加賀美遠光廟所 遠光(おんこう)寺 

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甲斐源氏の系図は
清和天皇貞順親王源経基満仲頼信頼義新羅三郎義光−次男逸見義清−嫡男清光−三男加賀美遠光(妻は和田義盛娘)−三男小笠原長清
清和源氏→河内源氏→甲斐源氏の支流小笠原氏の始祖が長清である。甲斐源氏の詳細系図はこちら(サイト内リンク・別窓)で。
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第56代清和天皇の第六皇子・貞純親王の子・経基王が源姓を下賜されて臣籍降下し、清和源氏の祖となった(第57代陽成天皇の子・元平親王説あり)。
長元二年(1029)に経基の嫡孫頼信が甲斐守として赴任し、その孫の義光も短期間甲斐に住んだとされる(確証は得られていない)。後に常陸国へ移って勢力を広げた経緯から義光が甲斐源氏の祖とされている。
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義光嫡男の義清常陸那珂郡武田郷(サイト内リンク・別窓、現在の茨城県ひたちなか市武田の一帯)を領有して武田冠者を名乗ったが、勢力を広げるにつれて古くから常陸を支配していた大掾氏と争って勅勘を受け、嫡男清光と共に甲斐国市河荘(サイト内リンク・別窓、現在の市川三郷町)に流された。流罪の名目ではあったが、これは曽祖父頼信以来の所領を持つ甲斐国への配置転換であり、この事件が実質的な甲斐源氏あるいは甲斐武田一族繁栄のスタートとなった。
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清光は甲斐国全域を手中に収めると共に多くの男子をもうけて各地に扶植し、嫡流の武田をはじめ逸見・加賀美・安田・平井・河内・曽根・浅利・八代の祖となった。清光の四男(清光の弟説もある)遠光は加賀美郷(現在の南アルプスIC付近)を領有して加賀美を名乗り、四男の長清は父の所領の一部(甲府盆地南東部の昭和町〜南部町)を継承して小笠原を名乗った。ちなみに、清光の嫡男(二男)信義〜嫡男(三男)信光を経た15代の後が戦国の雄・武田信玄。
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甲斐源氏の実質的な祖である清光の子孫についての概略。光長と信義は一卵性双生児と伝わる(異母兄弟説あり)。
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  長男光長は逸見氏の祖となったが鎌倉期の一族には不明な点が多い。庶流が甲斐に残り、直系の子孫は摂津・美濃・若狭・上総に移っている。
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  二男信義が武田を名乗るが嫡子忠頼は鎌倉で謀殺され信義も失脚。兄弟を排除し一族の弱体化と引換えに頼朝に協力した三男信光が武田を継承。
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  三男遠光は加賀美氏の祖となった。遠光長男・秋山光朝は妻が平重盛の娘だったなどで失脚、四男光経が加賀美を継いだ。
遠光二男の光行が南部氏・三男長清(妻は上総廣常の娘)が小笠原氏・五男経行が於祖氏の祖となった。
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  四男義定は安田を名乗ったが幕府樹立後の建久四年(1193)に嫡男義資の冤罪に連座して失脚、翌年に一族が滅亡。
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  五男清隆は平井を、六男長義は河内を、七男厳尊は曽根を、九男信清は八代を名乗ってそれぞれ甲斐に土着したらしいが詳細は調査していない。
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  八男義成(義遠、与一)は浅利を名乗って甲府盆地南東部(中央市豊富地区)を領有した。弓馬四天王の一人として知られ、越後城氏の娘板額を妻とした。
義成は源平合戦での恩賞として奥羽比内郡の地頭職を拝領しており、息子の一人が赴任して土着したと推定される。蛇足だが、アトランタ・オリンピックの女子マラソンに出場(優勝はエチオピアのロバ)した浅利純子氏は秋田県鹿角市(比内町から20km)の出身、当然ながら浅利与一末裔の一人だと思う。


     

        左: 甲府駅から甲斐住吉駅に向って真っ直ぐに南下する伊勢通りに面した総門は永慶寺(廃寺)から移設したものと伝えられている。
永慶寺は甲府市岩窪(武田神社近く)にあった甲府城主柳沢吉保建立の菩提寺。享保九年(1724)の吉保嫡男吉里の大和郡山移封に
従って移転し、総門は遠光寺へ・山門は旧跡近くの大泉寺(wiki・武田信虎(信玄の父)墓所あり)に移築された。
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        中: 本堂へ至る70mの参道は両側に桜が植えられ、春には花の名所として知られる。右側は遠光寺が運営する児童養護施設・立正光生園。
        右: 住職は代々加賀美姓を名乗って日蓮に関わる法事の一部で導師を務め、身延山に属する釜無川東の69ヶ寺を束ねるとされる。


     

        左&中: 本堂の裏手、白い築地塀を背にした遠光の廟所。堂々たる造りだが、数度の移転を繰り返しているため当初の姿とは異なるかも。
        右: 遠光の墓は他に長男光朝が領有した秋山郷(南アルプス市秋山)の熊野神社(光朝館跡)と、法善寺(館の跡)の近くにもある。