.

.
コロナの裏で優遇人事私は辞めない訴追が怖くて辞められない だろ?
.
馬鹿が馬鹿を呼ぶ。今井秘書官 が立案した再来週から一所帯マスク2枚(国費250億円)、支持率が回復するからだと!
支持率のために平気で税金を浪費する。3月にはマスク6億枚を供給の約束は知らん顔、殺菌剤なし人工呼吸器も不足
自粛要求なのに パチンコ店(警察の天下り先で自民の献金元)は通常営業、バカ妻 昭恵も通常営業(嘲)、自粛って何さ?

.
連立の見返り が欲しくて安倍の犯罪支持した公明党庶民の味方だって?
.
  コソ泥総理国費流用浪費隠蔽 に協力し、感染研のPCR検査独占まで黙認した。安倍のケツを舐め続ける山口代表。
  公明党がまた給付金を要求強制的に上納させるバラマキ給付金創価学会の至上命令国費を買収と献金に利用する。
  創価学会に献金よりも 生活困窮者一人親所帯、弱い立場の非正規労働者の救済を早く!歳費に見合う仕事をすべきだ。
.
遺族が佐川と国を提訴官僚の遺書 全文公開安倍の飼犬に堕落した検察
.
  自殺の場合、警察と検察は遺書や文書を全て調べる。大阪地検は公文書改竄の明白な証拠を知りながら不起訴 にした。
  村木冤罪も大阪特捜の捏造だった。ノンキャリは消耗品、偽証した太田理財局長中村参事官(現駐英公使)は大出世!
  23日の予算委員会安倍・麻生は平然と森友再調査を拒否佐川不起訴当時の法務事務次官任期延長で噂の黒川
↑↑ 録画の23日を選択→ 予算委員会を選択→ 発言者小池晃を選択→ 6:53:47 以降が見逃せない!
.
森大臣は福島の恥!安倍は 腹心・黒川を検事総長にして 桜の起訴から逃げる 計画。
.
  法務行政のトップが 安倍の指示で平然と法律を犯す。 法治国家だった日本が、上から下まで公金横領と嘘の泥沼政治
.
仮病森友昭恵加計前夜祭検察支配官房機密費優遇安倍は腐った泥棒 4月 5日 4時
.


.
首相補佐官 和泉洋人(67歳)、厚労省大臣官房審議官 大坪寛子(53歳)。年令や社会的地位や家族に関係なく、恋は甘くて楽しくて自由です。
公費で出張中にコネクティング・ルームで公認セックスなんて理解できん。こいつらの交尾シーン、想像するのも嫌だ。 文春オンライン を参考に。
身内 (セフレ)血税を使わせ 権限まで与える なんて 鯛は頭から腐る を絵に描いたような世界だ。 腐ったリンゴは 樽のリンゴを全て腐らせる
.
  
従来は http://23.pro.tok2.com/~freehand2/frame-000.html、新サイトはhttp://kamakura-history.holy.jp/frame-000.html
.
現在は新旧両方にアクセス可能ですが 旧は障害が多発しているため2020年8月でレンタル・サーバーとの契約を打ち切ります。
勝手ですが、早めのブックマーク変更と共に 変わらぬご愛顧と叱咤激励をお願いします。  1月 25日 サイト管理人 拝



このサイトはI E.8以降 での閲覧を想定しています。  目次を含んだ表示に切り替えるのは こちら
.
             伏見宮家に伝わる吾妻鏡写本の本文画像を追加しました。青字をクリックし、別窓で閲覧下さい。
.
↓ 本文へ
↓ 写本へ
改元、欠落など
主な事件
~1179年
  
古代~治承三年末までの主な事件を記載。
1180年
治承四年
  
4月 頼政 挙兵、8月 頼朝挙兵、10月 頼朝鎌倉入り 同月 富士川合戦で平家敗走
1181年
治承五年
養和元年
 7月14日、養和に改元
1月 南都焼き討ち、閏2月 清盛没、3月 墨俣川合戦、 6月 横田河原で義仲勝利
1182年
養和二年
寿永元年
 5月27日、寿永に改元
2月 伊東祐親 自殺、 9月 頼家誕生、 同月 段葛を造成
1183年
寿永二年
 吾妻鏡の記録が欠落
2月 志田義廣 討伐、5月 倶利伽羅峠合戦、10月 平家都落ち、11月 法住寺合戦
1184年
寿永三年
元暦元年
 4月16日、元暦に改元
1月 木曽義仲滅亡、2月 一ノ谷合戦、4月 義経 の出会い、頼朝義経の離反
1185年
元暦二年
文治元年
 8月14日、文治に改元
2月 屋島合戦、4月 壇ノ浦で平家滅亡、10月 義経が逃亡、勝長寿院完成、地頭設置
1186年
文治二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
3月 九条兼実 が摂政、4月 が八幡宮で舞う、5月 行家を殺害、義経は行方不明
8月、西行法師が鎌倉の頼朝を訪問、
1187年
文治三年
 
2月 義経奥州入り発覚、8月 鶴岡で放生会、9月 畠山重忠拘禁、10月 秀衡死没
1188年
文治四年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 頼朝が最初の二所詣、 4月 義経追討の宣旨発行、 同月 六條殿焼失、
8月 鶴岡で放生会、 9月 城長茂を赦免
1189年
文治五年
 
閏4月 平泉で義経自刃、 7月 頼朝出陣、 8月 阿津賀志山合戦、 奥州藤原氏滅亡
1190年
文治六年
建久元年
 4月11日、建久に改元
1月 大河兼任の乱、 4月 坊門姫死没、 9月 板垣兼信失脚、 10月 頼朝上洛へ
12月末 頼朝が鎌倉に帰還、
1191年
建久二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 政所設置、 3月 鎌倉に大火、 4月 佐々木定綱配流、 12月 法住寺殿が完成
1192年
建久三年
 
1月 永福寺着工、3月 後白河院 崩御、 7月 頼朝が征夷大将軍、 8月 実朝誕生
1193年
建久四年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
4月 佐々木定綱赦免、5月 曾我の仇討ち、6月 多気義幹失脚、8月 範頼失脚・追討
1194年
建久五年
 
2月 北條泰時元服、 7月 宇都宮朝綱流罪、 8月 安田義定追討、
1195年
建久六年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
2月 頼朝が上洛へ、4月 大仏殿落慶供養、兼実丹後局と面談、大姫入内工作が本格化
7月 頼朝が鎌倉に帰還、 8月 中宮任子が女児を出産
1196年
建久七年
 吾妻鏡の記録が欠落
1月 土御門天皇誕生、11月 九条兼実失脚、近衛基通が関白、中宮任子が内裏退去
1197年
建久八年
 吾妻鏡の記録が欠落
7月 大姫死没、 11月 一條能保死没、 
1198年
建久九年
 吾妻鏡の記録が欠落
1月 後鳥羽上皇 が土御門に譲位し院政へ、 9月 一条高能死没、
1199年
建久十年
正治元年
 4月27日、 正治に改元
1月 頼朝死没、後継は頼家、2月 三左衛門事件、4月 合議制発足、6月 乙姫死没
8月 頼家安達景盛追討を試みる、 10月 御家人が梶原景時を弾劾、12月に追放
1200年
正治二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 梶原景時を追討、三浦義澄没、2月 義盛が侍所別当に還任、6月 岡崎義實
12月 頼家従三位に昇叙、
1201年
正治三年
建仁元年
 2月13日、 建仁に改元
2月 建仁の乱、 3月 千葉常胤 死没・若宮大路の西が焼失、 6月 坂額甲斐国へ、
7月 頼家が蹴鞠に熱中、8月 台風の被害が甚大、後半で泰時の優秀さを頼家と対比
1202年
建仁二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 新田義重 死没、2月 頼家正三位に昇叙、5月 早河庄の半分を箱根権現に寄進
8月 泰時三浦義村の娘と婚姻、9月、頼家が駿河と伊豆で狩猟・年間を通じ蹴鞠
 
1203年
建仁三年
 
6月 頼家が伊豆伊東と富士裾野で狩猟、 7月 頼家重病、 8月 相続について協議、
9月 比企の乱により一族と一幡滅亡、頼家を修禅寺に幽閉、実朝が将軍に叙任、
 
1204年
建仁四年
元久元年
 2月20日、元久に改元
3月 三日平氏の乱、7月 修禅寺で頼家が暗殺、11月 北條政範 京都で死没
12月 実朝の室(坊門信清の娘信子)が鎌倉に下向、
1205年
元久二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 実朝が近衛中将着任、 6月 畠山重忠が滅亡、直後に榛谷重朝稲毛重成も滅亡、
閏7月 時政夫妻が失脚し北條に隠居、 8月 宇都宮頼綱が 謀反を疑われ隠居、
1206年
元久三年
建永元年
 4月27日、建永に改元
2月 実朝が従四位下、 3月 桜井五郎が鷹狩りを披露、5月 加藤光員に押領の嫌疑
7月 定暁が八幡宮別当に補任、 11月 東重胤が実朝の怒りを受ける、
 
1207年
建永二年
承元元年
 10月25日、承元に改元
1月 実朝が二所詣、北條時房が武蔵守に、2月 法然が土佐配流、4月 実朝が体調不良
4月 九条兼実が没す、 6月 冷夏、
1208年
承元二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 実朝が天然痘、三善康信邸が全焼、閏4月 京都で大火、7月 後鳥羽院熊野巡行
9月 朱雀門焼亡、10月 政子が熊野詣、12月 鶴岡に神宮寺が完成、中原親能没す
1209年
承元三年
 
5月 和田義盛が上総国司を望んで保留、実朝が従三位に加えて右中将に任ず、
6月 土屋宗遠が梶原家茂を斬殺し罪は不問、 8月 定家実朝に和歌の口伝書を贈る 
1210年
承元四年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
4月 大庭景義 が死没、 5月 後鳥羽院が熊野詣、 9月 彗星が出現し大騒ぎに、
12月 83代土御門天皇退位し84代順徳天皇践祚、上皇が二人(後鳥羽と土御門)に
1211年
承元五年
建暦元年
 3月9日、建暦に改元
1月 実朝が正三位、 9月 剃髪した公暁が園城寺へ、10月、鴨長明が実朝を訪問
12月 義盛が国司着任希望を撤回、
 
1212年
建暦二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
2月 京で衆徒による騒動が続く、同月 相模河の橋補修の議論あり、3月 三浦に遊覧
4月 大慈寺の建造開始、7月 永福寺と杉本寺の惣門を再建、12月 実朝が従二位
1213年
建暦三年
建保元年
 12月6日、建保に改元
2月 泉親衡の謀反計画が発覚、実朝が正二位昇叙、 3月 首謀者の一人和田胤長流罪、
4月 旧和田胤長邸を義時が専有、5月 義盛の挙兵と滅亡、9月 比叡と興福寺の紛争
1214年
建保二年
 
4月 延暦寺と圓城寺の紛争、7月 大慈寺完成供養、11月 源頼家の遺児・栄實自殺
1215年
建保三年
 
1月 時政が伊豆北條で死没、6月 栄西が京都建仁寺で死没、後半に天変と地震が続く
1216年
建保四年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 実朝持仏堂落慶供養、2月 東寺で盗難、3月 坊門信清死没、 6月 陳和卿登場
閏6月 廣元が大江姓に戻る、 10月 実朝が中納言に昇る、 11月 唐船の建造開始、
1217年
建保五年
 
4月 実朝の唐船は動かず朽ちるのみ、 6月 公暁が園城寺から下着し鶴岡別当に着任、
8月 後鳥羽院が瘧病、 11月 廣元が重体の後回復、
1218年
建保六年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 実朝が権大納言に、2月、政子上洛、3月、実朝が左大将、泰時が讃岐国司を固辞
4月、千葉成胤死没、政子が従三位、6月 実朝の左大将拝賀、11月、政子が従二位
1219年
建保七年
承久元年
 4月12日、承久に改元
1月 実朝が暗殺される、2月 政子が鎌倉殿を代行し後鳥羽院皇子の将軍下向を申請
2月 阿野時元追討、 3月 院の使者藤原忠綱が下向、時房が千騎と共に上洛、
7月 九条道家の息(後の頼経)が下向、官兵が源頼茂を追討、9月 二階堂行光死去
1220年
承久二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1~2月 鎌倉で火災頻発、4月 清水寺の本堂焼失、6月 前年の彗星に対応して祈祷
11月 三寅(後の頼経)が着袴の儀、
1221年
承久三年
 順徳→仲恭へ譲位
 仲恭→後堀河へ譲位
1月 法華堂で実朝の追善供養、 4月 順徳天皇が譲位し仲恭天皇が即位、
4月 後鳥羽院義時追討宣旨を発行、 5月 官兵が京都守護伊賀光季を襲撃し自刃へ、
5月 泰時時房 の19万騎が各地で官軍を破り入洛、6月 院側首魁の捕縛と残兵掃討
7月 首謀した公卿を斬首、後鳥羽院らを配流、仲恭天皇が退位し後堀河天皇が即位、
1222年
承久四年
 4月13日、貞応に改元
 後堀河の代始による。
3月 三寅が体調不良、 4月 鳥居禅尼の遺領で紛争、 4&5月 関東御教書を発行、
8月 西北西に彗星出現、 後半に地震が頻発、 10月 大慈寺で一切経法会、
11月 後堀河天皇が大嘗祭、
1223年
貞応二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
2月 勝長寿院奥に寺と政子の隠居所建築に着工、 4月 三寅守護のため泰山府君祭、
8月 政子の新邸と御堂の落慶供養、 11月 三寅御所新築について日程の吉凶を評議、
1224年
貞応三年
元仁元年
 11月20日、元仁に改元
 天変炎旱(百錬抄)。
2月 駿河国惣社が焼失、 5月 日照りが続く、6月 義時が急死し 泰時時房が鎌倉へ
7月 伊賀光宗らに陰謀疑惑、閏7月 伊賀光宗らを流罪、9月 伊賀の方を伊豆流罪
10月 一条實雅を越前流罪、11月泰時が釈迦堂を建立、12月 一条實雅が死没
1225年
元仁二年
嘉禄元年
 4月20日、嘉禄に改元
5月 二位政子が体調不良、 6月 大江廣元が死没、 7月 二位政子が死没、
9月 多胡江河原で石塔供養、 12月 宇都宮辻子幕府の着工、新御所に移転、
12月 幕府の最高政務機関として評定衆を設置、
1226年
嘉禄二年
 元仁二年から安貞元年の
 伏見本は欠落。
1月 藤原頼経 が征夷大将軍、3月 頼経禁色を許される、6月 泰時が銅銭使用を許可
10月 評定衆制度がスタート、11月 将軍頼経が体調不良、奥州平泉の毛越寺焼失
12月 政所前で火災、伊豆走湯権現が焼失、
1227年
嘉禄三年
安貞元年
 12月10日、安貞に改元
1月 京都で時政十三回忌法事、3月 大地震・余震続く、4月 京都大内裏全半焼
5月 高麗国が倭人の略奪に抗議、7月 京都で念仏宗を弾圧、11月 変異に対応し祈祷
1228年
安貞二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 将軍頼経竹御所の婚姻計画、 2月 伊豆山権現が再び火災、 2月 寒河尼死没、
3月 興福寺と多武峯の紛争深刻化、7月 頼経三浦義村の田村山庄へ、10月 台風
10月 箱根権現が火災、 12月 九条道家が関白に叙任、
1229年
安貞三年
寛喜元年
 3月5日、寛喜に改元
2月 義村が三浦で来迎講を催す、 6月 比叡山と探題の間で紛争し幕府は弱腰の決着、
6月 八幡宮八代別当に定親補任、10月 由比ヶ浜で流鏑馬、11月以降 天変と地震
1230年
寛喜二年
 伏見本の脱落多数。
 他本との差異はなぜか?
1月 泰時が太田荘開墾を指示、閏1月 滝口武者の補充命令、2月 鎌倉で武者が騒動
3月 六波羅探題の北條時氏実泰と交代、 6月 御所の車庫に落雷し対応策を評議、
6月 飢饉始まる、北條時氏死没、8月 園城寺で内紛、12月 将軍頼経竹御所と婚姻
12月 逃亡していた大内惟信 を捕縛、勝長寿院三重塔の落慶供養(実朝追善)
1231年
寛喜三年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 鎌倉で火災多発、 2月 法印貞暁が高野山で死没、 4月 頼経が正四位下に昇叙、
5月 四角四境で鬼気祭施行、10月 頼経が五大尊堂建立を計画、法華堂が焼ける大火
10月 土御門院が阿波国で崩御、 
1232年
寛喜四年
貞永元年
 4月2日、貞永に改元
2月 頼経が従三位に昇叙、5月 御成敗式目の作成に着手、8月 和賀江嶋の築堤完成
8月 御成敗式目の編纂が完成、9月 彗星出現で騒動、10月 後堀河→四条に譲位
12月 泰時が幕府創建以来の文書収集を指示、
 
1233年
貞永二年
天福元年
 4月15日、天福に改元
4月 出挙米の利息は5割と通知、 5月 近衛基通が死没、 6月 日照りが続く、
10月 後堀河院の中宮藻璧門院が崩御、 12月 北條(金沢)實時が元服、
1234年
天福二年
文暦元年
 11月5日、文暦に改元
2月 北野天満宮が焼失、 3月 僧・隆弁が鎌倉訪問、7月 竹御所が死産の後に死没
9月 八幡宮別当定豪が辞任、 11月 里見義成が死没、12月 将軍頼経が正三位に昇叙
1235年
文暦二年
嘉禎元年
 9月19日、嘉禎に改元
  地震頻発が主な理由
1月 五大尊堂着工、3月 地震が続く、4月 摂関の九条教実が死去し父の道家が還任
5月 石清水八幡宮と興福寺が紛争、6月 五大尊堂落慶、8月 加藤景廉の遺児が争論
11月 将軍頼経が従二位に昇叙、同月 頼経が体調不良、
1236年
嘉禎二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 将軍頼経の疱瘡が平癒、2月 南都の紛争が鎮静化、3月 泰時が従四位下に昇叙
3月 若宮大路幕府の新造が決定、 6月 願成就院で義時の十三回忌、
8月 若宮大路幕府に転居、 10月 再び蜂起した興福寺衆徒を鎮圧、 
1237年
嘉禎三年
 
1月 将軍頼経が二所詣で、 4月 日蝕による騒動、 6月 矢部禅尼が吉井郷地頭に、
6月 大慈寺東の丈六堂落慶供養、 8月 四天王寺で紛争、 9月 天変地異が続く、
11月 頼経が今年二度目の二所詣で、 12月 泰時が大船常楽寺を開く、
1238年
嘉禎四年
暦仁元年
 11月23日、暦仁に改元
1月 将軍頼経が二所詣で、2月 将軍頼経が上洛、3月に権中納言&右衛門督に着任、
3月 深澤大仏殿建造開始、小山朝政死没、9月 僧正定豪死没、10月 松殿師家死没、
10月末 頼経が鎌倉に帰還、
1239年
暦仁二年
延応元年
 2月7日、延応に改元
2月 後鳥羽上皇 が隠岐で崩御、 4月 泰時が急病、 5月 幕府が人身売買を禁止、
9月 泰時が連続して種々の禁令を発布、 12月 三浦義村が死没、
1240年
延応二年
.
仁治元年
 7月16日、仁治に改元
1月 彗星出現に伴う不安が蔓延、北條時房が病没、鎌倉市中での禁止事項を公布、
2月 幕府政所などが焼失、 月 人身売買・祖父母への訴訟禁止、6月 日照りが長期化
8月 将軍頼経がニ所詣、10月 山ノ内への峠道を整備、11月 篝火に関し規則を設定
12月 来春の六浦街道整備を決定、 
1241年
仁治二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 四条天皇が元服、 4月 前月に続き大地震があり津波で浜の鳥居の祠と船が搊壊、
4月 新田政義が過怠により懲罰、 5月 大江時廣が死没、 6月 佐々木信綱が隠居、
8月 御所の敷地に北斗堂を建立、 10月 武蔵野鶴見に新田を開墾、
1242年
仁治三年
 吾妻鏡の記録が欠落
1月 四条天皇崩御、 3月 後嵯峨天皇が即位の儀、 6月15日北條泰時が病没
泰時後継を巡り暗闘あり、嫡孫経時が執権職を継承、 9月 順徳上皇が佐渡で崩御、
1243年
仁治四年
.
寛元元年
 2月26日、寛元に改元
2月 大倉薬師堂が焼失・頼経の嫡子頼嗣が体調不良、6月 深澤大仏(木像)開眼供養
11月 近江佐々木一族の内紛と分割相続、 12月 白虹の変異あり、
1244年
寛元二年
.
  4月まで記録が欠落
4月 頼嗣が元服し頼経が退位(実質更迭)、4月 全国に疫病が流行し頼嗣兄弟も罹病
5月 頼嗣が征夷大将軍・右近衛少将・従五位上に、 7月 永福寺の修復工事開始、
8月 頼嗣初の放生会に渡御・西園寺公経が死没・九条道家が関東申次に就任、
1245年
寛元三年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 彗星が出現、 2月 頼経頼嗣が体調を崩す、 4月 北條朝時が病没、
4月 訴訟関連の通達が数件、 7月 前将軍頼経出家、 8月 例年より豪奢な放生会、
8月 将軍藤原頼嗣が発病、9月 執権経時の病状が悪化、11月 鷹狩りを再び禁止
1246年
寛元四年
 
1月 88代後嵯峨天皇→89代後深草天皇(満2歳)に譲位、2月 相続関連の訴訟頻発
3月 名越北條氏が善光寺供養法要、 閏4月 執権北條経時が病没、後継は時頼
5月 宮騒動が勃発、 6月 光時流罪など騒動の関係者を処分、
7月 前将軍頼経を京へ追放、多少の策動あり、
1247年
寛元五年
寳治元年
 2月28日寳治に改元
 後深草の即位による
2~3月 天変異変が続く、3月 北條経時一周忌、4月 安達景盛が高野山から鎌倉へ
4月 鶴岡の北に後鳥羽の霊を勧請し社壇を建立、 5月 執権側と三浦側が緊張状態に、
6月 三浦合戦で泰村一族が滅亡、妹婿千葉秀胤一族も追討、7月 隆弁が八幡宮別当に
7月 北條重時が連署に就任、11月 壽福寺が全焼、12月 訴訟に関し数件の通達あり
1248年
寳治二年
 
3~5月 裁判に関する沙汰を数件発布、背景に訴訟多発あり。8月、南都と比叡が紛争
11月 時頼が蹴鞠に熱中、
1249年
寳治三年
建長元年
 3月18日、建長に改元
この年 吾妻鏡の記載なし、散逸と推定される。年間の主な事件のみ整理して列挙する。
大きな出来事として、3月の京都大火と12月の引付衆設置が挙げられる。
1250年
建長二年
 
2月 時頼 が体調不良・円城寺の興隆助成が決定、 3月 閑院再建工事の担当が決定、
5月 八幡宮上宮の修理開始、 6月 山内への道と六浦への道を補修、
この年の後半に幕臣の規律と訴訟に関する改革が多数実施された、
1251年
建長三年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
2月 熊野本宮焼失、3月 浅草寺と諏訪湖で怪異・熊野神倉焼失、4月 赤城山で山火事
5月 時頼の次男(後の時宗)が誕生、6月 深刻な冷夏、・評定衆の中原師員が死没、
9月 圓城寺復興助成を決定、11月 建長寺建立に着工、12月 足利 泰氏が無届け出家
11月 商店の位置を指定、12月 謀反計画に対処して誅殺と配流あり、
12月 朝廷でも九条道家の一族が勅勘を受けた。
1252年
建長四年
 
1月 宗尊親王が急遽元服、2月 鎌倉で大火、宗尊親王 の鎌倉下向決定・頼嗣解任、
3月 宗尊親王 が六代将軍として鎌倉へ、4月 前将軍頼嗣と弟と頼経の妻妾を京都送還
4月 引付衆の組織を拡充、 7月 将軍家が新造御所に入御、 8月 大仏の鋳造開始、
9月 将軍家の病気と平癒、 11月 隆弁 が権僧正に昇叙、宗尊親王が新造の御所へ、
1253年
建長五年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 時頼の三男宗政が誕生、4月 聖福寺開創・善光寺修造 4月 日蓮が立教開宗
6月 安達義景死没、 11月 建長寺落慶供養、諏訪盛重経時追善の小堂を建立、
12月、引付の組織を拡充、
1254年
建長六年
 
1月 大町で大火、2月 京都で法成寺が焼失・結城朝光が死没、5月 人の質入れを禁止
6月 安達義景の一周忌&北條泰時の十三回忌あり、 7~9月 大雨の被害あり、
10月 炭・薪・糠などの価格統制令を発布、 11月 足利義氏(正義)が死没、
この年日蓮が鎌倉で辻説法を開始、
1255年
建長七年
 
この年 吾妻鏡の記載なし、散逸と推定される。年間の主な事件のみ整理して列挙する。
1256年
建長八年
康元元年
 10月5日、康元に改元
3月 重時 が連署を辞して出家し後任に政村が着任、併せて引付衆の人事異動あり、
4月 矢部禅尼が死去、 8月 前々将軍頼経が京都で死没、 9月 赤班瘡が大流行、
10月 前将軍頼嗣が京都で死没、 11月 時頼が出家し執権職などを長時 に委譲、
12月 勝長寿院の大部分が焼失、 
1257年
康元二年
正嘉元年
 3月31日、正嘉に改元
1月 若槻頼定伊賀光宗が死没、2月 正寿が元服して時宗、3月 引付衆の組織改編
4月 時頼が伊勢神宮に納経、 5月 鎌倉に大地震、 6月 幕府中枢の人事異動
8月 大地震と余震あり、10月 大慈寺修造の落慶供養、12月 将軍警護の廂衆を設置
1258年
正嘉二年
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 甘縄から出火して寿福寺と新清水寺が焼失、 1月 勝長寿院の修造工事を開始、
3月 将軍宗尊親王が最初の二所詣、3月 戒壇許可宣下を巡り比叡山と圓城寺が紛争
5月 圓城寺戒壇の許可宣下を撤回、6月 勝長寿院の落慶供養、8月 台風による災害、
7~8月 放生会供奉人選定で齟齬あり、
1259年
正嘉三年
正元元年
 3月26日、正元に改元
この年 吾妻鏡の記載なし、散逸と推定される。年間の主な事件のみ整理して列挙する。
1260年
正元二年
文応元年
 4月13日、文応に改元
.
 ←西暦から吾妻鏡本文へ、
 ←和暦から写本画像へ、
1月 戒壇を巡って比叡山と圓城寺の紛争が頻発し戒壇設置の認可宣下は撤回される、
3月 将軍家が近衛兼経の娘(時頼の猶子)と婚姻、4月 仙洞御所焼失、鎌倉でも大火
6月 疫病と長雨に対応して祈祷あり、時頼が息子三人の序列明確化をアピール、
7月 日蓮が立正安国論を時頼に提出、 8月 将軍家が赤痢、日蓮の松葉ヶ谷法難、
10月 政村の娘が狂乱・平癒、11月 将軍が二所詣で、12月 葉室光俊が鎌倉下着、
1261年
文応二年
弘長元年
 2月20日、弘長に改元
1月 将軍と時頼の間に隙間風、時頼が息子の序列徹底を図る、2月 追加の法令を発布
3月 引付の組織を再編成、4月 時宗が安達氏の娘と婚姻、将軍が重時の極楽寺新邸へ、
5月 日蓮が伊豆流罪、6月 重時が重病、やがて回復、7月~ 放生会供奉辞退が続出、
11月 宇都宮泰綱北條重時が死没、
1262年
弘長二年
 吾妻鏡の記録が欠落
この年 吾妻鏡の記載なし、散逸と推定される。年間の主な事件のみ整理して列挙する。
1263年
弘長三年
 
2月 日蓮が赦免され伊東から鎌倉に帰還、 3月 時頼が善光寺に北の水田六町を寄進、
4月 将軍のニ所詣あり、 8月 放生会と将軍上洛の供奉人について調整が続く、
9月 北條実泰死没、 10月 六波羅検断などを決裁、 11月 清原満定が急死、
11月 将軍正室の近衛宰子が懐妊 ・ 二階堂行頼死没 ・ 北條時頼死没、 
1264年
弘長四年
文永元年
 2月25日、文永に改元
  吾妻鏡の記録が欠落
2月 延暦寺が焼失、 延暦寺衆徒の強訴が頻発、 4月 後の七代将軍惟康親王が誕生、
5月 延暦寺衆徒が円城寺の大部分を焼く・北條朝直死没、 6月 日照りが続く、
8月 北條長時死没、執権は政村、連署は時宗、小侍所別当は宗政業時
10月 時輔が六波羅南方に就任、11月 日蓮の小松原法難、12月 執権政村が昇叙、
1265年
文永二年
 
2月 将軍家の二所詣あり、3月 町屋(商店)を認可する市内七ヶ所を再指定、大地震、
6月 安達義景の十三回忌、評定衆と引付衆を増員、 9月 将軍正室が女児を出産、
12月 彗星が出現、
1266年
文永三年
 
3月 引付衆を廃止し訴訟担当を問注所に変更、 6月 将軍正室近衛宰子の密通が露見、
7月 将軍宗尊親王を解任更迭、宰子と掄子女王も京都へ、惟康親王が将軍宣下、
11月 蒙古が一回目の使節を派遣したが高麗の非協力により対馬から帰還、

            幕府滅亡まで、残り66年。資料の整理には吾妻鏡の現代語訳同様に苦労するか?
.
吾妻鏡は文永三年(1266)7月20日で途絶、以降は資料を寄せ集めて記述する。少年易老だなぁ...光陰なんか散々軽んじちゃったし。

西暦
年号
その他
主な事件
1267年
文永四年
 
(整理中) 極楽寺忍性の推薦で六浦称名寺に審海が入り真言律宗に、
1268年
文永五年
 
1月 元の国牒状到着、3月 執権時宗・連署政村体制に、日蓮が他宗に公開法論を要求
1269年
文永六年
 
2月 元が三回目の使節を派遣し対馬から島人2名を連行、 9月 四回目の使節が到着、
1270年
文永七年
 
3月 北條有時が死没、 5月 足利泰氏が死没、
1271年
文永八年
 
9月 元から五回目の使節が到着、 10月 日蓮の龍ノ口法難と佐渡流罪、
1272年
文永九年
 
二月騒動勃発、 4月または12月 元から六回目の使節が到着、
1273年
文永十年
 
4月 元が朝鮮半島を完全制圧、
1274年
文永十一年
 
1月 亀山天皇が退位し91代後宇多天皇が即位、 3月 日蓮が佐渡流罪を赦免、
5月 日蓮が甲斐南部郷(身延山の地)へ、 10月 元が対馬・壱岐を制圧、
10月 元が肥前松浦郡の博多湾に上陸、10月末に撤退し11月末には朝鮮半島に退却
1275年
文永十二年
建治元年
 4月25日、建治に改元
4月 元から七回目の使節が到着、9月 使節5名を龍ノ口で斬首、5月 藤原為家が死没
1276年
建治二年
 
 
1277年
建治三年
 
6月 北條時盛が死没、 9月 北條義宗が死没、
1278年
建治四年
弘安元年
 2月29日、弘安に改元
疫病の流行による改元説あり 6月 結城広綱が死没、 11月北條時定 が死没、
1279年
弘安二年
 
1月 塩谷泰朝が死没、 3月 南宋が滅亡、 6月 元が八回目の使節を派遣し博多で斬首
7月 北條宗頼が死没、 無学祖元が来日、
1280年
弘安三年
 
3月 安達顕盛が死没、 8月 九条基家が死没、
1281年
弘安四年
 
5月 元軍が対馬壱岐を制圧して博多に襲来、6月5日に志賀島に上陸、7月末に日本軍の善戦と台風により壊滅し撤退、少弐資能・資時が戦死、 9月 北條宗政が死没、
1282年
弘安五年
 
時宗が円覚寺を創建、 1月 北條義雅が死没、 10月 日蓮が池上で死没、
1283年
弘安六年
 
5月 阿仏尼が鎌倉で死没、 5月 中原師連 が死没、 9月 隆弁が死没、
1284年
弘安七年
 
4月 北條時宗が死没・九代執権は貞時、 5月 嶋津久経が死没、
1285年
弘安八年
 
11月 霜月騒動で安達一族が滅亡、 
1286年
弘安九年
 
9月 無学祖元が死没、二条為氏が死没、
1287年
弘安十年
 
クビライが三度目の日本侵攻を計画、 6月 北條業時が死没、
10月 後宇多天皇が退位し92代伏見天皇が即位、
1288年
弘安十一年
正応元年
 4月28日、正応に改元
伏見天皇即位による代始改元
1289年
正応二年
 
8月 一遍上人が兵庫津で死没、
1290年
正応三年
 
8月 叡尊が死没、 12月 二階堂行忠が死没、
1291年
正応四年
 
8月 少弐経資が死没、
1292年
正応五年
 
9月 安達頼景が死没、
1293年
正応五年
永仁元年
 8月5日、永仁に改元
4月 平禅門の乱で平頼綱が滅亡、
1294年
永仁二年
 
 
1295年
永仁三年
 
5月 佐々木氏信が死没、
1296年
永仁四年
 
2月 北條公時が死没、 6月 北條時兼が死没、
1297年
永仁五年
 
九代執権北條貞時が徳政令を発布、 9月 佐々木宗綱・南部実長が死没、
1298年
永仁六年
 
5月 宇都宮景綱が死没、 7月 伏見天皇が退位し93代後伏見天皇が即位、
1299年
永仁七年
正安元年
 4月25日、正安に改元
元使の一山一寧が来日・修禅寺に拘留、
1300年
正安二年
 
9月 大友頼泰が死没、 
1301年
正安三年
 
1月 後伏見天皇が退位し94代後二条天皇が即位、 3月 北條顕時が死没、
8~9月 彗星(ハレー)が出現、 8月 貞時が出家して退任し師時が十代執権に就任、
1302年
正安四年
乾元元年
 11月21日、乾元に改元
鎮西探題の北條實政 が死没、
1303年
乾元二年
嘉元元年
 8月5日、嘉元に改元に
7月 忍性上人が鎌倉極楽寺で死没、
1304年
嘉元二年
 
5月 佐々木貞宗が死没、
1305年
嘉元三年
 
4月 北條宗方の乱、
1306年
嘉元四年
徳治元年
 12月14日、徳治に改元
10月 覚山尼(時宗 正室)が死没、
1307年
 徳治二年
 
8月 北條時範が死没、
1308年
徳治三年
延慶元年
 10月9日、延慶に改元
8月 後二条天皇が崩御し95代花園天皇が即位、
1309年
延慶二年
 
11月 結城氏五代当主貞広が死没、 12月 北條貞房が死没、
1310年
延慶三年
 
未着手 
1311年
延慶四年
応長元年
 4月28日、応長に改元
7月 大友氏当主貞親が死没、 9月 10代執権師時が死没、後任は連署の宗宣
10月 北條貞時が死没、
1312年
応長二年
正和元年
 3月20日、正和に改元
6月 執権北條宗宣が死没、後任は十二代煕時 10月 無住道暁が死没、
1313年
正和二年
 
波木井長義が死没
1314年
正和三年
 
 
1315年
正和四年
 
7月 執権煕時が死没・十三代執権は基時、
1316年
正和五年
 
7月 基時が辞任し十四代執権に北條高時 が就任、宇都宮氏八代当主定綱が死没、
1317年
正和六年
文保元年
 2月3日、文保に改元
10月 北條時頼正室の葛西殿が死没、
10月 元の渡来僧 一山一寧が南禅寺で死没、
1318年
文保二年
 
1月 新田氏七代当主朝氏が死没、 2月 花園天皇が退位し96代後醍醐天皇が即位、
12~1月 幕府内で日印が諸宗を論破、布教を許可、
1319年
文保三年
元応元年
 2月23日、元応に改元
後醍醐天皇即位による代始改元
1320年
元応二年
 
1月 法華宗の日朗が死没、
1321年
元応三年
元亨元年
 2月23日、元亨に改元
辛酉革命に当たるため改元 
1322年
元亨二年
 
1323年
元亨三年
 
8月 鎌倉に大地震、略奪あり、 
1324年
元亨四年
正中元年
 12月9日、正中に改元
6月 新田氏六代当主基氏が死没、 4月後宇多天皇が崩御、
9月 正中の変(後醍醐による倒幕計画)・後醍醐天皇の処分なし、
1325年
正中二年
 
嶋津氏四代当主忠宗が死没、
1326年
正中三年
嘉暦元年
 4月25日、嘉暦に改元
3月 高時 が辞職し十五代執権には貞顕が就任し10日後に辞任、十六代執権は守時、
10月 七代将軍 惟康親王が死没、
1327年
嘉暦二年
 
 
1328年
嘉暦三年
 
7月 冷泉為相が鎌倉で死没、 10月 久明親王が鎌倉八代将軍に就く、
11月 冷泉為守が死没、 12月 日蓮宗の日印が死没、
1329年
嘉暦四年
元徳元年
 8月29日、元徳に改元
1月 安東蓮聖(御内人)が死没、 2月 政所執事二階堂行貞が死没、
1330年
元徳二年
 
4月 陸奥石川氏12代当主家光が死没、 11月 甲斐武田氏九代当主信宗が死没、
1331年
元徳三年
元弘元年
 8月9日、元弘に改元
後醍醐天皇が倒幕に失敗して廃位され隠岐流刑、持明院統(北朝)の光厳天皇が即位、
幕府と光厳天皇は改元を認めず、1332年に正慶に改元した。
1332年
元弘二年
正慶元年
 4月25日、正慶に改元
光厳天皇(持明院統)による改元、二つの年号が並立。
1333年
元弘三年
正慶二年
 
閏2月 後醍醐先帝が伯耆国船上山で挙兵、 4月 足利高氏が挙兵、 5月 六波羅が陥落
5月 新田義貞が挙兵、 5月末 鎌倉幕府と北條一族が滅亡、後醍醐が建武の新政を開始
>