平泉に咲いた浄土思想の華 毛越寺 

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毛越寺 右:医王山毛越寺周辺の鳥瞰図    画像をクリック→拡大表示
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天台宗毛越寺、正式には医王山毛越寺金剛王院の創建は嘉祥三年(850)。開山は仏の教えを広めるため東北を旅した 慈覚大師円仁(wiki)、道に迷った時に落ちていた白鹿の毛を辿ると薬師如来の化身である白鹿が現れて寺を建立すべき地を教えたのが創建の起源と伝わる。「白い毛の鹿」が転じて後に毛越寺を称した、と。
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嘉祥年間(848〜851)に中堂が完成したことから嘉祥寺を称し、第56代清和天皇(在位:858年〜876年)の貞観十一年(869)正月には「北門鎮護の御願寺たるべし」の詔勅を受けた。
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創建の200年ほど後には早くも荒廃したと伝わるが、これは安倍氏の興隆により繁栄の中心が衣川の北側に移った事、および陸奥国に荒廃をもたらした前九年と後三年の戦役(1051〜1087年)と無関係ではない。朝廷の側も安倍氏も清原氏も、信仰に思いを馳せて寺社を保護できるような状態ではなかった。
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第73代堀河天皇(在位:応徳三年・1087年〜嘉承二年・1107年)の長治年間(1104〜1106)、奥州の覇権を握った藤原氏初代の 清衡(当時46歳前後)が再建に着手した。これは清衡が初老に近付いた長治二年(1105)に正室の北方平氏が嫡子基衡を産んだ(異説あり)事も関わっているのだろう。
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  ※北方平氏:中尊寺願書にも記載がある女性で出自は諸説あり。清衡発願の「紺紙金銀字交書一切経」(一部中尊寺、他は高野山金剛峰寺収蔵、国宝)の
奥書に拠れば、清衡には元永二年(1119)当時で六男三女がいた、とある。
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保元二年(1157)3月に基衡が没して奥州藤原氏の棟梁となった 秀衡 は嘉応二年(1170)5月に鎮守府将軍・従五位下に叙任、更に養和元年(1181)8月には陸奥守・従五位上に進む。産出する金と馬などで財を成して朝廷や公卿との関係を深め、頼朝 の挙兵、義仲 の滅亡、平家の滅亡などの戦乱には関与せず独自の勢力を保っていたが、覇権を握り甲斐源氏も支配下に収めた頼朝は奥州征服に向けて徐々に圧力を強め始めた。
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文治二年(1186)、頼朝は朝廷に納める貢物は鎌倉を経由するよう要求した。軋轢を防ぐためそれに従った秀衡は近い将来に鎌倉との衝突が起きると判断し、翌年秋には関係の悪化を覚悟して頼朝に追われた 義経 を受け入れた。圧倒的な鎌倉の軍事力に対抗するには嫡子 泰衡 の能力に不安があり、既に朝廷の力も頼るに足りない。生き残りには軍略に長けた義経の存在が欠かせない、と判断したのだろう。
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そして文治三年(1187)10月29日に秀衡の病没に伴って泰衡が家督を継承、義経の平泉潜伏を知った頼朝は更に圧力を強め、朝廷に奥州追討の宣旨を求めた。後白河法皇 は許可しなかったが頼朝は無視したまま出陣し、宣旨は事実を追認して発行された。この二年後に起きる藤原氏滅亡については、別項で。

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毛越寺 左:毛越寺 伽藍と浄土庭園の復元図    画像をクリック→拡大表示
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発掘資料を基にした伽藍復元ジオラマ。参詣する人は池の手前(現世)の南大門から池を越えて来世の極楽浄土を見る。中央が金堂の園隆寺、左が嘉祥寺、その間に講堂が建つ。
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浄土信仰は無量寿経と観無量寿経と阿弥陀経を基礎にし、仏陀(如来)を信仰していれば死後に極楽浄土へ行ける、と教えている。経典の極楽浄土は想像の世界だが、それを現世に実現したのが浄土庭園である。本尊が安置された金堂が西側(彼岸)に建ち、衆生は蓮の花が咲く池の手前(此世・しがん)から池に映る仏陀の尊顔を拝しつつ浄土への橋を渡る。
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清衡は大治三年(1128)に72歳で没したが、毛越寺の建立は嫡子基衡に続いて三代秀衡が引き継ぎ、久寿三年(保元元年・1156年)までの約50年で金堂・講堂・経蔵・常行堂・吉祥堂・千手堂が、仁安二年(1167)には嘉祥寺が落慶して堂塔群が完成した圓隆寺には本尊の丈六薬師如来(運慶作)と十二神将像が、南の二階惣門には関白忠道が筆した扁額を掲げた。
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基衡の没後には彼の妻(安倍宗任の娘)が浄土庭園の東側に観自在王院を建立、毛越寺一帯は関山中尊寺を遥かに超える規模となり、秀衡の時代には堂塔が40、僧坊は500を数えた、と伝わっている。奥大道を辿る旅人が平泉に入ると西の山麓に広がる観自在王院の庭園の先に毛越寺の堂塔伽藍を臨み、参道(現在の平泉駅〜毛越寺への道)沿いは宿駅・工房・倉庫が並ぶ豊かな「倉町」が続いていた。
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更に奥大道を北上して関山の坂を登ると中尊寺本堂と金色堂周辺に並ぶ堂塔群に至る。平泉の繁栄はこの時点で当初の清衡が想定した規模を越え、中尊寺一帯は毛越寺「奥の院」に近い存在になっていたのだろう。


     

        左: 平安様式を模した現在の本堂は平成元年(1989)建立。本尊の薬師如来は脇侍に日光・月光菩薩・周囲に四天王を配している。
仏像は平安時代の作と称しているが、これはあり得ない。創建当時の本尊で仏師は運慶じゃなく雲慶(笑)、国宝どころか重文も無理だ。
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        中: 毛越寺を開いた慈覚大師円仁を祀る開山堂。大師像と両界大日如来像・藤原氏三代(清衡・基衡・秀衡)の絵像を安置している。
建物も絵像も年代は古くない。不親切なことに表記はないが多分戦後の製作だろう。
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        右: 現在の常行堂。享保十七年(1732)に仙台藩主の伊達吉村が跡地に再建したもの。毛越寺では唯一の、(比較的)古い建造物である。
中央に本尊の宝冠阿弥陀如来と両側に四菩薩を、その他に慈覚大師が唐から持ち帰った摩多羅神を奥殿に祀っている。
ただし、慈覚大師が唐から持ち帰った、とは単なる伝承に過ぎず信頼に値しない。


     

        左: 毛越寺の入口部分。山門を兼ねた入園口は旧一関藩主・田村家の長屋門を移築している。左側に見えるのは宝物館。
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        中&右: 南大門跡近くから対岸の金堂(円隆寺)の方向を。金堂は阿弥陀如来の座す浄土世界、中島は舞楽会、橋は浄土への道、出島が
蓬莱山を表す。建造当時より水位が高いため現在は水面下に没して見えない石は蓬莱山へ向う船を表現している。


     

        左: 池の右手から突き出す出島は荒磯を表現し、庭園の中で最も美しい場所と言われる。石組み先端の小島には高さ2mの立石が置かれて
景観を引き締めている。2011年3月の地震で立石が倒れ、完全な復旧には時間が掛っているらしい。
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        中: 作庭記に、「離れ石は荒磯の沖か山の先に立てるべきで、離れ石の根には大石を数個沈めてから立て、打ち石を詰める」とある通りに
仕上げている。ここで紹介するまでもなく「毛越寺 立石」で画像検索すれば四季それぞれの姿を見る事ができる。
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        右: 対岸の経楼跡に向い合って設けられた築山。最も高い部分は水面から約4m、大小さまざまの石を配して岩山の姿を表現する。
これもまた、作庭記が教えている枯山水の様式を踏襲している。
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       ※作庭記:平安時代の造園マニュアル。摂政関白・藤原頼通の二男で正四位上の公家、歌人としても知られた橘俊綱が著したと伝わる。
文章のみで図は描かれていない。興味があればこちら(外部サイト)で、現代語訳も読める。


     

左: 鐘楼跡の前から中島と現在の本堂を。    中: 鑓水左側の小島から州浜の方向を。    右: 築山の右側から観自在王院の方向を。

大泉ヶ池は東西180m×南北約90m、庭園が造られた頃の水位は現在よりも60cmほど低かったらしい。従って州浜はもっと広く、今では水中に沈んでいる銘石も池と岸辺に彩を添える設計だったと考えられる。東西70m×南北30mの中島は池の中央よりも少し西寄りに配され、南大門から渡る長さ18間(約32m)の反り橋と金堂の建つ北岸に渡る長さ10間(約18m)の平橋が架けられていた。


     

左: 常行堂跡から。左に立石が見える。    中: 鑓水の右側から池の中央と本堂方向を。    右: 鐘楼跡から中島を経て本堂を見る。

吾妻鏡は、中尊寺の大長寿院(二階大堂)を見て感銘を受けた頼朝は鎌倉に凱旋して直ちに永福寺(廃寺)の建立に取り掛かり、堂宇の全長230m・池は200mの大伽藍を完成させた、と記録している。頼朝の心に響いたのは毛越寺だろう。観自在王院を含めた規模は中尊寺の数倍だし、中尊寺の西側低地に発掘された池端の堂塔規模も(まだ)確認されていない。清衡はここに浄土庭園は造ったが伽藍の建立までには至らず中尊寺の本堂と金色堂周辺の堂塔・池の完成に留まった、清衡の遺した夢は基衡・秀衡の毛越寺に引き継がれた、と思う。


     

        左:金堂円隆寺の跡。一段高い壇の上に礎石(径150cm)が49個残る。建物は東西16間(30m)×南北14間(26m)と推定され、間口と奥行は
東大寺大仏殿の半分ほどで失われた本尊は丈六薬師如来。十二神将と日光・月光菩薩を祀り、共に 運慶 作と伝わるが時代的な整合性に欠ける。
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        中: 開山堂の前から鐘楼跡を遠望。左側樹木の茂る一帯に金堂円隆寺の礎石が並んでいる。
 
        右: 鐘楼跡の近くから、中島と対岸の石組み・立石の方向を。

この頁は2019年 9月 5日に更新しました。