滅亡した三浦一族を葬った 三浦やぐら 

 
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【吾妻鏡 宝治元年(1247) 6月5日】  三浦一族と合戦が始まる日の早朝。
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早朝から鎌倉中が益々騒がしくなっている。時頼はまず使者を 三浦泰村 の許に派遣して郎従らを鎮めるように申し入れ、次いで書状を送り泰村らを討伐するべきだと考えている訳ではない、害心を持たず和平を求めるのが真意である、と伝えた。泰村は喜んで賛意を表し使者を帰した。その後に妻が湯漬けを運び酒と一緒にこれを勧めたが、泰村は一口食べて直ぐに嘔吐する有様だった。
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ただし、畠山重忠 滅亡の項でも述べたように吾妻鏡は基本的に北條サイドで物事を評価し記述している。特に二代執権 義時 ・三代執権 泰時 ・五代執権 時頼 に関しては知略に富む人格者として描いており、相対的に北條氏のライバルに対しては評価基準が厳しくなっている。
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戦端を開いたのは(吾妻鏡が)穏健な立場と評した執権時頼ではなく、北條氏と二人三脚で幕府中枢を生き抜いた安達一族である。出家していた先代当主の 安達景盛(覚地入道)は高野山から鎌倉に駆け付け、嫡男 義景 らの優柔不断を叱咤して三浦邸を急襲させた。激しい抵抗はあったが封鎖された鎌倉で孤立無援の「謀反人」となった三浦一族に勝ち目はない。泰村は 「北條の事は恨まない」 の言葉を残し、頼朝の廟である法華堂に籠って一族500余名と共に自決した。
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戦死者の屍は頼朝の墓の裏手、大蔵山中腹の「やぐら」に葬られたと伝わるが、すぐ前の平場には 北條時頼 の祖父で貞応三年(1224)に没した二代執権 義時法華堂(別窓)が建っていたから、そのすぐ前にある洞穴に多数の死骸を納めたとは考えにくい。実際には由比ヶ浜一帯に埋葬されたのだろう。
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建長二年(1250)12月29日の吾妻鏡に 「陸奥守 重時(義時の三男)と相模守時頼が 重時実朝政子義時 の墳墓堂を巡礼」 との記録がある。
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北條九代記に拠れば、この法華堂は弘安三年(1280)に焼失した後に再建され、延慶三年(1310)11月6日の大火で再び焼失した後は再建の有無が記録に残っていない。やぐらの周辺には気のせいか、鎧と刃の擦れ合う音が聞こえてくるような冷たい空気が漂っている。
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   ※北條九代記: 鎌倉幕府の末期前後に書かれた歴史書で成立は幕府が滅亡した元弘三年(1333)、著者は不明。


     

        左: 頼朝の墓への石段を登らず右へ進むと左手に 大江廣元 の廟所に続く石段が現れる。元々は 義時 法華堂の参道だった筈なのに明治期に
頼朝の子孫を名乗った島津氏と廣元の子孫・毛利氏が競って整備し、義時法華堂や三浦やぐらの存在は二の次になった、らしい。
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        中: 石段を登った平場が既に発掘調査の終った義時法華堂跡。左奥の鳥居が廣元の廟所に登る石段で、三浦やぐらは鳥居のすぐ左にある。
石灯籠や足元の礎石は明治の初期に島津家と毛利家が競って廟所を整備した名残りだろう。詳細は頼朝の墓と法華堂(別窓)で。
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        右: 大江廣元の廟所に登る石段と、左に口を開く三浦やぐら。この辺は休日でも観光客の姿は殆どなく、特に女性の単独行は薦められない。


     

        左: やぐらの開口部は小さいが内部は結構広く、四畳半か六畳ほどのスペースはありそうだ。でも数百人の焼死体を納めるのは無理だろう。
        中: 左の画像から数年後に撮影したもの。義時やぐらや 北條高時の腹切やぐら(詳細は 東勝寺の跡(別窓)で)同様に献花や供物が
置かれ、ファン層(笑)の多さを思わせる。
        右: 廣元廟所の石段途中から義時法華堂跡の平場を撮影。すぐ下には大倉幕府があった清泉小学校(キリスト教系)の白い校舎が見える。

この頁は2019年 9月18日に更新しました。