↓妻は二階堂行政の娘
     │    │     │         │              │           ↓伊賀守  ↓京都守護
     │    │     │         │              └─文郷───光郷───朝光─┬─光季─┬─光綱───
     │    │     │         │                             │    │
     │    │     │         └─脩行───行景───(近藤氏)───           │    └─季村───
     │    │     │                                       │ ↓評定衆        ↓山城守  ↓土佐守
     │    │     │                                       ├─光宗─┬─宗義───光政───兼光───
     │    │     │                                       │    │ ↓評定衆
     │    │     │                                       │    └─宗綱─┬─光氏───光益───頼益───
     │    │     │                                       │         │
     │    │     │                                       │         └─光泰───頼泰─┬─光貞─┬─盛光───光政───光隆───
     │    │     │                                       │           ↓評定衆 ↓伊勢守 │    │
     │    │     │                                       ├─光資───光房───光有───光之 │    └─貞長───
     │    │     │                                       │                   │
     │    │     │                                       ├─朝行                └─光長───兼長───頼兼───
     │    │     │                                       │ ↑伊賀守 
     │    │     │                                       └─光重───光範───光盛───
     │    │     │
     │    │     │           ↓上野国(伊勢崎市南部)に土着
     │    │     │ 鎮守府将軍 鎮守府将軍 下野守   ↓足利大夫(両崖山城に土着)
     │    └─千万  ├─兼光───頼行─┬─兼行─┬─成行─┬─成綱
     │          │         │    │    │ ↓足利孫太郎 ↓出羽守
     ├─千時       └─条方      │    │    ├─家綱─┬─俊綱─┬─康綱───宗綱
     │                    │    │    │    │    │ ↓足利又太郎
     ├─千晴───久頼            │    │    ├─成実 ├─高綱 ├─忠綱
     │                    │    │    │    │    │
     ├─千国                 │    │    └─重俊 ├─成俊 └─綱元
     │                    │    │         │ ↓足利七郎 ↓佐野太郎
     └─千種                 │    ├─行房───成綱 └─有綱─┬─基綱─┬─景綱─┬─秀綱
                          │    │              │    │    │           安房権守
                          │    └─孝綱           ├─広綱 │    └─宗綱───頼綱───師綱
                          │                   │    │ ↓安房守  ↓左衛門尉 ↓越前守
                          │                   └─信綱 └─国基─┬─実綱─┬─成綱
                          │                             │    │
                          │                             └─景綱 ├─景綱
                          │ ↓太田 (太田郷・加須市一帯)                                  │
                          └─行尊───行政─┬─行方───行基                ├─時綱 関口三郎
                                    │                        │
                                    │                        ├─宗綱 戸奈良五郎
                                    │                        │
                                    │                        ├─行綱 鹿沼六郎
                                    │                        │
                                    │                        ├─親綱 閑馬七郎
                                    │                        │
                                    │                        └─親綱
                                    │ ↓小山 (久安年間(1145〜1151)に太田郷から移って小山氏を名乗る)
                                    ├─政光─┬─朝政───朝長─┬─長村───時長───宗長───貞朝───秀朝───朝郷───氏政───
                                    │    │         │                      ↑新田義貞に従って鎌倉攻めに参加し下野国司と守護を兼任、建武二年(1335)の中先代の乱で北條時行軍に敗れ戦死。
                                    │    │         ├─時長───宗長───貞朝─┬─秀朝───朝氏───氏朝───義政
                                    │    │         │              │
                                    │    │         ├─宗光           ├─高朝─┬─朝郷
                                    │    │         │              │    │
                                    │    │         ├─長綱           └─秀政 └─氏朝───義政
                                    │    │         │ ↓薬師寺
                                    │    │         └─政村─┬─経泰
                                    │    │              │
                                    │    │              ├─政氏─┬─政盛───貞光
                                    │    │              │    │
                                    │    │              └─政義 └─朝氏
                                    │    │ ↓中沼(長沼)
                                    │    ├─宗政─┬─宗泰─┬─宗秀─┬─秀行
                                    │    │    │    │    │
                                    │    │    └─時村 └─宗員 └─宗朝
                                    │    │ ↓結城   ↓筥村
                                    │    └─朝光─┬─時光
                                    │         │      ↓下総結城
                                    │         └─朝広─┬─広綱───時広───貞広───朝祐───直朝───
                                    │              │ ↓白河結城
                                    │              └─祐広───宗広───親朝───
                                    │ ↓下川辺 (安元年間(1175〜1177)より前に頼政を介して八条院領として下川辺を立荘)
                                    └─行義─┬─行平───行時───
                                         │      ↓野本
                                         └─政義───時員───時秀───    政義の子孫には長谷川宣以(火付盗賊改役で知られた鬼の平蔵)がいる。
                                                



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