緒戦で平兼隆を討ち取った加藤景廉の本領・牧之郷  

 
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牧之郷周辺の鳥瞰 右:修善寺駅周辺と景廉の本領・牧之郷の鳥瞰    画像をクリック→拡大表示
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加藤氏の出自は伊勢、系図に拠れば 源頼義 の郎党で鎮守府将軍藤原利仁の子孫を称して伊勢国目代に任じた景清が一族の祖。源頼義に従う七騎の一人として勇名を馳せた人物で、一時期は加賀国に住んだ経緯から加賀の藤原・加藤を名乗った、とも伝わっている。
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(藤原(平)景清) の嫡子(あるいは嫡孫)が伊勢神宮領の管理を務めていた 加藤五景員 で、その嫡男が 加藤太光員(光胤)、その弟が 加藤次景廉 。源平盛衰記に拠れば景員は伊勢国でのトラブルから平家の武士を殺して逐電し、伊豆に逃れて伊豆の最大勢力だった 狩野茂光の庇護を受けた。茂光の支配下にあった官牧(狩野荘内牧郷あるいは狩野牧)の管理などに任じたと推定される。光員と景廉の生母については記録が見当たらず、彼らの産まれた場所が伊勢国なのか伊豆国なのかは不明。
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  ※藤原利仁: 従四位下に昇った武人。20年ほど後に活躍した秀郷(俵藤太)が名乗った藤原流が事実
か否かは諸説あるが同じ平安中期の「藤原系」武人の利仁は藤原北家魚名流と確認されている。今昔物語が描いた話をベースにして芥川龍之介が「芋粥」を書いたことでも知られている。利仁流藤原氏の末裔を名乗る家系は多数あり、加藤氏の場合も系図の真偽は判らない。
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吾妻鏡の治承四年(1180)8月20日、韮山を発って相模に向う 頼朝 軍勢の中に加籐五景員・同籐太光員・同籐次景廉の名が記載されている。頼朝挙兵の際には老齢の景員も共に従軍したが 石橋山合戦(別窓)で惨敗し、足手纏いになるのを恐れて息子らと別れ 伊豆山権現(別窓)に入って出家した。
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吾妻鏡 治承四年(1180) 8月27日 】   8月23日の石橋山合戦で敗れた後。
加藤五景員と子息の光員・景廉らは去る24日から三日間筥根(箱根)の山中に隠れて疲労の極に達し、景員は老齢のため 動きがとれなくなった。二人の息子に「お前らは無駄に命を落とすな。私を残して主家の源氏を探し出せ」と。光員らは断腸の思いで父親を走湯山(伊豆山権現)に送り届けた。景員はここで出家し、光員と景廉は甲斐国に向った。深夜近くに伊豆国府(三島)に着いたところ現地の者に追跡されたため分散し、互いに消息を断った。


加藤一族の廟所 左:伊豆箱根鉄道の横に残る景廉一族の廟所    画像をクリック→拡大表示
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晩年の景廉は本領の牧之郷に戻って一族の菩提寺となる真言律宗金剛寺(既に廃寺)を建立し、源平合戦や奥州合戦での死者を弔いつつ晩年を過ごした、と伝わる。伊豆箱根鉄道の線路脇に残る鎌倉時代の五輪塔は室町期の洪水で流された金剛寺の残欠を集めて祀ったもので、更に昭和三十三年(1958)の狩野川台風による出水でも再び散逸、回収と復旧を繰り返したため本来の姿とは異なっている。
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話を戻して...伊豆山で出家した加藤五景員は後に畿内に駐屯し、石橋山から4年後の伊勢平氏の乱には残党の捜索と追討を命じられているから、立ち居に支障があるほどの高齢ではなかったらしい。敗戦の苦しさを劇的に脚色したのが吾妻鏡編纂者の意図だった可能性もある。
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【 吾妻鏡 壽永三年(1184) 7月18日 】
伊賀国の合戦(伊勢平氏の乱)について頼朝の沙汰があった。
逃亡した平家一門の郎党らを捜索殲滅するよう 大内惟義 ・ 加藤五景員入道父子・瀧口山内首藤経俊らに命じ、雑色の友行と宗重の両名がその旨の書状を携えて出発した。
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  ※大内惟義: 系図は源頼義--四男の新羅三郎義光--四男の平賀盛義--長男の 平賀義信--長男の 大内惟義と続く。頼朝の近臣で源氏門葉の筆頭御家人。
北條時政の娘婿 平賀朝雅は異母弟に当る。近畿六ヶ国の守護を務めたが没後に嫡子惟信が承久の乱で京方に味方し一族は滅亡した。
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  ※瀧口経俊: 鎌倉郡山内荘(北鎌倉山内から横浜近くまでの広大なエリア)を本領とする武士で母親(山内尼)が頼朝の乳母を務めた一人。
平治の乱で 源義朝 に従った父俊通と長兄俊綱が戦死したため家督を継いだ。庶兄の俊秀も 以仁王 に従って戦死しているにも拘らず頼朝挙兵の際は招集を拒み、使者を務めた 安達盛長 に暴言を吐いた、と伝わる。
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石橋山合戦では 大庭景親 が率いる平家軍に加わって放った名入りの矢が頼朝着用の鎧の袖に突き刺さり、戦後に斬られる筈だったが、母親の山内尼(頼朝の乳母の一人)の懇願などで許され御家人に列した。三日平氏の乱で鎮圧に失敗したため伊勢と伊賀の守護職は没収され 平賀朝雅に移ったが、後に朝雅は 北條時政 失脚に連座して経俊の子息・通基に討たれている。

右:景廉一族の廟所に残る六基の巨大な五輪塔    画像をクリック→拡大表示
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狩野川の大洪水で散逸した五輪塔を回収して旧に復したため組合せは不正確で、墓石の主が誰かも確認できず、地輪(最下段)の一部には明かに後世に補追した痕跡が見られる。五輪塔を保護している覆い屋は一族の菩提寺だった真言律宗金剛廃寺の跡と推定される場所の少し北側、丸大食品裏手の伊豆箱根鉄道駿豆線の線路に沿った狭い農道に面している。近くには駐車できるスペースはないが最近になって県道沿いにドラッグストアが開業、買い物がてら停めさせて頂こう。


加藤一族の廟所-1   加藤一族の廟所-2   加藤一族の廟所-3

        左: 覆屋の右に「真言律宗 金剛寺跡」の石碑が建っている。一帯の地名は寺中、善願上人の骨蔵器が出土したのは狩野川寄りの古い石塔の
下だったと伝わっているが既に正確な位置は不明、石塔の所在もわからない。
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        中: 六基とも地輪(底辺の四角)の材質が明らかに異なっているため散逸後に補追したと思われるが、室町時代か狩野川台風の際かは判らない。
        右: 左端の五輪塔は他の四基とは材質が異なっており、更に笠(火輪)の形状にも差異が見られるため、造塔の年代が違うと思われる。

もう一度話を戻して...景廉の父加藤五景員はその後鎌倉に戻り、壇ノ浦合戦で平家一門が滅亡を迎える約一ヶ月前には再び吾妻鏡に登場し、病弱の景廉を気遣う姿を頼朝に見せている。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月29日 】
加藤五郎入道(景員)が御所に参じて一通の書状を御前に置き、何も聞かないのに落涙した。暫くして語るには「息子景廉は三州(範頼)に従い鎮西(九州)に下っております。先月は周防(山口県東部)から豊後(大分県)に渡る際に重病を押して小舟に乗り従った、と書いてあります。主君のため戦場で死地を潜り今また病に侵され死の淵を彷徨っていると思うと老残の身を置く所もありません。」と。頼朝も涙を流して景廉の書状を読み、「側近として留まれと命じたのに天下の大事だからと出陣してしまった。例え病死しても敵を討つため戦場で討死した扱いにしよう。」との旨を語りかけた。
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一週間後の3月6日、景廉の病状について心を痛めた頼朝は「療養を心掛け平癒したら早く鎌倉に戻させるよう」 範頼 に書状を送っている。また厩に飼っていた 大庭景義 献上の小鴾毛(赤みを帯びた葦毛の馬)を送り乗って帰るよう 大江廣元 に詳細の手配を命じた。
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加藤次景廉は伊豆挙兵の際に 佐々木盛綱 と共に 山木判官兼隆 を討ち取り首を持ち帰った武者だが病弱の傾向があったらしい。壽永元年(1182)6月7日にも由比ガ浜での弓馬競技後に行った宴会で気を失い佐々木盛綱の介抱を受けた記録が残っている。頼朝は翌8日に車大路の景廉宅(材木座一丁目付近か)まで見舞いに赴き、回復を確認して亀女のいる中原(小中太)光家に向う供を命じた。見舞いと妾宅訪問のどちらが主目的かは判らないけどね。


加藤一族の廟所 左:景廉が建立した菩提寺・真言律宗金剛廃寺の跡    画像をクリック→拡大表示
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五輪塔の周辺には寺中・堂の前・弥陀堂・弥宣屋敷などの地名が残り鎌倉期の瓦なども出土している。200mほど南の狩野川近くが金剛廃寺の跡で江戸時代には銅製の骨蔵器が掘り出された。背景の中央に見える山の右側が加藤氏館跡と推定される玉洞院(当初は真言密教、現在は曹洞宗)。地図はこちら、丸大食品から狩野荘にかけての一帯が金剛廃寺の跡らしい。
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加藤次景廉は奥州合戦でも功績を挙げ、更に甲斐源氏 安田義定 の嫡男 義資 の殺害などによって義定の所領だった遠江国浅羽庄(袋井市)の地頭に任じた。頼朝没後の一時期は親しくしていた 梶原景時 の滅亡に連座して失脚したが、後に 比企能員 の討伐や和田合戦などで北條氏に協力した褒賞で美濃国遠山荘(現在の恵那市と中津川市)を領有、承久の乱(1221)の直後に鎌倉で没した。
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景廉嫡男の 景朝 は遠山荘の地頭を継承して遠山姓を名乗り、庶流の苗木遠山氏は江戸時代に苗木藩(中津川市)一万石の大名となった。同じく庶流で旗本になった明知遠山氏(本領は恵那市)の子孫からは後北条氏の重臣として活躍した遠山直景や、江戸南町奉行の遠山金四郎景元が現れている。
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長幼が逆になったが、加藤次景廉の兄が加藤太光員。石橋山で敗れて景廉と共に箱根を経て甲斐へ逃れ、鉢田の合戦で駿河目代の橘遠茂を討ち取った。頼朝が覇権を握った後は伊勢国に所領を得て伊勢平氏の乱(三日平氏の乱)に功績を挙げて検非違使→伊勢守となり、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対抗して創設した西面の武士に任じた。承久三年(1221)の承久の乱で上皇側に与したため本領の狩野牧之郷は没収され景廉の所有となった。記録にはないが乱の直後に(つまり弟の景廉と同じ頃に)没したと考えられる。

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右:金剛廃寺近くから出土した善願上人順忍の骨蔵器    画像をクリック→拡大表示
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江戸時代中期の天明五年(1785)、大仁町(現在は伊豆市)牧之郷寺中にあった古い石塔の下から掘り出された善願上人順忍(景廉の孫)の骨蔵器。以前は修禅寺に近い 修善寺総合会館 の資料室にあったが改装に伴って白岩の 伊豆市資料館に移された。
白岩の湯(共に伊豆市のサイト)を併設しているからハイキングを兼ねて楽しめるが、昔は200円の入浴料は400円!
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 ※お薦めの立ち寄り湯: この近辺なら伊豆長岡、源泉掛け流しの 長岡南共同浴場(外部サイト)が安くて楽しめる。更に熱めで
個人的には大好きだった「北共同浴場」は長い休館の末に廃止となった。これもまた、残念。
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金銅製の筒の表面には善願上人の履歴と共に「敬愛する祖父(景廉)の墓所に埋めて欲しい」旨が刻まれている。
善願上人は文永二年(1265)に備前(岡山東南部)で生れ、16歳で鎌倉極楽寺の 忍性の元で出家し高弟となった(後に極楽寺三世に着任)。奈良の額安寺(公式サイト)や鎌倉の極楽寺(wiki)が骨蔵器と遺骨を保存している程の名僧と伝わる。まぁ忍性の高弟だからさもありなん、か。この骨蔵器出土によって景廉の墓所つまり金剛廃寺の位置が明確になった。
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景廉の兄弟の一人が頼朝に仏典を教えた伊豆山権現の密厳院東明寺初代別当(院主)の覚淵。源氏の嫡流を支えて伊豆山権現の更なる繁栄を図った、と思われる。頼朝挙兵に際して政子を阿岐戸郷の坊に匿い、神域を楯にして大庭景親の追及から守り通したのは頼朝への援助と同時に阿多美聖範以来の北條一族と伊豆山の互助関係を重要視したから、そんな可能性もある。
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覚淵の弟・浄蓮房源延も覚淵の跡を継いで伊豆山権現の別当を務め、後に法然に師事し比叡山延暦寺で修行して伊豆山に於ける天台宗の中心人物となった。建保元年(1213)には源実朝に真言の真髄を説き、承久三年(1221)には松田郷(現在の松田庶子にある 最明寺史跡公園(松田町のサイト)の場所(地図)に西明寺を建立した。後に西明寺は五代執権北條時頼の庇護を受けたが室町時代に衰退し、文明二年(1470)に大井松田ICの近く(地図)に移転して最明寺と改めている。この両所はいずれ訪問したい、と思う。
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牧之郷は平家追討に転戦した一族の勲功・特に緒戦の山木攻めで平兼隆を討ち取った手柄などにより狩野領から割譲し、旧領の扱いに準じて加藤一族に安堵された。鎌倉幕府成立後の景廉と嫡男景朝は美濃国遠山に領地を得て要衡岩村城を築き、後に嫡子景朝に譲って牧之郷に戻った。景朝は遠山荘(恵那市・中津川市+瑞浪市の一部)の地頭に任じ、傍流の子孫からは遠山左衛門尉景元(金さん)が出ている。
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景廉は牧之郷に金剛寺を建立して源平争乱などの死者の菩提を弔って読経三昧に余生を送り、一族は室町時代まで牧之郷の地頭を務めている。
吾妻鏡の文暦二年(1235)8月21日には、景廉の長男景義と二男 加藤(遠山)景朝 が狩野庄の牧之郷地頭職の相続を巡って訴訟を起こした記録が載っている。幕府評定衆は景朝が父から義絶されていたのを理由に景義を支持したが、三代執権の 北條泰時 は以前に政子が景朝に与えた御教書を根拠に景朝の勝訴を宣した。いつの時代も同じ、遺産の相続が絡むと一族兄弟円満は望めない、らしい。

. 左:加藤氏舘跡と伝わる高台に建つ吉原山玉洞院    画像をクリック→拡大表示
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伊豆八十八ヶ所霊場の五番札所・玉洞院(曹洞宗・最勝院末寺)の参道前は道が狭いため落ち着いて参詣するなら少し駅寄りから急傾斜の細道を登って本堂横の広い駐車場を利用すると良い。
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さて、石橋山と堀口の合戦(別窓)で敗れた頼朝が箱根権現(別窓)に逃げてからの展開は...
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月25日 】
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頼朝が(大庭景親 の追及から逃れて)筥根山に入った際に(覚淵の援助を受けて)行實・永實の房に匿われたが、行實の弟である智蔵房良暹は頼朝に滅ぼされた伊豆目代平兼隆の祈祷師だった経緯から頼朝襲撃を企んだ。これを知った永實は兄の行實と頼朝に「良暹にそれ程の力はないが大庭景親に連絡すれば危険だ、取り敢えず筥根から逃げる方が良い」と忠告した。頼朝とと永實らは地理に詳しい者の案内で土肥郷に下った。
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そして頼朝は真鶴から舟で安房に逃れ大軍を従えて鎌倉に入るのだが、頼朝に敵対した智蔵房良暹の消息はそれっきりで、名前は同じ良暹で「専光坊」を名乗る伊豆山の住僧が現れる。別人だとは思うけれど、同じ頼朝関連で良暹が二人いるのも違和感がある。吾妻鏡に何らかの作為か誤認があったのかも知れない。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月11日 】
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早朝の6時頃に 御台所政子 が鎌倉に入り、大庭景義 が出迎えた。前夜に伊豆の 阿岐戸郷(別窓)から到着したのだが日取りが良くないため 稲瀬河(別窓)近くの民家に待機していた。走湯山(伊豆山権現)の住僧で頼朝の師である専光坊良暹も以前の約定に従って同行した。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月12日 】
寅の刻(早暁4時前後)に祖先を崇めるため小林郷の北山に社を設けて鶴岡宮(元八幡宮・別窓)をここに遷し、専光坊を暫定の別当職に任じた。

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左:吉原山玉洞院の山門。雰囲気は古武士の館か。    画像をクリック→拡大表示
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玉洞院の山裾一帯には舘の存在を思わせる「殿の前」の字名が残っている。玉洞院は平安時代の建立と伝わっているが数回の火災を経ているため加藤氏の舘があったと証する詳細の記録は残っていない。本尊の十一面観音像は町内最古の仏像で4月17日の開帳日以外の拝観できないが、ほぼ等身大の一木彫りで髪型・衣紋・足首の特徴等から平安時代前期の作と考えられている。
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さて...智蔵房と専光坊、住持している寺は異なるが名乗りは同じ良暹、これを同一人物と思うべきか、或いは同名異人と考えるべきだろうか。吾妻鏡の誤憑みたいな気もするが、真偽は判らない。頼朝に敵対した筈の智蔵房良暹の消息は判らず、専光坊良暹の方は頼朝に厚遇され寿永元年(1182)8月までの二年間、鶴岡八幡宮の暫定的な別当を務めている。
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鶴岡八幡宮が保存している古文書を基にした年表に拠れば、後任の正式別当は園城寺(三井寺)出身の 圓暁為義の娘の子だから頼朝の従兄弟に当たる。尊暁・貞暁(頼朝の三男)に続き、その貞暁の弟子が同じく園城寺で修行した宮寺別当の公暁頼家 の遺児で、42年後の建保七年(1218)一月に雪の八幡宮で 三代将軍実朝 を殺害する人物である。
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また箱根権現別当を務めた良尋は頼朝の祖父 為義 および父の 義朝とも親しく交わっており、頼朝は良尋の子・行實が別当を継いだ以降も参籠して更に接点を深めている。石橋山で敗れ土肥椙山に逃れた頼朝に食料を送ったのも行實であり、崇敬を深めた頼朝が幕府の樹立後に「二所詣で」(後に箱根・三嶋・伊豆山を巡る三ヶ所となる)が定例化された契機にもなった。


     

        左: 中腹を切削した平場に建つ本堂前には樹齢百年を越す枝垂れ桜、満開は4月1日前後だが樹勢は衰えている(開花の画像)。
        中: 寺伝など全てを焼失しており、寺の草創や館跡の痕跡など詳細は不明だが、墓地の山裾に残る古い墓石群が歴史の古さを物語る。
        右: 駐車場から、800年前には加藤景廉も眺めた風景を。右隅には城山(342m)の岩壁、中央に大仁橋北詰めの 水晶山(外部サイト)が見える。

この頁は2019年 7月 13日に更新しました。