小松寺 重盛夫妻の墓所と伝・平貞能の墓 

 
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平貞能清盛重盛 の二代に仕えた平家の忠臣。父の家貞は忠盛と清盛の二代に仕え「平家一の郎党」(愚管抄)と称された武者で伊賀国鞆田荘を本領とした。家貞は平家最盛期の仁安二年(1167年・清盛50歳の頃)に死没、嫡子の 家継 と二男の貞能は伊賀を本拠として勢力を蓄え清盛に仕えた。
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寿永二年(1183)7月の義仲入京に際して兄の家継は都落ちに同行せず、元暦元年(1184)7月に平家残党を糾合して大規模な決起(伊勢平氏の乱・三日平氏の乱)を起こし奮戦後に敗死した。一方で九州鎮圧から戻った貞能は京都での抗戦を主張するが容れられず、旧主・重盛の墓を掘り起こして周辺の土を鴨川に流し、遺骨を高野山に納めた後に本隊に合流、同年10月に平家一門が九州から追われるまで行動を共にした後に離脱し行方不明となった。
そして平家一門が文治元年(1185)3月に壇ノ浦で滅亡。一年近く消息が絶えていた平貞能が僧形で 宇都宮朝綱 を訪ねて現れる。

右:神護寺に伝わる重盛絵像   近年は別人説あり。 画像をクリック→拡大表示
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※鞆田荘: 現在の伊賀市北西部の上友田〜下友田の一帯。元は東大寺領の玉滝荘が北側を開発して支配域を
広げたもので、これを認めない国司側と再三のトラブルが起きていた。後には伊勢平氏の平正盛(忠盛の父)が承徳元年(1097)に六条院(72代白河天皇の皇女)領として鞆田荘を置いたため伊勢平氏と東大寺が支配権を巡って長く争い、平家の衰退とともに東大寺領に確定した。
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【 吾妻鏡 元暦二年(1185・8月14日に改元して文治元年) 7月7日 】
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壇ノ浦合戦以前に逐電し行方不明になった前・筑後守の平貞能が突然宇都宮朝綱の元に現れた。平家の命運が尽きたのを知って出家し追求を逃れ余生を過ごそうと願ったが鎌倉の許しがなければ叶わないため出頭した、と。報告を受けた頼朝は「平家累代の家人なので信用できぬ」と許諾しなかった。
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朝綱は「私が平家に従って在京した際に関東の挙兵を知り加わろうとしても前の内府 宗盛 が許しませんでしたが、貞能が私と 畠山重能小山田有重 の帰国を認めるよう助言したため戦陣に加わって平家を滅ぼすことができました。私にとっての恩人のみならず源家にとって功績を挙げたのと同じこと、もし彼が反逆を企てた場合は私の一族を処断して下さい。」と願い、頼朝は彼の身柄を朝綱に預ける決定を下した。
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栃木〜茨城の伝承に拠れば...貞能は重盛の妹・妙雲禅尼と重盛の側室・得律禅尼を伴い、朝綱の家臣である塩原家忠の配慮を受けて草庵を結び定住した。建久五年(1194)に妙雲禅尼が没すると甘露山妙雲寺(那須塩原市塩原665)に九重塔を建てて弔い、重盛の念持仏を納めて供養した後に塩原を離れ、益子の大平山に鶏足山安善寺(益子町大平202、地図)を開いた。さらに重盛の遺骨(の一部)を30km東の白雲山普明院小松寺(茨城県城里町、地図)。寺名が重盛を表す小松寺で、重盛の宝筺印塔と傍らに正室得律禅尼の墓が残っているのはそんな経緯に拠る。
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  ※塩原家忠: 宇都宮朝綱の弟 塩屋(横田)頼業 の庶流で要害城(地図)を本拠にして塩原一帯を領有。ここは妙雲寺の約4km西、貞能の草庵は釈迦ケ岳
の麓(要害城と妙雲寺と釈迦ケ岳の地図)で、釈迦ケ岳の名は貞能が背負ってきた四尺の釈迦像(重盛の念持仏)が語源と伝わっているが、これはどこまで信じて良いか判らない。
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小松寺の寺伝に拠れば...天平十七年(745)に 行基 が開いた法相宗の寺が前身。出家した貞能は小松房以典を名乗り、同族の常陸大掾義幹を頼って常陸国(現在の城里町)に重盛の遺骨(の一部)を葬った後にこの寺を天台宗に改めて重盛の菩提を弔い続け、更に承久元年(1190)9月11日に69歳で没した得律禅尼も傍らに埋葬し、文暦元年(1234)に92才で没した。貞能の墓所は益子の 鶏足山安善寺(別窓)、近くには貞能と縁の深かった 宇都宮氏の墓所(別窓)もあるから参照されたし。
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小松寺は嘉慶元年(1387)に大掾頼幹(佐竹一族大掾氏の当主で水戸城主)が宥尊(久慈郡出身の高僧)を招き真言宗に改めて中興した。本尊は大日如来、寺宝の木造浮彫如意輪観音像は高野山に参詣した重盛が授けられた遺品らしい。
伝承では宇都宮朝綱を訪ねた時の貞能は重盛の妹(または叔母で高階基章の娘)の妙雲禅尼も伴っていた、としている。
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  ※妙雲禅尼: 重盛は母は高階基章の娘で清盛の側室と言われるが、諸説あって釈然としない。彼妙雲禅尼(重盛の妹)は建久五年(1194)に那須塩原で
死没し、ここに隠棲していた貞能は甘露山妙雲寺(地図)に彼女を葬って(法名は天樹院殿甘露寿永慈海妙雲尼)重盛の念持仏を納め、得律禅尼を伴って那須を離れたと伝わっている。ここは何度も近くを通りながら立ち寄り損なった場所の一つ。


     

        左: 茨城県の内陸部は公共交通機関の過疎地で、小松寺は最も近い常磐線の内原駅からも11km離れているから車以外での訪問は実質的に無理。
豊かな自然に囲まれて、ゴルフ場だけは矢鱈に多いエリアだ。バス便は確認していないが公式サイトでは水戸駅からバス50分とある。
住所は城里町上入野3912、公式サイトも参考に(利用不可、問い合わせ中)。
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        中&右: 参道の左側から本堂近くまで入れるが、ここは重盛の忠臣貞能に敬意を評して(笑)正面から登りたい。鬱蒼とした木々に囲まれて、如何にも
深山幽谷に入る、ような思いはする。


     

        左&中: 100mほど歩くと古い石段の上に山門が現れる。大きくはないが堂々たる唐破風の造りで、一説に重盛の小松邸(六波羅小松第)を模した、
とも言われている。さすがに古刹だけあって古さと共に風格を感じさせる。
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        右: これが小松寺本堂で、現在は東日本大震災で受けた損傷を原状回復するため寄付金を募っている。あの地震は原発や海岸線の津波だけでなく、
栃木県から茨城県の内陸部にも(特に建物の屋根などに)大きな爪跡を残している。


     

        左: 本堂右手の観音堂は建久五年(1194)の建立と伝わる。面積は約9坪(約30平方m)、入母屋造りで現在は銅板葺きだが創建当初は柿板葺き
だったという。尾垂小尻(垂木の先端)には四頭の龍を彫刻し、内陣の来迎柱には昇龍の彫刻がある。壁画には唐獅子、格天井の絵は草花で
統一され、本尊として十一面観音立像を祀る。
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        中: 本堂を右へ迂回して裏山の重盛墓所へ向かう。通路の右側にも古い大型の宝筐印塔があるが、この由来は確認していない。
        右: この辺りから参道の石畳は更に古色蒼然となり風化の激しい石段が続く。ヤブ蚊が多いのを覚悟して登ろう。


     

        左: 石段は20m程で途切れて泥の斜面になるが木の板で土留めされているから幾分は歩きやすい。雨でも降ったらアウト、だけどね。
 
        中: 観音堂から80mほどで平場に登り詰める。竹垣で囲った先は更に急傾斜だが、ここまで来たら(何ヶ所を蚊に刺されようが)登らずに引き返す
事はできない。木戸を開いて草に掴まりつつ、重盛の墓までの5mを登る。
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        右: 樹木が覆堂の役目を果たしているのだろうか、重盛の宝筐印塔は想像していたよりも保存状態が良い。基台を含めた高さは80cmほどか、
著名な人物の割には質素な造りに見える。何となく貞能の思いが伝わってくるようで...。


     

        左: 重盛宝筐印塔のから1mほど左下に一回り小さな得律禅尼の墓石がある。左側の無縫塔の素性は確認しなかった。
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        中: 5mほど右下に離れた五輪塔が貞能の墓と伝わっているが、これは後世の供養塔だと思う。貞能の墓は益子安善寺の地蔵堂床下とする
のが妥当だろう。本堂には位牌も保存してあることだし、ね。
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        右: 平安末期作の重文・木造浮彫如意輪観音像は国指定重要文化財。巾76×高さ84×厚さ13ミリ、四方を額形に仕上げ観音像を浮き彫りにしている。

この頁は2019年 8月18日に更新しました。