範頼幽閉の跡 日枝神社の信功院と慰霊墓 

 
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日枝神社は 修禅寺(別窓) の鬼門(北東)を守った社で、現在は無住。創建は明らかでないが、修禅寺を開いた際に 空海(弘法大師)が鎮守を置いたとの伝承通りなら、大同二年(807)前後になる。ただし史実に基づけば、空海が留学僧として派遣された唐から帰国したのは大同元年(806)10月。20年の留学命令を無視して2年で切り上げたのだから闕期(けつご、けっき。期間に反した罪)の県議を受ける(結果として、罪には問われなかったが)。
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短期間で必要な仏法をマスターしたのは卓越した能力を示すものではあるが法に拠って入京は許されず、大同四年(809)まで大宰府の 観世音寺(wiki)に滞在を余儀なくされた。従って大同二年に伊豆で修禅寺を開くのは物理的には不可能、信仰は史実を超越すると考えるのならば、もちろん何でもOKだけれども。
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ついでに述べれば、大同四年(809)7月に入京した空海は大同五年(810)に国家鎮護の大祈祷、翌弘仁二年から三年(811から812)は 乙訓寺(公式サイト)の別当に任じるなど毎年の行動記録を残しつつ弘仁八年(817)の 高野山金剛峯寺(公式サイト)の開創に至る。その後も畿内各所で多くの足跡と執筆を繰り返した記録が明確に残っており、伊豆を訪れるどころか関西を離れた記録すら残っていないのが事実である。

右:範頼幽閉の跡・信功院跡と修禅寺 鳥瞰   画像をクリック→拡大表示
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さて...かつては同じ敷地だった修禅寺から日枝神社に行くには、一度山門を出て狭い商店街から改めて参道を登らなければならない。その石段の右側に、修禅寺に追放された 範頼 が住んだと伝わる信功院(修禅寺八塔司の一つ山王社)の跡を示す石碑がある。
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日枝神社は修禅寺の鬼門(北東)に位置し、空海の建立と伝わるが根拠は乏しい。明治初期(1868)の神仏分離令(正式には神仏混淆廃止令)発布に伴って修禅寺の管理から離れた。
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「保暦間記」に拠れば、曽我兄弟の仇討ち事件(別窓)が起きた富士の巻き狩りの際、鎌倉で留守を守っていた範頼は 頼朝 が殺された」との誤報を受けて嘆く 政子 に対して 「私がいる限り源氏は安泰です」と慰めた。実直な範頼は 「何があっても源氏を守る」という意味で話したのだろうが、事件後に「反逆の意図あり」と(たぶん意図的に)曲解されて信功院に幽閉され、間もなく討手を向けられて自刃した。
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修禅寺から伊豆の西海岸までは山越えのルートを約20km、東側は狩野・加藤・大見など頼朝腹心の勢力エリアなので幽閉には最適の場所である。
仇討ち事件は建久四年(1193)5月28日で範頼自刃は8月17日、頼朝の猜疑心が募ったのか、或いは同族が殺しあう源氏の宿命が招いた悲劇か、或いは政子と「北條時政 が仕組んだ源氏一族を蹴落とす芝居だろうか。
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4年前の文治五年(1189)に殺された 義経 の場合は独善的な行動が頼朝の怒りを招いた側面も否めないが、頼朝には従順だった範頼に特筆すべき落ち度はなかった。当時の習慣では同じ母から産まれた場合が兄弟で、身分の異なる女が産んだ子は原則として同じ扱いを受けない、その掟も理解して家臣の立場を甘受していた範頼...
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頼朝が義経や範頼を躊躇なく殺したのは「気に入らない家来を処分する」程度の感覚に従っただけ、なのかも知れない。しかも共に育った訳でもない異母兄弟が将来も味方でいるか、それとも地位を狙って敵に回るか...そう考えた可能性もある。もちろん東国武士団に政治の軸足を置かざるを得なかった時代だから、頼朝の立場もまだ磐石とまでは言えなかった。


     

岡本綺堂(wiki)著の紀行文「秋の修善寺」から引用 】
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午後三時、再び出て修禅寺に参詣した。名刺を通じて古宝物の一覧を請うと、宝物は火災をおそれて倉庫に秘めてあるから容易に取出すことは出来ない。
しかも、ここ両三日は法要で取込んでいるから、どうぞその後にお越し下されたいと慇懃(いんぎん)に断られた。去って日枝神社に詣でると境内に老杉多く、
あわれ幾百年を経たかと見えるのもあった。石段の下に修善寺駐在所がある。範頼が火を放って自害した真光院というのは、今の駐在所のあたりにあったと
いい伝えられている。して見ると、この老いたる杉のうちには、ほろびてゆく源氏の運命を眼のあたりに見たのもあろう。
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        左: 商店街に面した日枝神社の鳥居。ここの道路が最も狭くて路線バスも観光バスも通行禁止、普通車が何とか擦れ違える程の巾しかない。
しかも駐車場が少ないから600m手前の観光会館に駐車して歩く方が間違いない。駐車場の裏から桂川を渡れば車の少ない裏道を10分弱で
修禅寺の対岸に至る。先に指月殿や頼家の廟所を廻ってから修禅寺に参拝するルートである。
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        中: 参道右側の欅の横、一段高くなった石垣の上が信功院の跡。江戸時代に庚申堂に変わり、現在は名残の庚申塔が建っているだけ。
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        右: 実際の信功院跡はもっと下の道路に面した(昔は駐在所があった)辺り、と伝わっている。観光地の史跡は結構移動が激しいのだ(笑)。


     

        左: 明治四十四年(1911)発行の修善寺新誌(温泉地の宣伝誌・全53頁)に拠れば、「土地の者が範頼の墓を掘り返してその首を得たという。
今は廃墟となってその後は巡査部長派出所になった」 と。もちろん真偽は判らない。
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        中&右: 西側に隣接する修禅寺に比べると観光客は圧倒的に少なく、休日以外なら静寂に包まれている。根の部分が融合した樹齢800年の
「子宝の杉」だとか、右奥には静岡県天然記念物指定の 一位樫(いちいかし・画像) もある。樹高の表示はあるが何故か樹齢は不明)。


     

【 再び、岡本綺堂著の紀行文「秋の修善寺」から引用 】  修禅寺から少し離れた範頼廟所へ。
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朝飯をすました後、例の範頼の墓に参詣した。墓は宿から西北へ五、六町、小山というところにある。稲田や芋畑の間を縫いながら、雨後のぬかるみを
右へ幾曲りして登ってゆくと、その間には紅い彼岸花がおびただしく咲いていた。墓は思うにもまして哀れなものであった。片手でも押し倒せそうな小さい
仮家で、柊(ひいらぎ)や柘植(つげ)などの下枝に掩(おお)われながら、南向きに寂しく立っていた。秋の虫は墓にのぼって頻(しき)りに鳴いていた。
この時、この場合、何人も恍として鎌倉時代の人となるであろう。これを雨月物語式に綴れば、範頼の亡霊が現れて、「汝、見よ。源氏の運も久しからじ」
などと、恐ろしい呪いの声を放つところであろう。
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        左: 範頼の墓所は修禅寺から細い路地を10分ほど西に歩いた、修善寺の史跡の中では最も遠い場所にある。少し山側にあった若宮八幡が
元々の場所で、小さな石祠の中には左手に弓・右手に矢を持った稚拙な造りの古い像があった、と伝わっている。
範頼 の妻は 安達盛長 の娘で、その母は 頼朝 と男女の関係だった説もある 丹後内時 、その母は頼朝の乳母の一人 比企の尼 である。
尊卑分脈や吉見系図に拠れば、比企尼らの嘆願によって範頼の男子範圓と源昭は死罪を免れて吉見氏の祖になった、とされている。
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        中: 範頼の縁者が真光院(信功院)の遺骸をここに葬り鎌倉を憚って八幡神社を称した、と伝わる。明治十二年(1879)には小山清三なる
人物が墓を掘り返し骨壷を見つけたとの伝承はあるが詳細は不明、骨壷の行方も記録されていない。
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        右: 範頼の墓所から修善寺温泉街を。元の墓は更に高台にあったが昭和初期に道の狭い温泉街を迂回する道路を裏山中腹に造ったため本来の
石祠を山裾寄りに遷して新たに廟所を建造した。その近くにあった範頼の舅である安達盛長の墓は修善寺墓苑入口に遷されて現存している。
現在の墓石は日本画家 安田靫彦(wiki)氏のデザインによる昭和七年の作。鎌倉時代初期の五輪塔様式に配慮したとは思えない形だが、
氏は前田青邨(wiki)と共に 法隆寺金堂壁画(wiki) の模写にも携わった歴史画の大家、らしい。

その他、修禅寺周辺の情報は  修禅寺指月殿頼家廟所修禅寺奥の院安達籐九郎の墓独鈷の湯横瀬八幡社 を参考に。(全て別窓)
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関連して、2003年7月19日に修禅寺で行われた 頼家八百年忌の風景(別窓)も参考に。

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この頁は2019年 9月27日に更新しました。