巨福呂坂切通しの風景 

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【太平記の記述と史実を併せて鎌倉陥落前夜の戦況を書くと...】
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元弘三年(1333)5月8日に 上野国生品明神(別窓)で挙兵した僅か150騎の 新田義貞軍には間もなく甲斐と信濃の源氏勢が加わり、総勢7000騎に膨れ上がった。更に利根川を渡河した所で足利尊氏(当時は高氏)の嫡子・千寿王が合流したため、様子を窺っていた東国各地の武者が雪崩をうって加わり、鎌倉を目指して武蔵国大蔵から比企へと南下する頃には20万騎を越える大軍に膨れ上がった、と伝わる。
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5月11日には 小手指原の合戦、 翌12日には 久米川の合戦、 更に5月15日には 分倍河原の合戦、 その翌日には 関戸の掃討戦(共に別窓)で新田勢に惨敗した幕府軍は残兵を纏めて鎌倉に退却、勢いに乗った新田軍は60万に膨れ上がって鎌倉に向った。 寄せ手の総大将・新田義貞は軍を三つに分け、大館宗氏率いる10万は極楽寺坂(地図)へ、堀口貞満率いる10万は巨福呂坂へ、新田義貞率いる主力40万は化粧坂(地図)に向けて進撃を開始した。

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右:八幡宮上空から 巨福呂坂周辺の鳥瞰     画像をクリック→拡大表示
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対する鎌倉防衛軍も守備を固め、金澤越後左近将監率いる3万が化粧坂に、大仏貞直率いる5万が極楽寺坂に、赤橋守時率いる6万が州崎に配置され、更に10万を鎌倉の中心部に置き、劣勢になった戦場への増援とした。
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太平記の描く軍勢(新田軍60万7千vs鎌倉軍24万)の実数は少な目に見て10%、多めに見て20%程度と考えるのが定説らしいがそれは兎も角として、鎌倉攻防戦は比較的急峻な山が連なっている北と東では戦闘が行われず、西側に通じる3ルートでの死闘がメインとなった。太平記にも亀ヶ谷坂での戦いは記録されていないから、やはり山ノ内方面の主要路は巨福呂坂切通しだったと考えて良いのだろう。
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新田軍は鎌倉勢が必死に守る防御線を攻め切れず、最終的には化粧坂の戦線から七里ガ浜に迂回した義貞の主力が死闘の末に極楽寺ルート(海沿いの稲村路)を突破し、何とか市街戦に持ち込んだ。決定的な勝敗の分岐点は稲村ヶ崎ではなく、極楽寺坂に近い成就院裏の霊仙山から仏法寺跡( 地図)の崖下を通る浜街道の確保を巡る凄まじい白兵戦で、義貞が黄金造りの太刀を海に...云々は後世の作り話。ま、この件はいずれ稿を改めて。
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鎌倉陥落を書くのは(今のペースで進むと)10年ぐらい先になるので(笑。実際には既に「四」で完成)、取りあえず巨福呂坂に関わる部分に触れておきたい。
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太平記に拠れば、巨福呂坂方面の守備を任された赤橋守時は足利尊氏の妹を正室に迎えている事から内通の疑惑を受けるのを恥辱とし、決死の覚悟で合戦に臨んだ。6月18日未明に出撃した守時の主力部隊は巨福呂坂を西へ進み、一昼夜に65回もの突撃を繰り返して州崎(現在の湘南深沢一帯)まで押し返した。
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守時の目算は堀口貞満の陣を突破し、化粧坂を攻撃している新田義貞軍の背後を衝く計画だったが、州崎に着いた時点で既に兵力の大半を失い勝敗の帰趨は明らかになっていた。しかし生き残った90余名は一歩も退かず、斬り込みを繰り返した末に州崎で自刃した、と伝わる。
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ここで勢いに乗じた新田勢は山ノ内まで攻め込んだが、幕府側の長崎高重らが奮戦して巨福呂坂を死守、幕府勢の崩壊は新田義貞が極楽寺坂ルートを突破して市街戦に攻め込むのを待つことになる。
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そして元弘三年(1333)5月22日、生き残った北條一族が 東勝寺(別窓)で自刃、頼朝の鎌倉入りから153年後に幕府は滅亡した。
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梅松論「武蔵国への道は赤橋守時が守って州崎千代塚で戦い、敗れてもなお一足も退かず自害した」と記録している。

  ※梅松論: 南北朝時代の貞和五年(1349)前後に成立した軍記物語。鎌倉幕府に同情的な太平記に対して足利尊氏に近い立場で書かれている。
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  ※州崎: 湘南深沢駅近くに州崎古戦場の碑(地図)が建っている。千代塚の正確な位置は既に不明だが、守時らを慰霊した「陣出の泣き塔」と呼ばれる
宝篋印塔の辺り地図か。塔には文和五年(1356)2月20日(鎌倉陥落23年後)銘があり、今はフェンスで囲まれている。平地にポツンとある
岩山だから、これが千代塚と呼ばれていたのかも知れない。合戦碑と泣き塔については 洲崎の合戦(別窓)に詳細を記述した。


     

        左: 鎌倉街道に面した巨福呂坂入口。左側の角にある 鎌倉 里のうどん(食べログ)は評判のグルメスポット。これは前回の訪問にはなかった店だ。
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        中: 前回歩いた時(2005年頃かな)、この建物は「甘味処ことのは」で、結構人気の甘味の繁盛店だったが、既に閉店になっていた。
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        右: やがて道巾が狭くなり、左側に横須賀水道トンネルが見えてくる。北鎌倉側は八幡宮へ向う隧道入口の右側に開口部のあるトンネルの
反対側。立ち入り禁止の表示はあるが、現在は使われていないのだろう。中身は良く判らない。


     

        左: 左側に見える石段は青梅聖天社。本尊は抱き合って立つ双体の歓喜天で室町時代の作、峠を越える旅人を守った像なのかも知れない。
鎌倉将軍(実朝か)が病床で季節外れの青梅を欲しがった時、何処を探しても見付からなかったが、この祠の前だけに青梅が実っていた。
将軍に献上したしたところ病は治癒し、それ以後は青梅聖天と呼ばれるようになったと「新編鎌倉志」は伝えている。
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        中: 青梅聖天社のすぐ横、聖天坂の横に数体の道祖神と庚申塔が残っている。現在ではこれが古道が通っていた事を証明する証左でもある。
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        右: 左側には崩落防止のネットを張った崖が続く。カーブの先は数軒の民家のみ、巨福呂坂古道は隧道の屋根上を斜めに横切っていたらしい。


     

        左: 鎌倉街道から300mほど先で道は山裾に消えていく。やがて私有地の奥で崖となり隧道の八幡宮側出口の上付近で途切れる。
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        中: 八幡宮上空から巨福呂坂古道の周辺を。峠の最高地点は洞門の屋根辺りを通過して山ノ内に下っていた。現在の道路と同じ方向だろうか。
 
        右: 県道の山ノ内側から緩やかにカーブして八幡宮方向に下る 巨福呂坂洞門。明治16年(1883)に旧道の 巨福呂坂を廃して馬車が通れる
巾まで開削し文字通りの「切通し」になった。大正12年(1923)には更に掘り下げて傾斜を緩め自動車の通行に対応、平成5年(1993)に
落石や倒木を防ぐ屋根部分を追加し、コンクリートの壁面を古都らしい石積みに改めている。


この頁は2019年 6月13日に更新しました。