鎌倉黎明期の雰囲気を残す寶船山高源寺 

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蛭ヶ小島の頼朝 の元へは 比企の尼? の所領である武蔵国比企郡から月に一度の頻度で衣類や食料が届けられた、伝わる。近親者以外が流人と同じ場所に住むのは禁じられていたため、尼は函南の大竹(東海道線函南駅の西・蛭島まで約8km)に住んで娘婿の 安達籐九郎盛長 を蛭ヶ小島に通わせていた、とか。
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一方で、高源寺の寺伝では、比企の尼は高源寺の近くに屋敷を構えた、とされる。建仁三年(1203)9月の政変・比企の乱(別窓)で一族が滅びた後は北條氏の所有に変り、屋敷の守り本尊だった不動明王が畑の中に残っているというのだが、この真偽は判らない。いつかは場所を確認して訪問してみたい。
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石畳の参道とその先の楼門の風情は実に趣があり、駐車場から本堂へ直接入ってしまうのは惜しまれる。周辺には店舗はもちろん人家も少ないので食事や飲み物は携帯する必要がある。駅から2kmほどなのに、ひょっとしたら道を間違ったのではないか?と思うほどの山奥である。地図は こちら で。


     

        左: 高源寺参道の入口。函南駅から東へ進みJRのガード先の集合住宅横を右折し、あとは対向車のない事を祈りつつ一車線の道を進む。
        中: 寺を表示する看板はないため併設した霊園への案内標識が目印になる。日金山を越えて相模へ通じる古道から山一つ北の谷間である。
        右: 風格のある山門と磨り減った石畳が独特の雰囲気を醸し出す。参道の様子は何となく鎌倉時代が始まろうとする頃の空気を漂わせている。


     

        左: 四脚門には寶船山高源寺の扁額。寺伝に拠れば開基は 空海(弘法大師)、当初は箱根に続く山岳宗教の聖地で長久寺と称し、行基
修行した、と伝わっている。建久元年(1190)に山火事で焼失、覇権を握った頼朝が寺領や堂宇を寄進している。
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        中: 後に頼朝の寄進により源の字を入れ高源寺と改名再建された。創建当時は弘法大師の唱えた真言宗、現在は曹洞宗に改めている。
        右: 参道左手に置かれた比企尼の宝筺印塔。当時の乳母と子の結びつきは強く、成人になるまで(或いはその後も)守り助ける習慣だった。


     

        左: 鐘楼を下を通って本堂に至る伽藍の配置は珍しい。古い雰囲気はここまでで、本堂と庫裏には鎌倉時代の雰囲気は残されていない。
        中: 日金山東光寺と同様に閻魔王と奪衣婆が見られるのは山岳信仰の修験場所だった名残か。これは左側で待ち受け裁きを下す閻魔王。
        右: 右側には奪衣婆。三途の川の渡し舟に渡す六文銭のない死者の衣服を剥ぎ、その重さで生前の業を判断し罪の重さを決める役目らしい。


     

        左: 本堂側から撮影した鐘楼。山門に比べてやや老朽化しており、そろそろ限界かなぁ...と思わせるレベル。色々と出費が必要だね。
        中: 参道を突き当たって高源寺の本堂に至る。右側に庫裏があり、参道を通らずに直接車で乗り入れるのも可能。右手に広い墓苑が広がる。
        右: 本堂前の縁起には「頼朝が愛妾の 丹後局 の安産を祈願して..」とか「頼朝が伊予国(愛媛)に落ちるとき..」とか、かなり無茶な話も(笑)。

この頁は2019年 6月21日に更新しました。