長興山妙本寺 比企一族滅亡の跡 

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【吾妻鏡 建仁三年(1203) 1月2日】
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頼家 の若公 一幡 が鶴岡八幡宮に参拝し神馬二頭を奉納した。神楽が行われ、巫女を介して以下の神託があった。
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  「今年中に関東に事件が起き一幡が家督を継ぐことはない。岸に生えた樹の根は既に枯れているのに人々はそれを知らず、梢の緑だけ見ている。」
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その後に頼家は隼人入道 三善康清 宅に初外出して蹴鞠初めを楽しんだ。メンバーは藤原清基、北條時房、六位進盛景(素性不明)、冨部五郎(御家人の戸部五郎兵衛か)、比企時員、細野兵衛尉。
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実際にこんな神託が事前に出たら大騒ぎになる。鎌倉で事件が起きる事と一幡は家督を継がない事は半年前の神託で判っていた、従ってこれは神仏の意思だから受け入れるのが当たり前...筋書きを捏造し権力者の立場で史実を歪曲する。地検特捜部みたいな、吾妻鏡のいやらしさ。

妙本寺の山門 右: 若宮大路方向から見た妙本寺周辺の鳥瞰    画像をクリック→拡大表示
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【吾妻鏡 建仁三年(1203) 9月3日】
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比企能員の残党を捜索し、流刑または死罪に処した。愛妾と二歳の男子は縁者の 和田義盛 が預かって安房国に送った。比企館跡では 頼家 側近の大輔房源性が 一幡 の遺骨を拾おうとしたが、焼けた死骸が散乱しているのみ。乳母の話では菊模様を染めた小袖を着ていたのが最後だった。源性は死骸の右脇に焦げて残った菊模様の布を見つけて首に掛け、奥の院に納めるため高野山に向った。
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  ※愛妾と子女: 頼家の妻妾とされるのは若狭局(一幡の生母)、一品房昌寛の娘(栄實禅暁の生母)、
足助重朝 の娘(公暁竹御所を産んだ辻殿)。正室は 為朝 の孫娘と伝わる辻殿から、嫡子の一幡を産んだ若狭局に移った。これは比企能員と比企尼による要請だろう。
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一品房昌寛は頼朝祐筆を務めた事務系の御家人、足助重長は墨俣川合戦で戦死した源氏の家臣。子供の年齢は1198年生れの一幡、1200年生れの公暁、1201年生れの栄實、1202年生れの禅暁、1202年生れの竹御所(生母は若狭局説もある)の順。安房に送られた二歳の男子とは栄實と禅暁を差すと思うが、確証はない。
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栄實は建保二年(1215)、禅暁は承久二年(1220)に幕府の討手に殺されている。頼朝の庶子 貞暁(高野山で死没)を除いた子女の中で只一人生き残った竹御所鞠子は28歳の時に13歳の四代将軍 藤原頼経 に嫁ぎ、4年後に難産のため母子ともに死没した。
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  ※一幡の遺骨: 吾妻鏡は母と共に焼死としている。愚管抄は、母に抱かれて館から逃げ、11月に 北條義時 の郎党が発見して刺し殺した、と書いている。
若狭局は火に追われ井戸に飛び込んで死んだ、とも。妙本寺参道を左に入った蛇苦止堂右手に残る井戸である。
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【吾妻鏡 建仁3年(1203) 9月5日】
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将軍頼家の病状はやや持ち直したが一幡と比企能員が殺されたのを知って苦悩に耐えられず、堀籐次親家 を使者として 和田義盛新田忠常 に時政追討を命じた。義盛は熟慮の末にその書状を時政に提出、時政は 工藤行光に命じて親家を捕らえ殺害した。頼家の心労は更に深まった。
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【吾妻鏡 建仁3年(1203) 9月7日】
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深夜、将軍頼家は剃髪し仏門に入った。大病を患い家門を治めることも危惧されるため(当人の意に反して)尼御台所(政子)の意向に従った。
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【愚管抄】  著者の慈円は関白藤原忠通の子で天台座主を務めた高僧。
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頼家を伊豆修禅寺なる山中の堂に幽閉した。大病のため8月末に出家して一幡を後継と定め、その通りに進んでいると思っていた。やがて病から回復して9月2日に一幡が殺されたのを知り太刀を取って立ち上がったが、病後のため母の尼が押し止め修禅寺に押し込めた。
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比企能員 の所領は頼朝の大恩人である 比企尼 との関わりもあって大きな改易はされなかったと思われる。焼け落ちた比企館の跡は放置されたか或いは公収されたか不明だが、後に能員の末子・能本(比企氏滅亡の際に2歳)による相続が認められた。
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一族滅亡の中で生き残った能本は京都で第84代順徳天皇の側近として仕え、18年後の承久の乱(1221)では佐渡に流された順徳天皇に同行している。寛喜二年(1230)に姪に当る竹御所が四代将軍 藤原頼経 に嫁いだため、比企一族として負うべき罪と承久の乱に連座した罪が許され、鎌倉に帰ったらしい。
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屋敷の跡に建つ 長興山妙本寺(公式サイト) の創建は文応元年(1260)、原型は文暦元年(1234)に没した竹御所の護持仏を祀った釈迦堂であり、竹御所の遺骸はその下に葬られたと伝わる。能本は京都の情報に詳しい学者として幕府に仕え、建長六年(1254)から鎌倉で布教を始めた 日蓮 に深く帰依して屋敷を寄進し妙本寺に改めた。 日蓮臨終の際に枕頭に置かれていた 三宝尊(外部リンク)を本尊とする。三宝尊(十界曼荼羅)の画像も参考に。


     

        左: 妙本寺参道の前を流れる滑川の右岸、本覚寺山門の前には夷堂橋の碑が建っている。碑文に曰く、
鎌倉十橋の一つで、昔は夷堂があったと伝わる。この川は上流で胡桃川、浄明寺門前で滑(なめり)川、文覚 屋敷跡と伝わる辺りで
坐禅川、本覚寺山門前で夷堂川、延命寺付近でスミウリ川と名付け、閻魔堂址の辺では閻魔川と言う。
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        中: 滑川を挟んで妙本寺と向きあう妙厳山本覚寺の山門(江戸時代の建立)。妙本寺と本覚寺を含めた小町大路〜名越の寺は日蓮宗が多い。
伊豆の伊東周辺や山梨の久遠寺周辺などと同様に日蓮の事跡に関るエリアは日蓮宗が多い、と言うより他の宗派は殆ど見られない。
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        右: 本覚寺の本堂。鎌倉時代の初期に大倉幕府の裏鬼門(南西)を護るため頼朝が滑川沿いに建てた夷堂(天台宗)が原型である。
日蓮が辻説法を行った場所に近い事から、室町時代になって宗派を改めて本覚寺となった。当時の敷地は小町大路から若宮大路まであったが
鎌倉時代には若宮大路に面した入口が禁止されていたため東側が山門になった、と伝わる。
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  ※鎌倉十橋: 十王堂橋・裁許橋・琵琶橋・筋替橋・歌の橋・勝の橋・針磨橋・乱橋・夷堂橋・逆川橋 を差す。橋の名から場所と由来が検索できる。
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  ※川の名前: 十二所の 明王院(wiki)北側が胡桃山、浄明寺は胡桃山の800mほど下流、文覚の館は大御堂橋を渡った右手、延命寺は若宮大路下馬東側、
閻魔堂は材木座の 九品寺(wiki)近くにあり、江戸時代の地震で倒壊して山ノ内に移転、これが現在の 新居山円応寺(wiki)となった。


     

        左: 鎌倉駅の東口から山門(惣門)まで約600m。段葛が始まるニの鳥居も近く、徒歩でも自転車でも廻れるから助かる。本覚寺門前にあった茶房
谷口屋(既に廃業)の横で滑川を渡ると突き当りの祖師堂まで真っ直ぐに参道が延びる。右側は妙本寺運営の比企谷幼稚園。
山門の裏で道が交差し、左は蛭子神社裏の琴弾橋北側へ、右は大町の 安養院(別窓)の方向に通じる。
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        中: 門前には比企能員邸址の石碑が建つ。「能員は頼朝の乳母比企禅尼の養子として禅尼と共にここに住んだ。比企谷の名はこれに依る。
能員の娘(若狭局)が頼家の寵愛を受け一幡を産んだ。建仁三年に頼家が病気になると母の政子が関西の地頭職を頼家の弟千幡(後の 実朝)に
分け与えようとした。能員は憤って北條氏の排斥を狙い、これが露見して逆に一族がこの地で滅ぼされた。」と。
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        右: 参道から山門の方向を振り返る。山門までの参道左右には住宅が並んでいる。撮影位置の右側路地を進むと蛇苦止堂で行き止まり。


     

        左: 山門を潜り両側に住宅が建つ参道を進むと鎌倉でも有数の広い境内。本堂は左側の高みにあり、坂上の石段を登り切るとニ天門に至る。
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        中: 二天門の左側から祖師堂をのぞむ。寺域は鎌倉散策の休憩スポットに最適。樹木が多くて夏は涼しいし、静かだし、境内拝観は無料だし。
トイレが汚いのが唯一の欠点、かな。禅宗寺院のトイレが概して清潔なのは流石、日蓮宗にも同じ程度の配慮はあって然るべきだ。
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        右: 二天門は江戸時代末期の嘉永年間(1848〜1854年)建立で総巾は約9m、左側に毘沙門天(多聞天)・右側に持国天を配している。


     

        左: 開祖の日蓮上人を祀る祖師堂は天保九年(1838)の建立で間口は約19m×奥行き約20m、鎌倉有数の大きさを誇る。
堂内中央の厨子には日蓮の直弟子・日法が刻んだ日蓮像(材料は池上本門寺と身延山久遠寺にある日蓮像と同じ木)が祀られている。
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        中: 総門右側の竹垣には頼家嫡子一幡の小袖の切れ端を葬った袖塚(五輪塔)。後の巨大な五輪塔は前田利家の側室・千代保の供養墓。
彼女(壽福院)は敬虔な法華経の信者だったことから、方々の日蓮宗寺院に慰霊の墓がある。
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        右: 右側の山裾には比企一族の廟所が設けられているが遺骸を葬った物ではなく、千代保と同様の供養墓らしい。


     

        上: 祖師堂左手墓所の奥にある竹御所(鞠子)の墓。父は二代将軍頼家、母(足助重長の娘)は為朝の娘とされるが、これには異論もある。
頼朝の血筋で最後に死んだ女性であり、現在は墓地になっている高みに彼女の館・竹御所があって、死後は館奥の新釈迦堂に葬られた。
新釈迦堂は既に失われ、本尊の釈迦如来像(伝・動かない巨船を造った陳和卿の作)は日蓮の遺宝と共に霊宝殿に納められている。
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頼朝の兄弟8人は全て戦死あるいは自害している。頼朝の子を上から順に見ると、千鶴丸は三歳で祖父(伊東祐親)に殺され、大姫は僅か20歳で
病死、頼家は暗殺、乙姫は14歳で病死・実朝は暗殺・貞暁のみ自然死(自殺説あり)、実子を残すことができた頼家の男子四人は全て殺され、
最後の竹御所が天福二年(1234)に病死。源氏は余りに多くの人を殺したからねぇ...因果はめぐる糸車、か。
名月記(藤原定家 の日記)は「死去の報が届くと在京御家人は動揺し多勢が鎌倉に戻った。平家の遺児を皆殺しにした報いだろう」と書いている。
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墓所入口の碑には「万葉集研究遺跡」とある。碑文に曰く、
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「ここは比企谷新釈迦堂、即ち将軍頼家の娘で将軍頼経の室となった竹御所の廟があった。供僧の権律師仙覚が万葉集研究の偉業を遂げた
僧坊である。竹御所の墓として置いてある大きな石は堂の須弥檀の真下に当る。堂はたぶん南向きで僧坊は西向きと思われ、西の崖下にある
窟は仙覚ら代々の供僧の遺骨を埋葬した場所だろうか。詳しくは「万葉集新考 附録 万葉集雑考」に書かれている。」


     

        上: 蛇苦止堂西の山裾、滑川対岸に建つ蛭子神社。本覚寺門前(夷堂橋)にあった夷堂が明治維新の神仏分離に伴ってここに移転した。
対岸の高台(つまり蛇苦止堂の辺りか?)に一幡の小御所があり、風が吹くと琴のような音を響かせた「琴弾の松」があった、と伝わる。
朱の欄干に彩られ滑川に架かっているのが琴弾(ことひき)橋。
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炎に巻かれ井戸に飛び込んで死んだ(伝承)若狭局の霊魂は50年後になって 北條政村(義時の四男で第七代執権)の娘に憑依し、瀕死の蛇が苦しみ
のたうち回る様な姿を見せた。政村は妙本寺の寺域に蛇苦止堂(じゃっくしどう)を建て、高僧の祈祷で霊魂を鎮めた、と吾妻鏡は記録している。
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【吾妻鏡 正元ニ年(1260) 10月15日】
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北條政村の娘が心を患い、今夜は殊に症状が重かった。比企能員の娘讃岐局(なぜか讃岐局と書く例が多いけど、若狭局の間違いだろ)の霊に
よる祟りだと自ら語り、比企ヶ谷の地中で角の生えた大蛇となり炎に焼かれる苦しみを味わっている、と。これを聞く人は総毛立つ思いだった。
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【吾妻鏡 同年 11月27日】
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北條政村は娘の患いを気遣って写経をして過ごした。比企判官能員の娘の祟りによる苦しみを少しでも軽くしようと考えての事である。夜になって
若宮の別当僧正を招き供養を行ったが、説法の最中に娘が発作を起こし舌を出して唇を舐め足を伸ばして這う蛇のような動きを見せた。
これは悪霊が現れたのであろうが、僧正の加持祈祷によって鎮まり、眠るようにして回復した。
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【妙本寺に伝わる、蛇苦止堂由来。 まさに蛇足だけど...】
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讃岐局は比企の乱の際に井戸に身を投げて死んだ怨みから蛇となり、人を害するようになった。ずっと後の世になって戦火が寺に迫ったため、
日蓮上人直筆の本尊を井戸に隠したところ、一匹の大蛇が現れて黒雲を呼び火を消した。以後その井戸を「蛇形の井戸」、戦火を逃れた本尊を
「蛇形の本尊」と呼ぶようになった。図らずも本尊を守った功徳で讃岐の局の霊も苦しみを逃れ成仏したと思われる事から、この祠を蛇苦止堂と
呼ぶようになった。癌や腫瘍・精神病など患った箇所を井戸の水で洗うと霊験がある、という。


     

        左: 山門を過ぎて最初の石段手前を左へ折れて細い道を辿る。案内表示が目立たない位置なので見落としがちだが、奥に蛇苦止堂がある。
        中: 周囲に民家が並ぶため昔日の面影はないが、北條政村が娘の回復を祈り若狭局の霊を鎮めたと伝わる蛇苦止堂。もちろん再建したもの。
        右: これが噂の、若狭局が身を投げた井戸。最近は心霊スポット扱いされているが、蛇の話はともかく自殺が本当だった可能性はある、かも。

この頁は2019年 9月25日に更新しました。