久米川の合戦 

左フレームの表示&「鎌倉時代を歩く 四」 の記載ヶ所へ       「索引」 へ   「旅と犬と史跡巡りと」のトップページへ

.
左:久米川合戦場の鳥瞰図       画像をクリック→拡大表示
.
5月11日に小手指ヶ原でやや優勢だった新田側と押され気味に戦いを終えた北條側の両軍は日暮れと共に兵を引いて翌日の決戦に備えた。翌12日の未明に新田軍は敵の機先を制すべく北條方が野営した八国山南麓の陣を攻撃、元より奇襲に備えて陣形を整えていた北條方も応戦し、両軍入り乱れて激しい戦いとなった。
.
小手指合戦場から直線で約5km、八国山の東麓で北川と前川が合流する久米川には上野国と鎌倉を結ぶ鎌倉街道の宿駅が置かれた政治面・物流面での要所である。佐渡流罪途上の日蓮が送った書状にも「武蔵国久目河に到着し...云々」との記載がある。
.
次に続く分倍河原合戦に関しては昭和十年に建立された記念碑があるだけで史跡の類は全く残っていないが、久米川合戦の史跡や地名・遺物が数多く見られる。今回レポートした以外にも鳩峯八幡宮の「義貞鎧掛けの松」や西武新宿線東側の熊野神社の「新田勢布陣の跡」など見所が点在している。
.
特に臨済宗 福寿山徳蔵寺(公式サイト)の本堂再建中に出土した板碑や宝篋印塔、特に八国山の将軍塚南にあった永春庵(廃寺)から文化年間(1804〜1818年)に移された「元弘の板碑」は太平記の記述を裏付ける貴重な資料として国の重要文化財指定も受けている周辺の史跡地図(別窓)、徳蔵寺板碑保存館は9〜17時・月曜休館・無料駐車場あり、拝観料200円は費用対効果が際立って大きいため、ここは見逃せない。


     

        左: 古戦場碑のある小公園の横から勝陣場橋に向って下る坂道を撮影。義貞軍はこの左側(北)から八国山を迂回して押し寄せ、北條軍は西南から
北東に向って流れる北川と前川を防御線にして迎え撃った。早暁から始まった合戦は新田勢がやや優勢のまま日暮れを迎え、北條軍は20km
南の分倍河原まで退却して陣容を整え翌日の合戦に備えた。
.
        中: 左側は八国山遊歩道の入口に近い西宿公園の東京都指定旧跡・久米川古戦場碑。平成十年三月東京都教育委員会の建立による。
.
        右: 標高90mの八国山は駿河(富士山)・伊豆(天城山)・相模(箱根、大山)・甲斐(多波山)・信濃(浅間山)・上野(吾嬬山)・下野(男体山)・
常陸(筑波山)が眺められるのでこの名が付いたと言われている。


     

        左: 元弘青石塔婆所在跡の碑。後述の徳蔵寺が収蔵する板碑(元弘三年斎藤盛貞等戦死供養碑)の出土場所であり、板碑の保存と戦死者供養を
徳蔵寺に託した永春庵(廃寺)がこの付近にあったらしい。
.
        中&右: 久米川合戦で勝利した義貞が八国山の頂上に塚を築き旗を立てた事から将軍塚と呼ばれたと伝わる。江戸時代末期に編纂された
新編武蔵国風土記稿には「この山に一つの塚あり将軍塚と呼ぶ」とあり、更に「富士塚とも呼ぶ。古代の塚とも考えられる」と記述している。
小手指ヶ原の白旗塚同様に富士山信仰の浅間神社が建っていたのかも知れない。


     

        左: 徳蔵寺に近い北川の将陣場橋。500m下流(北東)に勝陣場橋、更に500m先(北)に勢揃橋がある。新田軍が南に攻め込んだ名残か。
.
        中&左: 臨済宗福寿山徳蔵寺の山門と平成十五年に新装なった板碑保存館。長年収集と保存に尽力した板碑・五輪塔・宝篋印塔の他にも膨大な
史料を展示している。参拝者用の駐車場を備えているので拝観を兼ねて30分ほどの利用をお願いし了解を頂いたことに感謝。
.
得蔵寺から古戦場碑のある西宿公園までは約400mだが八国山の将軍塚は更に300m、勢揃橋は古戦場碑から500m北になる。
全部歩くと2km以上になるから、車の場合は駐車場所を確認しておく方が良いかも知れない。電車の最寄り駅は徳蔵寺から1km以上南の
西武線東村山駅になるので、かなり歩く必要がある。


     

        左: 徳蔵寺の創建は元和年間(1615〜1623)、寺伝は板倉氏の屋敷だった可能性を指摘しており、新編武蔵風土記稿が編纂された文政年間頃
(1820年前後か)までは土塁や堀跡が残っていたと伝わる。久米川合戦は徳蔵寺創建から300年近くも遡るが境内からは板碑が出土し、更に
昭和五十五年(1980)の本堂改築の際にも数基の宝篋印塔が敷地から出土していた。
.
当時の徳蔵寺住職は近隣から出土した板碑・宝篋印塔・五輪塔などを精力的に収集し、その努力が現在の膨大な展示物につながっている。
出土物には久米川合戦当時の遺物が多く含まれ、地域全体では更に膨大な数の石造物が埋没している筈、合戦の激しさを証する根拠である。
.
           ※板倉氏: 足利氏の三代当主 義氏 の嫡男 泰氏(36歳で無断出家した人物で後継の四代目は三男頼氏)の二男義顕を祖とする。上野国の
渋川荘を本領として渋川を名乗り、子孫の一部は三河に移って松平氏(家康の先祖)に仕えた。一族には大名や旗本に栄達した
家系もあるから、その子孫の屋敷だった可能性もある。渋川荘は新田荘の北隣に近く、足利氏庶流として義貞勢に加わっていたと
考えるのが自然だろう。久米川合戦を戦った武者の末裔の屋敷跡が徳蔵寺になったとしたら、奇しき因縁である。


     

        上: 板碑の様式は全国に分布しているが、主として関東地方・特に鎌倉武士が本領としていた地域の出土が多い。作成は鎌倉時代〜室町時代に
集中し、秩父長瀞周辺から産出する緑泥片岩(ホームセンターで良く見る青鉄平石の仲間だね)を主な材料としている。戦国時代以降は急速に
廃れ、板塔婆を経て現代の卒塔婆に繋がっているという。徳蔵寺の収蔵は100枚以上か、じっくりと見れば新たな発見があるかも知れない。


     

        左: これが所謂「元弘の板碑」、国の重要文化財である。高さは147cm・巾44cmの緑泥片岩。元は八国山「将軍塚」南の永春庵に建っていたが、
廃寺になって徳蔵寺に遷された。膨大な数の戦死者を弔うために建てたのが永春庵だったらしい。久米川合戦の記録は誇張の多い軍記物語
「太平記」の記述だけで史料の裏づけは皆無だったが、この碑の出土が合戦の正確な日付や部分的な内容を補填する根拠となった。
.
光明真言を表す梵字の下中央に「元弘三年五月十五日」、右に「飽間斎藤三郎藤原盛貞 生年二十六 於 武州府中 五月十五日討死」
左は「同 孫七家行二十三(歳)死 飽間孫三郎宗長三十五(歳) 於 相州村岡十八日討死」、下右「勧進玖阿弥陀仏」、下左に「執筆遍阿弥陀仏」
.
飽間氏※: 世良田義季 の兄 里見義俊が本領とした里見郷の北に接する上野国碓氷郷の武士で、一族は幕府滅亡後に新田義宗と脇屋義治の
挙兵にも応じて参戦し敗死している。「村岡」は北條軍が新田軍阻止を試みた現在の藤沢市郊外の合戦。勧進(建立した)僧・玖は勢揃橋の北
にある 花向山常行院長久寺(公式サイト)の開山和尚、碑の銘文を書いた僧・遍とともに時宗の僧である。
.
当時は臨終の武者を看取ったり戦死者を葬って菩提を弔ったりする陣僧の帯同が常だったから、「遍」は彼らの一人だったと思われる。
長久寺の由来は開創を元弘元年(1331)としており、戦場に近い寺の僧が死者の回向を受け持ったか、或いは陣僧の一人が住み着いて菩提を
弔う任に当った可能性もある。その場合は開山年代の誤記になる、かも知れないが。
.
        中: 「畠山重忠の板碑」と書いた写真を撮影して調べたら、川本の 畠山重忠史跡公園(別窓)にある碑だった。何回も訪問した場所なのに見落として
いたとは、何たる迂闊だろう!史料に拠れば100回忌の嘉元二年(1304)の建立で保存館の板碑と同じ緑泥片岩、高さ136cmで最も広い基部
の巾が32cm。写真右側の重忠板碑は飯能市にある第六天神社(地図)の板碑で、一度立ち寄った記憶がある。
神社と言うより小さな祠、樫の木に押し潰されそうな板碑が二基あった。あれは重忠とは無関係だ。
.
        右:蒲冠者範頼 の板碑」と書いてあったから何かと思ったら北本の東光寺の「石戸蒲桜」の根元にあった板碑だ。今は資料館に収蔵してある筈だが、
これも多分範頼の墓とは関係なさそうだ。修禅寺で殺されたのは嘉応二年(1193)、碑銘の貞永二年(1233)だと四十回忌になってしまう。
それとも三十九回忌があるのかな、通常は三十三回忌・三十七回忌・五十回忌だと思うが。
.
※飽間氏: 吾妻鏡 元久二年(1205)6月22日、畠山重忠 が討たれた 二俣川合戦 で先陣を務めた 安達景盛 の郎党に「飽間太郎」の名がある。
上野国碓氷郡飽間郷(安中市秋間・地図)が本領の武士で、これは景盛の父 盛長 が上野国(群馬県)の守護に任じた関係だろう。
安達宗家は弘安八年(1285)11月の霜月騒動で滅亡しているが、上野の飽間一族は新田氏に従って参戦したらしい。
.
※陣僧: 僧は世俗と無縁だから戦場を歩き廻っても許される習慣が平安時代からあり、やがて軍使の役目や合戦の詳細を書き留める記録係を
兼ねるようになったらしい。鎌倉時代中期以降は時宗の僧が陣僧を務める例が多く、「日常を臨終の「時」と考えて常に念仏を唱える」
姿から時衆→時宗と呼ばれるようになった、その理念から派生した存在だろう。

この頁は2019年 11月20日に更新しました。