足柄峠の東麓、現在の南足柄市史跡公園に残る藤原範茂の墓 

 
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藤原範茂後白河法皇 の近臣だった範季の次男。範季(従二位)は 九条兼実 の家司でありながら広い交際範囲を持っていた。清盛 の姪を正室に迎え、
陸奥守に任じ、秀衡 の後任 鎮守府将軍として安元二年(1176)春から二年半 奥州平泉に在住、この頃に秀衡の庇護されていた 義経 とも接点を持った。
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また平治の乱で義朝が没した後に 頼朝 の異母弟 範頼 を引き取って頼朝挙兵の治承四年まで庇護下に置いた。文治二年(1186)に義経の逃亡を助け、
頼朝の圧力によって官職を解任されている。公卿としてはやや異色の存在だったと言えそうだ。
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範茂は 後鳥羽上皇 の寵臣と同時に姉の重子(修明門院)が産んだ順徳天皇の近臣でもあった。鎌倉幕府に対して批判的な立場だった父の影響に加えて
後鳥羽と順徳が幕府打倒を計画して承久の乱を起したのだから、範茂(享年は37歳)が積極的に関与したのはごく自然な結論だったと思われる。
正妻は 平知盛 の娘で嫡子の範継も乱に加わっていたが 泰時 の配慮により死罪を免れている。その後の消息は調べていない。
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県道74号の切通し交差点を西へ左折し、案内板に従って左へ登った突き当りが範茂史跡公園(地図)、それほど広くはないが静かな芝生と遊歩道、専用の
無料Pとトイレ棟を備えている。北側に隣接する善福寺は伊東祐光(祐親の次男で北陸篠原で戦死した 祐清 の子)が開いた、と伝わるのも面白い。
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一族の菩提を弔うため出家して法求房と名乗った祐光は国府津(小田原)で 親鸞 と出会って帰依し、延応元年(1239)に現在地近くに建てた阿弥陀堂が
発展して善福寺となったらしい。元々の本拠は大磯だったが、小田原北条氏が一向宗(浄土真宗)を禁制(1506〜1560年、主に二代氏綱の頃)したため
この地に移転した、と伝わる。蛇足だが、鎌倉の浄土真宗の寺は一ヶ所のみ、北鎌倉小袋谷の 成福寺笠智衆の墓所あり、共にwiki)のみである。
これは小田原北条氏の政策に拠る結果らしい。


     

        左: 緑地南側の少し盛り上がった一角が範茂の塚だったと推定されている。宝篋印塔が一基と大小の石碑が並んでいる。
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        中: 宝篋印塔は高さ約120cm、鎌倉幕府滅亡後の室町時代前期の作と推定されている。範茂を葬った塚の上に建てた慰霊の墓だろうか。
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        右: 塚のすぐ右手には欠損を含めて15基ほどの五輪塔が祀ってある。この付近から集めたものだろうが、ちょっと気になる存在である。

この頁は2019年 10月24日に更新しました。