陸奥話記から見た前九年の役 

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上:多賀城碑 壺の碑(つぼのいしぶみ)について     画像をクリック→拡大表示
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袖中抄に拠れば、「陸奥の果てに「つぼのいしぶみ」がある。坂上田村麻呂 が蝦夷征服のとき、石の表面に弓の端で「日本の中央」と刻んだ石碑で、信家(関白太政大臣藤原教通の子・権大納言信家か? )の侍従が言うには、「長さ四、五丈(12〜15m)の石の面に文字を彫ったもの」 である。
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袖中抄: 鎌倉時代初期の文治年間(1185〜1190)に成立した和歌の学術書(マニュアル)。藤原顕輔の養子で学僧の顕昭(歌学の大家)が著した。
藤原顕輔は正三位まで昇った公家で歌人。百人一首の「秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の 影のさやけさ」で知られる。
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壷の碑・壷の石文(つぼのいしぶみ)は 「遠くにあるもの、遥か陸奥(みちのく)にあるもの、或いは何処にあるか判らないもの」 を意味する歌枕として、西行法師 ・和泉式部・慈円頼朝 など多くの和歌に詠われた。
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        陸奥の いはでしのぶは えぞ知らぬ 書きつくしてよ 壺の石文   源頼朝(新古今集)
        陸奥の おくゆかしくぞ おもほゆる 壷の碑 外の浜風   西行法師(山家集)

多賀城国府 右:多賀城国府周辺の鳥瞰        画像をクリック→拡大表示
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この「つぼのいしぶみ」は長い間行方不明だったが、江戸時代初期(四代将軍家綱の頃)になって掘り出された石碑(多賀城碑)がこれに該当する、と考えられている。坂上田村麻呂が東征した800年代初頭とは年代も合わず距離の表示やサイズも異なる事から、仙台藩による偽造疑惑などの真贋論争を経て、現在の史学は「本物説」にほぼ傾いている。真贋論争については wiki を参照されたし。
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もちろん歌枕に使われ平安初期に刻まれた「本当のつぼのいしぶみ」が何処かに残っている可能性は否定できず、いつか奇跡的な発見があるかも知れないけれど。
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石の概略サイズは高さ186×巾100×厚さ50cm、最上部に「西」(当初は西向きだったのか?)、下に11行・140字の碑文が刻まれている。元禄二年(1689)松尾芭蕉は「奥の細道」の中で「つぼのいしぶみ」に辿りついた感激を次のように書き残している。
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むかしより、よみ置ける歌枕、多くかたり伝ふといへども、山崩れ、川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木に変れば、時移り、代変じて、その跡たしかならぬ事のみ。ここに至りて、うたがひなき、千歳の記念、今眼前に、古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、覊旅(長い旅、俳諧の旅)の労をわすれて、泪も落つるばかりなり。

多賀城碑に刻まれた文字と現代語訳

       多賀城  去京一千五百里               京を去ること 1500里(1620km)
去蝦夷国界一百二十里           蝦夷国境を去ること 120里(130km)
去常陸国界四百十二里           常陸国境を去ること 412里(445km)
去下野国界二百七十四里         下野国境を去ること 274里(296km)
去靺鞨国界三千里              靺鞨国境を去ること 3000里(3240km)
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  西    此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将     この多賀城は神亀元年(724)に按察使・鎮守府将軍・
       軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置      従四位上勲四等の大野朝臣東人が設置し、
       也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山      天平宝字六年に参議東海東山節度使従四位上の
       節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守      仁部省卿兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝葛が
       将軍藤原恵美朝臣朝也                改修を行ったものである。
 
               天平宝字六年十二月一日                (西暦762年12月20日)

    里の換算: 律令制の時代は一里≒約1080m。上記した距離は単純にその数字を乗算している。
    靺鞨国: 六世紀に存在した中国東北部の国で、現在の北朝鮮北部から中国吉林省の一帯。
    鎮守府将軍: 北方(東北の蝦夷)防衛の司令官で、多賀城を築いた大野東人が初代だったらしい。天平九年(737)に6千の兵を率いて多賀柵から
出羽柵(秋田市)までの軍用道路を拓いている。
    按察使: 律令制の地方行政を監督する官職。数ヶ国の国守から選ばれ、その数ヶ国の行政監察を行う。
    参議: 太政官(司法・行政・立法を司る律令制の最高機関)の要職。長官(太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣)、次官(大納言・中納言・参議)の順。
    節度使: 臨時の地方軍政官。各道の軍団や兵舎や施設整備などを担当した。
    仁部省: 租税・戸籍・農地などを扱う民部省を中国風に呼んだのが仁部省。
    朝葛: 「葛」には「けものへん(「狼」の左側)」が付く。更に厳密には右下の「匂」が「何」で、口の部分が「ム」らしい。旧い漢字は面倒だね。


史跡の所在地 右:代表的な史跡の所在地 略図      画像をクリック→拡大表示
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源頼義 が奥州に於ける安倍一族の専横を鎮めるため陸奥守として赴任したのが永承七年(1052)、抵抗を続けた安部一族が盛岡の厨川柵の合戦で滅亡したのが康平五年(1062)の9月。足掛け11年続いた戦乱が「前九年の役」で、戦勝者である清原一族が内紛を起こした永保三年(1083)から、清原氏が滅びて 藤原清衡 が奥州の派遣を握った寛治元年(1087)までの足掛け5年間を「後三年の役」と呼ぶ。
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この戦乱は幾つかの側面を持つ。一つには東北を完全な統治下に置こうとした大和朝廷の戦略、二つには太平洋側の陸奥国を地盤とした安倍一族と日本海側の出羽国とした清原一族による東北の覇権争い、三つには関東から北上し陸奥国司着任による利権の獲得を夢見た源頼義と 義家親子の欲望である。
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結果としてこの時の源氏は東北の権益を確保できず衰退したが、100年が過ぎた文治五年(1189)に頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし、頼義が 安倍貞任 の首を打ちつけた例に倣って藤原氏四代当主 泰衡 の首を釘で丸太に打ちつけ、頼義・義家親子が成し得なかった奥州支配の夢を実現することになる。「頼朝のドヤ顔」が見えるようだ。
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【吾妻鏡 文治五年(1189) 9月6日】
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頼朝は(主人泰衡の首を持ち込んだ)河田次郎を斬罪に処した後に泰衡の首を懸けた。康平五年(1062)に頼義が安倍貞任の首を獲り、横山経兼と貞兼を介して郎従の惟仲に渡し八寸の鉄釘で丸太に打ち付けた、その旧例に倣い経兼の曾孫時廣に命じたものである。時廣の子息時兼が 梶原景時 から首を受け取り、頼義の郎従・惟仲の子孫である廣綱が旧例と同じように首を打ちつけた。
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藤原氏が滅びた奥州合戦は別稿で詳述するが、ここでは源氏と奥州の最初の接点・前九年の役について、陸奥話記から追い掛けてみたい。
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  ※陸奥話記: 成立は平安時代の後期で、頼朝挙兵よりも前。作者は不明だが随所に陸奥国からの国解(公文書)の引用があり、朝廷で公文書を読める立場
にある貴族と考えられている。後の軍記物語と異なり、陸奥国の俘囚を単純な反逆者としてではなく、討伐の任に当った官軍と対等の武人として描いているのが面白い。陸奥物語または奥州合戦記ともいう。



本題に戻って、 【 陸奥話記 】  具体的な事件に無関係の記述は省略した。左メニューの「奥州藤原氏の系図」も参照してね。

平安時代の中期、東夷(東国の蛮人の意味)の酋長と呼ばれた安倍忠頼を継いだ忠良の子・頼良が陸奥六郡を支配していた。権力を強めて衣川の南まで支配権を広げ、朝廷に税も納めず豪奢な暮らしを極めていたため、永承六年(1051)に陸奥守藤原登任が秋田城介の平繁成を先陣に数千の兵を率いて討伐に出陣した。安倍頼良は支配下の俘囚を集めて抵抗し、鬼切部の合戦で官軍を打ち破り多くの兵を殺した。
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   ※陸奥六郡: 胆沢・江刺・和賀・紫波・稗貫・岩手郡で、ほぼ現在の岩手県。平泉の衣の関で朝廷が国府を置いた多賀城の支配圏と接する。
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   ※藤原登任: 実戦経験に乏しいため着任する前年に平維茂の曾孫の武人・平繁成を秋田城介に推挙して 秋田城(教育委員会サイト)に赴任させていた。
秋田城址の 地図、天平五年(733)に国府が置かれた当時は出羽の柵と呼ばれた東北支配の拠点である。
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   ※俘囚: 7〜9世紀の大和朝廷進出で隷属した蝦夷(アイヌ民族を含むが、=ではない)。税の免除と食料・布の支給を受け、その代償として服従と特産物の
上納を義務とした。やがて無税特権を利用した交易などで財力を蓄えた集団の中から「俘囚の長」を称した陸奥の安倍氏や「俘囚の主」を称した出羽の清原氏などが台頭する。平安時代初期の東北ネイティブは 阿弖流為(アテルイ)に代表される武力抵抗を続けたが、平安時代中期にはほぼ同化していた、らしい。後に奥州の覇権を握った藤原氏の三代棟梁秀衡の長男国衡の生母も蝦夷だったが、正妻の藤原基成娘が産んだ異母弟泰衡が嫡男となっている。国衡の生母がネイティブの蝦夷だったのか、あるいは土着した大和系だったのかは判らない。
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   ※鬼切部: 宮城県大崎市の鳴子温泉鬼首大森平(地図)付近。現在の国道108号ルートで南下した平繁成軍を貞任と宗任が迎撃し撃破した。

敗戦の知らせを受けた朝廷は源頼義を追討軍の総大将にし、陸奥守・鎮守府将軍として安倍頼良討伐の任務を与えた。頼義が陸奥国に着任した永承七年(1052)5月6日に大赦があり、喜んだ頼良は名を頼時に改め、頼義に降伏して服従を誓った。こうして陸奥国は平穏を取り戻した。
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   ※源頼義: 羽曳野に土着した河内源氏の二代棟梁(人名辞典参照)。前九年役は奥州進出を狙った頼義の野望から始まった、と言える。
   ※大赦: 後冷泉天皇の祖母・上東門院(藤原彰子)の病気平癒を祈り永承七年(1052)に発布、安倍氏も朝廷に逆らっ た罪を赦された。
   ※頼時: 忠良の子で奥六郡を支配した俘囚の長。大赦発布後に頼義を憚って頼良の名を頼時に改めた。

頼義は任期を終える天喜四年(1056)に陸奥六郡を数十日間巡察した。安倍頼時はあらゆる饗応を行い多くの財宝を頼義に献上、頼義の部下にも多くの贈り物をした。国府の多賀城に戻る頼義一行が安久利川畔に野営した時に「陸奥権守藤原時貞の子息光貞と元貞が野営中に人馬を殺傷された」と密告する者がいた。そこで頼義は光貞を呼んで詳細を尋ねたところ、光貞は「以前に頼時の長男 貞任 が私の妹との婚姻を願った際に家柄が卑しいから許さなかった、これを恥とした貞任の仕業でしょう」と答えた。頼義は怒り、貞任を処罰しようと考えた。
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   ※多賀城: 陸奥国府と鎮守府が置かれたが平安中期には単なる軍事基地に変貌して徐々に衰退し、平安末期には藤原氏が白河関までを実質支配した。
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   ※安久利川: 現在の登米市と栗駒市にかけての伊豆沼北東側付近(地図)と考える説が有力。多賀城まで約60km、頼義の行程とも合う。

安倍頼時は一族を集め「貞任が愚か者であっても見殺しにはできない。頼義将軍と戦うことになって一族が殺されても悔いはしない」と語った。側近たちは「全くその通りで、土を積んで衣川関を封鎖すれば頼義将軍といえども突破はできません」と答え、関道の通行を遮断した。頼義は更に激怒し安倍一族の討伐の大軍を召集した。坂東の武者を始め数万の軍勢と補給部隊が集結し、陸奥国でこの挙兵に応じない者はいなかった。
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   ※衣川関: 安倍氏時代の関は現在の衣川区松下(地図)にあって軍事的意味合いが濃く、藤原氏の時代には中尊寺のある関山北の山裾(地図)に移って
交易と交通に利用する意味合いが強くなった。全体図はこちら(別窓)で。
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安倍頼時の娘婿 藤原経清と、同じく娘婿の平永衡は舅の頼時には従わず、手勢を率いて頼義の軍に加わっていた。軍勢が前進して衣川に近づいた時にある者が「平永衡は前任の藤原登任に従い陸奥に来て恩恵を受けたのに、頼時の娘を妻にしてから変節しました。鬼切部合戦の際にも登任の陣に加わらず頼時に味方した男ですから、官軍の動きを知らせているに違いありません。着けている銀の兜も頼時の軍勢に自分の位置を知らせているのでしょう。」と告げ口した。頼義はそれを信じて永衡と腹心四人を捕えて斬罪に処した。
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   ※藤原経清: 前九年役で敗死した後に妻(安倍頼時の娘)が七歳の遺児を連れ勝者の 清原武貞 に再嫁。安倍氏懐柔が目的か?
この遺児が清原氏の養子として成長し、一族の内部抗争を生き抜いて奥州藤原氏の初代 清衡 となった。
   ※平永衡: 伊具郡(宮城県南部)の豪族で郡司。下総の平氏系らしいが出自の詳細は不明、陸奥話記にのみ名前が載っている。

藤原経清 はこの事件を知って明日は我が身かも知れないと恐怖した。「忠義心の有無に関らず、永衡と同様の讒言があれば斬られるかも知れません、その前に頼時側に属くのが賢明でしょう」という部下の進言もあり、寝返りを決心した。まず最初に、「頼時は動きの早い騎兵を派遣して国府多賀城を攻め官軍の妻子を捕獲をしようとしている」との噂を広め、多賀城に妻子を残している頼義の部下が動揺して官軍が撤退するように仕向けた。頼義は部下の進言に従って数千の兵と共に国府多賀城に向かい、その隙に経清は手勢の八百人余りを率いて安倍頼時の陣に逃げ込んだ。
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天喜四年(1056)に頼義の任期は終わったが、後任の国司は戦乱が続いていると知って赴任しないため、朝廷は頼義を再任して討伐を続けさせるしか方法がなかった。陸奥国は戦乱に伴う飢饉に襲われ惨憺たる状態になった。頼義は官符(公文書)を発行し俘囚を集めて討伐軍を組織し、安倍頼時軍二千騎と二日間戦った。ここで流れ矢を受けた頼時は鳥海柵に戻って死亡し、頼義は「残兵掃討のため兵の徴発と補給の許可を求める」と朝廷に報告した。

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   ※頼時戦死: 頼義は気仙郡司の金為時らを(下北に)派遣し、屋(かなや)・仁土呂志(にとろし)・宇曾利(うそり)の俘囚を味方に引き入れた。
彼らは安倍富忠を首領として為時に従い、これを知った頼時は天喜五年(1057)7月に説得に向ったが、仁土呂志(青森県東部か)で奇襲されて負傷した。この傷が元で頼時は衣川館に帰る途中の鳥海柵で死んだ、とされる(陸奥話記)。頼時と富忠は従兄弟とも言われるが裏付ける資料はなく、縁戚関係を結んだ俘囚長だった可能性もある。
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   ※鳥海柵: 平泉から約20km北、岩手県胆沢郡金ヶ崎町の胆沢川北岸に確認されている(地図)。頼時が没してからは長男貞任が安倍一族の棟梁を継ぎ、
俘囚を指揮して頼義との戦いを続けることになる。

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河崎の柵 右:河崎柵跡(上)と、黄海合戦場の鳥瞰(下)   画像をクリック→拡大表示
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天喜五年(1057)11月(例えば、15日は西暦の12月12日に該当する)、頼義 は1800の兵を率いて(頼時の後継者)貞任の討伐に向かった。貞任は河崎柵に本営を置き、四千余りの精兵を率いて黄海で迎撃した。
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兵も少なく補給も途切れた官軍は大敗し数百人もの戦死者を出したが、頼義の嫡男 義家 が目覚ましい働きを見せ、貞任の兵は義家とは戦おうとはしなかった。やがて官軍の兵は戦死や逃亡のため頼義に従うのは僅か六騎、頼義・義家・藤原景通・大宅光任・清原貞広・藤原範季・藤原則明だけになった。
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佐伯経範主従・藤原景季・和気致輔・紀為清・藤原茂頼らが死を賭して戦い、頼義は辛うじて戦場を脱出した。

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   ※河崎柵: 現在の一関市川崎町門崎(地図)、北上川と砂鉄川の合流点近くに記念碑が建っている。
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   ※藤原景通: 義家に弓馬を教えた人物とも言われ、黄海で敵を食い止め討ち死にしたとも伝わっている。
加賀介に任じて加賀の藤原=加藤を名乗り、曾孫(または曾々孫)が 加藤景廉 の父 景員、一族挙げて頼朝の覇権確立に貢献し美濃遠山荘に所領を得た。
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黄海合戦場    ※黄海合戦: 河崎柵から約8km南東の黄海川北岸(地図)。頼義軍は多賀城から北上川沿いに約80km
遠征した。頼義軍は現在は黄海小学校のある裏山(白旗岡と称す)に布陣、貞任軍は北上川への退路を塞ぐ位置にある熊館に布陣し中間の平地(湿地帯とも)で戦ったらしい。
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現在の県道21号の東側は標高差100mほどの峠道だから北上川への退路を断たれた頼義軍は袋の鼠状態になる。どんな理由で、寒冷期に・寡兵で・地の利を得ず・黄海川沿いの湿地(海抜16〜18m・北上川岸との標高差5m前後)での合戦を選んだのだろう。
頼義の選択が単純なミスだったのか貞任の罠だったのか他に理由があったのか、不明。
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   ※藤原景通: 義家に弓馬を教えた人物とも言われ、黄海で敵を食い止め討ち死にしたとも伝わっている。
加賀介に任じて加賀の藤原=加藤を名乗った曾孫(または曾々孫)が加藤景廉の父景員、一族挙げて頼朝の覇権確立に貢献し美濃遠山荘に所領を得た。

同年12月に頼義は兵の補充と兵糧の支給を要請した。朝廷は出羽守の源兼長を更迭、援軍として新たに任命した源斎頼は動きが鈍く非協力的だったため頼義は攻勢に転じる術がなかった。貞任は陸奥六郡の支配を強め、経清 は武装兵を率いて衣川関の南に進出し、赤符に従って朝廷に納める筈の穀物を白符を用いて勝手に徴収した。頼義はそれを阻止することができなかった。
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   ※源斎頼: 清和源氏満政流(源満仲 の弟満政の子孫)で駿河守源忠隆の嫡男。娘は 頼政 の室(前妻)として嫡男仲綱 および女房三十六歌仙の一人
二条院讃岐(wiki)を産んでいる。
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   ※赤符と白符: 赤符は国府の捺印がある徴収符で全て国府の所有物である事を示す。白符は安倍氏の私的な徴収符で官物強奪を意味し、放置すれば
国府と大和朝廷の権威は失われる。

康平五年(1062)の春、頼義は事態を打開するため出羽国仙北郡の俘囚の長・清原光頼とその弟 武則 に協力を求めた。やがて頼義の陸奥守任期が終り後任の高階経重が赴任したが、国中が前任の頼義に服従して統治が進まず、無為に京へ戻ってきた。頼義は(臣下の礼を取るほどの態度で)光頼と武則に援軍を要請し、ついに7月に清原武則が一万の兵を率いて出羽国から陸奥国に入った。頼義は三千の兵を率いて栗原郡営岡で出迎えた。
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8月16日に陣容を整え、清原武則の子武貞を第一陣、武則の甥・橘貞頼を第二陣、同じく武則の甥で婿の 吉彦秀武 を第三陣、貞頼の弟・橘頼貞を第四陣、頼義を第五陣(頼義と武則と官人の三隊)、吉美侯武忠を第六陣、清原武道を第七陣とした。

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   ※仙北郡: 秋田県横手市一帯。前九年役終結後に武則は陸奥国に移り統治、兄・光頼は出羽国を統治。嫡子頼遠は後三年の役で義家に滅ぼされた。
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   ※栗原郡営岡: 現在の宮城県栗原市栗駒猿飛来の丘陵地帯(地図)と推定されている。多賀城と横手の中間にあたる。

官軍はまず磐井郡の萩馬場を経て五町離れた宗任の叔父・良昭が守る小松柵を攻撃、激戦の末にこれを落した。宗任が八百余騎を率いて清原武道の第七陣に攻め寄せたが迎撃して壊滅させた。安倍側の死者60人以上で負傷者は更に多く、官軍の死者は13人で負傷者は150人だった。
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   ※小松柵: 磐井川と久保川が合流する一関市萩荘谷起島の一帯(地図)。

小松柵を落としてから頼義は敵を追撃せずに兵を休ませたが食料が不足し、周辺の栗原郡や磐井郡に兵を派遣して穀物を収穫し飢えを凌いだ。食料を徴発するため部隊が分散し、本陣に残る敵兵が数千程度なのを知った貞任は9月5日に八千人以上の兵で総攻撃を開始したが、長期戦になって疲弊するのを危惧していた官軍はこれを好機と捉えて昼から日没まで激戦を繰り広げ、貞任軍は遂に敗れ百余人の戦死者と三百頭余の軍馬を残し(衣川の関に向って)退却した。武則は夜になっても追撃の手を緩めず精兵八百人余を率いて掃討戦を繰り広げた。激しい攻撃を受けた貞任軍は混乱し、多くの損害を出して小松柵から6km北にある衣川の関(前述)に逃げ込んだ。
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9月6日の昼、頼義軍は要害の衣川関に攻撃を開始したが落とせず、死者九人と負傷者八十余人を出した。武則は身軽さで知られた兵の久清に30余人の兵を与えて敵の撹乱を命じ、久清は藤原業近の柵に侵入し放火して焼き払った。混乱した貞任軍は70余の戦死者を残し衣川の関を放棄して鳥海柵(前述)に逃げ込んだ。翌日に官軍は衣川の関を突破して胆沢郡白鳥村に入り、大麻生野柵と瀬原柵を落とした

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   ※白鳥村: 北上川が大きく蛇行した奥州市前沢区に貞任の弟・白鳥八郎則任の居館(地図)があった。
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   ※大麻生野柵: 奥州市前沢区の北上川沿いに「舘」の地名がある付近と推定される(地図)。
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   ※瀬原柵: 奥州市衣川区の北上川の西・衣川の北に瀬原の地名があり、柵はこの周辺か。(地図

9月11日の早朝に官軍は鳥海柵を攻撃、宗任と藤原経清らは鳥海柵から退却して厨川柵に逃げた。頼義は鳥海柵に入って兵を休ませた後に安倍正任の守る和賀郡黒沢尻柵を落して32人の敵兵を殺し、さらに鶴脛柵と比与鳥柵を落した。15日の夕刻に官軍は厨川柵に着き、近くの嫗戸柵とともに包囲した。西北には沼地・東南には岸壁の様な川が流れる要害である。柵と川の間には壕を構え櫓を立てて準備を整え、その上で身分の低い女に歌を歌わせ嘲笑った。頼義は怒ったが、16日までに官軍が数百人の戦死者を出して攻めても柵は落ちなかった。
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   ※厨川柵:J R盛岡駅北西2kmの天昌寺町(地図)を中心にして城郭郡があったらしい。厨川・前九年・安倍館などの地名が残っている。
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   ※嫗戸柵: 身分の低い女たちが櫓に登り歌で官軍を侮辱した、つまり厨川柵の範囲に含まれる施設と推定できる。天昌寺の北700mほど、北上川に
沿った安倍館町の一帯(地図)と推定されている。
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   ※黒沢尻柵: 北上市川岸3丁目、北上駅と北上川に挟まれた黒沢川の右岸(地図)だが、遺構などは残っていない。
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   ※鶴脛柵と比与鳥柵: 諸説あって確認されていないが、安倍貞任の軍勢が北上駅そばの黒沢尻から北へ約40km離れた盛岡駅そばの厨川柵に退却して
いるのだから、その中間に設けられていた砦または出城だったのは間違いない。鶴脛柵は花巻市周辺、比与鳥柵は紫波町周辺の可能性が指摘されている。
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17日の昼過ぎに頼義の命令を受けた兵士が近在の家屋を壊して柵の周囲の壕を埋め、更にススキを刈って川岸に積み上げた。官軍は多くの矢を射ると共にススキに放火、炎が飛んで柵の建物に燃え移り、柵の数千人が川に飛び込んだり自殺したりした。官軍が川を渡って攻め込み、安倍軍が必死の覚悟で抗戦したため多くの死傷者が出た。武則は囲みを解くように命じ、敵兵は逃げるために抵抗が弱まり、官軍は思いのままに敵を殺した。
嫗戸柵の戦いで藤原経清が捕えられた。頼義は経清を引き据えて「お前の先祖は代々我が源氏の下僕である。それなのに朝廷に逆らい主家を愚弄するのは筋が通らぬ、今でも白符(私的な税の徴収)を使えるか。」と罵った。頼義は苦痛を長引かせるため鈍刀で経清の首を少しづつ斬らせた。

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   ※鈍刀: 錆びた刀あるいは刃こぼれした刀、あるいは鋸を差す。後世の鋸挽きの刑に準ずるか。
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安倍貞任 は太刀を振るって多くの官兵を殺した。官軍は鉾で貞任を突き刺し大きな楯に乗せて六人で担ぎ頼義の前に置いた。身長は六尺以上で腰周りは七尺四寸、容貌は立派で太った色白の体だった。頼義は貞任の罪科を罵り、貞任は一瞥しただけで絶命した。貞任の弟・重任は斬殺、宗任は深い泥に隠れて逃げ延びた。貞任の子・千世童子(13歳)は整った顔立ちで甲冑を着け勇敢に戦った。これを哀れんだ頼義は助命を考えたが、武則が「小さな事が大きな害を招きます」と諌めたため、その言葉に納得して斬り殺した。
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絹を纏い艶やかに化粧していた柵内の美女数十人は泣き悲しんでいたが、外に引き出され将兵に与えられた。則任の妻だけは落城する時に子を抱き、夫に先立って淵に飛び込んで自殺した。その後に貞任の叔父・安倍為元、貞任の弟・家任と宗任ら9人も投降した。

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   ※宗任と家任: 頼時の子は上から良宗(不詳)・貞任(嫡子・厨川次郎、戦死)・宗任(鳥海三郎、伊予へ流罪)・正任(伊予へ流罪)・
家任(頼時の弟良照の養子、大宰府流罪)・重任(戦死)・則任(白鳥八郎)・行任(二戸九郎 )・女(永衡室)・女(経清室)

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康平六年(1063)2月16日、安倍貞任 と重任と 藤原経清 の首が都に着き、京の辻々は見物人や牛車で溢れかえった。首を運ぶ役目の使者に従ってきた貞任の従者(捕虜)が首級の髪を梳かすため櫛の授与を願い、使者は私用の櫛を使えと答えた。従者は泣きながら「生前は神のように敬っていた主人の髪を私の垢じみた櫛で梳かすことになるとは」と嘆き、人々はその哀れさに涙を流した。
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同月25日に除目と勲功が行われた。源頼義 は正四位下伊予守、長男 義家 は従五位下出羽守、二男義綱は左衛門尉、清原武則 は従五位下鎮守府将軍、首を献じた使者の藤原秀俊は右馬允、物部長頼は陸奥大目となった。


この頁は2019年 8月31日に更新しました。