新田義貞の妻(愛妾?) 勾当内侍の墓 

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延元三年(1338)の8月、新田義貞 が越前の藤島で戦死(7月2日)したのを知った 勾当内侍 は今堅田の琴が浜で入水自殺、哀れに思った村人は
岸辺に塚を築いた。明応六年(1497)の150年忌に塚の場所に社を建てたのが野神神社である、と。
道の駅・びわ湖大橋米プラザ(別窓)から徒歩で200m、神社横の道路にも駐車できる無住の社なので拝観は無料、地図

     

        左: 勾当内侍を祀る野神神社。毎年10月9日前後に例祭の城門祭(別称きちがい祭)が開かれる。尊氏の追手を遅らせようとする内侍の姿を
再現して「城門、火事や火事や」と騒ぎ立てるのだという。旧暦9月9日の命日と収穫の神事と融合した奇祭である。
昭和30年代までは「義貞の死を知って半狂乱になった勾当内侍の様子を再現して全員が一晩中暴れまわった」凄まじい祭だったらしい。
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        中: 太平記には、勾当内侍は剃髪して嵯峨野の往生院に入り義貞の菩提を弔って生涯を送った、と書かれている。往生院の子院が三宝寺で、
後に平家物語・維盛高野の滝口入道と横笛の舞台になった奥嵯峨野の 滝口寺(外部リンク)。義貞の首塚と内侍供養塔がある。
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        右: 勾当内侍550年忌の明治十六年(1883)に籠手田安定(滋賀県県令・現在の知事)が揮毫して刻まれた「勾当内侍墓碑」。


     

        左: 碑文  辞世に云う 内侍曾て出嶋に潜むこと深く 怨みは湖海を兼ねて幾千尋 艶姿水に映ず 数株の柳 人は言う夜来瑟琴を鼓すと
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        中: 片方は琵琶湖畔に残る伝承で片方は勇壮な戦記物語の太平記だから、どちらが正しいかは判らない(両方フィクションの可能性あり)。
でも美女との別れを惜しんで勝機を失った話は悪くないな。「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」...の新田義貞版か。
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        右: 社殿の裏手にある墓所。石柵で囲んだ中に自然石を積み上げただけの粗末な造り、美女の墓には相応しくないのだけれど。

この頁は2019年 11月11日に更新しました。