仁田四郎忠常の本領 伊豆仁田 

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仁田忠常 の館跡は頼朝挙兵の際に最初の標的にされた山木判官 平兼隆 邸から約3km北の来光川西岸(地図)にある。現在も仁田を名乗る子孫が暮らしているが、周辺の発掘調査では当時の遺構は確認できず、江戸期の建物礎石・室町後期の井戸跡・後北条氏時代の堀や土塁の跡が出土している。
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屋敷北東の川底跡からは室町後期の陶器の破片、法華経を写した「こけら経」(死者を供養する経を書いた板)が多く出土している。館の規模はほぼ150m四方、北と西に堀と土塁を巡らし南と東は来光川を天然の堀とした構造で、北に隣接する慶音寺(現在は日蓮宗)との間には空堀が見事に残されている。
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仁田忠常は仁安ニ年(1167)生れだから治承四年の 頼朝 挙兵に参加したのは何と満13歳、伊豆から相模に向う軍勢の中に四郎忠常の名が見える。忠常の出自は藤原南家とされるだけでかなり曖昧で、他には新田(仁田)の名が見られないのを見ると一族の中では単独の参加か、伊豆に群居した弱小土豪の一人らしい。頼朝に忠節を尽くし頼朝没後は二代将軍頼家の側近として仕えたが、比企能員 謀殺の余波で殺されたのが35歳の働き盛り、意外に短い一生だった。

右:西側から見た仁田四郎忠常の本領 鳥瞰   画像をクリック→拡大表示
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 8月20日】   頼朝挙兵、忠常は若干13歳。
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台風などのため三浦一族の合流が遅れ、頼朝は伊豆と相模の御家人だけを率いて相模国土肥郷(湯河原)を目指した。従う者は...北條時政・・・・・・新田四郎忠常・・・・・・いずれも頼朝が頼りにする者である。それぞれ家を忘れ親を忘れると。
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13歳で挙兵に加わり、しかも新田(あるいは仁田、日田)を名乗る武者は彼だけだから出自は全く判らず、父母についても不明。館跡の西側・狩野川沿いに御家人・肥田(ひた)宗直(土岐氏庶流)に関係する字名があり肥田の地名も残っている。肥田→ 日田→ 仁田の関連があるか、ひょっとしたら庶流か。
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【 吾妻鏡 文治三年(1187) 1月18日 】  忠常、20歳
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新田四郎忠常が重病に苦しみ生死の淵にある。頼朝は見舞いのため彼の屋敷を訪れた。
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【 吾妻鏡 建久四年(1193) 5月28日 】  忠常、26歳  曽我兄弟の仇討ちに遭遇
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〜前段略〜 工藤祐経 と王籐内が兄弟に討ち取られ、同宿していた手越の少将や黄瀬河の亀鶴が叫び声を上げた。さらに曽我兄弟が「父の仇を討った」と大声で名乗ったため大騒ぎになった。宿直の侍たちは仔細が判らずに走り回り、兄弟によって多勢が疵を負った。
平子平右馬允、愛甲三郎、吉香小次郎、加藤太光員海野小太郎、岡部弥三郎、原三郎、臼杵八郎が負傷し宇田五郎らが殺された。兄の 十郎祐成 は新田四郎忠常と斬り合って討たれ、弟の 五郎時致 は頼朝の狩宿を目指して走った。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 9月2日 】  忠常、37歳  北條時政 の命令で 比企能員を殺す。 .
〜前段略〜 比企能員は招きに応じて時政の館に入った。玄関を通って北の客間に向うところを襖の陰に隠れていた 加藤景廉 と新田忠常が左右の腕を捉え横の竹薮に引き据えて刺し殺した。時政は縁先に出てこれを眺めた。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 9月6日 】  能員謀殺の4日後、些細な行き違いから 加藤景廉に殺された。或いは時政の意図か?
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時政は能員追討の恩賞を与えるため新田忠常を名越邸に呼んだ。忠常が夕刻に入ったまま夜になっても出て来ないため舎人が不審に思い馬を引いて屋敷に戻り弟の五郎と六郎に報告。二人は能員追討の前に将軍頼家が時政追討を命じたのが漏れ疑われて罪に問われたと勘違いし、義時邸に駆け付け戦って討ち取られた。忠常は時政の名越邸を出て帰宅の途中でこれを知り「こうなっては命を捨てよう」と御所に参上し加藤景廉に討ち取られた。


     

        左: 仁田家菩提寺の慶音寺山門の正面。伊豆箱根鉄道駿豆線の伊豆仁田駅から500m、畑毛の立ち寄り温泉 ゆ〜とぴあ函南 も近い。
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        中: 寺域の裏手は来光川まで続く墓地で左側は小学校、右側の木立が仁田家の敷地。約800年も続く家系である。凄いなぁ!
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        右: 境内と仁田家敷地の境には町の文化財として、空堀と土塁の跡がそのまま保存されている。室町時代前後の史蹟らしい。


     

        左: 現在の仁田家邸宅。門を入って庭の左手・土塁の横に忠常の墓所があり一般に公開されている。失礼のないように見学したい。
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        中: 中央に四郎忠常・左に五郎忠正・右に六郎忠時の墓石。ここに葬られたのか或いは慰霊の墓なのか、来歴は不明である。
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        右: 吾妻鏡には比企能員を殺した恩賞のため時政の名越邸に入った忠常の退出が遅いため怪しんだ郎党が屋敷に戻ってそれを報告した。
謀反を疑われて殺されたと思い込んだ弟が時政邸を襲って討たれ、それを知った忠常も駆けつける途中で加藤景廉に討たれた。
比企の乱直後の混乱の中で堀親家も 工藤行光 に討たれている。同郷の忠常と親家が共に同郷の景廉と行光に殺されたのは興味深い。


     

        左: 対岸から仁田館跡を。治水工事によって当時の流路は変っているが、来光川の下流域は伊豆でも有数の洪水多発地帯だ。
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        中: 史蹟発掘の全体図。堤防工事に伴って屋敷跡の南東半分は失われているが北側の空堀と土塁は見事に保存されている。
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        右: 堤防部分に表示された発掘の資料写真。堀の跡、出土した「こけら経」の状態などが記録されている。

この頁は2019年 9月26日に更新しました。