相模 中村宗平の本領 

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中村宗平 の本領は中村川に沿った中井町から小田原市東部にかけての一帯だが、館があった正確な位置は確定していない。推定できる代表的な場所は今回訪問した小田原市小竹の「殿ノ窪」と呼ばれる一帯(地図)で、東向きに開けた山裾に残る数基の五輪塔が一族の墓所があった遺構部分だと伝わっている。
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その他、馬場や矢場などの地名が残る中井町の五所八幡宮西の中村川を越えた久所〜田中の一帯(地図)や、五所八幡宮南側の荘司屋敷(字名)一帯(地図)などが考えられている。いずれも中村氏の守護神社で 頼朝 の祈願所の一つだった五所八幡宮から1km圏内である。五所の名は八幡宮を勧請した宇佐神宮・京都石清水八幡宮・鶴岡八幡宮・壺井八幡宮に続く五ヶ所目を意味するという。
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中村一族が初めて史料に記録されたのは天養元年(1144)10月。宗平は相模在庁官人と共に 源義朝 軍の主力として、隣接する鎌倉党の本拠地・大庭御厨(茅ヶ崎〜藤沢)に侵入し略奪を行った。中村荘は東側を鎌倉党(大庭・梶原・長尾・長江など)の大庭御厨、北側を波多野荘(現在の秦野)と接して各々敵対関係にあり、石橋山合戦は平家に属した鎌倉党と頼朝に味方した中村党の代理戦争でもあった。
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また 波多野義通 は保元の乱では義朝に従って戦ったが妹が産んだ義朝長男の朝長が嫡子を外れた事などで不和になり波多野荘に引き上げた。義通の嫡子 義常 は平氏に近い立場だったため頼朝に滅ぼされたが、平安末期には中村一族と対立軸にあった、と推定される。
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※鎌倉党: 中村党と同じく桓武平氏良文流を名乗るが、系譜の信頼性には両氏ともに疑問がある。
平良文 の子孫忠通が 源頼光頼国 に仕え村岡郷(現在の藤沢市村岡・地図)を本拠にして村岡五郎を名乗った。忠通の三男景成の子が 鎌倉権五郎景正源義家 に従って後三年の役を戦い勇名を馳せた武者である。景正は長治年間(1104〜1106)に相模国高座郡の南部を開拓、永久四年(1116)に伊勢神宮に寄進して大庭御厨を立荘した。
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天養元年(1144)以降になると三浦と中村党を率いた義朝が武力で大庭御厨占有、平治の乱(1159)以後は平家の後ろ楯を得た鎌倉党の支配に戻った。頼朝が挙兵した治承四年(1180)には平家側の 大庭景親俣野景久 の兄弟が鎌倉党を率いて戦い、頼朝勝利の後は景親兄弟を除く鎌倉党の大部分が頼朝御家人として服属し、大庭御厨は三浦一族や北條氏が領有する結果となった。

     

        左: 中村宗平館跡の可能性が高い「殿の窪」一帯。中村川と椿河原川が天然の濠を構成、約400m四方の丘陵が館の敷地らしい。
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        中: 丘陵の東を走る道路の南端、導入部分。すぐ上には秋葉神社、崖の手前を左折した斜面の久成寺は天正5年(1577)の創建で中村宗平とは
無関係だが、子孫が総研に関わった可能性はある。道が狭いから北側の椿河原川沿いの空き地に停めて歩く方が無難かも。
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        右: 200mほど進むと崖が途切れ、東に向って平坦地が開ける。ここが通称「殿の窪」エリアで、如何にも土豪の館跡の雰囲気がある。

     

        上: 平地の殆どは畑で、斜面に沿った奥の平場に五輪塔が並ぶ。周辺に散乱した墓石を一ヶ所に集めたのだろうと思うが、詳細は不明。
向い側の空き地になんとか駐車できるスペースあり。


     

        上: 五輪塔群は簡素な造りで適当に組み合せた形跡があり、誰の墓かも判らない。倒壊を防ぐため基礎部分をコンクリートで固定し一列に並べて
あるから、元の状態に配慮した訳でもない。館跡に建った寺が廃寺となり散乱した墓石を一ヶ所に集めて重ね合わせた、そんな感じか。


     

        上: 北側の椿河原川から丘陵を撮影。300mほど上流から丘陵に沿って一周できる農道が通じている。丘に登れる小道が数ヶ所にあり、頑張って
藪を掻き分ければ土塁の痕跡ぐらいは見つかるのかも知れない。


     

        左: 五所八幡宮は「殿の窪」と似た立地で、西側の中村川と東側の藤沢川の合流点から700m、南北に張り出した丘の南端に位置する。
南側の平地には荘司屋敷、中村川を渡った西側の田中〜久所には馬場・矢場などの地名が残っているから、五所八幡宮の裾が宗平の館で、
丘の上が詰め城だった可能性も充分にある。その場合は「殿の窪」に菩提寺があったのかも知れない。
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        中: 鳥居の右手に参拝用の狭い駐車場は殆ど塞がっている。藤沢川の横(鳥瞰図の「藤」付近)に停めて300mほど歩くほうが良い。
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        右: 創建は保元二年(1157)、平家隆盛の端緒となった保元の乱の一年後である。天台宗十八世座主・慈恵大師良源門下義圓の勧請と伝わる。
当初は頼朝祈願所61ヶ所の一つとされ、中村一族の守護神社として崇められた。


     

        左: 長い石段を登って10mほど高い平場の本殿へ。例大祭は4月29日、数台の山車を引き回す華麗なイベントらしい。
        中: 石段左側に鐘楼には戦争中の供出を免れた400年前の梵鐘(寛永六年・1629年鋳造)が残り、近在では最古と伝わっている。
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        右: 文明元年(1469)正月の火災で社殿は全て焼失し、辛うじて御神体と宝物の一部のみ救い出した。また太平洋戦争後に宝物類も盗難に遭い、
現在は 曽我五郎時致(弟)寄進の札がある弓一張を残すのみ、神社の由来や記録なども全て失われた。
社殿は文明十三年(1481年・足利義満の頃)に再建し、更に享保十七年(1732)にも再建、修理を重ねて現在に至る。

この頁は2019年 7月16日に更新しました。