足利氏嫡流を称する喜連川氏の菩提寺・龍光寺 

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第五代の古河公方・足利義氏が天正十一年(1583)に死没。早世した嫡子・梅千代王丸の他には男子がなく、暫定的に氏姫を古河城主に擁立した。
足利氏の正嫡男子は義氏が最後だったため、名族の血筋が絶えるのを惜しんだ秀吉は古河公方から分かれた小弓公方の三代国朝との縁組を設定して、足利氏を再興させた。これは古河公方と小弓公方の対立関係の解消を目論むと共に、国朝の妹が秀吉側室の一人嶋姫(月桂院)だった事が大きく影響している。
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嶋姫は喜連川城主 塩谷惟久の正室だったが、夫の惟久は秀吉の下野進出の際に帰順のタイミングを失って城から逃亡、置き去りにされて秀吉の側室になった女性(美女だったらしい)である。元々の喜連川塩谷氏は 源義家 傍流の子孫で、頼朝 に従い源平合戦で戦功を挙げた源姓塩谷惟広の子孫。下野北部に勢力を広げていたが 和田合戦(別窓)に敗れて血筋が絶え、その後は本家筋の宇都宮氏から養子を迎えていた藤姓塩谷氏が支配権を握っていた。

   右:龍光寺墓所 3.11震災直後の4月8日撮影     画像をクリック→拡大表示
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東日本大震災は北関東にも大きな爪痕を残した。地震から約一ヵ月過ぎて龍光寺に立ち寄った旅行の際にも屋根瓦の崩落をブルーシートで応急修理したままの家が多く、被害復旧の長期化が感じられた。
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さて...嶋は婚家の藤姓塩谷氏ではなく、実家の足利氏再興を秀吉に嘆願した。嶋の実弟である国朝と古河公方暫定当主の氏姫を結婚させて鎌倉公方系足利氏を再興する願いである。秀吉も同じ意向を持っていたと同時に、嶋に自分の子を産ませたいと思っていたらしい。「淀殿不倫の子」との噂もある秀頼の誕生は2年後の文禄二年(1593)、何が何でも後継者が欲しい秀吉が最も焦っていた頃だね、きっと。
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この婚姻は小田原討伐が終った翌・天正十九年(1591)に成立した。氏姫の母と祖母が共に後北条氏出身だったため古河公方家領の12万石は没収されたが、嶋は既に私領として喜連川3800石を与えられていた。嶋はこの3800石を国朝に贈与し、「喜連川足利氏」として宿願の実家再興を果たした。
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一方で氏姫は生涯を古河で過ごし、格下に見ていた喜連川には足を踏み入れなかったと伝わる。夫の国朝は秀吉の朝鮮出兵に加わる途中の安芸国で文禄二年(1593)に21歳で病死、氏姫は国朝を継いだ弟の頼氏に再嫁し、嫡子の義親を産んでいる。
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その後の喜連川氏は関が原合戦などの恩賞により、五千石の少禄ながら十万石格の国主大名待遇を受けて存続し、明治維新後に旧姓の足利氏に復した。嶋は秀吉没後に東寺で落飾して月桂院を名乗り、徳川幕府成立後の一時期は彼女の能力を高く評価していた家康に呼ばれて公務に任じている。明暦元年(1655)に88歳で死没、自らが創建した現在の新宿区河田町の 正覚山月桂寺(外部サイト)に葬られた。
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龍光寺の創建年代は不詳だが開基は 足利高氏(尊氏) と伝わっている。当初は東勝寺と称し、尊氏と弟の直義が全国に設置した安国寺利生塔(臨済宗の波及を目指した新しいタイプの国分寺)の下野国における安国寺に指定されたという。
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  ※安国寺: 当時の下野薬師寺本房は衰退して廃寺同然になっており、別院の不動院が安国寺に指定されている。不動院と龍光寺の距離は約45km、
同じ下野国なのに重複指定した理由は判らない。下野薬師寺と不動院については下野東山道の史跡群(別窓)を参照されたし。
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兄国朝の死没により喜連川城主となった足利頼氏は秀吉の小田原攻め(1590年)の兵火で焼失していた東勝寺を再興し、父頼純の法号から龍光院とした。この後は喜連川足利氏菩提寺として崇敬と庇護を受け、昭和二十八年(1953)になってから現在の龍光寺に改めている。
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足利頼氏は足利宗家の三代棟梁義氏(妻は三代執権北條泰時の娘)から四代目を継承した泰氏(妻は北條時氏の娘)の三男。母の出自の影響から足利氏棟梁を継承した人物で、その曾孫が室町幕府の初代将軍に就任した尊氏。系図に記したように尊氏の血筋が全て途絶えたため喜連川氏が足利市嫡流の扱いとなり、必然的に龍光寺が足利氏嫡流の菩提寺とされている。



足利義兼───義氏───泰氏───頼氏───家時───貞氏─┬─尊氏─┬─竹若丸(正慶二年(1333)の尊氏倒幕決起に伴う鎌倉脱出の際に駿河浮嶋ヶ原で北條氏の手勢が殺害)
                              │    │
                              └─直義 ├─直冬(認知されなかった尊氏の庶子。尊氏と対立して抗争を続けたが尊氏没後に力を失い消息不明。子に冬氏、その子に義尊と義将がいるがいずれも敗死した。)
                                   │
                                   ├─義詮(二代将軍)──義満───義持───義量───義教───義勝───┬─義政───義尚───義材───義澄───義材(再)───義晴───義輝───義栄───義昭(室町幕府15代・最後の将軍。二人の男子は僧籍に入り子を残さなかった。)
                                   │                                   │ ↓最初の堀越公方・義政の庶兄
                                   │                                   └─政知───茶々丸 伊勢新九郎の伊豆討入りにより滅亡
                                   │ ↓最初の鎌倉公方
                                   ├─基氏───────氏満─┬─満兼─┬─持氏─┬─義久(永享十一年(1439)に父の謀反に連座して共に自刃。享年13歳前後)
                                   │             │    │    │ 
                                   ├─鶴王          ├─満直 └─持仲 ├─春王丸(嘉吉元年(1441)に父の謀反に連座して殺害。享年13歳)
                                   │             │         │
                                   ├─            ├─満隆      ├─安王丸(春王丸と共に殺害。享年不詳)
                                   │             │         │ ↓最初の古河公方                   ↓最後の古河公方
                                                 ├─満貞      ├─成氏─┬─政氏───┬─高基───晴氏───義氏───氏姫(国朝と婚姻し、国朝没後は頼氏と婚姻)
                                                 │         │    │      │ ↓最初の小弓公方・戦死
                                                 └─満季      ├─   ├─上杉顕実 └─義明─┬─義純 戦死
                                                           │                │
                                                                            └─頼純─┬─嶋(秀吉側室・月桂院)
                                                                                 │
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                                                                                 │
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                                                                                 │ ↑国朝の没後に彼の妻と婚姻し喜連川を継承
     

        上: 慈雲山龍光寺は臨済宗円覚寺派。本尊は恵心僧都(942〜1017年)の作と伝わる錫杖と花瓶を持つ4尺6寸の木造十一面観世音立像。
元々は荒川東岸に喜連川氏が建てた同宗の富景山臨川寺の本尊で、明治初期の廃寺に伴って龍光寺に移された、と伝わる。
山門に架かる見事な扁額の「慈雲山」は予備知識の助けで読めるが、浅学の輩に左側は読めない。
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庫裏と駐車場は広くて余裕があるが本堂は控えめなサイズ。左奥に墓所、横には尊氏の坐像(江戸時代の作)を祀る祠がある。年に二度だけ、
芋串観音縁日(3月20日)と、とうみぎ観音縁日(9月23日)に開扉される。奥州街道の宿場町として栄えた江戸時代の縁日を復活させた。
ちなみに「芋串」は佐野名物のジャガイモではなく茹でた里芋の串刺しで「とうみぎ」はトウモロコシのこと、結構にぎわうイベントらしい。
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龍光寺の住所は さくら市喜連川4317(地図)、数台の参詣者用駐車スペースがある。道の駅きつれがわ(別窓)から400m北西の旧街道沿い
だから道の駅から散策がてら歩いても面白いし、龍光寺を右に見て更に300mの喜連川城址公園(お丸山公園)まで足を延ばしても良い。
喜連川城(大蔵ヶ崎城)は源平合戦で功績を挙げた喜連川塩谷氏の初代惟広が築いた居城が最初とされる。


     

        左: 龍光寺の扁額が架かる本堂。江戸時代の建造と思われる小さな建物だが手入れも良く、特に古くなった様子も見られない。
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        中&右: ちょうど9.11震災の直後、たまたま前を通った際に「足利氏墓所」の表示を見て半信半疑に立ち寄ったのが最初だった。
この時は冒頭の画像のように多くの五輪塔や宝篋印塔が倒壊している悲惨な状態だったが、何とか旧状に復している。大部分が大型の
石塔で名族喜連川氏の権威は窺えるけど葬られている墓石の主は判らないし...
まぁ足利氏の墓石が複数ある寺は他に見当たらないから、足利氏の菩提寺と言えない事も無さそうだ。

この頁は2019年 11月14日に更新しました。