小山朝政が志田義廣の大軍を破ったと伝わる野木宮合戦の跡 

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右:藤姓足利氏の本拠・両崖山と、源姓の本拠・鑁阿寺の鳥瞰  画像をクリック→拡大表示
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※藤姓足利氏: 源姓足利氏との関係は複雑で簡単に説明できないが藤原秀郷が下野に台頭したのは910年頃で
平将門 を追討して下野守・武蔵守・鎮守府将軍を兼任したのは940年。
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藤原秀郷の子孫成行が天喜二年(1054)に現在の市街地西側の両崖山(福厳寺と両崖山(別窓)&地図を参照)に居館を構えて渡良瀬川の北側に支配権を確立し足利姓を名乗ったのが始まり、とされる。ただし平安時代の渡良瀬川は現在より1km近く南を流れていた、と推測されている。
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清和源氏が下野に勢力を扶植したのは 八幡太郎義家 が下野守に任じた延久二年(1070)が最初になる。この頃から下野の支配権は源氏に移りつつあったのだろう。
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秀郷から成行までの系譜は概ね下の通り、兼光から成行の間にはやや錯綜した部分が残っているが、足利(藤姓)忠綱 と戦った小山氏の系譜も藤原秀郷流で、元々は四代前で分かれた同族である。
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合戦の背景には下野の支配権を巡る源姓足利氏と藤姓足利氏の利害関係があり、共に藤原秀郷の子孫である藤姓足利氏と小山氏の争いもあり、他の地域と同じように源氏と平氏の代理戦争つまり朝廷や貴族社会に於ける既得権を巡る争いの側面もあった。最終的には 頼義 の時代から奥州の利権を狙っていた源氏が藤原氏系に代って下野への影響力を強めた事になる。
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籐姓足利氏・小山氏・佐野氏などの更に詳しい系図は 左フレームの「宇都宮 小山系図」を参照されたし。

    藤原秀郷───千常───文脩───兼光───頼行─┬─兼行───成行(足利)─┬─成綱───
                             │            │
                             │            └─家綱─────俊綱───忠綱───
                             │
                             └─行尊───行政──────政光(小山)──朝政───朝長───
      藤原千常・・・970年に鎮守府将軍、他に美濃守。本領は父から相続した小山荘寒河御厨(伊勢神宮領・現在の小山市。後に 小山政光 が領有)
      藤原文脩・・・永延二年(988)鎮守府将軍。摂関家に従った軍事貴族。従五位下・鎮守府将軍・下野国押領使
      藤原文行・・・兼光の兄。検非違使、下野守  寛弘三年(1006)に藤原正輔(顕忠(従二位・右大臣)の子)と争って罪を得る。
      藤原兼光・・・1012年から鎮守府将軍
      藤原成行・・・伊勢崎淵名城主(新田の西隣が淵名荘) 桐生氏・佐野氏・大胡氏の祖?

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野木神社 左:野木神社周辺、思川と渡良瀬川を含む鳥瞰   画像をクリック→拡大表示
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源氏相伝の領地だった足利の南部は頼義から義家が相続し、義家没後は二男の 義国 が西半分(新田寄り)を相続した。更に開墾した東半分を相続したのは四男義頼(義家の庶子または乳兄弟とも)、義家の乳母(日野有綱の娘)の夫・高階惟章の養子になって高階惟頼を名乗った人物である。この時点で足利には藤姓と源姓の足利氏が並立し、やがて源平の代理戦争に発展する危険を内蔵する構造になった。
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嘉承元年(1106)、源義家の四男義国は常陸合戦で叔父の 義光 に敗れて常陸国の支配権を義光流の佐竹氏に譲り、父から相続した足利領(南西部・本拠は現在の八幡神社(地図 付近か)に移住した。保延三年(1137)にはその所領を安楽壽院(鳥羽上皇系)に寄進して足利庄を立荘(康治元年(1142)説あり)した。立荘に当っては義国が上位の管理職である預所、藤姓足利氏がその下で現地を管理する下司職として協力体制にあったのだが、既得権を巡って相反する利害がトラブルを起こし始める。
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保延四年(1138)には高階惟頼を相続した嫡子の惟真が足利南東部の開発私領を伊勢神宮に寄進して梁田御厨とした。この私領を巡って藤姓足利氏は「領有を認めていない」とし、横領・強奪を行った。この行為に怒った高階惟真が両崖山城に夜討ちを掛けて反撃され討死してしまうが、この事件は直接両者の衝突とはならず、暫くは小康状態が続いたらしい。
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保元二年(1157)、金剛心院領として新田荘(領家は従一位太政大臣藤原忠雅)が成立し、下司職の 新田義重 は秩父足利合戦(1158年?)で秩父・藤姓足利連合軍を破り、更に源姓足利氏とタイアップして藤姓足利領を侵略する動きを見せたため藤姓の足利俊綱は平氏累代の武将藤原(伊藤)忠清に接近した。
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この効果は特になく、足利(藤姓)俊綱 は仁安年間(1166〜1169年、平清盛 全盛の頃)にある女性を殺害した罪に問われて下野国足利庄の領主職を没収され、新田義重が後任となった。俊綱は上洛して重盛に愁訴し結果的に返還されたが、平治の乱(1159)を挟んだ永暦二年(1161)には梁田御厨の所有を巡る訴訟で源姓足利氏が勝訴し、俊綱は所有権を失ってしまう。やがて落日の藤姓足利氏の足を、同じく落日の平家が引っ張る事になる。
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  ※源姓足利氏勝訴: 永暦二年の源姓足利氏当主は八歳の 義兼。初代の 義康 は保元二年(1157)に没しており、伯父の新田義重が政治的にも軍事的にも
バックアップしていた。義重は 平宗盛 の有力な家人となっていたため有利な裁決を得た可能性もある。
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治承四年(1180)5月には嫡子忠綱が宇治川合戦で 源三位頼政 軍を粉砕する功績を挙げ、平家の家人として源氏と戦う姿勢を見せる。この年の末には平家軍が富士川合戦で惨敗し、更に常陸の佐竹氏も討伐され、翌・養和元年(1181)には清盛が病没、頼朝が東国全域を席巻する。そして寿永二年(1183)2月、源氏の同族源(志田)義憲(義廣) が打倒頼朝の兵を挙げた。鹿島神宮の神領を略奪した件を(格下と考えていた)頼朝に咎められたのが発端、とされている。

【 野木宮合戦に関する吾妻鏡の記述。合戦当日(23日)分は本文に記載した。 】  以下、実際には寿永二年(1183)2月の記事。

   【 吾妻鏡 治承五年(1181) 2月27日 】
安田義定の飛脚が遠江国から到着。平通盛平維盛 ・ 薩摩守 平忠度 らが数千騎を率いて尾張国に進出、軍勢を派遣して防衛体制をとるべきか、と。
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   【 吾妻鏡 同じく、2月28日 】
源(志田)義憲廣 が常陸国鹿島神社の神領を略奪したとの報告あり。文官の散位(位階だけで官職なし)中原久経に命じて潔斎に務めるべしと申し送った。
また本日、和田義盛 ・ 岡部忠綱(岡部忠澄の祖父)・ 狩野親光宇佐見祐茂土屋義清 らを遠江国に派遣した。平家が軍兵を派遣したとの報告による。
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   【 吾妻鏡 同じく、閏2月10日 】
前の右大将 平宗盛の家人で検非違使の藤原(飛騨)景高が千余騎で頼朝討伐のため東国に向ったとの知らせが届いた。
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  【 吾妻鏡 同じく、閏2月17日 】
安田義定が和田義盛・岡部忠綱・狩野親光・宇佐見祐茂・土屋義清および遠江国の住人横地長重・勝間田成長らを率いて浜松庄橋本駅近くに到着。
頼朝の指示に従ってここ要害の地で平家の軍勢を迎え撃つ計画である。
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  【 吾妻鏡 同じく、閏2月20日 】
頼朝の伯父・志田三郎義廣は同族の交誼も忘れ、数万の軍勢を率いて鎌倉攻略を企んでいるのが発覚した。常陸国を出陣し既に下野国に入った、と。
平家軍の進撃に備えて主力の軍勢は駿河国西部の要所に派遣しているけれど下総国には 下河辺庄司行平、下野国には 小山朝政 がいる。彼らは命令しなくても武勲を挙げるのは間違いないのだが、朝政の弟 小山(長沼)五郎宗政 と従兄の次郎政平らが応援のため下野国へ出発した。政平が御前に参上して暇乞いをしてから出立したため頼朝は「政平は寝返りを考えているな」と推察した。果たして政平は宗政に同行せず脇道を通って義廣の陣に加わった。
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  【 吾妻鏡 同じく、閏2月23日 】
合戦当日の詳細記述。本文に記載してある。
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   【 吾妻鏡 同じく、閏2月25日 】
足利忠綱 は義廣に同意して野木宮合戦を戦った事を後悔し、郎従の桐生六郎を伴って上野国山上郷龍奥に数日間隠れた。その後は桐生六郎の忠告に従い西国に落ち延びたらしい。忠綱は無双の勇士として名高く、人より秀でた事が三つあるとされる。まず百人力と称される剛力、次に十里(6km)も届く大声、三つ目に長さ一寸(約3cm) もある歯である、と。
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   【 吾妻鏡 同じく、閏2月27日 】
頼朝が八幡宮に奉幣。志田義廣の件はどうなったかと呟くと剣を持って従った小山七郎朝光(後の結城朝光、当時数え15歳)が「志田義廣は既に朝政が滅ぼしたでしょう」と答えた。御所に戻ったところに下川辺行平と小山朝政の使者が到着し志田義廣の逃亡を報告、更に夜になって別の使者が敵の首を持って到着した。三浦義澄比企能員 に命じて腰越に首を晒した。
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事件は藤姓足利氏嫡男の忠綱が志田義廣軍に加わって敗れ逃亡した結果になり、半年後の父・俊綱追討へと続く。頼朝には抵抗の罪を問うだけではなく足利全域を源姓足利氏(当主は義兼)の統治に変える思惑があった。結果として下野国全域は源姓足利氏と小山氏・結城氏・宇都宮氏の支配下に入った。
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野木宮合戦当時の忠綱は20歳弱だから俊綱はせいぜい40代半ば、だろうか。壮年の俊綱は参戦せず一族の保全を諮った可能性があり、そう仮定すれば俊綱追討が野木宮合戦の半年後だった理由も理解できる。俊綱の帰順と赦免は 足利義兼が強硬に反対した。桐生六郎は先に忠綱を逃がし更に主人の俊綱を逃がすために偽の首を半ば腐らせてから鎌倉に持ち込み主人を殺したと偽った、これは斬罪を覚悟しての計画だったような気もする。

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もちろん俊綱が 小山政光(朝政の父)と共に在京(大番役かも)していた可能性もあるが確認はできないし、100%確証のない、全く個人的な空想に過ぎない。桐生には古い友人がいるので、何となく敬意を表してみた、という事(笑)。
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   【 吾妻鏡 養和元年(1181) 9月7日 】   以下は全て、実際には寿永二年(1183)9月の記事(吾妻鏡の編纂ミス)。
従五位下藤原俊綱(足利太郎俊綱)は武蔵守 藤原秀郷 の後胤であり、鎮守府将軍で阿波守に任じた兼光から六代後の子孫足利家綱の息子、数千町に及ぶ所領を支配する地域の棟梁である。にも関わらず仁安年間(1166〜1169年、清盛が従一位太政大臣に就いたのが1167年)に、ある女性を殺害した罪によって下野国足利庄の領主職を没収され新田義重が後任となった。俊綱は上洛して重盛に愁訴し結果的に返還されたが、その恩に報いるため最近は平家に臣従し、嫡男の又太郎忠綱は志田義廣に味方した上に俊綱は鎌倉にも伺候していない。頼朝はこれらの行為を容認せず、和田義茂に 三浦(佐原)義連葛西清重宇佐美(大見)實政 らを副えて俊綱追討を命じた。今日、まず和田義茂が鎌倉を出発した。
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※足利忠綱異聞: 元暦二年(1185年、8月に改元して文治元年)4月15日、鎌倉に無断で任官した御家人20数人を頼朝が悪しざまに罵った記事が載っている。
その中の一文に「兵衛尉忠綱には本領の一部を返してやったのに無駄になった、どうしようもない奴だ」との記述があり、文面通りに読むと 「没収した所領の一部を返還された忠綱」って、藤姓の足利忠綱だと思う。罪を許されて御家人に列していたんだね、きっと。その後の消息は不明。
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※数千町の所領: 一町歩を約1ヘクタールとして約5,000ヘクタールと仮定。現在の足利市は総面積18,000ヘクタールで半分は北部の山地だから
藤姓足利氏は当時の耕作地の少なくとも半分以上を占有していた強大な勢力と考えて良さそうだ。
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   【 吾妻鏡 同じく、9月13日 】
 
義茂の飛脚が下野国から到着。義茂が到着する前に俊綱腹心の桐生六郎が頼朝への忠義を示すため主人を殺して山に隠れた。捜索の結果出頭したが主人の首は直接鎌倉に持参すると主張して渡さない。処置の指示を求める、と。頼朝は持参を命じ、使者は足利に駆け戻った。
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   【 吾妻鏡 同じく、9月16日 】
桐生六郎が俊綱の首を持って武蔵大路に入り、使者を 梶原景時 に送って仲介を求めた。頼朝は鎌倉に入るのを許さず、深沢から腰越に向かうように命じた。次に首実検のため俊綱の顔を知っている者を求めたが誰もいない。佐野七郎が「下川辺政義 なら何度か会っている筈だ」と答えたため呼び出して確認を命じた。実検を終えた政義は「首を落としてから日数を経ているため様子が変わっているが概ね間違いない」と報告した。
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※武蔵大路: 深沢から梶原→化粧坂→窟小路を経て八幡宮前に至る、武蔵国方面からのメイン道路。150年後の 新田義貞の進軍ルートでもある。
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   【 吾妻鏡 養和元年(1181) 9月18日 】
桐生六郎が梶原景時を経由し褒賞として御家人に列してくれるよう願い出た。頼朝は譜代の主人を殺すのは大罪であるとして殺害を命じ、景時が首を斬って俊綱の首のそばに晒した。次いで俊綱の遺領についての沙汰があり所領は没収、妻子の本宅と財産は安堵する旨を定め、併せて帰順する俊綱一族と妻子・家臣には危害を加えず家屋財産を侵害しないよう命じた下し文を和田義茂宛てに発行した。


     

        左: 長い参道の中間付近には倒壊した鳥居の残骸。2011年の東北地震の被害か?と思ったが破断の跡が古そうなのでもっと前かも。
        中: 江戸時代には下総古河藩の篤い崇敬を受けた。社殿は文政二年(1819)に三代藩主土井利厚の寄進で約200年を経過している。
        右: 覆屋に保護された本殿の彫刻はかなり豪華で見事なできばえだ。その他、境内には栃木名木百選の大銀杏(樹齢1200年)もある。

この頁は2019年 7月27日に更新しました。