承久の乱に加わった源有雅斬首の地・甲斐国小瀬荘 

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源有雅後鳥羽上皇 の側近として仕えた公卿で父は参議雅賢(従三位・右近中将)、母は藤原信経(紫式部の父の兄で従五位下・越後守)の娘。清少納言は信経を字が下手だとか才能がないとか酷評している。それに紫式部が反撃して女の泥仕合を演じた記録も残る。まぁ清少納言も相当偏屈な女だったからね。
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有雅は上皇の寵臣である藤原範光の婿となって昇進を重ね、建暦二年(1212)には検非違使別当・権中納言まで昇進し、承久の乱(1221)で倒幕計画に加わった。結果として朝廷側は惨敗し、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島へ配流、順徳上皇は佐渡島へ配流、土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流、仲恭天皇は廃帝、後鳥羽上皇皇子の六条宮は但馬国に配流、冷泉宮は備前国に配流となった。
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また計画に加わった主な公卿はいずれも、鎌倉へ護送される途上で処刑された。一条信能 は美濃で 加藤(遠山)景朝 に、葉室光親は駿河で 武田信光に、藤原範茂 は甲斐国稲積庄で 小笠原長清に、藤原(高倉)範茂 は足柄で 北條朝時 に殺されている。


     

        左: 稲積荘の一部だった現在の甲府市小瀬町。稲積荘は山梨郡(甲府盆地東部)と巨摩郡(甲斐西部と南部)を占める広いエリアで元々は
仁和寺金剛院領だったらしい。鎌倉時代初期に 武田信義 嫡男の 一條忠頼 が領した一条郷(甲府市)も稲積荘に含まれている。
承久の乱(1221)の際には武田(石和)信光と共に東山道(wikiの大将として京を攻めた 小笠原長清 (59歳)の支配下にあった。
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        中&右: 上皇配流など戦後処理が済んだのは同年7月、源有雅は特に乱を主導する立場ではなかったが、院の近臣として処分は免れない。
小瀬郷の浄福寺(廃寺。有雅を弔って建立、とも)に短期間拘束され8月29日に斬首された。享年46歳、県営小瀬団地片隅の小さな
史跡公園に複数の板碑と石祠と石碑が建っている。
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石祠には宝暦年間(1751〜1763年)建立・小瀬村鎮守久品山浄福寺の刻銘、背面には「甲府勤番武士31人による寄進」とあり、
浄福寺の僧により源有雅を祀って建立した旨が刻まれている。祠正面の「富士塚大権現」の文字は有雅を祀る意味を示すと伝わるが、
ひょっとすると有雅とは関係ない石祠だった可能性もある。


     

        上: ファミリーマートの信号からスポーツ公園方向に歩き最初の路地を右折すると建物裏の竹薮前に石仏数基と「源有雅郷幽閉の処」の石柱が
あり、ここが有雅幽閉の地(又は浄福廃寺跡)と伝わる。幕府は関係した公卿の連行を命じたが鎌倉に入れる意思はなく、全員が京から
離れた地で殺された。判断を誤った上皇と天皇家・近臣や鎌倉に敵対した御家人に対し、義時・政子・廣元連合は容赦ない制裁を加えた。


     

        左: 武田(石和)信光 は有雅幽閉地の100mほど東にあった諏訪神社を600m南の鈴宮神社境内に遷した跡に館を建てたと伝わる。
現在の排水路(五割川)は館を囲む堀の跡らしいが長清の別邸説もあって詳細は明らかではない。
畑の隅に並んでいる石仏は武田一族の滅亡後に信玄の娘(松姫か菊姫か)が建立した玉田(ぎょくでん)寺跡と推定されている。
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玉田寺は徳川時代初期になって 一條忠頼 の室が建てた甲府の 一蓮寺(別窓)に吸収され、小瀬郷にあった東光院・浄福寺・善福寺は
現在の仁勝寺に統合された。
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        中: 鳳堂山仁勝寺は臨済宗、武田氏初代の 武田信義 から数えて10代後の信満(甲斐国守護)の二男・信長による開基である。
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        右: 仁勝寺本尊の聖徳太子像は国指定の重要文化財。彩色の檜寄木造りで高さ約150cm、鎌倉時代に太子16歳の姿を写した像と伝わる。
史料(伝承の類で信頼性は乏しいが)に拠れば新羅三郎義光 が京から甲斐に持ち込んで武田氏の所蔵となった。
勝頼が躑躅ヶ崎から落ち延びる際に家臣に命じて小瀬村の仁勝寺に移し本尊とした、という。

この頁は2019年 10月25日に更新しました。