三浦に対する防衛施設か? 名越の大切岸 

 
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大切岸 左:名越(なごえ)切り通しと大切岸の周辺     画像をクリック→拡大表示
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現在確認できる大切岸は 猿畠山法性寺(日蓮宗公式サイト)墓地の裏手に残る約800m、高4m前後から最も高い場所では10mもの高低差がある。入り組んだ部分や崖上の平場は攻め寄せる敵兵に横矢を射掛けるための構造であり、平場の上に続く道は補給路の痕跡だとされていた。
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建久十年(1199)の 頼朝 死没後に実権を掌握した執権北條氏は有力御家人を次々に粛清していく。正治二年(1200)に梶原を、建仁三年(1203)に比企を、元久二年(1205)に畠山を、建暦三年(1213)に和田を滅ぼし、この時点で北條氏に対抗し得る勢力は三浦一族が残すのみと なった。
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大切岸は仮想敵・三浦の侵攻に対する防衛線と考えられていたが、今では石切場説が主流である。
現在確認できる垂直の崖は併せて1km弱、鎌倉時代中期には三浦氏の勢力範囲と接する十二所から逗子小坪の住吉城址(地図 永正九年・1512年に 伊勢新九郎(後の北条早雲) と戦った 三浦道寸(義同) の拠点)まで8kmも続いている、明らかに防衛戦であると、かなり短絡的に考えていた。
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ただし、大切岸の西を抜ける名越切通しが鎌倉に入る要路七口の中でも小坪口と共に鎌倉の南東部・つまり三浦との正面を固めており、どちらも騎馬武者一騎づつしか通れない隘路である。その上に、騎馬武者が通れるような道も存在しない山の中に、切り立った崖まで造る必要があったのかどうか。
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  ※要路七口: 名越、朝比奈、巨福呂坂、亀ヶ谷坂、仮粧坂大仏切通極楽寺坂稲村路 を含む)。色文字の場所は鎌倉が陥落した元弘三年(1333)に
新田義貞 軍と北條軍の間で実際に攻防戦が起きた場所を差す。
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三浦を仮想敵とする防衛線ならば、大切岸の築造は三浦氏と北條氏の関係に暗雲が懸り始めた1240年前後から三浦一族が滅亡した宝治合戦(1247)の間に限定する必要がある。三浦氏の侵攻を想定した大規模な軍事施設構築は三浦との合戦準備であり、当然ながら三浦側の対抗措置を招く可能性もある。戦略としては合理性に欠けるのではないか、と考えるのがノーマルだろう。
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いずれにしても名越ルートでの攻防は起きなかった。大切岸から切り出した(かも知れない)石材は鎌倉時代後期に頻繁だった土木工事や寺社の建設に利用されたと推定される。今後も繰り返される発掘調査で歴史のベールが一枚ずつ剥がされていくのだろう。

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大切岸 右:大切岸の周辺の鳥瞰図      画像をクリック→拡大表示
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私が最後に訪問した2003年は法性寺山門横の空き地に停めて名越切通しまでの約800mを往復した。その前は鎌倉逗子ハイランド西隅の幼稚園近くに路駐して切通しまで500mを往復したが、今も同じ方法が可能かは判らない。近隣に駐車場は少ないし、鎌倉でも不便な場所の一つである。次回はハイランドの西友に駐車して折りたたみ自転車で走ろうかとも思うが、この辺も坂が多いからねぇ。
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さて...建長五年(1253)4月に安房鴨川の 清澄寺(公式サイト)で法華宗を開創した 日蓮 は翌年鎌倉に入って布教を開始、文応元年(1260)7月には五代執権の 北條時頼立正安国論(wiki)を提出した。
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「現在続いている災厄(自然災害・疫病・飢餓)は全て、念仏教や禅宗などの邪教に起因する。唯一の正しい教えである法華経を国の中心にしなければ、必ず内乱や外国の侵略が起きる。」との建白である。名指しで非難された既存の宗教としてはこの攻撃を甘受する訳にはいかず、当然ながら反撃(草庵焼き討ち)に移る。
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日蓮が草庵を構えたのは現在の日蓮宗に属する 長勝寺安国論寺妙法寺(いずれもwiki)の辺り、有名な日蓮辻説法が行われた大町の近くである。
焼き討ちの実行者は概ね念仏衆(浄土宗信者)、計画したのは当時の鎌倉宗教界で指導的立場にあった極楽寺 忍性(真言律宗、1255年頃に鎌倉進出)、蘭渓道隆(南宋渡来の禅僧、1253年建長寺開山)、念阿良忠(浄土宗、1240年蓮華寺(現在の光明寺)開山)ら反日蓮グループで、事前の根回しを受けた幕府重臣も黙認+アルファの関与をした。日蓮は辛うじて草庵を脱出して下総に逃げ、ほとぼりが冷めてから再び鎌倉に戻って布教を再開したが、弘長元年(1261)5月に伊豆流罪となった。

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        左: 山門に架かる猿畠山(えんばくさん)の扁額は左右から白い猿が支える形。新編相模国風土記稿では3匹、どこかに一匹隠れているかも。
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        中: 本堂の近くに宗祖日蓮を祀る祖師堂が建っている。すぐ横には念仏衆から逃れて隠れた(或いは元々住んでいた)洞窟がある。
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        右: 法性寺の墓地裏から南北に向って延びる大切岸。崖下の平場は左手の法性寺墓地を除いて農地に利用されている。


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        左&中: 墓地から見上げる大切岸は海食崖だと推測する説もあったらしい。果たして崖を削り落した防衛線か、あるいは石切場の跡か。
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        右: 甲冑武者が垂直の崖を登るのは明らかに不可能だが、実戦には使われなかった。ここまで要塞化する必然性は確かに疑える、と思う。


     

        左: 法性寺の裏手から仮想敵の三浦領・逗子駅の方角を見る。正面に霞んでいるのは三浦半島中央の双子山(208m)だろうか。
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        中: こちらは大切岸の崖上から。中央には南に向う横須賀線と小坪随道を下って市街地に入る旧国道が見える。
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        右: 大切岸は南東の和賀江島に向かって緑の中に消えていく。峰の向こう側には名越(なごえ)切通しが森の中を南北に通っている。

【文応元年(1260)8月の松葉ヶ谷焼き討ち後の世情について
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   弘長元年(1261)....日蓮 は避難先の下総から鎌倉に戻って再び布教を続けるが幕府によって 伊豆国伊東に流罪 となる。
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   弘長三年(1263)....2月に赦免された日蓮は再び鎌倉に戻り、幕府への建白と他宗の批判を続ける。
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   文永五年(1268)....閏1月8日、蒙古の国書(服属を要求)が届くが幕府はこれを黙殺、更に1971年までに三度届いた国書も黙殺した。
モンゴル帝国の第五代皇帝クビライはその後に送った数度の国書も無視されたため武力侵攻を決定。
日蓮は執権の時宗・平左衛門尉頼綱・建長寺道隆・極楽寺良観などに書状を送り他宗派との公開討論を求めた。
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   文永八年(1271)....9月、極楽寺良観らの訴えがあり、幕府と他宗を批判した罪により日蓮は滝ノ口法難を経て10月に佐渡へ流罪。
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   文永十一年(1274) ..日蓮は春に佐渡流罪から赦免され鎌倉に戻り再び建白するが容れられず、絶望して甲斐の身延山に入った。
同年10月20日、モンゴル軍が博多に上陸したが激戦の末に大量の死傷者を出して撤退した(文永の役)。
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   建治元年(1275)....4月、クビライの正使5人が長門(山口県)に到着。9月、執権北條時宗は龍ノ口でこれを斬首。
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   建治二年(1276)....1月、クビライが南宋を滅ぼす。日本侵攻計画はとりあえずの延期となった。
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   弘安二年(1279)....クビライ派遣の使節団が服属要求の書状を持参。内容の確認後に全員を博多で斬首。
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   弘安四年(1281)....6月初旬、蒙古軍14万が再襲来。大宰府に集結し戦備を整えていた公称25万騎の幕府軍は優勢に戦った(弘安の役)。
同月30日から5日間は台風のため海上が荒れ、その後の掃討戦も含めてモンゴル軍は壊滅、損害は8割以上と。

この頁は2019年 11月 2日に更新しました。