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     「昔の都民」としては嘆くのみ、イカサマ政治家に騙され続ける 民度の低さよ。
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    アメリカ人を騙すトランプ、ロシア人を騙すプーチン、中国人を騙す習近平...安倍と小池に騙され続ける日本人。
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    杜撰な地上イージス計画安倍は中止の経緯を説明せず、今度は敵基地の先制攻撃だと!
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    配備計画の無駄金は1800億円、更に 違約金の数百億は税金から支出失政の代償を国民が払うのは当然 なのか?
    トランプに強要されて 安倍が爆買いしたF35戦闘機の総額は7兆円、維持費を加えると20兆円以上! これも当然か?
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    全ての国会議員は 改めて自ら襟を正さねば...河井夫婦の逮捕 を受け、襟を正さない泥棒総理 の貴重なお言葉(笑)。
    コロナ蔓延の真っ最中に、給付金・危機管理失敗・不祥事の説明を放棄 して国会を閉幕、嘘がバレたら得意の敵前逃亡
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    # 公明支持やめます落選運動の継続を!公明党が 全選挙区の公認候補を発表。勿論、山口代表に反省の言葉なし。
    公明党=カルトの創価学会、選挙では 学会婦人部が総動員。憲法は 宗教団体の特権と権力行使を禁止 している筈だ。
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    創価学会とゼネコン各社は 学会の施設建設を介して関係が深く、公明党議員が国交大臣の椅子を独占 し続けている。
    公明党は国交省行政を介して 学会に利益還元 している。立法権と行政権を握って 国費を盗む政党が庶民の味方か?
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    河井夫妻、買収容疑で逮捕買収の1.5億円は政党給付金血税を側近の買収資金に与える道徳心ゼロの安倍
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    仮病森友昭恵加計前夜祭捏造検察私物化愚鈍機密費国費泥棒
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    全てに安倍が関与。税金で泥棒飼ってるのと同じ!記録を改竄し 隠蔽し、支援者の犯罪をモミ消し、夫婦で国費を流用。
    森友の赤文字 は 籠池氏の講演全録。安倍夫妻 関与の証言赤木事務官の遺書内容と 完全に一致 する。 7月6日 6時半

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    首相補佐官 #和泉洋人(67歳)、厚労省大臣官房審議官 #大坪寛子(53歳)。年令や社会的地位に関係なく、恋は甘く楽しいのですが...
    公費で出張中にコネクティング・ルームで公認セックスなんて理解できん。こいつらの交尾シーン、想像するのも嫌だ。 文春オンライン を参考に。
    身内 (セフレ)血税を使わせ 権限まで与える なんて 鯛は頭から腐る を絵に描いたような世界だ。 腐ったリンゴは 樽のリンゴを全て腐らせる
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    従来は http://23.pro.tok2.com/~freehand2/frame-000.html、新サイトはhttp://kamakura-history.holy.jp/frame-000.html
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    現在は新旧両方にアクセス可能ですが 旧は障害が多発しているため2020年8月でレンタル・サーバーとの契約を打ち切ります。
    勝手ですが、早めのブックマーク変更と共に 変わらぬご愛顧と叱咤激励をお願いします。  1月 25日 サイト管理人 拝




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    ~ 頼朝の墓所。安永八年(1779)、子孫を称した薩摩藩主の島津重豪が大倉御所の法華堂奥に建立した。 ~
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               その壱.....頼朝は伊東を脱出して伊豆山(走湯権現)へ
               その弐.....再び韮山へ、そして頼朝と政子の出会い
               その参.....頼朝挙兵、各地の源氏も打倒平家を目指す
               その四.....頼朝の韮山挙兵にかかわる人々
               その伍.....韮山周辺に残る北條氏所縁の史跡
               その六.....土肥(湯河原)を経て石橋山の合戦へ
               その七.....土肥 椙山を逃げ回って安房へ落ちる
               その八.....頼朝の鎌倉入りと富士川合戦
               その九.....甲斐源氏・武田一族の興隆と衰退について
               その拾.....木曽義仲の興隆から粟津での滅亡まで
               その拾壱 ...須磨一ノ谷の合戦 平家一門 痛恨の敗北
               その拾弐 ...屋島の合戦 九郎義経の奇襲を受け再び敗北
               その拾参 ...壇ノ浦の合戦 平家一門の滅亡
               その拾四 ...九郎義経と白拍子・静(しず)の物語
               その拾伍 ...奥州の悲劇① 前九年の役で安倍一族が滅亡
               その拾六 ...奥州の悲劇② 後三年の役で清原氏嫡流が滅亡
               その拾七 ...奥州の悲劇③ 藤原氏三代と平泉文化が滅亡
               その拾八 ...鎌倉将軍頼朝、51歳で死没 事故か、暗殺か

    レジャースポットとして訪れる人は多いけれど 平安時代の末期から鎌倉時代の初めにかけて 伊豆の各地が中世日本史を彩る舞台になった事は余り詳しく知られていない。この紀行では1160年から1333年の間に残された歴史の跡、主として源氏の史跡を1ヶ所づつ自分の足で訪ね歩いている。平治の乱で平家に敗れた源義朝の子・頼朝が韮山の蛭ヶ小島に流されてから 鎌倉幕府が新田義貞によって滅ぼされるまでの約170年間の足跡。
    史跡以外のちょっとローカルな観光スポットや自然の香りや立ち寄り温泉などの情報も織り混ぜ、デジカメによる画像も少しづつ増やそうと思っている。
       ちょっと固い話、 平安から鎌倉の時代背景も参考に。

     
     その弐 頼朝は伊東を脱出して伊豆山(走湯権現)へ 


    熱海海岸の風景 左:熱海 ムーンテラス周辺の風景    画像をクリック→明細にリンク
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    「鎌倉時代を歩く 壱」では伊東祐親の討手を避けた頼朝が伊東を脱出して伊豆山権現に向かったまでを書いたので 「弐」(この頁)ではその続き、何かと噂に登場する温泉地・熱海から。
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    海岸のメインストリートは軒を連ねていた大型旅館の廃業が続き、現在では2、3軒の小規模ホテルの周辺にリゾートマンションが林立する姿になってしまった。団体客に依存した観光業者の思惑と長期ビジョンを示せなかった行政の無策が続いた結果である。一時は定住型マンション建設による人口増を目指していたようだが所詮は掛け声だけに過ぎず、並行してカジノ招致運動を展開するという矛盾。観光と定住型マンションとカジノの共存共栄なんて夢物語に過ぎないし、美味しい話は滅多にない事を悟るべきだろう。
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    個人的な好みとしては昔ながらの梅園・お宮の松・錦浦・ハーブガーデンを見て廻るよりも親水公園・伊豆山・姫の沢公園・日金山の方がお薦めできるのだが、いずれも特に観光客向きではなく、スケジュールにも少々の余裕が必要となる。更に観梅なら湯河原か曽我がお薦めだし、海岸の雰囲気を楽しむなら横浜周辺が楽しいし、温泉なら南伊豆や中伊豆だし、土産物なら伊東が豊富で安いし、ね。 もう20年近く住んでいるのだが...革新系の知事になってから市役所の動きも幾分は改善された。
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    さて、平安時代末期の伊豆に戻って...源頼朝 と熱海の接点はそれなりに多く残っているのが興味深い。韮山に住んだ頃の頼朝が仏典を学ぶため伊豆山権現へ通ったルートは現在の函南から日金山へ続く旧熱海街道、日金山からは伊豆山に通じる参道を利用していた。鎌倉に幕府を開いた後も伊豆山権現と箱根権現の二所に加えて三嶋大社への参詣は頻繁に行われており、吾妻鏡には頼朝に続く二代将軍 頼家 や三代将軍 實朝 もその行事を継承した記録が残っている。
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    北條時政 の曽祖父は現在の熱海に住んで阿多見四郎聖範 (阿多見四郎禅師・権律師) を名乗り、その子の時方は現在の和田郷(現在の熱海市和田。和田川の上流に 今宮神社(別窓)がある)に住んで和田四郎太夫を名乗った。時政が保元二年(1138)生まれなのを考えると聖範の熱海在住は永承の頃(1050年前後)、八幡太郎義家 と同時代の人だろうか。ただし北條の系図には改竄が多く見られる事を割り引いて考える必要がある。(北條=北条。以下、北條に統一)
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    ※禅師・権律師: 鎌倉時代の禅僧に贈った「禅師」は諡号つまり没後の敬称で、鎌倉五代執権 北條時頼 が創建した建長寺(公式サイト)の開山和尚として
    中国から招いた 蘭渓道隆 の死後に第91代後宇多天皇が贈ったのが最初と伝わっている。ただし平安時代の禅師は単純な尊称であり、権律師は(天台宗の場合) かなり下位の僧官に与える称号である。いずれにしろ聖範はそれ程高い身分ではないと考えられる。

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    伊豆山神社の風景へ 右:八月の深い緑に囲まれた熱海伊豆山神社      画像をクリック→明細にリンク
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    伊豆山神社(公式サイト)の伝承に拠れば、流人の頼朝が政子と出会ったのは伊豆山神社近くの小川に架かる橋なのだが、これは主役の二人が数寄屋橋で逢った「君の名は」(ちょっと古い比喩だね) みたいな作り話。伝承は更に、頼朝が伊豆山の住僧覚渕(加藤景廉 の兄弟)に師事した際に政子と出会い恋に落ちた、とも伝えている。
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    ちなみに、政子の名は建保六年(1218)の従三位叙任に際して父・時政の一字を転用して名乗ったもの。頼朝 に嫁してからは御台所、頼朝の没後は尼御台所と記録されているが、独身時代の名乗りは「時政の女(むすめ)」以外は伝わっていない。それが当時の一般的な風習だが、例えば「満劫」や「板額」などの例もあるし。
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      ※小川と橋: 現在は伊豆山温泉の国道135号に赤い欄干の逢初橋があり、下に逢初川が流れている。
    橋の画像は伊豆山権現のリンク先に掲載したが、もちろん名前だけで伝承とは無関係。
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    存在が史実じゃない出会い橋を「本物」と言うのは変だけれど、伊豆山神社の西300mの般若院近くに架っているのが本物で、これは下に記載した「伊豆山権現別院 般若院」を参照されたし。ただし「お宮の松」と同様にフィクションの世界だから、二人の出会いが真実だと思ってはいけない。
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    神話が語っている「逢初」は、初島に流れ着いた女神が海を渡って伊豆山に上陸し土着の男神と初めて逢った場所、それを意味している。
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    曽我物語の記述に従えば、伊東祐親 の討手を避けて伊東から逃亡した 頼朝 は伊豆に配流されて最初に定住した韮山に戻り北條邸に寄寓しているし、そもそも14歳の頼朝を数年間も監督していた 北條時政 の娘と初めて会ったのが伊豆山だなんて本来あり得ないのだが、今では 山木(平)兼隆 との婚礼の夜に政子が雨の中七里(約30km)の山道を走って伊豆山にいる頼朝の元へと逃げた、それがまるで史実のように語られている。
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    もっともこれは吾妻鏡の記述が原因しており、これは鎌倉時代の末期に吾妻鏡を編纂した人物が曽我物語の影響を受けて面白く脚色した、と考えるべき(石橋山合戦云々の部分を除く)。ついでに、「北條政子は(源氏の正嫡である)頼朝よりも判断力の優れた貞女」だとさりげなく強調しているのは明白に忖度発言だ。
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    【 吾妻鏡 文治二年(1186) 4月9日 】
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    (白拍子の) が反逆者である 義経を恋い慕う歌を演じるのを見て顔色を変えた頼朝を御台所(政子)が宥めた。「貴方が流人として豆州にいた時に契りを交わした際に父の時政は平家を憚って私を閉じ込めましたが、私は雨の暗夜をついて貴方の元へ逃げました。また石橋山合戦の際は伊豆山に隠れ貴方の生死も知らず途方に暮れていました。それを考えれば静の行動は貞女のあるべき姿、その想いを受け取め穏やかに鑑賞すべきでしょう。」と。

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    小田原城遠望 左:秀吉が築いた石垣山の一夜城跡と小田原城周辺   画像をクリック→拡大表示
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    白拍子・静についての詳細は「参」の後半に記載した。「映画 卒業」っぽい内容の政子に関する挿話は吾妻鏡編纂者の脚色と思われるが、この記述をベースにして「頼朝&政子の恋物語」が続々派生していく。
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    本題に戻って...本殿横には二人が恋を語ったとする「頼朝と政子の腰掛け石」がある。頼朝石や政子石は三嶋大社に1ヶ所・中伊豆に2ヶ所。那古谷毘沙門堂への路傍に1ヶ所、鎌倉将軍や御台所になっていない時代は暇だったようで(笑)、結構方々で腰掛けている。
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    伊豆山権現は鎌倉幕府開設後も頼朝と政子のみならず歴代将軍の篤い崇敬を受け、最盛期には僧兵3800人を抱える勢力を誇ったが、天正十八年(1590)の秀吉による小田原攻めの際には後北条氏に与したため全山が焼き払われ、その後は長く衰退が続いた。江戸時代初期になって徳川幕府の庇護により復興、家康が参拝に訪れた記録も残っている。伊豆山~小田原間は約20km、途中には土肥郷の 五所神社石橋山古戦場(共に別窓)、他にも 石垣山一夜城跡(小田原市のサイト)などの見所も点在する。
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    小田原魚市場2階の漁協直営 魚市場食堂 は本当に「安くて旨い」。私の知る限り、湘南から伊豆にある市場食堂では最もお薦めできる。お試しあれ!2019年末には公共の新しい飲食施設がOPENして評判を集めているが、私はまだ確認していない。
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    伊豆山神社のナギの木の葉は男女の縁結びに霊験あり、とされている。もちろん若い女性の参拝客も多いけれど、色眼鏡で眺めるせいか不倫カップルっぽい男女もチラホラと見える(本当だよ)。もしかすると結ばれぬ恋に悩む男女、かも知れない(笑)。いずれにしろ、三角や四角関係にはくれぐれもご注意を。
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      ※ナギ(梛): 枝に向き合う形で葉が付き、葉脈が縦に通っているため簡単に千切れない「縁結びのシンボル」。参道の両側などに植える習慣が日本各地に
    あり、熊野神社などでも御神木扱いとなっている。凪が同じ発音である事から船乗りの護符→ お守り→ 厄除けに使われ始めた。
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    伊豆山神社では雄株と雌株の葉を一枚づつ入れた護符を扱っている。効果の有無は兎も角として、木の葉は境内に沢山あるから原価はパッケージのコストだけで利益率は高い。コンパクトや鏡台に入れておくと霊験あらたか、としている。頒価は500円、通販では買えない。
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    本宮神社の詳細記述ページへ 右:伊豆山権現の原点 本宮神社      画像をクリック→明細にリンク
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    走湯山縁起(伊豆山縁起)に拠れば...応神天皇二年(271)に相模国唐浜(大磯)に三尺を越える丸い鏡が現れ、翌々年(273)に 松葉仙人がこの鏡を日金山頂に祀ったのが起源とされる。推古天皇三年(594)には海底火山の噴火に伴って熱湯が噴出したことから「走湯権現」の神号を受け、更に山頂近くで続いた噴火を避けて岩戸山(734m)の中腹に遷って「中の本宮」となった。
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      ※松葉仙人: 松葉などを主食にした修験者で山岳信仰の指導僧。詳細は 日金山東光寺(別窓)で。
    周辺の噴火など、天変地異への対応と密接に関係している人物だったらしい。
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    この「中の本宮」が現在の本宮神社で、日金山頂からの距離は直線で3km。現在の伊豆山神社からは約2kmだからほぼ中間にある。山頂にあった祠は「上の本宮」(日金山東光寺の前身だろうか)として残り、「中の本宮」は更に承和三年(836)に甲斐の僧・賢安によって現在の伊豆山神社の地に遷座した。
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    日金山と本宮神社を結ぶ本来の参道は既に途絶し、小さな社殿の周辺も無秩序な別荘開発のため古い時代の面影は残っていない。参拝には別荘が建ち並ぶ舗装道路から社殿の横に入る道が最も手軽で、本来の鳥居から社殿まで登る参道は地図にも記載されていない。今回は散々に迷った末に参道入口に辿り着き、かなり荒れた急傾斜を400mほど歩いた(自動車学校からのルート地図)。道が狭い上に少し先で行き止まりになるが、一の鳥居横()までは車で入れる。
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    安直なルートを選ぶなら神社西側のT字路近くに駐車して平坦な小道を100mほど歩けば境内に至る。朱塗りの粗末な本殿に納められている御神体は高さ50cmほどの石祠で、中に何を祀っているのかは確認していない。社殿の前と鳥居の下側に残っている磨り減った石段などが時代の旧さを感じさせるし、本来の参道から参拝すれば創建以来1200~1300年の歴史が刻まれているのを体感でき、一段と深い趣を味わえる。

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    般若院 左:伊豆山権現の別当寺だった 般若院      画像をクリック→明細にリンク
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    伊豆山神社前のバス通りを500mほど西に歩くと左にカーブする下り坂の右側に多くの五輪塔が並ぶ「千人塚」があり、その奥に走湯山般若院が建っている。密厳院東明寺(廃寺)の流れを汲む古刹である。
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    伊豆山権現で 頼朝 に仏典を教えた文陽房覚淵は般若院の前身だった密厳院東明寺の初代院主でもあり、頼朝旗挙げの際に 平兼隆 を討ち取った 加藤次景廉 の兄(第一部の挙兵にかかわる人々を参照)でもある。
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    石橋山合戦の直前には j政子 を自分の房に引き取って海沿いの阿岐戸郷に匿い、頼朝敗走後の平家軍の追求にも神域を盾に頑として引渡しを拒否し敗残の頼朝を箱根権現に逃がす手配まで行なった。湯河原の 土肥實平 一族と協力し、頼朝の再起に大きく寄与たした人物。
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    密厳院東明寺は伊豆山権現の別当寺で別当職が覚淵だったとの説が一般的だが、確認できる史料は存在しない。覚淵の墓は千人塚の中にある、とも伝わっているから伊豆山で生涯を終えたのかも知れない。
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    幕府の庇護が深まるにつれて支配権を巡る伊豆山内部の抗争も激しくなったらしく、縁起を改竄したり祭神を変更するなどの混乱があった。更に火災や兵乱、地震に伴う宗教施設の埋没などもあって伊豆山の正確な変遷は不明という他ない。鎌倉幕府成立前後だけの記録を吾妻鏡から拾うと下記の数ヶ所が見出せる。いずれも頼朝が挙兵した治承四年(1180)の記事。
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      ① 7月5日 頼朝が走湯山の住僧文陽房覚淵を北條邸に招き、仏に約束した法華経千部の読経が間に合わない旨を相談した。
      ② 8月24日 筥根山東福寺の別当を務めていた行實は頼朝の逃亡を助けた。弟の永實は土肥椙山に逃げ込んだ頼朝に食事を届け房に匿った。
      ③ 8月25日 永實の別の弟・智蔵房良暹は山木兼隆の祈祷師だった経緯から大庭景親に通じる恐れがあり頼朝一行は案内者と共に箱根から土肥へ。
      ④ 10月11日 政子が避難先の伊豆山阿岐戸郷から鎌倉に入った。頼朝の師である専光坊良暹も以前の打合せ通り共に鎌倉入りした。
      ⑤ 10月12日 八幡宮を小林郷北山(現在地)に遷した。とりあえず専光坊良暹を暫定の別当職に任命した。

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      ※二人の良暹: 頼朝に敵対した智蔵房良暹の消息は判らない。一方で伊豆山権現別当だった専光坊良暹は政子を伴って鎌倉に入り、小林郷北山に
    遷った鶴岡八幡宮の仮別当に任じている。別人だとは思うけれど同じ頼朝関連で良暹が二人いるのには多少の違和感があり、吾妻鏡に何かの作為があったかも知れない。伊豆山権現別当の名前と筥根山金剛王院東福寺別当の弟の名前が同じというのもねぇ...。
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    覚淵が開いた伊豆山の別院・密厳院は鎌倉時代以後に何度か焼失している。特に秀吉の小田原征伐の際は後北条氏に味方して伊豆山の堂塔全てが焼き払われ、徳川家康の時代に援助を受けて現在地に再建された。本堂前に並ぶ代々住職の石塔も再建以後か、旧密厳院から回収した物だろう。
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    本堂以外の庫裏などは最近になって新しく建て直され境内も整備されて古い面影を失ってしまったけれど、すぐ近くに残っている頼朝と政子の「逢初橋」は是非とも見ておきたい。国道135号の逢初橋は数十年前に名前を転用して建造した橋だがこちらは由緒正しい偽物(かなり古い橋ではあるが、ここで二人が出逢ったのは嘘、の意味)で、下に紹介した「密厳院旧跡」の方向から流れ下る小川(現在の逢初川源流近く)に架かっていた、と伝わる。

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    右:遠い昔に廃寺となった密厳院の跡      画像をクリック→明細にリンク
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    般若院から坂道を500mほど登った山裾の畑に古い墓石群が残っており、この一帯(地図)に本来の密厳院があったらしい。数十年前まで藪の中には古式の五輪塔や宝篋印塔が累々と埋まっており、新しくみかん畑を拓くたびに掘り出して東京方面へトラックで運び売り払った業者もいたとか。数百年間も伊豆山権現の墓域として畏敬を受けた場所なのだが、野放図な開発によって取り返しの付かない散逸となった。
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    中央右手の大きな石碑には「斎藤實盛の墓」と彫ってあるがこれは後の世に建てられたもの。この墓石群の下には古い石棺が埋まっているとの伝承もあり、古老の間にはこの上を歩くと祟りがあるとか何とか...実はその石棺こそが覚淵の墓、とも考えられている。行政には現状を維持して保存する計画もないらしい。
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    【 斎藤別当實盛、加賀篠原の合戦で討死 】 
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    寿永二年(1183)5月、倶利伽羅峠の合戦(別窓)に続く加賀国篠原の戦い(石川県加賀市篠原)を敗走する平家軍の中に踏み止まって戦う武者を見つけた 木曽義仲 の側近 手塚光盛 は名乗りを挙げて一騎打ちを挑んだ。その武者は「首を木曽殿に見せれば判る」と答えて名乗らずに光盛の郎党を殺すが、その隙をついた光盛に討たれた。光盛は「義仲さんが知っていると答えて名乗らず、髪が黒いので若者かと思えば顔は皺だらけ」と義仲に首を見せた。
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    彼は義仲の父 義賢 が武蔵国の大蔵合戦で 義朝 の長男 義平 に討たれた時、共に殺される筈だった幼い義仲(当時は駒王丸)を 畠山重能重忠 の父)や乳母夫の 中原兼遠 と協力して)救ってくれた恩人の斎藤實盛だった。義仲が二才の頃、つまり大蔵合戦が起きた久寿二年(1155)8月16日には既に白髪混じりだったから既に70才を過ぎている。老人扱いされるのを嫌がって髪に墨を塗っていたそうで...義仲は恩人の死を深く悲しんだ、と伝わっている。
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      ※實盛と義仲: 實盛は天永二年(1111年)生まれの72才、大蔵合戦当時は満44歳の壮年である。義仲の誕生は久寿元年(1154)。一月に生まれと
    仮定しても助命された時には1歳8ヶ月で恩人の顔を覚えていたとは考えにくく、兜内側の銘か知人の申し出で實盛と知ったのだろう。
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    記録にはないが、大庭景親 の弟 股野景久河津三郎との相撲で負け、石橋山では 佐奈田与一 に組み伏せられた武士)や 伊東祐親 の次男 祐清 ら、日の出の勢いの源氏に与せず敢えて落日の平家に殉じる道を選んだ多くの東国武者も篠原の合戦で落命した。
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    その後に実盛の子五郎・六郎兄弟が密厳院に遺髪を持参して供養したらしい。実盛が別当だった武蔵国幡羅郡の長井庄(熊谷市妻沼)には彼が建てた寺もあるのに、なぜ密厳院に葬ったのかは判らない。五郎と六郎兄弟には 頼朝八重姫 に産ませた 千鶴丸 の命を救い、その後は伊東の新井に 広誓寺 を建立した、との伝承も残っている。どこかに伊豆との接点があったのか、捏造か。実盛の兜は石川県小松市の多太神社が保存している 兜の詳細と画像を参考に。

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    黄海合戦場の鳥瞰図へ 左:蛇足・加藤一族の先祖が武名を残した黄海の合戦場   画像をクリック→拡大表示
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    【その他、伊豆山権現と鎌倉幕府の関わりについて】
     
    頼朝挙兵に従った 加藤景廉 の兄が 光員、他に密厳院東明寺の初代別当(院主)の覚淵(諸説あり)も兄弟で、他に弟源延も僧職を務め比叡山延暦寺に修行して伊豆山天台宗の中心人物となった。兄弟の父は 景員、先祖(祖父か曽祖父)の藤原景通(道)源頼義 に従う七騎の一人として勇名を馳せた人物である。
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    藤原景通は 八幡太郎義家 に弓馬を教えた人物とも、黄海で敵を食い止め(20歳で)討ち死にしたとも言われ、加賀介に任じて加賀の藤原=加藤を名乗ったらしい。景通の時代には美濃国にも所領を持っていたから、覇権を握った頼朝が加藤氏に旧領の美濃岩村を与えたのも自然な成り行きか。
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    頼朝はこの縁を通じて覚淵に師事し、覚淵は源氏嫡流を支えることによって伊豆山権現の更なる繁栄を図った。頼朝挙兵に際して政子を阿岐戸郷に匿い神域を楯に大庭景親の追及から守り通したのも、頼朝への援助と同時に阿多美聖範以来の北條一族と伊豆山の互助関係を重視した、と推察できる。
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      ※藤原景通: 前九年の役中盤の天喜五年(1057)11月、安倍貞任 の軍勢4000騎は 黄海(きのみ)の合戦(wiki)で源頼義軍1800騎を撃破した。
    敗走する頼義に従うのは僅か六騎、八幡太郎義家・藤原景通・大宅光任・清原貞広・藤原範季・藤原則明だけ。佐伯経範主従・藤原景季・和気致輔・紀為清・藤原茂頼らが死を賭して戦い、頼義は辛うじて戦場を脱出した。(陸奥話記(別窓)に拠る)
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    景廉の長男 加藤太景朝 は遠山荘を継承して岩村城(地図)に土着し、後に遠山左衛門尉景朝を名乗って遠山氏の初代となった。本家は小藩ながら苗木遠山氏(一万石・中津川市苗木)として明治まで続き、分家の一つ明知遠山氏(恵那市明智町)は旗本として徳川幕府に仕えた。TVの人気者で知られた江戸町奉行の遠山金四郎景元は明知遠山氏の分家の末裔に当る。
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    しかし、降雪が始まる時期(例=11月15日は西暦の12月12日に該当)に寡兵を率いて90kmも離れた敵地深くに遠征し、しかも北上川から離れた変な位置に布陣した挙句に惨敗を喫した頼義も噂ほど有能な指揮官ではなさそうだ。讒言に従って味方を斬ったりしてるし...これじゃぁ清原氏に出兵を懇願しなければ安倍氏にはとても勝てなかった、そのレベルの武将だった、かも知れない。何度か巡ってきた勝機を逃した安倍一族の詰めも甘かったけど。

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     その弐 再び韮山へ、そして頼朝と政子の出会い(再会だった筈だね) 

     
    【 曽我物語 巻二  頼朝、北條へ出で給ふ事 】   
     
    頼朝 は密かに伊東を脱出した。八月下旬、草の露や風の音が一人の身には物悲しく虫の声さえ哀れである。月も出ていない夜に道を変え迷いながら八幡大菩薩に武運を祈りつつ夜通し走り続け、やがて 北條四郎時政 の許に逃げこみ彼を頼って年月を送るようになった。
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    ここで曽我物語は大きな矛盾を見せる。「北條時政の許に逃げ込んだ」のなら、次の章に記述してある「藤九郎盛長 に命じて時政の娘に艶書を送った」のは不自然になってしまう。いくら時政が大番役のため京にいて留守でも、北條館に滞在していながら同じ館に住んでいる娘に艶書を送る筈がない。蛭が小島以外の韮山近辺で居候ができる場所に転がり込んだと考えるのが合理的である。
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    たぶん 比企の尼 が頼朝支援の拠点にしたと伝わる函南の 高源寺 か、文覚所縁の 毘沙門堂(共に別窓)があった那古谷寺(安養浄土院)か、後に挙兵に加わった牧之郷の 加藤景廉 邸か、柿木の 狩野城(別窓)に本拠を置く 狩野茂光 かの庇護を受けながら時政の留守に乗じて手を出したのだろう。伊豆流罪の当初に頼朝の監視役を務めたのが北條時政だったし、同じ韮山の近距離で数年を過ごしながら時政の娘と面識がなかった筈はない。
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    ちなみに、14歳の頼朝が伊豆韮山に流された時の政子は4歳前後、10歳に成長する頃までは狩野川沿いの同じエリアで過ごしていたことになる。

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    左:守山の北麓、北條館跡の発掘現場      画像をクリック→詳細にリンク
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    南側から見た北條邸跡の発掘調査現場(2019年には終了している)。右奥へ山道を辿ると小さな展望台のある守山の頂上を経由して真珠院の近くに下る、傾斜の多い守山遊歩道となる。
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    守山に登らず史跡に沿って左に迂回すると、源平時代から300年後の明応2年(1493)の夏(秋とも)に駿河で兵を集めた伊勢新九郎(後日の 北条早雲、wiki)が伊豆に攻め込み、足利茶々丸を殺して戦国時代の幕を開けた「堀越(ほりごえ)御所の跡」や「政子産湯の井戸」の横を通って願成就院へ至る。周辺の地図 には平安時代末期から鎌倉時代にかけての様々な史跡が点在している。散策が楽しいエリアだ。
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    守山の西側は狩野川だから、堀越の名は守山の東側に水路があった事を意味している。
    この水路が守山南麓の 真珠院(別窓)付近から狩野川か支流古川の水を引き込んだ濠だった、或いは狩野川の本流だった、頼朝が住んだ流刑地がこの近くにあった筈だなど、郷土史家の間では諸説が入り乱れているらしい。
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    時代は一気に江戸幕末まで飛んでしまうが、韮山代官の江川太郎左衛門の旧宅と反射炉がイチゴ狩りと並んで韮山観光で最も人気の高い定番スポットだ。
    江川家の代々当主は全員が太郎左衛門を名乗っており、その中でも幕末に反射炉を築造した37代英敏とその父・36代英龍が名高い。
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    江川氏は清和源氏の祖である 源経基 (経基王・897~961)の孫・頼親を開祖と称している。当初は宇野を名乗り、一族が伊豆韮山に定住した平安末期に当主の宇野治長が頼朝の挙兵に協力した功績によって江川荘を与えられ伊豆中央部に勢力を伸ばした家系である、と。宇野→ 江川に姓を変えた室町時代から数えると約600年、現在の当主は第40代の太郎左衛門なので系図全体を辿れば実に1000年を超える。
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    ただし江川家が主張している系図が確立したのは江戸時代の寛政年間(1789~1800年)前後で、源氏の末裔説はかなり疑わしい。確かに家系の旧さは伊豆地方では群を抜いているのだが、途中で家格を高めるための恣意的な捏造があったと考えるのが常識的な結論だろう。

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    右:圓成寺の鐘が残る、江川家菩提寺・本立寺     画像をクリック→詳細にリンク
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    閑話休題、再び鎌倉時代に戻って...
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    頼朝挙兵から四半世紀が過ぎた元久二年(1205)閏7月、幕府内の権力闘争に敗れた 北條時政 は実子の 義時政子 によって韮山に追放され、10年後の嘉禄元年(1215)に北條館で生涯を終えた。
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    時政が三代将軍 実朝 を廃して娘婿の 平賀朝雅(時政の後妻 牧の方 が産んだ娘の夫で 新羅三郎義光 の子孫だから継承資格はある)を将軍に就ける計画を練ったのは事実らしいが、その背後には時政の権勢に便乗して発言力を伸ばした後妻グループがあり、その排除を図った先妻の子(政子・義朝)の計画があった。
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    ただし、この筋書きを描いたのが時政自身だった可能性も捨て切れない。牧の方に踊らされた振りをして 畠山重忠 を追討し、重忠謀反の冤罪を企んだ名目で武蔵国支配の邪魔になる稲毛氏や榛谷氏を滅ぼす。あとは引責辞任を装って韮山に蟄居し、義時への全権委譲をスムースに済ませて北條氏の支配体制を磐石にする...時政最後の大芝居だった可能性もある、かも。そんな策謀を想像させる人物である。
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    まぁ素直に考えれば牧の方が産んだ政範(15歳)の官位は従五位下、この時41歳の 北條義時 が同じ従五位下だった事を考えると、時政が嫡子は政範だと考えていたのは間違いない。政範が元久元年に突然の病で没したため嫡子計画は頓挫したが、それならば歴然たる清和源氏の血筋を引く娘婿を将軍に、と考えたのだろう。政子と義時の心は煮えくり返ったと思うけどね、今まで散々苦労した挙句に後妻の子に家督を奪われるのか...と。
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    畠山重忠の謀反冤罪事件を経て時政は失脚し、その時政夫婦を韮山に追放した義時・政子連合が幕政の実権を掌握した。義時邸の跡は狩野川を越えた東側、若き日の本領だった江間地区に残っている。鎌倉幕府の樹立後は別邸として使われていたと思うが、勿論ここに常駐はしていない。
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    更に下って頼朝挙兵から150年後の元弘三年(1333)に 新田義貞 軍が鎌倉幕府を滅ぼしたとき、九代執権貞時 の側室で十四代執権 高時 の生母・覚海圓成(安達氏出身)が韮山の時政邸地図所有を安堵されて尼寺(圓成寺・円成寺)に改め、鎌倉陥落を生き延びた女性と共に定住し北條一族の菩提を弔っている。
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    後に関東管領上杉氏の娘が圓成寺で落飾した記録があるため、室町時代の1440年前後まで存続したのは確認できるが、その後(江戸期か?)に廃寺となった。覚海圓成が寄進した圓成寺の鐘はその前後に江川家菩提寺の本立寺に移されている。守山北麓に存在した圓成寺はまさに忘れ去られようとしているけれども、本立寺梵鐘の側面に鋳込られた圓成の名は鮮明に確認できる。

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    左:政子産湯の井戸と堀越御所の跡   画像をクリック→詳細にリンク
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    真珠院から守山を西へ、願成就院の反対側を迂回して狩野川沿いに下ると 政子 の生家である北條館跡に至る。発掘調査区域に続く低い山の北東麓には政子が産まれた時に使ったと伝わる「産湯の井戸」 が私有地の片隅に残っている。政子は 北條時政 の長女として保元二年(1156)にこの地で生まれた、と。
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    この井戸水は昔は安産に効能があると伝わっており、妊婦のいる家ではこの水を汲んで安産を祈る風習が近年まで残っていた。ただし如何にも古そうに見えるこの井戸が本当に時政の時代から使われていたかどうかは甚だ疑問で、素材や構造からは江戸時代中期まで遡るのが限界らしい。各地の史跡にも見られる「誰々の産湯」と称する井戸の一つに過ぎない可能性がかなり高い地図
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    この近くには狩野川の古流路の一部または堀が南北に通っていた痕跡が確認されている。現在は完全に住宅地に変貌しているため遺構などは確認できないが、田方盆地を南北に走っていた主要道・牛鍬大路を起点にして「堀を越えた地」に建っていたのが後世の堀越御所なのだろう。
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    しかしこの堀が築かれた年代も漠然としており、狩野川の古流路や流路の変遷も完全には解明されていない。「守山の西側を流れ下る現在の狩野川は鎌倉幕府開設後の1200年代の治水工事で守山を開削したもので、それ以前は現在の駿豆線が走る辺りが本流だった」との主張もあるのだが地質学的な痕跡は確認できず、吾妻鏡などの史料にも該当する記録は見当たらない。
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      ※牛鍬大路: 頼朝が挙兵した治承四年(1180)8月17日の吾妻鏡には「今日は三嶋神社の祭礼で、参詣者の往来が頻繁な牛鍬大路では怪しまれる恐れが
    あるから...」と北條時政が提案した、とある(吾妻鏡は鎌倉時代末期に日記形式で編纂)。牛鍬大路は当時の下田街道の一部らしい。
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    【曽我物語 巻二  時政が娘の事】
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    時政に三人の娘がいた。一人は死んだ先妻の子で21歳、二番目と三番目は現在の妻の子で19歳と17歳である。中でも先妻の娘は美人で知られ、時政はこの娘を不憫に思って妹たちよりも気を配っていた。そんなある時、19歳の娘が不思議な夢を見た。高い山の頂に登って月と太陽を左右の袂(たもと)に入れ橘が三つ実った枝を手にするという、女の身には考えられない夢なので姉に訊ねてみた。21歳の姉は女ながら才覚に優れていたので「めでたい夢。私たちの先祖は観音菩薩を信仰していたから、月と日を袂に入れて橘をかざすのは吉兆」と考え、何とか夢を我が物にしたいと考えた。
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      ※三人の娘: 北條時政 の子女を乏しい史料に従って推定年齢順に整理すると...曽我物語の「三人娘」は政子阿波局時子だろうか。
    長兄の 宗時 は政子の同母兄で誕生は1152年前後、生母は 伊東祐親 の娘、治承四年(1180)に函南平井で討死している。政子は保元二年(1157)生まれで生母は不明だが、兄宗時と弟 義時の生母が共に伊東祐親の娘だから、同母と考えるのが自然か。
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    義時は長寛元年(1163)生まれで生母は伊東祐親の娘、阿波局(阿野全成の室)は生年不明、義時の嫡子泰時は彼女を叔母として扱っており、政子との仲も緊密だった事を併せると同母だろうか。時子(足利義兼の室)は生年不明、生母は伊東祐親の娘か。
    五郎時房は安元元年(1175)生まれで生母は 足立遠元の娘(ただし、彼女は生母ではなく、時房の妻だった可能性も指摘されている)。
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    稲毛重成の室は生年不明、生母は伊東祐親の娘または足立遠元の娘だが判然としない。政範は文治五年(1189)生まれで生母は 牧の方、元久元年(1204)11月に15歳で病死。平賀朝雅の室、三条実宣の室と 宇都宮頼綱の室は生年不明で生母は牧の方。

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    右:広重 東海道五十三次 沼津 黄瀬川  かつての大岡牧近く  画像をクリック→詳細にリンク
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    北條時政 の後妻・牧の方の父(兄とも)は駿河国大岡牧を領有した牧宗親で、平清盛 の異母弟 頼盛 に仕えていた下級貴族である。頼盛は後の平家都落ちに同行せず、源平盛衰記は「平家を見捨てて 頼朝 に接近した人物」とされているが、木曽(源)義仲軍の入京を阻止すべく山科(地図)に出陣している間に連絡の不手際で置き去りにされたのが真相らしい。
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    平治の乱の際に頼盛の生母 池禅尼 が頼朝の助命に尽力した事と朝廷とのパイプを生かす事で頼朝に厚遇された。池禅尼+頼盛+宗親+牧の方+時政のネットワークが鎌倉幕府草創の一角を担った、という事か。
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      ※大岡牧: 現在の沼津市北東部(地図)にあった官牧。下級貴族の牧宗親が所領を頼盛に寄進して大岡荘を立荘し、
    その後は鎌倉期を通じて北條氏が領有した。鎌倉幕府の滅亡後は新田源氏の岩松氏を経て今川氏→ 後北条氏→ 徳川氏の所有を転々とした。当初の大岡荘は黄瀬川右岸(西岸)の10km近く(JR裾野駅一帯)までを占める広大なエリアで、牧一族の財源を賄っていた。
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    沼津の黄瀬川は、この物語に三回も現れる。最初は曽我の仇討ちで 工藤祐経 らと同宿していた遊女「黄瀬河の鶴」として、二回目は奥州平泉の 藤原秀衡 に庇護された 義経 が異母兄の 頼朝 に合流した黄瀬河の陣として、そして三回目が時政後室・牧の方の実家として。時系列には従っていないけど、話のついでだから通り過ぎるのもまずい。
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    時政の先妻は 伊東祐親 の娘で長男 宗時 ・長女 政子 ・二男 義時(ここまでは多分伊東祐親の娘)、政子の妹二人(阿波局 時子 )を産んで他界した、か。三男 時房 の生母は 足達遠元の娘、四男の政範以下は後妻の 牧の方が産んだ。
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    曽我物語に書かれた二番目の娘は(単純に順序から考えれば)後に頼朝の異母弟 阿野全成 に嫁した阿波局、三番目は後に 稲毛重成 に嫁した娘となる。実際にこの二人を産んだのが誰なのか確証はないし政子と妹の年齢差も良く判らない。牧の方を失脚させたのに妹たちとの関係は円満だったから、心情的には同母の姉妹だと思うのだが...母親がわりとして妹を育てた政子には同母か否かは無関係だったのかも。
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    時政は若い後妻を迎えた。一家を実質的に切り盛りしていた政子は幼い弟妹の面倒を見ているうち婚期が遅れた。この時代に21歳で未婚は尋常ではないし、だからこそ曽我物語は「時政はこの娘を不憫に思って妹たちよりも気を配っていた」と書いたのだと思う。そんな環境なら彼女の気の強さも納得できる。
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    時政四男の政範(牧の方が産んだ男子)の誕生は文治五年(1189)、鎌倉幕府樹立後である。保元二年(1157)生れの政子はこの時32歳、牧の方が政範を産んだのは40歳の高齢だったと無理に仮定しても1150年頃の生まれだから、政子との年齢差は少ない筈だ。ちなみに、元久元年(1204)時点の官位は16歳の政範が従五位下で41歳の義時も同じ従五位下、この時点で北條一族の嫡男扱いされたのは先妻の産んだ義時ではなく、後妻・牧の方が産んだ政範だった。この処遇差がやがて親子の断絶と時政夫妻の失脚につながっていく。
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      ※牧の方の年齢: 彼女の実子で年齢が判るのは文治五年(1189)生れの政範だけ。他に娘三人がいて、平賀朝雅(1198年誕生)と三条実宣(生年不詳)
    宇都宮頼綱(1172年誕生だが後妻)に嫁している。政範の没年齢から考えると朝雅の妻は政範の姉だろうが、他の二人は姉なのか妹なのか判らない。牧の方が20歳の時に政範を産んだと仮定すると政子より12歳下、30歳で産んだとすると概ね同年代になり、政子よりも年長という事はなさそうだ。曽我物語に拠れば「ニの娘」と「三の娘」は長女の政子と2~4歳の年齢差だから、牧の方がこの二人を産んだ計算は成り立たない。従って曽我物語が「悪女」と書いた二人の娘は政子と同腹か、時政の二番目の妻(と伝わる)足立遠元の娘が産んだ二女の阿波局阿野全成室)と稲毛重成に嫁した三女だろう。

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    左:守山北麓、北條館跡周辺の鳥瞰      画像をクリック→拡大表示
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    狩野川は上が上流(南)で、左側の守山右麓が北條館跡、左(東)が韮山市街地、狩野川が大きく曲がる先端から氾濫を防ぐ目的で開削された狩野川放水路が右(駿河湾)に延びている。その上が伊豆長岡温泉、古川と狩野川の合流部が「真珠ヶ淵」だったと伝わっている。
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    【 曽我物語 巻二 時政が娘の事 は更に続く 】
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    「何と恐ろしい夢。良い夢は三年間他言せず、悪い夢は七日の内に人に話すと災いを招くと言いますよ」と脅した。19歳の妹は嘘とも知らず「どうしましょう、何とかしてくれませんか」と怖がった。「それなら悪い夢を転じて難を逃れれば良い、私がその夢を買ってあげよう」と言って、妹が以前から欲しがっていた北條の家に伝わる唐の鏡に唐綾の小袖を添えて買い取った。
    さて、時政に娘が何人もいるのを聞いた頼朝は伊東を追われた事件にも懲りず様子を調べると「後妻の娘二人は意外に悪女なので先妻の娘が良い」とのこと、「伊東で起きたトラブルの原因は先妻の娘と懇ろになった末に継母が父親に悪意の告げ口をしたのが発端だった。多少の悪女でも今の妻の産んだ娘を口説く方が無難だ」...そう考えた頼朝は19歳の娘に宛てて艶書を送った。
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    ここでも曽我物語は矛盾を見せてしまう。14歳の頼朝が伊豆韮山に流されたのが永暦元年(1160)で、韮山から伊東に移ったと推測されるのは仁安ニ年(1167)前後で頼朝が21歳の頃。保元二年(1157)に生まれた政子は3歳から10歳までの7年間を頼朝と同じ韮山エリアで暮らしていたことになる。北條時政の監視監督下に置かれていた頼朝が、1178年前後になって時政の娘と初めて会ったとの筋書きは理屈に合わない。

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    右:守山東麓、願成就院周辺の鳥瞰      画像をクリック→拡大表示
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      曽我物語の記述は続く。
    艶書を託された側近の 藤九郎盛長 は、考えた。「下の娘には悪女の噂がある、万一北條とトラブルになったら行く場所も無くなってしまう」と心配し、艶書の宛名を21歳の姉に書き替えて北條館に届けた。
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    艶書を見た姉娘は「思い当たる事あり、今暁に白い鳩が飛んできて咥えていた金の箱に入った文を膝に置いて飛び去った。開いて見れば頼朝さまの手紙...と思ったら目が覚めた、その夢が現実になった」、と。その後は手紙の遣り取りを重ね、夜毎に忍び出て褥を重ねた。(褥を重ね...なんて表現、いいね)
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    やがて月日が過ぎ、北條時政 は京から帰国する途中でこの事を聞いた。「これは一大事だ、平家に聞こえたら大変だ」と思い悩んだが冷静に考えれば時政の先祖上総守 平直方は伊予殿(源頼義)が関東に下った際に娘を与えて婿に迎え、八幡太郎義家らが生まれて繁栄した前例もあるのだ。
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        ※平直方: 摂関家に仕えた武将で鎌倉に居館を構えた。長元元年(1028)に下総国と周辺一帯で勃発した
    平忠常(将門の叔父・良文の孫で秩父平氏の祖)の乱の追討使に任じたが鎮圧できないまま解任され、追討の任を引き継いだ 源頼信(河内源氏の祖)が討伐に成功した(一説に忠常側も降伏を予定していた、とも)。直方は頼信の嫡男 頼義(義家の父)の武芸に感嘆し、鎌倉の所領を贈って娘婿とした。北條時政や熊谷直實 が直方の子孫を称しているが、時政に関しては系図詐称の可能性が高そうだ。
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    曽我物語が書いた「悪女」はちょっと酷評が過ぎるから、「あまり性格が良くない娘との噂がある」程度に受け取るべき、だろうね。
    まぁ悪女云々は物語の綾だから真偽は兎も角として、伊東で暮らしている頼朝の元妻 八重姫 が物語の展開に絡んでくるから面白い。政子 は妹の夢を買ったのではなく、(運命論的に言えば)やがて悲運の中で死んでいく母方の叔母・八重姫の夢を託されたとも言えるのだろう。ともあれ、結婚して何年も過ぎてから昔の恋人が尋ねて来たりすると...一般的には修羅場になるケースが多いよね。もちろん私には修羅場の経験がないから、想像でしか語れないけど。

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    左:祐親以後の伊東館があった竹の内(館の内)の風景  画像をクリック→拡大表示
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    撮影場所は松川の近く。ここから突き当たりの物見ヶ丘(市役所)にかけての一帯に伊東館があった。高台の手前を左へ迂回した山裾には地頭を務めた伊東祐光(工藤祐経 の孫)の館跡に建つ 佛光寺(別窓)がある。
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    さて...頼朝が 挙兵する一ヶ月前の出来事。
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    承安三年(1173)に愛児の 千鶴丸 を殺され恋人の頼朝とも引き離された 八重姫(子供を産んで再婚してたら「姫」じゃないだろ!)は7年後の治承四年(1180)7月16日に伊東の館を脱け出して韮山を目指した。6人の侍女とともに宇佐美から亀石峠を越え、大仁経由の通称「北條道」を辿って頼朝が住むと伝え聞いた北條館へ。狩野川西岸の江間に住む江間小四郎の妻となった彼女が伊東にいたのは、当時の婚姻の殆どは婿入り婚か通い婚だったから、らしい。
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    曽我物語は一行だけ、短い文章でその後の江間小四郎について述べている。
       頼朝は妻(八重姫)を奪った江間小四郎を討伐し、所領を 北條四郎時政 に与えた。
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    以前にも記述したが史料を捜しても江間小四郎を名乗る人物は北條時政の二男 義時 の他には存在せず、もちろん頼朝によって攻め滅ぼされた記録も見当たらない。伊東と韮山の伝承に従えば...実父に愛児を殺された上に不本意な結婚生活を送っていた八重姫にとっては胸躍る再会になる筈だったが、更に不幸な結末を迎えてしまう。
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    すでに頼朝は北條時政の娘(後の政子)と結ばれ、大姫 も生まれていた。時政が京都大番役(皇居や京都市中の警備役務)で京都に出張中に手を出して妊娠させる、頼朝さん毎度お馴染みのパターン。でも、八重姫との関係は若き日の一途な恋が感じられたが、政子との関係は保身の匂いがする。恋は優しく、時として狂おしい...楽しいだけじゃ済まない事もあるんだよ頼朝さん、なんちゃって。


    右:昔日に八重姫が走った..海沿いの国道135号   画像をクリック→拡大表示
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    【歴史の裏話・・・頼朝・八重姫・義時・政子の年齢】
       1167年 頼朝20歳 八重16歳 義時 5歳 政子11歳 頼朝、伊東に住む
       1169年 頼朝22歳 八重18歳 義時 7歳 政子13歳 頼朝と八重姫が恋愛関係に
       1170年 頼朝23歳 八重19歳 義時 8歳 政子14歳 八重姫が千鶴丸を産む
       1173年 頼朝26歳 八重22歳 義時11歳 政子17歳 千鶴丸殺害 頼朝伊豆山へ 八重姫再嫁
       1176年 頼朝29歳 八重25歳 義時14歳 政子20歳 頼朝が政子が通い婚関係に
       1177年 頼朝30歳 八重26歳 義時15歳 政子21歳 政子が大姫を産む
       1180年 頼朝33歳 八重29歳 義時18歳 政子24歳 八重姫が韮山で入水自殺 頼朝挙兵
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    ちなみに、南江間の北條寺にある義時の墓に「妻の墓」として並んでいるのはもちろん八重ではなく、義時の後妻(伊賀朝光の娘、通称を 伊賀の方)の墓である。義時嫡男の 泰時 を廃して我が子を後継にするため義時を毒殺したとの噂まであり、義時の死後は韮山に幽閉されて間もなく死没した。タイミングから考えれば自然死ではなく、政子が刺客を送ったと考えるべきで、義時の死没を契機にして政子が北條一族に対抗する可能性を持つ勢力の徹底排除を図ったのだろう。父親の伊賀朝光は9年前の建保三年(1215)に死去していたが、嫡子の 光季 と弟の 光宗は伊賀の方失脚に連座して引責蟄居・信濃流罪の処遇を受けた。
    老いに伴って政子の心に芽生えた妄執か狂気か、冷徹非情に計算した上での結論か。
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      ※伊賀朝光: 藤原秀郷の子孫で妻は二階堂行政の娘。元は蔵人所(天皇周辺の雑務を処理する部署)に仕えた官人で伊賀守に任じて伊賀氏を称した。
    朝光は建暦二年(1215)に既に死没しており、伊賀方失脚から一年が過ぎて政子が死没し、その直後に伊賀兄弟は罪を許されて復権、光季は京都守護・光宗は評定衆に就任した。執権泰時による事実上の「政子が決裁した処罰の撤回」である。
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    ちなみに、光季は承久の乱(1221年)の際に京都にあって 後鳥羽上皇の倒幕挙兵召集に応じず、「命を承けて敵に赴くは臣の分なれども官闕に入るは臣の知る処にあらず」と応え、官兵の襲撃を受けて二男の光綱と共に自害、鎌倉武士の気骨を示した。執権 泰時 は光季の所領を子息の季村に継承させ、父の功績に報いたという。
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    北條時政の最初の妻・つまり 政子義時 の実母は伊東祐親の娘とされているから 八重姫 と義時は叔母・甥の間柄、政略的な近親結婚が珍しくなかった時代である。八重姫が伊東を出奔したのも理解できるが、この事件は夫である北條義時の性格にも影を落とした原因の一つになった、のかも。ちょっと屈折して暗いイメージのある義時...年代を追いかけながら4人の心の移ろいを想像してみるのも面白い。
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    八重姫が韮山の北條舘に頼朝を訪ねたのは彼女が頼朝と政子の同棲を知らなかった、つまり伊東脱出以後の頼朝とは音信不通になっていたと考えるべきか。
    別離に伴う事後処理を放棄した頼朝も責められるべきだが、別の男と結婚して5年も過ぎた人妻が独身時代に同棲していた男との愛に望みを託すのは危険な綱渡りだ。まぁ曽我物語にコメントしても無駄だけど、男の誠実さを信じることから女の不幸が始まるんだよ、ね(笑)。女を信じて始まる不幸もあるけど、さ。

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    左:八重姫、宇佐美から亀石峠を越えて北條館へ   画像をクリック→詳細ページへ
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    現在では快適なドライブを楽しめる峠道に姿を変えている。登りは概ね2車線で下りは1車線、宇佐美寄りの山裾には柑橘類の直売店が並び、地ビールの醸造所(公式サイト)を併設した農園や宇佐美観音寺(公式サイト)などの観光施設も点在している。画像やや左側の鞍部付近が亀石峠。
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    眼下に相模湾が広がる頂上の少し手前には「みかんの花咲く丘」の石碑がある。作曲者の海沼實は宇佐美を通る国鉄(現在のJR伊東線)の車内で曲を完成させた縁なのだが、石碑周辺にはみかん畑は皆無、道路際に数台の駐車スペースがあるだけで「みかんの花咲く丘」のイメージは乏しい。
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    旧い峠道は現在の県道のほぼ南側を通っており、新旧両方の道が交差していた一角には亀石がある。実際には全く亀には見えず、一説に「神籠石」の呼称の転訛とも言われるこの石が亀石峠の名の由来で、八重姫 が侍女と共に越えた峠道の一部分だったのは間違いない。2010年頃には地元有志が古道の復旧やルート紹介などの活動をしていたが、いつの間にかウェブサイトも消失してしまったのは残念だ。
    【 東国武士団蜂起の一因か? 大番役 】
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    平安末期の東国では農業と並んで馬の生産が財政上の大きな要素を占めていた。延喜式(延喜五年(905)に編纂が始まった法典集)に拠れば、全国に57ヶ所が点在した官営牧場のうち実に43ヶ所が東国にあった、と記録されている。
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    そして租税負担と荘園や牧での使役に加え、貴族階級の支配に対する不満を生んだのが「大番役」だった。全ての東国武士は自費で都に赴き、3年間も無報酬で朝廷や貴族を守る兵役義務を負わされており、ただでさえ貧しい関東武士にとって大きな負担になっていたのは間違いない。
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    治承四年(1180)に寡兵を率いて決起し緒戦の石橋山で惨敗したにも拘らず、房総で再起した時には東国武士団が雪崩のように頼朝の軍勢に加わった。これは 頼朝 の人格や血筋だけではなく、明らかに搾取され続けていた東国武士団の貴族階級(貴族階級化した平家を含む)への反乱と言える。
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    康平五年(1062)に終結した 後三年の役(別窓)を「源義家の私戦」と判断した朝廷が戦費も恩賞も拒否し、八幡太郎義家 は私財を投げ出して従軍した武士に褒賞を与えた。東国の武士団はその恩を覚えていたし、平安末期にも同じ立場だった土着の武士が抱く不満を吸い上げ、「私に従って戦えば所領を安堵し褒賞を与える。戦死すれば功績に応じて遺族を処遇する」という頼朝の戦略が東国武士団の願いと合致した。鎌倉武士の哲学「御恩と奉公」のスタートは時政の知恵、か。

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    右:狩野川から見上げる伊豆の国市(旧・大仁)の城山  画像をクリック→詳細ページへ
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    伊豆箱根鉄道の駿豆線大仁駅から狩野川を隔てた対岸に、岩登りやハイキングで人気の高い城山(じょうやま・342m)が聳えている。大仁駅までの距離は直線で約1km、頂上から見おろす田方盆地の景観は素晴らしく、流人時代の頼朝が展望を楽しんだという伝説も残る。南北朝時代には少し南の山田川と狩野川が合流する付近(地図)に畠山国清が金山城を築いて城山を物見台とし、後北条氏も砦として利用したらしい。
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    さて...伊東を脱出した八重姫 は韮山の北條邸を訪れて頼朝との面会を求めたが、門番は冷たく拒絶。
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    異本の曽我物語(だったと思うが、詳細の記憶なし)は八重姫を追い返したのは 政子 だったとして、北條館の門前での女二人の遣り取りを描いている。旧暦の7月16日・太陽暦では8月15日の出来事で、肝心の 頼朝 は1ヶ月後の挙兵準備のためか、「顔を合わせちゃマズイ」と思ったのか、対応したのは政子だった。吾妻鏡は同年の4月27日が書き出し、基点は源氏三位頼政 の挙兵で、こちらの修羅場は記録していない。
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    政子は2歳の大姫を抱き、亡き母の妹であり夫の頼朝が若き日に愛した八重姫に対峙した。
    「わが夫に何の御用でしょう? 留守ですからお引き取り下さい。」  「せめて一言なりと、お別れを」  「留守です。お引き取り下さい。」
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    絶望した八重姫は北條邸を辞し、侍女が止める暇もなく古川の真珠ヶ淵に身を投げてしまった。北條館から数100m南で狩野川に合流する現在の古川はコンクリートで護岸された浅い流れだが、当時は深い淵の様相を呈していた。八重姫が淵に身を投げた直後には侍女の悲鳴を聞いた近在の村人が救助に集まったが川岸の土手が高くて手が出せず、せめて梯子があれば助けられたのに...真珠院では村人と侍女の思いを今に伝えて「梯子供養」も行っている。
    そして、八重に従って来た6人の侍女は村人の手を借りて遺骸を近くの満願寺に葬り、伊東を目指して田中山の峠に向かった。
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      ※満願寺: 慶応三年(1867年・坂本竜馬や中岡慎太郎らが暗殺された年)に廃寺となり、遺物は真珠院に移された。廃仏毀釈運動が吹き荒れたのは
    維新後の1875年前後からで、廃寺になった理由や創建の経緯なども不明。いずれ発掘調査資料を確認してみたい。

    左:満願寺から八重姫を改葬した真珠院   画像をクリック→詳細にリンク
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    守山南麓の古川に沿った真珠院の創建は鎌倉時代の初期と推定されている。当然ながら八重姫が没した治承四年(1180)以降、開基も開山も明確ではないが当初の宗派は真言宗で室町時代に曹洞宗に改めた。門前に保存されている五輪塔残欠に正安四年(1302)や建武二年(1335)銘があり、これが現状で確認できる年代の最古らしい。境内の供養塔や古い墓石は満願廃寺から移したものも含まれている。
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    真珠院の北200mほどの位置にあった満願廃寺の跡は既に発掘調査され、出土した遺物の中には中国渡来の古銭である開元通寶(621)・景徳元寶(1004)・祥符通寶(1008)・元豊通寶(1078)・元祐通寶(1086)・聖宋元寶(1101)・熙寧元寶(1174)・永楽(1403)通寶などが含まれるが、創建年代とは無関係。数字は各年号の元年で、貨幣を鋳造した年代とイコールではない。
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    八重姫が入水した古川(伝・真珠ヶ淵)は韮山東部の田中山中腹・反射炉の奥から3kmほど平地を流れて狩野川に入る小さな川で、現在では降雨が続いたとしても淵をなすような流れではない。
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    狩野川なら入水自殺も可能で、その場合は北條邸を出てから狩野川に沿って古川の合流部に向かったことになる。満願寺とも約500m離れている。ひょっとすると、一部の説にあるように当時の狩野川は守山の西ではなく東、つまり満願寺近くを流れていたのかも知れない。もしも鎌倉時代初期の治水工事(守山開削)が史実なら、八重姫の入水場所と満願寺の位置関係にも納得できるけど、所詮は空想の世界だ。鳥瞰図(別窓)を参考に。
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    政子の嫉妬深さは広く知られており、鎌倉時代の歴史書として比類ない存在の吾妻鏡が、週刊誌みたいな姿勢で頼朝の浮気がらみ事件を取り上げている。
    頼朝にも問題行動が多く、政子の妊娠中(同年8月12日に 頼家を出産)に伊豆当時からの愛人を逗子に囲った時には政子の手兵が彼女の家を打ち壊す事件も起こったほどで、気の強さは頼朝もコントロールできなかった。この事件のさわりの部分を少しだけ記載してみよう。詳細はまた、頁を改めて。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 6月1日 】
    頼朝は寵愛する亀の前(良橋太郎入道の娘)を伊豆から招き小窪(小坪)にある 小中太(中原)光家 宅に住まわせた。外聞を憚って鎌倉の外を選び、更に浜遊びの時にも立寄れるからである。顔立ちが優しく心の柔和な女で、伊豆流人時代から親密だった。日増しに寵愛が深まっていた。
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    【 吾妻鏡 同じく、11月10日 】
    亀の前は 伏見冠者廣綱 の家(逗子飯島)に移って暮らしていたが、時政 の後妻 牧の方 がそれを政子に密告した。憤激した政子は牧宗親(牧の方の兄、父の説あり)に訴えて廣綱の家を打ち壊した。廣綱は亀の前と共に辛うじて鐙摺(葉山)の大多和義久(三浦義明 の三男で 義澄 の弟)宅に逃れた。

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    右:大仁の田中山に残る女塚       画像をクリック→明細にリンク
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    八重姫につき従った侍女6人は入水自殺した八重姫を悼んで田中山で殉死。今では地有志の手によって「史跡公園・女塚」が整備されている。田中山の峠は真珠ヶ淵の南東方向で伊東へ向かって5kmほど、北條道と呼ばれる古道登った地点である。八重姫の侍女たちは当然ながら伊東付近の出身と推測されるが、故郷に帰る途中の峠で自殺を決意してしまう。
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    伝承によれば...侍女たちは近くの満願寺(痕跡も残っていない廃寺)に八重姫遺体を納め供養した後に、故郷である伊東(葛見荘)を目指して歩きはじめた。北條道を辿って田中山の峠まで来たとき、侍女の一人・楓が「八重姫の後を追う」と言い出した。「むごい仕打ちで千鶴丸 様を殺した伊東のお館には帰りたくない。頼朝 様にも裏切られ千鶴丸様にも先立たれた姫様がおいたわしい。せめて私だけでも...」
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    そして5人の侍女は遠くに亀石峠を臨む田中山で自殺、後事を託された侍女の一人が葛見荘に走り、折り返し伊東祐親 の家臣が駆けつけた時には既に遅かった。侍女たちの死を悼んだ村人は峠に墓石を建てて懇ろに弔ったと伝わる。北條道は伊豆東海岸の伊東と狩野川流域の田方盆地を結ぶ主要道路で、頼朝も伊東への往復に利用し、「頼朝さんの一杯水」と呼ばれる湧き水があった事は前述した通り。頼朝様に会える...希望に満ちた八重姫主従の旅は、一転して絶望の帰り道になった。
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    峠の四辻には侍女たちを悼む石碑や墓が昭和初期まで残っていたらしいが、既に散逸してしまった。昭和50年(1975)に地元の有志が「女塚保存会」を結成、慰霊碑が建ち公園やトイレなどが整備されている。オリジナルのアイスクリームで人気の高い大見伊豆牧場(公式サイト)が女塚の南400mほど坂下の徒歩圏内にある。もう一軒、約2km北にあった蕎麦の名店「三ツ割菊」は2017年初夏に閉店してしまった。


     その参 頼朝挙兵、各地の源氏も打倒平家を目指す 

    左:餅を献上し続けた老婆の心に報いた成願寺   画像をクリック→明細にリンク
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    若い頃の 頼朝 は百日詣を立願し早朝の三嶋大社に参詣していた。これが源氏再興のためだったのかは判らないが、保元・平治の乱で死んだ父の 義朝 を含む源氏係累の菩提を弔う意味があったのは間違いない。
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    治承四年(1180)8月の挙兵は頼朝が流罪に処された当初から抱いた意思ではなく、4ヶ月前(同年4月末)の 以仁王頼政 の挙兵に触発されたのが直接の動機だろう。いや厳密には触発ではなく、頼政敗死(5月26日)の後に平家が発布した諸国の源氏追討令を6月19日に知り、追い詰められた末の挙兵と考えるのが正しい。座して追討の兵を待つか、奥州へ逃げるか、一か八か兵を集めて反撃を試みるか。
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    頼朝が以仁王の平家追討令旨を受け取ったのが4月27日、この前後から「源氏再興の百日詣」を始めたと考えれば満願は7月上旬、8月17日の山木館夜襲の1ヶ月前に符合する。しかし人目を避ける注意も欠かせない。
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    北條館から北へ500m、すぐ裏手に狩野川が流れる成願寺本堂墓苑の片隅に「餅売り姥」の墓がある。
    頼朝が三嶋大社に平家打倒百日の願をかけて夜明け詣りに通った毎朝、道端で餅を売っていた老婆が頼朝に餅を献上し続けた。覇権を握った後に頼朝は姥を鎌倉に呼んで望みを尋ねると、姥は「阿弥陀仏を拝みつつ余生を送りたい」と答えた。頼朝は快諾して仏像を与え、一宇を建立して姥の願いに応えた。姥は「わが願いが成った」と喜び、それが寺の名前になったと伝わっている。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 4月27日 】
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    行家の携えた高倉宮以仁王の令旨が頼朝の住む伊豆国北條館に到着した。頼朝は衣服を改め、先ず石清水八幡宮のある男山を遥拝し、謹んで令旨を開いた。行家は甲斐・信濃の源氏に触れるためすぐに出発した。
    頼朝は平治の乱に際して信頼に連座し去る永暦元年(1160)3月11日に伊豆に流され20年を過ごした。その間に 平清盛 は天下を我が物にして賞罰を独占し、 後白河法皇 を鳥羽の離宮に閉じ込め悩ませている。そんな情勢の最中に令旨が届いたのは将に正義の兵を挙げる良き機会である。
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    北條四郎時政は上野介 平直方 から五代目の子孫、伊豆の優れた豪傑であり頼朝を婿として忠節を尽す人物である。従ってまず最初に彼を招き令旨を披露した。令旨は 頼政 の嫡男 仲綱の名で発行された。平家の悪事を並べ、討伐に決起せよ、協力しなければ相応の罪に問う旨が書かれている。
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    【 全国の源氏に決起を呼び掛けた檄文、以仁王の令旨 原文と意訳 】 を掲載しておく。
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    下  東海東山北陸三道諸國源氏并群兵等所
    應早追討淸盛法師并從類叛逆輩事    右。前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣。奉
     
    最勝王勅○(文字表示)。淸盛法師并宗盛等以威勢起凶徒亡國家。惱乱百官万民。虜掠五畿七道。幽閉 皇院。流罪公臣。断命流身。沈淵込樓。盜財領國。奪官授職。無功許賞。非罪配過。或召鈎於諸寺之高僧。禁獄於修學之僧徒。或給下於叡岳絹米。相具謀叛粮米。断百王之跡。切一人之頭。違逆 帝皇。破滅佛法。絶古代者也。干時天地悉悲。臣民皆愁。仍吾爲一院第二皇子。尋天武天皇舊儀。追討 王位推取之輩。訪上宮太子古跡。打亡佛法破滅之類矣。唯非憑人力之搆。偏所仰天道之扶也。因之。如有 帝王三寶神明之冥感。何忽無四岳合力之志。然則源家之人。藤氏之人。兼三道諸國之間堪勇士者。同令与力追討。若於上同心者。准淸盛法師從類。可行死流追禁之罪過。若於有勝功者。先預諸國之使節。御即位之後。必随乞可賜勸賞也。諸國宣承知依宣行之。    治承四年四月九日   前伊豆守正五位下源朝臣 仲綱

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    東海・東山・北陸の三道諸国の源氏と群兵らに下す。清盛法師と叛逆の一族追討に即応せよ。 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱が奉る。
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    最勝王(以仁王)の勅を奉ず。清盛法師ならびに宗盛らは権勢によって国を滅ぼす兇徒である。百官万民を悩まし五畿七道を掠奪し天皇と上皇を幽閉し朝廷の臣を流罪にし国の財産と官職を奪い、功績のない者に賞を与え過ちのない者を罰している。諸寺の高僧を拘束し学僧を獄に繋ぎ、比叡山の絹米を謀反の糧米として掠奪している。先祖の遺蹟を滅ぼし摂関家の首を切り天皇に背き仏法を滅ぼし伝統を顧みない。天は悲しみ民は愁いに沈んでいる。私は後白河法皇の第二皇子だから天武天皇の旧習に従って王位を簒奪する輩を追討し上宮太子(聖徳太子)の古跡に倣い仏法に逆らう者を討ち滅ぼす。人力に頼るのみならず天道の援けを頼むものである。帝王に三宝(三種の神器)と神明の加護があれば必ず志のある者が諸国に現れるだろう。源氏と藤原氏と諸国の勇士はこの追討令に与力せよ。同心しない者は清盛法師の一味と看做し死罪または流罪の刑に処す。勝利に功績を挙げた者は即位後に諸国の責任者を介して望むままの恩賞を与える。この旨を承知し宣旨に従って行動せよ。
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                            治承四年四月九日               前伊豆守正五位下源朝臣 仲綱
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    【 吾妻鏡 同じく、6月19日 】
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    散位 三善康信 の使者(弟の康清)が北條舘に参着、静かな部屋で頼朝と対面した。以仁王の令旨を受け取った源氏を追討する命令が出た、頼朝殿は源氏の正統なので最も危険だから早く奥州へ脱出するべき、と。この康信は頼朝の乳母の妹の子で源氏に心を寄せ、以前から京の政治情勢を月に三度づつ、使者を介して報告していた。今回は特に重大なので弟の康清と語り合い(病欠と称し役所を休ませて)伊豆へ向わせたものである。
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    ※散位: 官位がありながら官職を持っていない者を差す。兄の康信は典薬大夫、康清は隼人司(兵部省)に任じていた筈だが病気などで休職した場合も「散位」と表示する場合があるらしい。

    右:三嶋参詣途上で祈願した延命地蔵菩薩     画像をクリック→明細にリンク
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    韮山から三嶋大社まで約8kmの間には頼朝参詣にかかわる伝承や史跡が残っている。三嶋大社の前で東海道から分岐し、真っ直ぐに南下する旧下田街道から約1km西に逸れている宗徳院(地図)もその一つ。百日祈願に通う折に本尊の延命地蔵菩薩に挙兵成功を祈願し、更に足の痛みを癒したという伝承もある。
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    小刻みに蛇行する境川に沿って点在する寺や神社は歴史の古さを物語ると共に、昔から洪水が頻発していた地域である事も影響しているのかも知れない。 近世までの伊豆半島中部以南の物流は下田街道と共に狩野川および支流の水運に依存しており、下田街道の整備も江戸時代中期には概ね完成していたらしい。
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    韮山周辺から三嶋大社への参詣は狩野川右岸に沿って下流に辿り、支流の境川沿いに三島西部へ至るルートも利用していたのだろう、と。
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    龍泰山宗徳院は曹洞宗(創建当初は真言宗)、延暦年間(901~902)に空海(弘法大師)が創建し、現在は伊豆八十八ヶ所霊場の第十八番札所である。寺が主張している 頼朝 との接点(下記)はかなり無茶苦茶で...
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    頼朝は永暦元年(1160)3月に伊豆に流され治承四年(1180)8月に挙兵、同年10月に鎌倉入りするまでの100日間を三嶋大社と共にこの寺の延命地蔵菩薩を祈願佛として日夜詣でていた。
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    治承四年(1180)の10月6日に鎌倉入りしたのは事実だが、8月23日の石橋山合戦に敗れた後は土肥(湯河原)から落ち延びた安房(千葉)で活動しているから、どう考えても三嶋大社百日詣では無理なんですけどね...真面目に足跡を追っている自分が馬鹿に思える瞬間だ。
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    後世になって頼朝の権威に阿(おもね)って付け足した物語が結構多いから、史実と伝承を確実に照合する必要がある。

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    左:三嶋大社に近い間眠(まどろみ)神社       画像をクリック→明細にリンク
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    三嶋大社から700m南、神社の裏手には修善寺に向う伊豆箱根鉄道の線路が走っている。大正初期の写真では周辺には水田が広がり、東側(だと思う)には用水が流れている。現在も地図上に川の表示はあるが、半ば暗渠と化して大場川に流れ込む下水である。車を利用する場合は周辺に駐車できるスペースがないため、国道1号の陸橋に近いイトーヨーカドーの無料Pを利用して500mほど歩けば良い(周辺地図)。
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    早朝の百日祈願のため三嶋大社に向う 頼朝 は社に生えていた松の下で暫しの眠りを楽しんだ。史実であれば挙兵直前の5~7月前後、太陽暦では6~8月だから強い日差しを避けての昼寝はありうる。松は遠い昔に枯死して残骸も残っていないが、社は間眠(まどろみ)神社と名前を変えて近隣の信仰を集めている。
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    三島と函南の境界に近い安久から間眠神社を経て三嶋大社に至る当時の本街道(韮山での呼称は牛鍬通)は在庁道とも呼ばれていた。頼朝が幕府を開いた後のこと、鎌倉から三嶋大社までは遠い上に当初のニ所詣(伊豆山権現と箱根権現)の順路からも外れるため、安久の周辺から素性の正しい農民を7人選び交代で代参させた。人々は彼らを在庁奉幣使と呼び、牛鍬通は在庁道と呼ばれるようになった。
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    俗説では頼朝は丑の刻(うしのこく)参りをした、とも。TVの下らない番組では白装束で頭に蝋燭を立て、五寸釘で御神木に藁人形を打ち付ける呪いの儀式だ。誰かに見られたらその人も殺さなければならないとか、蝋燭を縛り付けた五徳を頭に載せるだとか、横溝正史の「獄門島」みたいな...(笑)
    人形(ひとがた)に釘を打ち込む呪術は奈良時代に大陸から伝わったらしいから、頼朝が平家を呪って丑の刻参りをした可能性は皆無とも言い切れない。

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    右:白鳳時代の廃寺跡でもある法華寺と、祐泉寺を    画像をクリック→明細にリンク
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    法華寺の宗派は曹洞宗、下田街道の起点である三嶋大社の大鳥居から400m南に位置する。ここには三島一帯を支配した豪族の丈部(大部とも)富賀満が白鳳時代に建てた巨大な氏寺があった。元慶八年(884)以降、承和三年(836)に焼失した伊豆国分尼寺に代用された大興寺(通称を市ヶ原廃寺)である。
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    平安中期以後の大興寺は徐々に衰退し、平安末期には祐泉寺や法華寺に分かれて存続したらしい。
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      ※白鳳時代: 平城遷都の前、崇峻天皇五年(592)から和銅三年(710)の102年間、明日香・飛鳥に
    都を置いた時代を差す。ちょっと長いけど明日香の訪問記録(別窓)も、どうぞ。
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    頼朝は三嶋大社三嶋大社(別窓)参詣の途中で法華寺(周辺地図)に立ち寄り源氏再興を祈った、と伝わる。韮山からの参詣ルート沿い(後の下田街道、吾妻鏡に書かれた牛鍬大路)には同様の伝承が多く残っており、どこまで史実かを見極めるのは相当に手間がかかる。
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    この寺には頼朝が自筆の写経を納め、その法華経を埋めた経塚の跡には地蔵尊が建てられている。その他、通例通り(笑)「頼朝の腰掛け石」だとか「頼朝衣掛けの松」(既に枯死)の情報もあるが、境内には説明書きの類は一切なく何が何だか判らない。聞くのも面倒なので今回は撮影だけで済ませた。末尾にはすぐ向かい側にある祐泉寺(国分尼寺西塔の塔芯礎石を保存)を訪ねた記録も添付してある。
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    この地域は特に頼朝や源氏の史蹟を探るよりも三嶋大社や国府跡や国分寺・国分尼寺の跡や更に古い廃寺の跡を歩き廻る方が遥かに奥深い。特に法華寺の原型となった寺、白鳳時代に建立され繁栄を極めた大興寺(廃寺)が大社前の広大なエリアを占めていた事は特筆に価する。

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    左:鎌倉時代中期、三島を経て鎌倉に旅した阿仏尼の墓   画像をクリック→拡大表示
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    弘安二年(1279)に大納言 藤原為家藤原定家の嫡子)の遺言状に端を発した相続争いの決裁を求めて鎌倉に赴いた為家の後妻・阿仏尼(1222~1283)の十六夜(いざよい)日記に下記の記述がある。
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    伊豆国府という所に到着した。まだ夕陽が残っていたので三島の明神に参拝して歌を奉納した。
    二十八日に伊豆国府を出て箱根路へ向った。
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    伊豆国分寺と国分尼寺(焼失後に再建した堂宇)の跡は既に発掘調査が終了し一部復元されたが、伊豆国府の庁舎と創建当初の国分尼寺の遺構は現在も確認できていない。ただし十六夜日記の記述を根拠にすれば、彼女が三島明神(現在の 三嶋大社・公式サイト)に詣でた1280年前後には「老女が夕刻に三嶋大社まで往復できる程度の距離」に国府庁舎が在ったのは間違いない。
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    更に彼女は箱根路を越える様子も記録している。後三年の戦役で苦戦する兄の 八幡太郎義家 を助けるため弟の 新羅三郎義光 が越えた足柄峠ルート(別窓)ではなく、彼女が歩いてから20年ほど後に大蔵派の石工集団が築造した箱根精進池の石仏群(別窓)の横を通っていた湯坂古道である。足柄道は延暦十九~二十一年(800~802)の富士山大噴火で閉鎖しその後に復旧したが少し遠回りなどの理由で徐々に衰退、湯坂道を辿るのが旅の主流になった。
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    あしから山は 道遠しとて 箱根路にかかるなりけり ゆかしさよ そなたの雲をそばだてて よそになしぬる 足柄のやま
    いとさかしき(とても険しい)山をくだる。人のあしも、とどまりがたし、湯坂とぞいふなる。
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    為家の正室は鎌倉幕府の譜代の御家人で和歌の名手でもあった 宇都宮頼綱 の娘。既に二人の男子・為氏(奇しくも阿仏尼と同年齢、弘安九年(1286)に鎌倉で死没)と為教を産んでいたのだが...為家は安嘉門院(邦子内親王・後堀河天皇准母)の女房で聡明にして和歌の巧みな安嘉門院四条(女房としての名・後の阿仏尼)を愛して為相を産ませてしまう。

    右:阿仏尼の墓と浄光明寺周辺の鳥瞰図   画像をクリック→拡大表示
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    四条と為相を溺愛した 藤原為家 は既に為氏に譲っていた細川荘(兵庫県三木市)などの所領を為相(当時16歳)に譲るとの遺言を書き、更に和歌に関して収集した典籍も為相に譲ると言い残して死没した。
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    しかし為氏はその後も細川荘を譲ろうとせず、更に朝廷や六波羅に訴えても好転しなかったため、四条は鎌倉幕府への直訴に及んだ。京都から鎌倉まで老女が記録した旅日記が「十六夜日記」である。
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    鎌倉では宇都宮氏の影響力が大きかったため阿仏尼の努力は徒労に終わるかと思われたが...
    弘安八年(1285)11月に勃発した霜月騒動で 安達泰盛 が追討され、泰盛の娘を妻にしていた宇都宮氏の当主 景綱頼綱--泰綱--景綱と続く)も失脚、この影響で為相の勝訴となったらしい。ただし一度は失脚した宇都宮景綱は永仁元年(1293)の内管領平頼綱の滅亡に伴って幕政に復帰している。
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    阿仏尼は訴訟の結果が出る前に鎌倉で没した、或いは京に戻って没したともされる。扇ヶ谷の壽福寺近く(地図)にある上記の層塔が供養の墓と伝わっている。その真偽は確認できていないが、息子の冷泉為相を葬った宝篋印塔(画像、別窓)が200m北東の浄光明寺にある事を考えると、彼女の墓と判断するのが自然だろう。
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    為相は32歳の永仁三年(1295)に鎌倉に転居した。北條時頼長頼親子が建長三年(1252)に開いた浄光明寺の境内北側に定住し、鎌倉八代将軍(久明親王・89代後深草天皇の第六皇子)を補佐すると共に鎌倉連歌の発展などに大きな足跡を残している。嘉暦三年(1328)に没して同地に葬られたが、現在の墓石(6尺3寸の宝篋印塔)は徳川光圀が建てたもの(ただし、南北朝時代初期の様式を模している)。
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      ※徳川光圀: ご存知の黄門さま、和歌に堪能で国学振興にも尽力した「副将軍」ね。冷泉為相は歌道の大先輩、官職も同じ黄門(中納言の唐名)だった。
    この経緯から浄光明寺に墓石を寄進したのだろう。
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    少し鎌倉時代から離れるが、足利高氏(尊氏) の嫡男で足利幕府二代将軍だった足利義詮の分骨墓も三島にある。三嶋大社前を東へ700m、大場川を渡って右側の宝鏡院(地図)だが、画像は行方不明になっちゃった。更に蛇足を加えれば、義詮の正式な墓は法名を転じた京都嵯峨野の宝篋院(公式サイト)、楠木正行(南朝の忠臣・楠木正成の嫡子)を葬った五輪塔の傍らにある。‬
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    三島市は大型ショッピングセンターや柿田川湧水群や公園など観光スポットが豊富に点在し、散策してもそれなりに楽しめるエリアである。周辺史蹟をマークした地図 を参考に歩いてみよう。


    左:大庭景親が頼朝暗殺を狙った妻塚観音堂    画像をクリック→明細にリンク
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    かつての三嶋大社境内は市ヶ原廃寺跡の大部分・法華寺の近くまで占めており、参道は現在の妻塚観音堂の前を通っていたらしい。頼朝を狙った大庭景親は間違えて自分の妻を殺したと伝わっているが、これは文覚(当時は渡辺党の武士遠藤盛遠)と袈裟御前の話に酷似している。パクリだろうな。
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    【 堂の右手に建つ石碑に曰く、 】
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    蛭ヶ小島に流罪中の 頼朝 は源家再興を祈願して百日の間毎夜大社に詣でていた。一方平家の命令で頼朝監視を命じられた 山木判官兼隆 は当時大場(だいば)から多呂、北沢辺りまで領有(現在の三島市南東部の函南町寄り)していた豪族の 大庭景親 に頼朝の暗殺を命じた。景親の妻は源氏に多少の縁があったので夫を諌め、頼朝を助けるように何度も頼んだが聞き入れられなかった。
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    やがて頼朝満願の日が近づき、景親は闇にまぎれて頼朝を待っていると女の着物を着た頼朝らしい姿を見つけ、「女に化けるのは卑怯な奴」と斬り倒した。しかし良く見ると頼朝ではなく身代わりになった自分の妻だった。悲しんだ景親は妻が死んだ地に塚を築いて菩提を弔い、周辺の村人は堂を建て霊を慰めた。毎月24日には念仏会、9月25日の命日には例祭が行われている。
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    大庭景親は保元の乱(1156)では義朝に従って戦った武士だが平治の乱(1159)後は義朝と距離を置いて平家に従い、相模国では最大規模だった大庭御厨(伊勢神宮の荘園)の下司職を代々継承している。八幡太郎義家 に従って後三年の役を戦い勇名を馳せた 鎌倉権五郎景政 の曾孫で、石橋山合戦では平家に従う武者3000騎を率いたほどの武将が単身で頼朝を襲う必要はないと思うけど、ね。それと、9月25日の「命日」が気になる。治承四年の9月なら頼朝は既に挙兵しているから、百日詣でって治承三年(1179)のこと? 兼隆が伊豆に入ったのは治承三年だから年代的に辻褄が合わないと思うよ。
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        ※下司職: 荘園で実務を担当した荘官。下司に対して在京の上役が上司となる。下司はゲス野郎!の語源。


    右:伊豆一の宮 三嶋大社の風景       画像をクリック→明細にリンク
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    三嶋大社の主祭神は事代主神と大山祇命(大山津見命とも書く)。伊予国の一ノ宮である大山祇神社の分社である、或いは大山祇神社の方が分社であるともされる。「多くの山神の総てを統する」大山祇の意味が転訛した、と考える説も立てられている。 さらに詳細は三嶋大社の公式サイトで。
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    源氏再興を祈った百日参詣などの経緯から頼朝の深い信仰を受け、鎌倉幕府の樹立以後は放生会などを担当したり神領を受けるなどで厚遇された。宝物殿には 頼朝頼家 の下文( くだしぶみ・指示書)や 政子 寄進の蒔絵硯箱などを収蔵している。駐車場(500円)が狭く混雑も激しいので電車利用が望ましいが、車なら休日を避けて計画するか、1km弱南の日清プラザ(イトーヨーカドー)無料駐車場を利用すれば間眠神社や法華寺・祐泉寺など周辺の史跡を散策する回遊ルートが組み込める。
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      ※放生会: 捕らえた生き物を解放する法事で仏教の殺生戒に基づき春・秋に行うのが通例。
    三嶋大社に参籠して一族の繁栄と関東支配を祈った北条早雲の夢が北条記に書かれている。
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    一匹の鼠が二本の大きな杉を歯で齧って倒し、みるみるうちに虎になった。二本の杉とは当時の二大勢力・扇谷上杉氏(足利尊氏の母方の叔父で鎌倉扇谷に住んだ上杉重顕を祖とする)と山内上杉氏(同じく母方の叔父上杉憲房の子で鎌倉山之内に住んだ上杉憲顕を祖とする)であり、鼠とは子年生まれの早雲。これは今後の運命を暗示する予兆であろう、と。
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    早雲は永正九年(1512)に両上杉を駆逐して鎌倉に入り、同十三年(1516)には三崎城の三浦氏を滅ぼして関東全域を制圧した。この三浦氏は宝治元年(1247)に 北條時頼 に滅ぼされた三浦一族の傍流で 義澄 の次弟 佐原義連 の孫 盛時 が宗家を継いだ家系。従って三浦氏は北條(北条)によって2度も滅亡の憂き目を味わってしまった。鎌倉幕府が 新田義貞 に滅ぼされた元弘三年(1331)から200年近く後の出来事である。
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      ※北条早雲: 便宜上北条と書いたが、早雲は一度も「北条」を名乗っていない。北条姓が最初に現われたのは嫡男氏綱の代で、早雲は既に他界していた。
    生前に名乗っていたのは伊勢新九郎長氏(または盛時)、60歳を過ぎた頃に出家し初めて早雲庵宗瑞と名乗っている。

    左:西側にある守山から見た山木館の方向  画像をクリック→山木合戦の明細へ
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    【 伊豆の目代 山木判官兼隆 の素性と 頼朝 とのいきさつ 】
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    目代とは国司(守・介・掾・目)の四等官である「目」の代理に任じる役職で、租税を徴収する権限を持つ。
    この年の春までの伊豆国主は 源三位頼政 で介は 狩野茂光 だったが、挙兵した頼政は平等院で敗死。その後は伊豆流人の兼隆が目代に任命されたのか、それとも僭称したのか、やや曖昧だ。
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    クーデターに失敗した頼政の死没後に伊豆知行国主となったのは本家筋の 平時忠で、他に適当な人材がいないから流人兼隆を目代に任じたと考えるのが一般的だ。山木判官 平重郎兼隆は恒武平氏の末裔で 清盛 とは系統が異なるが、 北條時政よりは遙かに権力者に近い。前職は検非違使、父・信兼の訴えによって韮山山木に流された流人である。京都での乱暴狼藉が激しく、父親も持て余す人物だったらしい。
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    視点を広げて考えてみれば 平直方の子孫を称している北條時政が目代を務めても不思議ではないのだが...平家の流人よりも評価が低かった人物、と言えるのかも。
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      ※知行国主: 領国から徴税し国庫に納める義務と権利を持つ。課された税さえ納めれば実際の徴収額との差が濡れ手に粟で懐に入る美味しいシステム。
    通常は任期四年だが同族の持ち回りが当り前になっていた。独立行政法人の理事や強い地盤を持つ国会議員が職責を身内に世襲させるのと同じだね、大切な自動集金システムだもの。全盛時代の平家は30ヶ国以上の知行国主に任じていたのだから、これは自民党の世襲議員の比率と大差ない、と思う。既得権による貧富の二極化は平安時代から現代まで基本的に変わっていないとは、何という政治の貧困だろう。
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      ※平直方: 平安時代中期の摂関家に仕えた軍事貴族。11世紀初頭(1020年前後)の桓武平氏当主だが平安末期には本流から外れ、正盛─忠盛─清盛
    の系が主流となった。源頼義の武芸に感嘆して娘婿とし本拠地の鎌倉を与えたのが源氏と鎌倉の接点のスタート。熊谷直實や北條時政(たぶん僭称)が子孫を称している。左目次の「北條氏の系図」を参照されたし。
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    吾妻鏡の記述によれば、6月頃から頼朝の周囲に人の出入りが激しくなり、三浦・千葉・工藤・土肥・天野・佐々木・加藤次など東国各地の武士が北條邸を訪れて旗挙げの打ち合せなどを行っている。年月の流れから考えると兼隆と政子に接点があった筈はないし「兼隆邸から政子が逃げた」話は辻褄が合わない。
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    第一部にも書いたが、この年の四月に以仁王と源頼政のクーデター未遂事件があり、天皇の第三皇子である以仁王が全国の源氏に送った決起を促す文書が平家側に漏れ、平家が急遽全国の源氏追討令を出した。追い詰められた頼朝には挙兵・逃亡・自殺程度の選択肢しかなかったのは間違いない。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1280) 6月19日 】
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    三善康信 の使者が北條に到着して頼朝と面談した。曰く、先月26日の以仁王挙兵以後は令旨を受けた諸国の源氏追討の沙汰があった。あなたは源氏の正統で最も危険な立場だから早く奥州へ逃れるべきである、と。
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    ただ頼朝にとって何よりの幸運は京都の専横に対する東国武士の不満が非常に高まっていたこと。平家の独裁と重税に加えて三年間の大番役(京都守護の兵役・無給)などに苦しんでいる東国武士にとって 「挙兵が成功したら働きに応じて処遇する、落命したら勲功に応じて一族を遇する」 という頼朝の約束は(もちろん合戦に負けたら空手形だけど)命を賭ける値打ちはあった。当時の忠誠心は江戸時代よりも遥かに打算に満ちている。
    しかし兼隆さんの油断も責められるね。北條邸までわずか3km弱、準備を整えた頼朝軍が斬り込むまで気が付かなかったとは余りにも迂闊だ。
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      ※三善康信: 頼朝の乳母の妹の子。その関係で志が源氏にあり、使者を介して京都の情勢を毎月三回づつ頼朝に報告していた。今回は特に重大なので
    弟の 康清 を仮病で欠勤させ北條に派遣した、と。幕府の樹立後は兄弟とも要職に就き、子孫も有能な文官として要職を世襲している。
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      ※頼朝の乳母: 比企尼(比企掃部允の妻)、寒河尼八田宗綱 の娘で小山政光の後妻・結城朝光の母)、山内尼(首藤俊綱の妻で経俊 の母)らがいる。
    三善康信の叔母がこの三人の誰かなのか別人なのかは判らない。他にも無名の乳母がいた可能性も指摘されている。

    右:緒戦の勝利を祈願した守山八幡宮    画像をクリック→明細にリンク
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    願成就院の北側に敷地を接している。社伝では大化三年(647)の創建とされており、鎌倉幕府が成立した後に 北條時政 が建立した願成就院よりも遥かに古い。頼朝 はここで戦勝を祈願して挙兵したと伝わっているが、吾妻鏡の記述を素直に読み解けば、本陣は北條館に置いたと考えるのが順当だろう。
    ただし、妻の 政子 は挙兵の前に伊豆山権現に避難し僧・覚渕の庇護下に入っていたと思われる。

    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月17日 】
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    ~中略~ 夜の8時頃に 籐九郎(安達)盛長 が(頼朝の指示により)台所で 山木(平)兼隆 の下僕を捕らえた。この男は夜毎に北條邸の下女の元に通って来ており、大勢の武士が集まっているのを怪しまれる恐れがあるからだ。従って明日を待たず、早く山木を攻めて雌雄を決しなければならない。
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    攻撃隊はそのすぐ後に出陣しているため守山八幡宮に本陣を移す必然性は乏しい。ひょっとしたら食客の住吉小大夫昌長が前日に行なった天冑地府祭と祈祷が、北條館から最も近い神社である守山八幡宮で行われたのかも知れない。更に言えば、北條館は守山の西麓で守山八幡宮は東麓にあるため離れているように思えるが本殿は山頂近くに位置しており、直線距離は100m強。守山を北に迂回するのだから遠回り、と考える方が間違っている、のかも。
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      ※天冑地府祭: 冥官(閻魔庁の役人)を祀って死者の冥福を祈る陰陽道の儀式。
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    ちなみに、吾妻鏡に「兼隆の下僕が北條の下女に嫁して(原文は「此男日來嫁殿内下女之間。夜々參入。」)とあるように、当時の婚姻は男が女の許に通う「通い婚」が普通である。頼朝と政子の場合は...曽我物語に描かれた二人の馴れ初めが何を意味しているのかを併せて考えると実に興味深い。
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    政子の妹(後に 足利義兼 に嫁した時子か?)が不思議な夢を見た。太陽と月が一緒になって袂に飛び込み、三つの橘が実った枝を髪に飾るという夢である。翌朝 政子に話すと、政子は大変な吉夢だと知りながら「凶夢だから誰にも話してはいけない。私が買い取って福に転じてあげよう」と言って鏡と小袖を与えた。程なくして籐九郎盛長が頼朝の恋文を政子に届けた。これは本来は美しいと評判の妹に宛てた手紙だったが籐九郎はなぜか政子に渡し、頼朝と政子の仲を取り持った。結果として政子が将軍の妻となって従二位まで昇り詰め、恩を受けた籐九郎の安達一族を終生庇護し引き立て続けた。
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    現実は、時政が留守の間に北條館に住み着いてズルズルと同棲したのだろう(笑)。曽我物語には京都からの帰り道に頼朝と政子が通じた事について時政が兼隆に気を使って怒ってみせたという記述があり、これが「兼隆との結婚を嫌った政子が伊豆山の頼朝の元へ逃げた」と述べる伏線になっている。この時の政子は既に大姫が産んでいるから話の筋は通らないが、吾妻鏡を素直に読むと頼朝の個人的な怨恨も匂うため、少し気になる部分ではある。
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    【 曽我物語 巻ニ 兼隆 婿に取る事 】
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    頼朝と娘の関係をあれこれと案じながら、時政は山木判官兼隆という平家の武士と同道して伊豆に下った。何となく話のついでに「あなたを私の婿にしよう」と言ってしまった後だったので「源氏の流人を婿にした」と訴えられたら万事休す、などと考えながら伊豆の国府に着いた。そして何も知らない顔をして娘を(頼朝から)取り返して兼隆に与えたのだが、娘は頼朝と深い契りを交わしているためその夜のうちに逃げ出し、召使い一人を連れて深い草叢を分け山道を越えて伊豆山権現に逃げ込んでしまった。その連絡を受けた頼朝は即刻駆け付けた。目代の兼隆は捜索したが娘の行方は判らず、時政は知らぬ顔をして過ごした。伊東祐親 とは違う対応であり、それだけ時政の運が強かった、という事なのだろう。
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      ※伊豆国府: 伊豆長岡に近い宗光寺エリア(地図)と考える説もあったが現在は三嶋大社周辺で確定している。詳細は三嶋大社の風景(別窓)で。

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    左:兼隆館の跡と伝わる丘、現在は私有地。     画像をクリック→詳細にリンク
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    山木にある兼隆館の跡とされているのは反射炉で有名な「江川太郎佐衛門邸」の門から畑と民家を隔てた小高い丘の上。石垣の上に小さな石碑が置かれているが兼隆の館がここと考える具体的な根拠はない。吾妻鏡の討ち入り描写には「北條殿以下進於兼隆館前天滿坂之邊 發矢石」、つまり「時政らは兼隆館前の天満坂の辺に進み矢石を放った」、と。天満坂は現在の香山寺参道入口の西側だから、伝・兼隆館からは400mほど離れている。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月4日と17日 】
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    頼朝は「国敵として且つ個人的な意趣のため、まず最初に兼隆を討たねばならない。」と。
    佐々木盛綱加藤景廉 らは厳命を受けて兼隆の館に討ち入り首を挙げた。家臣たちも同様に討ち取り、館に放火して焼亡させ明け方に戻った。頼朝は縁先に出て兼隆主従の首を確認した。
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    曽我物語は政子が婚礼の夜に山木の館を抜け出し、雨の中を8里(25km)の山道を走って伊豆山に逃げ込んだ。やがて頼朝は平家追討の兵を挙げ、治承四年(1180)8月17日の深夜に平兼隆の館を襲撃して彼の首級を獲る。もちろん政子の父である北條時政も一族を引き連れて味方に...となるのだが、挙兵以外の現実はそれほど劇的ではなく、これは主として曽我物語による後世の捏造に過ぎない。以仁王と頼政の挙兵、清盛の源氏追討令、経済的に苦しかった関東武士団の鬱積した不満...大きな歴史の流れの中で打算的な男女関係も見え隠れする。
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    【吾妻鏡の原文は次の通り】
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    散位平兼隆〈前廷尉號山木判官〉者、伊豆國流人也。依父和泉守信兼之訴、配于當國山木郷。漸歴年序之後、假平相國禪閤之權、輝威於郡郷。是本自、依爲平家一流氏族也。然間且爲國敵、且令插意趣給之故、先試可被誅兼隆也。

    右:平兼隆の菩提寺 景雲山香山寺       画像をクリック→明細にリンク
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    兼隆館跡とされている場所は坂を登った突き当たりの私有地なので香山寺へ行くには一度坂を下り、迂回して600mほど歩かねばならない。ただし直線なら僅か300mの距離でほぼ地続き、香山寺の開山は佛乗禅師天岸慧広和尚、開基は 山木兼隆 の縁者と伝えられている。
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    頼朝はこの地に兼隆を手厚く葬ったと主張する書もあるが、吾妻鏡には兼隆を葬った記述は見当たらない。そもそも天岸慧広(謚(おくりな)が佛乗禅師)は竹寺の名で知られた鎌倉 報国寺(wiki)の開山を務めた高僧で、鎌倉時代後期の文永十年(1273)~建武二年(1335)の人。従って山木合戦の130~150年後に兼隆の縁者が供養のため館跡の近くに建てた寺らしいから、ここが山木館だった可能性は排除できない。
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    それにしても、吾妻鏡に書かれた「個人的な意趣」とは何だろうか? 曽我物語には、京都大番役から北條へ戻る時政が伊豆に配流される兼隆と道連れになり、政子を嫁にやる口約束をしたのに帰ってみたら頼朝の元に逃げちゃった、その結果として時政から見ると本家筋の兼隆が臍を曲げた...そんな筋書きだった。
    発端が何か判らないが、この「個人的な意趣」に尾鰭が付いた結果、「兼隆との婚姻を嫌って婚礼の夜に真っ暗な風雨の道を伊豆山権現へ逃げた」云々の話が生まれたのだろうけれども。
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    兼隆の法号は香山寺殿興峰兼隆大禅定門。兼隆の子孫は秩父に落ち延びて姓を八巻に改めた、と伝わる。甲斐武田に加わった者もあり、伊達と上杉に加わった者もあり、常陸平氏に加わった者もあり、それぞれの末裔が各地に残っているらしい。香山寺創建当時の堂宇は江戸時代末期までは残っていたと伝わるが、火災によって建物や所蔵品や古文書など全てを焼失した。少しでも残っていれば合戦に関する資料が含まれていたかも知れないのに、残念。
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    後日談になるが、兼隆の父・平信兼は平家一門が壇ノ浦で滅びる前年の元暦元年(1184)に伊勢で蜂起し討伐されている。この時には3人の子(兼時・信衡・兼衡)も京の堀河館で 山木兼隆 に殺され、源氏側も近江を本領とする 義経 が討死するほど熾烈な戦いだった。伊勢平氏の乱として歴史に残っている。


     その四 頼朝の韮山挙兵にかかわる人々  

     
    左:田方盆地の鳥瞰      画像をクリック→明細にリンク
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    平兼隆が父信兼の訴えで山木に流されたのは治承三年(1179)1月以後で、目代を名乗ったのは翌・治承四年5月の三位頼政敗死に伴う国司変更以後、が史実である。
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    頼朝伊東祐親の討手を避けて伊東から伊豆山に逃げ、走湯権現で暫く過ごしてから韮山の北條館に入ったのは安元元年(1175)又は同二年、平兼隆が韮山の山木に流される2~3年前の出来事だ。政子 は治承ニ年(1178)に頼朝の長女大姫 を産んでいるから、時系列を考えれば兼隆の婚礼の席から政子が頼朝の元に逃げたとする曽我物語の記述は明らかに捏造。兼隆が子連れでも良いと思っても、幼子の父親が源氏の御曹司じゃ無理だろうに。
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    旗挙げの夜に頼朝は田方盆地を見渡す守山東麓の守山八幡に陣取って兼隆館の炎上を待った。一ヶ月前に自殺した 八重姫 が埋葬された満願寺から直線で僅かに400m。
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    しかし手薄だった兼隆側も必死の覚悟で抗戦し、簡単には討たれない。「攻め込んで邸に放火しろ」と命令したのに何時までも火の手が見えず、焦った頼朝は舎人(召使)の江太新平次を裏山の木に登らせたりするが、やはり確認できない。ついに本陣に詰めていた 加藤次景廉佐々木盛綱堀藤次親家 を援軍として派遣、一行は蛭島通りを徒歩で走り抜け、加藤次景廉が頼朝から手渡された長刀で兼隆の首級を挙げた。
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    実際に守山八幡の裏手から守山に登ってみると、眼の下に広がる田方盆地が東から西まで一望できる。平兼隆の館跡は山の陰だが、蛭ヶ小島・狩野川・北條館・遠くには函南の山々が連なる...兵(つわもの)どもが夢の跡。

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    右:加藤次景廉の本領、牧之郷       画像をクリック→明細にリンク
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    三島と修善寺を結ぶ伊豆箱根鉄道駿豆線の牧之郷駅(終点修善寺の一つ手前)の東、玉洞院(伊豆八十八ヶ所霊場の五番札所)付近に「殿の前」の地名があり、ここが加藤一族の館跡と推定されている。
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    更に500mほど北西の狩野川下流沿い(現在の障害者保養所北狩野荘)には「寺中」の地名があり、ここに一族の菩提寺である金剛寺があったが、室町時代に洪水で流され廃寺となった。
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    線路沿いの東側農地の一角に加藤一族の墓と伝わる「五輪さん」が残っている。室町期の洪水で散逸した墓石を回収・復旧しているため廟所本来の姿は不明だが、六基の五輪塔が覆屋に守られている。
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    豆州志稿(寛政年間(1789~1801)に 秋山富南 が編纂した地誌)に拠れば、天明五年(1785)に金剛廃寺跡の農地にあった古い石塔の下から金銅製の舎利瓶(骨壷)が発見され、側面に「私の遺骨は敬愛する祖父景廉の墓の下に埋葬して欲しい」と刻まれていた。その石塔は既に行方不明だが、刻銘に従えば舎利瓶の発見場所(伝承に基づく推測地点)が景廉の墓所だったことになる。
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    これは景廉の孫で鎌倉極楽寺三世の善願上人順忍の遺骨を納めたもので、上人の履歴が刻まれた貴重な資料である。直径6cm×高さ18cm、以前は修善寺郷土資料館が収蔵していたが現在は上白岩の 伊豆市資料館に展示されている。
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      ※善願上人: 景廉の孫。文永二年(1265)に加藤五郎(詳細不明)を父に備州(広島県)で誕生、弘安三年(1280)に極楽寺の良観上人(忍性 の通称)
    の元で出家し、51歳で極楽寺長老となった。ただし加藤氏系譜には五郎の記載がなく、景廉の子が備州に移ったのも確認できない。
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    加藤次景廉 は山木合戦で 山木兼隆 の首級を挙げた後も各地を転戦、幕府創設に功績を挙げて所領を与えられ、岐阜県遠山の要衡岩村に居館(地図)を築いた。後に長男 景朝(遠山の金さんの祖先)に家督を譲り、晩年の承久三年(1221)5月に美濃から鎌倉を経て本貫の地・牧之郷に帰った。
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    その後は源平合戦で没した敵味方の霊を弔い、同年の8月3日読経三昧の内に世を去ってこの地に葬られた。一族の惣領だった兄の 光員 が承久の乱(1221)の際に朝廷側となって所領の狩野牧(牧之郷)を没収されたため景廉が家督を継承した。もう一人の兄は伊豆山権現の別院 蜜厳院院主で、頼朝 の仏教と学問の師を務めた阿闍梨覚淵。石橋山合戦(別窓)の際に政子を伊豆山の 秋戸郷(別窓)に匿い、神域を盾に平家方の追求から守り通した人物。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月19日 】 (山木合戦の翌々日)
    兼隆親戚の史大夫知親は蒲屋御廚の庄司として勝手な振る舞いが多かったため、権限を停止する下知を出した。関東に於ける最初の政令である。夜になって御台所(政子)は走湯山(伊豆山)の文陽房覚淵の坊に移った。情勢が落ち着くまで密かに匿うためである。
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      ※蒲屋御廚: 南伊豆の田牛から青市(地図)の一帯にあった伊勢神宮の荘園。むろん頼朝は伊勢神宮領の荘園人事に介入する権限を持っていないが、
    以仁王の令旨に書かれた「勝利に功績を挙げた者は即位後に諸国の責任者を介して望むままの恩賞を与える」の言葉を適用させたらしい。
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    蒲屋御廚近辺は砂鉄の産地であると共に青野川加工の鯉名(現在の小稲)は海上交通の要所でもあった。治承四年(1180)10月には富士川の平家軍に合流しようとした 伊東祐親 が鯉名で 天野遠景 に捕獲されている。
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    【 吾妻鏡 同年、10月11日 】
    早朝、御台所政子大庭景義 の出迎えを受けて鎌倉の御所に入った。既に伊豆山の 阿岐戸郷(別窓)から到着していたのだが、日柄が良くないため稲瀬河(現在の江ノ電の長谷駅近く・地図)の民家に留まっていた。

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    左:田代信綱が守った狩野領の砦跡    画像をクリック→明細にリンク
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    挙兵当初から頼朝に従った 田代冠者信綱狩野茂光 の外孫(信綱の母が狩野茂光の娘)にあたる。父親は伊豆守為綱、これは正三位・参議だった藤原親隆の次男で源顕通(村上源氏、正二位・権大納言)の娘が産んだ源(藤原)為綱だろう。
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    頼朝が挙兵した治承四年(1180)の伊豆守は 平時忠、その前は源仲綱。仲綱の父 三位頼政 が伊豆守に任じたのは平治元年(1159)だから、為綱は頼政の前任者だった可能性がある。いずれにしても、為綱が任期を終えて京へ帰る際に、孫を手放したくない茂光が狩野に残させた、と伝わっている。
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    確か茂光の四男 親光 も、京に帰任する夫の仲成(仲綱の乳母子)に娘(満劫)の同行を許さず、手元に留めた後に 伊東祐親 の嫡男 河津三郎祐泰 に再嫁させているから、肉親の情に篤い家系なのかも知れないね。この満劫と祐泰との間に生れた二人の男子が後の曽我兄弟、十郎祐成五郎時致 である。
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    茂光は大見郷勢力(大見・八田など)の進出を防ぐため大見川左岸の田代(境界の山裾)に砦を築き、ここに信綱を駐留させた。河津三郎祐泰が横死した安元二年(1176)の秋に父の祐親から下手人追討を命じられた 九郎祐清大見小藤太成家 を追い詰めたのが狩野境、恐らくは田代の辺りだろう。
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    狩野も大見も頼朝挙兵の際には加わっていた仲間だが、中伊豆地区では境界を接して緊張状態にあり、更に伊東祐親と 工藤祐経 の相続争いも絡んでかなり複雑な関係にあった。大見の側も狩野一族の存在を恐れていた、と伝わる。
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    頼朝の挙兵に加わった代表的な46名の中に祖父の狩野茂光と叔父の 狩野五郎親光 (茂光四男)の名はあるが、その他大勢の中に含まれるためか信綱の記載は見当たらない。ただし源平盛衰記など後世の軍記物には「茂光に懇願されて自刃の介錯をした」との記述が見られる。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月24日 】   石橋山合戦で敗れた直後の逃避行
    北條三郎宗時 は土肥から日金を越えて函南の桑原に下ったが平井郷の早河付近で伊東祐親の軍兵に囲まれ小平井名主の紀六久重に射殺された。茂光は歩行困難となり自殺した、と。 (肥満体だったため輿にも乗れず自刃、信綱が介錯した、とも)
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      ※早河付近: 桑原と平井にはこの地名も川も存在しない。現存する「冷川」の間違いか、あるいは冷川の旧称だった可能性もある。

    右:鎌倉大町の安養院所蔵 政子木像       画像をクリック→安養院の明細にリンク
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    政子 の剃髪は正治元年(1199)1月の 頼朝 死没の後、当時は42歳だった。彼女が没したのは満67歳の嘉禄元年(1225)、この像は60歳で従ニ位に叙された建保六年(1218)前後の姿を想定して刻まれたものだろう。波乱の生涯を生き抜いた、いかにも意思の強そうな(むしろ、意固地で我の強そうな)姿を見事に再現している。
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      ※女性の官位: 官位の高さで良く比較されるのは 清盛 の 正妻 時子。天叢雲剣(草薙剣)を腰に差し 安徳天皇
    を抱いて壇ノ浦に沈んだ。彼女は建春門院平滋子(後白河法皇 の譲位後の妃)の異母姉として、また 建礼門院徳子(高倉天皇妃、安徳天皇の生母)の母として、滋子が産んだ憲仁親王(後の高倉天皇)が立太子した仁安元年(1166)に従二位に叙された。
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    一方の政子は承久の乱が勃発する前年の建保六年(1218)に61歳で従ニ位に叙されており、天皇家に係累を持たない女性の官位としては異例の扱いを受けた。ちなみに亭主の頼朝は文治元年(義経 が討たれ奥州藤原氏が滅んだ1185年、43歳)に正二位に叙されている。
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    彼女らが最高位かと思ったらまだ上がいて...文徳天皇の女御で 清和天皇の母・藤原明子は天安二年(858)に、また藤原道長の正室源倫子は娘の彰子が敦成親王(後一条天皇)を産んだ寛弘五年(1008)に、それぞれ従一位に昇叙している。官位など愚劣と思うけれど、探せば他にもいるかも知れない。
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    さて...田代信綱は深く信仰していた観音菩薩の画像を鎧に入れて出陣するのを習慣にしており、歴戦を生き抜いた加護の恩に報いるため観音堂の創建を発願した。奥州合戦後の建久三年(1192)、辻堂にあった観音堂と千手観音像を鎌倉比企ヶ谷(妙本寺山門の南側付近か)に遷し、尊乗上人を開山として白花山田代寺を創建した。千手観音の胎内には護持佛の観音画像を納め本尊とした経緯から「田代堂」と呼ばれていた、と伝わる。後に田代堂は数回の合併と移転を繰り返し、現在の祇園山安養院田代寺となった。この変遷の経緯はかなり複雑で判りにくい。
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      ※尊観上人: 暦仁ニ年(1239)~正和五年(1316)の浄土宗の高僧。資料に拠れば下総国鏑木郷(旭市)出身で 北條義時 の二男で名越流北條氏の
    祖になった 朝時(母は 比企朝宗 の娘)の二男としているが諸系図の二男は何れも時章だし、朝時の息子の中で僧籍は園城寺別当に任じた公朝(養子・実父は姉小路実文)だけらしい。朝時の子云々は同名異人か、尊観が朝時の本拠である名越邸の近くに善導寺を建立した事実から派生した誤解だろう。
    尊観は良忠(浄土宗の高僧)の弟子となって善導寺を建立し名越流念仏教派を広めたが、良忠の没後はご多分に漏れず多くの派閥に分かれ、それぞれが正当性を主張し始める。数冊と伝わる著書は失われ、尊観からの口伝を教義として著述している。墓所は安養院。

    左:北條名越邸があったと推測される材木座の弁ヶ谷   画像をクリック→拡大表示
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    ※名越邸: 大町と浄明寺を結ぶ釈迦堂口切通しの南上(地図)とされていたが、平成20年の発掘調査で
    鎌倉時代末期の寺院跡と判明、地図の「名越邸跡」も「大町釈迦堂口遺蹟」に改められた。
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    そもそも釈迦堂口は「名越」じゃないし、切通しの上は幕府の権力者が邸宅を構えるような場所でもないし、三代執権の 北條泰時 が父の 義時を弔う釈迦堂を建てたのが始まりとの伝承が地名の元になっている。そんな事ぐらい史料を普通に読めば判るのに、ね。
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    現在では材木座4丁目の通称・弁ヶ谷(地図)に名越邸があったと推定されている。弁ヶ谷には美智子上皇后の実家正田家の別荘もあったが相続に伴う物納では分譲住宅街に姿を変えた。
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    千葉氏の実質的な開祖である 千葉介常胤 の屋敷があり、 「介(国司の第二位)」 の唐名である別駕(べつが)と呼んだのが「別駕の住む谷」→ 「べんがやつ」に転訛した、とのこと。
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    嘉禄元年(1225)、北條義時頼朝 の菩提を弔うため笹目ヶ谷(現在の長谷一丁目、文学館付近)に願行上人を開山として祇園山長楽寺を建立した。
    直後の7月に政子が没したため長楽寺には政子を祀ったのだが、元弘三年(1333)の幕府滅亡の合戦に伴う兵火で長楽寺の伽藍が焼失、同じ様に焼失した名越の善導寺跡に移転して合併し、安養院(政子の法名・安養院殿如実妙観大禅定尼を転用)と称して...
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    この安養院も延宝八年(1680年・徳川五代将軍綱吉の頃)に火災で焼失し、比企ヶ谷にあった田代寺を現在の大町に移して「安養院」とした、らしい。
    そう言われれば確かに安養院から妙本寺山門までは400mそこそこの距離だ。
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    信綱の観音絵像に祈った縁で頼朝と政子が結ばれた(なんだって? また筋の通らない話が出てくるな)伝承から良縁観音、頼朝の覇権に寄与した信綱の功績から昇竜観音とも呼ばれている、とか。


    右:「殺し屋」天野遠景は狩野川西岸の出身       画像をクリック→明細にリンク
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    天野遠景 は藤原南家の系統で工藤氏の傍流、母親も狩野一族の出身らしい。詳しく調べると錯綜している部分もあるが、要するに伊豆の狩野川左岸に土着した工藤氏系の武士で、妻は狩野氏の棟梁 茂光 の娘。
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    頼朝 が挙兵した際には中伊豆地域の武士が何人も参加しており、天野遠景も弟の光家と共に従軍した。
    伊豆長岡最南部の狩野川に沿った山裾に墓所が残り、位牌は近くの東昌寺に残っている。
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    代々の所領である天野御厨(左大臣有仁親王の所有)の運営権を相続し、内舎人(うどねり、官職の一つ)に任官していた経緯から天野藤内(藤原氏による内舎人の意味)を称した。天野郷が韮山に近かったため頼朝との接点も多く、挙兵当初から参戦し平氏追討の際には 源範頼 と共に中国から九州まで転戦している。
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    久寿二年(1155)には 足立遠元 の養子になって武州足立郡の領家職を譲られおり、頼朝が伊豆に流された栄暦元年(1160)から遠元と頼朝を仲介する立場にあった、らしい。遠元は平治の乱では 義朝 に従って戦った源氏譜代の臣で、頼朝側近の 安達盛長 は(年下だが)遠元の叔父にあたり、頼朝の死後は 頼家 の訴訟決裁権を剥奪した宿老13人による合議制のメンバーにも加わっている。
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    平家滅亡後には九州惣追捕使に任じていた 義経 が豊後の有力在地武士と接近する動きを見せたため頼朝は義経追討の院宣を獲得し、義経探索の名目で全国の守護・地頭の設置を 後白河法皇 に認めさせた。義経は奥州へ逃げ、頼朝は後任の九州惣追捕使に天野遠景を任命している。遠景は肥前国の鎮圧や平家残党の追討などに功績を挙げ9年間も九州で活動していたが、後に荘園領主とのトラブルなどが頻発し、解任されて鎌倉に帰った。
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    晩年は積年の不満が重なっていた様子で、死没した年には頼朝挙兵以来の功績を列挙し改めての恩賞付与を求め、吾妻鏡は一行の記載で彼の求めを片付けている。これが吾妻鏡に遠景の名が現れた最後で、間もなく死没したらしい。
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    遠景の嫡子 政景 は承久の乱での功績で長門国守護職に補任され、遠江国山香荘(浜松市の二股町周辺)の地頭にも任命されている。この頃の一族の所領は武蔵・上野・遠江・美濃・河内・安芸・長門の各国に点在しており、遠景が最も恵まれていた時期だった筈なのだが、実際にはいべて嫡子の政景が牧氏&時政の失脚(1205年)や承久の乱(1219年)で挙げた功績による恩賞だった。
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    【 吾妻鏡 承元元年(1207) 6月2 日 】
         天野民部入道蓮景が 執権義時 宛に願状を提出。治承四年の山木合戦以来の功績を11ヶ条挙げて恩賞を望む内容で、大江廣元 が受理した。
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    天野遠景は「殺し屋」とも評される血塗られた生涯を送っている。頼朝の命を受けての
    上総廣常 暗殺、同じく甲斐源氏の嫡男 一條忠頼 の暗殺、北條時政 の指示による 比企能員 の暗殺など、吾妻鏡や北條九代記に載っているだけでも三つの重要な殺害事件に関与している。


    左:頼朝挙兵を側面から支えた渋谷重国       画像をクリック→明細にリンク
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    渋谷氏は平安末期に渋谷荘(現在の綾瀬・大和・藤沢市、吉田荘とも)を本拠にした秩父平氏の支族。
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    武蔵国橘樹郡河崎荘(勧修寺領)を支配した秩父重綱の弟・基家が高座郡渋谷荘を与えられ、河崎荘を継承した嫡子重家の子・重国が渋谷荘に土着して渋谷庄司を名乗ったのが最初となる。渋谷荘の在地領主は渋谷氏だが領家(名義上の荘園領主)が誰かは判っていない。
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    渋谷荘の中心となった現在の早川城址(地図)は室町時代~戦国時代の遺構で、土塁や空壕の残る起伏に富んだ自然公園となっており、残念ながら平安時代末期の雰囲気を伝える雰囲気はない。
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    和田合戦(1213)に敗れて零落した渋谷氏は僅かな勢力のみをこの地に残していたが、宝治合戦(1247)で北條氏に味方した功績により繁栄を取り戻し、恩賞で得た薩摩の新領に移った。一族の支流は薩摩東郷氏、祁答院氏、鶴田氏、入来院氏、高城氏となって血脈を伝えている。
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    秩父平氏の 重国 は源氏より平氏との接点が深かったが、源氏との縁もそれなりに確保していた。平治の乱(1160)に敗れ所領の近江国蒲生郡佐々木荘を奪われて 藤原秀衡 に嫁していた伯母の縁故を頼りに奥州へと逃げる 佐々木秀義 と四人の息子を庇護したのが 頼朝 と接点を持つ最初となった。この時に長男定綱は17歳、末子高綱は満1歳前後。秀義は重国の娘婿として五男の 義清 をもうけ、頼朝挙兵までの20年間を渋谷荘で過ごすことになる。
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    佐々木秀義の当初の妻は源為義義朝の父)の娘。秀義は保元の乱では為義、平治の乱では義朝に従って参戦しているから、平家が政権を掌握している限り本領を回復する見込みはない。秀義は早くから四人の男子(定綱経高盛綱高綱)を頼朝に臣従させて失地回復の機会を窺った。
    治承四年5月の源三位頼政 の挙兵後に出された諸国の源氏追討令に伴う 大庭景親 の頼朝追討計画は、長男の定綱を経由して頼朝に届いている。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月9日 】  頼朝挙兵の8日前
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    大庭景親が佐々木秀義を招いて語った。「在京の際に 藤原上総介忠清が長田入道から届いた書状の内容を教えてくれた。北條四郎時政 と比企掃部允らが頼朝を大将に謀反を計画している、源氏の始末を考えねばならない。」との内容だった。あなたは源氏と縁のある者だから話すのだが、あなたの息子たちは頼朝に与している。これには注意したほうが良い」 と。秀義は内心の驚愕を抑えて館に戻った。
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    【 吾妻鏡 同年 8月10日 】  秀義は嫡男の定綱(宇都宮におり先般渋谷に入った)を頼朝の許に送り景親が話した内容を伝えた。
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      ※藤原忠清: 平家譜代の家臣で 重盛 の嫡男 惟盛(維盛)の乳父でもある。一時期に罪を得て上総に流されていた関係で東国の情勢を警戒していた。
    以仁王 追討 ・ 富士川合戦 ・ 一ノ谷後の三日平氏の乱などに転戦し、壇ノ浦で平家が滅びた後に志摩で捕獲され斬首された。
    石橋山合戦に敗れ安房に落ちる舟の中で 和田義盛 が頼朝に向かい 「勝利した時には侍所別当に着任を」 と願ったのは東国の武士を統括する任にあった忠清を羨んだのが伏線だった、と伝わる。
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      ※長田入道: 確証は乏しいが知多で義朝を謀殺した 長田忠致 と推定されている。治承四年(1180)10月に甲駿国境の鉢田(波志田)で甲斐源氏と
    戦い、駿河目代の橘遠茂らと共に殺されている。
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      ※比企掃部允: 比企尼の夫で頼朝の乳父にあたる。妻と共に流人頼朝の保護に尽力したが、この時は既に死没している。長田入道の情報は古い!
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    頼朝が惨敗した石橋山合戦では、渋谷重国は佐々木秀義および秀義の五男義清と共に大庭景親率いる平家軍に加わっている。これは 畠山重忠 らと同様に平氏へ義理立てを済ませた上で勝敗の帰趨を判断し、一族の衰退を防いだ「保険」の意味が大きい。頼朝の鎌倉入り後に敵対した罪を許され、義清は後に近江国守護として本領への復帰を果たしている。


      その伍 韮山周辺に残る北條氏所縁の史跡  


    狩野川の風景

        守山の麓を流れる狩野川。伊豆長岡駅に近い千歳橋の少し上流から撮影した。中央の独立峰が守山で、狩野川はその左を流れ下る。
        守山の左奥が北條邸跡、川を挟んだ左岸に義時邸の跡と北條寺。今では川岸に遊歩道、河原にはグラウンド・・・どこの川にも見られる風景が続く。




     
    右:頼朝の夢か、時政の夢か。 天守君山願成就院    画像をクリック→詳細ページへ
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    NHKが1979年に放映した大河ドラマ「草燃える」の最初の舞台が守山の東麓の願成就院(高野山真言宗)周辺。平安末期~鎌倉時代の黎明期を描いた物語には必ず登場する、記念碑的な存在である。
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    吾妻鏡は「北條時政 が奥州征伐(1189年)の大願成就を祈って文治五年(1189)6月に上棟」と書いているが本尊を含む諸仏の造像は三年前の文治ニ年(1186)5月3日に 運慶 が着手(異説あり)している。頼朝とか奥州征伐とかは「陪臣の立場を慮った建前」で、実質は時政による北條氏寺建立だろう。
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    【 吾妻鏡 文治五年(1189 ) 6月6日】
    北條時政 は奥州征伐の成功を祈願するため伊豆国北條に寺の造営を計画した。願成就院と名付け、日取りが良いこの日に柱を建て上棟式を行なった。本尊は阿弥陀三尊であり、不動明王と多聞天の像は既に造り終えている。時政は北條に出向き周到に準備を済ませた。北條は田方郡内にあり、南條と北條と上條と中條が境を接している。先祖の事跡を尊んで寺の姿を整えたものである。
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    時政が文治五年(1189)に大御堂を、承元元年(1207)に南塔を建てた。後継の二代執権 義時 が時政没後の建保三年(1215)に南新御堂を建て、三代執権 泰時 が嘉承元年(1235)に北塔(現在は痕跡も不明)を建てた記録が残っている。50年以上を費やして壮大な堂塔群と庭園が完成したが、時政も義時も願成就院の全容を見る事はなかった。現在の山門左手には創建当時の南塔礎石だけが残っている。
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      ※南塔建立: 時政は元久二年(1205)閏7月に失脚、政子と義時に全権を奪われ韮山隠居となった。その2年後に南塔建立を差配したとは考えられず、
    後継義時の整備事業だろうが、時政が残った権限の範囲内で南塔建立の限定的な自由を認められた可能性はある。
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    韮山挙兵から25年後の元久二年(1205)、老境に入った鎌倉幕府の執権時政は三代将軍 実朝 を廃して後妻の 牧の方 が産んだ娘の婿 平賀朝雅 を次期将軍にしようと画策し、先妻の息子 義時 と娘の 政子 連合との政争に敗れて隠居し10年後に韮山で世を去った(この事件に隠された真実は別項で)。
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    【 吾妻鏡 建保三年(1215 ) 1月8日 】
    伊豆国の飛脚が去る6日戌刻(20時頃)に入道遠江守従五位下平朝臣時政が北條で死没と報告。享年七十八、日頃から腫物を患っていた、と。

    左:中尊寺本坊西隣の峯薬師堂(願成就院)   画像をクリック→拡大表示
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    平泉中尊寺の峯薬師堂も願成就院を名乗っている。本尊は金箔に覆われた薬師如来の坐像で、眼を守ったり眼病に効能あり、とされる。横の池には天然記念物のモリアオガエルが棲息している。
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    韮山の願成就院には特別な意味がありそうだ。時政が「成就を願った」のは何か...頼朝は源氏再興と天下に号令する夢を達成して早世した。時政もまた覇権を夢見た筈で、韮山の弱小土豪に過ぎなかった北條時政が次々と政敵を滅ぼし幕府の実権を手中に収めていく。更に二代執権 義時 と 五代執権 時頼 は更に強力な北條得宗の独裁体制の実現を目指して策略をめぐらす。
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    宝物館は30代の運慶が彫ったと伝わる阿弥陀如来坐像、不動明王と二童子立像、昆沙門天立像(全て国宝指定)を収蔵している。昆沙門天立像の胎内から見付かった銘札に 「文治二年(1186)5月3日に北條時政発願により仏師運慶が造像を始めた」 旨の記載があり、一方で吾妻鏡の文治五年(1189)6月6日に 「願成就院本尊の阿弥陀三尊と不動明王と多聞天の像は既に造られ準備されている。」 との記載がある事と併せて運慶の作として国宝に認定された。山門内は見学自由、宝物殿の拝観のみ300円。
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      ※運慶の作: 昆沙門天像胎内の銘札が江戸時代の修理の際に取り出されていた事、銘札と仏像を結びつける直接の資料がない事などから国宝指定に
    否定的な意見もある。個人的には 作風に稚拙な部分がある事、文治二年当時は父の康慶が現役の大仏師として南都興福寺の造仏を指揮していた事、運慶の作だと仮定しても当時は30代前半の小仏師に過ぎなかった事、などから国宝指定は安直に過ぎると考える。
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      ※小仏師運慶: 建久五年(1194)と六年に再建した東大寺南中門二天像の造像記録に「小仏師運慶」の名がある。建久七年には大仏師としての記述は
    見えるが願成就院の造仏に携わっていた8年前には間違いなく小仏師で、「運慶なら国宝」は短絡に過ぎる。併せて気になるのは、2013年の 「日展入選騒動」 のように、文部科学省外郭団体に腐敗と硬直が見られること。学閥も閨閥も同様に互助体制を生む既得権だからね。芸術やスポーツの分野だけならまだマシだが、政治の世界まで蔓延している日本の未来はかなり暗い。

    右:義時の墓所と時房系の墓所 北條寺    画像をクリック→詳細ページへ
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    北條館跡から見ると狩野川の対岸(直線距離で600m)、大男山(207m)北東の広い山裾が巨徳山北條寺である。願成就院に比べて知名度も低く交通の便も悪いため観光客は少ないが、鎌倉臨済宗 建長寺(公式サイト)の末寺で二代執権 北條義時 の謂わば氏寺みたいな存在だから、歴史ファンなら見逃せない。
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    徒歩の場合は狩野川に沿って北に迂回し松原橋を渡って伊豆長岡町へ、総計約2kmも歩くのは辛いのだが参拝者用の広い駐車場を備えているから、車での訪問も安心だ(地図)。
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    本堂左の山裾に広がる墓地から小道を登ると丘の上の墓地に二代執権義時夫妻の墓、更に奥には義時の腹心として数々の功績を挙げた弟 五郎時房 の墓(時房流北條家累代の墓所)が見られる。樹木の隙間から狩野川を挟んで北條館の西側が眺められ、寺の400m北東に義時の館跡が遠望できる。
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    北條寺の寺伝に拠れば、治承年間(1177~1183)に義時が建てた真言宗の観音堂が始まりで、時政の長男 宗時 が戦死して義時が嫡男となった治承四年(1180)と前後する。時政が幕府の実権を握った正治二年(1200)に義時が 運慶 に依頼して阿弥陀如来像(約70cm・国の重文)を彫らせ、観世音菩薩坐像(約50cm弱・県指定文化財)を本尊として巨徳山北條寺と改めた。
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    明応九年(1499)に鎌倉建長寺の末寺となり臨済宗に改宗、伝・運慶作の阿弥陀如来像や政子が寄進した牡丹鳥獣文繍帳(県指定文化財)が寺宝であり、江戸時代には伊豆八十八ヶ所霊場の十三番札所となった。
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      ※伊豆八十八ヶ所霊場: 湯ヶ島に近い月ヶ瀬の嶺松院を発って福地山修禅寺で結願する。修行時代の 空海(弘法大師)が巡幸した伝説は物証がないし、
    別な場所にいた記録も残っているため単純に信用できないが、少なくとも四国を巡礼するよりは手軽なルートである。
    詳細は 伊豆88遍路(紹介サイト)を参照されたし。
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    治承四年の 頼朝 挙兵直前に 八重姫 が入水自殺したのは500m南の古川と狩野川の合流点だから、彼女は夫である義時の館から直線で1kmの真珠ヶ淵に身を投げたことになる。前夫の頼朝が既に政子と同棲していた北條館もすぐ近く、男と女の間にある暗くて深い狩野川...なのかも(笑)。
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    ただし一説には南北朝時代の創建で当時は宝城寺と称した、阿弥陀如来像は鎌倉時代初期の慶派仏師の作ではある。観音菩薩像は南北朝期の作だから、ひょっとしたら義時時代の観音堂を原型として後世に再興された、のかも知れないし、北條寺という名称も作為的だと言えないこともない。

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    左:北條寺の北東200m、伝・義時の館跡    画像をクリック→詳細ページへ
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    江間小四郎(小次郎)と名乗った若い頃(頼朝挙兵以前)の館か、あるいは時政嫡男として権勢を得た時代の館跡か。詳細を語る資料はないし、江間地区に残る伝承も時系列から判断すると整合性は乏しい。
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    北條義時 の誕生は長寛元年(1163)、父 時政(保延四年・1138年生誕)が25歳の時に産まれた二男。
    頼朝挙兵に従った治承四年(1180)には満17歳、伝承で彼の長子だったとされる安千代丸が地場寺(現在の北江間千代田団地)に通った年齢を六歳と仮定すれば、義時が元服前の11歳で産ませた事になり、常識的にはあり得ない。
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    治承四年の時点では時政から江間郷の一部を継承して地味な生涯を送る筈だった義時の運命は、長兄 宗時 の戦死で大きく潮目が変わった。頼朝に次ぐ権力者時政の嫡男となり、やがては二代執権を継承して鎌倉幕府の実権を掌握するまでに登りつめていく。宗時さんは運がなかった...本当に残念だったねぇ。
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    頼朝に従って鎌倉に入った後は時政も義時も(殆ど全ての御家人たちも)新設の大蔵御所(雪ノ下三丁目の清泉小学校付近)から遠くない鎌倉市内に拠点に駐在ており、義時は江間の屋敷には住んでいない。従って義時の嫡子・安千代丸が学問のため北江間の地場寺(地図)に通っていたとしても、安千代を襲った蛇を江間に常駐していない義時が射たとの伝承の信頼性はゼロと言えるだろう。
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    ただし、この事件は何かの「比喩」かも知れない。義時の嫡子が「蛇に襲われて死んだ」というあり得ない事件、北條の紋は龍の鱗のデフォルメで龍の根源は蛇だから、北條一族にに害を与える存在ではない。蛇に襲われたとは川で溺れ死んだ事を意味するのか、更に頼朝と八重姫の間に産まれた千鶴丸が「生き延びたかも知れない」伝承、頼朝が義時の嫡子金剛(元服して頼時(烏帽子親は頼朝)、後に泰時に改名)を溺愛し「他の御家人とは違う」と公言していた事実...歴史の闇に消えてしまったかも知れない物語が見え隠れする。
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      ※北條の三つ鱗紋: 時政が江ノ島弁財天に参籠して子孫繁栄を祈った最終日の夜、夢に美女が現れて繁栄を予言し、「道を踏み外せば一族滅亡を招く
    から心せよ」と告げた。翌朝に眼を覚ますと大蛇(龍?)の鱗が三枚落ちていた。これが三つ鱗紋の始まり、と伝わる。

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    右:ついでに、時宗の庶子・正宗が建立した成福寺    画像をクリック→詳細ページへ
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    願成就院の北300mほどに北條家廟所の成福寺がある。NHKの大河ドラマで脚光を浴びた八代執権 時宗 の三男で庶子の正宗・幼名満市丸が父の遺志を継いで正応二年(1289)に建立した古刹である。
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    寺伝には 「伊豆在庁官人だった 平時家(wiki)あるいは時方(時政の父?)の庁舎にあった持仏堂の跡に建立した」とある。北條時政が時家または時方の係累だったのは事実だがそれ以前の系譜は不明確で、少なくとも平直方直系の子孫ではない。権力者に成り上がった小土豪の経歴詐称と考えるべきだろう。
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    元寇の終結後わずか三年で没した時宗の遺志とは、元寇の役に於ける両軍の戦死者16万余人の菩提を弔う事だった。戦後の正宗は剃髪して浄土真宗の僧となり、時宗の遺骨の一部を鎌倉から持ち帰って成福寺に納めた。以後代々の住職は北條氏を名乗り、一族歴代の菩提を弔っている。
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    本堂右手奥の墓地には北條家廟所と並んで時宗の墓、側室だった正宗の母(潮音院殿覚山志道尼)の墓、そして正宗の墓が並んでいる。時宗 の正嫡は葛西殿(北條重時 の娘) が産んだ九代執権 貞時 のみ。正宗の名は系図史にも載っていない。
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      ※覚山志道: 父は 安達義景 で生母は 北條時房 の娘。霜月騒動で安達一族の多くが殺された際には身命を賭して幼い子等を救って後の復権につなげ、
    また縁切寺の名で知られる 鎌倉東慶寺(公式サイト)を開いた女性である。幕府と共に北條一族が滅亡した際には生き残った女たちを連れて韮山の邸を尼寺に改め一族の菩提を弔った事は北條時政邸跡の項でも紹介した。東慶寺の歴史は wiki の記述を参照されたし。
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    正宗は16歳で出家して韮山に移り、北條時政の持仏堂を整備して成福寺と名付けた。もちろん同名の鎌倉子袋谷(大船)の成福寺(開基は三代執権泰時の子・泰次)とは無関係。現在の住職は正宗から数えて二十一代目の北條親善師、初夏には先代の秀門師が丹精した蓮の花が美しい。

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    左:源氏山の麓、五代執権時頼の墓が残る最明寺    画像をクリック→詳細ページへ
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    伊豆長岡の源氏山公園南端の山裾に鎌倉幕府五代執権 北條時頼 の墓が残っている。三位頼政 の妻・菖蒲御前が生まれた「右近衛屋敷」に近いエリアだ。韮山から伊豆長岡温泉街周辺には北條一族の墓が幾つも造られていて(まぁ出自の地だから当り前かも知れない)、この時代に興味がある人にとっては聖地みたいな場所だ。殆どは鎌倉との分骨、と推定されるのが少し物足りない、けれども。
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    願成就院に近い成福寺には大河ドラマで知られた八代執権 時宗 の墓、伊豆長岡の源氏山公園の下には五代執権時頼の墓、願成就院には初代執権 時政 の墓、北條寺には二代執権 義時 の墓(弟 時房 の墓も)、全て合わせると執権4人の墓がある。出自の地を想う一族の意思があったのか、あるいは地域の偉人を顕彰する意味合いが強かっただけなのか。伊豆出身で全国的に知られた人物は江川太郎左衛門ぐらいかな...時頼は「伊豆から出た時政の子孫」に過ぎないけど、郷土にとっての偉人かも知れないね。
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    ちなみに、時頼の墓は鎌倉の明月院(東慶寺の向い側で旧最明寺の跡)に、時宗の墓は鎌倉の円覚寺に、義時の墓は「頼朝 の墓所近くに葬れ」との遺言に従って、頼朝の墓に近い 大江廣元 の墓所から更に東に葬ったと伝わる(実際には「三浦やぐら」前の平場にあった法華堂が墓所だった)。
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      ※県民性について: 熱海に住むまで知らなかったけど、静岡県の地域性を表す言葉として「伊豆餓死・駿河乞食・遠州泥棒」がある。争いを嫌う伊豆人の
    優しさを表現したのだろう。北陸には「越前詐欺・加賀乞食・越中泥棒」との言葉もあるし、各地各色の表現は面白いね。
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    【 五代執権北條時頼について 】
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    幼名は戒寿、三代執権 泰時 の孫で 時氏 の次男。生涯は安貞元年(1227)5月~弘長三年(1263)11月、執権在職は寛元四年(1246)~建長八年(1256)。幼少から聡明の誉れが高く、泰時にも高く評価されていた。
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    寛元四年(1246)に病気に倒れた兄の 北條経時 に代って執権職を継ぎ、義時の孫 北條(名越)光時 の反乱を鎮圧した。同時に反執権勢力を一掃すると共に退位後も影響力を保っていた四代将軍 藤原頼経 を京都に送還、後嵯峨天皇の皇子 宗尊親王 を擁立して執権の地位を磐石にした。翌・宝治元年(1247)には有力御家人の三浦一族を滅ぼし、歴代執権の中でも実力と功績が高く評価されている。個人的には大嫌いな権力亡者の一人。
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    病を得て建長八年(1256)に北條長時 に職を譲って出家し最明寺入道と名乗ったが引退後も影響力を持ち続けた。建長三年(1251)に嫡男の時宗が生まれたため元服後に執権とする意図があった、と言われている。これがその後のいわゆる「北條得宗専制政治」の始まりとなった。
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    能や謡曲で知られた鉢木(はちのき)は時頼が執権を退いた後の廻国伝説を基にして、下野に住む貧しい老武士・佐野源左衛門尉常世との触れ合いを描いているが、これはもちろん完全なフィクションである。唐沢山城址と藤原秀郷の墓所(別窓)の末尾に現地訪問の記録を載せてある。



     
     その六 土肥(湯河原)を経て石橋山の合戦へ 

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    右:現世と来世を結ぶ冥土の入り口、日金山東光寺    画像をクリック→詳細ページへ
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    近隣の武士を集めて 頼朝 の軍は総勢300余騎、8月20日に函南の平井(ルート地図の②)を経由して現在の十国峠に近い日金山東光寺(同じルート地図の)を越え、源氏に味方する相模の中村党および三浦党の主力と合流するために相模国土肥郷(現在の湯河原町一帯)を目指した。
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    22日に土肥郷を支配下に置く 土肥實平 の館(現在の湯河原駅から裏手の城願寺にあったと伝わる)に入り、翌23日には土肥郷から8km北の石橋山に布陣した。谷を挟んだ北側には 大庭景親 率いる平家軍3000騎、。南側には 伊東祐親 率いる300騎が退路を塞ぐ形で迫る。折からの台風で伊豆から相模にかけての一帯は激しい風雨に見舞われていた。
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    【 日金山東光寺に伝わる縁起 】
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    その昔、第十五代応神天皇二年(271)の四月に相模湾の波間に神鏡が現れ、上陸して西の峰に飛び去った。その姿が日輪の様に火を吹き上げて見えたため「日金山」と呼んだ。
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    その神鏡を祀る御堂を 松葉仙人 が建立した、それが東光寺の開創と伝わっている。万葉集に詠われている 「伊豆の高嶺」、吾妻鏡の「光の峰」 が日金山を指す言葉である、と。また平安末期の今様を集めた梁塵秘抄にも 「四方の霊験所は、伊豆の走湯・信濃の戸隠・駿河の富士の山・伯耆の大山・丹後の成相・土佐の室戸・讃岐の志渡の道場とこそ聞け」 と歌われ、霊地としての存在が広く知られた。
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      ※四方の霊験所: 伊豆の走り湯は伊豆山温泉の山裾に吹き出る源泉(伊豆山権現(別窓)の中段を参照)、信濃の戸隠は戸隠神社、富士山は紹介不要、
    伯耆の大山は中国地方の最高峰、丹後の成相は西国第28番札所の成相山成相寺、土佐の室戸は四国遍路道、讃岐の志渡は86番札所の補陀洛山志度寺屋島合戦場(別窓)の近く)。
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    伊豆韮山に流された頼朝は伊豆山権現の僧覚淵に師事して仏典の教導を受けていた。挙兵した韮山から平井(函南)を経て伊豆山に下るルートに建つ日金山の本尊に源氏の再興を祈願し、願が叶って鎌倉に幕府を開く際に寄進したのが本尊の地蔵菩薩像だったが、本物は既に東光寺から失われている。
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    日金山は仏教以前の山岳宗教時代から 「伊豆地域の亡者が集まる霊山」 として崇められていた。死者の霊は賽の河原に見立てられた参道を進み、脱衣婆に衣を剥がされ閻魔王の裁きを受ける。そして地獄に落ちるべき亡者の魂を慈悲によって救済するのが地蔵菩薩である。

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    左:熱海から函南に向う熱函道路、丹那付近の風景    画像をクリック→拡大表示
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    伊豆東海岸の熱海と沼津・三島方面を結ぶ主要道として1973年に開通し、1997年に無料化(直前は300円)された。それまでは十国峠に近い熱海峠(標高630m)を経由する旧街道(つまり 頼朝 が韮山から土肥(湯河原)へ進軍したルート)で、熱海からの道は傾斜のきつい登り・函南への下りは狭い上カーブが多く、特に冬季の積雪で再三の通行止めも発生していた。無料開放後の熱函道路は小田原から国道1号(東海道)で箱根峠を越えるより傾斜が緩やかで、距離も短いため交通量が飛躍的に増えている。
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    熱函道路開通以前の旧道は西側から丹那盆地の北側を通って軽井沢を経て十国峠(日金山)へ登るルート。途中には田代信綱の砦跡もある、奈良時代から使われた雰囲気の良い古道である。
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    首都圏に近い温泉地・熱海は、暮らしやすい街とは言えない。全般に物価が高い上に公共施設が貧弱だし、道路は狭くて坂が多い。財政危機の影響もあって公共料金(水道料金など)や固定資産税は近隣市町村よりも明らかに高いし、観光産業優先で一般住民への気配りが欠けるなど、行政にも問題点は多い。最近は少しづつヤング層やファミリーの観光客が増えてきたのが良い傾向だろうか。ただし首都圏に近すぎて宿泊に結びつかないのが悩みらしい。
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    ガソリンスタンドは全て、周辺市町村よりも確実にリッター15円ほど高い。国道135号沿いで熱海の南北に位置する湯河原と伊東の方が遥かに安いし、西隣の函南も同様だ。ガス欠の危険がない限り、観光客には熱海のスタンドを素通りするよう勧めたい。
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    近年は海岸沿いの大型ホテルが軒並み閉鎖して高層マンションに建て替わり、ちょっとアンバランスなリゾート地に生まれ変わりつつある。

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    右:南熱海から大仁へ抜ける山伏峠      画像をクリック→詳細ページへ
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    山伏峠は大仁と南熱海の多賀を結ぶ峠道。最近は道巾も広がって一段と通りやすくなった。
    頂上付近には伊豆スカイラインのインターチェンジ(無人)もあり、峠を吹き抜ける風に乗ってパラグライダーで空を舞う パラフィールド の営業所と離陸地点もある。その着地点の一つが前に紹介した函南の観光スポット 酪農王国オラッチェ(別窓)のすぐ近くにあるから、そこで空を眺めながら散策するのも面白い。
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    山伏峠の由来は判らないが、箱根から日金山の霊地で栄えた山岳宗教の山伏に関わる伝承を引き継いで命名した可能性もある、と思う。
    同じ名前の峠は日本全国に数多く散在しており、埼玉の飯能と秩父の横瀬を結ぶ峠や岩手の和賀町(頼朝 の第一子 千鶴丸 が隠れた伝承あり)と雫石を結ぶ峠などが高名である。行楽シーズンのピークでもこの峠道は混雑しないから、国道135号を離れて中伊豆方面へ抜けるには一押しのルートとなる。
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    熱海側から登ると頂上近くからは伊豆大島や三浦半島、天候に恵まれれば直線で80km近く離れた房総半島まで展望できる。更なる展望を求めるならスカイラインに入って玄岳IC先の滝知山駐車場(地図)へ、展望を極めるなら玄岳ICの駐車スペースから玄岳頂上(798m)まで約1kmの緩やかな尾根道を歩く素晴らしいハイキングコースになる。
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    峠のすぐ大仁側にある宗教法人 世界救世教(公式サイト)が経営する自然農法の MOA農園(公式サイト)や広大な森林の広がるグリーンランド大仁(伊豆の国市と合併する前は 大仁町民の森(参考サイト)など、休日にはのんびりと楽しめる施設が広がっている。県道80号沿いの浮橋地区(地図)では毎年12月初旬に開く「新そば祭り」が人気で、バス便が少ないため駿豆線の大仁駅から多摩市ー相乗りで駆けつける高齢者も多い。
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    世界救世教は出口王仁三郎(いでぐち・おにさぶろう)が開いた大本教の理念を引き継いでいる。わが青春時代のバイブル「邪宗門」(高橋和己著)が描いた新興宗教「ひのもと救霊会」のモデルとなった 大本教(公式サイト)を原点に持つ。現代の新興宗教の殆どが大本教あるいは開祖の出口なお&聖師の出口王仁三郎の影響を強く受けている。純粋な理念からスタートした宗教も拡大に比例して腐敗が進み、組織の維持と保身を目的にした俗物集団に変質する。
    そう、創価学会が絵に描いたように醜悪な典型例 と言うべきだろうね。

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    下:昔日の土肥郷、JR湯河原駅前の風景
          画像をクリック→拡大表示

         

            左: 湯河原駅前に立つ 土肥實平 夫妻の銅像。實平はもちろん、妻の方も追討の兵を欺く尼僧姿で山中の頼朝に食料を届け> 頼朝一行が小船で
    安房に向かった後は戦況の詳細を三浦勢に伝えるなど大いに活躍したという。アップで見ると少しハーフっぽい美女だね(笑)。
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            中: 銅像横の土肥氏館跡石碑には「乾坤一擲」と彫ってある。出典は唐詩、「乾(天)となるか坤(地)となるか、賽(サイコロ)を擲げ運を賭す」を
    意味する言葉。項羽と劉邦が覇権を争った楚漢戦争(紀元前202年)の「垓下の戦い」で項羽を破った劉邦の決断を指す。
    ここでは地の利を生かして敗残の頼朝を救った土肥實平の決断を賞賛している、らしい。文字部分の拡大を見たければ こちらで。
    劉邦は紀元前200年前後に活躍した前漢の皇帝で、当時の日本はまだ弥生時代。現代中国は最悪だが、昔は偉大だった。
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            右: 毎年4月の第一日曜に催す「土肥祭」の武者行列(2010年、観光協会による写真)。湯河原高校生徒も役柄に応じた甲冑姿で参加し、
    駅前に並んでそれぞれが名乗りを挙げる趣向だったが、2011年は東北を襲った地震と津波の被害に配慮して中止になった。
    パレードは五所神社から館跡と伝わる駅前(旧字は「お庭平」)まで約800m、更に前は温泉街の観光会館から駅まで3kmを練り歩いていた。
    当時を知る人の話では、「暑い日の場合はとても出陣の雰囲気ではなく、道の半ばで既に落ち武者の状態を呈していた」らしい。

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    左:中村党創始者 中村宗平の館跡      画像をクリック→詳細ページへ
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    現在の湯河原を本領とした 土肥二郎實平 は相模中村党に属する武者である。
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    中村氏が称している系譜は、高望王(平高望)→ 平良文平国香 の弟・通称は村岡五郎)→ 平忠頼(村岡二郎)→ 頼尊→ 常遠(武蔵国押領使)→ 太郎常宗(笠間押領使)→ 中村荘司宗平 と続くが、宗平以前の記録は曖昧で常宗と宗平の親子関係を裏付ける史料も確認されていない。相模国西部に土着した豪族が周辺に支配地域を広げ、中村荘司宗平を名乗ったと考える方が妥当なのかも知れない。
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    宗平は中村荘を嫡孫の景平に継承させて三人の息子を相模国西部一帯に扶植し、平安時代末期には現在の平塚西部から湯河原(真名鶴・土肥・箱根)までを支配下に収めていた。早川荘の荘園領主は藤原摂関家領、ニ宮の河匂荘は八条院領だが、曽我荘と中村荘の荘園領主は判らない。
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    中村宗平の子女と勢力範囲は下に記載、嫡男の太郎重平が早世したため中村宗家は徐々に衰退した。
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    二男は実質的に中村党を率いた 土肥二郎實平 (小田原~湯河原~箱根を領有、本拠は土肥郷)、三男は土屋三郎宗遠(中村荘東の平塚市北西部)、四男は二宮四郎友平(中村荘南東の二宮町一帯)、五男は堺五郎頼平(秦野と接する中村荘の北)、さらに長女は岡崎義實(三浦義継四男の 大介義明 の弟)の室(佐奈田与一義忠の生母)、二女は 伊東祐親 に嫁して 河津祐泰伊東祐清八重姫工藤祐経 室の満江(後に土肥遠平 に再嫁)らを産んだ。
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       ※笠間押領使: 遠く離れた茨城県の笠間ではなく相模国笠間村(横浜市栄区笠間、大船駅の北西)。鎌倉中心部から巨福呂坂亀ヶ谷坂(共に別窓)
    を越えて大船駅手前の粟船山常楽寺(別窓)から港南台を経て横浜に通じる鎌倉街道(県道21号)が通っている。押領使はその地域の兵員を徴集して指揮する権限を持つ軍事の官職。平安中期以後は徐々に権威を失い名誉職的な扱いになった。
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       ※天敵鎌倉党: 宗平の父または舅の恒平(常平)は隣接する鎌倉党との合戦(領地争い)で 鎌倉権五郎景政 に討たれた。共に良文の子孫だが仇敵
    であり、頼朝挙兵の際に中村党が頼朝側、鎌倉党の大庭・梶原・長江氏らが平家側に与したのは既得権の争奪戦でもあった。

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    右:中村宗平の三男 土屋三郎宗遠の館跡 大乗院      画像をクリック→詳細ページへ
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    中村宗平 の嫡子重平が早世したため中村氏の家督は重平の嫡子景平が継承したが、特に名を残してはいない。景平の弟 盛平は石橋山合戦以後の記録に名前が見当たらないため、戦死と推測される。
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    また挙兵直後に活躍した宗平二男の 土肥二郎實平 の名が見えるのは吾妻鏡の建久三年(1192)が最後でこの頃に没したらしく、その後の中村党は三男の 土屋三郎宗遠 と四男の二宮友平が担っている。
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    宗遠は中村荘北東の土屋郷を領有して土屋三郎を名乗り、東に所領を接する 岡崎義實 の二男 義清 を養子に迎えて土屋郷を継承させた。現在の平塚市土屋、大乗院の建つ高台である(地図)。
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    南西2kmに土屋氏菩提寺の芳盛寺(旧阿弥陀寺)、北東3kmには石橋山合戦で無念の戦死を遂げた 佐奈田与一義忠 の本領を守護する真田神社がある。頼朝挙兵の当初から従軍した中村党は源氏軍の中核として戦い抜き、謡曲などで知られた七騎落(土肥から安房へ落ちる頼朝主従)にも名を連ねている。メンバーは 土肥實平 ・ 子息の遠平 ・ 岡崎義實 ・ 新開忠氏安達盛長 ・ 土屋宗遠 ・ 田代信綱、もちろん七騎落そのものが源平盛衰記など軍記物の創作なのだが、頼みの三浦一族と合流できなかった頼朝が中村党の尽力によって生き延びたのは間違いない。
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      ※新開忠氏: 大里郡豊郷村(埼玉県深谷市)の土豪。この場合は忠氏の養子になった實平の二男・荒次郎實重を指しているらしい。
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    【 吾妻鏡 承元三年(1209) 5月23日 】
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    西浜(飯嶋と呼ぶ)付近で騒動があった。梶原家茂(景時の孫)が小坪浦に遊覧して帰る途中、和賀江島近くで兼ねて遺恨を受けていた土屋宗遠に出会って殺された。宗遠は直ちに御所に出頭して和田常盛(義盛嫡男)に太刀を渡し、その身柄は侍所別当の義盛に預けられた。
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    【 吾妻鏡 承元三年(1209) 6月13日 】
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    土屋宗遠が直訴状を提出した。私は 頼朝将軍 の時代から忠節を重ねたが家茂は謀叛人梶原景時の孫である。奉公と不忠が対等に扱われては我慢できぬ、と。 和田義盛 を介してこれを読んだ将軍 実朝 は「理屈に合わぬ主張なので処分すべきだが、故将軍の月忌に免じて赦免」 と言い渡した。
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    土屋宗遠の生年は大治三年(1128)前後だから81歳ほどの老齢、推定22歳前後の家茂を斬殺したとは考えにくく、何らかの経緯が窺われる。この時の恩義もあって、建暦三年(1213)5月に起きた和田合戦では宗遠の嫡子義清以下の土屋一族が義盛挙兵に参加した。吾妻鏡の和田側戦死者名簿の中に「土屋の人々」として義清ら10人が載っている。大学助(義清)、同新兵衛、同次郎、同三郎、同四郎、薗田七郎、同太郎、同次郎、やきゐ太郎、同次郎。
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    当初の宗遠には男子がいなかったため、岡崎義實の二男・義清を養子にして家督を継がせた。その後に実子の宗光・忠光らが産まれており、これは共に討死した名簿に含まれている次郎と三郎だろう。一族のその後は調べていないが、小田原から伊豆多賀に多く見られる土屋姓が子孫である可能性は高い。
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    建保六年(1218)8月5日、土屋宗遠が死没。実朝の金槐和歌集(歌集) 下之巻 雑部に次の記載があり、宗遠をモデルにした数首が載っている。
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    相模の土屋に住む90歳を過ぎた老法師が(鎌倉に)やって来た。昔話などして、立ち居振る舞いさえ辛いのを嘆いた。
    ~中略~    道とおし 腰はふたえに かがまれり 杖にすがりて ここまでもくる   趣のない、つまらない和歌に思えるけどなぁ...
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    宗遠の来訪は和田の乱で息子全員を失った1213年から死没する1218年までの間、だろう。頼朝挙兵を助けた古武士たちも老境を迎え、時代は既に北條得宗の独裁となった。建永ニ年(1207)6月に不遇な晩年を嘆いた 天野遠景 が挙兵以来の功績十一条を挙げ、幕府に恩賞を願い出た姿を連想させる。

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    左:中村宗平の四男 二宮四郎友平の館跡      画像をクリック→詳細ページへ
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    二宮友平の館跡は吾妻山の東麓、浄土宗総本山知恩院の末寺・花月院知足寺(地図)一帯にあったと伝わっているが、既に旧蹟は失われた。奥まった墓地の一角に四基の自然石があり、向って左から友平嫡男朝忠(友忠)と正室の花月尼の墓、曽我十郎祐成五郎時致 の供養墓と伝わっている。
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    曽我祐信 の先妻は 中村宗平 の娘で、曽我山を隔てて隣接していた両家は縁戚関係にあった。
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    なんで曽我兄弟の墓がこの寺にあるかと言うと...曽我兄弟の生母 満劫(満江)狩野茂光 の四男 親光 の三女、とされる。(ただし横山時重(横山時廣 の父)の娘とする説もある)で、最初に嫁した伊豆目代の源仲成(源三位頼政 の嫡男 仲綱 の乳母子)との間に一男一女を産んでいる。
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    その男子は後に源信俊、京の小次郎と名乗って25歳の時に謀反の嫌疑で殺された。曽我の仇討の3ヶ月後、建久四年(1193)8月に吾妻鏡は一行のみ簡単に事件を記録している。
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    【 吾妻鏡 建久四年(1193) 8月20日 】
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    故曽我十郎祐成の同腹の異父弟である京の小次郎が追討された。参州(範頼)の縁坐である。
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    もう一人の女子は二宮朝忠に嫁して夫の没後に花月尼を名乗り、知足寺を建てて朝忠と異父弟の曽我兄弟の菩提を弔った...との由来に拠る。
    花月尼の(厳密に言えば同腹の)兄弟は4人。年齢順に書くと、京の小次郎と十郎祐成と五郎時致と禅司房である。花月尼夫妻+兄弟4人=六基の墓が知足寺にあれば、恵まれない生涯を送った兄弟4人には良い供養になったと思うのだが...残念ながら小次郎と禅司房の墓石は残っていない。
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    本来なら仲綱に従って京に戻る仲成(初婚の相手)に同行する筈だった満劫は愛娘と孫を手離したくない親光の願いを容れて伊豆に残り、伊東祐親 の嫡子 河津三郎祐泰 に再嫁した。もしも は無意味だが、彼女が夫に従って(息子を伴い)京に旅立っていれば「曽我の仇討」は起きなかった、かも知れない。
    一方で娘を愛した父の親光は...文治五年(1189)8月の奥州合戦で討死している。
    .
    【 吾妻鏡 文治五年(1189) 8月9日 】
    .
    夜になり、明日の早朝に阿津賀志山を越えて合戦を終わらせよとの命令が下された。ここで三浦平六義村葛西三郎清重、工藤小次郎行光(該当者は存在するが年代が不適合)、同三郎祐光、・狩野五郎親光藤澤次郎清近、河村千鶴丸(13歳)の七騎が密かに(前線の) 畠山重忠 の陣を通り抜け、阿津賀志山を越えて一番乗りを果たそうとした。 夜が明けてから大軍と共に行動したのでは功績が望めないと判断したためである。 ~ 中略 ~  
    七騎は夜を徹して山道を越え敵陣の木戸口に馳せ着いた。それぞれが名乗りを挙げ、泰衡郎従の部伴籐八らの強者と戦った。ここで工藤小次郎行光が一番乗りを果たし、狩野五郎親光が討死した
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      ※河村千鶴丸: 波多野義通 の実弟 秀高の四男で 河村義秀 の弟。頼朝挙兵の際に 大庭景親 に与した義秀は辛うじて死罪を免れ、彼の武芸を惜しんだ
    大庭景義 の尽力で10年後の建久元年(1190)8月に罪を許されて御家人に列した。景義の庇護下にあった千鶴丸は阿津賀志山のに感激した頼朝から岩手郡の数ヶ所を与えられ、小笠原長清 を烏帽子親として元服し河村秀清を名乗っている。
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    祐泰の横死後は遺児の一萬と箱王(後の曽我兄弟)と生後間もない幼児を連れて 曽我祐信 の後妻となった、それが花月尼が曽我兄弟を弔った経緯である。また中村党の大部分が頼朝挙兵に加わったにも拘わらず二宮友平の参加が遅れたのは、息子朝忠の嫁の異父弟・曽我兄弟が伊東祐親の孫であり、更に息子の嫁の生母(満劫)が平家方に加わった曽我祐信の後妻だったため...との複雑な関係もあったのだと思う。相模から伊豆エリアに土着していた豪族には網の目のような縁戚関係があり、それに伴う制約もまた多様だった。
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    仇討ち事件から3ヶ月が過ぎた8月、花月尼の実兄で曽我兄弟の異父兄に当る源信俊が殺されている。本来なら彼の供養墓が知足寺にあっても不思議ではないが、これは 参河守範頼 の謀反(冤罪だけど)に関与した嫌疑で討たれたため、公然と弔うのが憚られたのだろう。花月尼さんは心残りだったかも。
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    【 吾妻鏡 建久四年(1193) 8月20日 】
        故・曽我十郎祐成の同腹の兄・京の小次郎(信俊)が討ち取られた。参河守範頼の謀反容疑の連座である。

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    右:みかん山から見る土肥郷(湯河原)の風景    画像をクリック→拡大表示
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    現在の湯河原温泉の起源は、奈良時代に加賀国(石川県)からこの地に移住した二見一族が渓流沿いに湧き出す湯を発見したのが最初、と伝わっている。
    車で首都圏から熱海方向へ向う際に有料のビーチラインに入らず、旧国道の坂を登ると間もなく「二見農園」の柑橘類直売所が見える。たぶん二見さんは遠い子孫なんだろな。
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    その他にも湯河原温泉発祥に関する伝説は多い。
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      1.年老いた狸が猟師の矢傷を温泉で癒した。
      2.伊豆大島に流された 役小角(役の行者)は空を飛んで日金山で修行し、池峯(奥湯河原の千歳川西)
        に立ち寄り、湧き出す温泉で身を清めた。
      3.癩病患者を背負った 行基 が膿を口で吸い体を洗ったら病人は薬師如来の化身で水を温泉に変えた。
      4.弘仁八年(817)7月14日の富士山大爆発の報告を受けた第52代嵯峨天皇が8月29日に派遣した
        空海(弘法大師)が千歳川上流の滝で足を洗ったら温泉に変った、など。
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    行基と弘法大師には同様の伝説が全国に点在する。歴史ではなく宗教世界k 言い伝えだ。万葉集の巻十四、東歌(あづまうた、東国で詠まれた民謡風の短歌)に相聞歌(恋歌)が載っている。土肥の名は奈良時代には既に定着しており、湯河原温泉の「万葉公園」や「万葉の湯」はこれが起源らしい。
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         あしがりの とひのかふちに いづるゆの よにもたよらに ころがいはなくに
         意訳...足柄の土肥の河原(河内)には昼夜を問わず湯が湧いている。そのいで湯のような情熱で彼女が私を想ってくれると良いのだが。
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      ※万葉の湯: 湯河原温泉の万葉公園近くにあるのは町営の立ち寄り温泉 こごめの湯(公式サイト)で、「万葉の湯」は方々で立ち寄り温泉やホテルを
    経営している 万葉倶楽部(公式サイト)の施設。首都圏に住んでいる方なら、温泉を運ぶ大型トレーラーを見た事があるだろう。
    源泉を持っていても、他の地域に運んで商業利用するのは限りある天然資源の利用マナーを逸脱している、個人的にはそう思う。

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    左:1300年以上も続く土肥郷の守護神 五所神社    画像をクリック→詳細ページへ
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    湯河原町と熱海市の境・つまり神奈川県と静岡県の境に千歳川が流れ、湯河原温泉はこの上流部分に沿って開けている。中流域南側(右岸)の一部は熱海市の泉地区に含まれるのだが、全体として歓楽色が薄く落ち着いた湯の街の景観を残している。更に千歳川を遡ると鄙びた風情の奥湯河原温泉郷となる。
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    白鳳ニ年(662)、加賀国(石川県)坪村の住人二見加賀之助重行は皇極天皇四年(645)に起きた大化の改新に伴う新しい制度の圧迫を避けて東国に逃れた。加賀白山神社の神威(白山信仰)を広めるために山伏に姿を変え、数人の仲間と共に気候が温暖で自然に恵まれた相模国まで来た。
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    二見一族らは長い放浪を経て土肥郷(現在の宮下地区)に定住し、北側の山頂に白山比咩神社の神霊を祀って白山(しろやま=現在の城山)と名付けた。第三十八代天智天皇(在位668~672)の時代になり、相模国に定着した 白山信仰 を更に広めるため、山裾に若宮を祀ったのが現在の 五所神社(公式サイト)。
    しかし1300年以上前から二見姓が続いているとは、凄いねぇ。私なんか三代ほど遡るのが限度だもの。
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      ※白鳳時代: 正式な年号ではないが、奈良時代(和銅三年~延暦十三年・710年~794年)よりも前、今の明日香村周辺が都だった飛鳥時代を差す。
    具体的には第32代崇峻天皇五年(592年)~第43代元明天皇の和銅三年(710年)、大和朝廷の草創期にあたる。
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    五所神社を過ぎて県道を西へ進むと間もなく湯河原温泉街、混雑を避けて箱根方面に向かうなら神社の横から湯河原新道に入れば奥湯河原パークウェイを経て箱根峠の近くに登れるし、県道75号で トーヨータイヤターンパイク(紹介サイト)(旧:箱根ターンパイク)の終点近くに合流もできる。この県道75号(椿ライン)の中腹よりやや上に、城山の山頂または「しとどの窟」に向かうハイキングコースの出発点がある。

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    右:人気のハイキングコース、土肥の城山      画像をクリック→詳細ページへ
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    2011年の春、ほぼ10年ぶりに土肥城址のある城山に登ってみた。
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    頂上へのアプローチには三本ののルートが紹介されている。土肥氏の氏寺でもある城願寺を経て白山公園へ車で登るルート(地図)、湯河原新道(オレンジライン)から城堀林道を登るルート(地図)、県道75号の「しとどの窟バス停」横に駐車して比較的平坦な山道を1500mほど歩くルート(案内図)。
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    最初の2ルート、車なら頂上まで徒歩10分弱の城山公園付近に駐車できるが余り面白くないし、道が狭くて擦れ違いに苦労するから不慣れなドライバーは避ける方が間違いない。
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    土肥城址を称しているが、ここが土肥一族の詰めの城だった可能性は低いらしく、後北条氏の時代に望楼か砦に利用された程度だろうと推定されている。確かに頂上には山城の跡らしい雰囲気がある。
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    公共交通機関を利用する場合は湯河原駅前から元箱根(芦ノ湖)行きバスの「しとどの窟入口」で降りる。
    すぐ前にドライブイン跡を利用したトイレ、手前に10台程度は余裕で停められる駐車スペースがある。「しとどの窟」へは舗装道路を直進、城山を目指すならトイレ裏手の石畳を登る。最初の600m程は緩やかな登り道、残りの800mは少し傾斜が強く、最後の100mは更に急だが手を使う程ではない。
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    体力があれば「しとどの窟」と「城山」の両方を廻れるが、バス停側から「しとどの窟」に通じる急傾斜の下りは兎も角として帰路の登りは辛い。バス停から城山山頂までの往復で3km、しとどの窟まで平坦な400m+急な下り400mの往復...全部を歩くとバス停を発着点として合計5km近くの山道を歩く覚悟が必要となる。中年以上で怠惰無気力の傾向があるなら、二回に分けてスケジュールを考えるのが賢明か。

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    左:土肥實平一族の菩提寺 萬年山城願寺    画像をクリック→ 詳細ページへ
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    中村荘の荘司 中村宗平 から土肥郷を相続した二男 實平 が平安時代末期まで続いていた密教寺院を持仏堂に改め、「万年の世まで家運が栄えるように」と願い万年山と号して体裁を整えたのが城願寺の起源である。
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    土肥一族の館は現在のJR湯河原駅周辺にあったと推定されており、城願寺へはトンネルを迂回するため離れているように感じるが、直線なら駅からの距離は300mほどに過ぎない。
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    實平は土肥郷(吉浜・鍛冶屋・門川・堀ノ内・宮上・宮下)に加えて小田原の南部から真鶴~箱根一帯の管理権を相続した。土肥郷は箱根権現に近く、更に白山神社の分社も土肥域内にあったため土肥實平も修験道を心得ており、大庭景親 の率いる平家軍との緒戦を前にして氏神である五所神社の神前で護摩を焚き戦勝を祈った。頼朝 も太刀を奉納して源氏の隆盛を祈願した、と伝わる。
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    数日後の石橋山合戦で惨敗した後にも土肥椙山(すぎやま)の山中に逃げ込んだ頼朝を誘導して平家軍の追撃を避けた。ついに捜索を諦めた大庭景親らが土肥の館に火を放って引き上げた時、自分の館が燃え落ちるのを見た實平は「この炎こそ開運の光である」と叫び「延年の舞」を披露して頼朝を大いに喜ばせた、更に落ち込んでいた敗残の武者たちを勇気づけたと源平盛衰記が語っている。今も五所神社に伝わっている「焼亡(じょうもう)の舞」である。
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         悦び開けて照らしたる 土肥の光の貴さよ 我屋は何度も焼けば焼け 君だに世に立たまはば 土肥の椙山広ければ
         緑の梢よも尽じ 伐替々々造らんに 更に歎にあらじ 不如 君を始て万歳楽 我等も共に万歳楽

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    この前後は史実よりも軍記物語特有の脚色が多く、それなりに割り引いて受け取る必要がある。源平盛衰記では土肥館を焼いたのは 伊東祐親 の軍勢と書かれているが、中村党頭領 宗平 の娘は伊東祐親に嫁している。更に祐親の娘 (元は 工藤祐経 の妻)は中村党の主軸となっていた實平の嫡男 遠平 に嫁しており、双方は置かれた立場に従って対峙はしたけれど、実際に殺戮を伴うほどの掃討戦を交えたとは考えにくい。
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    一応は時系列に従って 土肥 → 石橋山合戦 → 堀口合戦 → しとどの窟 → 真鶴のしとどの窟 → 岩海岸からの舟出 の順で記述を進めたい。
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    右:相模の国 最大の荘園 大庭御厨の中枢・大庭城址  画像をクリック→詳細ページへ
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    大庭一族は相模国の大庭御厨南部の懐島郷(茅ヶ崎市)一帯を本領とし、桓武平氏の裔を称する。
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    長治年間(1104~1105)に鎌倉権五郎景政 と子の景継が荒地を開拓して国免荘  の資格を有する大庭御厨(みくりや)となった。伊勢神宮に寄進して立荘し、侵略を防ぐ権威を得るため永治元年(1141)に官省符荘(太政官符による所有権と不輸(租税の減免)の権利)を保証された
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      ※国免荘: 国司の任期一代限定で賦役の免除を許可した荘園。勿論、既得権を手放す筈もない。
    現代に当て嵌めれば 「総理案件で加計学園の獣医学部を認可」 するみたいな事例を差す。
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    正確なエリアは推定になるがが、東は境川で西は相模川の東、北は渋谷氏の所領(綾瀬市)まで、南は海まで(概略の範囲を示した地図)、立荘当時で95町・鎌倉時代末期には150町に達していた、と伝わる。
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    天養元年(1144)の源義朝による大庭御厨略奪事件では景政の孫に当る大庭景宗が下司職で、領主の伊勢神宮は義朝の不法を訴えたが事なかれ主義の朝廷は義朝を処罰せず、以後の大庭一族は義朝に服属せざるを得なかった、らしい。
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    保元元年(1156)に勃発した保元の乱では景宗の嫡男 大庭景義 と二男の 景親 が義朝に従って参戦し勝利を得たが、景義は敵方 為朝 の鏑矢に左膝を砕かれて歩行困難になり家督を景親に譲って隠退した。大庭景親は平治元年(1159)の平治の乱には加わらず、源氏とは距離を置いて平家に仕えた。支柱と頼んでいた義朝を失った三浦一族や中村一族に比べると、相模国に於ける大庭氏の立場は圧倒的に強くなった。
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    景親は更に平家に近付いて相模国での指導的立場を確立、源平盛衰記では「罪を得て斬られる筈を平家に助命された恩義」としているが、この経緯の裏付け史料は確認されていない。頼朝の覇権により景義が惣領に復活、その跡を継いだ景兼は建保元年(1213)の和田合戦で 義盛に味方して滅亡、この時以後の鎌倉史に大庭氏の名は見当たらず、大庭御厨の管理権は北條得宗家が掌握することになる。

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    左:景義四人兄弟の父景宗の墓所・大庭塚と御厨の範囲  画像をクリック→詳細ページへ
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    大庭景親 の本拠は現在の藤沢市大庭の大庭城址公園地図、保元の乱以後の景義(景能とも)が隠退した本拠は茅ヶ崎市円蔵の神明大神宮一帯地図
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      ※寄進系荘園: 開墾または相続した領地を有力貴族や寺社に寄進し管理権を保持したまま収穫の一部を
    上納し、国司の関与と徴税を免れて実質的な所有権を確保する。
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      ※御厨: 皇室や伊勢神宮など有力な神社の荘園(神領)。朝廷や国衙の権力が弱まった平安末期以後は
    武士団による略奪(武士の領地化)が再三勃発している(義朝の大庭御厨押領は一例)。
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      ※下司職: 一般的には現地の支配人で、荘地・荘民の管理と租税徴収と領主への上納の実務などを担った
    下級職。徴収の最前線だった業務から「ゲス」の語源になったとされる。
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    兄の大庭景義 は頼朝側、弟の景親と 俣野景久 は平家方として参戦しているが、どちらが死にどちらが生き残ったとしても所領の安堵を得たいという、謂わば保険の意味もあったのだろう。結果として平家に従った弟の景親は捕縛され斬首、次弟の景久は北陸で戦死したが、長兄景義は最古参の頼朝御家人として幕府成立後も活躍している。
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    文治五年(1189)の奥州合戦に際しては、藤原氏討伐の勅許を得られなかった頼朝に進言して喜ばせた言葉が伝わっている。
         「(奥州の)藤原は既に鎌倉の家臣である。家臣を討伐するに当たって勅許の必要などあろうか」
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    鎌倉に入った後に頼朝から「敵将の景親を捕らえた、大庭一族として助命を願うか」と尋ねられ「お心のままに決めて下さい」と答えて弟の斬首を容認したとの逸話もあり、家督継承に関わる遺恨の可能性もある。景親は治承四年10月26日に固瀬河(片瀬川)近くで斬首され首を晒した。

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    右:土肥郷~石橋山古戦場~箱根周辺の地図    画像をクリック→拡大表示へ
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    頼朝に合流して源氏の主力になる筈だった三浦軍は折からの台風で軍船が使えなかった。やむを得ず陸路で土肥を目指したのだが、増水した丸子河(現在の酒匂川、地図)を渡れず、近隣の 大庭景親 一党の館などに火を掛けて焼き払った。
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    酒匂川北岸の大庭景親一党って誰だろう...二宮から土肥の一帯は中村党の勢力範囲なので除外できるし、このエリアで大庭軍に加わっているのは 曽我祐信 か、酒匂川流域には鎌倉党の酒匂氏がいるけど、これは少し時代が下るし...結局、石橋山の北側に布陣した大庭景親はその煙を確認して 「三浦の衆が合流したら面倒になる。今夜のうちに合戦を遂げよう」 と、雨天をついて攻撃を開始した。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180)8月22日 】  三浦軍の兵力については次の記載がある。
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    三浦義明 の嫡子 次郎義澄、同じく三男の 佐原義連、七男の大多和義久と長男の義成、和田義盛 と 弟の次郎義茂と三郎宗實、義明の四男多々良三郎重春と弟の四郎明宗と津久井次郎義行らがそれぞれ数輩の精兵を率いて三浦を出陣した。
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    この場合の数輩は「数人」ではなく、「かなりの」あるいは「それなりの」人数を意味し、平家物語では500騎としている。
    更に石橋山合戦の翌日、惨敗した頼朝軍が南へ逃げて分散したのを知った三浦軍は衣笠へと撤収し、小坪の浜地図)で 畠山重忠 軍と遭遇した。最初は双方が自重して戦闘を回避したのだが、小さな行き違いから合戦となり三浦側の多々良三郎重春らが討ち死に、重忠側も郎党50余名が落命している。
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    この合戦を発端に、「平家の恩に報いるため、また由比浦の屈辱を晴らすため」 体制を立て直した重忠が同族の 河越重頼・中山重實・江戸重長と共に26日早朝に数千騎で三浦勢の籠る衣笠城を攻め、夜半には攻め落としている。勘案すれば、石橋を目指した三浦軍は多くても千騎に満たない程度か。
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    いずれにしろ、源平最初の本格的な合戦となった石橋山。迫る平家方は大庭三郎景親率いる3000余騎、南は 伊東祐親 の300騎が退路を塞ぐ。
    3300騎vs300騎、頼みの三浦勢は間に合わず、圧倒的な兵力差に頼朝軍は大敗を喫してしまう。逃げ廻る頼朝を追って大庭景親がもう少し緻密な残兵捜索をしていれば歴史は大きく変わっていたと思うが...小学校時代の学級担任 大庭先生(大場?)が美人だったので、景親を贔屓したいんだよね(笑)。
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      ※和田義盛: 三浦義明の長男杉本義宗(1126~1164)の嫡子。義宗は鎌倉の杉本城(現在の 杉本寺(別窓)に本拠を置いて杉本(椙本)を名乗って
    嫡男と決まっていたのだが、長寛元年(1163)に三浦氏の所領だった安房平北郡の領有権を巡って長狭常伴の金山城(鴨川市、地図)を攻撃して負傷し、撤兵後に杉本城で死没した。結果として三浦の家督は義宗の次弟・義澄が継承し義盛は分家して和田を名乗った。
    義宗が死没した際の義盛が若年(13歳)のため、37歳だった義宗の弟・義澄を惣領とした経緯がある。
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    北條義時 が幕府実権を掌握した建暦三年(1213)、幕政から排斥された義盛は反北條の兵を挙げたが、三浦の当主 義村 の裏切りが遠因となって敗死した。三浦の統率権を巡る両者の確執も背景にあった、とも伝わっている。
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      ※小坪の浜: 平家物語では「三浦勢は相模川を渡り、腰越・稲村・由比ガ浜を過ぎて小坪坂に差し掛かれば」 と書いている。つまり材木座と小坪の境、
    現在の材木座海岸の南端だろう。攻撃する重忠にとって三浦は母の実家であり、当主の老将 義明は実の祖父である。
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    この時の畠山重忠は父の 重能 とその弟で叔父の 小山田有重 が大番役で在京だったため、勝手な判断を避けて従来通り平家軍に加わっていた。ただし縁戚関係にある三浦と戦いたくないため和平したのだが、義盛の下人が杉本城に立ち寄っていた義盛の嫡子・義茂に「由比ガ浜で合戦!」と急報、駆けつけた義茂が単騎で重忠軍に討ち入った。これで義盛側は「義茂を討たせるな」と反応し、重忠側は「和平と言いながら騙まし討ちか」となった、らしい。

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    左:話を戻して、本格的な合戦がスタートした石橋山    画像をクリック→詳細ページへ
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    8月17日に山木判官 平兼隆 を討った 頼朝 は翌19日には挙兵後に最初の布告を行った。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 7月19日 】
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    兼隆の親戚・史大夫知親は伊豆蒲屋御廚で非法を行い領民を苦しめる振舞いが多かったため権限を停止する下知を出した。関東に於ける頼朝が発布した最初の政令である。
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    蒲屋御厨で非法を行っていた兼隆親戚の史大夫知親の権限を停止すること、及び走湯山(伊豆山権現)を往来する武士の狼藉を禁止し、伊豆と相模の荘園を寄進することの2点である。また夜になって、落ち着くまで 御台所政子 の庇護を伊豆山の覚淵に依頼し、藤原邦道と昌長(神官)を供につけた。
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    そして翌20日、北條邸を出発し函南から日金を越えて相模国土肥郷へ。石橋山合戦での兵力は300騎、狩野・宇佐美・土肥・中村党・岡崎などが主力だが、この300騎はどう判断すべきだろう。騎馬武者が300人で、それぞれが数人程度の郎党を従えていたのか、それとも総勢で300人だったのか。韮山出陣の際に姓名の記載がある武者は(親子や兄弟を個別にカウントして)総勢45名、1人が6人を従えていると考えて300人になるが...。
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      ※蒲屋御厨: 現在の下田市田牛(とうじ)から南伊豆町の青市・湊の一帯にあった伊勢神宮の神領。後に伊東祐親が富士川の平家軍に合流するために
    船出を図った鯉名(現在の小稲)が近いのは中原知親と知己だった経緯か。名前は似ているが、浜松市南東部にある伊勢神宮の荘園(神領)で頼朝の異母弟・蒲冠者 範頼 が少年期を過ごした蒲御厨とは、もちろん異なる。
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      ※史大夫知親: 以仁王 挙兵で 頼政 が敗死した後は 平時忠 が国主、養子の時兼が国司に補任された。蒲屋御厨の管理者が中原史大夫知親か。
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    【吾妻鏡 治承四年(1180) 8月20日】
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    三浦介義明の軍勢は悪天候で遅れている。そのため頼朝は伊豆と相模の御家人のみを率いて伊豆を発ち相模国土肥郷(湯河原)を目指した。
    従う者...北條時政・宗時・義時・平六時定(時政の兄兼時の子)、足達盛長、狩野茂光と親光、宇佐美助茂、土肥實平と遠平、土屋宗遠と義清と忠光、岡崎義實と与一義忠、佐々木定綱と経高と盛綱と高綱、天野遠景と政景、宇佐美政光と實政、大庭景義と豊田景俊、新田忠常、加藤景員と光員と景廉、堀親宗(親家?)と助政、天野光家、中村景平と盛平、鮫島宗家と宣親、大見家秀、近藤七国平、平佐古為重、奈古谷頼時、澤宗家、義勝房成尋、中四郎惟重と中八惟平、新藤次俊長 、小中太光家    すべて頼朝が力と頼む武者である。命令に従い家や親を忘れて戦う、と。

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    右:与一義忠の父 岡崎義實の館跡 無量寺    画像をクリック→詳細ページへ
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    岡崎義實 の曽祖父 為通は 源頼義 に従って前九年の役(1051~1062)を戦った軍功で獲得した三浦に定住したと伝わっており、更に為通の子・三浦為継は 八幡太郎義家 に従って後三年の役(1083~1087)を戦った功績で摂関家が所有する三浦荘の庄司となり、一族の礎を築いている。
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    後三年の役で鎌倉党の 権五郎景正 の右目に刺さった矢を抜いた武者が為継で、更に天養元年(1144)に起きた 源義朝 の大庭御厨濫入にも 中村宗平 らと共に加わっている。後三年の役の際に18歳だったと仮定すると、乱入の際の為継は既に70歳代半ばになる。どこかで年代面の錯誤があった、かも知れない。
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    義継の長男 義明 は本家を継承して三浦棟梁となり、二男の義行は三浦半島東部(金田湾一帯)を継承して津久井氏の祖となり、三男の為清は三浦半島西部(横須賀市芦名)を継承して葦名(芦名)氏の祖となり、四男の義實は大住郡岡崎(平塚市北部~伊勢原市南部)を継承して岡崎氏を名乗った。
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    いずれにしても三浦一族は数代に亘って源氏に仕えた譜代の臣で、さらに岡崎義實は中村宗平の娘を妻に迎え、二男の 義清 を宗平の三男 土屋宗遠の養子にしている。三浦氏と中村党が 岡崎義實 を介して結束し、平家に仕える大庭氏に対抗して石橋山合戦に向かう図式が血縁の面でも出来上がっていたのだろう。それに加えて大庭御厨の本来の管理者だった大庭一族と、義朝に従って既得権を奪った三浦+中村の確執がある。
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    石橋山合戦で 佐奈田与一義忠 を討ったのは鎌倉氏傍流で大庭景親の従兄弟に当る長尾定景、吾妻鏡の数ヶ所に義實と長尾定景の記事が載っている。
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    【 吾妻鏡 治承五年(1181) 7月5日 】  石橋山合戦の後日談
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    長尾新六定景 が罪を許された。去年の石橋山合戦で 佐奈田余一義忠 を討ったのを頼朝が特に憎み、父の岡崎四郎義實に預けて処分を任せた。
    慈悲深い性格の義實は定景を殺さず、定景は囚人のまま法華経を読んで日を過ごしていた。義實は夢を見たと称して頼朝に願い出て曰く、「義忠の仇なので殺さなければ心が晴れないのだが、法華経を読む声を聞くたびに怨念が薄れていく。もし殺したら義忠も成仏できない様な気がして、許すべきかと考えている」 と。頼朝は「悲しみを癒せるかと考えて定景の処分を任せたのだが、その気持ちは良く判る」 として助命を認めた。
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    そして時は流れ、頼朝挙兵から付き従った古参御家人の晩年は恵まれたものではなかったらしい。系図では義實の実子は義忠と義清の二人、義忠は石橋山で討ち死にし義清は土屋宗遠(中村宗平三男)の養子になっている。どんな経緯かは不明だが、肉親の縁に恵まれない生涯だったのか。
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    【 吾妻鏡 正治二年(1200) 3月14日 】  頼朝が没した翌年の寒い日。義實は三ヶ月後の6月21日に没するのだが...
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    今日、岡崎四郎義實入道が杖にすがって尼御台所 政子 の邸に参上した。「80歳を越えて余命も少ないのに病と貧しさに悩み頼る者もない、多少の所領は亡き義忠の菩提を弔うため布施しようと思っても、子孫に遺す物さえ無くなってしまう」と泣いて訴えた。哀れんだ政子は「石橋山で功績を挙げたのだから年老いても報われるべき」として所領の配慮を、と 二階堂行光 を介して将軍 頼家 に伝えた。
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    ところで、義實の口添えで助命された以後の長尾定景は義實の本家である三浦氏の家臣として義村に仕え、28年後の吾妻鏡に再び登場する。
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    【 吾妻鏡 建保七年(1219) 1月27日 】  雪の八幡宮で三代将軍実朝を殺した公暁を討つ
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    ~中略~  将軍実朝 を殺した 公暁 は実朝の首を持ったまま後見の備中阿闍梨宅(雪の下北谷)に入った。三浦義村 は、躊躇する長尾新六定景に公暁追討を命じ、定景は雑賀次郎ら屈強な5人を率いて備中阿闍梨宅に向った。
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    一方で公暁は義村に送った使者の帰りが遅いため、八幡宮裏の丘を登り義村邸に入ろうとした所で定景と出会った。すぐに雑賀次郎が組み付き、定景が太刀を抜いて公暁の首を落とした。定景は首を持ち帰り、義村は 北條義時 邸に首を持参した。~後略~



     
     その七 土肥 椙山を逃げ回って安房へ落ちる 

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    右:新崎川左岸の古社 五郎神社    画像をクリック→明細ページへ
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    衆寡敵せず、石橋山で敗れた頼朝軍は分散して包囲を突破し活路を求めた。頼朝 と側近は南の土肥へ逃れたが、この方向は 伊東祐親 が300騎を率いて頼朝軍の背後を塞いでいた位置である。
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    頼朝が戦場を脱出できたのは、祐親が温情を掛けて見逃したから、かも知れない。頼朝と祐親は敵対関係ではあったが必ずしも憎みあっていたのではなかった、後にはそんな想像もできる事件も起きている。
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    堀口周辺の地名は鍛冶屋。かつては新崎川の砂鉄を利用した製鉄が行われ、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した相州鍛冶・五郎入道正宗の出身地と伝わっている。新崎川の北東には五郎神社があるがこれは正宗とは無関係で、鎌倉党が先祖の霊を祀った御霊(ごりょう)神社が五霊に転訛し、更に鎌倉党の祖霊を象徴して 鎌倉権五郎景政 を意味する五郎に転訛したらしい。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180)  8月24日 】
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    大庭景親 は三千余騎を率いて逃げる頼朝を激しく追撃、頼朝は(土肥椙山の入口に近い)堀口で戦った後に椙山の嶺を目指して落ち延びた。
    加藤次景廉大見平次實政 が留まって後衛の役を務めた。
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    加藤五景員は息子の景廉を案じ、大見平太政光は弟の實政を案じて山に入らず堀口に留まって景親軍と戦った。更に 加藤太光員佐々木四郎高綱天野籐内遠景 と 同平内光家 と 堀籐次親家および同平四郎助政も馬を返して防戦したが、乗馬の多くは矢を受けて斃れてしまった。
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    頼朝も馬を廻らして熟達した弓の妙技を見せ、多くの敵を倒した。その後に矢が尽きたため景廉が轡を取って深山を目指したが、景親の軍兵は40~50mまで接近した。高綱・遠景・景廉等が力を合わせて矢を放ち、北條時政宗時義時 の父子も死力を尽くして戦ったため流石に疲れ果て、すぐには頼朝の後に続く事が出来なかった。景員・光員 ・景廉・祐茂・親家・實政等が時政の指示を受けて険しい山道を数100mほど攀じ登り頼朝に合流した。頼朝は 土肥實平 を従えて倒木の上に立ち、無事を喜び合った。
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      ※弓の妙技: 伊豆に流されてから己を律する事もせずに女の尻を追い掛けていた頼朝が弓の名手だった筈はない。この辺は割り引いて考えるべきで、
    「勝者の正史」の限界がチラつく吾妻鏡の嫌な部分だね。

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    左:海岸近くから堀口合戦場を経て土肥椙山へ  画像をクリック→明細ページへへ
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    堀口の合戦が行われたエリアは確定していない。下りの新幹線が城山トンネルに入る手前の瑞應寺(黄檗宗)の周辺と推定されている。何となく新崎川に沿って上流へと逃走するイメージがあるのだが、追い詰められて馬を乗り捨て、徒歩で山に登ったと考える方が自然なのだろう。現在はみかん畑になっている瑞應寺の裏山は急勾配で、とても騎馬のまま登れる地形ではない。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180)  8月24日 】     土肥實平 は説得を続ける
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    實平が言うには「皆が揃ったのは嬉しいが全員でこの山に隠れるのは無理だ、頼朝様だけなら何ヶ月でも隠し通せる」と。しかし全員が頼朝に同行を申し出て頼朝も許す気配を示したため實平は「今の別離は後の幸せに通じる。全員が命を永らえ敗北を乗り越え恥辱を雪ぐべき」と続けて説得した。
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    こうして全員が悲しみに耐えて分散した。その後に飯田家義が跡を辿って追いつき頼朝の念珠を届けた。普段から持ち歩き今朝の合戦の際に落とした、相模の武士なら知っている数珠である。頼朝は嬉し涙を見せ家義も同行を望んだが實平が前と同様に諌め、涙で退去した。
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    ※飯田家義: 佐々木一族を庇護した 渋谷重国の五男。高座郡長後(現在の藤沢市)で 大庭景親 と領有を争った後に和睦、鎌倉郡飯田郷(横浜市泉区)を
    本領とした。景親の娘を娶り、石橋山合戦では頼朝軍に加わる予定だったが、前後を大庭景親の所領(藤沢市大庭)と 俣野景久 の所領(横浜市戸塚区と藤沢市北部)に挟まれていたため動きがとれず、平家方に従軍した。その後は頼朝に従って転戦し、所領を安堵され地頭職を得た。頼朝没後の正治ニ年(1200)には 北條時政 の意向を受け 梶原景時 を駿河で討伐、駿河国大岡(沼津市西部)の地頭職を得ている。

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    右:城山の東、新崎川沿いの幕山公園    画像をクリック→拡大表示へ
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    新崎川沿いに整備された 町営の自然公園((湯河原町のサイト)。新崎川に沿って入口から上流まで1km以上のエリアに遊歩道が続き、毎年1月下旬~3月中旬には幕山の山裾に植えられた4000本の梅が見事な花を咲かせ、園内では「梅の宴」など様々なイベントが楽しめる。平成18年から(梅まつりの期間中のみ)駐車が有料になったのは少し残念だけど。
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    伊豆方面の観梅のベストは小田原の曽我梅林で次が幕山公園、ワーストは熱海梅園(駅からは近い)だが、曽我を除く二ヶ所はも有料である。管理する側の苦労と経費は理解できるけれど公共に資する公園に金を払って入るのは不愉快だし、町民が無料なのも抵抗を感じるので期間中は立ち寄らない。
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    純粋に梅を楽しむのなら広範囲に梅林が点在し小道が縦横に通じている曽我がベストだ。熱海と湯河原の梅は観光用、曽我は実を採るため栽培されている樹種で、もちろん梅酒や梅干し用の購入もできる。
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    新崎川上流に向って右側の幕山(626m)と南郷山(611m)の周辺には小道地蔵と自害水(自鑑水)、左側の城山北東側に「しとどの窟」や「土肥大杉跡」、両側の山から箱根権現にかけて頼朝の敗走伝説が様々な形で残っている。石橋山から土肥を経て真名鶴(岩海岸)から船出して安房へ逃げるまで、平治の乱と並んで頼朝の生涯で最も苦しかった10日間である。

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    左:土肥椙山の「しとどの窟」    画像をクリック→拡大表示へ
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180)  8月24日 】 の続き。
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    大庭景親 は ‬頼朝 を追って山の峰や渓流沿いを捜索した。‬梶原平三景時 という者が頼朝の所在を知りつつ温情を掛け「この山には人が入った形跡がない」と景親を傍らの峰に誘導した。頼朝は髻(もとどり)から観音像を取り出してある洞窟に安置した。
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    土肥實平 がその訳を尋ねると、「景親が私の首を獲ってこの仏像を見たら、源氏の大将軍らしくないと嘲ることだろう。この像は私が三歳の時に乳母が 清水寺(wiki)に参籠して私の将来を神仏に祈り、27日過ぎに夢のお告げによって二寸の銀製観音像を得た、それ以来私が帰依を続けているものだ」と答えた。
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    椙は杉の国字(日本製の文字で訓読みのみ、音読みはない)。土肥から箱根にかけての険しい斜面には杉の植生が多く、「土肥の椙山」として知られた地域だった。
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    また「しとど」はホオジロ類の小鳥の総称で、鵐・巫鳥とも書く。或いは、この洞窟の天井から常に水が滴り落ちているため「しとどに濡れる」意味が転じたとも言われ、正確な語源はわからない。城山の頂上から直線距離で約1km、梅で知られた幕山公園(新崎川中流域)からは直線で2kmの急斜面に位置するが、吾妻鏡にも平家物語にも 「しとどの窟に隠れた」 なる記述は見られない。
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    後述する小道地蔵堂や自鑑水(自害水)など幾つかの出来事を含めて源平盛衰記だけが書いているから、軍記物語が面白おかしく盛った可能性も高い。
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    正直に言うと軍記物語は好きじゃないし、本音としては資料として利用するのも躊躇がある。残念ながら吾妻鏡の記載は堀口の合戦から眞名鶴崎出航前後までの記述が欠けているので、史跡の探訪には源平盛衰記を参考にせざるを得ない。敵将が洞窟に隠れた頼朝を見逃したなどの劇的な脚色は現実離れしているし、まぁ「平家物語をベースにしてやや源氏サイドから面白く修飾した物語」程度の認識を前提にすれば問題ない、のだけれど。平家物語と源平盛衰記が成立した時代の確定については諸説があり複雑なので、ここでの説明は省略する。

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    右:新崎川流域周辺の鳥瞰図    画像をクリック→拡大表示へ
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      【 源平盛衰記 巻二十一  朽木に隠れた頼朝を梶原が助ける事 】
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    頼朝 は土肥杉山を掻き分けて落ち延びた。従うのは 土肥次郎實平北條四郎時政岡崎四郎義実土肥弥太郎遠平懐島平権守景能藤九郎盛長ら。追っ手の大庭景親曽我祐信 を案内に三千余騎で追跡した。杉山はそれほど広くないので隠れるような場所もない。田代冠者信綱 が頼朝を逃がすため高い木の上から散々に射たため大場勢は容易に山に入れず、その隙に頼朝は「鵐の岩屋」という谷に下って見回すと7、8人が入れるような倒木があったので暫く休息した。
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    頼朝はやがて集まって来た味方に「分散して逃げ、山を下って安房へ逃れた時には急いで集結せよ」と命じた。北條四郎(時政)は甲斐へ、他の者もそれぞれ落ちて行った。頼朝に従って山に籠ったのは土肥實平・同遠平・新開忠氏・土屋宗遠・岡崎義實・藤九郎盛長。防ぎ矢が尽きた田代信綱は頼既に頼朝は落ち延びただろうと考え、跡を追って頼朝のいる倒木の洞に入った。大場・曽我・俣野・梶原ら三千余騎は山を踏み分けて捜したが見つけられなかった。
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    大場は倒木の上に登って弓を杖にして立ち、「頼朝はこの辺に居たのだから倒木の洞が怪しい、中を探せ」と命じ、従兄弟梶原平三景時 が弓を脇に挟み太刀に手を掛けて倒木の洞に入った。そして正面から頼朝と向かい合って目を合わせた。
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      ※従兄弟の関係: 景時から三代前(曽祖父)の景通と、景親から四代前の景成が兄弟(父が鎌倉章名)なので同じ鎌倉党の遠い従兄弟に当る。

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    左:大正六年に枯死した土肥の大椙     郷土誌から転写したため拡大表示なし
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    【 源平盛衰記は更に描写を続ける 】
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    正面から 景時 と目を合わせた 頼朝 は「これで景時の手に懸かるのか」と自害する覚悟を決め腰の刀に手を掛けた。景時は「お助けしよう、もし戦に勝ったらこの事を忘れないように。」と語り掛け、蜘蛛の巣を弓と兜に引っ掛けて洞を出た。頼朝は後姿を拝み、もし助かったら七代まで恩を忘れないと心に誓った。
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    景時は洞の入口に立ち塞がって 「この中には蝙蝠が飛んでいるだけで虫けらもいない。真鶴の方角に見えた7、8騎の武者が頼朝だろうから追い掛けよう」 と申し出た。大庭は「あれは頼朝ではない、やはり倒木の中が怪しいが斧で切り破るのも面倒だから入って探して見よう」と太刀に手を掛けて洞に入りかけた。
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    景時は立ち塞がって太刀に手を掛け、「誰もが源氏の大将の首を獲り平家に見せたいと思っている。あなたが探そうとするのは私を疑っての事か、猶も不審とするなら覚悟があるぞ」 と気色ばんだ。
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    さすがに大庭も躊躇し、弓を差し込んでニ三度探ると先端が頼朝の鎧の袖に触れて音を立てた。南無八幡と祈った霊験か、二羽の山鳩が飛び出した。「頼朝がいるのなら鳩はいないだろう」と思いつつも念のため斧を取り寄せて破ろうとも考えたが豪雨になり、七、八人で大石を動かして洞を塞ぎ後刻に確認するつもりで引き上げた。
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    結局のところ源平盛衰記は「しとどの窟」ではなく「鵐の岩屋という谷にあった倒木の洞」と書いている。
    その他、頼朝が隠れたと伝わる巨樹「土肥の大椙」は大正六年(1917)に枯死しているから平安末期に倒木だった筈はないし、樹齢1000年で枯死したのなら平安末期の樹齢は200年程度、子供が隠れるのも無理だ。まぁ頼朝主従がここを通って暫し休息した可能性はあるから、830年の時を隔てて敗残の頼朝と同じ場所を歩いている、程度に感じれば良い。
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    土肥の大椙は既に痕跡も残っていないが記念碑が建っているらしい。県道75号沿いに車を停めて山道を20分ほど、いずれ改めて訪問しようと思う。画像を見る限りでは目通し(目の高さの直系)3mほどで「抜きん出た巨樹」と表現する程ではない。
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    天運に味方されて危機を脱した頼朝は大庭勢が引き上げたのを確認して内側から石を転がし、小道越えの岩道から土肥の真鶴に向って落ち延びた。雨が止んで倒木に戻った大庭は大石を転がした跡を見て 「これは梶原に騙された、それほど遠くまでは行かないだろう」 と頼朝を追い掛けた。
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    源平盛衰記を著した人物の才能と努力には敬意を払うけど、前後の整合性は考えて欲しいよね。景親も馬鹿じゃあるまいし、「七、八人で大石を動かして洞を塞ぐ」ほど心配なら景時を押さえ付けてでも中を確認すべきだろ。それに頼朝の逃亡を助けた景時を処罰せず、その後も同行させている理由は何だい?
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月24日 】
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    夜になって 北條時政 が頼朝に合流した。筥根山(箱根権現)の別当僧・行實が弟の僧・永實に食料を持たせて頼朝を捜索し、まず時政に逢って頼朝の事を尋ねた。時政は「景親 の包囲から逃げられなかった」と語ると永實は「将が亡んだのならあなたも此処にはいないでしょう」と答えた。
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    時政は笑って頼朝の前に連れて行った。持参の食料は実に貴重な差し入れだった。實平は「世が落ち着いたら永實を筥根山の別当に抜擢すべき」と申し出た。頼朝もこれを了承し、永實と共に筥根山に向かった。行實の宿坊は参詣人が多く、隠れるには適さないため永實の房に入った。
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    行實の父・良尋は 為義義朝(頼朝の祖父と父)の時に多少の縁があり、その縁によって父から筥根山別当職を譲られた者である。為義は行實に下し文を与え東国の関係者に供した。義朝の下し文にも「駿河と伊豆の者は行實の求めに応じるべし」としている。頼朝が北條にいた頃から祈祷を受け持っていた。石橋山敗北の知らせを受けて嘆いていたが、数多くの弟子から永實を選んで派遣したのである。

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    右:小道地蔵堂旧跡と現在の地蔵堂、吉浜稲荷   画像をクリック→詳細ページへ
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    800年前には土肥から箱根に登る斜面は一面の杉林で、古来から「土肥の椙(すぎ)山」と呼ばれていた。新崎川の上流では現在でも古代杉の埋れ木が掘り出され、工芸品に加工されている、とか。
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    頼朝は8月18日に韮山で挙兵して22日には土肥館に集結、23日に300騎で石橋山に布陣し、大庭景親3000騎+伊東祐親 300騎の軍に惨敗した。その後は土肥郷へ退いて陣容を立て直そうとしたが激しい追撃を受けて堀口の合戦(瑞応寺付近)でも敗れ、24日の夜明け以降は土肥山中を逃げ回っている。
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    源平盛衰記に拠れば、頼朝主従は尾根近くの地蔵堂に逃げ込んで住僧の純海に匿われ、辛うじて生き延びた。よく知られている「しとどの窟」と谷を隔てた北東側の斜面である。
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    小道地蔵堂の旧跡は湯河原北方の別荘地を抜け、5月末には見事な花を見せる湯河原町営の「さつき公園」から「白銀(しろがね)林道」北側の舗装路を約3km登った、標高600mの斜面に残っている。もちろん小さな公園が昔日を伝えているだけだが、見晴らしの良い散策路である。
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    追討軍の軍兵が頼朝の所在を白状させようと拷問を加え、純海は黙したまま絶命した。源平盛衰記は「夕刻になって隠れた穴倉から這い出した頼朝がハラハラと流した涙が純海の唇を濡らし、蘇生した」と書いている。小道地蔵堂旧蹟から自鑑水にかけての
    Google衛星画像、訪問の際の参考に。

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    左:頼朝が自刃を覚悟した自鑑水、自害水とも    画像をクリック→詳細ページへ
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    「さつき公園」を左に折れて白銀林道(やや広め一車線の簡易舗装路、普通車なら問題なく通行可能)に入り、南郷山の中腹を南に迂回して西へ3kmほど進むと「自鑑水入口」の標識がある。ここから更に山道(ハイキングコース)を500m登ると幕山との中間地点に「自鑑水(自害水)の史跡」がある。
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    小道地蔵から更にこの地点まで落ち延びた 頼朝 は水に映った己の敗残の姿に絶望し、最早これまでと自害を考えたが、先導していた 土肥實平 が「土肥の椙山の隅々まで、私の知らない場所はありません。敵の追及が緩むまで幾日でも隠し通します。この程度の敗戦で源氏の棟梁たる者が志を捨ててはなりません。」と諌め励まし、頼朝もなんとか自害を思いとどまった、と伝わっている。
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    「自鑑水」は湧き水と言うよりも降雨が溜まった窪地、と表現する方が的を得ている。しばらく好天が続くと干上がってしまう数坪ほどの湿地なのだが、頼朝が通ったのは台風通過の直後だった。頼朝が自害を試みたため当初は「自害水」と呼んでいたが、余りにも生々しいため「自鑑水、に改めた、らしい。
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    白銀林道は多少の砂利道を挟みながら新崎川上流を迂回し「しとどの窟」の近くを経て湯河原と箱根を結ぶ県道に合流するが、時期により通行止めになる場合もある。さつき公園~小道地蔵~自鑑水~幕山と続くハイキングコースは日当たりの良い南斜面を歩く、初心者でも楽しめるルートである。

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    右:もう一つ、真鶴海岸にもある鵐(しとど)の窟    画像をクリック→詳細ページへ
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    挙兵した治承四年8月17日に 山木判官兼隆 を討ち取った頼朝軍は函南~湯河原を経て、6日後の8月23日には石橋山に布陣。日暮れから始まった戦闘で惨敗し、活路を求め分散して土肥から落ち延びた。
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    北條時政 と二男の 義時 は箱根を越え甲斐を目指したが 頼朝 の安否確認をと考えて土肥に引き返し、時政嫡男の 宗時狩野茂光 は進軍ルートを逆に辿り、日金峠を越えて函南に下った。
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    頼朝は土肥から箱根権現までの山中を逃げ回り、8月28日になって真鶴海岸から安房へ小舟で脱出した。この時は主従わずかに七騎だったと伝わり、謡曲などで名高い「七騎落ち」のクライマックス・シーンとなるが、原典の軍記物すら信頼に値しないのだから、更に派生した謡曲の信頼性など推して知るべし、だ。
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    前日の27日には同じ岩浦から北條時政と義時、岡崎義實、近藤七国平などが先触れのため舟で安房に向かった。この先発隊は途中の海上で三浦を落ち延びた 義澄 主従の一行と奇跡の合流を果たしている。
    2日続けて舟を出せた...つまり石橋山合戦から10日を過ぎた海岸線の警備は存外に甘く、特に緊迫した危機ではなかったのだろう。
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    真鶴半島先端に近い漁港の隅にも「鵐(しとど)の窟」が残っている。追っ手から逃れた頼朝一行が隠れた場所と伝わっており、昔は高さ2m・奥行は10m以上もあったが崖崩れによって小さくなったらしい。地元の伝承に拠れば、大庭景親の兵が中を確認しようとした時に「しとど」と呼ぶ小鳥が飛び出したため、誰もいないと思って見過ごした、とか。 追われている者が逃げ場のない洞窟に隠れる...なんて事はないと思うけど。

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    左:材木座の東、小坪合戦場と和賀江島    画像をクリック→干潮時の和賀江島鳥瞰へ     
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    左隅には逗子マリーナのリゾートマンション、撮影場所の正面に和賀江島がある。平安末期の海岸線はもっと陸側に入り込んでいたらしいが、合戦があったのはもう少し東側だろうか。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月24日 】
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    三浦軍は舟が使えないため陸路で衣笠を出発し、昨夜に丸子河(現在の酒匂川)東岸に進出した。夜明けを待って頼朝軍に合流する予定だったが合戦が頼朝敗走に終わったと知り、やむを得ず引き上げた。
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    その帰路、由比ヶ浜で 畠山重忠 軍と遭遇、多々良重春と郎従石井五郎が戦死、重忠側は郎従50余名が討たれて撤退した。義澄 らは三浦を目指し、途中で 上総廣常
    の弟 金田頼次が70余騎を率いて合流した。
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    平家物語は由比ガ浜の小坪合戦について、更に事態の推移を描いている。軍記物語に有り勝ちな誇張は割り引く必要はあるが、畠山重忠と 和田義盛の自尊心や意地が見えて面白い。
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    【 平家物語(長門本) 小坪合戦の段 】
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    丸子河(酒匂川)から撤退した三浦軍は夜明けに小坪の浜で畠山軍と遭遇した。三浦の侍大将 和田義盛は総大将の 三浦義澄 に「鐙摺(葉山)の城に入り給え、私はここで一戦してから合流しましょう」と言って先行させた。赤旗を輝かした畠山重忠の500余騎は稲瀬河(小坪から約1.5km)に布陣して使者を送り、「三浦の衆に遺恨はないが、父の 重能 と叔父の 小山田有重は平家に従って六波羅に奉公している。重忠軍陣の前を源氏が素通りすれば叱責を受けるから参上した。こちらへ出向くか、或いはそちらに出向こうか」と申し入れた。
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    義盛は實光(これ誰か判らん!)を使者に立て、「承った、確かにその通りではあるが重忠殿は 三浦義明 の孫(重能の正室は義明の娘、つまり重忠の母)である。祖父に弓を向けるのが本意とは思えぬ」と答えた。重忠は「元より意趣はない、父と叔父の立場に配慮して出陣したのである。では重忠も引き上げるから各々も三浦に帰り給え」と答えて双方の面目を保ちつつ合戦を回避した。
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    これで済めば良かったのだが、思わぬ事態が勃発する。義盛の下人が早とちりして椙本館(父・椙本義宗の館、現在の杉本寺)に駆け込み、三浦本隊から離れて亡父の館に立ち寄っていた義盛の弟・義茂に「由比ヶ浜で合戦っ!」と報告したものだから、義茂は兄の危機を救おうと由比ヶ浜に駆け付けた。
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    義茂が犬懸坂を駆け下ると甲冑の武者4~500騎が見えたため大声で叫びながら突入した。それを見た畠山勢は「和平の話は嘘か、援軍を待つ口実か」と攻め掛かり、義盛勢も「義茂を討たせるな、戦え」と押し寄せ、鐙摺に入った三浦義澄も小坪浜に取って返した。畠山勢は「三浦勢に加えて上総・下総も加わったか、多勢に囲まれては不利だ」と考え、防戦しながら退いた。三浦軍は勢いに乗って攻めかかり本格的な合戦になってしまった。
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    ※犬懸橋: 杉本寺(椙本館)の前で滑川を渡るのが(地図)、そのまま南下し大町に下る山道が現在もあるらしい。このルートが犬懸坂と推定できるが、
    由比ヶ浜までは直線でも4km近いから義茂も大変だっただろうね。ちなみに滑川は大刀洗川→ 胡桃川→ 滑川→ 座禅川→ 夷堂川→ 炭売川→ 閻魔川 と名を変えて由比ヶ浜に流れ込む。名前の由来を調べるのも面白い。
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    和田義茂の奮戦によって畠山側は連太郎・河口次郎大夫・秋岡四郎など屈強の武者30余人が討たれ負傷者も多数、三浦方は多々良十郎と同・次郎と郎党二人が命を落とした。一旦は兵を引いた畠山重忠は 河越重頼(従兄弟)と 江戸重長(叔父)と共に兵をまとめ、翌々日になって衣笠城に攻め寄せる。

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    右:三浦・衣笠の義明山満昌寺に残る大介義明の首塚     拡大画像なし
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月26日 】
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    畠山重忠 は平家の恩に報いるため、また由比ガ浜の屈辱を晴らすため三浦を攻撃、秩父氏の家督を継いだ 河越重頼 と縁戚の 江戸重長 も 同意して寄せ手に加わった。
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    これを知った三浦一族は衣笠城に籠って東の木戸(大手)は 義澄義連 、西の木戸は和田義盛 と金田頼次、内側は長江義景と大多和義久らが固めた。朝、河越重頼・中山重實・金子・村山ら数千騎が押し寄せ、三浦の兵も善戦したが連戦の疲労に加えて矢が尽きたため城を捨て逃げ去った。
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    当主 義明 は「源氏累代の臣として再興の機会に巡り合ったのは幸いだが、既に80歳を過ぎて久しい。私は余命を頼朝に捧げ子孫の栄誉に貢献しよう。皆は急ぎ退去して頼朝に合流せよ、私は城に残り、重頼に多数だ思わせよう」と言った。義澄らは泣きながら命令に従って落ち延びた。
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    【 吾妻鏡 建久五年(1194) 9月29日 】
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       頼朝は義明の菩提を弔う寺の建立を考え、中原仲業 に命じて三浦矢部郷を巡検させた。
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    寺伝に拠れば、頼朝は義明十七回忌の建久八年(1197)8月27日に満昌寺(公式サイト)の廟所を訪れて法要を営み、「89歳で没した義明は今も心の中で生きている」と語った。これが転じて89+17=106歳、地元に伝わる「鶴は千年 亀は万年、三浦大介百六つ」の囃し言葉になったらしい。満昌寺本尊は華厳釈迦像(室町時代)、廟所の五輪塔と宝篋印塔と板碑などは鎌倉時代末期から南北朝時代の作である。
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    建久七年~九年は吾妻鏡の記載が脱落している空白期間となる。従って満昌寺に関わる記述はないが、当初は天台宗で鎌倉時代末期に仏乗禅師が臨済宗に改め建長寺派に属した。宝永二年(1705)に焼失して寛延二年(1749)に再建、同時に雲龍山を義明山に改めている。
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    衣笠城は三浦半島先端部の中央に位置する山城で、数に勝る敵の包囲を突破して5km離れた海岸から船で脱出したと考えるのは合理性が乏しい。義明死没の経緯は判らないが、三浦の本隊は包囲される前に城を捨てて出航したと考えるべきだろう...などと思ってGoogle Earthで調べてみた。
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    城址の北東1kmを流れて久里浜に注いでいる平作川の水面は海抜9m、周辺の標高も海抜11m程度だったらしいから、「平安時代末期の海岸線は衣笠城の近くまで入り込んでいた」という話は本当だったのかも。ひょっとして海に続く水路の存在も考えられる、か。

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    左:三浦大介義明を弔った来迎寺     画像をクリック→詳細ページへ
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月27日に戻って...】
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    辰の刻(朝8時)、衣笠城の 三浦介義明 (89歳)が 河越重頼江戸重長 に討ち取られた。 大庭景親 も数千騎を率いて衣笠に攻め込んだが既に三浦一党の退去後で、空しく引き上げた。
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    源平盛衰記に拠れば義明は全滅を覚悟した一族に「敗戦は明らかだが死んではならん、佐殿(頼朝)は必ず生きているから合流して三浦の家を立て直せ。」と説得し、「しかし、私は残る。この歳で既に体は不自由であり、逃げ遅れて一族が滅びたら命を惜しんだ私の恥辱と思われる。逃げ切れずに途中で置き去りにすればお前たちが不孝・不忠と嘲られる」と。混乱する戦況の中で義明は頼朝の再起に期待し、一族の脱出に命を賭けた。
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    後に鎌倉に入った頼朝は材木座の能蔵寺(現在の来迎寺)に義明の墓を建立して菩提を弔い、一族を重用して恩義に報いた。来迎寺の墓地には死してなお主君を守るかのように側近の墓が並んでいる。
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    草創期の鎌倉幕府に大きな足跡を残した三浦一族は 義明義澄義村 と続き、次の 泰村 の時代(1247年)に鎌倉幕府五代執権 北條時頼 に滅ぼされる(宝治合戦)。やや出来の悪い義村を継いだのが更に暗愚の泰村...傑物の子孫が必ずしも傑物とは限らない。
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    更に時代は流れ、同族の泰村に与せず一族を率いて時頼に味方した佐原(三浦)盛時(義明の末子 義連→ 盛連→ 盛時が三浦介として宗家を継承した。一族は城ヶ島に近い荒井城を本拠に450年間も三浦半島を支配したが、義明から13代後の三浦道寸が永正十八年(1516)に伊勢新九郎(後の北条早雲)に攻められ二千の兵は全滅、城兵の血で湾は油を流した様になり、以後は油壺と呼ばれた。三浦一族は二度も北條(北条)に滅ぼされたことになる。
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    ちなみに、伊勢新九郎が北条を名乗った事実はない。北条の姓を称したのは新九郎が没した4年後の大永三年(1523)が最初で、この時の当主は二代目の氏綱。「伊勢氏と北條氏の先祖は同族だった」との主張を基にして関東支配の正統性を示すと共に、覇権を握った北條氏に倣いたかったらしい。晩年の新九郎盛時は明応四年(1495)の少し前に出家して「早雲庵宗瑞」を号にしているのみ。
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      ※江戸太郎重長: 平良文 の孫 将恒が秩父に本拠を置いて秩父氏を名乗り、武基~武綱と続く中で武蔵国各地に扶植し繁栄したのが秩父平氏。
    武綱の嫡子が重綱、その長男重弘(重忠の祖父)が畠山氏、二男重隆が河越氏、三男重遠が高山氏、四男重継(重長の父)が江戸氏の祖になった。頼朝が挙兵した治承四年には一族の長老格である重忠の父・重能と河越重隆は大番役で在京しており、嫡男重忠が一族の棟梁を代行していた。重忠は平家に仕えていた父と叔父の立場を謂わば配慮して 大庭景親 に味方したが、頼朝が上総国から武蔵国に進軍する時点で降伏し、頼朝旗下に加わっている。

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    右:真名鶴の岩浦から船出して安房国へ    画像をクリック→詳細ページへ
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月28日 】  頼朝の真鶴出航に関する吾妻鏡記述は一行のみ。
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    加藤光員景廉 の兄弟は駿河国大岡牧(沼津北部)で合流、無事を確認し涙を流して富士山麓に潜伏した。頼朝土肥實平 の配下である貞恒が用意した小舟で眞名鶴崎(真鶴)から安房国を目指した。また 土肥遠平(實平の嫡男)を使者として御台所 政子 に無事を連絡した。
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    真鶴観光協会は毎年5月の第4日曜日には「祝いの浜 頼朝まつり」を開催していたが廃止になり、「祝い」の呼称だけが残っている。また土肥遠平は湯河原と小田原の中間に位置する早川荘を相続し、後に安芸(広島)に所領を得て小早川氏の祖となった。嫡男景平は養子で、実父鎌倉幕府の重鎮 平賀義信 の五男。
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    【 平家物語 安房落ち 】
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    三浦から落ち延びた人々は舟で安房の北にある猟島に上陸し敗残の惨めさが漸く安らいだ。やがて沖合いに一艘の舟が見え、「この悪天候に漁師や商人ではない。頼朝殿の舟か、敵の舟かも知れぬ」と警戒した。次第に近付いた舟には頼朝の笠印が見え、三浦側も笠印を掲げた。頼朝の舟では更に用心して頼朝を打板(脚付きの腰掛け)の下に隠し、その上に武者が居並んだ。三浦方の 和田義盛 が「頼朝殿は乗っていないのか」と問い、頼朝方の 岡崎義實が「我らも行方を捜している」と答えた。
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    ※岡崎義實: 義明の弟で三浦義澄や佐原義連の叔父、和田義盛の大叔父。相互に疑いを抱くような関係ではない。
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    三浦方は 義明 が遺した言葉を語り、岡崎義實は 与一義忠 討死のことなど合戦の様子を語り合った。頼朝は隠れる必要はないと考えて打板の下から出た。三浦の人々は大いに喜び、和田義盛は「父が死のうが子孫が滅びようが、頼朝殿の無事を確認した喜びに勝るものはない。挙兵の目的を達成するのは疑いなし、その時には侍たちに国中の所領を分け与え、義盛には侍所別当への任命を。上総権守(藤原)忠清 が平家から関東八ヶ国の侍別当に任命されたのが羨ましかった」と語った。
     以下、略

    左:岩浦の瀧門寺と如来廃寺の跡    画像をクリック→詳細ページへ
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    岩地区で訪問した源氏に関わる寺社は曹洞宗の多寶山瀧門寺、帰名山如来廃寺の跡、惟喬親王とその子を祭神とする兒子(ちご)神社の三ヶ所。源平合戦とは、改めて改めて書くほどの関係ではないけれど。
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    瀧門寺にも直接の関連はないが、如来廃寺にあった「相州祝村 宝永二年(1705)」と鋳込んだ銘のある半鐘がこの寺に保存されている。「土肥椙山の危機を逃れて何とか海岸に着いた 頼朝嬉しさの余りこの集落を「祝村」と名付けた」という伝承の傍証であり、かつては「祝村」と呼ばれていた岩地区の歴史を物語っている。現物を撮影したかったのだが、鐘楼ではなく本堂に保存してあるため残念ながら不可、だった。
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    真鶴から脱出する直前の状況を描いた源平盛衰記には 土肥實平 が嫡子 弥太郎遠平 の内通を疑って斬ろうとするシーンが出てくるから面白い、と言うか支離滅裂状態になっている。弥太郎は小早川村(石橋山東麓の早川荘)を本拠とした 小早川遠平 で、妻は 伊東祐親 の娘(工藤祐経 の前妻)。後に勲功で得た安芸沼田荘(広島県竹原市)を養子の景平(平賀義信 の五男)に任せ、本領の早川荘を嫡子維平に継がせている。
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    【 源平盛衰記 頼朝が舟で逃れ三浦一党に会う事 】
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    土肥實平は「出富の小検校」という漁師の小舟で真鶴の岩海岸から舟を出そうとした。子息弥太郎(遠平)が言うには「万寿冠者が来る筈なので暫く待って頂きたい」と。弥太郎は伊藤入道(伊東祐親)の娘婿で、万寿冠者とは子供のない弥太郎が妹の子を養子に迎えていた。母方の祖父伊藤入道に預け、娘にとっても婿にとっても養子だが入道が不憫に思い養育していた子である。
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      ※妹の子を養子: 遠平に男子がいなかったのは事実らしいが、養子に迎えたのは 平賀(大内)義信 の五男、北陸で戦死した 伊東祐清 の寡婦が
    義信に再嫁して産んだ子(成長して景平)である。
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    實平は弥太郎が「万寿冠者を待つ」と言うのを怪しんだ。「ずっと土肥杉山に隠れていた七騎の他には誰も知らない。敵方である伊藤の許にいた万寿冠者が知る筈はない。弥太郎は万寿冠者を理由にして舅の伊藤入道が押し寄せるのを待ち、重代の主君を裏切り親を殺そうとするか。岡崎殿、首を討ってくれ」と言うと岡崎(義實)は「いくら舅でも主君や親に替わる筈はないが、いずれにしろ早く舟を出す方が良い」として漕ぎ出した。
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    吾妻鏡は「頼朝は出航(8月28日)に先立って無事を報告するため遠平を伊豆山の政子の許に派遣した」と書いている。岩浦と伊豆山(阿岐戸郷)の距離は10kmだから報告を済ませてトンボ返りした可能性もあるが、途中の土肥一帯には大庭と伊東の軍勢が展開していたのを考えると引き返すリスクは避けただろうし、中村氏と伊東氏は比較的近い縁戚で憎み合うほどの関係ではない。源平盛衰記が面白く脚色したと考えるべきか。「伊藤」は原文の通り。
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    4~500mほど沖で振り返ると万寿冠者と共に伊藤入道率いる50余騎、更に 大庭三郎景親 の千余騎が浜辺に押し寄せた。危うく何を逃れた一行は安房国洲崎(現在の館山市・地図)を目指して急いだが沖の風が強く、何処とも知らぬ渚に吹き寄せられてしまった。
    頼朝が場所を問い掛け、實平が船縁に立って見回すと相模国早川の河口(岩漁港から北10kmの小田原漁港・地図 付近)で、しかも土肥から撤退中の大庭勢3千騎が篝火を焚いて幕を張り酒宴をしている陣の近くに吹き寄せられていた。

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    右:延喜年間(900年代初頭)創建と伝わる兒子神社  画像をクリック→詳細ページへ
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    【 源平盛衰記 頼朝が舟で逃れて...は更に続く 】
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    「杉山で死ぬ筈の身が大菩薩の加護で逃げられた、ここで見捨てられるのか」と、頼朝 は思った。真平(實平)は「この辺の者はみな私の家人だから酒肴を調達しよう」と舟から降り「我らの主君がこの浦に着いた、真平に心を寄せる者は酒肴を進上せよ」と叫び、人々は競って酒肴を舟に運び入れた。舟の中は暗かったが敵の篝火の光で頼朝は酒を呑んだ。誠に八幡大菩薩の加護である。
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    やがて風が止み波も鎮まったので漕ぎ出し、安房国洲崎に着いた。三浦一党は頼朝を捜して安房上総の浦々を漕ぎ回っており、頼朝の舟も三浦の舟も互いを怪しみ容易に近寄らなかったが、語り合った末に船底から頼朝が姿を見せた。三浦は「義明が言い遺したのは真実だった」と喜んだ。
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    岡崎義實は石橋山で与一が討たれた事を話して泣き、三浦は小坪合戦と衣笠合戦と大介(義明)の言葉や老いた父を見捨てた事を語って泣いた。一方では将来を担う若者を先き立たせたのを悲しみ、一方は老人を見捨てたのを悲しんだ。
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    和田小太郎(義盛)は「嘆いても詮無いないこと。合戦で死ぬのは覚悟の上で、話せばそれだけ悲しみが増す。この上は主君に従って平家を滅ぼし、恩賞を得て栄えるのを考えよう。義盛には侍別当の任を賜りたまえ、上総権守忠清(藤原忠清)が平家から関東八ヶ国の侍別当に任命されたのが羨ましかった、他の者はこの職責を求めないように。」と願った。頼朝は「少し早いが、生き延びて(覇権を得たら)そうしよう」と笑った。
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    【 その後の土肥氏小早川氏 】
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    小早川(土肥)遠平 一族は建暦三年(1213)の和田合戦で縁戚関係が深かった 和田義盛 に味方して滅亡。既に家督を維平に譲っていた遠平は無関係の主張を貫き通して処分を逃れ、安芸へ移って土着した。子孫には関ヶ原で東軍に寝返った小早川秀秋がいる。ただし戦国時代の小早川氏は毛利氏に呑み込まれており、更に秀秋自身も養子(秀吉の正室寧々の甥)なので土肥氏の末裔とは言えない。
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    左:鋸南町竜島 頼朝上陸地の碑    画像をクリック→拡大表示のみ
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    【吾妻鏡 治承四年(1180) 8月29日】  頼朝の猟島到着も吾妻鏡の記述は一行のみ。
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    頼朝土肥實平 を伴い小舟で安房国平北郡猟島に上陸した。北條時政 ら先着の人々が頼朝を出迎え、数日間続いていた鬱念が晴れた。
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      ※平北郡猟島: 現在の鋸南町竜島港南側に頼朝上陸の碑がある(地図)。
    JR内房線安房勝山駅から約700mの約700mの猟島付近に上陸したのは史実だろうが、もちろんピンポイントで石碑の位置に第一歩を印した訳ではない。ちなみに湯河原~三浦の距離は海路60kmで三浦~竜島はわずか12km、意外に思うほどの近距離にある。
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    当時の安房国は安西・金余・丸・東條・長狭の5豪族が支配しており、長狭氏以外は頼朝に従った。上陸した猟島一帯は「安房の西」を領有していた安西氏の所領で、三浦一族と縁戚関係にあったと推測されている。三浦一族や土肥一族が頼朝を安房国猟島に導いたのは偶然ではなく、頼朝挙兵に対応して協力し合うのを事前に確認していたはずだ。
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    頼朝の安房国上陸地点については諸説あり、現在では鋸南町の竜島(旧名を猟島)が定説。少し沖にあった小さな飯島は土肥實平または 三浦義澄 が頼朝一行のために炊飯した場所だと伝わっているが、ほぼ水没している。
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    【 鋸南町に残る愉快な、と言うか馬鹿馬鹿しい伝承の数々 】
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    名主の歓待を受けた頼朝は危機を脱した嬉しさから「天下を得た時には安房一国を与えよう、と言った。名主は聞き間違えて「粟一石なら裏の畑で取れます。それよりも姓を賜るように」と願い出た。頼朝は「そうか、馬鹿な奴だ」と言ったそうな。以来この土地には「左右加」と「馬賀」という姓が続いている。
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    9月3日に 上総廣常の館に向う途中で頼朝が止宿した民家の襲撃を企んだ長狭六郎常伴の動きを三浦義澄が察知し、逆に攻め込んで追討した。鴨川市西部、1971年の町村合併までは長狭町、長狭常伴は 和田義盛 の父・杉本義宗と戦って矢傷を負わせ死没させた、義盛にとっての仇敵でもある。
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      ※上総廣常: 房総平氏惣領家の頭首(筆頭者)とされる。当初は 源義朝 の郎党で保元の乱・平治の乱を通じて 悪源太義平 に従って参戦している。
    義朝の敗死後は両国に戻って平氏に従った。家督をめぐる内紛、平家の家人 伊藤(藤原)忠清 との対立、平家が下総に触手を伸ばした事、などから反平家に舵を切った、と伝わっている。本拠は大原町・御宿町周辺とされるが、明確になっていない。
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    伝承に拠れば、頼朝連合軍は現在の鴨川市で長狭氏を滅ぼし(魚見塚一戦場公園として名前が残る、地図)、上陸から14日後の9月13日に精兵300騎を従えて上総国に向った。10月2日には江戸氏・川越氏・畠山氏らを味方に加えて隅田川を渡り、6日には弱冠17歳の 畠山重忠 を先陣にして鎌倉に入るのだが、房総半島での二ヶ月間の史跡探索は、いずれ改めて。

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    右:こちらも頼朝伝説の残る、仁右衛門島    画像をクリック→鳥瞰図へ
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    房総半島を半周した外房の鴨川にも頼朝上陸伝説が残っている。
    頼朝は僅かな兵と共に鴨川市太海の仁右衛門島(地図)に上陸し、歓待して再起に協力した島主の仁右衛門に平野の姓と周辺の漁業権を与えた、という。仁右衛門島の詳細(紹介サイト)を参考に。
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    仁右衛門島は「平野仁右衛門」を名乗る島主の私有地で、現在の当主は38代目。既に漁業権はなくなっているが、観光収入によって島の維持管理を続けているという。観光客は今どき珍しい二丁艪の和船で島へ渡る。渡船の往復を含め観光料金は1350円、食堂や売店も完備している。
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    【吾妻鏡の日付を根拠にすれば、】
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        8月23日・・・・夜、石橋山合戦。 頼朝 軍は惨敗し、頼朝主従は土肥郷方向へ逃走。
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        8月24日・・・・頼朝主従は堀口で抗戦するが敗北、頼朝は椙山を経て箱根権現へ。
              ・・・・同日早朝、頼朝敗北を知った三浦軍は酒匂川の周辺から撤退し三浦へ。
              ・・・・夕刻、三浦軍は逗子海岸に近い小坪で 畠山重忠軍と遭遇して合戦。
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        8月25日・・・・甲斐源氏の 安田義定 軍が駿河に進み、富士南麓の波志太山で 俣野景久 軍と遭遇し合戦、俣野景久は敗走。
              ・・・・同日、箱根権現も危険なため頼朝は再び土肥郷へ。甲斐に向った北條時政 は頼朝の所在確認のため土肥郷に戻った。
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        8月26日・・・・畠山重忠川越重頼 ・中山重實・ 江戸重長 らが衣笠城を攻撃、当主 三浦義明 は籠城し嫡男 義澄 らは脱出し舟で安房を目指す。
              ・・・・大庭景親渋谷重国 館(現・綾瀬市)を訪れ佐々木兄弟が頼朝に与した事を抗議。夜、佐々木兄弟が全成を伴って渋谷館に入る。
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        8月27日・・・・早朝、三浦義明が戦死。北條時政義時岡崎義實 、近藤七国平らが岩浦から出航、海上で義澄一行と出会い安房国に着く。
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        8月28日・・・・土肥實平が手配した小舟で頼朝は岩浦から安房国に出航。土肥遠平は仔細を連絡するため政子が隠れた伊豆山へ向かった。
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        8月29日・・・・頼朝は土肥實平を伴って安房国平北郡猟島に到着、先発していた北條時政らが出迎えた。

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    左:逃げ切れなかった二人、北條宗時と狩野茂光  画像をクリック→明細にリンク
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    その後の頼朝は東国一の勢力を誇る 上総廣常千葉常胤 を従え、更に武蔵国秩父平氏諸族を吸収して膨れ上がり、畠山重忠‬ を先陣として鎌倉に入った。異母弟の 範頼阿野全成義経も加わり、同年の10月20日には富士川で平家の追討軍を敗走させた。更に 木曽義仲‬との覇権争いを経て、元暦二年(寿永四年・1185年)3月24日には壇ノ浦に平家を滅ぼして武士の政権を樹立させていく。
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    しかし、緒戦の石橋山合戦では付き従った多くの将士を死なせてしまった。
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    伊東一族の本家筋にあたる 狩野茂光 は土肥から北條を目指して逃げる途中の函南で自害し、同行した 北條時政 の嫡男 三郎宗時伊東祐親 の手勢に囲まれ、地元小平井の名主・紀六久重に討たれた。
    紀六久重は伊東祐親の郎党とする説もあり、掃討戦だったのか落武者狩りだったのか判然としない。高台にある墓所は「時まっつぁん」と呼ばれており、紀六久重が宗時を時政と間違えて「時政を討ち取った」と叫んだ故事からこの名称が派生したという。
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    宗時戦死の数年後、父の時政は捕縛した紀六久重を殺し、墳墓堂を建てて宗時の菩提を弔った。狩野茂光は嘉応二年(1170)に追討軍を指揮して伊豆大島の 為朝 を討伐した、狩野川上流の豪族(伊豆介)である。広大な牧草地を支配して近隣では随一の武力を誇っていたが肥満体のため馬に乗れず、輿では逃げ切れぬと考えて自刃。石橋山合戦を共に戦った孫の 田代信綱 に命じて介錯させた、と伝わっている。
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    【 豪族・狩野茂光について 】
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    狩野一族は平安末期から戦国時代まで狩野川の中・上流一帯を支配した豪族で、藤原南家の工藤氏から出ている。修善寺温泉と船原温泉に挟まれた柿木川沿いに史跡・狩野城址が残されており、郭・土塁・空堀のある中世の連郭式山城の典型的な形が残っている。両側に険しい崖が続く細い尾根道を30分ほど歩くと本郭のある頂上に至る。大庭景親 率いる平家軍は函南から柿木まで兵を進め狩野城を攻め落としている。
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    ※藤原南家工藤氏: 藤原鎌足の次男不比等の長男武智麻呂を祖とするのが藤原南家、弟の次男房前を祖とするのが藤原北家。
    武智麻呂の屋敷が房前の屋敷より南にあったのが南家・北家の語源である。武智麻呂の子孫 為憲が仁寿八年(852)に宮殿造営職の次官(木工助)に任じて「工藤大夫」を称したのが工藤姓の最初、為憲の孫 維景が伊豆国狩野に土着したのが狩野姓の最初で、伊東・伊藤・二階堂など諸族の源流となった。工藤氏の一派は駿河にも土着している。
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    その後の狩野一族は伊豆の雄として歴史の流れに何度か登場し、最後は伊勢新九郎(後の北条早雲)と戦い武家としての最後を迎えた。狩野茂光は伊東祐親の叔父(父・祐家の弟)にあたり、伊豆に割拠した土豪たちもまた、相模や武蔵の住人と同様に一族が敵味方に別れ源平の戦いに加わっている。
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    ちなみに、狩野氏の子孫が室町時代から江戸時代にかけての画壇で活躍し狩野派の開祖となった 狩野政信(wiki) 。「鎌倉時代を歩く 壱 の参」、鎌倉時代の胎動、伊豆韮山 の 狩野城訪問記 に訪問の詳細を載せておいた。

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    右:函南の桑原薬師堂と新光廃寺跡    画像をクリック→明細にリンク
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    宗時&茂光の墓所から2kmほど北の山間に「桑原薬師堂」がある。頼朝文覚上人 と挙兵の相談をした伝承を持つ長源寺の境内にある。管理は長源寺と桑原地区の住民が共同で受け持ってきたが、平成20年に函南町に寄付されて行政の管理下に入った。信仰の対象だった仏像が辿る現代の宿命だろうか。
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    桑原地区は平安時代初期に箱根権現の神領となり、天平宝字元年(757)に箱根の山岳宗教を統合した 萬巻上人(wiki)の隠居所を兼ねた菩提寺として開かれた小筥根山新光寺があった。
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    この新光寺が廃寺となった時期は明らかではないが、薬師堂の登り口から来光川に沿って300mほど北の水田に寺の跡と伝わる礎石が残っている。付近には新光寺の遺物と思われる巨石が無造作に集められているのも目を惹かされた(廃寺跡の地図)。1300年近い昔の雰囲気を味わえるエリアである。
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    箱根神社および裏山に設けられた萬巻上人の奥津城(神道の墓所)の 画像と詳細 を併せて参照されたし。
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    薬師堂本尊の薬師如来坐像は元々は新光廃寺の本尊であり、名のある都の仏師の作と推定される。60年ごとに開帳される秘仏として長く伝わってきたが、2005年頃から土日のみ拝観できるようにり、現在は近くに完成した新しい かんなみ仏の里美術館(公式サイト)で公開されている。
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    薬師堂には薬師如来坐像の他にも平安時代の中盤~江戸時代に造られた仏像が20体ほど収蔵されており、両側に脇侍を従えた阿弥陀如来像の内部には 實慶の銘が残る。実慶は鎌倉時代初期に伊豆から相模にかけて造仏に従事し、承元四年(1210)には修禅寺本尊の大日如来坐像を彫った大仏師。運慶 を頂点とする奈良仏師の集団「慶派」の一人である。

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    左:桑原薬師堂に伝わる20体の仏像  画像をクリック→明細にリンク
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    【慶派の仏師と東国の関係について】
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    平安末期に最も力のあった京都の仏師(院派・円派など)が朝廷や平家と深い関わりを持っており、覇権を握った 頼朝 も勝長寿院の本尊には奈良仏師の嫡流大仏師の成朝に本尊の阿弥陀如来像を造らせている。
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    個人的には韮山の願成就院にある仏像数体は運慶の作ではない、と思う。
    しかし年代をだけ考えると、文治元年(1185)10月に入京した 北條時政義経 追討の名目で朝廷に圧力を加えて守護地頭の設置を認めさせ、翌年4月に鎌倉に帰還している。そして 運慶 が韮山・願成就院の造仏を始めたのは文治二年の5月3日と記録されているから、計算は見事に合致する。
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    万巻上人は奈良時代の僧で箱根権現を確立させたのが760年頃、没年は不詳だが西暦800年より前には没している。当然ながら函南の阿弥陀如来&脇侍像を彫った 實慶 とは無関係で、この像は1180年に戦死した宗時墳墓堂の本尊として時政が発注したと考えるのがノーマルだろう。では、なぜ願成就院で実績のあった運慶ではなく、實慶だったのか。そして造像の年代は? 残念ながら胎内の銘は「大仏師實慶」のみで、年代の記入はないらしい。関東における實慶の作品は、多分 政子頼家 の菩提を弔って承元四年(1210)に寄進した修禅寺本尊の大日如来坐像が筆頭だろう。吾妻鏡の宗時に関する記事が少し気になっている。
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    【 吾妻鏡 建仁二年(1202) 6月1日 】
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       遠州(北條時政)伊豆国北條に下向された。夢想のお告げがあり、亡き長男北條三郎宗時の菩提を弔う法事を執り行うためである。
       宗時の墳墓堂は伊豆国桑原郷にある。

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    願成就院の仏像足利樺崎寺の遺物甲斐武田の願成寺修禅寺の仏像群 (四項とも別窓)を並行して比較参照するのも面白い。




     
     その八 頼朝の鎌倉入りと富士川合戦 


    右:頼朝は隅田川を渡り、武蔵国を経て鎌倉へ      画像をクリック→鳥瞰図へ
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    隅田川右岸に遊歩道が続く南千住の汐入公園から、頼朝の渡河地点と伝わる白鬚橋を遠望。左側は防災機能で名高い都営白鬚アパート、すぐ近くに新名所・東京スカイツリーが見える。橋の上流右岸、このまま遊歩道を進んだ右手の石濱神社(地図)付近に渡し場があった、と伝わっている。
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    この年・治承四年(1180)に湯河原から安房へ脱出し、千葉常胤 の全面的な協力を得た 頼朝 は三万余騎を率いて江戸川~隅田川を渡り武蔵国へ、更に 畠山重忠川越重頼江戸重長 の帰順を容れて鎌倉へ。
    同じく打倒平家の旗を挙げた甲斐源氏を含めれば(数字は誇張だが)、総勢五万余騎の大軍である。
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    9月8日には 北條時政 を甲斐国に派遣し、甲斐源氏を伴って信濃を平定するよう命じた。翌9日には千葉常胤の元に派遣した 足達盛長 が戻り、常胤の全面協力を報告。この地は要害でもないし源氏所縁の土地でもないから鎌倉を目指すべきである、との意見が伝えられた。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 9月19日 】
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    上総廣常 が領国の軍勢二万騎を率いて墨田河に参上したが頼朝は廣常の遅参を怒り、許す気配を見せなかった。廣常は諸国の武士が 平清盛 の支配下にあるのを知っており、頼朝の器次第では討ち取って首を平家に差し出すつもりで服従を装ったが、万余の援軍を見ても喜ぶどころか遅参を咎める態である。これは大物だと感じ、改めて臣従した。昔日に 平将門 が叛いて東国を占領した時に、藤原秀郷 が味方を装って参上すると喜んだ将門は髪も梳かずに出迎えた、秀郷はその人品の軽さを感じていずれ討ち取る事になると判断し、実際に首を獲る結果になった。
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    頼朝は9月17日に下総国府(市川市の国府台公園付近)に入り、19日には8km西の墨田河で遅参した上総廣常を厳しく叱責した。吾妻鏡はその態度に感激した廣常が害心を捨てて臣従を誓ったと書いているが、頼朝の偉大さを殊更に強調した節が見える。上総廣常は平家の落日を予感し、更に上総に流されて廣常の丁重な庇護を受けていた 藤原忠清が清盛の意向で国司に任じた際に傲慢な態度を執った事もあって、躊躇しつつ源氏に乗り換えたのだろう。
    早めに臣従した同族の千葉氏が相馬御厨の所有を争っていた平家方の佐竹氏に対して優位に立ちそうだったのも判断の要因だった。
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       ※相馬御厨: 利根川を挟んで茨城県南部~千葉県北部に広がっていた伊勢神宮の荘園。千葉常胤 の父・常重が立荘し伊勢神宮に寄進していたが、
    兵力に勝る佐竹氏に押領されていた。千葉常胤は頼朝の力を利用して御厨の奪回を狙い、計画は成功する。上総廣常遅参の理由は佐竹氏と組んで所領の拡大を狙うべきか、頼朝と組んで佐竹を追討するか、その見極めの遅れも一因だった。
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       ※藤原忠清: 保元の乱(1156)以前から平家の家人で上総流罪の理由は明らかでない。平家物語に拠れば、国司に任じたていた際は「坂東八ヶ国の
    侍所別当(軍事の長官)」を兼ねていた。この官位を羨んだ 和田義盛 は安房へ落ちる船の中で頼朝に侍別当を望んだ、と書いている。忠清は富士川合戦でも侍大将に任じ、平家都落ち後の元暦元年(1184)には伊勢で三日平氏の乱を起すなど抵抗したが、壇ノ浦合戦の平家滅亡後に志摩で捕獲され斬首となった。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月1日 】
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    甲斐国の源氏が精兵を率いて進んでくる情報が駿河国に伝わり、目代の橘遠茂は兵を奥津の付近に集結させた。
    石橋山合戦の後に分散を余儀なくされた頼朝兵力のほとんどは鷺沼(現在の習志野市役所付近)の頼朝の宿営地に集まった。醍醐禅師(頼朝の異母弟今若丸、後の 阿野全成)も修行を装って 醍醐寺(公式サイト)を抜け出して参上したため頼朝は感涙を流した。
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    頼朝の異母兄 義平、同母兄の 朝長、同母弟の 義門 の三人は平治の乱で死没し、土佐流罪になった同母弟の 希義 は頼朝に呼応して挙兵し運に恵まれず討死。蒲御厨(伊勢神宮の神領・浜松市東部)で育った異母弟の 範頼(蒲冠者) は遠江国(静岡県西部)で甲斐源氏と共に平家と戦っていた。
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    雑仕女(九条院(近衛天皇妃)の下位の召使)から義朝の側室になっただった 常盤 が産んだ三人の異母弟は今若丸(醍醐禅師、後の阿野全成 が習志野で、牛若丸(義経)が10日後の黄瀬川で合流、乙若丸(義円)の合流時期は不明だが、翌年10月の墨俣川合戦で戦死している。
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       ※奥津: 現在の静岡県興津で奈良時代からの関所(清見寺付近)があった。富士川合戦の際は 平維盛 率いる平家軍が本陣を置いた。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月2日 】
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    頼朝は千葉常胤、上総廣常らと共に大井(※)の墨田河を渡り三万余騎を従えて武蔵国に入った。豊島清元葛西清重 が参上し、更に前もって命令を受けていた 足立遠元 が出迎えた。また故 八田宗綱の娘(頼朝の乳母、下野大掾 小山政光の後妻 寒河尼) が末の息子を伴って墨田の宿舎を訪れ昔話に花を咲かせた。頼朝は尼の願いを容れ、末子(14歳)の奉公を許して烏帽子親となり、小山七郎宗朝(後の 結城朝光) とした。
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       大井河: 住田川(隅田川)と共に下総と武蔵の境だった江戸川で、古名は太日河(ふとひがわ)とも。その後に大井に転訛した、か。

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    左:頼朝挙兵当時の東国の勢力図    画像をクリック→拡大
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月4日 】
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    畠山重忠川越重頼江戸重長 を伴って長井の渡(現在の白髭橋付近か)に参上した。
    彼らは敵として 三浦義明 を討ち、義明の嫡子 義澄 ら三浦一党は頼朝に従って軍功を挙げた。頼朝は彼らが今後は味方となる旨を三浦一党に言い含めた。三浦も納得し互いに眼を合わせて列座した。
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    墨田河に着いた9月17日から渡河して武蔵国に入った10月2日まで15日を要しているが、頼朝はこの間に 江戸重長を呼んで秩父平氏一族を懐柔している。畠山重能(重忠の父)や 小山田有重(重能の弟)が在京している現在は汝が秩父平氏の棟梁である。同族の武者を連れて参加せよ」 と命じ、畠山や川越など石橋山合戦当時は 大庭景親 勢に与力して頼朝に敵対した秩父平氏諸族を説得に当たらせた。
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    ※汝が棟梁: 説得を命じたのが9月28日。頼朝は翌29日に 葛西清重 を呼び 「もしも江戸重長が従わない
    ようなら誘い出して殺せ」 と命じている。頼朝の猜疑心、躍如!
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    こうして大庭景親が召集した平家軍の結束は崩れ、下総・武蔵 ・相模・伊豆 の敵対勢力は概ね無力した。武蔵国一帯の秩父平氏系が平家側に味方したら、双方の兵力はかなり拮抗して風雲急を告げる事態を招いた、と思う。頼朝にとっては正念場であり、秩父平氏としても 甲斐(武田系)+北関東(足利・新田)+常陸(志田)の源氏を敵に回す事になるかも知れない分岐点だった。源平盛衰記は畠山重忠の逡巡を含め、この間の動きを更に細かく描いている。
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    【 源平盛衰記では... 】
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    畠山次郎(重忠)は家臣の半沢六郎成清を呼び、「頼朝の勢いは尋常ではない。八ヶ国の武者が皆帰服したのを考えれば参上するべきか、しない方が良いか。父の重能や叔父の小山田有重が在京しているため小坪坂(由比ヶ浜)で三浦の衆と戦ってしまったが...」と問い掛けた。
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    成清は「保元の乱の先例を見れば親兄弟が敵味方に分かれて戦うのは武者の常、それは三浦の衆も承知でしょう。また平家は一代の恩であり、源家は四代に亘る主筋です。遅参すれば討手を向けられ大事になりますから参上して全てを話すべきでしょう。」と。
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    重忠は500余騎を引き連れ白旗と白弓袋を掲げて頼朝の陣に入った。この白旗は 八幡太郎義家 に従って 清原武衡清原家衡 を討った合戦(後三年の役)で拝領したものである。頼朝は重忠の帰順を許し、鎌倉入りの先陣を命じた。当時17歳の若武者にとっては最高の栄誉である。

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    ※江戸重長: 畠山重能の父重弘の末弟である重継の嫡子。江戸重長と三浦義明室と畠山重能と小山田有重は秩父平氏の従兄弟同士になる
    重忠や稲毛重成や河越重頼はかなり近い縁戚で、重能と有重が留守なら重忠が秩父平氏の嫡流で、一族の年長者を選ぶならなら重長が該当する(「坂東平氏の系図」を参照)。
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    ※四代の主筋: 源平盛衰記は、重忠から四代前の秩父武綱が後三年の役で 八幡太郎義家が与えた白旗を掲げて先陣を務め、清原氏討伐に大きく
    貢献した。平家物語では少し異なり、永承六年(1051)に前九年の役で陸奥国に向う途中の武蔵国府で秩父武綱が義家の父 頼義 から「奧先陣譜代ノ勇士」(奥州戦役の先陣を務める譜代の勇士)として白旗を授けられた、とある。
    重忠の系図は平武基→ 秩父武綱→ 重綱→ 重隆→ 畠山重能→ 重忠と続く。頼朝は前例に倣って重忠に先陣を命じたのだが、折に触れ(もちろん計算の上で)偉大な先祖を真似しているのが面白い。潜在的コンプレックス抱いていたか。
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    ※武蔵国府: 現在の京王線府中駅南の 大国魂神社(公式サイト)の東側が武蔵国庁跡に比定されている。大国魂神社の祭事は一種の乱婚(乱交)を
    伴なう種付け神事「くらやみ祭り」で知られている。神社の創建(伝承)は景行天皇四十一年(西暦111)、国府制度が確立したのは大化の改新(645)以後の660年代。平安時代の武蔵国は埼玉県と東京都の全域に川崎市と横浜市を加えた広大なエリアだった。

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    右:元々の鶴岡八幡宮(由比若宮)    画像をクリック→ 元宮八幡宮明細にリンク
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月6日 】
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    頼朝は 畠山重忠 を先陣とし 千葉常胤 を従えて鎌倉に入った。建設が間に合わず民家を宿舎とした。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月7日 】
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    頼朝はまず鶴岡八幡宮(由比若宮)を遥拝した。次に故 義朝 の亀ヶ谷旧宅跡を訪れ館を建てる指示を下したが土地が狭く、更に 岡崎義實 が義朝の菩提を弔って建てた堂があったので中止となった。
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    【 頼朝が鎌倉を目指したのは、先祖の頼義と義家の例に倣ったのが理由の一つ。 】
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    三方を山に囲まれた要害の地だった事に加えて、源氏と鎌倉の接点は頼朝から六代前の 頼信 まで遡る。五十六代 清和天皇 の皇子が貞順親王、その子が臣籍に下った 経基王(源経基)、その長男が摂津源氏の祖 頼光(子孫に 三位頼政、更に末裔に太田道灌)。次男が大和源氏の祖 頼親、三男が河内源氏の祖 頼信、嫡子の頼義→ 義家→ 義親→ 為義→ 義朝→ 頼朝へ、源氏の主流として華々しく歴史を彩っていく。
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    さて...長元元年(1028)に 平良文国香 の弟 村岡五郎)の孫 平忠常 が下総国で乱を起こし房総一帯を制圧した。追討使には武名の高い 平直方 が派遣されたが鎮圧できず、交代した源頼信が討伐に成功。頼信の下で頼義と共に戦った直方は彼の武芸に感銘を受け、娘と共に所領鎌倉の領有権を贈った。この時から鎌倉が東国での源氏の拠点となり、頼朝が父祖の地として幕府を樹立する原点となった。頼義と直方の娘の間には 八幡太郎義家 と賀茂次郎義綱と 新羅三郎義光(異母説あり)が産まれて勇名を馳せ、一方で乱の首謀者だった忠常の子孫には上総氏と千葉氏が出ている。

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    左:政子が避難先の伊豆山阿岐戸郷から鎌倉へ    画像をクリック→明細にリンク
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    南関東一円をほぼ制圧して鎌倉に入った頼朝は直ちに政子を呼び寄せている。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月11日 】
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    早朝、御台所政子大庭景義景親 の兄)に迎えられて鎌倉に入った。昨夜に伊豆国阿岐戸郷から到着したのだが、日取りが良くないため稲瀬河(現在の江ノ電・長谷駅東側を流れる小川( 地図)近くの民家に宿泊していた。また以前から頼朝の師を務めていた伊豆山の住僧 専光坊良暹も約束通り到着した。
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      ※阿岐戸郷: 伊豆山権現の神領に含まれていた海沿いの険しい崖下の付近(地図)にあった、らしい。
    陸からの道がなく、舟を使わないと近寄れないため石橋山合戦の間も安全だった。
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    中世の伊豆山漁港周辺は数回の地殻変動に襲われており、阿岐戸郷は海沿いを走っているビーチラインの下に崩落・水没した可能性も考えられる。
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    安倍一族を討伐した前九年の役(1051~62)から都に戻る途中の頼義は康平六年(1063)8月に由比郷の鶴丘に立ち寄って 石清水八幡宮(公式サイト)を勧請し、下若宮と名付けた。更に永保元年(1081)2月、後三年の役(1083~87)を鎮圧するため陸奥を目指した 八幡太郎義家頼義 の嫡男)が立ち寄って修復を加えた社である。やがて政子も鎌倉に入り、頼朝は由比若宮を小林郷の北山(現在の鶴岡八幡宮の地)に遷し、元々の地名を再用して鶴岡八幡宮とした。この時から由比若宮は元(本)八幡宮と称し、その経緯から鶴岡八幡宮本殿近くには元八幡の遥拝所も設けられている。
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       ※石清水八幡宮: 清和天皇 の貞観元年(859)、宇佐神宮(公式サイト)で神託を得た行教(空海 の弟子で奈良 大安寺(公式サイト)の住僧)が
    勅命を受け石清水山寺に国家鎮護の社殿を建立して勧請した。義家は石清水八幡宮の神前で元服して八幡太郎を名乗り、父の頼義が本拠地の壺井(羽曳野市)に勧請した壺井八幡宮が河内源氏の氏神となった。男山八幡宮とも呼ばれる
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       ※宇佐神宮と神仏習合: 仏教が伝来して最初に迎合した神社が宇佐八幡宮だったらしい。本来は相容れない全く別の宗教だが、東大寺大仏を建立中の
    天平勝宝元年(749)に宇佐八幡禰宜(神官)の妻が朝廷に参上して協力を申し出た。
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    朝廷は天応元年(781)に仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈り、これ以後明治維新まで神仏習合の時代が続く。背景となる思想は本地垂迹、即ち「神々とは様々な仏(実体)の化身である」として辻褄を合わせた。時代に抗し切れず、仏教に擦り寄った最初の神(神官)が宇佐の八幡神だった。
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    ついでに...箱根権現や伊豆山権現の「権現」は本地垂迹思想に基づく神号で「権」は仮・つまり仮の姿、「現」は文字通り現れるの意味。「佛が神の姿を借りて現れる」を意味する。

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    右:由比若宮を小林郷北山へ遷して鶴岡八幡宮    画像をクリック→明細にリンク
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月12日 】
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    明け方、祖先を崇めるため小林郷北山に設けた社に鶴岡若宮を遷して専光坊を当座の別当に任命し、大庭景義 に宮寺に関する諸事を任せた。
    この社は第70代後冷泉天皇の頃に伊予守 源頼義 が勅命を受けて 安倍貞任 を討伐した康平六年(1063)8月に加護を謝し、独断で石清水八幡を勧請した由比郷の下若宮である。さらに永保元年(1081)2月には陸奥守 義家が修復を加えた。いま小林郷に遷して厚く崇敬するものである。
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    頼義や義家が陸奥国への出陣と凱旋の途中に立ち寄った話は関東・中部の各所に残っている。首都圏近くでは足利や群馬の新田や甲斐にも同じような伝承数ヶ所が伝わっているのは、日本武尊(ヤマトタケル)の東征伝説にも少し似ている部分だ。
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    例えば都下府中市の大国魂神社に前九年の役の戦勝祈願した頼義親子は、安倍一族討伐後の康平五年(1062)に立ち寄り欅の苗千本を寄進、今も聳える欅並木の始まりと伝わる。平家物語に拠れば、ここでは出陣前の永承六年(1051)に 畠山重忠 から四代前の平武綱(武基→ 武綱→ 重綱→ 重弘→ 重能→ 重忠と続く)が頼義親子に忠節を誓い「奥先陣譜代の勇士」として白旗を下賜された。この先例は治承四年(1180)に頼朝が下総から武蔵に入る際に重忠が踏襲している。
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    また鎌倉と同じ相模国の懐島(現在の茅ヶ崎近郊)に近い鶴嶺八幡宮にも同様の社伝が残っている。ここは頼朝死亡の原因となった相模川橋供養の落馬事故現場に近く、あたかも源氏の隆盛と没落を象徴しているようで興味深い。

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    左:同じく、源氏所縁の鶴嶺八幡宮
        画像をクリック→明細にリンク
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    平安末期、武蔵・常陸・上総・下総と同様に古くから農地が拓けた相模国は大庭御厨など荘園を本拠にした武士団が割拠し、更に東国と陸奥の支配を狙う清和源氏を中心に勢力の離合集散も繰り返されていた。
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    鎌倉由比若宮の項で書いた通り、上総国・下総国・常陸国(現在の房総半島と茨城県のほぼ全域)を領有した 平忠常 は長元元年(1028)6月に土着の国人を率いて大規模な反乱を引き起こした。直ちに追討使が派遣されたが鎮圧できずに戦乱は長期に及び、上総・下総・安房は著しく疲弊したと伝わっている。
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    長元四年(1031)に追討使の甲斐守 源頼信 が甲斐から上総に入り乱を鎮圧、荒廃した東国も復興に向った。
    この実績により坂東平氏の多くが頼信の支配下に入り、清和源氏が東国に勢力を広げる基になった。
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    源氏が相模に根を張った最初の地が懐島、鶴嶺八幡宮の社伝はそう主張する。
    長元三年(1030年)の9月、源頼義 は平忠常の乱平定の途中で懐島郷に入り、石清水八幡宮を勧請して戦勝を祈った(宇佐八幡宮勧請説もある)、と。信頼できる史料では乱を平定したのは頼信(当時62歳)で、首謀者の平忠常(当時55歳)は元々頼信の家人だった経緯もあり、特に抵抗せず降伏した。従ってこれを頼義(当時42歳)の手柄とする社伝には無理があり、平忠常追討のため懐島郷に入った源氏の将軍がいたのなら、父の頼信だと考えるべきだろう。
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    社伝は更に続き...20年後の永承六年(1051)に勃発した前九年の役の際に、頼義応援のため兵を率いて京を発った嫡子の 義家 は頼信が勧請した懐島郷の八幡宮で戦勝を祈り、後三年の戦役を平定して凱旋する途中の鎌倉に石清水八幡宮を勧請して由比若宮(後の鶴岡八幡宮)を建立した。従って謂わば旧社にあたる鶴嶺八幡宮は「本社八幡宮」と呼ばれ、源氏が相模国に足跡を印した最初の一歩、としている。
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    鶴嶺八幡宮(公式サイト、地図)も参考に。加えて、鶴嶺周辺には 相模川橋脚史跡御霊神社と西運寺(共に別窓)などの史跡も点在している。

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    右:義朝の館跡だった金剛壽福禅寺    画像をクリック→ 明細にリンク
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    源氏山の東麓に建つ古刹で山号は亀谷山(源氏山の古名)、臨済宗建長寺派に属する鎌倉五山第三位の禅寺である。「扇ガ谷」は鎌倉時代の末期になって初めて現れた地名で、当初は 英勝寺 から 海蔵寺(共にwiki)付近までを結ぶ狭い範囲(ルート地図)の呼称だったらしい。
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    第六代将軍 宗尊親王 に従って鎌倉に入った 上杉重房 が護国寺と英勝寺の中間、横須賀線踏切の東側(上杉管領屋敷跡碑の画像、別窓)に屋敷を構えて扇谷殿(おうぎがやつどの)と呼ばれた事から亀ヶ谷の名が徐々に廃れ、今では全域が扇ガ谷になってしまった。 「亀谷」と「鶴岡」は東西に向い合う古い語呂合わせだったのに、亀谷坂だけに残っているのはやや寂しい衰退である。
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    壽福寺の一帯は 源頼義 が別邸を構えたのが最初で、後に 頼朝 の父 義朝 が東国の根拠地に利用し、一時期は頼朝の異母兄 義平 も住んだと伝わるから、武蔵大蔵の 帯刀先生義賢 襲撃の際はここから出撃した可能性が高い。横須賀線の一帯を中心にすると東西の平地は巾200mほど、頼朝は館(政庁)を置くには狭いと判断した。
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    壽福寺本尊は宝冠釈迦如来、正治二年(1200)に 政子 が頼朝の菩提を弔うため開山和尚に臨済宗の開祖 栄西 を招いて創建した。横須賀線に面した山門から中門までの参道と裏手の墓域(大仏次郎らの墓あり)と「やぐら」(政子と 実朝 の五輪塔あり)は公開されているが中門の内側は非公開、本尊を含む仏像群も公開していない。寺域は数度の火災を経ており、特に正嘉二年(1258)には全域を焼失した。現存する建物は殆どが江戸時代中期の再建である。
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    ちなみに、嘉禄元年(1225)に没した政子が葬られたのは雪ノ下の南御堂(勝長寿院)で、ここには京で捜し出した義朝主従の遺骨と三代将軍実朝の遺髪も葬られていた。改葬の経緯は不明だが、三回目の火災で焼失した正中二年(1325)または鎌倉公方の足利成氏が下総の古河に移った享徳四年(1455)前後の兵火のどちらか、だろう。頼朝の遺骨は法華堂(現在の白旗神社)へ、政子の遺骨と実朝の遺髪は壽福寺の「やぐら」に改葬されて現在に至る。
    義朝 と側近の 鎌田正清らも葬られた 勝長寿院跡(別窓)は既に廃寺となって久しく、近くには二人の慰霊墓が建っている。
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    壽福寺本堂を左に迂回して墓地の中を登ると突き当りの崖下が政子と実朝の五輪塔が祀られている「やぐら」群、墓地の途中から左に折れて小道を辿ると源氏山、更に左へ下ると銭洗弁天や佐助稲荷で、右に下ると亀ヶ谷坂切通しを経て北鎌倉に至るハイキングコースとなる。

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    左:少し戻って、政庁創建の地 大倉(大蔵)   画像をクリック→明細にリンク
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月9日 】
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    大庭景義 の差配で御所建設が始まり、急を要するため兼道の山内邸を移築した。正暦年間(990~995)に建てた屋敷だが、晴明朝臣が鎮宅の護符を貼ったため火災の被害にも遭っていない。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月15日 】
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    頼朝は鎌倉(大倉)の仮御所に入った。大庭景義の差配で移築修造した屋敷である。
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      ※晴明朝臣: これは勿論、陰陽師 安倍晴明(921~1005)。吾妻鏡は「晴明朝臣が護符を貼った」と記述
    しているが、建設当時の晴明は70歳を越す老齢で一条天皇や藤原道長に重用されており、東国の辺境 鎌倉まで来たとは考えられない。
    原文は「晴明朝臣押宅鎮符之故也」、たぶん「晴明朝臣の護符を貼った宅」だろう。
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      ※山内邸: 有力者の執事か番頭のような仕事をしていた「兼道」なる人物の屋敷らしい。山内庄は鎌倉北部の大船から横浜市の一帯で、義家に従って
    後三年戦役を戦った首藤資通(藤原秀郷 の後裔を名乗る)の孫 山内俊通が領有して山内首藤氏の祖となった。
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    俊通の妻 山内尼が頼朝の乳母の一人だった経緯から、関係者の家を移築した可能性が高い。頼朝の乳兄弟だった俊通の嫡子 山内経俊 が石橋山合戦で平家側に与して戦い、頼朝の鎌倉入り後に降伏した。吾妻鏡は助命を願う山内尼と頼朝の会話を詳しく伝えている(下記)。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 11月26日 】  一ヶ月半後の事件だけど山内がらみで。
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    山内瀧口三郎経俊 を斬罪に処す内示があった。老母(頼朝 の乳母)がこれを聞き泣いて助命を嘆願、「夫(俊通)の祖父である資通が 義家 に仕え、祖母が 為義 の乳母となって以来ひたすら源氏に忠義を尽し、俊通は平治の乱で討死し死骸を六条河原に晒した。経俊が 大庭景義 に与したのは平家に知れるのを憚った形だけの行為で、石橋山で平家に付いた者の多くが赦免されたのだから、経俊も先祖の功績に免じられるべきではないか」と。
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    頼朝は預けて置いた自分の鎧(石橋山合戦で着用)を持ち出すよう 土肥實平 に命じ、鎧の袖に刺さった矢に瀧口三郎藤原経俊の名が書いてあるのを見せた。山内尼は何も言えず涙を拭いて退出した。経俊の敵対行動は明白で罪は逃れ難かったが老母の悲嘆と先祖の功績に免じて許された。
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      ※山内三郎経俊: 乳母子として優遇された記録はないが御家人として存続し子孫は備後・伊豆多賀・奥州・土佐などに土着している。瀧口は瀧口武者の
    略称で、京都御所の清涼殿近くにあった警備兵詰所。建物を囲む水路への排水口(画像)があったのが語源。

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    右:宇都宮辻子幕府跡(画像)と、若宮大路幕府跡    画像をクリック→明細にリンク
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    大倉御所の敷地は約54,000㎡(16,000坪)、鎌倉に欠かせない外港 六浦に通じる街道沿いである。
    頼朝 の私邸部分に続いて治承四年(1180)には侍所(軍事・警察組織)、元暦元年(1184)には公文所と問注所など政務と訴訟を司る庁舎が整備され、以後の45年間は武家政治の中枢がここに置かれた。
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    この建物群は建久二年(1191)と建保元年(1213)に焼失、この時は二度とも同じ場所に再建したが承久元年(1219)12月24日(旧暦だけどクリスマス・イブだ!)に三回目の火災で焼け落ちた後の6年間は御所の東にあった義時邸を仮御所と定め、政庁は一部の機能のみを残して移転したらしい。
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    貞応三年(1224)には二代執権 義時 が、翌・嘉禄元年(1225)には 大江廣元尼将軍政子 が相次いで死没し、三代執権に就いた 北條泰時 は宇都宮辻子(二の鳥居北東の雪ノ下教会付近)に新しい御所を建設して移転した。辻子(づし)は「十字路・小路・横丁」などの意味を持つ古語で、ここでは「小町大路と若宮大路を結ぶ横丁で宇都宮氏の屋敷があった」ほどの意味を持っていた、らしい。
    ともあれ泰時には前の執権義時と尼将軍政子の呪縛(笑)から離れて人心を一新したい気持ちもあった筈で、この気持ちは良く理解できる。
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    承久元年(1219)1月に三代将軍 実朝 が八幡宮で殺されて 頼朝 の男系血筋が絶え、12月には治承四年(1180)以来の政庁だった大倉御所が焼け、承久三年(1221)には 後鳥羽上皇 が倒幕を謀った承久の乱が勃発、そして幕府草創を支えた第一世代の北條義時・政子・大江廣元が死没...鎌倉幕府にとっては存続を問われるような激動の数年間となった。
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      ※六浦港: 八幡宮の約8km東、現在の金沢八景にあった外港が六浦。海路で鎌倉に入る物資は主に六浦と由比ヶ浜に荷揚げされたが、朝比奈切通しは
    荷駄の往来に支障があった。一方の鎌倉前浜(材木座と由比ヶ浜)には宋からの大型船も停泊は可能だったが水深が浅く、沖から艀(はしけ)で荷揚げする必要があった。更に外海に面しているため沖に停泊した貿易船の難破も多発していた(下記、吾妻鏡を参照)。
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    【 吾妻鏡 弘長三年(1263) 8月14日 】
        南風が強く、昼頃には樹が倒れ屋根が飛ぶ状態だった。~中略~ 由比ヶ浜に着岸していた数十艘が破損し漂流沈没した。
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    【 吾妻鏡 弘長三年(1263) 8月27日 】
        由比ガ浜の船舶が沈没した際の死人が無数に打ち寄せられた。また鎮西(九州方面)の輸送船61艘が伊豆の海を漂流している。
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    幕府は貞永元年(1232)に材木座南側の港湾施設 和賀江島(wiki)を整備し、仁治二年(1240)には六浦路の 朝比奈切通し(wiki)を広げる開削工事で物流問題の解決を図っている。現在の朝比奈切通しは怖いほど静かな遊歩道に、和賀江島は大潮の干潮時なら徒歩で渡れる浅瀬に変貌した。和賀江島では磯遊びが楽しめるし、磯遊びを兼ねてのんびりと探せば(荷下ろしの際に破損したと思われる)青磁の破片なども拾う事ができる。

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    左:鎌倉軍は足柄峠を越えて富士川合戦へ    画像をクリック→明細にリンク
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    実際には富士川沿岸では合戦と呼ぶ程の戦闘はなかったのだが...
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180)10月16日 】  頼朝が大倉の新邸に入った翌日
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    頼朝 の意向で鶴岡八幡宮の終日読経が始まった。法華経・仁王経・最勝王経・大般若経・観世音経・薬師経・寿命経などである。八幡宮住僧が勤行し、相模国桑原郷(小田原市北部の酒匂川東岸、地図)を御供料として寄進した。
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    今日、(頼朝の軍勢が)駿河に向かって出陣した。平惟盛 率いる平家軍数万騎が13日に手越の駅(安倍川西岸・下記の地図を参照)に到着した旨の報告が届いたためである。
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    夜になって相模国府六所宮に到着、ここで箱根権現に早河庄(小田原市の早川河口付近、地図)の寄進を保証する下文に自筆の手紙を添えて別当の行實に送った。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月17日 】
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    波多野義常 討伐の兵を送った。義常は討手の下川邊行平 が着く前に松田郷(地図)で自殺、嫡子有常は母の兄 大庭景義 の許にいて難を逃れた。 義常の父 義通義朝 に臣従して転戦、妹が義朝の長男 朝長 を産んだ後に不和になり、保元三年(1159)春に波多野郷に帰っていた。
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      ※相模国府: この時点では大磯の相模国総社 六所神社(別窓)の一帯。その前は平塚市の 前鳥(さきとり)神社(別窓)近く(地図)で遺跡が確認され、
    「国厨」と墨書した土器の出土に伴って最も有力な国府跡とされている。この二ヶ所は約12km離れており、平安時代中期までは前鳥神社近く、それ以後に六所神社一帯に移ったらしい。前鳥神社以前の国府には複数の説があり確定に至っていないが、現在は相模国分寺跡が確認されている小田急小田原線 海老名駅の近く(地図)が最有力と考えられている。いずれ新しい発見がある、かも知れない。
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      ※不和になり: 波多野義通 の妹が朝長を産み、その後に義朝の正室として藤原季範娘(由良御前)が産んだ頼朝が嫡男の扱いを受けた。
    成長に伴って官位も朝長を越えた事などが原因で義朝と不和になり波多野郷に帰って定住。嫡男の義常は平氏に仕えて波多野郷・松田郷を領有したが、挙兵した頼朝の招集を拒んだ上に使者の 安達盛長 に暴言を吐き、大庭景親 の平家軍に加わった。
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    これが17日に討手を向けられた経緯である。懐島の 大庭景義邸にいた嫡男の有常(母は大庭景義の妹)は後に許されて遺領の一部である松田郷を継承し、御家人として頼朝に仕えている。

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    右:駿河国府~安倍川~手越駅~宇津ノ谷峠の地図    画像をクリック→拡大
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    宇津ノ谷峠から相模国府(駿府城から静岡高校の周辺)までの東海道には丸子宿や手越の宿駅など史跡が点在している。在原業平所縁の「蔦の細道」はまだ歩いていないが、秀吉が小田原攻めの際に拓いた旧東海道を2008年に歩いてみた。紀行文と画像は 宇津ノ谷峠を歩く(別窓)で。
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      ※手越駅: 安倍川西岸の宿駅。平安末期の東海道は安倍川下流の湿地を避けて丸子から2km北上し
    藁科川との合流点上流を渡河していた。建武二年(1335)の 新田義貞 vs 足利直義(尊氏の実弟)による 手越河原合戦(wiki)の兵火で焼け、宿驛の機能が丸子宿に移ったと伝わる。
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      ※松田郷: 東名高速大井松田IC周辺。ICの西3kmの高速北側にある松田城跡(最明寺史跡公園・地図
    と確認されており、松田庶子、松田惣領の地名が面白い。松田郷を継承した有常の次男(正室の子)が惣領として本家を継ぎ、妾腹(庶子)の産んだ長男は分家したのが地名の発祥か。
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    惣領と庶子の一帯は飛び地が多く、かなり交錯している。頼朝の異母兄・朝長が育ったと伝わる松田亭旧跡は確認されていないが、皇国地誌(明治時代初期編纂の地誌)は「寒田神社(地図)南東の陸田が屋敷の跡」と記載している。
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      ※義常の叔母: 尊卑分脈に拠れば朝長の母は別人。ただし「典膳大夫久経の子」と書かれているので生母ではなく乳母だった可能性もある。
    平治の乱の敗北後に青墓で朝長が死亡したのを契機に波多野と源氏は縁が切れていた、という事なのだろう。
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      ※波多野荘: 藤原秀郷の子孫佐伯経範が波多野を名乗ったのが最初で、現在の秦野・松田・山北・南足柄・小田原北部を含む酒匂川の東部一帯。
    本拠地の館跡(地図)は後に三浦義村の家臣武常晴が 源実朝 の首を埋葬したと伝わる場所(地図)からも徒歩圏内にある。

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    左:河村義秀の本拠 山北の河村城址    画像をクリック→拡大
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月18日 】
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    大庭景親 は平家軍に合流するため千騎を率いて駿河国を目指したが、頼朝 が20万騎で足柄峠を越えたため前途を塞がれ河村山に逃げ込んだ。 ~中略~
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    夕刻、黄瀬河に着いた頼朝は平家軍に使者を送り24日を矢合せ(開戦)と定めた。甲斐・信濃の源氏が 北條時政 と共に二万騎を率いて到着し頼朝と面会、去る9月10日に大田切郷の城を落とし神託に従って諏訪大社に寄進したと語って頼朝を喜ばせた。
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      ※河村山: JR御殿場線山北駅の南、波多野遠義の二男河村秀高(義常 の弟)の居館。景親はこの辺に
    逃げ込み、23日に頼朝が凱旋した相模国府に出頭した。秀高の嫡子 河村義秀 は石橋山で平家軍に与した罪で斬首と決まったが (大庭景義(娘が義常の妻)は彼を斬らずに匿った。義秀は10年後の建久元年(1190)に鎌倉で流鏑馬の妙技を披露し、本領松田郷の回復を得ている。
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    ※大田切郷: 現在の駒ヶ根市。大田切城(推定位置)を守る菅冠者は館に放火し戦わずして自殺した。
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    次に駿河路合戦の話になり、頼朝は平家側の捕虜18人を召覧。加藤光員 が目代の橘遠茂を討ち取って郎党1人を生け捕り、加藤景廉 が郎党2人を討ち1人を生け捕り、工藤景光 が波志太山俣野景久と戦ったと報告して「恩賞に値する」との言葉を受けた。大庭景親 に味方し頼朝に逆らった者は後悔で魂を消す思いだったろうが、荻野俊重 ・ 曽我祐信 らは降伏して参上した。
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    夜、土肥實平土屋宗遠 らが酒肴を整えた。北條時政親子と伊豆相模の武士たちは褒美として馬や直垂を受け取った。その後土肥實平を使者として派遣し、亡き兄の 朝長 が育った松田の屋敷を修理するようにと 中村宗平に指示を与えた。
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      ※波志太山: 天明三年(1783)編纂の駿河国志に 「足高と 人はいえども 不二ヶ根の 裾野につづく あし引きの山」 と載っている。
    足高の語源は端高で、波志太山・鉢田山などを経て愛鷹山になったと考える説が有力らしい。また河口湖の南西にある足和田山麓の可能性も挙げられている。富士山の南西説と北麓説が代表的で、愛鷹山がやや優勢ではあるが確定には至っていない。
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    吾妻鏡の10月1日には「駿河目代の橘遠茂が軍兵を奥津(興津)に集結させて合戦に備えた」 とあり、10月14日には「(石和に集結していた)甲斐源氏の一行は神野と春田路を経て正午前後に鉢田(波志太)に着き駿河目代の軍と合戦した」 とある。衝突地点は春田路(若彦路)の愛鷹山麓・富士宮市付近(参考ルート地図)か、足和田山付近(ルート地図の)か、またはその中間だったと考えられる。
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    傍証として、14日の合戦についての後半に「...長田入道と子息の二人は討ち取られ橘遠茂は捕虜になった。後続の兵は悉く逃げ去り、午後6時前後には富士裾野の伊堤に討ち取った首を晒した。」 とある。
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    甲斐往還(若彦路)付近の地名・伊堤とは、13年後の建久四年(1193)5月28日に勃発した曽我兄弟の仇討ち事件の際に頼朝が狩宿を設けていた 「富士宮市の井出(地図)」 または 「旧東海道沼津の 阿野全成 所領の井出(地図)」で、首を晒すのなら後者が適地になる。

    右:甲斐から続く街道の起点 酒折宮   画像をクリック→明細にリンク
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180)10月13日 】
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    木曽義仲 は亡父 義賢 の旧跡 を訪ねるため信濃国から上野国に入った。足利俊綱(藤姓足利氏)の支配地だが、私に従えば恐れる必要はない旨の指令を住民に布告した。
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    甲斐源氏と 北條時政義時 親子は駿河国に入り大石の駅に止宿。戌の刻(夜8時前後)、駿河目代が長田入道の策に従って北上するとの情報が入り、途中で迎撃する軍議が決まった。
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    武田太郎信義 と嫡子の 一條次郎忠頼板垣三郎兼頼有義安田義定逸見光長 ・ 河内義長(足利義康 の次男で庶子、備中水島合戦で兄(庶長子)の義清と共に戦死 ) ・ 伊澤信光 らが富士北麓若彦路経由で南下、石橋山合戦後に甲斐国に逃れた 加藤光員景廉 らと駿河を目指した。
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      ※義賢の旧跡:源為義 の指示を受けて上野国に下向した義賢が1145~1153年頃に本拠を置いた
    多胡館跡(群馬県吉井町、地図)。後に義賢は 秩父重隆 の娘を娶り大蔵に移って勢力拡張を図ったが、久寿二年(1155)に 義朝 の長男 悪源太義平 に討たれた。大蔵館と義賢の墓所(別窓)を参照。
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      ※大石の駅: 富士宮市の 日蓮宗大石寺 の付近。甲斐と駿河を結ぶ中道往還の驛(うまや)があった。
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      ※駿河目代: 伊予国(愛媛県)を本拠とした越智氏の一族である橘遠茂。吾妻鏡には捕虜と殺害の重複記載があるが、死没は間違いないらしい。
    ①14日の鉢田合戦で武田(石和)信光が捕虜にした ②18日の報告では加藤光員(景廉)が討ち取った、と。吾妻鏡の文治三年(1187)12月には北條時政が預かっていた囚人の為茂(遠茂の嫡子)を赦免し田所職(土地管理の役職か?)に任じている。経緯は判らない。
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      ※長田入道: 知多半島の野間で義朝を殺した 長田忠致 と推定されている。
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      ※若彦路: 甲府の酒折宮を基点にして富士山西麓を南下、中道往還に合流し富士宮に至る古道。更に詳細は下の「若彦路ルート」で。

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    左:車で走ってみた若彦路ルート     画像をクリック→ 明細にリンク
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    50日ほど遡って、まだ 頼朝 が下総で 安達盛長 を派遣して 千葉常胤 を味方に引き入れている頃、同じ く 以仁王 の令旨を受けた甲斐源氏は独自に兵を挙げた。9月9日の吾妻鏡は「北條時政 を使節として甲斐国に送り、甲斐源氏を伴って信濃に向い降伏する者を従え逆らう一族を討伐するよう厳命を受けた」と書いているが、甲斐源氏は半月も前に挙兵している。富士川合戦を前にした使者の役目は援軍の要請だろう。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月25日 】    波志太山合戦
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    大庭景親は 頼朝逃亡を阻止するため軍兵を方々に派遣して要所を固めた。弟の 俣野景久 は駿河目代橘遠茂の軍勢を伴って甲斐源氏の 武田信義;一條忠頼らを攻めるため甲斐を目指した。
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    昨夜は富士の北麓に宿営したところ、百余りの弓弦が鼠に食い切られてしまった。狼狽している処へ石橋山合戦を知って甲斐を出発した 安田義定工藤景光 ・ 嫡子の行光 ・ 市河行房らと波志太山で遭遇、景久勢は弓が使えないため太刀で戦ったが多くが射取られた。義定の家人にも多少の負傷者はあったが、俣野景久は逃亡して行方不明になってしまった。
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      ※波志太山: → 鉢田山→ 足高山→ 愛鷹山と転訛した可能性もあるが、その場合は波志太山合戦(8月25日)と鉢田合戦(10月14日)が同じ場所で
    起きたのに別名で記載された事になり合理性に欠ける。吾妻鏡の記述を素直に考えれば、波志太山は河口湖南西岸の足和田山(地図)の可能性が高くなる。河口湖と西湖の間には甲斐九筋と呼ばれた官道の一つ 若彦路が通っていたから理屈は合うのだが...
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    酉刻(17~19時)に約60km離れた沼津の伊堤(井出)に首を晒すのは無理になる。すると頼朝狩宿のあった井出になるのだが吾妻鏡には井出または伊堤ではなく「神野」(若彦路の地名も同じ)と表示している。これは簡単に結論が出そうもないね。
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      ※市河行房: 今も市川大門に現存する表門(うわど)神社の三代目。初代は義清の末弟・覚義だが、彼は婿として入ったから厳密には初代ではない。
    氏名不詳→ 覚義→ 覚光→ 行房→ 行重‬→ 行政→ 行照→ 行宗・・・と続く神主の家柄(現在も続いているか否かは確認していない)。
    ちなみに、行房は 源(武田)義清 が市河氏の娘に産ませた人物とされている。詳細は源義清の史跡 市川三郷(別窓)で。
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    駿河国で本格的な戦闘に入る前に 武田信義 ら甲斐源氏は信濃に向かい、9月10日に伊那郡の大田切城(現在の駒ヶ根市)を攻めて菅冠者を自殺に追い込んでいる。この頃の甲斐源氏は兄の武田信義と弟の 安田義定 が別々に行動していたらしいが、10月14日の鉢田合戦では「午の刻(正午前後)に武田・安田の人々は...」とあるから合同で戦っている。諏訪から駒ヶ根に移動し本拠へ戻った信義一行の経緯は こちら(別窓)で。
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      ※甲斐源氏同士の別行動: 武田信義の本拠は甲斐盆地北西部(現在の韮崎)で安田義定の本拠は北東部(現在の山梨市)、30km以上離れている。
    (両地点のルート地図)。義定軍は駿河の平家軍に、信義軍は信濃の平家軍に兵を向ける方が理に叶っている。
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    【吾妻鏡 治承四年(1180) 10月14日】    鉢田合戦
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    武田・安田の一行は神野と春田路を経て正午前後に鉢田に着いた。駿河目代の軍は狭い道で突然遭遇したため動きがとれず、防御に努めたが長田入道と子息の二人は討ち取られ橘遠茂は捕虜になった。後続の兵は悉く逃げ去り、午後6時前後には富士裾野の伊堤に討ち取った首を晒した。
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      ※鉢田の位置: 合戦場所は確定していないが、鉢田山(愛鷹山の古名)山裾か。春田路は人穴から吉原宿(富士市)に至る中道往還(ほぼ国道139号)
    鉢田合戦はこのルート上で起きたと考えられる。大石驛の北にある井出(後に曽我の仇討ち事件が勃発)とは40km以上離れており、合戦終了後の4時間ほどで井出に着くのは無理だから駿河の井出(東海道)と考えるのが自然。波志太と鉢田は約50km離れている。
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      ※伊堤の位置: 井出の地名は白糸の滝近く(
    地図、かなり辺鄙)と沼津西部(地図)の二ヶ所。合戦が愛鷹山麓なら約40km北の白糸の滝より約15km
    東の愛鷹山南麓(東海道の裏道沿い)で首を晒した、と推定できる。

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    右:富士川合戦の旧跡・平家越え橋    画像をクリック→明細にリンク
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    現在の富士川本流の東約7kmの和田川に「平家越え橋」が架かっている。当時の富士川下流域は幾筋にも分かれて流れる「暴れ川」、橋の近くは海岸に面した湿地帯で、橋の東端に建つ「平家越えの碑」が往時を偲んでいる。この「平家越え」が「平家の退却」に由来したか否かは判らないが、西岸で野営した平家の先陣が甲斐源氏の夜襲を警戒して早めに撤退したのが地名になった可能性はある。
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    「鉢田」と「平家越え」の距離が比較的近い(10km未満だろう)ので、富士川合戦ではなく鉢田の合戦に敗れた駿河目代の行動が地名の起源だったのかも知れない。
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    延宝二年(1674年・徳川幕府四代将軍・家綱の頃)の治水工事で築かれた雁堤(かりがねつつみ)により本流が現在の場所にほぼ固定された。雁堤については Wikipedia に詳細の説明が載っている。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月20日 】     富士川で平家軍が敗走
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    小松三位中将平惟盛 と薩摩守 平忠度 率いる平家軍7万騎(平家物語の数字)は18日に富士川西岸に布陣し、源氏軍20万騎(吾妻鏡の数字)は20日に東岸の賀島に布陣した。深夜になって甲斐源氏の総大将 武田信義 は平家軍の背後を衝く計画で兵を移動させ、物音に驚いた富士沼の水鳥が一斉に飛び立ったため夜襲と勘違いした平家軍は浮き足立った。
    次将上総介忠清 らは「東国の兵はすべて頼朝 に従っている。京を離れた東国で包囲されたら逃げられないから撤退して作戦を改めよう」と。惟盛と忠度らはその言葉に同意し、夜明けを待たず撤退してしまった。飯田家義(wiki)と息子の太郎が渡河して平家軍を追い、引き返した伊勢国の住人伊籐次郎が太郎を射取り、伊籐次郎は家義によって討ち取られた。印東常義は鮫島(田子の浦港の西・地図)で討たれた。


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    左:平家越え橋から富士川一帯の地図  画像をクリック→ 拡大表示
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    実際には京から遠征してきた平家の武者はごく僅かで、主力になる大部分は遠江や駿河で強引に徴兵した寄せ集めである。更には甲斐源氏に蹴散らされた駿河目代の手勢や相模と武蔵から逃げ延びた敗残兵も合流していた。補給もままならぬ状態に加えて鉢田合戦の敗北直後でもあり、既に戦意を喪失していた。
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    当然ながら平家軍も安眠する程の余裕は持てず、武田信義が率いる甲斐源氏の夜襲を警戒してはいただろうが、準備不足もあって撤退の道を選んだのだろう。
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    大将軍維盛は「光源氏の再来」と称された美貌の貴公子だったが武将としては凡庸以下で、三年後の寿永二年(1183)4月の 倶利伽羅峠合戦(別窓)でも寡兵だった 木曽義仲 勢に惨敗して都に逃げ帰ったのみならず、退却途上の加賀篠原で追撃を受け戦力の大部分を失なう事になる。
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    武者としての経験も乏しい公達に東国武者との合戦を求めるのが無理なのだが、惨敗に激怒した 平清盛「なぜ戦場に骸を晒さなかったのか」と罵倒し維盛の入京を禁じた、と伝わっている。
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      ※賀島: 富士川本流から約2km東、現在の富士市加島町。更に5km東に「平家越え」の地名が残る。かつての富士川河口に近い湿地帯か。
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      ※背後を衝く: 18日の吾妻鏡は「矢合わせ(戦闘開始)は24日」と書いている。これは双方の合意事項で、守らなければ卑怯の謗りを受ける筈なのだが、
    この頃から有名無実になった。一の谷合戦と屋島合戦では奇襲に次ぐ奇襲、壇ノ浦合戦で守られたのは海戦だから、だろう。
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      ※次将: 大将軍はシンボルとしての指揮官、次将は軍事作戦の指揮を執る侍大将。
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      ※印東氏: 千葉県北部にあった印旛郡の東部、佐倉市・酒々井町・富里市の一帯(印東庄、行政区分地図)を本領にした桓武平氏良文 流の一族。
    当主の常義は討たれたが息子らは頼朝に従って御家人として本領安堵を得た。寿永二年(1183)に 同族で本家筋の上総廣常 の粛清に伴って千葉氏の陪臣となり、宝治合戦で三浦氏に与した千葉一族とともに零落した。

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    右:広重 東海道五十三次 吉原 左富士  画像をクリック→拡大
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    富士川合戦から650年後の天保三年(1832)に初めて東海道を旅した広重が作成した「東海道五拾三次」の40番目。江戸から西を目指して旅を進めると駿河の吉原で東海道は大きく右に曲がり、それまで右手に見えていた富士山の美しい姿が左に見える。
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    広重の道中日記は「原と吉原は富士の山容を観る第一の場所である。京都から下れば右に見え、江戸からなら反対側、一町(約100m)ほどの松並木を透かして見る絶妙の風景である。」と記録している。
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    【 平家物語 巻 第五  富士川 】
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    大将軍の 維盛 は次将の 忠清 を呼び「直ちに足柄峠を越え、坂東で合戦しようと考えるが」と申し出た。忠清は「福原を出陣する際に相国入道(清盛)は「戦の事は忠清に任せよ」と言われた。
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    頼朝 に従う東国の軍勢は数十万、我が軍は七万騎と言っても寄せ集めに過ぎません。遠征による疲労などを考えれば、富士川に防衛線を構えて伊豆と駿河の軍勢が合流して戦力が整うのを待つべきです。」と答えた。
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    忠清は「追討軍がもっと早く京を出発し足柄峠を越えて東国に入っていれば、畠山や大庭をはじめ坂東の武者は全て平家に従って戦っただろうに」と嘆いた。また惟盛は武蔵国長井荘から参陣した 斎藤實盛 を呼び、「お前ほどの強い弓を引く武者は東国にはどのくらい居るのか」と訊ねた。
    實盛は笑いながらそれに答える。
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    「僅かに十三束の弓を引いている私が強弓だとお考えか、私程度なら坂東には幾らもおります。強弓とは十五束より上で、力の強い郎党5~6人で張る弓のことです。そんな武者が射れば鎧の2、3枚は簡単に貫きます。馬に乗れば悪路を走っても落馬を知らず、親が討たれようが子が討たれようが屍を乗り越えて戦います。それに比べて西国の武者は親が討たれれば供養を済ませてから進み、子が討たれれば嘆き悲しんで戦いません。食料が尽きれば秋の収穫を待ち、夏は暑い冬は寒いと嫌います。實盛は今回の合戦を生き永らえて都に戻れるなどとは元より考えておりません。」 と。
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      ※武蔵国長井荘: 実盛が庄司として管理していた現在の熊谷市妻沼地区(地図)の一帯。長井荘と聖天山歓喜院(別窓)を参照されたし。
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      ※伊豆・駿河の軍勢: 伊豆の伊東、相模の大庭、駿河の橘、常陸の佐竹、下野の籐姓足利など落日の平家を未だに見捨てない諸族。6月の頼政敗死
    直後なら武蔵の秩父平氏諸族(畠山、小山田、河越、江戸氏ら)が加わる可能性もあったのに。忠清の嘆きは理解できる。
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      ※束とは: 親指を除く指4本の巾(約8cm)。13束は約100cm、15束は120cmの矢を射る大弓。実盛のを聞いた平家軍はかなりビビったらしい。

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    左:甲斐源氏の駿河進出ルートは...    画像をクリック→拡大
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    現代の地名に当てはめると、白糸の滝付近から富士市原田を経由して愛鷹山麓で駿河目代の軍を破り、沼津市の井出(富士市との境界)に首を晒した、となる。そして東進し18日には黄瀬河で頼朝と合流した。
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    白糸~22km~原田~10km~井出~10km~黄瀬河~21km~富士川合戦場。甲斐源氏は現在の一般的な山梨と静岡を結ぶ国道52号(釜無川~富士川沿い)ではなく、当時の官道・若彦路を経由して沼津方面を目指している。
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    古代から甲斐と隣国を結ぶ道は甲斐善光寺南東の酒折宮(wiki) を基点とする「甲斐九条」。若彦路(県道36号ルート)、右左口路(甲府市右左口~古関町~精進湖)、河内路(富士川沿いの国道52号ルート)、御坂路(鎌倉街道・国道137号ルート)、萩原口(青梅街道)、雁坂口(秩父へ抜ける国道140号ルート)、穂坂路(川上へ北上するルート)、逸見路(清里へ向う国道141号ルート)、大門嶺口(信濃へ向う軍用道路)の9本。‬
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    甲斐九条のうち駿河と結ぶ平安末期の古道は御坂路と河内路と若彦路の3ルートがメイン。最も重用されたのが若彦路で、酒折宮をスタートし南東の国玉→ 2km南東の小石和→ 県道36号に沿って5km東南の武居(時代劇ファンなら知っている武居のども安の出身地)→ 2km南東の八代町奈良原→ 4km南の鳥坂峠→ 2km東南の上芦川→ 既に廃道となった大石峠を越えて5km東南の川口湖北岸・大石→ 湖畔沿いに3km南西の長浜→ 2km南東の足和田大嵐→ 4km南西の鳴沢村→ 県道71号のルートを20km南南西の富士宮市上井手で中道往還と合流する古道である。
    上井出は12年後の建久四年(1193)に曽我の仇討ちで 工藤祐経 が殺された場所で、名勝白糸の滝も近い。
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      ※武居のども安: 甲斐国八代郡竹居村(笛吹市八代町)出身の博徒。捕縛され新島流罪となったが島抜けして捕まり、文久元年(1861)に獄死。
    舎弟に清水次郎長のライバルで隣村出身の黒駒勝蔵がいる。
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      ※黒駒の勝蔵: 富士川舟運の権利を巡り清水次郎長と争った経歴を持つこの博徒の生涯は面白い。甲斐の大親分として名を売ったが、晩年には一家を
    解散して勤皇の志士となり、官軍に加わって戊辰戦争を戦った。明治維新後はその処遇に困った新政府に見捨てられ、博徒時代の罪により斬首された。同じような経歴を持ちながら新政府と円満な関係を保ち、港湾の利権を独占した清水次郎長とは大きな違いだ。
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    安倍夫妻に利用され途中で見捨てられた籠池氏と、権力に癒着して甘い汁を吸う加計幸太郎を思わせるね。
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       そして...富士川合戦の直前、小さいが興味深い二つの事件が発生している。

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    右:伊東祐親が捕縛され、祐清は平家に合流    画像をクリック→拡大
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      【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月19日 】
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    伊東祐親平維盛 の軍勢に合流するため伊豆鯉名から舟出する計画を知った 天野遠景 が捕えて黄瀬河の宿所に連行。娘婿の 三浦義澄 が申し出て、罪が決まるまで身柄を預かる事になった。
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    去る承安三年(1173)、祐親が頼朝に討手を向けた際に祐親二男の祐泰(伊東九郎祐清の誤記)の急報で難を逃れた。その功績に報いる恩賞を与えるべく呼び出したが、祐清は「父 祐親が罪人として囚われ、子が恩賞とは不合理」として拒み平家軍に加わるため上洛した。信義を重んじる美談である。
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    その後に甲斐源氏の加賀美長清(翌・治承五年に 上総廣常 の娘婿になった頼朝お気に入りの人物。後の小笠原長清)が京都から到着。平知盛 に仕えていたが母の病気を理由に帰国を願って許され、戻る途中で病を得たため手間取ったが甲斐を経て駆けつけたというのが経緯である。
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      ただし、二年後の養和二年(1182)には当人の願いを容れて伊東祐清を殺した記述があるのは何故だろう?
      これは編纂のミスか、編纂担当者が別人か、或いは訂正記事か。平家物語や曽我物語と併読して考える必要がありそうだ。

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    左:三浦邸と大倉御所西御門の概略位置   画像をクリック→拡大表示 ‬
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    【 吾妻鏡 養和二年(1182) 2月14日 】

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    三浦義澄堀籐次親家 を通じて祐親法師が自殺した件を伝えると頼朝は昔を思い出して深く嘆いた。(一緒に捕えた) 伊東九郎祐清 を呼び「祐親の罪は許そうと思ったのに自殺してしまった。残念だが後悔してもしょうがない、お前は長く私に仕えて欲しい」と語った。
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    九郎は「父が死んで子が栄えても意味ないこと。早く身の暇を(殺してくれ、の意味)」と願ったため、不本意ながら討たざるを得なかった。去る安元元年(1175)9月に祐親が頼朝を殺そうとして討手を向けた事件があり、九郎の知らせで何とか走湯山(伊豆山神社)に逃げた、その功績を考えての配慮だったが孝心が強くてこの結果となった。
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    三浦邸は西御門の至近にあったと推定されている。横浜大付属中敷地の本校舎北側辺りか。
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      【 吾妻鏡 養和二年(1182) 2月15日 】

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    義澄は御所の門前で 堀籐次親家 を経由して祐親自殺の件を報告した。 頼朝はこれを嘆くとともに心を打たれ、祐親次男の九郎祐清を呼び、「祐親は大きな過ちを犯したが、その事は許そうと思ったのに自殺してしまったのは実に悔いが残ることだ。ましてやお前を罪に問うことはできない、むしろ褒賞を与えるべきだろう」と。祐清が「父が死没しては褒賞など意味を持たない。早く身の暇を与えて欲しい」と言うため心ならず死罪とした。世間では潔い美談として語り合った。頼朝が伊豆に住んだ安元元年の9月に祐親が討手を向け頼朝を殺そうとしたが、祐清の急報があったため辛うじて伊豆山へと逃がれられた、その功績を忘れなかったのだが、祐清の孝心はこんな結果になってしまった。

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    右:小稲漁港周辺の鳥瞰    画像をクリック→ 明細にリンク ‬
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        ※伊豆鯉名: 下田の南8kmの南伊豆町小稲(地図)、伊勢外宮領蒲屋御廚にある海上交通の要所で
    絶好の風待ち港、青野川上流域は古来からの製鉄の基地でもあったらしい。
    頼朝は韮山挙兵の直後に「伊豆蒲屋御廚の史大夫知親(伊豆国守平時兼(平時忠 の養子)の目代)の権限を停止する」との下知を発布している。
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    祐親は伊東を逃れ平家軍との合流を図った。当時の伊豆には蒲屋御廚の他に熊野山領の江馬荘(北條義時の本領近く)、蓮華王院(天台宗の三十三間堂)領の狩野荘、九条家(藤原北家)領の井田荘(西伊豆戸田の北側)、長講堂領(当初は 後白河院領)の仁科荘(西伊豆堂ヶ島近く)などがあった。
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        ※祐親法師: 安元二年(1176)に嫡子の 河津三郎 が伊東八幡野で 工藤祐経 の郎党に討たれ、祐親は
    出家して寂心を名乗っている(鎌倉時代を歩く 壱の 河津三郎の血塚(別窓)を参照)。
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        ※祐清上洛: 曽我物語では頼朝と祐清の遣り取りを更に劇的に描いている。
    伊東九郎(祐清)の死罪を許し召し使おうとしたが、祐清は「不忠を行った祐親の子であり、石橋山では敵として戦った。生き永らえるのが本意ではないから首を斬るように」と望んだ。頼朝は「気持ちは判るが、かつて忠義を行った者は斬れない」とした。祐清は更に「許されれば平家に加わり敵として戦うことになる」と言った。頼朝は「もし敵になるとしても、斬れない」として釈放した。
    祐清は京に上り北陸道で(義仲軍と)転戦、加賀篠原の合戦(地図)で 斎藤別当實盛 らと共に討死。実に立派な武者の振る舞いである。
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        ※祐清余聞: 彼の妻は 頼朝 の乳母を務めた 比企尼 の三女で烏帽子親は 北條時政。子女の記録はないが実子が跡を継いだとする系図もある。
    夫婦は横死した兄 河津祐泰 の遺児で生後まもない御坊丸を引き取り、祐清の北陸戦死の後に妻は御坊丸を連れ 平賀義信 に再嫁した。
    御坊丸は後に越後国上寺(別窓)に入って禅司房を名乗り、曽我の仇討後に鎌倉の召喚を受け、斬罪になると思い込み、甘縄(地図)で自殺したらしい。享年18歳。(同年7月2日の吾妻鏡を参照)。

    左:黄瀬河の軍陣に九郎義経が合流    画像をクリック→明細にリンク ‬
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月21日 】
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    頼朝維盛 軍を追って京を攻める命令を下し、千葉常胤三浦義澄上総廣常らがこれを強く諌めた。
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    常陸の佐竹義政と 秀義らは数百の軍勢を支配下に置きながらも未だに鎌倉勢に加わる動きを見せず、更に秀義の父の隆義は平家に従って在京している。その他にも(常陸国周辺)には油断できない者が多いから、当面は関東の平定を優先させ落ち着いた後に京都を目指すべきである、と。
    頼朝はこれを聞き入れて黄瀬河の宿舎に戻った。
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    その後に甲斐源氏の 安田義定 に遠江国を、武田信義を駿河国の統治および西の平家勢防衛に任じる指示を与えた。夕刻になって体を清め三島大社に参詣、挙兵が成就したのは神社の加護なので伊豆国の御園・河原谷・長崎(それぞれ現在の三島市御園と若松町、伊豆国市長崎)を神領として寄進した。
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      ※佐竹秀義: 常陸源氏佐竹氏の当主が隆義で長男が義政、二男が嫡子秀義。関東平定優先の提言は正論だが、佐竹氏と所領を接する 千葉常胤
    上総廣常 には平家追討より優先順位が高い。特に千葉常胤は父の常兼が立荘した相馬御厨を佐竹氏から取り戻すのが宿願だった。
    秀義は治承四年(1180)11月の佐竹合戦から逃亡。文治五年(1189)7月26日、奥州合戦に向かう鎌倉軍に合流して罪を許された。
    詳細は同日の吾妻鏡に記録されている。
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      ※黄瀬河: 頼朝が本陣を置いたのは現在の八幡神社(地図)付近と伝わる。旧東海道に足柄峠から南下した道路が合流する要衝の宿驛だった。
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      ※相馬御厨: 天治元年(1124)、叔父の相馬常晴は実子の常澄(上総広常の父)ではなく兄常兼の三男常重(常胤の父)を養子に迎えて下総国相馬郡
    (現在の取手市・常総市・龍ケ崎市・守谷市・つくばみらい市・我孫子市・柏市の一部)の郡司職を譲与した。
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    常重は大治元年(1126)に死去した父の常兼から千葉郡(現在の千葉市・船橋市・八千代市の一部)を継承、利根川を挟んだ南北両郡を支配し、南側を鳥羽法皇に寄進して千葉荘を立荘した(後に千葉荘の所有権は 八條院 領に編入)、更に大治五年(1130)には相馬御厨を伊勢神宮に寄進し、常重は双方の荘官として千葉氏の基礎を築いた。保延元年(1135)には18歳の常胤が家督を継承した。
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    翌年、下総守だった藤原親通が年貢未納を理由にして常胤を捕縛し、常重に強要して譲渡証文を提出させた。ここで常晴から常重への相馬御厨譲渡の無効を主張する 源義朝 が介入し、藤原親通と義朝と千葉氏親子が三つ巴で争う複雑な状態になった。
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    平家が勢力を拡大した永暦二年(1161)、藤原親通の二男親盛が持つ相馬御厨の譲渡証文を佐竹義宗が手に入れて所有権を主張。
    本来は無効の筈だが親盛の娘が 平重盛 の側室だった関係もあって佐竹氏支配が続き、千葉氏が奪還するのは治承四年(1180)11月の佐竹氏討伐と、寿永二年(1183)12月の上総広常粛清を待つことになる。
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      ※頼朝の指示: この時点では甲斐源氏と頼朝は対等の立場で、しかも駿河と遠江は甲斐源氏が武力制圧したエリア。頼朝の指示や命令は疑わしい。
    甲斐源氏よりも頼朝の方が格上であると表現したい吾妻鏡編者の脚色だろう。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月21日の続き 】
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    同日、一人の若者が黄瀬河の宿営前に佇み頼朝に拝謁を願った。土肥實平土屋宗遠岡崎義實らが警戒して取り次がなかったが頼朝が聞きつけ、年令を考えると奥州へ逃れた九郎か、早く会って見ようと實平に命じて招き入れると果たして 義経だった。御前に進んで過ぎた日々を語り合い、懐旧の涙を流した。かつて先祖の 八幡太郎義家 が奥州合戦(後三年の役)で清原武衡家衡と 苦戦していた時、弟の 新羅三郎義光 は朝廷警備の職を辞して兄の軍陣に駆けつけ敵を滅ぼした、その旧例に同じである、と。
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    義経は平治二年(1160)の赤子の時に父 義朝 が殺された。その後は継父 一條大蔵卿長成 の庇護を受けて将来の出家に備え鞍馬山に預けられたが恨みを忘れ難く、自ら元服して 藤原秀衡 を頼り奥州に逃れた。今回 頼朝 挙兵の報を聞き合流を望んだが秀衡に慰留され、隠れて出発を計画したため秀衡も諦めて家臣の勇士 佐藤継信忠信 の兄弟 (佐藤庄司基治 の子)を付き添わせた。
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      ※拝謁を: 軍勢の本陣に訪れた武者が名乗らない筈はない。頼朝の台詞 「奥州へ逃れた九郎か」 はナンセンス。

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    右:佐藤庄司基治の本拠 大鳥(鳳)城    画像をクリック→明細にリンク ‬
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    奥州藤原氏は初代 清衡 の頃から朝廷との関わりを深め、基衡秀衡と続く頃には荘園の名目で陸奥国一帯に私領を拡大していた。その所領の南部、現在の福島市から白河市までの広大なエリアを管理する「郡司」に任じたのが秀衡股肱の家臣であり、婚姻による縁戚でもあった 佐藤基治 である。
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    基治は飯坂温泉に近い現在の飯坂町湯野を本拠とし、館山(標高230m・地図)に居城を構えて「湯野庄司」→「湯庄司」とも呼ばれた。義経の出発に際して秀衡の指示を受けた基治は80騎の武者に加えて三男 継信 と四男 忠信義経 に与え、腹心として忠節を尽くすよう命じた。基治の長男 は隆治(前信とも)で次男は治清、とりあえず二人が残っていれば一族の結束と荘園管理には支障なしと考えたのだろう。
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      ※基治の子: 先妻(亡妻か)は大窪太郎(上野国(北群馬郡吉岡町大久保)の土豪)の娘で、二人の男子
    (隆治と治清)を産んだ。後妻(継室)は秀衡の弟で十三湊(とさみなと)を領有した津軽秀栄の娘・乙和子。 彼女は三男継信と四男忠信を産んでいる。系図上では秀衡の兄弟は秀栄だけなので乙和子はその娘としたが、系図に載っていない姉妹の娘だった可能性はある。
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      ※十三湊: 現在の五所川原市の十三湖畔に平安後期から室町中期まで繁栄した港湾都市。詳細は検索されたし。
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      ※乙和子: 別の資料では音羽御前。息子の消息を訪ねて越後に入った彼女は栃尾(静御前の墓所伝説あり)で源氏の勝利と兄弟の活躍を知り嬉しさの
    あまり旅姿の袈裟を着たまま舞い踊った。これが「おけさ」の始まりである、と栃尾の伝承は語っている(真偽は保証しない)。
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    後に息子の戦死を知り、更に夢枕に現れた羽黒大権現(十一面観音の垂迹、仮の姿)が「栃尾に我を祀れ」と告げたため小貫に庵(瑞雲庵)を結び菩提を弔ったという。これが羽黒神社・瑞雲寺の縁起である、と。更に詳細は 栃尾に残る伝・静御前の墓(別窓)で。
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    吾妻鏡に拠れば兄の継信は屋島で戦死、平家物語では義経を守って 能登守教経 の矢を受けた結果の討死としている。屋島合戦の当初は互角に戦った平家軍だったが、後続の源氏軍が集結し始めたため軍船で沖に退き、那須与一 が七段(77m)離れた扇の的を射抜く逸話へと話が続く。(これは両方とも軍記物語の脚色らしいけどね)。弟の忠信は都落ちした後に義経と別れて都に潜伏し、討手と奮戦の末に自害している。懇ろにしていた人妻の密告による、と。
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    【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月19日 】
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    廷尉(義経)は昨夜遅くに阿波と讃岐の国境中山を越え屋島近くの民家を焼き払った。敵将 平宗盛 は一族を率いて軍船で漕ぎ出し、義経は 田代信綱 と 金子家忠らを伴って浜辺に攻め寄せて矢戦となった。この間に佐藤継信と忠信と後藤實義らが平家の宿営を焼き払った。
    平家の家人 越中盛継と 藤原忠光 らが下船して戦い、佐藤継信が射殺された。大いに悲しんだ義経は僧侶を呼んで松原に葬り、後白河法皇 から拝領した愛馬「太夫黒」を(供養の糧として)僧に与えた。部下を思い遣る気持ちは誠に美談である。
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    【 吾妻鏡 文治二年(1186) 9月22日 】
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    糟屋有季が京都に隠れ住んでいた義経の家臣 堀景光を生け捕りにし、また中御門東洞院で佐藤忠信を殺した。忠信は奮戦したが衆寡敵せず、郎党二人と共に自殺した。彼は以前から義経に同行していたが宇治の辺りで別れて都に戻り、かねて通じていた人妻に送った手紙が夫から有季に渡ったためである。鎮守府将軍秀衡の近臣で、治承四年に義経が関東に合流する際に選ばれ同行していた。
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      ※堀景光: 早くから義経に仕えた郎党。金売り吉次と同一人説あり。元暦二年(1185)に近江国篠原で 宗盛 の嫡男清宗を斬首している。
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      ※糟屋有季: 鎌倉御家人で糟屋荘(現在の伊勢原市)庄司。平家追討・奥州合戦・梶原景時 追討などに功績を挙げたが、妻が 比企能員 の娘だった関係
    から建仁三年(1203)の比企の乱では能員側に味方し、奮戦の末に討死している。

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    左:白河の関近くに残る「庄司戻しの桜」    画像をクリック→拡大
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    下野国(関東北部の栃木県+群馬県の東部)と陸奥国の境界である白河の関から更に1kmほど北の旧東山道沿いに「庄司戻しの桜」と呼ばれる樹が繁り、霊桜碑が建てられている。
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    治承四年(1180)10月、頼朝 に合流するため東国に向う義経と息子の継信・忠信を送って本拠地の湯野(飯坂)から100kmも南まで同行した 佐藤庄司基治 は、所領の南限である白河の関近くの街道沿いに桜の杖を突き刺して「汝らが忠節を尽くせばこの桜の杖が根付くだろう」と諭し、息子らと別れた。
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    継信と忠信は父の教えに従って転戦し共に命を落としたが、桜の杖はその心に応えて活着した。天保年間(1830~1844)の野火で焼けた後も生き延びて次々と芽吹き、毎年花を咲かせている、と。もちろん何代目かの桜の筈だし、そもそもこの伝承も後世のフィクションである可能性が高い。
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    そして親子の別離から九年の歳月が流れ、頼朝による奥州遠征の主戦場となった阿津賀志山防塁攻防戦の直前に石那坂(近年は大鳥城攻防説が優勢)で戦った佐藤基治について、吾妻鏡は「戦死と捕虜」二通りの記録を残している。幕府の正史に近い存在なのに杜撰な記述も結構多いんだよね。石那坂合戦と阿津賀志山合戦、安倍一族と奥州藤原氏の興亡は別項で詳細を述べる。
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    【 吾妻鏡 文治五年(1189) 8月8日 】
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    (奥州藤原氏側の)金剛別当秀綱は数千騎で阿津賀志山の前に布陣した。早朝に頼朝はまず 畠山重忠小山(結城)朝光加藤景廉工藤行光 と祐光らに開戦を命じた。秀綱らは防戦したが大軍の波状攻撃を支え切れず、昼前に大将 国衡 の本陣に撤退した。
    また藤原氏四代当主 泰衡 の郎従の佐藤庄司(別名を湯庄司、継信・忠信らの父)は叔父の河辺高綱・伊賀良目高重らと石那坂に布陣して防御線を築き鎌倉勢と戦ったが、結局庄司以下18人は討ち取られ阿津賀志山に首を晒した。
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    【 吾妻鏡 文治五年(1189) 10月2日 】
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       捕虜になっていた佐藤庄司・名取郡司・熊野別当らは赦免され、それぞれ本領に帰った。
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      ※名取郡司: 現在の宮城県南部から名取市にかけての郡。郡司は奥州藤原氏縁戚の可能性も指摘されている。
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      ※熊野別当: 名取市高舘地区の名取熊野三山は熊野の本宮・新宮・那智社の三社を全て勧請した熊野信仰の霊場。
    名取市の紹介サイトを参考に。
    別当の一族は武士化して藤原氏との関係を深めていたらしい。

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    右:本筋に戻って、相模国府で最初の論功行賞を  画像をクリック→明細にリンク
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      【 吾妻鏡 文治五年(1189) 10月23日 】   頼朝率いる鎌倉軍は富士川合戦から相模国に凱旋。
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    相模国府に到着し、最初の論功行賞を行った。
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    北條時政武田信義安田義定千葉常胤三浦義澄上総廣常和田義盛土肥實平安達盛長土屋宗遠岡崎義實狩野(狩野)親光 ・ 佐々木兄弟(定綱経高盛綱高綱) ・ 宇佐美祐茂 ・ 市河行房 ・ 加藤景員大見實政大見家秀(家政)・飯田家義らが所領を安堵または新領を得た。三浦義澄 は三浦介(守の次席)に、下河邊行平 は従来の所領を安堵され下河邊庄司に再任。
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    (石橋山合戦以来敵対していた) 大庭景親 はついに投降して出頭し上総廣常に預けられた。長尾為家は 岡崎義實に、長尾定景は三浦義澄に、それぞれ預けられた。
    河村義秀は所領の河村郷を没収され 大庭景義に預けられた。滝口経俊は山内庄を没収され 土肥實平に預けられた。その他にも石橋山の合戦で敵となった者はいたが、死罪にされたのは10人に1人程度だった。
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      ※相模国府: 奈良時代当初は平塚市四之宮の前鳥(さきとり)神社付近だった。前鳥神社以前に関しては諸説があり、海老名→ 平塚→ 大磯と移動した、
    あるいは小田原市→ 平塚→ 大磯に変ったなど三遷の主張もある。ただし「平塚→ 大磯」については出土品などからほぼ確定しており、吾妻鏡に載っている「富士川合戦後最初の論功行賞が行われた相模国府」は現在の大磯町国府本郷で、12世紀半ばまでは前鳥神社付近にあった国府が何らかの理由で大磯に移転したと考えるのが定説になっている。
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      ※工藤親光: 狩野介茂光の四男で源平合戦の当初は狩野介を継承していたらしい。満劫(曽我兄弟の生母)の父親である。
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      ※實政と家秀: 彼らを大見とするべきか宇佐美とするべかきか悩む。元々中伊豆大見郷が本領だが、宇佐美姓と大見姓の使い分けが曖昧だ。
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      ※長尾定景: 石橋山合戦で 佐奈田義忠(与一)を討った武士。頼朝は身柄を義忠の父岡崎義實に預けて暗に報復殺害を認めたが、毎日法華経を唱える姿を
    見た義實は憎しみを捨て助命する。後に定景は義實の同族 三浦義村の郎党となり、建保七年(1219)一月に八幡宮で三代将軍 実朝を殺した 公暁を討ち取っている。従って吾妻鏡本文の「長尾為家は岡崎義實に、長尾定景は三浦義澄に預けた」は、多分誤記だろう。

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    左:旧・国府の跡 平塚の前鳥(さきとり)神社   画像をクリック→明細にリンク
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    大磯国府のついでと書いては前鳥神社に失礼だけれど...大磯に遷る前に国府があったのが確実視される四之宮の前鳥神社(公式サイト)も紹介しておこう。
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    昭和五十四年(1979)からの国道129号拡巾工事に伴う発掘調査で前鳥神社の南東約1kmの高林寺(地図)入口交差点周辺から大量の墨書土器が出土した。更に高林寺境内は墨書きの残る土器が出土した密度が特に高いため、国司の館とする説も発表されている。
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    政所・御司の役所名や大住・郡の地名を記した土器類、尾張産の高級食器や装飾品を含む出土品は 平塚市立博物館に展示されている。現在の前鳥神社は幼稚園を併設しているごく普通の鎮守に過ぎないが、博物館は相模国府の姿を紹介する資料として一見の価値がある。
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    国府が前鳥神社周辺から大磯に遷った理由も年代も推定の域を出ないが、概ね平安末期の西暦1100年前後、相模川の氾濫が影響した可能性は高い。いずれにしろ論功行賞の舞台になった国府は前鳥神社ではなく、大磯の六所神社周辺にあった。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月25日 】
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       頼朝は松田に造作した館に入った。中村宗平に修理を命じていた、侍二十五箇の萱葺きである。
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      ※松田邸: 異母兄の 朝長が育った波多野氏の松田邸(場所は確定されていない)を修理するよう10月18日に命じていた。原文は「侍二十五箇」で、この
    意味は判らない例えば三十三間堂は 「間口が33間」ではなく、内陣の柱またはスパンが33と表現する古代~中世の手法だが、それを当て嵌めて良いのかどうか。現実の松田邸はかなり豪壮な建物だったのは間違いないだろう。
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    波多野氏の所領が中村庄の北に隣接している関係で修理を命じたのだろう。松田郷は現在の東名大井松田IC一帯で、波多野荘中心部から見ると8kmほど西、松田邸は寒田神社南東の松田小学校の一帯(地図)が最も有力視されている。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月26日 】
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    大庭景義 に囚人 河村義秀(波多野一族)を斬罪に処する指示を行った。また、今日固瀬川で 大庭景親 を斬罪に処して首を晒した。
    景親の弟 俣野五郎景久 は今も志が平家にあり、密かに東国を脱出して上洛した。
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      ※景親処刑: 投降後に頼朝が兄の景義に「助命を願うか」と訊ね、景義は「お心の儘に」と答えた。これは景義の清廉さを伝える事件、とされる。
    ただし保元の乱(1156年)では 為朝 の鏑矢に左膝を砕かれて落馬した景義を、共に参戦していた景親が担いで救出した恩もある。この傷によって歩行困難になった景義は景親に家督を譲るのだが、当時は二人の父親・景宗も存命していた。
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    また長男の景義と次男の豊田景俊を産んだのは横山隆兼(愛甲季隆 の父)の娘、三男の景親と四男の俣野景久は異腹である。異腹の兄弟が源平に分かれ、更に助命を願わなかったのは一族の生き残りを担保する意味か、あるいは円満な関係ではなかったからか。
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    景親弟の俣野景久は石橋山で 佐奈田余一義忠 と組み合った武士で、後に倶利伽羅峠から退却中の北陸篠原で 義仲 軍の追撃を受け、斎藤實盛伊東祐清 らと共に戦死した。河村義秀は 波多野義常 の従兄弟で大庭景義の姉妹が義常に嫁している関係から大庭景義に預けられたのだろう。河村義秀はそのまま大庭景義に匿われ、10年後の八幡宮放生会で弓の妙技を見せて赦免され御家人に加わった。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月27日 】
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    佐竹秀義 を追討するため常陸国に向け出陣した。周囲ではこの日が運勢の衰微する日取りなのを心配したが、東国を掌握する契機となった令旨が届いたのは4月27日だった。従ってこの様な場合には27日を使うべきである、と。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 12月12日 】    富士川合戦後の頼朝は常陸で佐竹氏を討伐し11月17日に鎌倉に帰還している。
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    亥の刻(22時前後)に新築の館に移転の儀式があった。去る10月に 大庭景義 に命じて大倉郷に建てたもので、定刻に 上総廣常を出て新邸に入った。和田義盛が最前列に、加賀美長清が左に、毛呂季光が右に従った。 北條時政義時足利義兼山名義範千葉常胤胤正胤頼安達盛長土肥實平岡崎義實工藤景光宇佐見助茂(祐茂)土屋宗遠佐々木定綱盛綱 が続き、畠山重忠 が最後尾に従った。
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    頼朝入御後に従った武士は侍所(柱が18スパンの詰所)に向き合って二列に並び、和田義盛が中央に控えた。出仕者は211人である。御家人らもそれぞれ周辺に館を構えた。以前から漁師や百姓だけが住む辺境の寒村で家屋も少なかった鎌倉は道路が整備されて家が立ち並び、鎌倉の主の本拠としての体裁を整えた。 今日、園城寺(三井寺)が焼失、金堂など堂塔伽藍・経巻など殆どが灰燼となった。

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    右:朝夷奈切通し東側、県道沿いに残る上総廣常の墓    画像をクリック→拡大
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    上総廣常の屋敷 は十二所の奥で朝夷奈切通しの手前、十二所果樹園に分岐する道の付近(地図)と伝わる。
    なんでこんな山の中に屋敷を構えたのか理由が判らんと思うほど薄暗くて湿気の強い場所だ。
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    廣常は寿永二年(1183)12月20日に自邸で双六を楽しんでいた最中に、相手の 天野遠景梶原景時 に誅殺された。この年の吾妻鏡は欠落しているため記録を辿ることはできないが、北條九代記は上総権介廣常 と子息の能常が誅殺された」と記載している。大倉御所で廣常を殺し、十二所の屋敷を襲って嫡子能常を殺し血に濡れた太刀を洗ったのが「大刀洗川」、と考える説もある。
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    廣常は以前から「東国の自立」を主張しており、以仁王 の遺児・北陸宮擁立を夢見た 木曽(源)義仲 と廣常の接近を警戒した頼朝が排除を決断した、とも伝わっている。朝廷共存共栄路線を歩もうとする頼朝にとって、朝廷支配からの独立を夢見た広常は邪魔な存在になっていた、らしい。建久元年(1190)に入京した 頼朝後白河法皇 の面談に陪席したした天台座主の 慈円 が頼朝の言葉を愚管抄に書き残している。
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       廣常は「朝廷に見苦しく気を遣う必要などない、我々がこのように坂東で活動している事について誰が命令などできますか」と繰り返していた。
       平家討伐よりも東国の自立が優先だと主張していたため殺した
    、と。
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    廣常の墓は朝夷奈切通しに入る六浦側の環状4号線沿い(地図)にある。元々は切通しの入口側にあったらしいが道路工事の関係で現在地に移設された。本領の館は大原町または御宿町にあったと伝わるが、遺跡は確認されていない。殺されなかったらどんな足跡を残したか、想像に値する人物である。
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          時系列に従えば次は常陸国佐竹氏討伐、この方面はまだ踏破していないため先送りして寿永二年(1183)の野木宮合戦に進む。
          佐竹秀義が籠った金砂山城は常陸大宮市上宮河内町の
    西金砂神社 なのだが、間違えて 東金砂神社 (常陸太田市天下野町)常陸(茨城県)を
          目指してしまった。直線距離では6kmなのに車では20km強(ルート地図)、東金砂神社でミスに気付いた時には夕暮れで、やむなくギブアップした。
          その後も何回か近くを通ったけれど機会に恵まれず何年も過ぎた。下総・上総(千葉県)を含めて探訪はいつになるやら(涙)。


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    左:寿永二年(1183)2月に勃発した野木宮合戦  画像をクリック→明細にリンク
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    【 吾妻鏡 治承五年(1181) 閏2月23日 】   実際には寿永二年(1183)2月の事件を差す
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    志田義廣 は三万余騎を率いて鎌倉に向い、源氏に叛いた(藤姓足利氏の) 忠綱 も加わった。
    忠綱は同じ 藤原秀郷 を祖とする小山一族と下野地域の主導権を競う立場にあり、更に(治承四年の)挙兵を命じた 以仁王 の令旨が藤姓足利氏ではなく小山氏だけに届いたため反発して平家に味方した経緯もあり、義廣に協力するついでに小山氏も滅ぼしてしまおう、と考えた。
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    次に志田義廣は 小山四郎朝政 に味方に加わるよう持ち掛けた。朝政の父 政光 は御所警護に任じ郎従の多くを率いて在京していたため朝政が動員できる手勢は少なかったが、彼の志は 頼朝 にある。義廣を討ってしまおうと考え、老臣の言葉に従って味方をすると偽り義廣を誘い出した。
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    両軍が衝突した野木宮(現在の野木神社)の創建は第十六代仁徳天皇の治世(313~399年)、完全に神話の時代に属する。その後の延暦二十一年(802)には蝦夷を平定した 坂上田村麻呂 が戦勝を感謝して社殿を寄進した。鎌倉時代初期には頼朝が田畑を、実朝が神馬を寄進した記録が残っている。東国に於ける頼朝の対抗勢力が野木宮合戦を最後にして鎮圧された関係から鎌倉幕府成立の一里塚であり、その意味で源氏の崇敬を受けたのだろう。
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    野木神社の主祭神は第十五代応神天皇の皇太子だった莵道稚郎子命、応神天皇と神功皇后らを配神としている。莵道稚郎子命は異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)を皇位に就かせるため自殺した人物で、下野国造に着任した奈良別王がこの地に莵道稚郎子命の遺骸を葬ったのが起源とされる。ただし延喜式では莵道稚郎子命の陵墓は宇治市の丸山古墳 (地図)にあり、野木宮合戦から40年後の承久の乱(1221)に 北條時房 率いる鎌倉軍が 宇治川の渡河作戦(別窓)で 源有雅 率いる朝廷軍を粉砕した地点でもある。現在は宮内庁も正式に陵墓として認定し管理下に置いている。
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    ※奈良別王: 仁徳天皇41年(353)には豊城入彦命(第十代崇神天皇の皇子・奈良別王の四代祖)を祭神として二荒山神社を創建している。
    下野国は古くから大和朝廷の支配下に入り、奈良別王は下野国造に任じた時に現在の佐野市郊外に舘を構えていたとの伝承も残っている。
    唐沢山の西麓には伝・藤原秀郷 の墳墓もあり、唐沢山城址(別窓)に近い奈良渕町(地図)が奈良別王の館跡に該当する、と。
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    余談になるが、平安時代末期まで相模国府が置かれていた前鳥神社(別窓)も祭神として莵道稚郎子命を祀っているのが面白い。

    野木神社 右:旧奥州街道から400mも続く野木神社の見事な参道、   画像をクリック→拡大表示
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    【 吾妻鏡 治承五年(1181) 閏2月23日 の続き 】   実際には寿永二年(1183)2月の事件を差す
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    更に 足利(藤姓)忠綱 は味方に加わるよう 小山四郎朝政に持ち掛けた。朝政の父 政光 は御所警護に任じて郎従の多くと共に在京しており朝政の手勢は少なかったが、志は頼朝の側にある。義廣を討ち取ろうと考え、老臣の言葉を容れて味方をすると偽り、義廣を誘い出した。
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    朝政は義廣一行が野木宮まで来た時に登々呂木澤と地獄谷で待ち伏せし多くの敵を討ち取った後に馬を射られて落馬、更に徒歩で奮闘を続けた。傷を負った馬は主人から離れ登々呂木澤で嘶いた。
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    そこへ鎌倉から小山を目指して進軍していた五郎宗政(20歳)がこの馬を見て朝政討死と判断し義廣の陣へ突入、立ち塞がった義廣の乳母子・多和利山七太を討ち取った。義廣は少し退いて野木宮の西南に布陣し、小山四郎朝政と五郎宗政は東から攻め寄せた。
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    この時に東南の方向から突風が吹いて土埃を巻き上げ、義廣勢は視界を失って統率が取れず多くが討ち取られて地獄谷と登々呂木澤に死骸を晒した。また 下河辺庄司行平 と弟の 四郎政義 が古我(現在の古河)と高野の渡を封鎖し、敗走する兵を討ち取った。足利七郎有綱と嫡男の 佐野太郎基綱、四男の阿曽沼四郎廣綱、五男の木村五郎信綱、大田小権守行朝らは小手差原に陣取って戦った。他にも 八田武者所知家、下妻四郎清氏、小野寺太郎道綱、小栗十郎重成、宇都宮所信房、鎌田七郎為成、湊河庄司太郎景澄らが朝政勢に加わった。蒲冠者範頼 も同様に駆け付けた。
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    ※地獄谷と登々呂木澤: 野木神社西側、渡良瀬川まで広がる湿地帯。野木神社とは15~20mほどの高低差がある。
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    ※足利有綱: 藤姓足利氏(藤原秀郷 の子孫)の中で志田義廣に味方したのが嫡流の 俊綱忠綱 の親子、俊綱の末弟で庶流の足利七郎有綱と嫡子の
    佐野基綱兄弟は鎌倉方に与している。本来は足利地域に最初に土着していた藤姓足利氏は野木宮合戦での敗北によって失脚零落し、以後は庶流の佐野一族が辛うじて命脈を保つ結果となった。
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    ※古我と高野の渡: 古我は野木から南に逃げて渡良瀬川を渡る地点、高野は北に逃げて思川上流を渡り現在の栃木市方面に向かうルート、小手差原は
    利根川の古流路(現在の権現堂川)を渡って南西に逃げるルートか。要するに壊滅して統率を失いバラバラに落ち延びたのだろう。
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    野木宮合戦前後の吾妻鏡の記事はリンク先に掲載してあるが、嘘っぽい描写が多くて好きになれない。そもそも三万騎を率いていた義廣が寡兵の朝政にベタ負けするのは理屈に合わないし、吾妻鏡の書いた「兵を登々呂木澤地獄谷の樹に登らせ大声を挙げて大軍に思わせた」なんて不合理だし、全く同じ描写を金砂城攻防戦でも使っている。「ちょうど弟の五郎宗政が鎌倉から来た」のも偶然が過ぎるし、頼朝に臣従している小山一族の立場は判り切っているのに朝政に協力を持ち掛けるのも全く理屈に合わない。下川邊行平から範頼まで源氏の武将が揃っている記録も、充分な事前の準備があった事実を物語る。
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    野木神社の地図はこちら、旧奥州街道から真っ直ぐに約400mの参道が延びている。地獄谷と登々呂木澤は神社の西に渡良瀬川まで続く湿地帯だったが現在は河川敷を除いて水田に姿を変えている。
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      ※金砂城攻防戦: 治承四年(1180)の富士川合戦直後に常陸の 佐竹秀義 が籠った金砂城(地図)の戦い。要害の金砂城を攻めあぐねた鎌倉軍は
    上総廣常 の提案で秀義の叔父佐竹蔵人義季を篭絡し城の裏手から大声で城兵を驚かし攻め落としたと、吾妻鏡は記述している。

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     その九 甲斐源氏の興隆と衰退について 

     
    右:伝・経基王の館跡(鴻巣)    画像をクリック→明細にリンク
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    異説は多々あるが、一応通説に従って...第五十六代 清和天皇 の第六皇子 貞順親王 が源能有の娘に産ませた六孫王が臣籍に下って 源経基 を名乗り、清和源氏の初代となった。源能有は第五十五代文徳天皇の皇子で清和天皇の異母兄。皇統を継げる立場だったが生母の出自が低く、早くに皇籍を離れていた。
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    JR高崎線の鴻巣駅から1kmほど西の鴻巣高校グラウンドの南隅、東西95m×南北89mの一角が「ふるさとの森」として保存されており、ここが源経基の館跡と伝わっている。
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    承平八年(938)、経基は武蔵介(四等官(守・介・掾・目)の二番目)として同じく権守の興世王と共に赴任し、在地の豪族・武蔵武芝とトラブルを起こす。興世王は 平将門 の仲介を受け入れたが経基は兵を率いて比企郡狭服山に籠った末に京へ逃げ、将門と武芝と興世王が結託して謀反した、と訴えた。結果として関東5ヶ国国府の証明書を提出した将門らの抗弁が認められ経基は誣告の罪で拘禁されたのだが...
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    ※比企郡狭服山: 当時の武蔵国府は府中市大國魂神社携帯一帯(地図)だった。ここを起点と考えて「山」を推定すると、将門伝説が残る飯能市前ヶ貫の
    大蓮寺裏山(地図)裏山か、個人的には鎌倉街道が通っていた狭山市の智光山公園(地図)だといいな、などと思っている。この根拠は皆無、単純に若い頃の些細な思い出があるだけなのだが(笑)。
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    翌・天慶二年(939)11月に将門が実際に乱を起こしたため罪を解かれて昇進し、更に天慶四年(941)には 藤原純友 の乱鎮圧(単なる戦後処理)にも関わって鎮守府将軍にまで登り詰めた。合戦を指揮した経験もなく、軍人としては間違いなく凡庸以下だった。
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    経基の館があったとする根拠は薄弱で、城郭の痕跡は平安末期ではなく戦国時代以降のものと考える方が妥当だろう。高崎線に沿って北へ伸びる中山道は埼玉県北部で京と奥州を結ぶ東山道と交差する要路であり、慶長八年(1600)には関が原に向う徳川秀忠軍もこのルートを通過している。
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    土塁や濠はかなり本格的な構造だが、後世の出城あるいは砦と思われる。経基の館跡を利用して軍事拠点に整備した可能性も皆無ではないが、武蔵国に僅か一年弱の滞在だった経基の館跡が残っている筈もない。今回は周辺を素通りするだけで済ませたが、いずれもっと詳しく公園の中を歩いてみたい。

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    左:羽曳野 通法寺に残る源氏三代の墓所    画像をクリック→明細にリンク
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    経基王(源経基)の嫡子 満仲 は摂津国多田(現在の兵庫県川西市多田)に源氏子飼いの武士団を形成し、更に満仲の息子らは各地に所領を得て新たな源氏の諸家を興した。
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    嫡子の 頼光 は多田を継承して摂津源氏(多田源氏)の祖となった。本来ならば清和源氏嫡流である頼光の家系は頼光→ 頼綱→ 明国(多田)と続き、明国の弟・仲政の嫡子だった 三位頼政、その後は養子を経て末裔には大田道灌が現れる。満仲の二男 頼親 は大和国(奈良県)に拠点を置いて勢力を伸ばしたが、数代後には中央政権との関わりを維持できず、地方豪族として歴史の中に埋没した。
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    そして、満仲の三男 頼信 は第68代後一条天皇の寛仁四年(1020)に河内守に任じ、河内国古市郡壷井(大阪府羽曳野市壷井)の香炉峰と呼ばれる山の裾に館を構えた。館の敷地は現在の通法寺跡から壺井八幡宮を経て2km北の駒ヶ谷付近まで含んでいた、と伝わる(地図)。
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    河内源氏は 頼義義家→ 義親→ 為義義朝 に続き、150年後には 頼朝 による鎌倉幕府創設に至る。頼朝の血筋は次の代(頼家実朝)で絶えるが、義家の弟 義光 は一時期の領国だった常陸と甲斐に勢力を拡大し、常陸の所領は長男の佐竹義業(秀義 の曽祖父)が継承して常陸源氏となる。
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    そして甲斐の所領は二男の 逸見義清 が継承、父と共に甲斐に土着した義清の嫡子 清光 は甲斐国各地の所領を息子たちに与え、嫡流武田氏を始め加賀美氏、浅利氏、小笠原氏などの甲斐源氏として長く歴史に名を留めていく。更に富士川中流域の偏狭な土地 南部郷(地図)を継承した南部氏庶流は奥州合戦で得た恩賞の地に移住し、東北屈指の名家として嫡流を越える繁栄を得た。
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    羽曳野壺井の通法寺は河内源氏の菩提寺で、河内国司に任じた 頼信 が長久四年(1034)に山中にあった千手観音像を祀る小堂を建てたのが最初。その後、前九年の役から凱旋して浄土宗に帰依した嫡男の 頼義 が阿弥陀如来を本尊として河内源氏の氏寺に改め、これが壷井八幡宮の別当寺となった。
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    通法寺は源氏の隆盛と共に繁栄したが戦国時代には再三の兵火で焼失、元禄十三年(1700)に源氏の末裔・多田義直の申請を受けた五代将軍綱吉が再建し寺領として200石が与えられた。明治初期には廃仏毀釈に伴って廃寺となり、現在では本堂の礎石と江戸時代建立の山門と鐘楼が残っているだけで、河内源氏三代(頼信・頼義・義家)の墓所が周辺に点在している。
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    大きな疑問として残るのは、二度上洛した頼朝が先祖の墳墓である通法寺を訪れた記録が残っていない事だ。京都からは約70kmだが文治元年(1185)8月の東大寺盧遮那仏開眼供養のついでなら片道40km、僅か一泊の道程なのに。
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      ※香炉峰: 唐代の詩人 白居易(772~846)は46歳の時に中央から江州(現在の江西省九江市)に左遷され、廬山の香炉峰麓に居を構えた。
    ここで簾を上げ、雪の香炉峰を見ながら零落の我が身を省みた七言律詩を詠んだ。壺井の香炉峰はこの山の名を転用したのだろう。
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       日高睡足猶慵起  小閣重衾不怕寒  遺愛寺鐘欹枕聽  香爐峰雪撥簾看
    匡廬便是逃名地  司馬仍爲送老官  心泰身寧是歸處  故郷何獨在長安
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    陽が高く昇り 睡眠は充分だが 気力が起きない。狭い庵に夜具を重ね、寒くはない。
    遺愛寺の鐘に 枕に凭れたままで耳を傾け 簾を撥ね上げて香爐峰の雪を眺める。
    匡廬こそ 煩わしい名誉から逃れた地 司馬こそは老後の官職として不足は感じない。
    心身ともに落ち着けるのが 私が依るべき場所 長安だけを私の故郷と思うべからず。
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    時代は下って枕草子第二百八十段。ある寒い雪の日、中宮定子(第66代 一条天皇皇后)の女官たちは炭櫃で暖を取りながら世間話に花を咲かせた。その時に定子は「少納言よ、香炉峰の雪はどうだろうか」と話しかける。他の女官は意味が判らなかったが、清少納言は近くの女官に御簾を巻き上げさせ、雪景色を見せて喜ばせた。清少納言の知識と機転、香炉峰の語源を物語る、990年代後半の逸話である。
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                雪のいと高う降りたるを 例ならず御格子まゐりて 炭櫃に火おこして 物語などして集りさぶらふに
    「少納言よ 香炉峰の雪いかならむ」と仰せらるれば 御格子上げさせて御簾を高く上げたれば 笑はせ給ふ
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    白居易が詠んだのが718年、彼の詩は180年後の宮中で既にメジャーになっていたらしい。

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    右:頼義が創建した壺井八幡宮   画像をクリック→ 壺井八幡宮の公式サイト
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    河内名所図会に拠れば、前九年の役(1051~1062)で飲料水の不足に苦しんだとき頼義が弓の先で崖を崩して冷泉を得た。凱旋する際この水を壺に入れて持ち帰り、香炉峰の南麓に井戸を掘って壺の水を注いだ、これが「壺井」の語源になった、と伝わっている。
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    凱旋した頼義は康平七年(1064)に清和源氏の守護神である京都男山の 石清水八幡宮 を勧請して壺井八幡宮を創建しているから、井戸の伝承と八幡宮の創建は相互に始まりを補完するもの、だろう。
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    頼義の嫡男義家は石清水八幡宮で元服して八幡太郎を名乗り、次男の義綱は京都市北部の賀茂神社(上賀茂神社下賀茂神社の総称)で元服して賀茂次郎を名乗り、三男義光は近江国三井寺(園城寺)守護神の 新羅明神 で元服して新羅三郎を名乗った。(青字はそれぞれ公式サイト)
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    兄の義宗が早世したため 頼義 を継いで河内源氏の棟梁となった 義家 は優れた武将として多くの伝説を残したが、私戦と判断された奥州合戦(後三年の役)の後は公私とも恵まれなかった。長男義親は略奪と官吏殺害の罪で討伐され、二男 義国 は気性が荒いため後継から外され、更に常陸国に土着した後に騒乱が元で勅勘を受けた後に下野に流されて(結果的に)足利と新田の祖となった。
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    この頃から源氏の宿命とも言える同族の殺し合いが頻発する。三男で嫡子となった義忠は河内源氏棟梁を狙った叔父 義光 の策謀で暗殺され、義親の子為義(義家の七男説あり)が河内源氏棟梁を継承した。 為義 から源氏棟梁を継承した 義朝 は保元の乱(1156)で敵方に与して敗北し捕虜となった父為義と弟5人(頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲)を洛北の船岡山で斬首している。
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    そして鎌倉時代の建保七年(1219)1月には雪の鎌倉八幡宮で 頼家 の遺児 公暁 が叔父の将軍 実朝 を殺し、身内の殺し合いによって河内源氏の男系男子が絶えてしまうのだから、あまりに多くの人命を奪った祟りとの言葉も無視できなくなる。

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    右:大津市 新羅三郎義光の墓所   画像をクリック→ 明細にリンク
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    義光は兄の 義家 と並ぶ優れた武将で笙の名手、兄が奥州で苦戦していた後三年の役では官職を辞して応援に駆け付けた美談も残している。要するに文武両道を極めた人物なのだが...
    同族の殺し合いが多かった源氏の中でも飛び抜けた策士で冷徹な殺人者でもあった。
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    嘉承元年(1106)の夏に長兄の義家が68歳で死没し、義家四男の義忠(母は 平直方 の娘)が河内源氏棟梁を継承した。この時から義家の6歳年下(つまり当時62歳)の義光は河内源氏棟梁の座を狙って暗躍を開始、次兄の義綱と棟梁になった義忠の二人を殺す計画を立てる。
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    最初に義光は配下の藤原季方を兄 義綱の三男義明の郎党として送り込み、次に同じく配下の平直幹(義光の長男義業の妻の兄)を義忠の郎党として送り込んで殺害の機会を狙った。
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    義家死没三年後の天仁二年(1109)春、藤原季方に義明の太刀を盗ませて平直幹に与え、その太刀を使って義忠を殺させ更に太刀を現場に残させた。この事件は義綱・義明父子の犯行と判断され、義綱の一族郎党は追討された。つまり義光は棟梁である甥の義忠を殺して実兄の義綱親子に罪を着せ一挙にライバルを抹殺するという完全犯罪を成し遂げた、かに見えた。
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    更に弟の快誉(園城寺(三井寺)の住僧、義家より三歳上なので庶長子か)に命じて暗殺実行者の藤原季方と平直幹を殺し、犯行の発覚を防いだのだが...結果として事件の全てが明らかになってしまう。義光は勢力圏の常陸国に逃亡し、物語は次の「武田氏発祥の原点 常陸国武田郷」に続くことになる。
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    そして70年後、義光の直系子孫である甲斐源氏は再び同族の殺し合いを繰り返す。
    義光義清清光信義 と続いた次の代、棟梁の座を狙った信義三男の 石和信光 は 甲斐源氏の弱体化を望む 頼朝 と手を結び、信義を継いだ長兄 一條忠頼 を頼朝に謀殺させ、更に父の信義と次兄の 逸見有義 を讒訴して失脚させた。この事件で甲斐源氏は急速に衰退するのだが、その代償として信光は十六代後の信玄に続く武田一族の覇権を握った。これらの詳細についても次項で述べようと思う。

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    右:武田氏発祥の原点 常陸国武田郷    画像をクリック→ 明細にリンク
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    武田姓の始まりは河内源氏初代頼信の嫡男 頼義 の三男(八幡太郎義家 の弟)である 新羅三郎義光 の次男 義清 が常陸国吉田郡武田郷(ひたちなか市武田 )に本拠にして武田冠者を名乗った事に始まる。
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    兄の義業は常陸平氏の有力者吉田清幹の娘を妻にして常陸国北部の佐竹郷に勢力を扶植しており、義清は那珂川北岸の台地に館を構えて常陸国南部での勢力拡大を目指したが、以前からこの周辺を所領にした常陸平氏・大掾氏とトラブルを起こし、訴えられた末に勅勘を受けて甲斐流罪となった。流されたとはいえ甲斐は頼信(甲斐守)以来の河内源氏の地盤だから、配置転換程度の処分である。
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    常陸源氏傍流のまま生涯を送る筈だった義清一族の運命はこの移封で大きく開けた。
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    共に移住した嫡子の 黒源太清光 は長男の 光長 に逸見郷を、次男の 信義 に武田郷を、三男の 遠光 に加賀美郷を、四男の 義定 に安田郷を、五男の清隆に平井郷を、六男の長義に河内郷を、七男の厳尊に曽根郷を、八男の 義成 に浅利郷を、九男の信清に八代郷を、それぞれ配して各氏族の祖とし、甲斐全土を制圧して甲斐源氏全体を発展させた。
    その後は紆余曲折を重ねつつ、義清から19代後の勝頼が天目山で自刃するまで繁栄を続ける事になる。
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    義清が館を置いた常陸武田郷の台地には湫尾(ぬまお)神社が建ち、館を模した裏手の資料館「武田の郷」には一族の由来を物語る資料が展示されている。見るべきものが多いとは言えないが、甲斐国の代名詞と言える武田氏がここからスタートしたのを考えると素通りも出来かねる。
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    地図はこちら、南の那珂川や東の常磐線側は道が狭いから、セブンイレブン方向から左折し住宅街を抜けて湫尾神社を目指すと良い。

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    左:義光伝説が残る、甲斐若神子の正覚寺    画像をクリック→明細にリンク
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    義光は甲斐守在任中に若神子城を築き拠点にしたと伝わるが、この確証は得られていない。
    若神子エリア(地図)はむしろ、武田信玄が信濃国攻略の補給基地として使った事の方が知られている。
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    若神子(わかみこ)は諏訪へ抜ける道(現在の国道20号)と佐久へ続く道(現在の国道141号)の分岐点に近く、釜無川と須玉川に挟まれた天然の要害である。後世の武田信玄が最短の軍用道路として整備した「棒道」の基点に近く、ここには当時の拘束通信ネットワークである狼煙台も置かれていた。
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    平安時代の遺構はもちろん残っていない。城址に関する詳細は wikiの資料 で 、棒道と狼煙(烽火)台については北杜市観光協会津金学校(旧・須玉歴史資料館)の公式サイトが判りやすい。
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    若神子の名は東征の際に甲斐国に入った日本武尊(ヤマトタケル)の「御子」を表したとも、室町時代に使われた地名の記録が残っている「若巫郷」が原典とも言われるが、詳細は不明。桜で有名な韮崎の「王仁塚(わにつか)」は日本武尊の王子・武田王の墓だとの伝承もあるから、甲斐の各地に残るヤマトタケル伝説の一つかも。
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      ※烽火: 唐帝国を揺るがした胡人・安禄山の乱を嘆いた杜甫の五言律詩 「春望」にも載っている。「戦いの烽火(狼煙)は三ヶ月も続き...」と。
              国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵万金 白頭掻更短 渾欲上勝簪
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    常陸介~甲斐守を歴任した新羅三郎義光も、親族暗殺の犯行が露見した後は京を離れ、在任中に影響力を広げた常陸国への逃亡を余儀なくされた。義忠殺害の冤罪を受けた義綱一族が追討されたのに、兄弟殺害がバレた真犯人の義光が追討令を受けなかったのは何故か、その理由は判らない。
    いずれにしても、義光の遺領と影響力が常陸源氏佐竹氏と甲斐源氏の諸族に受け継がれ繁栄することになる。
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    義光は暗殺事件18年後の大治二年10月に大津三井寺で没した。享年83歳で病死、或いは義忠の遺児河内経国に殺された、とも。

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    右:甲斐 平安~鎌倉期の勢力分布と著名な史蹟   画像をクリック→拡大表示
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    甲斐源氏の系図は 清和天皇貞順親王源経基満仲頼信頼義新羅三郎義光→ 三男逸見義清→ 嫡男清光と続き、清光の子は甲斐国全土に勢力を蓄え、武田・加賀美・小笠原・浅利・南部・於曽として源氏の血脈を受け継いでいく。甲斐源氏の詳細系図は左フレーム「清和源氏の系図」の中段で。
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    第56代 清和天皇 の第六皇子 貞純親王 の子・経基王が源姓を下賜されて臣籍降下して清和源氏の祖となった。ただし、陽成天皇の子・元平親王説もあり、陽成の悪名を避けて清和を祖としたと考える説もある。
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    陽成は殺人を好み、側近を矢で射殺したり女官を溺死させたりの奇行が多く、更に乳兄弟まで撲殺した...
    それが「狂気」の原点なのだが、陽成の即位は7歳で退位は満15歳。主たる退位の原因は母方の伯父で摂政を務めた 藤原基経(wiki)が意の侭に動かぬ陽成を排除して従順な光孝に58代を継がせる策略だった、そんな説も一定の評価を得ている。15歳で退位した陽成が80歳までの長寿を全うしたのも面白い。
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    長元二年(1029)に経基の嫡孫 頼信 が甲斐守として赴任し、その孫の義光も短期間甲斐の若神子館に住んだとされるが、この確証は得られていない。後に常陸国へ移って勢力を広げた経緯から、義光が甲斐源氏の祖とされている。
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    義光の嫡男義業は常陸の久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)に土着して常陸源氏の祖となり、嫡男の隆義が佐竹氏の二代目を継承した。義光次男の義清は甲斐に土着して繁栄、義清の嫡男清光は北東部の逸見(現在の甲斐大泉)に拠点を置いて多くの男子をもうけ、各地の所領を継承させた。
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    長男 光長 は逸見城の南に深草館を置いて逸見を名乗り、二男 信義 は釜無川の西に本拠を置いて武田を名乗り、三男 遠光 は釜無川と笛吹川の合流点近くに本拠を置いて加賀美を名乗り、四男 義定 は甲斐盆地の北東部に本拠を置いて安田を名乗り、五男清隆と六男長義は石和に本拠を置いてそれぞれ平井と河内を名乗り、七男の厳尊は笛吹川を隔てた南東部の御坂に本拠を置いて曽根を名乗り、八男 義成(与一) は曽根の下流に本拠を置いて浅利を名乗り、九男信清は更に東の山間部に入って八代を名乗った。
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    甲斐源氏の実質的な祖である清光の子孫についての概略は下記の通り。光長と信義は一卵性双生児と伝わる(異母兄弟説あり)。
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        長男 光長は逸見氏の祖となったが、その後の一族には不明な点が多い。庶流が甲斐に、直系子孫は摂津・美濃・若狭などに移ったと伝わる。
        二男 信義 が武田を名乗るが嫡子 (一條)忠頼 は鎌倉で謀殺され信義も失脚。親族を裏切って頼朝に協力した三男 信光 が武田宗家を継承。
        三男 遠光は加賀美氏の祖となった。遠光長男の秋山光朝は妻が 平重盛 の娘だったため失脚し、四男光経が加賀美を継いだ。
    遠光二男の光行が南部氏、三男長清(妻は上総廣常の娘)が小笠原氏、五男経行が於祖氏の祖となった。
        四男 義定 は安田を名乗ったが幕府樹立後の建久四年に嫡男 義資 の冤罪に連座して失脚、翌年に追討され一族が滅亡した。
        五男清隆は平井を、六男長義は河内を、七男厳尊は曽根を、九男信清は八代を名乗ってそれぞれ甲斐に土着したが詳細は省く。
        八男 義成(与一) は浅利を名乗って甲府盆地南東部(中央市豊富地区)を領有した弓馬四天王の一人。越後城氏の娘 板額 を妻(後妻?)とした。
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    清光を共通の祖とするこの諸族は更に多くの支流に分岐し、様々な離合集散を繰り返す。そして400年近くが過ぎた1540年代に信玄の下に集結して緩い主従関係を構成し、武田信玄の跡を継承した勝頼の時代には多くが離反して武田氏の滅亡を招くことになる。甲斐の諸族には元々の主従関係がなく、長幼の差からスタートした言わば対等に近い集合体で独立の気風からは脱し切れなかったのだろう。

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    左:義清と清光は甲斐市河荘へ   画像をクリック→明細にリンク
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    蛇足...数百年の後、甲斐を統一した武田信玄と常陸の雄・佐竹義重は小田原北条氏を牽制するために同盟を結び、その際に書状の遣り取りがあった。信玄側では 義光 から伝わった盾無の鎧や御旗を根拠にして嫡流を主張した。義重側は、佐竹の祖義業は義光の嫡男である。武田の祖 義清 の兄だから、嫡子庶子の順は明らかだ、と主張した。この論争の結末がどうなったかは判らない。
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    市河荘の荘園領主は京都の真言宗法勝院(創建は藤原北家で摂政の藤原良房)、釜無川と笛吹川が合流する現在の市川三郷町平塩岡(地図)を中心に広いエリアを占めていた。義清清光 の親子は平塩岡に館を構えて本拠地とし、荘官として甲斐盆地に影響力を広げた。平塩岡は後に甲斐を席巻する武田一族が印した第一歩であり、甲斐源氏にとっての原点である。
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    この時の義清は56歳前後で清光は20歳前後、かつては常陸介だった義光が没した大治二年(1127)の三年後、常陸国で起こした「清光濫行」で配流となった甲斐国で運命が大きく開けた。当時の常陸国司だった藤原盛輔や在地豪族にとってはトラブルの種だったから、結果的には双方にとって円満な解決、という事になる。
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    義清親子は約10km北(現在のJR身延線国母駅付近)にも館を構え(本拠は平塩岡ではなく国母との説あり)、更に清光は40km北の逸見荘に進出して逸見冠者を名乗り、2km北の高台に谷戸城(別名を逸見城)を築いて詰めの城とした。義清は20年後の久安五年(1149)に死没、玄(くろ)源太と呼ばれた嫡子の荒武者清光は保元の乱(1156年)にも平治の乱(1159)にも参戦せず、ひたすら甲斐国での勢力拡大に専念している。
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      ※武田系図などによると
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    義清 は白河院の承保二年(1075)4月16日に近江志賀館(大津?)で生まれた(同、元年・1074説あり)。
    母は常陸国の住人鹿島清幹女、幼名は文殊丸または音光丸。堀川院の寛治元年(1087)に伯父 義家 を烏帽子親に13歳で元服し、刑部三郎を号した。義光 にとっての三男だが兄弟よりも資質が高かったため嘉承元年(1106)に家嫡と定め、御旗と盾無の甲冑を譲り受けた。
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    甲斐国市河庄に配流(常陸を経た経緯は系図に載っていない)された後に伊豆・甲斐・信濃・遠江などの受領職(現地に赴任する長官、遙任の対語)を歴任、甲斐判官と号し従五位下に叙された。鳥羽院の保安四年(1106)1月16日に49歳で剃髪、近衛院の久安五年(1149)7月23日に75歳で死没、墳墓は甲斐市河荘に在り。
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    逸見冠者 黒源太清光 は堀河院の天文元年(1110)6月9日、市河館で誕生、幼名は徳光丸。崇徳院大治元年(1126)1月11日に15歳で元服、烏帽子親は足利(加賀介)源義国、武田源太を号す。顔が著しく黒かったため世間では黒源太と呼んだ。伊豆・甲斐・信濃・遠江などの受領職を歴任、六条院の仁安三年(1168)7月8日59歳で没、墳墓は甲斐逸見郷に在り。
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    「六位で無官の者」とか能狂言の「太郎冠者」とか様々な使い方がされるので厳密な意味が不明だが、清光のように地名を冠した場合は単純に「逸見を支配する者」とか「逸見に本拠を置く者」の意味が強いんじゃないかな、とふと思った。裏付ける根拠も知識もないけれど。

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    右:甲府盆地・西条の義清神社と義清塚   画像をクリック→明細にリンク
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    ここは 義清(武田冠者)が平塩岡から進出して拠点を設けた地、あるいは久安五年(1149)に没した後に「義清大明神」として祀った社殿の跡とも言われる。更には逸見荘に移って老齢を迎えた頃に棟梁を 清光 に譲り余生を過ごした、とも。義清塚と呼ぶ墳墓は境内から道路を隔てて西側のアパート裏にあり、高さ3mほどの円墳は別名を「おこんこん山」、昔は狐が出没したために付いた名前らしい(地図)。
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    確かに鳥居前の堀や境内の僅かな土塁の痕跡は居館の雰囲気を残しているが、昭和六十年(1985)に行われた境内と墳墓の発掘調査でも義清館の存在を裏付ける資料は見つからなかった。創建当時の円墳は裾が現在よりも広かった事、別な場所から運び込んだ砂を積み上げた構造である事が判った程度で、出土した陶器や古銭も義清伝説を裏付けるレベルではなかった、との記録が残っている。
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    甲府市と市川三郷町は乏しい資料を駆使して互いに甲斐源氏発祥の本家を主張しているのも、面白い。
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    義清が74歳で没した時の嫡子清光は40歳で嫡孫の光長と信義(双子)は21歳。既に一族の勢力は甲斐全土に及びつつあり、義清が住み慣れた市河荘あるいは西条に戻って隠居した、と考えても不思議ではない。初期の甲斐源氏が武士団が形成する過程で置いた根拠地の一つと考えるべきだろう。
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    義清を産んだ平清幹の娘の兄弟に平成幹(吉田成幹・鹿島三郎)がいるのが興味深い。成幹は義清の父・義光の家臣で、義光の命令を受け河内源氏四代目棟梁の義忠(義光の実兄 義家の三男)を暗殺した人物である。義光は源氏棟梁の地位を狙い(兄義綱の三男義明の刀で)義忠を殺させ義綱親子に罪を着せて滅ぼし、更に実行者の成幹は実弟の快誉(園城寺の僧)に殺させて犯行の隠滅を図った。
    この悪辣な経緯が(たぶん成幹の書き残した書類から)露見し、義光は勢力圏の常陸に逃亡を余儀なくされた。
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    義忠は当時の新興勢力だった伊勢平氏との共存を図って平正盛(忠盛の父、つまり 清盛の祖父)の娘を娶り、忠盛の烏帽子親を務めるなど政局の安定に尽力した人物。もしも義光が我欲に駆られて義忠を殺さなければ平家との確執も起こらず、保元・平治の乱や壇ノ浦の悲劇も起きなかった、かも知れない。

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    左:義清の嫡男 源太清光の拠点・谷戸(逸見)城址   画像をクリック→ 明細にリンク
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    富士川合戦より前の甲斐源氏の動向に関する資料は多くないが、吾妻鏡に数ヶ所が載っている。甲斐源氏の根拠地として逸見山が現れるのは治承四年(1180)9月15日のみ、頼朝 が安房を出て上総国に入り 千葉常胤 と会った直後である。北杜市大泉町の谷戸城址(地図) が逸見山に比定されている。
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    【吾妻鏡 治承四年(1180) 9月8日】
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    北條時政 が使節として甲斐国に出発。甲斐源氏を伴って(原文は「相伴彼國源氏等」)信濃国に向かい、降伏する者はこれを従え、驕り逆らう者は討伐せよとの厳命を受けている。
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    これは吾妻鏡の粉飾。頼朝が千葉常胤と面談して応援の確約を得たのは9月17日で、遅参した 上総廣常 を待たず安房を出て上総を目指したのが9月13日。この時点の頼朝の兵力さえ「精兵300騎」なのに、その5日前に安房を出た北條時政が甲斐源氏の一翼を担えるほどの兵力を伴ったとは考えられない。
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    安房から甲斐を目指すためには大庭の勢力圏である相模を通るか、まだ旗色を鮮明にしていない秩父平氏(畠山・河越・江戸・豊島の諸氏)の勢力圏・武蔵を通る必要がある。援軍を求めるための、少人数による隠密行動だった筈だ。
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    そもそもこの時点の頼朝が動員できる戦力は、甲斐全域と信濃東部を平定した甲斐源氏に対して、が指示命令できるほど優位ではなく同格以下。甲斐源氏の側にも同様の意識はあったと思う。例えば頼朝の軍勢は8月23日の石橋山合戦で敗北したが、安田義定 を主力とする甲斐源氏は同月25日の波志田山合戦で 俣野景久大庭景親の弟)と駿河目代の連合軍を撃ち破っている。更に富士川合戦から逃げる 平維盛 軍を追撃し、単独で駿河・遠江の支配権を手中にしているから、10月21日の吾妻鏡が「安田義定を遠江守護に、武田信義を駿河に」と書いたのは「任命」ではなく「実績の追認」に過ぎない。
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    ただし、俣野景久が 佐奈田義忠(与一) に討たれかけた石橋山合戦の翌・8月24日には土肥郷(現在の湯河原)周辺で大庭景親軍による追跡・掃討戦が行われているから、その翌日に景久が約80km離れた波志田山(河口湖近く)まで進出して合戦するのは少し無理がある。日程の誤記か、石橋山と堀口の合戦で勝利した景親が頼朝の再起を見誤り、俣野景久を駿河に派遣して維盛軍の到着前に甲斐源氏の殲滅を図ったのかも知れない。

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    右:逸見山~諏訪大社~大田切郷の地図       画像をクリック→拡大表示
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 9月10日 】
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    甲斐源氏の 武田信義 と 嫡子の 一條忠頼 らは石橋山合戦を知って 頼朝 との合流を考えたが、とりあえず平家に味方する近くの敵を倒すため信濃に向かい、諏訪上社(茅野市)庵澤に宿営した。
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    深夜になって当宮大祝篤光の妻を名乗る若い女が夫の使いとして陣を訪れ「参籠中に梶葉文(表裏とも萌葱色)の直垂を着て葦毛(白の混じる毛色)の馬に乗った源氏の武者が西を指して鞭を揚げる夢を見た」旨を伝えた。忠頼は妻女に剣一振と腹巻一領を与えて出陣し、平家方の伊那郡大田切郷(現在の駒ヶ根市)を襲撃、城を守る菅冠者は館に放火し自殺した。これは諏訪明神の神託と思われるので両社に田を寄進した。上宮には平出と宮所の両郷、下宮には龍市郷である。
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    ところが寄進状の筆者が間違って(龍市郷に)岡仁谷郷(岡谷市の一部)を書き加えた。この郷名は誰も知らなかったが、古老に尋ねると実際にある場所だと言う。これは両宮を等しく扱わせる神慮であり源氏強運の徴であるから頼朝に報告しようと相談がまとまった。
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       ※上社庵澤: 諏訪上社前の宮川を3km南東に遡った付近に「いもりさわ」の古名が伝わる(地図)。
       ※当宮大祝: 諏訪大社(上宮)の神官。平安中期から武士と神官を兼ねた家系で諏訪氏の祖。後に信玄と敵対して滅亡した。
       ※田を寄進: 平出(地図) ・ 宮所地図 ・ 龍市は全て現 辰野町。岡仁谷郷(岡野屋 ・地図)は平安末期に成立していた、「誰も知らぬ」筈はない。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 9月15日 】
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        武田信義と忠頼の軍勢は信濃の敵を滅ぼし、昨晩甲斐国に戻って逸見山に宿泊。また本日 北條時政 が到着し頼朝の意向を伝えた。
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       ※逸見山: 谷戸(逸見)城が該当する。清光は仁安三年(1168)に死没し、嫡流は 逸見光長(信義の双子の兄)が継承していた。
    居館は約1km南にあった光長の本拠 深草館の可能性もあり、その場合の逸見(谷戸)城は詰めの城か。
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    谷戸城は標高860m(南側駐車場からの高低差は約40m)の単独丘陵・城山(じょうやま)を利用している。東西・南北ともに約300mの城山全体が城跡で、東衣川と西衣川が天然の濠を形成し、山頂には八幡神社を祀っている。直径約50mの山頂平場に主郭を設け、周囲に2m前後の土塁を数重に巡らした。
    主郭の他にもに数ヶ所の郭があり、石積みの痕跡が少し残っている。清光は八ヶ岳南麓を開拓して逸見郷(古名は「へみ」)に本拠を構えたと伝わる。
    現在見られる遺構はもちろん清光時代ではなく、武田氏の滅亡後に入城して徳川氏と対峙した小田原北条氏が改築したもの。

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    左:八ヶ岳南麓の清光寺と八幡大神社   画像をクリック→明細にリンク
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    清光寺は仁平元年(1151)に生前の 逸見清光 が創建した天台宗信立寺が原点で、清光の没後に清光寺(せいこうじ)と改め、更に文明七年(1475)に至って興因寺の二世・悦堂宗穆(そうぼく)が曹洞宗に改めた。
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    宗穆は京都 大徳寺妙心寺(共に公式サイト)など名刹を住持した高僧で、各所の天台宗寺院を折伏して曹洞宗に改宗させた、らしい。創建時のポリシーに配慮しない改宗は嫌いなんだけどね、個人的に。
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    寺伝に拠れば清光は谷戸城から朝日を拝して武運長久を祈り、その経緯から東南約20kmに位置する信立寺を朝陽山と号した、と伝わるが...正確に方位を測ると谷戸城から見て清光寺は真南に近い南南西に位置するから、朝日が清光寺の方向から昇る事は100%あり得ない。
    谷戸城・清光寺・茅ヶ岳・信光寺などをマークした地図(別窓) を参考に。
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    但し清光寺から谷戸城は直線で2km強、その中間には清光の嫡男 逸見光長 の深草館があり、更に5km南東には 義光 についての伝承の残る若神子城址がある。義光の父 頼信 が勧請した大八幡神社の存在を併せて考えると、平塩岡から北進した甲斐源氏がここで大きく勢力を拡大したと推測できる。町村合併に伴う現在の住所は北杜市長坂町大八田6600(地図)。
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      ※興因寺: 甲府市 武田神社(躑躅ヶ崎館跡)の北1km、要害温泉手前の静かな古刹で、一見の価値あり。本尊は釈迦如来、新羅三郎義光の長男 義業
    (佐竹氏の祖)が開いた当初は天台宗、文明ニ年(1470)に武田信虎が中興して曹洞宗に改めた。末寺32を有する大寺だったが、寛政六年(1794)に堂宇を全て焼失し現在は伊豆の曹洞宗最勝院の末寺となっている。画像などは 山梨観光紹介サイト で。

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    右:清光嫡男・逸見光長の深草館跡   画像をクリック→明細にリンク
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    清光 の長男 逸見光長 は現在の北杜市長坂の深草館(地図)を本拠とし、嫡子の基義(元義)から10代に亘って住んだと伝わる。清光が本拠を置いた上記の谷戸城跡(逸見城)から南へ1100m、少し手前には良く知られた国指定の 金生(きんせい)遺跡(wiki)がある。
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    館の跡は南に向って緩やかに下る斜面の田圃に囲まれた雑木林の中にあり、谷戸城の麓(駐車場を基点)と比べると約60m低い。川を利用した濠や土塁、郭の痕跡などもはっきりと残っているが、これは平安末期ではなく室町時代以後の城砦遺構である。この項のテーマからは外れるし面倒臭いため、今回は敷地内部には入らなかった。興味がある向きは参考サイト で詳細を。
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    谷戸城の西側には谷戸城ふるさと歴史館(以前は無料だったが現在は入館料200円、正直言うと費用対効果は低い)もあり、金生遺跡と併せて見学できる。館跡周辺は道路が狭く駐車スペースもないから、谷戸城址から歩くのが面倒なら遺蹟の駐車場も利用できる。
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    光長は逸見冠者清光の嫡男だが、双子の弟 信義 が武田氏の祖として多くの子孫を残し繁栄したのに比べると地味で記録も乏しい。吾妻鏡には甲斐源氏の駿河攻めの項目に載っているのみ。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月13日 】
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    甲斐源氏と 北條時政義時 親子は駿河国を目指す大石驛に宿営。夜になって駿河目代が長田入道の発案で富士裾野を迂回し甲斐に攻め込む情報が入り、それを迎撃しようと決した。武田太郎信義次郎忠頼 、三郎兼頼 ・ 兵衛尉有義安田三郎義定逸見冠者光長 ・河内五郎義長 ・ 伊澤五郎信光 らは富士北麓の若彦路を越えて南下、石橋山から甲斐に逃れていた 加藤太光員籐次景廉 を伴って駿河に入った。
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      ※大石驛: 河口湖の西岸から鳴沢を経て南下する若彦路(概ね現在の県道71号)と、国道358号で右左口峠を越えて精進湖の東で国道159号で
    南下し、中道往還が人穴で合流する。大石駅は合流点から約7km南にあった宿駅で、日蓮正宗の総本山 大石寺(公式サイト)のある富士宮市上条が定説だが、吾妻鏡が記載した行軍ルートは「①大石驛に止宿→ ②富士北麓若彦路を越え→ ③神野(≒上条)と春田路を経て→ ④正午に鉢田付近に着いて合戦」である。若彦路を基準にすると①と②は逆だし、神野は大石の5km北なのでUターンした事になる。やや疑問の残る部分で、この不明点を除けば鉢田(波志田)合戦は「富士宮周辺で決着できるのだが。

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    左:甲斐源氏嫡流 武田氏興隆の跡を歩く   画像をクリック→武田の郷にリンク
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    【 画像は武田の郷のシンボル・王仁塚の桜 】
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    花季には「カメラ爺い」の群れで異様な混雑を見せるのが王仁塚の桜。残雪の八ヶ岳を背景に樹齢300年の桜が聳える絶好の撮影スポットだから爺さんたちの気持ちも判らない訳じゃないけれど、通行人まで邪魔者扱いにする神経には辟易させられる。長い人生を送り分別もそれなりに備えた筈の爺さん連中が「こらぁ!どけぇ!」などと怒鳴っているのを見ると、情けなくて涙が出る。
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    「王仁塚 桜」で検索するとプロが撮影した遥かに素晴らしい写真が沢山あるんだけどねぇ...。
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    閑話休題...
    清光 の長男 逸見光長 は谷戸城のある逸見一帯を継承し、双子の弟 信義は谷戸城から15kmほど南の釜無川西岸(現在の韮崎市神山町武田)を継承して本拠を構え、北側の武川町南部から南側に広がる 加賀美遠光領の境界 御勅使(みだい)川までを支配下に置いて甲斐源氏武田氏の嫡流となった。
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    しかし鎌倉幕府が安定期に向うと共に甲斐源氏は 頼朝の「懐柔と排斥の二面作戦」により分断され、信義の弟・加賀美遠光系と信義の三男 信光など頼朝御家人の地位に甘んじた者が一族の主流を占めていく。
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      ※御勅使川: 芦安温泉近くから19km・高低差700m余りを流れ下り釜無川に合流する。古来から続いた氾濫で堆積した砂礫層が氾濫や旱魃の原因と
    なって負の循環を繰り返した。天長二年(825)の大洪水の際に国司の要請に応じて勅使が派遣され川の名に転じたと伝わる。信玄が水流を弱めるために設けた堤防 将棋頭(画像)や釜無川に合流する地点の堤を保護した 聖牛(参考サイト)でも知られている。
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    現在では武田八幡宮を中心にした釜無川西岸一帯は甲斐源氏歴代の聖地となり、初めて武田を名乗った信義から始まって直系子孫の信玄・勝頼に至る史蹟の数々が「武田の郷」として整備されている。でも厳密に考えると、義清が足跡を残した常陸国吉田郡武田郷が「武田」の地名の最初なんだろうね。

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    右:悲運の武将 一條忠頼の墓所   画像をクリック→明細にリンク
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    一條忠頼は本来なら甲斐源氏の嫡流、武田の棟梁として一族を指揮する立場の武将だった。新羅義光→ 次男 武田冠者義清→ 嫡男 逸見冠者清光→ 二男 武田太郎信義(双子の弟・甲斐武田の祖)→ 長男 一條次郎忠頼と続いた武田氏正統で甲斐国一條郷(現在の甲府市一帯)の一條小山(現在の甲府城址)を本拠とした。頼朝挙兵に呼応した信義に従って信濃の平家を攻めたのが吾妻鏡に記載された最初である。
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    治承四年には甲斐源氏も頼朝と同様に 以仁王 の令旨を受けて挙兵しており、置かれた立場も血統も戦力も対等である。源平合戦初期の初期には駿河国に於ける鉢田合戦や富士川合戦などに源氏側の主力として参戦し勝利に貢献、その後も各地を転戦して功績を挙げ、鎌倉政権の樹立に大きく寄与した。
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    寿永二年(1182)の半ばに 義仲 が入京する前後までは頼朝&義仲&甲斐源氏の三者は対等に近い鼎立状態にあった。義仲が失脚した後に共通の敵だった平家が滅亡すると朝廷の政略は源氏の勢力分断に重点が置かれ、更に甲斐源氏の勢力拡大を警戒した 頼朝 の政策や甲斐源氏内部での対立によって忠頼は謀殺され、父の 信義 は2年後の文治二年(1186)に失意の中で病没する 。
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    平家物語は忠頼謀殺を4月26日、吾妻鏡は6月16日としている。3月27日に忠頼が武蔵守に補任→ 忠頼謀殺→ 6月に 源広綱 が駿河守、平賀義信が武蔵守補任の流れとなった。既に忠頼が守護に任じていた駿河国と朝廷が新たに支配権を得た武蔵国、この両国を支配する実権を剥奪する意図を頼朝が持っていたのは間違いない。
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    甲斐源氏の棟梁相続を交換条件にして 頼朝 の甲斐源氏弱体化政策に協力したのが忠頼の実弟 石和信光で、暗殺の実行者は殺し屋 天野遠景。名門一條の家督は信光四男の信長(嫡子信政の次弟)が継承している。血縁を裏切って殺し合うのは 新羅三郎義光 以来の源氏の宿業である。
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    策謀を駆使した信光は望み通りに甲斐源氏の棟梁となり頼朝は甲斐源氏の弱体化を得たが、14代後には傑物・信玄が再び甲斐を統一して覇権を握る直前まで勢力を拡大する。好きになれない人物の筆頭が信光だけど、詳しく取り上げる必要はある。
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    【 吾妻鏡 元暦元年(1184) 6月16日 】  一条忠頼 謀殺
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    一條次郎忠頼 には武威を振りかざし世を乱す気配があると頼朝は受け取り、今日御所で討ち取ろうと決めた。
    夜になって西の侍所に出御して招かれた忠頼と対座し、古参の御家人数名が列座した。献杯の儀があり、討手に任じた 工藤祐経 が銚子を持って御前に進んだが、名だたる武将との対決という大事に躊躇し顔色が変わった。
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    この様を見た 小山田有重が席を立ち「酌をするのは老人の役目」と称して祐経の銚子を取り、更に子息の 稲毛重成 と弟の 榛谷重朝 が杯と肴を捧げて忠頼の前に進んだ。有重は「酒席の故実は袴の裾紐を上結びにする」と息子に教えて銚子を置き紐を結び直した。その時に別の指示を受けていた 天野遠景 が太刀を抜いて左から忠頼を刺し殺し、頼朝は背後の障子を開いて奥に入った。
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    忠頼に従っていた新平太と甥の武藤與一と山村小太郎が主人の惨劇を見て庭から部屋に駆け上がり、多くの武士を傷つけ寝殿近くに迫った。重成と重朝と 結城朝光 が新平太と與一を討ち取り、遠景を狙った山村は一間離れた所から大俎板を打ち付けられて縁下に昏倒、遠景の郎従が首を獲った。
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      ※小山田有重: 子孫は南北朝時代に所領の小山田(町田市西部)を失なって四散し、一族の一部は甲斐に逃れて武田信玄に仕えたらしい。
    武田の嫡男を殺した男の子孫が武田の末裔に臣従したのは歴史の皮肉か、因果は巡る糸ぐるま、か。

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    左:各地に残る石和信光の旧蹟     画像(北杜市の信光寺)をクリック→明細へ
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    石和信光 の初見は治承四年、以仁王 の令旨を受けた甲斐源氏が頼朝に呼応して挙兵した10月である。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月14日 】   鉢田の合戦
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    昼前後、甲斐源氏の武田・安田一族が神野から春田路を経て南下する途中の鉢田で駿河目代の橘遠茂が率いる甲斐攻略の軍勢に遭遇した。石和信光は 加藤景廉 を伴って攻めかかり、防御線を突破して長田入道とその子息2人の首を獲り遠茂を捕虜にした。駿河勢の死傷者多数、後続の兵は矢を射る事ができず敗走した。夕刻には遠茂の首を斬って富士野の伊堤に晒した。
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    治承四年に挙兵した甲斐源氏の棟梁は 武田信義(52歳)で嫡男は 一條忠頼(30歳前後か)、信義の弟 加賀美遠光(37歳)や 安田義定(36歳)など勇猛で知られる武将が主力だった。信義の末子で17歳の信光は本来なら脇役だが、記載したのは後に甲斐源氏を継承した信光に対する吾妻鏡編纂者の配慮だろう。東国での幕政安定に反比例して甲斐源氏の団結は分割統治政策で瓦解していく。粛清や排除により衰退するか、臣従して御家人に甘んじるか、二者択一である。
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    治承五年(1181)3月7日には駿河駐屯中の武田信義が 後白河法皇から頼朝追討令を受けた」 との嫌疑で鎌倉に召還され、「子孫に至るまで叛逆の意思なし」 との誓詞を書かされた。元暦元年(1184)6月には信義嫡男の一條忠頼が鎌倉で暗殺、文治二年(1186)には甲斐源氏の棟梁だった信義が失意のまま病没、文治四年(1188)には三男の 逸見(武田)有義 が頼朝に面罵され失脚、建久元年(1190)には次男の 板垣兼信 が隠岐に流罪、建久四年(1193)には信義の弟 安田義定 の嫡子 義資 が御所の女官に艶書を届けた罪で斬首、翌年には義定も謀反の嫌疑で追討を受けた。
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    三人の兄(一條忠頼と板垣兼信と逸見有義)の粛清・失脚の全てに末弟の石和信光が関与し、甲斐源氏の棟梁に繰り上げ当選(笑)となる。
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    更に 木曽(源)義仲 が頼朝と対立する一因を作ったのも信光だったらしい。義仲と信光は元々交流があり、義仲の嫡子 清水義高 に娘を嫁がせる意思があったが信濃国南部の支配権を巡ってトラブルがあり、これを恨んだ信光が讒訴して義仲追討令の発行に至った、と伝わっている。
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    郷土史家の中には 「頼朝に臣従したのは甲斐源氏の滅亡を防ぐための苦渋の選択」 と評価する声もある、らしい。公明党が集団的自衛権行使の閣議決定を容認する時に 「閣内に留まってこそ右傾化を阻止できる」 なんて発言したのと同じ。暴力を容認しても言い訳すれば済む、と考えるエセ宗教者。
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    【 吾妻鏡 文治四年(1188) 3月15日 】  甲斐源氏の棟梁・武田有義の失脚
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    鶴岡八幡宮で梶原景時 宿願の大般若経供養が行われ、頼朝も仏縁を結ぶため出席した。退出に際して 武田有義 を呼び剣役(太刀持ち)を命じた際に有義が渋る態度を見せたため頼朝は機嫌を搊ね、「かつて平重盛 の剣役を務めて都の評判になったのは源氏の恥ではないのか。重盛は平家で私は源氏の棟梁、釣り合いが取れないのか」 と面罵した。直ちに 小山(結城)朝光を呼んで剣役を務めさせたため、有義は同行も許されずに退去した。
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    建久十年(1199)1月に頼朝が死没、頼家 が鎌倉殿を継承した三ヶ月後には訴訟の決裁権が停止され、実権は重臣13人の合議制を指導する 北條時政 に移りつつあった。同年10月には梶原景時が失脚して翌年の1月に謀反の嫌疑で追討、景時に連座する形になった有義の名前は以後の史料には現れない。逆に、それまでは「伊澤または石和」と表記していた信光の姓は「武田信」に一本化され、名実ともに甲斐源氏・武田氏棟梁の座を得た、と考えられる。景時一族の滅亡にまで関与しているから恐ろしい。
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    【 吾妻鏡 正治二年(1200) 1月28日 】   信光、更に有義を陥れる
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    夜になって石和信光が甲斐国から参上して報告。「武田有義は梶原景時と打ち合わせて京へ向かうという噂を聞き、詳細を確かめるために館に行ったら逃げた後で行方が判らない。一通の封書があったので開いてみたら景時からの書状だった、彼らが打ち合わせて行動しているのは明白である。
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    景時は二代の将軍に重用されて傍若無人の振る舞いがあった。長年の悪行が自分に降り懸り諸人が背反したため反逆を思い立ち、まず朝廷に奏上し鎮西(九州)の武士を引き込むため上洛しようとした。兼ねて親しかった有義を大将軍に立てるために送る手紙を有義の館に落としたのだろう。」と。

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    右:加賀美遠光の長男 秋山光朝の史蹟   画像をクリック→明細にリンク
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    秋山光朝は 加賀美遠光 の長男で、弟に小笠原氏の祖となった 長清、南部氏の祖となった長行、後に加賀美氏を継承した光経らと共に 平知盛 に仕えていたが頼朝の挙兵を知り、母の病気を偽って甲斐に戻った。
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    光朝が遠光から相続したのは甲府盆地南部・釜無川の西岸の秋山郷、弟の長清が領有した小笠原郷の南に隣接している。現在の南アルプス市秋山の一帯である(地図)。
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    ここには光朝館の跡と伝わる小山に熊野神社が建ち、すぐ南の光昌寺(古名は光朝寺、光朝開基)には父加賀美遠光の五輪塔(供養墓)と秋山光朝夫妻の五輪塔およびその他一族の五輪塔が並んでいる。五輪塔は明治初期には78基あったと記録されているが、現在は30基ほどしかない。霊廟には鎌倉初期の作と推定される加賀美遠光の坐像と、享保十九年(1734)作の光朝の木像(市の文化財)が納められている。
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    平治物語に拠れば富士川合戦の前哨戦で、「甲斐源氏の武田信義 ・ 一條忠頼 ・ 小笠原長清 ・ 逸見光長 ・ 板垣兼信 ・ 加賀美遠光 ・ 秋山光朝 ・ 浅利義成 ・ 石和信光らが駿河目代(代官)広政(橘遠茂)を討った」とあり、以仁王の令旨を受けて独自に挙兵したのだろう。血縁関係で結ばれた甲斐源氏は鎌倉軍を凌ぐ精強な兵を揃えていた。
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      ※橘遠茂(蛇足): 富士川合戦の項で述べた駿河国目代は系図上では結構名門の人物。確か清少納言が遠茂の祖父の子を産んでるんだよね。
    遠茂は異腹だから直接は関係ないけど、興味があれば経緯を調べるのも面白い。
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    ただし、平治物語は清光長男の光長 ・ 二男の信義 ・ 三男の遠光を記載しているのに、四男 安田義定 の名が抜け落ちている。三男以下は省略したのかと思えば八男の 浅利義成が載っているし、信義の子3人(忠頼 ・ 信光 ・ 兼信)と遠光の子2人(光朝 ・ 長清)も載っている。忠頼や光朝や兼信が載っているから、同じように謀反の咎で追討された義定を除外する必然性も乏しい。これは筆者の意図的な無視か、それとも記述が杜撰なのか。
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    光朝は父の加賀美遠光に従って棟梁の武田信義が率いる甲斐源氏の武将として戦い、その後は 九郎義経 の指揮下で一の谷 ・ 屋島 ・ 壇ノ浦を転戦した。その途中で 平重盛(頼朝挙兵の一年前に死没)の娘を娶ったが、この婚姻がやがて光朝の不運を招いてしまう。
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      ※重盛と東国武士: 嘉応元年(1169)に平清盛 が出家に伴って政治の一線から距離を置きはじめ、平貞能藤原(伊藤・平)忠清 など、伊勢平氏譜代
    の郎党が重盛に仕え始めた。重盛は源氏との関係が深かった東国武士との関係も重視し、貞能や忠清を通じたり独自の接点を介したりして 足利俊綱宇都宮朝綱工藤祐経武田有義伊東祐親畠山重能 や 秋山光朝や、相馬御厨を継承した下総守藤原親盛 らを支配下に収めていた。頼朝としては看過出来ない不愉快な部分だったと思う。
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    生前の重盛は源平合戦の当初は源氏軍の主力として重要な役割を果たした甲斐源氏も、支配体制の整備が進むにつれて或る者は粛清・追討され、或る者は頼朝に臣従する御家人として生き残る道を選ぶ必要に迫られてくる。
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    文治元年(1185)、光朝死没。鎌倉で処刑、あるいは本領秋山郷西側の詰め城・雨鳴山で追討軍と戦い籠城の後に自刃した、とも。追討軍の指揮官が 梶原景時加藤景廉なのは当然だとしても、攻撃の先鋒を務めたのが実弟の 小笠原長清 だったのは何とも酷な話である。後に小笠原氏は武士道を極めた名門として、礼節だとか武芸の精神だとかを云々する小笠原流として名を残していくのは笑止である。

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    左:安田義定自刃の地と伝わる、牧丘の小田野山   画像をクリック→明細にリンク
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    富士川合戦が終わって数年間の出来事は改めて述べるとして...
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    元暦元年(1184)6月には甲斐源氏棟梁を継承した 一條忠頼 が鎌倉で謀殺され、建久四年(1193)8月には頼朝の異母弟の 蒲冠者範頼 が謀反の疑いで追討され、同年11月には 安田義定 の嫡男 義資 が艶書事件で斬罪、同時に義定も駿河守護を解任され翌年8月には謀反の嫌疑で追討された。
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    義定終焉の地には諸説あり、鎌倉大草紙は「梶原景時加藤景廉 の率いる討手を受け、法光寺(恵林寺の北側・徒歩圏内にある放光寺、2項下に詳細を記載してある)で自刃した」と書き、尊卑分脈や甲斐国史には「馬木(牧)庄の大井窪大御堂で自刃した」と書かれている。
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    大井窪大御堂とは、「滅却心頭火自涼」で有名な 恵林寺と共に戦火で焼失した 放光寺 阿弥陀堂の可能性が高く、また山梨市の 大井俣窪八幡神社(三ヶ所とも公式サイト)と推定する説もある。
    更に放光寺の西3kmの牧丘町鼓川流域の伝承に拠れば、義定の終焉は詰め城の小田野山だったと伝えており、山裾には自刃した義定を弔った「腹切り地蔵」や一族を弔った「石塚」と呼ぶ宝篋印塔が残っている。安田義定が吾妻鏡に現れた初見は頼朝が石橋山合戦で惨敗した翌々日、甲斐源氏が平家に味方する 俣野景久 軍と刃を交えた波志太山(鉢田)合戦である。
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      ※鎌倉大草紙: 戦国時代初頭の1500年前後編纂の軍記物語っぽい歴史書。描いた背景は康暦二年(1380)から文明十一年(1479)の百年間だが
    歴史の事例を引用する形で安田義定討伐について記述している。
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      ※甲斐国史: 文化十一年(1814)に編纂された地誌で編者は甲府勤番の松平定能。全般に真摯な記述に満ちており、史料として超一流の価値を持つ。
    ただし武田氏の興亡については天正年間(1570年代)に成立した甲陽軍鑑(軍記物語の色彩が濃い)の影響を強く受けている。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月25日 】
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    大庭景親頼朝 の逃げ道を塞ぐため軍兵を各所に派遣し要所を固めた。(弟の)俣野景久は甲斐源氏の 武田信義一條忠頼 を討つため駿河国目代の橘遠茂の軍勢と共に甲斐に向い富士北麓に宿営したが、百張り以上の弓弦を鼠に食い切られた。狼狽しているところに石橋山合戦の情報を得て出陣した 安田義定工藤景光 、同 行光 ・市河行房らが波志太山で遭遇、合戦は数刻に及んだ。景久勢は弓が使えないため太刀を取って戦ったが甲斐源氏の矢を防げず敗走した。
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    個人的に偶然なんか信じない主義なので「俣野勢の弓弦を鼠が食い切った」のは捏造だと思う。物見遊山じゃあるまいし、多少の損害があってもスペアは携帯している筈だし、「数刻に及んだ」激戦の末に敗退したのは何か他の事件を象徴している可能性もある。
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      ※工藤景光: 石橋山合戦後に自刃した 狩野茂光 の三男行光と同一人物と推定される。一族滅亡に近い損害を受けた狩野家が存続し得たのは甲斐に
    分家していた工藤景任の曾孫を養子に迎えたから、と考える説である。詳細は伊東氏の系図を参照。
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      ※波志太山: 駿河(国府は静岡市付近)目代と落ち合って富士北麓に宿営し、若彦路(wiki)を進んだのだろう。駿河側から見ると、現在の鳴沢村から
    大田和を経て南下した足和田山の東麓を想定する説よりも、富士宮市周辺と考える方が妥当。吾妻鏡の編纂者が「及昏黒之間宿富士北麓之處...」と書いたのがそもそものミスリードで、編纂者は土地勘ゼロだったらしい。この部分以外の傍証は全て「富士西麓」を差している。
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      ※市河行房: 新羅三郎義光 の末子で元は 帯刀先生義賢 の大蔵館に寄宿していた覚義が義賢の滅亡により父の所領の一部 市河荘(別窓)に土着した
    のが市河氏の最初。天承元年(1131)には (武田)義清 親子が常陸から同地に移住して甲斐源氏の基盤を作り上げた。代々の市河氏は御家人として活躍した後に 新田義貞 の挙兵に参加、鎌倉幕府滅亡後は足利高氏(尊氏) に与力している。

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    右:安田義定の墓所 下井尻の雲光寺   画像をクリック→明細にリンク
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    武田(逸見)清光 の長男・光長は逸見郷(北杜市)を継承して逸見太郎を、双子の弟 信義一條忠頼 の父)は甲斐源氏棟梁と武田郷を継承して武田太郎を、三男 遠光 は加賀美郷(南アルプス市)を継承して加賀美を名乗り、逸見郷で生まれた四男 義定 は安田荘(現在の山梨市役所付近以北)を本拠に安田を名乗り、甲府盆地北東部を支配した。館は笛吹川東岸の山梨市役所一帯の南北1km・東西2kmの範囲内とされる。
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    義定は更に5km北の小田野山(牧丘町)に城砦を構え、保元三年(1158)には館の鬼門(北東)にあたる井尻(現在の山梨市下井尻)に一族菩提寺の雲光寺(開山和尚は常陸の真言僧都了寿阿闍梨)を建立した。本堂東の仏庵跡には巨大な五輪塔を含む墓域が保存されている。
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    文治五年(1189)に奥州藤原氏が滅んで 頼朝が全国の覇権を握り、翌・建久元年(1190)に安田義定は朝廷の命令で禁裏守護番に任じた。内裏守護の源頼兼(三位頼政の子)を補佐する役職だが、幕府の統制から離れて朝廷と結ぶ可能性もあるため、頼朝から見れば好ましい官職就任ではない。
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    更に建久二年(1191)には 後白河法皇 に命じられていた伏見稲荷と祇園稲荷の修理を完成させた義定は従五位に任ぜられ、左遷されていた下総守から遠江守に復職した。頼朝は甲斐源氏の動向に対して警戒を深めたが、これは鎌倉幕府と甲斐源氏の溝を深めて源氏内部の対立を煽る後白河法皇一流の策謀がそれなりの効果を挙げた、と考えるべきか。結果としては案に相違して頼朝一強体制を招いてしまうのだが...
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    頼朝が征夷大将軍に任じた翌年の建久四年(1193)11月、梶原景時から 「義定嫡男の 義資 が大倉御所の女官に艶書を送った」との報告が入った。悪くても謹慎程度の些細な事件だったが、頼朝は即日に義資の首を刎ね義定の遠江守を剥奪した。失意の義定は本領の甲斐安田荘に蟄居を余儀なくされる。
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    【 吾妻鏡 建久四年(1193) 11月28日 】
    夕刻、越後守義資 が女事の理由で 加藤景廉 により斬首された。父の遠江守 安田義定 もその件に関連して頼朝の機嫌を損ねた。これは昨日永福寺法要の際に義資が御所の女官に艶書を送り、当人は黙していたが 梶原景季の妾がこれを夫に語り、父の 梶原景時 を経て頼朝に報告が届いた。事件の真偽を糾明したところ関係者の言葉が符合したため、この措置となった。
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    【 吾妻鏡 建久四年(1193) 12月5日 】
    遠江守義定の所領・浅羽庄(現在の袋井市)を没収、地頭職は加藤景廉が補任する旨の下文を発行した。
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      ※艶書事件: 建久三年(1192)には美貌の女官(比企朝宗能員の弟)の娘・姫の前)に執心した 北條義時 が一年余り艶書を送り続けた事件があった。
    この時は頼朝が仲を取り持ち、義時が「決して離縁しない」と起請文を書いて婚姻しているから、義資の艶書事件が義定一族を滅ぼす口実であり、酷いダブル・スタンダードだ。ちなみに、姫の前は 朝時(名越流の祖)と 重時(極楽寺流の祖)を産んだ後の建久三年(1203)に離別し、源具親(公家・歌人)に再嫁している。婚姻して約10年後の離縁は、同年9月に勃発した比企の乱に伴う措置だろう。

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    左:安田義定の廟所がある甲斐の高橋山放光寺   画像をクリック→明細にリンク
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    そして翌・建久五年(1194)8月には再び 梶原景時 が「安田義定 に謀反の企てあり」と讒言。景時を利用して謀反計画を捏造した疑いが強い。 頼朝大江廣元三善康信 の諌めを聞かず追討に踏み切った。
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    吾妻鏡に従えば鎌倉での死没だが、鎌倉大草紙では追討使に任じた梶原景時と 加藤景廉 が率いる軍勢を甲斐に派遣した、と書いている。義定の本領数ヶ所に墓所や供養塔があるのを考慮すると甲斐で死没と考えたくなるが、義定の郎党5人は翌日名越で斬られている。矢張り鎌倉での事件だろうか。
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    【 吾妻鏡 建久五年(1194) 8月19日 】
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    安田義定を梟首。嫡子の義資が斬首となり所領を没収されて以降しきりに世を嘆き、親しい者と図って反逆を企てたのが発覚したためである。
    源朝臣義定(61歳)、安田冠者義清の四男。寿永二年(1183)8月10日に遠江守従五位上に叙す。文治六年(1190)1月26日下総守、建久二年(1191)3月6日遠江守に還任、同年従五位上に叙す。
    【 吾妻鏡 建久五年(1194) 8月20日 】
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    前の瀧口榎下重兼・前右馬允宮道遠式・麻生平太胤国・柴籐三郎・武籐五郎ら安田義定の臣5人を名越で斬首。和田義盛がこれを差配した。
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      ※義定の臣5人: 武藤五郎は武藤を名乗った最初と伝わる頼平(藤原北家の子孫で「武者所の藤原」あるいは「武蔵の藤原」)の三男か。長兄は頼忠、
    次兄は頼朝御家人で九州少貮氏の祖となった 武藤資頼、三男の五郎は義定に仕えて遠江守一宮領の目代を務めていた。
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    一宮領は袋井市の北、森の石松で知られる「遠州森」や頼朝の異母兄 朝長の廟所 積雲院(別窓)の近くで、武藤氏代々の墓が残る曹洞宗の 鹿苑山香勝寺(公式サイト)一帯が屋敷跡。天文年間(1532~1555年・織田信長の頃)までの約350年、この地を支配した。
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    香勝寺の寺伝は「次兄の頼資(資頼)は元寇の乱で奪戦した」と伝えているが、名越で斬られた武藤五郎が18歳だったと仮定しても、その兄なら文永の役(1274)当時は100歳前後、この話の信頼性はかなり乏しい。

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    右:加賀美遠光の館跡と伝わる 法善寺   画像をクリック→明細にリンク
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    宗派は高野山真言宗、本来は武田八幡宮の別当寺で、正式には 加賀美山法善護国寺(公式サイト)。
    現在の寺域が始祖 加賀美遠光 の館跡(地図)と伝わっている。
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      ※別当寺: 神仏習合時代に神社を管理した寺。境内に僧坊が置かれ別当の僧(寺務管理者)が神官の
    上位となった。現在でも神社と寺の建物が昔のまま同じ敷地にある例は少なくない。
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    例えば享保十七年(1732)の 鶴岡八幡宮境内図(八幡宮蔵・徳川二代将軍秀忠造営の資料)には多宝塔のような建物が描かれている。創建当初は五重塔だった可能性もあり、仏堂と神殿が境内に同居していた。吾妻鏡も何ら違和感なしに同居している様を記載している。
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    遠光は 義清 の三男だが、長兄 清光 の養子になったとも言われる(異説あり)。母は常陸源氏の祖となった佐竹義業( の長男で義清の兄)の娘、つまり両親とも由緒正しい源氏の血筋である。佐竹氏は家業の孫 隆義(昌義の子)が 頼朝に逆らって富士川合戦直後に追討され、辛うじて一族の滅亡は免れたが常陸国の所領は没収の処分を受けた。
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    加賀美遠光はニ男の 小笠原長清(母は和田義盛 の娘)と共に治承・寿永の合戦に従軍して 頼朝 の深い信任を受け、平家滅亡後の文治元年(1185)には源氏門葉の一人として信濃守に任じられている。甲斐源氏の中では早い時期から頼朝に服従する姿勢を明確にした事が幸運を招いた。
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    頼朝の覇権が確立した後の甲斐源氏を取り巻く環境は厳しいもので、甲斐源氏嫡流の逸見を継承した義清長子の 光長 一族は徐々に衰退し、次兄の 信義 は嫡男 忠頼 を殺された後に失脚、弟の 安田義定 は謀反の嫌疑で追討を受け自害、遠光の嫡男秋山光朝も 平重盛 の娘を妻にして参戦が遅れ追討を受けている。甲斐源氏が零落する中で加賀美遠光は頼朝の信任を失わず、御家人として天寿を全うした。時代を見通したか、保身に長けていただけか。
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    遠光は寛喜二年(1230)4月に87歳の天寿を全うして死没。加賀美の名跡は四男の光経が継ぎ、二男の長清が小笠原氏・三男の光行が南部氏・五男の経行が於曽氏の祖として長く繁栄した。娘の一人は大倉御所に召され、大弐局として 頼家実朝 の養育係を務め、和田合戦(1213年)には 義盛 の遺領・出羽国由利郡(現在の由利本荘市&にかほ市の全て+秋田市の南部(エリア地図・別窓)の地頭職を得るまでの栄華を極めた。
    現在は金沢文庫に近い 称名寺(wiki)に伝わる 運慶 作の大威徳明王像(別窓・高さ約21cm)を発注するほどの私財を蓄えたことでも知られている。
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    そして弘安八年(1285)11月、安達一族が概ね滅亡に近い損害を受ける霜月騒動が勃発。甲斐に在地していた小笠原氏・秋山氏・南部氏は連座して没落し、分家して信濃国佐久郡大井荘の地頭として土着していた長清の七男朝光が武田大井氏として甲斐武田の本流となった。

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    左:加賀美遠光廟所 遠光(おんこう)寺   画像をクリック→明細にリンク
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    遠光寺の建立は建保二年(1214)。開基は 加賀美遠光 、開山和尚は京都建仁寺の開祖でもある 明庵栄西(諡号を千光国師)の弟子である宗明阿闍梨、真言宗(臨済宗説あり)の感応山遠光寺(地図)を称した。
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    仏教に深く帰依していた遠光は開山和尚として高名な栄西を招いたが、永治元年(1141)に生まれた栄西は既に73歳の高齢のため宗明を派遣した、と伝わる。若い頃に 比叡山延暦寺(公式サイト)で得度した栄西は天台宗の僧だったが南宋に留学して臨済宗を学び、日本での開祖になった人物。
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    開基の遠光は元仁元年(1224)に死没、法名を遠光院殿長本大功深誉大居士として霊廟が建てられた。開山和尚の宗明は文永年間(1264~1274・八代執権 北條時宗 の頃)に身延山久遠寺(公式サイト)で 日蓮 と宗教論争を交わして論破され日蓮に帰依して日宗と改名し、感応山を日蓮宗の宝塔山遠光寺と改めた。
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    師弟二代が続けて改宗するのは少々納得できない部分が残るけれど、伊東を筆頭とする伊豆の各地や身延の周辺など日蓮が法難を受けた土地に矢鱈と日蓮宗が多いのは、日蓮の持つ抗し難いカリスマ性の影響からだろう。
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    一方で栄西には時代の政治権力に追従して利益や栄誉を求める傾向があり、天台座主の 慈円 は著書・愚管抄の中で栄西を「増上慢の権化」と罵っている。遠光寺には駐車場もあるが、400m北の遊亀公園(一蓮寺の隣)からのんびり歩いても良い。
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    幕末の安政元年(1854・黒船来航の前年)に至り、遠光廟所は子孫の奥州南部氏によって経年の破損が修復された。これは奥州に新領を得た遠光の次男で富士川中流域を本拠とした 南部光行 の後裔である陸奥国盛岡藩の十四代藩主 南部利剛(wiki)による寄進と推定される。
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    当初の遠光寺は現在地から5kmほど南で荒川と笛吹川が合流する小曲()に建っていたが、度重なる水害のため蓬沢()に移転、更なる水害で天文年間(1532~1554年、今川義元全盛の頃)に現在地()に移転した(ルート地図を参照)。その後は昭和20年の空襲で伽藍を焼失し、昭和45年になって現在のコンクリート製本堂が再建された。古刹としては違和感のあるデザインだが、法隆寺夢殿(wiki)を模して設計されたらしい(そう言われればそんな気がしないこともない)。二度の移転と数度の修復・再建を経ているため、甲斐源氏の史蹟らしくない外観がすこしだけ残念だ。

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    右:小笠原長清 明野町と櫛形町の史蹟   画像をクリック→明細にリンク
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    甲斐国志に拠れば、小笠原長清 の館跡は南アルプス市役所の北西、小笠原字御所庭(地名)の小笠原小学校(地図)一帯と伝わっており、東300mの「的場」にある笠屋神社は小笠原氏の家紋 三階菱(参考サイト)を使っている。4月の第一日曜の例大祭には神輿が小笠原長清館跡の「御所庭」で饗応の式を行うのが通例だった。館跡の一帯は既に人家が密集し校庭に建つ石碑が当時を物語るのみだが、長清所縁の史跡は周辺に点在している。
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    館跡から20kmほど北にある明野町小笠原の一帯は古来から官牧のあった地で、中央道東側の山裾には貞観年間(859~877年、清和天皇の時代)に建立の福性院(地図)があり、長清から4代後に室町幕府の信濃守護を務めた小笠原政康が中興して先祖の供養に寄進した等身大の薬師如来坐像を本尊とする。
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    福性院から200mほど北側の突き当たりに建つ無住の長清寺には小笠原長清の供養墓と伝わる五輪塔が残っており、この一帯も小笠原一族所縁の地だった事を明確に伝えている。加賀美遠光は元暦二年(1185)に信濃守となり、小笠原長清はそれを継承して信濃に土着して勢力を広げていく。室町時代以降は礼典や武芸についての豊富な知識を生かして武家社会に有職故実を伝える存在となり、小笠原流として重用され現在に至っている。
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    長清の祖父・清光が本拠としたのは長清寺から更に20kmほど北にある 谷戸城(逸見城)(別窓)であり、南アルプス市のある甲府盆地から八ヶ岳南麓を経て信濃に勢力を拡大する甲斐源氏を象徴しているようだ。

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    左:南部一族発祥の地と波木井の遺蹟   画像をクリック→明細にリンク
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    加賀美遠光は現在の南アルプス市一帯を領有し、長男の光朝は所領の西側(富士川町増穂付近)を継承して秋山を名乗り、二男長清は秋山の北側を継承して小笠原を名乗り、三男光行は富士川中流域の狭小な山峡・南部郷を継承し、四男光経は本領を継承して加賀美氏嫡流となり、五男経行は甲府盆地北東部(現在の塩山一帯)を継承して於曽を名乗った。
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    南部光行 が奥州合戦の恩賞として陸奥国糠部の五郡(北郡・三戸郡・九戸郡・岩手郡・鹿角郡)を得たのは史実だが、経緯の詳細や一族が定住した時期は判らない。文治五年(1189)説、建久二年(1191)説、建久六年(1195)説、承久元年(1219)説など、そのいずれかとは考えられるが。
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    文政五年(1822)に成立した史料集「聞老遺事」は建久六年の12月29日に糠部郡三戸に入ったとしている。異なる年代を主張する他の史料も日付に関しては概ね共通しており、共通の情報をベースにしたと考えられるが、移住した季節と経路に関してはとても鵜呑みにはできない。
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    「聞老遺事」は 「10月に南部郷を出た一族74人が由比ガ浜で6隻の船に乗り12月末に糠部に着いた、云々」と書いており、海を知らない甲斐の人が厳しい冬に危険を冒し海路で陸奥を目指したとは考えにくい。例えば建久六年10月10日に南部を発ったと仮定すれば鎌倉まで130kmを移動して船の準備などに早くても10日、10月20日は太陽暦の11月23日。その他の年も大差はなく、いずれも初冬である。更に一族郎党を含め74人は如何にも少ない。
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    南部氏系図に拠れば本領の南部郷は二男の実光が継ぎ、長男(庶子)行朝は一戸氏・三男実長の嫡男実継は八戸氏・四男の朝清は七戸氏・五男の宗清は四戸氏・六男の行連は九戸氏の祖としてそれぞれ陸奥国に土着している。単純に光行+五人の男子+家族を連れて六隻の船に分乗したと考えると辻褄は合うが、所帯道具や奴婢・下人や武装や食料などを含めれば簡単な移動ではなかった筈だ。
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    本領を継いだ実光は五代執権 北條時頼 に接近し、御内人(実質的な得宗(北條嫡流)家臣)として幕府での地位を確保し続けた。実光と同じく甲斐に残った三男の実長は波木井・御牧・南部を継承し波木井氏を称して地頭職を務め、文永六年(1269)前後に日興の仲介で 日蓮 に帰依している。実長は領内の身延山に草庵を建て久遠寺(現在の公式サイト)と名付けて日蓮に寄進し、自らも出家して日円と号した。
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    波木井一族は八代後の政光が八戸に移住するまでの200年間、この地を支配したと伝わる。身延山麓の梅平にある子院の鏡円房(久遠寺を含めた地図)は実長の二男(実光?)の屋敷跡であり、墓地に残る巨大な五輪塔が実長の墓石とされている。

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    右:躑躅ヶ崎 武田氏の館跡と信玄夫妻の墓所    画像をクリック→明細にリンク
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    石和(武田)信光 が甲斐源氏棟梁を継承して約340年が過ぎた天文十年(1541)、父の信虎を駿河に追放した晴信(信玄)は甲斐の覇権を握り、武田氏十九代(新羅義光を初代として)の当主となった。
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    駿河の今川氏・相模の後北条氏・越後の上杉氏などとの関係が複雑化した戦乱の時代ではあったが、甲陽軍艦に拠れば晴信が父信虎を追放した最大の理由は寵愛が同腹の弟信繁に移り晴信を遠ざけるようになったため、としている。嫡子の座を失う前のクーデターと考えるのが一般的、らしい。
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    信虎時代の仮想敵は小田原北条氏のみで、駿河の今川氏・上野の上杉氏・信濃の諏訪氏とは同盟関係にあったが、晴信は諏訪・高遠・依田・上伊那を制圧し、一方で敵対していた後北条氏と和睦し今川氏と北条氏の争いを仲裁した。こうして東と南の憂いを消した晴信は信濃制圧に専念し、天文二十二年(1553)には越後の上杉謙信の勢力下にあった北信を除く信濃全域の支配権を握っていく。
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    数回の川中島合戦を経た信玄は永禄十一年(1568)に謙信と同盟し、更に元亀二年(1571)には北条氏政との甲相同盟を復活させた。そして同年2月、信長と対立した足利将軍義昭の意思を奉じた信玄は信長と同盟していた徳川家康討伐の兵を挙げ三河・遠江に侵攻、二ヶ月で小山城(榛原郡吉田町)、足助城(豊田市足助町)、田峯城(愛知県設楽町田峯)、野田城(愛知県新城市豊島)、二連木城(愛知県豊橋市仁連木町)を落としたが、喀血して甲斐に退いた。
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    そして元亀三年(1572)10月に再び信長討伐と上洛を目指して出兵。三方ヶ原で家康軍を撃破したが北近江から連携する筈の朝倉義景が動かず、信玄は軍勢を三河に留めて越年。再び喀血して長篠城(地図)で療養したが回復せず、甲斐に撤兵する途中の三河街道駒場(下伊那郡阿智村)で病没した。

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    左:武田勝頼 終焉の地 天目山   画像をクリック→明細にリンク
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    平安末期の 武田信義 から数えて16代目が武田信玄(若い頃は晴信、ここでは信玄に統一)、その嫡男が甲斐源氏最後の棟梁となった勝頼。
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    天文十年(1541)、信玄は有力家臣団の後盾を得て父の信虎を駿河へ追放し、武田家十九代(信義から三代遡って 八幡太郎義家 の弟 新羅三郎義光 を初代とする)の家督継承を宣言した。信虎は甲斐を統一した勇将だが一説には信玄の同母弟・信繁(後の信玄副将)を溺愛して嫡男扱いし、戦費捻出のため領内に苛酷な政策を布いていた、と伝わっている。戦国時代の甲斐源氏もまた、信義の時代と同じく一枚岩ではなかった。
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    信玄は各地を転戦し天文二十二年(1553)には北部を除く信濃を征服、越後の上杉謙信と数度に亘って死闘を繰り返した川中島の戦いや駿河の今川・相模の北条との合戦を経て勢力を拡大し、元亀ニ年(1571年・信玄50歳の頃)には信濃・駿河・上野(群馬)西部・遠江・三河・飛騨・越中を領有する巨大勢力を作り上げた。そして翌・元亀三年10月、信長と不仲になった室町幕府最後の将軍・第15代足利義昭の求めに応じ総勢三万の大軍を率いて天下統一を目指し、京に向けて進軍を開始した。この時点では覇権を握る可能性に満ちていたのだが...
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    11月に三方が原の戦いで家康軍を撃破した信玄は朝倉義景(信長軍牽制のため北近江に布陣していた)の撤兵を知り三河で進軍を停止。病(結核だったとも)を得た信玄は喀血のため4月まで長篠で療養するが病状は好転せず、撤退途上の三河街道で病死した。嫡子である勝頼は信玄の遺言「三年間は自分の死を隠せ」に従って、後に居城躑躅ヶ崎東の 円光院(躑躅ヶ崎の項を参照)近くに仮埋葬、三年後に掘り起こして火葬し恵林寺で葬儀を営んだ。
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    勝頼は元亀四年(1573)に家督を継ぎ、天正三年(1575)には更なる勢力拡大を目指して遠江の徳川領に兵を進めたが、長篠の設楽ヶ原で惨敗。天正十年(1582)には織田・徳川の連合軍に攻められて甲斐盆地を追われ、名門甲斐源氏の宗家武田氏は天目山で最期を迎える。


     その拾 木曽義仲の興隆から粟津での滅亡まで 

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    左:墨俣川合戦の惨敗と義圓の討死       画像をクリック→ 明細にリンク
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    頼朝の異母弟 義圓が頼朝に合流した時期は治承四年(1180)10月20日の富士川合戦前後と推定される。
    十郎行家 の援軍として墨俣川に進出したのだが、なぜか吾妻鏡は墨俣川の合戦について全く記録に残しておらず、概略は平家物語と玉葉の記述を参考にするしかない。何故だろうねぇ...
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      ※義圓: 常盤 が産んだ二男で 義朝の八男、幼名を乙若丸。義経 にとってすぐ上の同母兄に当たる。
    平治二年(1160)1月に父の義朝が知多で敗死し6歳で圓城寺(三井寺)で出家、圓成を名乗った。常磐が再婚した養父の大蔵卿 一条長成 の縁故で 後白河法皇 の皇子・円恵法親王に近仕。
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    円恵法親王は圓城寺長吏(最高位の管理者)だった治承四年5月に挙兵した以仁王が圓城寺に逃げ込んだ際に協力を疑われ、兼任の四天王寺検校職を停止されていた。これが義圓の行動に影響した可能性がある。円恵法親王は寿永二年(1184)1月の法住寺合戦の際に法皇の近くにいて戦う羽目になり、義仲 の軍兵の矢を受けて没した。
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    翌・治承五年(7月14日に改元して養和元年・1181)の2月4日に平家の棟梁 清盛 が熱病で死没し、遺言に従って編成された頼朝追討軍が4月初旬に出陣した。総大将には清盛の五男 重衡 が任じ、維盛通盛忠度 ・ 知度(清盛七男) ・ 平盛綱 ・ 盛久(清盛の側近)の率いる7000騎は揖斐川を渡り墨俣川(長良川)の右岸(西岸)に布陣した。一方で近江・美濃・尾張の武士を集めた 十郎行家(義朝の末弟、頼朝の叔父)は千余騎で墨俣川を挟んだ対岸の羽島市側、背後に木曽川が流れる湿地帯に布陣した。これが富士川合戦半年後の4月25日に源平が激突した墨俣川合戦である。富士川では戦う前に平家軍が撤退して小規模な衝突に終ったが、墨俣川では本格的な合戦になった。
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      ※千余騎: 平家物語は源氏六千騎vs平家三万騎、玉葉は源氏五千騎と記録している。兵力差は大きいが実数は不明。
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    頼朝は義圓を大将とする部隊(戦力は不詳)を後詰めの援軍として送っていた。実戦経験のない26歳の義圓は「鎌倉から遠征して来たのに行家に先を越されては頼朝に会わせる顔がない」と考え、一方の行家には独自の勢力として平家を破り頼朝に恩を売って処遇を得たい思惑があった。
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    行家軍と義圓軍は合流も連携もせずに離れて布陣。4月25日深夜に義圓は手勢を率いて墨俣川を渡り夜明けと共に先駆けを図ったが、濡れている甲冑を見咎めた平家軍に包囲され何の戦果も挙げられず侍大将の平盛綱に討ち取られた。義圓の終焉と伝わる地(地図)には墓石や地蔵堂などが空しく残っている。一説に、先駆けを図って渡河したのは行家軍とも言われる。失態を犯した指揮官は功を焦った義圓か、鎌倉に恩を売りたかった行家か。

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    右:墨俣川古戦場周辺の鳥瞰図       画像をクリック→拡大表示
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    どちらが原因だったにせよ、実戦経験の乏しい二人の采配が大敗を招いたのは事実で、しかも主力部隊を湿地帯に布陣させ退路を確保しなかった。この合戦で大将の 義圓 ・尾張源氏の山田重光・大和源氏の頼元と頼康などの侍大将クラス多数が討死、 十郎行家 の二男行頼は捕虜となった。
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    勢いに乗る平家軍は墨俣川を渡って攻め込み、湿地で逃げ場を失った源氏軍700名近くが討死。吉記(頼朝 に近い立場の公家 吉田経房(最終官位は正二位権大納言)の日記)に拠れば390の首級が都に運ばれた。頼朝が義圓に与えた兵力は不明だが、捨て駒と考えていた可能性もある。
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    そもそも行家の実力など期待できないし、平家の出方を偵察する程度の合戦に主力部隊は派遣できない。もし本格的に対決する意図を持っていたなら、遠江国(静岡西部)を制圧していた甲斐源氏の 安田義定 と駿河の 一條忠頼 の派遣を考えただろう。
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    果たして惨敗した行家は40km南の熱田まで退却し体勢を立て直そうとしたが、更に追撃を受けて30km南東の矢作へ逃げ再び敗れて鎌倉まで逃げた。しかも敗戦の責任者だったのに頼朝に恩賞を求めて拒否され、鎌倉を去って常陸の 信太(源)義憲 の許に合流した。一方で平家軍の 重衡 は更なる追撃も考えたが、知盛 の病気に加えて鎌倉の大軍が東海道を進んでいるとの噂があったため兵を引き、京都に凱旋した。
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    墨俣川合戦以後の平家は東征をせずに美濃・尾張以西の防衛に専念し、鎌倉の頼朝も敢えて京を目指さないで東国の平定に力を注いだ。奥州の 藤原秀衡 ・ 東国の頼朝 ・ 西国の平家一門が鼎立するかに見えた墨俣川合戦のニケ月後、「玉葉」が興味深い記事を載せている。
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    【 玉葉 治承五年(1181) 5月25日  7月14日に改元して養和元年 】
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    源頼朝後白河法皇 に 「私に謀反の心はなく、ただ朝廷の敵を征伐したいのみ。もし平家を滅せないなら昔の様に源平を共に召し使い、東国を源氏・西国を平氏に任せて朝廷が国政を行えば何の問題もない」と内密に奏上した。これを 宗盛(この時の平家頭領)に伝えると「全くその通りだが父の 清盛 は「一族最後の一人になっても墓前に頼朝の死骸を晒せ」と遺言した。勅命でも従えない」と答えた。これは兵部少輔尹明が内密に語った事である。
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    兵部少輔尹明は藤原南家の血筋で清盛に近かった公家。これが頼朝の真意だったか、単なる謀略か、或いは僅かな和平の可能性を探ったのか、宗盛が和平の機会を逃したのか、真相は判らない。しかし直後の6月には 木曽義仲 が千曲川の横田河原で越後の 城助職(長茂・資職) が率いる平家軍を壊滅させ、更に北陸道へ兵を進めたため情勢は大きく動き始め、宗盛の返答と無関係に和平は消し飛んでしまった。
    翌・寿永二年(1183)2月、頼朝から離反した二人の叔父 ・ 志田義広と十郎行家が義仲勢に加わり、やがて鎌倉と義仲の間が険悪の度を深めていく。

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    左:駒王丸を救った實盛の本領長井庄、歓喜院も近い。  画像をクリック→明細にリンク
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    斎藤實盛 は越前国南井郷(福井県鯖江市)の河合則盛(藤原北家の末を名乗る)の子として生まれ、13歳の時に武蔵国長井庄(平家領、現在の熊谷市妻沼)の庄司斎藤實直の養子となって定住し、實盛を名乗った。
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    實直は父の代から源氏の郎党を務めており、實盛まで三代に亘って仕えている。實盛も 義朝 の郎党として平治の乱(1159)を戦ったが、義朝の敗死後は 平宗盛 の所領となった長井庄に戻り、荘園管理の実績と能力を認められて引き続き20年間も別当を務めた。その間に受けた恩に報いるため治承四年(1180)10月の富士川合戦では落日の平家軍に加わり、更には北陸で 平維盛 の率いる義仲追討軍に加わっている。
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    斎藤實盛が邸内に先祖伝来の聖天像(歓喜天)を祀ったのが歓喜院の起源と伝わる。左画像は長井荘の中心部を流れて田畑を潤していた福川の流れで、聖天院境内には鎌倉時代の板碑や髪を染めている實盛の銅像などもあるが、本堂(聖天堂)が国宝指定になった平成24年春以降は混雑が激しくなった。暫くは休日を避けて平日の訪問をお勧めしたい。日差しの強い季節には嬉しい林間の参拝用無料Pを備えている。
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    寿永二年(1183)5月の 倶利伽羅峠合戦(別窓)で平家軍は惨敗、続いて退却途中の篠原で義仲軍の追撃を受け、俣野景久伊東祐清 ら東国の武者と共に討死した。平家物語は平家に殉じた實盛の誇り高い最期を美しく描いている。
    平家滅亡後の長井庄は 大江廣元 の二男 時廣 が領有して長井氏を名乗り、實盛の子息も下司職としてこの地に土着したとの伝承も残っている。
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      ※實盛の子: 伝承は實途・實長としているが裏付ける史料はない。妻沼には荘官の館跡が長井陣屋の名で残っており、空堀の跡も確認できる (地図)。
    また伊豆山の 伝・密厳院の跡 には子息の五郎と六郎が實盛の遺髪を葬った伝わる五輪塔があり、沼津には惟盛の嫡子六代との関係を物語る伝承も残っている。、六代については 惟盛の墓と六代松(共に別窓)を参照されたし。
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    取り敢えずは義仲幼少の頃に戻って...保元の乱では義朝に従って参戦した實盛だが、彼が別当に任じていた長井庄は上野国(群馬県)南西部から武蔵国北部に進出して来た帯刀先生 源義賢 と秩父氏連合の勢力圏に近かったため義賢との接点を深めざるを得なかった。義賢が本拠を置いた武蔵大蔵は長井庄から南へ直線で15kmの鎌倉街道沿いで、「鎌倉時代..壱」に記載した 大蔵舘跡、義仲の生誕地 班渓寺と鎌形八幡(共に別窓)を参照されたし。

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    右:義仲が育った木曽谷  画像は中原氏菩提寺 法泉山林昌寺  画像をクリック→詳細ページへ
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    木曽(当時の呼称は吉祖庄)に勢力を張った中原氏の先祖は第三代安寧天皇の第三皇子・磯城津彦命の末を称する貴族。もちろん神話の世界だから信憑性は乏しく、中原兼遠源義賢 の子の乳母夫となった経緯も当時の兼遠の立場なども諸説がある。名乗りは平家物語では木曽中三(きそのなかさん・ちゅうぞう)、源平盛衰記では木曽中三権頭と表示している(中三は中原氏の三男を意味する、らしい)。
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    平安時代末期に鳥羽上皇の命令で信西が編纂した歴史書 本朝世紀(wiki)に拠れば、「康治二年(1143)正月二十七日、大隈守従五位下、中原兼遠、史第六文章生」、或いは「久安六年(1150)十一月二十六日、大原野祭右小史中原兼遠等参行之」、或いは「同月十九日、今夕新嘗祭右小史中原兼遠参仕」、などの記載があり、幼い駒王丸(後の 義仲)を保護した久寿二年(1153)から義仲が挙兵した治承四年(1180)までの約27年間、下級貴族出身の実務官僚として信濃権守に任じていた。
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    中原一族は中山道(現在の国道19号)と伊那から高山へ抜ける街道(現在の国道361号)が交差する要衝(地図)・木曽谷に本拠を置き、半径10km圏内ほどを支配下に置いていた。周辺には菩提寺の林昌寺や中原氏屋敷跡をはじめ、この地で成長した義仲に関わる史跡が(虚実様々に)点在している。
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    中原氏の遠い血縁には 頼朝 の側近として活躍した文官の 中原親能 と、その弟で政所別当として鎌倉幕府の基礎を築いた 大江廣元 が出ている。義仲の生涯は多くの伝承や逸話があって史実の範囲は決め難いが、中原兼遠の子には義仲側近の武将として運命を共にした 樋口兼光今井兼平 がいる。更には伝説の女武者 や、嫡男 志水義高 を産んだ 山吹 も兼遠の娘、とされている(山吹は兼遠の兄・兼保の娘とする説あり)。

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    左:義仲挙兵の地 海野宿と白鳥神社    画像をクリック→詳細ページへ
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    北国街道(正式には北国脇往還)の 海野宿(観光協会サイト)は江戸時代の初期に約1.5km東の田中宿の合宿(サブの宿場)として開かれた。北国街道は追分宿(現在の軽井沢)で中山道から分岐し越後国府のあった上越市で北陸道に繋がる、別名善光寺街道の宿驛である。
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    田中宿は寛保二年(1742)に起きた千曲川の氾濫 戌の満水(wiki)で大きな被害を受け、更に復興後の慶応三年(1867)には大火で被災したため徐々に衰退し、その後の本宿としての繁栄は海野宿移った。町並みは見事に保存されており、例えば中山道の馬籠・妻籠・奈良井宿などに比べるとやや地味で華やかさには乏しいが、観光地化に伴う煩わしさが少ないのは好ましい。
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    北国街道も中山道も奈良時代から利用された官道ルートだった。正倉院には信濃国小県郡海野郷戸主爪工部君調(はたくみべ きみみつぎ)と墨書した麻織物の一部(推定700年代初頭)の存在が確認されており、点在する五世紀後半の古墳などから考えると、この地域にはかなり古くからレベルの高い技能者集団が定住していたらしい。
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    頼朝 の挙兵から20日後の治承四年(1180)9月7日、木曽義仲 は信濃国小県郡海野郷の白鳥神社 (地図)で兵を挙げた。最大兵力で義仲を支えた四天王の一人が佐久の 根井行親清和天皇 の末を名乗る信濃の名族滋野氏流で、保元の乱では300騎を率いて義朝軍に加わっている。
    海野郷を領した海野一族の幸親(小太郎幸氏の父)と根井行親は同一人物と考える説もあり、挙兵当初の義仲軍は海野勢が主力を占めていた。
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      滋野氏: 系譜に拠れば五十六代 清和天皇 の第四皇子貞保親王(陽成天皇 の実弟)が海野荘(海野宿の千曲川対岸)に土着し、延喜五年(905)に
    孫の善淵王が第六十代醍醐天皇から滋野姓を下賜され滋野善淵を名乗ったのが最初とされる。ただし明確な根拠はなく、紀氏(大和朝廷に仕えた武門の家)の子孫あるいは国牧を管理した大伴氏の子孫説もある。善淵から四代後の重道が海野を名乗り、更に重道の子が望月氏・禰津氏として分家し信濃全域と上野国に広く定着した。海野氏・望月氏・禰津氏は滋野氏三家として嫡流または準嫡流である。
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      海野氏: 清和天皇の末を称するが根拠は乏しい。滋野氏の庶流あるいは滋野氏と縁のある在地の豪族が摂関家所領の海野荘に依拠して平安時代末期
    から信濃国東部に勢力を広げ、海野を名乗ったのが始まり。幸親は義仲の侍大将として戦死するが、三男の幸氏は義仲の嫡男 清水(木曽・源)義高 に従って鎌倉に入った後に主人への忠勤を賞賛され 頼朝 の御家人として信濃の所領を継承、その子孫は真田氏にも繋がっている。
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      根井行親: 佐久平南部の根々井を本拠に牧を運営し東信濃最大の軍事・経済力を築いた豪族。正法寺一帯(地図)に館の遺構や行親の供養塔がある。
    義仲 四天王の一人で、滋野氏嫡流の海野(滋野)幸親と同一人物説もあり、宇治川合戦で 義経 の軍勢と戦い討死したと推定される。
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    保元物語(承久の乱(1221年)前後に成立した軍記物語)に拠れば、後白河の御所に集結した義朝配下の信濃武者に宇野・望月・諏訪・蒔・桑原・安藤・木曾中太・弥中太・根井大矢太・根津神平・静妻小次郎・方切小八郎大夫・熊坂四郎などの名前が見える。根井大矢太が行親と思われるが、宇野=海野と考えるのが普通なので両者が別人である可能性も高い。

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    右:義仲が初めて史料に現われた善光寺裏(市原)合戦  画像をクリック→詳細ページへ
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    木曽義仲 の挙兵を知った平家側の豪族・笠原頼直(本領は現在の長野県中野市)は直ちに討伐軍を組織して南下し、それを信濃源氏の村山義直と栗田寺(戸隠別院)別当範覚が20km南西で迎え撃った。史料に義仲の名が最初に現れた市原合戦(長野市若里の犀川沿い・地図)である。
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    笠原頼直率いる義仲討伐軍の目標が木曽だったのか、或いは海野だったのかは判らないが、笠原軍に対する義仲の対応が早かった事を考えると、この時点で義仲が海野郷にいたのは間違いない。当初は信濃源氏勢に対して優勢だった笠原頼直も義仲勢の接近を知って接触を避け、退却してしまった。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 9月7日 】
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    木曽冠者義仲は帯刀先生義賢の二男。義賢が久寿二年8月に武蔵国大倉(大蔵)館で 悪源太義平 に討たれた時は3歳で、乳母夫の中原兼遠が抱いて木曽に逃れ養育した。成人となった今では平家を滅ぼして家を興そうと考え、石橋山合戦の情報を得て平家討伐の兵を挙げた。
    平家に味方する笠原頼直が軍兵を率いて義仲を攻めるため南下したところ、義仲に味方する村山義直と栗田寺別当範覚がこれを聞いて準備を整えて市原で合戦に及んだ。日暮れになっても決着しなかったが、義直軍の矢が尽きたため義仲に使者を送って援軍を求め、それに応えた義仲の大軍が迫るのを見た頼直は退却し、越後の 城長茂 の元に逃げ込んだ。
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    治承四年の夏には源氏蜂起の情報が知れ渡っており、信濃でも平家側と源氏側の武士が兵を整え合戦に備えていた。義仲挙兵を知った笠原平五頼直も討伐軍を率いて南下し、進軍の途中で信濃源氏の村山七郎義直と栗田寺(戸隠別院)別当大法師範覚の連合軍と激しい矢戦となった。吾妻鏡は合戦の場所を市原としているが、栗田の本拠地に近い北国街道の市村の渡し(市村郷・地図)の記載ミスらしい。後世に犀川を渡る丹波嶋の渡しとして北国街道の要所となったポイントで、約400年後に上杉謙信と武田信玄が数度の合戦を繰り広げた川中島古戦場の約5km北に位置する。
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      ※笠原頼直: 笠原郷は現在の中野市間長瀬の笠原地区(地図)。また伊那郡笠原郷にも拠点を持つ勇猛な武者だったとも伝わっている。
    諏訪大社の神官大祝の系で出自は伊那郡笠原郷(地図)とも。親族の一部は頼朝に従って旧領を安堵されたらしい。
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      ※村山義直: 村山郷は長野市と須坂市の中間(地図)。経基王(源経基)の五男で 源満仲 の異母弟に当る満快の子孫が信濃に土着した一族。
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      ※栗田一族: 栗田郷(現在の長野駅南側・地図)を本拠にした清和源氏村上氏傍流。鎌倉幕府成立後は 戸隠山善光寺(共に公式サイト)の別当職を
    兼任して繁栄した。後に頼朝が大旦那を務めるなど善光寺との縁を深め再興に尽力した最初の接点が範覚だった。

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    左:木曽義仲の行動地図 倶利伽羅峠の項とダブるけど。   画像をクリック→拡大表示
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    海野の白鳥河原から市原合戦場までは約30km、白鳥河原で 根井行親 勢と合流した 義仲 は直ちに犀川と千曲川が合流する市原の近くまで進出して笠原頼直に圧力を加えた。
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    善光寺から現在の千曲市にかけての千曲川流域は翌年の横田河原合戦や後世の信玄vs謙信の川中島合戦の舞台となった、信濃と越後を結ぶ北国街道の要所である。 甲斐善光寺と飯田の元善光寺(別窓)でも書いた通り、兵火による焼失を危惧した信玄は本尊の釈迦三尊像などを甲府に避難させた例もある。
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    現代の地図上では、上信越道の信州中野ICから南下した平家軍と東部湯の丸ICから北上した義仲軍が長野IC付近で衝突した、と考えると判りやすい。
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    以仁王 の令旨を 頼朝 が受け取ったのは5月10日、使者の 十郎行家は常陸を経て甲斐から信濃・木曽を巡回しているから5月20日前後には挙兵を求める以仁王の令旨は義仲の元にも届いている。
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    頼朝挙兵が8月17日、義仲が市原近くに進出したのが9月7日なのを考えると、頼朝挙兵を知ってから僅か20日間で準備を済ませ150km(木曽~海野~市原)を移動できるとは思えない。異腹の兄 仲家 は養父の 三位頼政 と共に宇治で戦死(5月26日)しているから報復戦の意味合いもある。令旨を受けて挙兵の準備を始めたとの情報を得た笠原頼直らが討伐軍を組織したのだろう。
    この図式は大庭景親 が頼朝挙兵の動きを察知して追討軍を組織した経緯に類似しているから、源平盛衰記の描写が的を射ているのかも知れない。
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    【 源平盛衰記 巻第二十六 兼遠起請 の一部 】    平家物語(延慶本)にも同様の記載があるが吾妻鏡にはない。幕府成立に無関係と見たか?
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    義仲謀叛の情報に驚いた 平宗盛 は中三権頭(中原兼遠)を都に呼び、直ちに義仲を捕縛して連行せよと命じた。兼遠が「時間を頂いて木曽に戻り連れて参ります」と答えると、「その旨の起請文を提出せよ、さもなくば家人に命じて義仲を捕縛し連行する」 と迫られ、やむを得ず起請文を差し入れた。
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    木曽に戻った兼遠は起請文にも叛かず義仲の将来にも役立つ方法を思案した末に、同国の住人 根井(滋野)行親 を招き、息子達と共に義仲の身柄を託した。根井行親は周辺諸国に呼びかけて軍兵を集め、帯刀先生 源義賢 との誼みから上野国の武士や藤姓足利氏一族が次々に加わった。

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    右:義仲は亡父 義賢の旧蹟多胡館へ    画像(多胡館跡入口)をクリック→詳細ページへ
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    治承四年9月7日に市原(市村)まで進出した 義仲 は笠原勢の退却を知って海野郷へ引き返し、10月中旬には父親の 義賢為義 の二男で 義朝 の異母弟)が住んだ旧蹟である上野国多胡荘(地図)に入った。
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    義賢は保延五年(1139)から帯刀先生(皇太子時代の天皇を警護する部隊の長)として勤務したが翌年に失策を犯して職を解かれ、更に仁平三年(1153)には管理を任されていた能登の荘園から年貢未納を理由に罷免されている。源氏の中で時々現れる出来の悪い(例えば為義みたいな)タイプだったのかも。
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    一方で義朝は順調に出世を重ねて同年には下野守に任じており、義朝と不仲だった為義は鎌倉を拠点に北関東へ勢力を伸ばす義朝に対抗して義賢を多胡荘に下向させた。鎌倉は古くから源氏所縁の土地であると同時に東海道経由の東国ルート、多胡荘は東山道経由で東国に入るルートに位置している。
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    義賢は更に 秩父重隆 と結んで武蔵国大蔵館に本拠を移し、久寿二年(1155)8月には義朝の指示を受けた長男の 悪源太義平 に殺されているから、義賢が多胡荘と大蔵館に住んだのは併せて二年程度だ。
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    義賢の人物像は良く判らないが為義の意志には従順だった。為義は...軍事的才能も政治的手腕も凡庸以下で、結局は保元の乱で 崇徳天皇 に味方して五人の息子(頼賢・賴仲・為宗・為成・為仲)と共に船岡山(「保元物語では七条朱雀)で斬首。優れた武人だった義朝への嫉妬が見え隠れする生き様だった。生き残った息子は 後白河法皇 に味方した義朝、常陸の 源(志田)義憲、武芸を惜しまれ大島流罪となった 鎮西八郎為朝、末子の 十郎行家 のみ。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 10月13日 】  注・足利俊綱は秀郷の子孫を名乗る藤姓足利氏で平家側、源姓足利氏の対抗勢力。
    木曽冠者義仲 は亡父義賢の旧蹟を訪ね信濃国を出て上野国に入った。住民には 足利俊綱 を恐れる必要はないから私に従うよう命令を下した。
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    上野国多胡荘はここに定住した新羅系の帰化人・吉井連(よしいのむらじ)の子孫と考えられ、史料には多胡を名乗る武士も度々登場している。源平盛衰記には義仲に従って転戦した多胡次郎家包の名が載っているし、吾妻鏡の文治元年(1185)10月24日の勝長寿院供養と建久六年(1195)3月9日の東大寺再建供養の随兵リストの中には多胡宗太の名前が見える。いずれも多胡荘出身者の係累だろう。

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    左:義仲は信濃に戻り、拠点の依田城で戦力を整備    画像をクリック→詳細ページへ
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    10月13日に父の旧蹟多胡荘に入った 義仲 は間もなく信濃に戻り、挙兵した海野郷(白鳥河原)から約6km南西の依田城(地図)に入って戦備を整えている。短期間で多胡から退去したのは藤姓 足利俊綱 との衝突を避けた、或いは関東南部を掌握した 頼朝 に配慮したとも言われるが実情は判らない。頼朝の場合は鎌倉入りの直後で、しかも富士川合戦(10月20日)の直前だから、北関東に関与する状態ではなかった筈だ。
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    依田城を本拠にしていた依田次郎実信は義仲の挙兵に全面協力し、拠点として居城を提供したと伝わる。
    依田一族がこの地に土着したのは依田氏の祖である父・為実の時代だが、遠祖は 経基王(源経基)の五男で 満仲の弟・源満快。右衛門尉・検非違使・相模介・下野守を歴任した従五位下で没した人物。
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    満快の息子三人も中級官人として受領などに任じ、その子孫が信濃源氏の傍流として依田に土着していた為実だったらしい。為実の母は 帯刀先生義賢 の娘だったと伝わるから義仲と為実は従兄弟同士、その経緯もあって源氏再興の夢を義仲に託したのだろう。
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      ※受領: 国司四等官(守・介・掾・目)の中で「現地に着任する守と介」を差す(親王任国の上野・常陸・上総は守(親王)が赴任せず、次官の介と権介が
    受領に該当する)。受領ではない介と掾と目の呼称は任用、任国に赴任せず官職の給付のみを受け取る国司は遙任と呼ぶ。
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    依田一族も海野氏や滋野氏系の武士と共に義仲に従って北陸を転戦し京に入ったが、義仲が頼朝に攻め滅ぼされると共に没落し本領の依田を失った。一族は各地に分散し、南北朝時代になって飛騨に土着した子孫の依田義胤が 足利尊氏 に与して本領を回復した、とも言われる。
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    戦国時代には武田信玄に従って戦功を挙げ、甲斐国誌に拠れば東河内領宮木(現在の身延町の一部)に所領を得た。武田氏の駿河進出と共に江尻城(現在の静岡市清水区・地図)の防衛に任じたが、天正十年(1580)の武田氏滅亡に伴って西伊豆に隠棲し、その子孫は松崎で「大沢温泉ホテル 依田之庄」(2017年に倒産・閉鎖)を経営していた。道の駅 花の三聖苑松崎(別窓)そばの静かな宿だったが、ローカルな一軒宿が生き残りにくい時代になった。すぐ近くに併設していた人気の高い美人の湯 山の家露天風呂(紹介サイト)も多分、閉鎖だろうね。

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    右:義仲が武名を轟かせた横田河原の合戦    画像をクリック→詳細ページへ
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    画像は旧流路近くに建つ雨宮の渡し石碑。源平合戦ではなく信玄vs謙信合戦の記念碑である。
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    挙兵翌年の治承五年(1181)閏2月に 平清盛が病死、跡を継いだ 宗盛 は越後平氏の 城資永に義仲追討を命じた。越後全域を支配下に置いていた城資永は 「甲斐国と信濃国で起きた謀反は他人を加えず私だけで平定します」 と申し出て宗盛を喜ばせたという(玉葉 治承四年12月3日)。資永は越後・会津・出羽の軍兵一万で軍備を整えたが出陣の2月24日に脳卒中を発症し25日には死没してしまう。
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    【 平家物語  巻第六 嗄声 】  資永死没の顛末。お互い血圧には注意しましょうね。
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    越後國の住人城太郎助長(資永)は越後守に任じた平家の恩に報いるため木曽義仲を追討しようと三万余騎を集めた。6月15日に兵を整え、16日の卯の刻(朝6時前後)に出陣を予定したが夜半に大風と豪雨が吹き荒れ雷が鳴り響いた。天気が回復すると雲の間から大きな嗄れ声で「金銅十六丈の盧舎那仏を焼き滅ぼした平家の与党がここにいる、召し捕れや」と三声叫んで通り過ぎた。城太郎をはじめこれを聞いた者は身の毛がよだち、郎党らは「これ程恐ろしい天のお告げ、出陣は見合わせ給え」と言上したが「武者は弓矢にこそ頼るもの」と答えて予定通りに出陣した。わずかに十町ほど進んだ所で黒雲が湧き上がり、助長に覆いかぶさると共に身を竦ませて落馬、輿で館に運び込んだが数時間後に死んでしまった。この顛末を飛脚で都に伝えると平家の人々は大騒ぎになった。
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      ※城資永: 越後に土着した桓武平氏系豪族で平家の忠臣。義仲対策のため急遽越後守に任じた。弟に 助職、妹に甲斐源氏 浅利与一 の妻として甲斐に
    下った女武者 坂額、 嫡子には叔母の坂額と共に建仁元年(1201)の鳥坂城で鎌倉勢相手に戦った 資盛(落城後の消息は不明)がいる。
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    城氏の家系は高見王 → 嫡子平国香 → 繁盛→ 維茂(信濃守・秋田城介・鎮守府将軍)→ 繁成(鬼切部で安倍頼良と合戦)→ 貞成→ 資国→ 資永と続く。貞成は 清原真衡 が常陸岩城氏(現在の福島県浜通りを支配していた海道平氏)から養子に迎えた平成衛と考える説もある(後三年の役の発端となった 吉彦秀武vs真衡のトラブル)が、海道(常陸平氏)だから別人だろう。
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    資永の母は清原武衡(後三年の役の敗者)で、義仲に敗れて藍津(会津)に逃げた城氏を 藤原秀衡 が攻撃したのは後三年以来の遺恨だった可能性がある、かも。横田河原から越後国府(上越市)まで70km+本拠地の一つ越後白河荘の白川御館(阿賀野市)まで130km+更に藍津(会津)80km、合計で280kmとはずいぶん遠くまで逃げたものだ。
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      ※焼き滅ぼした盧舎那仏: 平家物語は半年前の治承四年(1180)12月に南都を攻めた 平重衡 の兵火で焼け落ちた東大寺大仏の怨念を指す。

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    左:城氏が本拠を置いた越後国府 直江津(上越市)   画像をクリック→拡大表示
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    古代の一時期を除いて、越後国府は現在の上越市国府地区にあったと考えられている。承元元年(1207)に京を追放された 親鸞 が流罪に処され、恵信尼と暮らした地としても知られる。
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    そして市原合戦から9ヶ月後の治承五年(1181)6月、資永(助長)の弟 城長茂 (資職・助職) 率いる官兵が越後から信濃に進出するが、彼が短慮で無能な指揮官だった事が義仲には幸いした。
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    長茂の率いる越後軍9000余騎は雨宮の渡しから2km北の横田城で軍陣を整えて築磨河(千曲川)の北岸に押し出し、南岸に展開した義仲軍3000余騎と矢戦を開始した。ここで義仲軍の別働隊を率いた井上光盛は平家の赤旗を掲げて東の妻女山へ迂回し、築磨河を渡ってから源氏の白旗を掲げて背後から奇襲する。
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    長旅の疲れもあって惨敗した助職軍は国府からも追われ本領の阿賀野へ、敗走しつつ完全に崩壊した。
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    380年後の永禄四年(1561)8月、この一帯では武田信玄と上杉謙信が数度の死闘を繰り返した。いわゆる川中島合戦の舞台である。
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      ※井上光盛: 信濃に土着した清和源氏庶流。多田(源)満仲 の三男が 源頼信、その二男頼季が嫡子の満実と共に高井郡井上(須坂市井上・地図)に土着
    したのが最初と伝わる。寿永三年(1184)7月10日の吾妻鏡に 「駿河国蒲原駅で吉香船越の輩が兼ねての命令に従って京から下向する途中の井上太郎光盛を討ち取った。武田(一條)忠頼 に与しているとの情報があったためである。」との記載がある。
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    【 吾妻鏡 寿永元年(1182) 10月9日 】  編纂の間違いで、実際には養和元年(1181)
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    越後の住人城四郎永用(助職、資職)→ 長茂(永茂、永用と改名、兄の資永も資長・助永・資元など改名が多い)は国守である兄資元の跡を継いで源氏を攻めようとした。木曽冠者義仲は北陸道の兵を率いて信濃国築磨河(千曲川)の付近で合戦し、夕刻になって永用は敗走した。
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      ※合戦の月日: 玉葉は治承五年(1181)6月、吾妻鏡は寿永元年(1182)10月、平家物語は同年9月としている。城氏一族の棟梁だった兄の資永が急死
    して弟の助職(長茂とも)が家督を継いだのが治承五年2月、間もなく越後から信濃に出兵しているので、ここでは玉葉の記述に従った。
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    【 玉葉 治承五年(1181) 7月1日  7月14日に改元して養和元年 】
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    兼光の言葉によると、越後国の城太郎助永の弟助職(白川御館)は故禅門(清盛)と前の幕下(宗盛)に従って信濃国の反乱を追討するため、六月十三日と十四日に信濃に進軍したが殆ど抵抗は見られず、降伏する者が多かった。勝ちに乗じて進んだところ、信濃の源氏勢は三手(木曽党・さこ党・甲斐武田党)に分れて攻め掛ったため難路を進んで疲弊した越後の軍勢は抵抗できず惨敗した。大将軍の助職は三ヶ所に疵を受けて甲冑を脱ぎ武器を捨て、万を越える軍勢も僅か300騎になって本国へ逃げ帰った。残る九千人余りは討ち死に、あるいは崖から落ちて落命したり山林に逃げ込むなどして戦力は壊滅した。本国の越後でも反乱が起きたため藍津(会津)の城で籠城を試みたが、秀平(藤原秀衡)の手勢に攻められ僅か4~50人で佐渡へ逃げ去ったという。これは越後を知行している前の治部卿光隆卿が未確認情報として院で語った内容である。
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      ※藤原兼光: 平家に近かった立場の公家。安徳帝 の蔵人頭を務めたが都落ちには同行せず、次帝 後鳥羽天皇 の蔵人頭に任じた。学識・実務・和歌に
    秀でた官人として平家政権と後白河院政の両方で重用され、建久六年(1195)には従二位まで昇進している。
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      ※白川御館: 白河荘(摂関家領、現在の阿賀野市全域と隣接する新潟市一部)に本拠を置いた城氏の尊称。東の会津を支配した奥州藤原氏は奥御館と
    尊称され、両者は北の覇権を競った関係だったと伝わる。横田河原の合戦によって城一族の運命は暗転するが...その9年後には奥州藤原氏も栄華の幕を降ろすことになり、鎌倉時代の白河荘には 後頼朝 挙兵以来の御家人だった大見氏が地頭に補任される。
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      ※信濃源氏三手: 木曽党は 義仲 に従う 中原兼遠 一族、さこ党は佐久の 根井行親一族、甲斐武田党は上野国武士団の間違いと考えられている。

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    左:国宝 平家納経(観普賢経)の見返し部分    画像をクリック→経典の拡大画像にリンク
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    保元の乱(1156)で 為義 を滅ぼし、続く平治の乱(1159)で 義朝 グループを倒して源氏を壊滅させた平家の棟梁 清盛 は仁安二年(1167)に武士として初めて関白太政大臣に昇進し政治の実権を掌握した。一門の繁栄を願って 厳島神社(厳島のサイト)に 平家納経(wiki画像)を終えたのもこの年である。平家納経の10年ほど前に奥州藤原氏の初代 藤原(清原)清衡 が納めた中尊寺経 (別窓)と併せて見るのも趣がある。
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    保元と平治の重なる大乱で実務を司る多くの公卿が失脚した影響もあって、平家一門の知行国(支配権の及ぶ国)は実に日本全国の半分を越えた。繁栄はまさに絶頂期を迎えたが、平家物語が述べているように奢れる者は久しからず。安元三年(1177)には 鹿ケ谷の陰謀事件(wiki)が発生するなど、政権内部での軋轢が激しくなった。鹿ヶ谷事件の真相には諸説あり、政敵を蹴落とす清盛の捏造と主張する説もあるから判断はむづかしい。
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    この頃から清盛の政権運営には更なる強引さと崩壊の兆しが見え始め、治承三年(1179)には 後白河法皇を幽閉し、第80代高倉天皇(中宮徳子は清盛の娘、後の 建礼門院)に強請して三歳の外孫を 安徳天皇 として即位(治承四年(1180)4月)させ、清盛は家臣として最高位の帝の外祖父にまで昇り詰めた。
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    ここで不満を爆発させたのが 後白河天皇 の子 以仁王。源氏唯一の殿上人だった三位頼政 と挙兵を計画し、治承四年(1180)4月9日に平家追討の令旨を発行した。この令旨を各地の源氏と寺社宛に届ける任に当ったのが 源為義 の十男で、平治の乱の後は熊野に隠れていた 新宮義盛義朝 の末弟、同母姉が後に十九代熊野別当となる行範の妻・鳥居禅尼 )。
    義盛は行家と改名して令旨を携え全国を廻ったのだが...一ヵ月後の5月初めに令旨の内容が平家に漏れてしまう
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    5月15日に平家は以仁王を臣籍降下処分にして源以光とした。土佐配流のため検非違使が三条高倉邸へ捕縛に向うが以仁王は園城寺(三井寺)に脱出、21日には交戦を避けた頼政と合流して南都(奈良)への脱出を図った。以後の推移は「鎌倉時代を歩く 壱」の「頼政挙兵」のコーナーで。
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    5月26日に頼政一族が宇治川で敗死して乱は収束したが、この時点の 頼朝 は去就を明確にしていない。もちろん私見だが、頼朝にはまだ明確な挙兵の意思がなかった、と思う。ところが令旨が出回って危機感を募らせた清盛が全国の平家与党に「源氏追討令」を発行、これは相模国の有力家人 大庭景親 にも届いたから頼朝も「しばらく様子を見よう」では逃げられなくなった。
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    【 吾妻鏡 治承四年(1180) 6月19日 】
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    散位 三善康信 の使者(弟の康清)が北條に到着、頼朝 は静かな部屋で面会した。使者の曰く、「先月26日の以仁王事件の後、「令旨を受け取った源氏らを全て追討せよ」との命令が出ました。頼朝様は嫡流ですから特に危険で、至急奥州へ遁れるようお勧めします。」 と。
    康信は母親が頼朝乳母の妹なので源氏に志があり、毎月三回使者を送って京の情勢を知らせていた人物である。

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    右:10年前、大内宿のスナップ。左の鳥居が高倉神社参道  画像をクリック→拡大表示
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    二匹の犬が元気だった頃の画像。   疲れを知らない子供のように 時が二人を追い越していく♫ (溜息)
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    公式記録では宇治から南都(奈良)へ逃げる途中の山城国相楽郡(木津川市山城町神ノ木)で討たれた事になっているが、各地(特に東北・信越地方)に生存伝説が多く、萱葺き屋根集落で有名な 大内宿(観光サイト)の中央西側にある高倉神社もその一つ。もし生きていれば半年後に頼朝が東国を制圧した時点で名乗り出る筈で、生存伝説も絵像も本物ではあり得ない。ともあれ、大内宿観光の際は忘れずに立ち寄ろう。
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      ※以仁王の不満: 彼は後白河天皇 の第二皇子で異母兄は皇位を継いだ高倉天皇、その生母建春門院
    (後白河后は 清盛の後妻(二位尼時子)の妹だから最高権力者の閨閥である。
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    側妾の加賀大納言藤原季成娘・成子が産んだ 以仁王 は建春門院の激しい妬みを受け、29歳になっても親王宣下(下世話に言うと天皇による認知ね)も受けられず、不満が鬱積していた。更に治承三年(1179)11月の 後白河法皇 幽閉に伴って以仁王の常興寺領も没収された事が決起の引き金となった。屋敷が三条高倉(地図)にあったため、高倉宮あるいは三条宮とも称される。
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      ※常興寺領: 以仁王の仏法の師・最雲(73代堀河天皇の子で49代延暦寺座主)が遺贈した常興寺と付属の荘園。これらが没収され、同じ最雲の弟子
    だった明雲(高倉天皇・後白河法皇・清盛との関係が深く、後に55代座主となった)に与えられた。荘園の明細は判らない。
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      ※令旨について: 皇太子と太皇太后・皇太后・皇后が下す命令書。範囲を広げて親王まで含む場合もあるが、第47代淳仁天皇(在位758~764)以後は
    天皇の子女であっても親王宣下を受けなければ親王・内親王を名乗れなかった。以仁王は親王宣下を受けておらず、従って令旨を下す権限はない。(明治以降の天皇の子女は皇室典範により自動的に親王・内親王として認められる。)
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      ※計画の漏洩: 平家物語に拠れば、令旨の内容を密告したのは21代熊野別当の湛増。挙兵を促す令旨を巡って熊野三山に発生した争乱を鎮めるために
    通報した、と。湛増は弁慶の父親との伝承があり、速玉神社には弁慶の木像もあるが信憑性は乏しい。父は18代別当の湛快、生母は為義の娘鳥居禅尼、保元の乱から逃げた為義の末子義盛(行家) が熊野に20年間潜んだ裏には実姉鳥居禅尼の庇護があった。

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    左:高倉宮以仁王の絵像 大内宿の高倉神社蔵    画像をクリック→拡大表示
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    以仁王が発行し十郎行家が各地に運んだ「平家追討の令旨」に応じて
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    常陸では、 志田(信田)義広源為義の三男、義憲とも)が挙兵をせずに独自の勢力を保ち、寿永二年(1183)に頼朝に対抗して敗れた後に行家と共に義仲に合流した。
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    甲斐では、源(武田)清光 の次男で甲斐源氏棟梁の 武田信義 と清光の四男 安田義定 が9月初旬に挙兵して南信濃の伊那などを制圧し駿河に進軍。
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    尾張では、清和源氏・満政流の木田重長と、同じく浦野重遠らが挙兵。
    近江では、近江源氏の山本義経とその弟の 山本(柏木)義兼 が挙兵。
    伊豆では、義朝の嫡男(三男)頼朝 が8月に挙兵し、後に2人の異母弟・遠江国蒲御厨(浜松市)から 範頼、奥州平泉から義経 主従が合流した。
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    そして同年の9月に 木曽義仲 が挙兵し、討伐に南下して来た越後の 城資職 の大軍を横田河原の合戦で撃破、破竹の勢いで信濃全土を制圧した。その後は父の義賢旧蹟である上野国多胡(群馬県吉井町)に入ったが、既に関東を制圧していた頼朝の恫喝に屈して信濃に退去し北陸への勢力拡大に専念、嫡男 義高を人質として(立場上は 大姫 の婿)鎌倉へ送って争う意思がないことを示した。
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    その間に態勢を立て直した 清盛 は京に近い近江や土佐で蜂起した源氏を次々に制圧し、残るは北陸の義仲勢と甲斐源氏を含む関東の頼朝勢となったが...翌治承五年(1181)の2月、清盛は熱病に倒れてその生涯を終えた。「供養は要らぬ、ただ頼朝の首を墓前に供えよ」と遺言した、と伝わっている。

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    左:清盛の墓? 画像は住吉神社の十三重の石塔   画像をクリック→拡大表示
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      【 吾妻鏡 治承五年(1181) 閏2月5日 】
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    戌の刻(20時前後)に九條河原の盛国(側近の侍大将)邸で入道相国(清盛)が没した。
    去る25日から病床に伏していたらしい。遺言に曰く 「三日が過ぎたら葬儀をせよ。遺骨は播磨国山田法華堂に納め、毎日ではなく七日ごとに通例に従って法事を行い、京で追善供養をしてはならない。残った一門の者はただ偏に東国の平定を目指せ」 と。
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      【 平家物語 巻六「入道死去」に拠れば 】
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    富士川合戦で敗れた平家は養和元年(1181)になって軍勢を再編成し、2月23日に会議が開かれた。後白河法皇 の命を受けて宗盛を大将軍とし、関東の賊軍を討伐するため2月27日に出発する旨の決定があったのだが、突然清盛が熱病に陥ったため延期された。
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    余りの熱で傍にも近寄れず水を張った浴槽に入れてもすぐ湯になるほどの始末だった。容態はますます悪化し、やがて枕元に控えていた妻の 時子(二位尼)に向って 「保元・平治の乱を通じて敵を討伐し多くの功績を得て太政大臣まで進んだ。一門の栄華も子孫にまで及んでいる。もう思い残すことはない。」 更に言葉を続けて「ただし、伊豆の流人頼朝の首を見られなかったのが無念だ。私が死んでも堂塔や供養は要らぬ、頼朝の首を刎ねて墓の前に懸けるのが何よりの供養である。」
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    そして二日後の閏2月4日、もがき苦しんだ末に64歳で没した。天皇が没してもこれ程の弔問はないと言われるほどだった。2月7日に愛宕(おたぎ)で荼毘に付され、円実法眼(左大臣藤原実能の子)が遺骨を首に掛けて摂津国に下り、経の島に遺骨を埋葬した。

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       ※愛宕: 当時は愛宕寺と呼んだ 六道珍皇寺(六波羅の北、公式サイト)か洛東の鳥辺野らしい。鳥辺野は古来から葬送の地で清水寺の南から洛東霊園に
    至るエリア、阿弥陀ヶ峰西麓(両方の地図 を差す。京都女子大あたりは亡霊の巣だったかも知れないね。
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       ※経の島: 日宋貿易のため清盛が拡大・整備した大輪田泊の埋め立て島。兵庫区北逆瀬川町の能福寺(公式サイト ・ 地図)の寺域にあった支院の八棟寺
    に埋葬したらしい。八棟寺は一ノ谷合戦に続く平家滅亡により焼け落ちたまま廃寺となり清盛の墓の跡も廃墟と化した。住吉神社の交差点角に建っている十三重の塔は弘安九年(1286)になって鎌倉幕府九代執権の 北條貞時 が寄進したもので元は更に20mほど能福寺寄りにあり、大正12年(1923)の道路工事で現在地に移転している。ただし吾妻鏡の治承五年(1181)閏2月4日には以下の記載がある。
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    「三日が過ぎた後に葬儀をすること、遺骨は播磨の山田法華寺に納めて七日ごとに通常の法事を営むこと、毎日の法事はしないこと、
    京都で追善の法事は営まぬこと、一族の者はただ東国平定の努力をすること。」

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    山田法華寺についての史料は見当たらないが、清盛の別邸が播磨国明石郡山田村(現在の神戸市垂水区西舞子町 ・ 地図)にあった事は
      幾つかの史料に散見され、平家物語巻第四 「還御」に 後白河法皇 が厳島の帰路に播磨国山田の浦に船を着け輿を召して福原に入った」
      との記述がある。瀬戸内海と淡路島を一望する緩い南傾斜別邸があり、その法華堂での永眠を願っても不思議ではないが...。

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    以下に続く「義仲のコーナー」は再構築中です。

    治承三年(1179)閏7月 ....平重盛‬ が病死。挽回の好機と見た 後白河 は越前を没収、国司 平通盛 を解任。11月の清盛クーデターで通盛は復帰。
    治承五年(1181)3月......墨俣川合戦。重衡軍が美濃・尾張に勢力を築き始めた 源行家義圓 連合軍を撃破。
    治承五年(1181)6月......白鳥河原から 木曽義仲 出陣、横田河原合戦で 城助職を破り北陸道を進軍。
    養和元年(1181)8月......北陸平定のため 平通盛・平経正を追討使として派遣。
    養和元年(1181)9月6日 ...義仲軍が越前国府を占領、更に水津(現在の杉津)で 根井行親 に敗れた通盛軍は津留賀城も失ない敗走(ルート地図)。
    若狭にいた従兄の平経正は情勢判断を誤って応援せず。
    養和元年(1181)11月2日 ..敗戦の将 通盛帰洛。
    養和二年(1182).........大飢饉が深刻化、出兵なし。
    寿永元年(1182).........以仁王の遺児北陸宮と合流、北陸に勢力を広げる。
    寿永二年(1183)2月 ......志田(信田)義広源行家義仲 に合流。翌3月に頼朝との衝突寸前に義高を人質に出して和議。
    寿永二年(1183)4月 ......義仲追討軍出陣。26日からの越前国燧城の戦いで勝利。
    寿永二年(1183)5月9日....般若野(地図)の合戦。平氏軍の先遣隊平盛俊を 今井(中原)兼平 軍が奇襲
    寿永二年(1183)5月10日...六動寺(地図)に宿営していた義仲軍本隊は兼平と合流
    寿永二年(1183)5月11日...倶利伽羅峠(地図)の合戦で平家軍惨敗。
    寿永二年(1183)5月12日...志保山(地図)の合戦で平家軍惨敗。
    寿永二年(1183)6月1日....篠原(地図)の合戦で平家軍惨敗。


      【 大切な幕府黎明期の記録が脱落している吾妻鏡 】
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    吾妻鏡には寿永二年(1183)の記載がない。直前の記載は寿永元年(1182)12月30日で直後の記載は寿永三年(1184)1月1日だから、一年分がそっくり抜け落ちている。元々の吾妻鏡は巻1から巻52(巻45欠)まで揃って伝わったのではなく、各所に伝わっていた写本を室町時代から江戸時代にかけて寄せ集めた史料である。散逸と考えるのが自然なのだが、「編纂者が故意に抜いた」とする説があるから面白い。要するに寿永二年には(幕府として)公式記録に残したくない事件が続いた、一部分だけ載せないと作為が目立つから一年分を消してしまえ...そう考えたのだ、と。
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    しかし実際には編纂ミスのため、寿永二年2月の記事九ヶ所が治承五年(1181)に紛れ込んで閏2月10日~閏2月28日として載っているから、一年分の脱落ではない。更に後世の 畠山重忠 追討の条では露骨な曲筆を行なったのに、「改竄」で済ませず「抹消」せざるを得ないような事件が寿永二年に起きたとも考えにくい。志田義廣 の乱、義廣と 十郎行家義仲 に合流、清水義高の鎌倉入り、義仲入京と平家都落ち、義仲の凋落、上総廣常 謀殺、程度が主な事件だからね。強弁すれば12月の廣常殺害だが、翌年には「誤解による謀殺」と書いているから、隠す意図があったとは考えにくい。
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      【 平家物語 巻第七 清水冠者 】
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    寿永ニ年(1183)三月上旬になって 頼朝 と義仲の関係が悪化し、頼朝は義仲追討のために十万余騎の軍勢を率いて鎌倉を出陣し信濃に向った。それを知った義仲は依田城を出て信濃と越後の国境に近い熊坂山に布陣、頼朝軍は善光寺に陣を構えた。義仲は乳母子の 今井兼平を使者として派遣し、「どんな理由で義仲を討とうとするのか。貴方は東国を平定して東海道から攻め上り平家を倒そうとする、義仲は東山道と北陸道を従えて一日でも早く平家を倒そうとする。仲違いは平家を喜ばせるだけに過ぎない。十郎蔵人(行家)は貴方を恨んで義仲の元に来たが、これは冷淡に扱うのも如何かと考えたため軍勢に加えただけの事、義仲は貴方に対しては全く意趣を抱いていない。」と申し述べた。
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      ※熊坂山: 現在の長野県中野市穴田(旧豊田村・地図)で、愛唱歌「ふるさと」を作詞した高野辰之の故郷、立派な 記念館(市のサイト)もある。
    「兎追いし かの山」 は熊坂トンネルのある山など、「小鮒釣りし かの川」 は千曲川支流の斑川。善光寺まで、約25km。
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    頼朝は「今になってそのように述べても、頼朝を倒すため謀反の企てがあるとの報告が届いている」として土肥・梶原を先陣に討手を向ける旨を答えた。義仲は意趣を持たない約束として嫡子の 清水冠者義高(11歳)に海野・望月・諏訪・藤沢など名高い武士を添えて頼朝の元に預けた。頼朝は「それでは言葉を信じよう、私には男子がいないから我が子にしよう。」と答えて鎌倉に連れ帰った。
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      【 平家物語 巻第七 北国下向 】
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    こうしている内に義仲は東山道と北陸道を平定し、五万余騎で京に攻め上るとの情報が届いた。平家は前年から「来年の春には合戦」と告げていたため、山陰・山陽・南海・西海の大軍が京に集結した。東山道からは近江・美濃・飛騨の兵は加わったが遠江から東の兵は加わらず、西側は加わった。北陸道の若狭から北の兵は一人として加わらなかった。
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    まず義仲を討った後に頼朝を追討するのが平家の計画で、北陸道の大将軍には小松三位中将 平維盛、越前三位 平通盛 ・ 但馬守経正(清盛の甥で敦盛の兄) ・ 薩摩守平忠度 ・ 三河守知度(清盛の七男) ・ 淡路守清房(清盛の八男)、侍大将には越中前司盛俊 ・ 上総大夫判官中綱 ・ 飛騨大夫判官景高 ・ 高橋判官長綱 ・ 河内判官秀国 ・ 武蔵三郎左衛門有国 ・ 越中次郎兵衛盛嗣 ・ 上総五郎兵衛忠光悪七兵衛景清 を筆頭に著名な武士340余人、総勢十万余騎が寿永二年(1183)4月17日の朝に都を発ち北陸道に軍を進めた。
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    往路の戦費は沿道からの徴発自由の許可があったため、逢坂の関から先は権門(権威のある門閥)の税物も官の収蔵品も見境なく没収し、志賀・唐崎・三河尻・真野・高島・塩津・貝津の道沿いを奪い取って進軍したため住民はみな山野に逃げ去った。
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    左:北信と越後を制圧した義仲、倶利伽羅峠へ  画像をクリック→ 詳細ページへ
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    倶利伽羅峠で 木曽義仲 が「火牛の計」を採用し、数百頭の牛の角に縛り付けた松明に火をつけて敵陣に突進させ大勝利を得た事になっているが、これは中国の古い逸話(斉の武将・田単(紀元前三世紀)の戦法)を転用した後世軍記物の捏造とする判断が現在の定説である。
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      ① 多くの牛をすぐには集められないし、最初から連れて行けば義仲本来の機動性が失われる。
      ② 角の松明に火が点いたら牛の群れは怯えて進まない。
      ③ 倶利伽羅峠は多数の兵士が牛の大群によって谷に落とされるような急峻な崖ではない。
    これらは全くその通りなのだろう、と思う。
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    いずれにしろ北陸の合戦は義仲軍の圧倒的勝利で幕を閉じ、伊東祐親 のニ男で流人時代の頼朝と親しかった 九郎祐清 や幼い義仲の助命に尽力した 斎藤實盛 や最後まで頼朝に屈服しなかった 俣野景久 が戦死したのも倶利伽羅峠か、撤退中の加賀篠原の合戦(現在の加賀市篠原町)と推定される。
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    同年の7月25日に平家一門は京に迫る義仲軍との決戦を避けて都を放棄した。2006年の春、倶利伽羅峠を駆け足で散策し少々のスナップを残した。ここは、もう一度訪問したい場所の一つだし、更に時間の都合で篠原の古戦場を素通りしたのも悔いが残る思い出である。

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    右:膳所の義仲寺 疾風の如く生きた義仲、大津で戦死   画像をクリック→ 明細にリンク
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    挙兵の翌年には越後から攻め込んだ平家の討伐軍1万騎を3千の兵で破って北陸道を勢力下に置き、寿永ニ年(1183)6月2日には 平維盛 率いる7万の平家軍を倶利伽羅峠(越中国栃波山の合戦)で壊滅させ、7月24日に平家一門を都から追い落として同月28日に都に入った。
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    しかし朝廷との関係が悪化し京都の治安も乱れたため、後白河法皇 は厄介払いを兼ねて西へ逃れた平家の追討を命じた。9月20日に播磨に向って出陣した義仲軍は 備中水島の合戦(wiki)で平家水軍に惨敗し京都に敗走した。朝廷との関係は決裂し、法皇は落ち目の義仲を見捨てて 頼朝 への接近を図った。後白河の選択は、勢いを取り戻した平家が都に戻ってくるかも知れない恐怖からだろう。
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    義仲は法皇を幽閉し公卿49人を解官して頼朝追討の院宣を書かせ、翌寿永三年(1184)1月10日には強引に征夷大将軍に着任した。そして頼朝が派遣した鎌倉の大軍が京に迫り、義仲は最後の抵抗を試みる。
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    【平家物語が描いた戦況】
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    宇治川で義仲軍と義経軍が戦った。義仲の兵力は1000騎余り、今井兼平 が500騎で瀬田を守り、根井行親楯親忠が300騎で宇治へ、義仲 は残る100騎で院の御所に布陣した。範頼 は3万騎で瀬田を、義経 は2万5千騎で宇治を攻めた。この時に生月に跨る 佐々木高綱 と磨墨に跨る 梶原景季が先陣を争って渡河している。義経軍は宇治川の防衛線を突破して院御所へ迫り、義仲は 後白河法皇 の帯同を断念して瀬田へ走った。
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    義仲は今井兼平と合流して北陸へ逃げ延びようと試みたのだが、範頼の率いる甲斐源氏 一條忠頼 の軍に阻まれた。両者は甲斐国北部の支配権を巡って何回か戦火を交えた関係だったらしい。
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    【吾妻鏡 寿永三年(1184) 1月20日】
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    頼朝が義仲追討のため派遣した 蒲冠者範頼 が勢田から、九郎義経 が宇治から数万騎を率いて京に入った。義仲は 志田義廣今井四郎兼平 らを派遣して防いだが敗れ、防衛線を突破された。両将は 河越重頼 ・ 同重房 ・ 佐々木高綱畠山重忠渋谷重国梶原景季 と共に六条殿に入り院の御所を警護した。この間に一條忠頼率いる兵が義仲軍を追い詰め、相模国の住人石田次郎が近江国粟津で義仲を討ち取った。
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    義仲は瀬田から退却した今井兼平と粟津(瀬田から5km京都寄り)で合流し土地勘のある北陸へ逃れようと試みていたが目指すルートは既に範頼軍に封鎖され、義仲に従っていた兵は次々と討ち死にして粟津の周辺は甲斐源氏の 一條忠頼 軍に囲まれてしまった。逃げ道を失った義仲は琵琶湖に面した粟津ヶ原で討死、直前まで付き従った今井兼平もその直後に自害した、と伝わる。

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    左:今井兼平像 木曽 徳音寺蔵  作者などは不明   画像をクリック→拡大表示
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    【平家物語 下巻 木曽殿最期】
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    (従う家臣は)次々に討たれて主従五騎になったが、 はまだ残っていた。義仲は「最期の合戦が女連れと言われたくないから落ち延びよ」と繰り返し命じた。ついに義仲を見送った巴が最後の合戦をしよう馬を止めていると、武蔵国でも大力の武者と知られた御田師重が30騎程で迫った。馬で駆け入った巴は組み付いて引き落とし、鞍の前輪に首を押し付けて捻り切った。そして甲冑を脱ぎ捨てて東方向へ落ち延びていった。
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    手塚光盛 は討死し、別当(手塚別当・光盛の父または叔父)は何処へともなく落ち延びたらしく、義仲は 今井兼平 と二騎だけになった。義仲が「普段は何とも感じないのに鎧が重い」と言うと兼平は「体も馬も弱っていません、味方を失ったため気弱になっただけです。私一人でも他の武者千騎と同じです」と答えた。
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    新手の騎馬武者が50騎ほど現れたので「防ぎ矢をします、あそこに見える松原に入って自害を」と言うと義仲は「都で死なずにここまで落ちて来たのはお前と同じ場所で死ぬためだ」と轡を並べて走ろうとした。
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    兼平は飛び降りて義仲の馬をおさえ「どんなに軍功を挙げても最期次第で不名誉となります。既に味方はなく、名もない武士に討たれたら悔やまれますから、あの松原へ入って下さい」と。義仲はそれに従った。
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    兼平は名乗りを挙げて敵を引きつけ、突入して散々に戦った。義仲は粟津の松原に走り込んだが深い泥田に馬を乗り入れて身動きできず、兼平を気遣って振り返った兜の内側を三浦の石田為久の矢に射抜かれ、郎党二人に首を取られた。石田為久は太刀先に首を刺して「三浦の石田次郎為久が木曽殿を討ち取った」と名乗りを挙げた。
    それを聞いた今井兼平は「もう守るべき人はいないぞ。関東の殿ばら、強者の最後を見よ」と太刀先を咥えて馬から飛び降り、自害して果てた。

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    右:樋口次郎兼光像 木曽 徳音寺  作者などは不明   画像をクリック→拡大表示
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    【吾妻鏡 同年 1月21日】
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    九郎義経が義仲の首を獲った旨を朝廷に奏上。夜、義経の家臣が義仲腹心の家臣 樋口兼光 を生け捕った。義仲の命令で河内の石川判官代を攻めたが逃げられたため帰還し、八幡大渡で義仲の討死を知ったのだが、強引に京に入って義経の家来と戦い捕われたものである。
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      ※八幡大渡: 御所の南西10kmの桂川・宇治川・木津川の合流点(地図)。兼光は京都南部から攻め込む鎌倉勢に
    追尾されたのだろう。建武二年(1335)に 新田義貞 軍が 足利尊氏 の軍勢に敗れた古戦場だ。
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    【吾妻鏡 同年 1月26日】
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    今朝、検非違使らが七條河原で伊予守義仲・高梨忠直・今井兼平・根井行親らの首を受け取り獄門の樹に架けた。囚人として連行されていた樋口兼光も検非違使に引き渡された。
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    平家物語に拠れば、兼光と縁があった武蔵国児玉党の武士が自分らの功績に替えても助命を嘆願すると約束して樋口兼光を投降させた。範頼や義経も助命嘆願に同調し一度は許されたが、公卿や女官らが法住寺殿襲撃の際の放火や殺人を深く怨んで反対し、法皇もそれを無視できず「四天王の一人を許せば憂いを残す」と斬首を決定した。義仲らの首が都大路を引き回される際には懇願の末に非人姿での随伴を許され、その翌日に斬られたという。
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      ※児玉党: 武蔵七党最大の勢力で、現在の埼玉北部から群馬南部までを勢力範囲とした。樋口兼光の本領は
    現在の長野県辰野町樋口一帯でほぼ100km圏にあり、両者の間にあった何らかの交流が助命嘆願に繋がったと考えられる。
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      ※徳音寺: 臨済宗妙心寺派、山号は日照山。中山道の宮ノ越宿にあり、仁安三年(1168)に母の小枝御前を弔って義仲が建立した柏原寺が最初で、後に
    大夫坊覚明が寺名を改め義仲一族の菩提寺とした。義仲の守り本尊(兜観世音菩薩)などを収蔵し、境内には義仲・小枝御前・今井兼平・樋口兼光・巴御前らの慰霊墓もある。
    徳音寺の名は義仲の戒名「徳音院殿義山宣公大居士」が元で、墓石前面に彫ってある「徳音寺殿・・・」との違いは義仲の死没と建立年代のギャップが原因か。寺伝に拠れば二度の木曽川洪水で流され、現在地に移ったのは正徳四年(1714)。近くには観光施設 義仲館 もある義仲フリーク必見の地なのだが...後付けの捏造史跡も多いうえに全体が観光スポット化しているので、個人的にあまり好きになれないエリアだ。
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      ※大夫坊覚明: 比叡山の住僧→ 奈良興福寺の僧→ 義仲祐筆→ 箱根権現の僧などを転々とした人物だが謎も多く、その波乱の生涯については検索を。
    以仁王 の令旨を受けた南都(奈良)で返書を起草し「清盛は平氏の糟糠(酒かす、粗末な食物の意味)、武家の塵芥」と罵倒した文章が広く知られている。後に箱根権現に定住して「箱根山縁起」や「曽我物語」の成立に関与した可能性は、個人的に最も興味がある。
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    箱根神社で起居した時期は曽我兄弟の仇討ち事件と完全に重複するし、弟の 時致 が稚児として箱根権現社に預けられた時期や兄の 祐成 の愛人・虎が兄弟の死後に馬を寄進した時期とも一致する。平安時代末期を駆け抜けた、魅力のある人物の一人だ。
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      【やや蛇足気味ではあるけれども...】
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    樋口兼光は斬首されたが、その子孫は11代後に伊那郡樋口村(辰野町樋口)から上野国多胡郡馬庭村(現在の高崎市吉井町馬庭)に移り、17代目の定次が父祖伝来の兵法・念流の道場を開いた。これが古武道の馬庭念流の始まりと伝わる。多胡郡は児玉党の勢力範囲だから、兼光と児玉党それぞれの子孫に何らかの交流が続き、500年を隔てて旧交を温め移住の端緒になったのかも知れないね。

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     その拾壱 須磨一ノ谷の合戦 平家一門 痛恨の敗北 

    右:湊山小学校の石井橋側、雪見御所跡の碑    画像をクリック→碑の拡大表示
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    仁安三年(1168)、重病からの回復を契機に50歳で出家した 清盛 は政治の実権を握りつつ表舞台を離れ、福原(神戸市中央区)に別邸の雪見御所を建てて日宋貿易拡大の拠点とした。更に大輪田泊(現在の神戸港西部)の一部を埋め立てて港湾機能を強化し、並行して 厳島神社(公式サイト)を現在の姿に整備した。
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    平家納経(wiki)を完成させたのもこの頃で、NHK大河ドラマ風に言えば「清盛は福原に遷都し宋との経済的な交流を更に拡大して貿易を軸とする海洋国家(この表現は笑える)の樹立を目指した」のだろう。
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      ※雪見御所: 仁安二年(1167)に太政大臣を辞して出家した清盛(法名浄海)は死没までの約10年間を
    主にこの別邸で過ごした。京都から離れたの隠遁を体裁を装ったが、近接して 宗盛邸や重衡邸、福原遷都に伴って 安徳天皇 が半年を過ごした御所も北側にあったと伝わる。
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    明治時代に大型建物の礎石や陶磁器片が出土したが、昭和53年(1978)の校舎建替に伴う発掘調査では雪見御所の遺物と断定できる発見はなかったらしい。画像の石碑は明治39年に湊山小学校の校庭から出土した礎石または庭石の一部を加工したもので当初は校庭に置かれ、現在は一般公開に資するよう道路沿いに移設されている(地図)。
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    しかし治承元年(1177)には政治的に清盛に近かった院の近臣が加担した 鹿ケ谷の陰謀事件(wiki)が勃発、更に治承三年(1179)6月に摂関家の家長となっていた盛子(清盛の娘)が死没、更に7月に将来を嘱望されていた長男 重盛 が死没したのを契機として 後白河法皇が公然とアンチ清盛に動き始めた。
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    激怒した清盛は11月にクーデターを決行し、法皇を鳥羽離宮に幽閉して近臣39人を全て解任、平家に従う公家による独裁体制を敷いたが、強引過ぎた結果として平家への反発を強めてしまう。翌年5月、関白 松殿基房 の追放に絡んで所領の常興寺領を没収された 以仁王三位頼政 を巻き込んで挙兵に走ったのもこの背景が影響している。

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    左:神戸港の原点 大輪田泊の石椋    画像をクリック→石椋の拡大表示
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    ※大輪田泊: 南の和田岬が風波を防ぐ天然の良港で奈良時代から瀬戸内海の物流に利用されていた。
    延喜十四年(914)の記録は行基が築いた播磨五泊の一つである、と伝えている。
     
    清盛の父・忠盛が肥前国の院領神埼荘(現在の佐賀県神埼市)を利用して宋との交易を始め、応保二年(1162)に摂津国八部荘(灘・東灘を除く神戸市の海側大部分)を手に入れた清盛が本格的な改修に取り掛かり、嘉応二年(1170)には宋の大型船が初めて入港する規模までになった。
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    築島水門近くの新川運河沿い(地図)に置かれた大石は昭和27年(1952)の運河浚渫工事に伴って杭丸太などと一緒に出土した石椋(いわくら・防波堤の基礎)で重量は推定4トン、港の入口に3~4段積み重ねられていたと推定される。
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    一ノ谷合戦の際に平家が軍船を置いて万一の撤退に備えたのもこの大輪田泊である。
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    治承四年(1180)6月、奈良の 興福寺東大寺、京都から至近距離の 圓城寺(三井寺)比叡山延暦寺(いずれも公式サイト)が平家に抵抗する動きを見せ始める。清盛は周囲を有力寺社に囲まれて地理的に不利な京都を捨てて福原遷都を決行するが...
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    8月に伊豆の 頼朝が、9月に信濃の義仲が、10月に甲斐源氏が挙兵し、11月には近江源氏が園城寺や延暦寺の応援を得て上洛を窺うまでになった。清盛は福原から京に戻り園城寺を焼き払って近江源氏を討伐、続いて 重衡 に大軍を与えて興福寺と東大寺を焼き払った。ただし、これは意図した行為ではなく合戦に伴う偶発的な結果とする説もある。
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      ※近江源氏: 頼朝が挙兵した当初から参戦した近江源氏の佐々木一族は第59代宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする宇多源氏。近江で蜂起した義経は
    新羅三郎義光 から二代後の常陸源氏佐竹昌義の弟・義定の嫡男。山本山城(長浜市湖北町・地図)を本拠にし、延暦寺・園城寺と協力して六波羅を夜討ちしたが撃退され、山本山の落城後に逃亡してからの消息は明確でない。一説には義仲軍に加わって滅びた、とも伝わる。

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    右:一ノ谷の高台、安徳帝の内裏跡伝承地    画像をクリック→拡大表示
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    清盛の別邸・雪見御所があった(現在の)兵庫区湊山から直線で8km以上離れているため信頼性には乏しいが、ここが安徳帝の御座所だったとの伝承が残っている。
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    都落ちした平家一門は須磨浦から海路で一時的に四国の屋島に渡っているから、その途中に何かの拍子ででここに留まった可能性が皆無とも言えないけれど、やはり単なる伝承として捉えるべきかも知れない。急な坂を登った一ノ谷公園一角の鳥居奥に安徳宮として祀られている(一ノ谷町2-55-7、地図)。
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    治承五年(1181)閏2月、平家一門を支えた 清盛 が死去、長男の 重盛 と次男基盛は早世していたため三男の 宗盛(清盛継室の二位の尼 時子 の長男、安徳帝 を産んだ 建礼門院徳子 の同母兄)が跡を継いだ。
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    同母弟の 知盛 が棟梁を継いでいたら情勢が違った可能性もあるのだが、宗盛は続発する反乱や飢饉による混乱に対処し切れず、寿永二年(1183)7月には北陸道から迫った義仲軍に追われて都を捨て、一ノ谷を経て讃岐の屋島に本拠を移した。清盛が手塩に掛けた福原は義仲軍の手で焼き払われた。
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    そして前項で述べたように 義仲 が失脚・追討され、対立の構図は頼朝vs平家に集約された。寿永二年(1183)閏10月に備中水島で義仲軍を破った平家軍は京の奪還を目指して福原に再上陸、翌年2月に頼朝が派遣した 範頼義経 の連合軍と最初の全面衝突、一ノ谷合戦を迎えることになる。

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    左:淡路島方向から見た一ノ谷の鳥瞰 左側が塩屋口   画像をクリック→拡大表示
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    【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月4日】
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    平家は西海と山陰の軍兵数万騎を集めて摂津国と播磨国の境にある一ノ谷に布陣した。
    本日は 相国禅門(清盛)の一回忌を迎えて仏事を行う計画である。
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    ※清盛一回忌: 死没は治承五年(1181)閏2月4日なので、この一回忌は現代の三周忌を意味するらしい。
    また吾妻鏡や平家物語が書いた福原一帯の源平合戦は「一ノ谷合戦」の呼称が定着しているが、実際の激しい戦闘は大手の生田口および搦手の塩屋口と夢野口の防衛拠点で行なわれており、一ノ谷は塩屋口の一角に過ぎない事実に留意が必要。
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    福原の大輪田泊に上陸した平家が布陣したのは一ノ谷西端・鉢伏山麓の塩屋口(守将は 平忠度)から、生田川西岸の生田口(守将は知盛重衡)まで、東西約13kmのエリア。 宗盛 は大輪田泊(JR兵庫駅の南)に本陣を置いて 安徳天皇 や女官を守ると共に軍船の碇泊場とした。
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    宗盛の本陣から2kmほど北西の夢野口(鵯越の南)には 通盛教経 が率いる一万騎を配置して北の鵯越から攻撃してくる敵に備え、予備の兵力を夢野口の東1kmの雪見御所(現在の雪御所町)に置いて夢野口と生田口の双方に対応できる配置とした。
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    【吾妻鏡 同年 2月5日】
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    酉の刻(16時前後)に源氏の両将(範頼義経)は攝津国に到着、七日卯の刻(朝6時)を箭(矢)合せと定めた。
    大手を攻める大将軍は蒲冠者範頼、従うのは 小山朝政武田有義板垣兼信下川辺行平長沼宗政千葉常胤佐貫広綱畠山重忠稲毛重成 と 重朝と行重 ・ 梶原景時景季景高千葉(相馬)師常千葉(国分)胤通千葉(東)胤頼中條家長 ・ 海老名太郎 ・ 小野寺通綱 ・曽我祐信 ・ 庄司忠家と廣方 ・ 塩谷惟廣 ・ 庄家長 ・ 秩父武者行綱 ・ 安保實光 ・ 中村時経 ・ 河原高直と忠家 ・ 小代行平 ・久下重光ら、五万六千余騎。
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    搦め手の大将軍は 源九郎義経、従うのは 安田義定大内惟義山名義範 ・ 齋院次官中原親能田代信綱 ・ 大河戸廣行 ・ 土肥實平三浦義連糟屋有季 ・ 平山季重 ・ 平佐古為重 ・熊谷直實 と直家 ・ 小河祐義 ・ 山田重澄 ・ 原清益 ・ 猪俣則綱 ら、二万余騎。
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    この情報を知った平家は新三位中将資盛 ・ 小松少将有盛 ・備中守師盛 ・ 丹後守忠房 ・ 平内兵衛尉清家 ・ 恵美盛方 ら七千余騎を北方にある三草山(塩屋口から50km北、丹波路の要衝 ・地図)の西に布陣、源氏軍も山の東に三里(2km弱)を隔てて布陣した。義経は田代信綱・土肥實平らと協議して夜襲をかけたため平家軍は混乱して敗退した。
    (資盛・有盛・忠房は舟で屋島に逃亡、師盛は福原の本隊に合流)

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    右:塩屋口から一ノ谷へと続く現在の国道2号線    画像をクリック→拡大表示
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    前哨戦の三草山で資盛軍を撃破した搦手の義経軍は三木まで南下して二手に分かれた。義経は増援部隊(公称9千騎)を率いて山道を夢野口へ、土肥實平の率いる部隊は更に南下して早朝には塩屋口に到着した。これは塩屋口が狭いため大軍で押し寄せる必要がないと判断したのだと思う。当時の正確な姿は推定するしかないが、巾100mに満たない平地が500mほど続く現在の地形と大きく違わなかっただろう。
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      ※矢合せ: 合戦の決め事として最初に軍使(相互が安全を保証する)を交換し、場所と日時を取り決める。
    定刻に双方の代表者が名乗りを挙げ、味方の正当性と過去の功績などを主張し相手の不義を罵り合う。次に鏑矢を射ち合って鬨の声を挙げ、騎馬武者が進み出て矢戦→ 乱戦に突入するのが順序。このステップを踏まないと「武士の恥・卑怯者」とされた。義経が局地戦で何度も優れた実績を挙げたのは合戦の決め事を無視したのが要因の一つ、らしい。
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    「武士の恥」を重んじるか、「勝てば官軍」と割り切るか、その選択によって戦果は大きな変わる。通常の局地戦ではルールを守らない側が勝つのだが、それが最終的な勝利を招くとは限らない。真珠湾で勝っても太平洋戦争では完膚なき敗北を喫したのもその一例だ。
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    本来は憲法改定の手順を踏むべきなのを判っていながら「解釈変更の閣議決定」で誤魔化した安倍晋三と自公政権の未来は暗い、と思うよ。これ、明らかに正義じゃないもの。夫婦で国費を盗んだ事実と合わせて、いづれの日か歴史の審判を受けるだろうさ。
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    一部が平安時代末期に成立したと推定される「奥州後三年記」に拠れば、金澤柵の合戦の条に次の記述がある。
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    清原家衡 の乳母夫が櫓に立ち、大声で 八幡太郎義家 を罵った。「汝の父 頼義安倍貞任 を討伐できず、清原武貞将軍に懇請し臣下の礼を尽して貞任を討つ事ができた。今はその恩も忘れて家臣にも拘らず重恩の主君を攻める。天罰が下るだろう」と。
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    従って、少なくとも口上の交換に関しては後三年の役(1083年~)前後までは守られていた。この美風(笑)は保元の乱(1156)や平治の乱(1160)頃には乱れ始め、倶利伽羅峠の合戦(1183)では有名無実になった。平家軍は乱戦の経験が少なく、夜討ちや奇襲を:警戒する習慣に欠けていた可能性もある。
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    ちなみに、治承の兵乱で最初の本格的衝突だった石橋山合戦(1180)は豪雨の中での予期せぬ遭遇が発端だった、とも言う。また 頼朝 が挙兵した緒戦の山木合戦の場合は、100%完全な不意打ちだった。

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    須磨鳥瞰


    右:一ノ谷合戦跡 須磨浦公園の記念碑  画像をクリック→ 風景の拡大表示へ
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      【 一の谷合戦についての誤解と先入観などについて 】
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    合戦場は東南東の山陽新幹線・新神戸駅に近い生田川から、鉢伏山が海に迫る須磨浦公園西側まで約13kmの海岸沿いである。その西端が一ノ谷で、激戦があったのは事実だがそれは鵯越(ひよどりごえ)と同様に須磨~福原一帯で行われた合戦のごく一部、本来なら「塩屋口の合戦」とでも呼ぶべきだろう。
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    更に付け加えれば、一ノ谷と鵯越は9kmも離れているのだから義経 が一ノ谷背後の鵯越から奇襲」 できる筈はないし、畠山重忠 は範頼に従って東端の生田口を攻撃しているのだから、「馬の前足を担いで鵯越を下った」 筈もない。
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    2月5日に一ノ谷の北50kmの三草山(地図)で資盛軍を撃破した義経軍は三木まで南下して二手に分かれ、熊谷直實・平山季重らは塩屋口へ、義経は鵯越のある夢野口に向った。最近では地元の郷土史家が「義経は夢野口に向かう途中で更に二手に分かれ、精鋭を率いた義経が一ノ谷裏手の崖を攻め下った」と主張しているが、地元を愛する故の「まさに判官贔屓」と言わざるを得ない。平家物語も吾妻鏡も現地を確認せず伝聞をベースに記述しており、それが架空の物語 「鵯越の逆落とし」を生んだ。
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      ※三草山: 京から篠山を経て明石へ下る主要道沿い(現在の国道372号→175号)。ここに平家の荘園があり、資盛は義経が京都から須磨を目指す
    進軍ルートの三草山麓で迎撃する計画で布陣。平家物語は 義経土肥實平 に「夜討ちか明日の合戦か」と訊ね、田代信綱 が「明朝には敵の軍勢が増えるから夜襲が有利」と進言し義経も同意した」 と書いている。矢合せの約定を無視した義経が夜討ちを決行したため武装を解いて休息していた資盛軍は簡単に壊滅、一方で義経側の損害は皆無に近かった。

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    左:渚の敦盛を呼び戻す熊谷直實の像 須磨寺の庭園   画像をクリック→拡大表示
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    箭(矢)合せと定めた七日卯の刻(朝6時)、熊谷直實 親子らの塩屋口先駆けに続いて 土肥實平 らが攻め込み、木戸を開いて迎え討った守備隊の 平忠度軍と激しい白兵戦となった。この戦いでは平家側が劣勢となり、沖の軍船に逃げようとした 平教盛 が熊谷直實に討たれたのが須磨一ノ谷の浜辺、と伝わっている。
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    【平家物語 第九巻の十六 敦盛】
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    こうして一ノ谷合戦で平家は敗れ、武蔵国の住人熊谷次郎直實は「平家の公達(若者)が舟に乗るため渚に落ちて行くだろう、名のある大将軍に組めれば良いが」と思い渚に向う小道を進んでいると、練り貫きの布に鶴を刺繍した直垂に萌黄色の鎧を着け、鍬形を打った兜の緒を締め黄金造りの太刀を佩き、24本の切斑の矢を負って滋籐の弓を持ち、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて跨った一騎の武者が沖の舟を目指して海に乗り入れ五、六段(60mほど)沖で馬を泳がせているのが見えた。
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    恩賞を目指して東国から転戦している直實が、「葱を背負って歩いている鴨」の様な姿を見逃す筈がない。渚に駆け付けた直實は「逃げるのは卑怯」と呼び掛け、それに応じて引き返した武者を組み伏せて首を掻こうと兜を押し上げると年の頃なら十六・七歳か、我が子の小次郎と同年代の美しい若武者である。
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    早朝の一ノ谷合戦で小次郎が浅い傷を負っただけでも辛い思いをした直實は、「この若者を助けても合戦の帰趨が変わる筈もない」と考えて逃がそうとしたのだが...後を振り返ると、すでに 土肥實平梶原景時 ら50騎ほどの味方が迫っていた。
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    ちなみに、敦盛は 知盛 の従兄弟(父の経盛が 清盛 の弟)で、直實は頼朝挙兵直前の数年間を知盛の郎党として仕えている。敦盛とは顔見知りだった筈で、平家物語が初対面の如くに描いているのは演出だろう、と思う。

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    右:同じく、須磨寺に残る敦盛の首塚    画像をクリック→拡大表示
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    首実検を済ませた敦盛の首級は 義経 が京へ運び、他の平家の首と共に都大路を引き廻しているのだから、須磨寺に敦盛の首塚があるのは根本的に不合理なのだが、そんな事は考えず...平家物語は続く。
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    「御覧ください、何とかしようと思いましたが既に味方の軍兵が集まって来てとても助けられません。私がお討ちして後の御供養を致しましょう。」と言うと「いいから早く首を取れ」と答えた。直實は切なくて何処を刺せば良いかも判らず前後不覚の有様だったが、そうもしておられず泣く泣く首を斬った。
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    首を包もうと鎧直垂を解いて見ると錦の袋に入れた笛が腰に挿してあった。「東国勢数万騎の中でも戦場に笛を携える者はいないだろう、風流なものだ。」と持ち帰って大将軍の御覧に入れたところ、見る人は皆涙を流した。後で調べると平修理大夫経盛の息子で十七歳の大夫敦盛だった。
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    これ以後の直實には仏心が生まれ、出家する気持ちが強くなった。件の笛の銘は小枝、叔父の忠盛(清盛と経盛の父だから実際には祖父)が笛の名手だったため鳥羽上皇が下賜した笛を経盛が相伝し、笛の名手敦盛が持っていたらしい。
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      ※平経盛: 清盛 の異母弟(生母は村上源氏・源信雅娘)で歌人としても名高い。平家一門と共に都落ちし、一ノ谷で3人の息子(経正・経俊・敦盛)を失い、
    当人も壇ノ浦で異母弟の 教盛 と共に入水した。その下の異母弟 頼盛(生母は池禅尼)は京に残り、母が平治の乱に敗れた頼朝 の助命に尽力した関係から鎌倉で厚遇され、所領の荘園33ヶ所の返還を受けている。
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    そもそも、恩賞目当てに目をギラギラさせて獲物を狙う東国武者が組み伏せた敵の若者に温情を掛けるなど、あり得ない。熊谷直實 が出家して仏門に入ったのは史実だが、それは敦盛を殺した寿永三年(1184)2月の一ノ谷合戦から8年半後の建久三年(1192)で、直接の関係があるとは言い難い。下に書いた様に、出家の契機は美しくも何ともない些細な所領の境界争いが発端だった、と伝わる。
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    また平家物語は「後に迫った土肥實平と梶原景時」と書いている。熊谷直實・土肥實平の部隊は共に塩屋口で戦っており、梶原親子は早朝の塩屋口攻撃を担当、先駆けした末に深入りし辛うじて生き延びている。平家物語が描いた「梶原の二度駆け」で、平家物語の通りに読めば前線を突破して西に進み、塩屋口を突破して東に進んだ土肥實平部隊と合流したことになる。
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      ※梶原の二度駆け: 梶原景時 親子は500余騎で生田の森の逆茂木を越え攻め込んだ。次男の 平次景高 が前に進み過ぎ、使者を送って撤退させた。
    景高は暫く留まった後に再び突撃。景時は「景高を討たすな」と叫び、嫡子 景季 と三男景家と共に敵陣を駆け回って奮戦してから引き上げた。しかし今度は景季の姿が見えず、郎党も「深入りし過ぎたのかも」と言うため「先駆けをするのも子供のためだ。景季を討たせて自分が生き残っても意味はない、引き返すぞ。」と、大声で名乗りつつ敵陣に突っ込んだ。
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    取り囲む敵を斬り伏せて探し回ると景季は馬を射られ、崖を背に郎党二人を従えて五人の敵兵と戦っていた。親子は力を合わせて三人を討ち取り二人を負傷させて危機を逃れ一緒に陣に戻った。「梶原の二度駆け」である。(平家物語 巻九の十一 「二度の懸け」)

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    右:直實と所領を争った久下直光の館跡    画像をクリック→詳細ページへ
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      【吾妻鏡 建久三年(1192) 11月26日】
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    所領の境界について、熊谷直實久下直光頼朝 の前で決裁を仰いだ。直實は歴戦の猛者だが弁舌の才に乏しく主張が曖昧なので頼朝から再三の質問を受けた。
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    直實は「これは 梶原景時 が久下直光を贔屓して事前に打ち合わせたため私だけが質問を受けるのだろう。どうせ直光に有利な裁決が出るのだから証拠書類も何も無駄だ。」と怒鳴って文書を投げ捨て、西の侍所に退去して髷を切り落とし南門から走り出て自宅にも帰らず行方不明になった。
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    頼朝は非常に驚き、人を送って行く手を遮り出家を止めさせよと命じた。人の話では西に馬を走らせた、京を目指したかも知れない、と。直光は直實の義理の叔父で、直實が叔父の代理の大番役で上洛していた際、同郷の朋輩が代官を理由に馬鹿にした。直實はその鬱憤を晴らすため故郷に戻らず 平知盛 に仕えて年を過ごし、関東に戻ってからは石橋山で平家軍に加わって戦い、後に源氏に仕えて勲功を挙げた。「直光の代官」という制約を放棄して知盛の家人になって以来の因縁が境界争いの遠因である。
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    幼い頃に両親を亡くした直實は元々熊谷郷を領有していた外叔父の直光に養われ、成人した後に頼朝御家人として挙げた武勲の恩賞に、直光が所有する熊谷郷の一部または隣接する新領を得たらしい。直光から見た境界争いは「一人立ちするまで直實に預けていた熊谷郷を奪われた」意味合いだった、と。
    直實がかなり意固地で思い込みの激しい人物だったのは確かで、吾妻鏡はもう一つ、そんなエピソードを伝えている。

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    左:熊谷直實の菩提寺 蓮生山熊谷寺    画像をクリック→拡大表示
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    【吾妻鏡 文治三年(1187) 8月4日】
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    今年は鶴岡八幡宮で初めて放生会を行うため奉納する流鏑馬の射手と的立て役を割り当てた。上手の的を立てる役を 熊谷次郎直實 に命じたところ直實は怒り、「御家人は皆同輩なのに射手が騎馬で的立て役が徒歩とは優劣を付けているものだ、命令されても私は従えない」と拒んだ。頼朝は重ねて「優劣ではなく分に応じているのだ。そもそも新日吉社祭礼には領主の家臣が的を立てるのだから低い役目ではない、指示に従え」と説得したのに直實が拒否し続けたため、罪科として所領の一部を没収した。
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    直實は出奔した翌・建久四年頃に深く帰依した 法然上人 の弟子となって出家した。法力房蓮生と名乗って各地に多くの寺院を建立し、建久六年(1195)には鎌倉を訪れて 頼朝 と面談している。老齢になって本領の熊谷郷に戻り建永二年(1207)9月に66歳で死没、最後の数年を過ごした庵の跡が浄土宗の 熊谷寺(公式サイト)として現在に伝わっている。出家した武士と言えば 文覚西行 だが、直實には文覚の持つ複雑な側面や西行の鋭い感性も見られない。法然の宗教的理念も理解できずに念仏宗に突き進んだ単細胞、と評したら失礼だが。
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    残念ながら、この熊谷寺は墓参しようと思っても山門が閉鎖されてて何時も入れないんだよね。宗教上の理由で不特定多数の観光客を拒否しているのなら良いけど、えてして「対応が面倒だから締め出す」のが一般的な例だ。熊谷寺(浄土宗)は「念仏道場」を称しているが本音は同様、だと思う。いつも開放している東竹院(曹洞宗)の方が偉い!
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     【吾妻鏡 建久六年(1195) 8月10日】
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    熊谷次郎直實法師が京都から参向した。かつての武士を辞してからは一心に仏の道を歩んでいる。建久三年の頼朝上洛には思う処があって参向せず、今回は涙で再会を喜び、御前で仏の教えと共に兵法や合戦の故実などを説いた。姿は僧体ではあるが心は宗教心と世俗が同居していると語って周囲の者を感嘆させた。この日のうちに熊谷郷へ下向すると言うので頼朝は引き止めたが、後日また参向すると称して退出した。

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    右:話を戻して、生田川河口付近から激戦の生田口方向を  画像をクリック→拡大表示
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    須磨の東側の戦線では 範頼 の率いる源氏の主力(5万6千騎)が生田口で 知盛重衡 率いる守備軍と激戦を繰り広げた。梶原景時 親子と 畠山重忠 らが先陣として生田川に構築した壕と逆茂木で固めた防衛線に対して戦況を押し気味に進めた。jまた夢野口では甲斐源氏の 安田義定 軍が一進一退の戦闘を続けた。
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    【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月7日】
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    寅の刻(16時前後)に 義経 は精鋭70余騎を選び一ノ谷背後の山(鵯越)に進出、熊谷直實・平山季重らは卯の刻(朝6時前後)に一ノ谷西の海辺から名乗りを挙げて攻撃を開始した。
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    これに対して平家側は伊勢平氏の藤原景綱・越中盛次・上総忠光・悪七兵衛藤原景清 らは木戸口を開いて迎え討ち、熊谷直家が負傷し季重の郎従が落命した。
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    その後に範頼と足利・秩父・三浦・鎌倉の武士が突撃して混戦となった。義経が 三浦(佐原)義連 らを引き連れて鵯越から急襲したため平家軍は混乱に陥り、ある者は騎馬で逃亡・ある者は舟で四国に逃れた。
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    三位通盛は湊河で源三俊綱に討ち取られ、薩摩守忠度 ・ 若狭守経俊 ・ 武蔵守知章 ・ 敦盛 ・ 業盛 ・ 越中前司盛俊ら七人は、範頼・義経らの軍勢に討ち取られた。但馬前司経正 ・ 能登守教経 ・ 備中守師盛は遠江守 安田義定 の部隊に討ち取られた。
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    塩屋口を突破した 土肥實平 軍と、別行動をとった義経が率いる増援部隊(公称9千騎)が夢野口攻撃に加わって戦力差が大きくなったため、守将の通盛と教経は防衛線の維持が困難になった。夢野口が危ないと見た生田口の副将 重衡 が応援に向かい、残った 知盛軍は総攻撃を開始した 範頼 の軍勢を支え切れず、生田口が突破された。西の塩屋口と東の生田口に続いて北の夢野口も突破され、平家軍は東・西・北の三方から挟撃される形になった。
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    戦意を失った平家の兵は先を争って唯一敵のいない海に逃げて溺死者多数を出し、総大将の 宗盛 は残存兵力を纏め、辛うじて船で屋島に逃れた。

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    左:岡部忠澄の本領と忠度遺髪を葬った清心寺  画像をクリック→忠度と岡部忠澄の項へ
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    【平家一門の著名な戦死者】
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    忠度(清盛の異母弟)、清房(清盛の八男)、清貞(清盛の養子)、経正(清盛の異母弟経盛の子)、経俊(経正の弟)、敦盛(経俊の弟)、知章(知盛の長男)、通盛(清盛の異母弟教盛の嫡男)、教経(通盛の弟、平家物語は壇ノ浦で入水としている) 、業盛(教経の弟)、盛俊(清盛側近盛国の子) らが討ち死に。その他に重衡 (清盛の五男)が捕虜となった。後白河法皇 は重衡に命じて手紙を書かせ、屋島に逃れた 宗盛 に三種の神器と重衡の交換を提案して拒絶された。
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    清盛の異母弟 薩摩守忠度 は乱戦の中で 岡部六弥太忠澄 と組み合って討ち取ろうとしたが、忠澄の郎党に右腕を斬り落とされた。剛力で知られた忠度は左手だけで忠澄を投げ飛ばしたが、奮戦もむなしく討ち取られた。
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    神戸の長田区には忠度の右腕を葬った腕塚神社(別窓画像地図)が、少し南の地方裁判所には亡骸を葬った忠度塚(別窓画像地図)がある。 更に同じ長田区には別の腕塚 (別窓画像地図 と 胴塚(別窓画像地図 が、もう一ヶ所づつある。また、平家の滅亡後に故郷の岡部郷に凱旋した忠澄は所領の中で最も景色の良い地に五輪塔を建てて忠度の菩提を弔った。これが深谷市にある清心寺で、少し西の普済寺が忠澄の館跡、その近くには岡部忠澄一族の墓所や土塁などが残っている。
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    都を引き回された忠度の首を何処に葬ったかは不明だが、首級と腕と胴と遺髪は別の場所に葬られた。こんな例も実に珍しい、と思う。

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    右:清盛の五男 三位中将重衡の絵像  (柏原市の安福寺収蔵)   画像をクリック→拡大表示
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      【平家物語 第十巻 八島の院宣 より】
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    後白河法皇 の使者として蔵人定長が拘留中の 重衡 に意向を伝えるため六條堀河邸に入った。「平家一門に申し入れて三種の神器を朝廷に返却すれば一門への合流を許す」 と。重衡は 「重宝の神器を重衡の命と交換しようとは棟梁の 宗盛 も一門の者も承諾するはずはないが、院宣に対して何もせず返すのは憚られる、伝えるだけは致しましょう」と答えた。重衡の使者・右衛門尉重国が院宣を携えて屋島に向った。院宣の内容を要約すると...
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    安徳帝 は都を離れ三種の神器は南海西海に遷って数年を経ている。これは朝廷の嘆きであり国を滅ぼす元にもなる。東大寺を焼いた逆臣の重衡は頼朝の申請に沿い死罪に処すべきだが、同族と離れているのも哀れだから、三種の神器を返却すれば罪を許すべきと考える。   元暦元年二月十四日」
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    捕虜になった重衡は鎌倉に送られて 頼朝 と面談し、堂々とした態度が感銘を与えた。頼朝は助命も考慮したが、治承四年12月(1181年1月)に重衡が指揮する平家軍が南都堂塔の大部分を焼き払い、ここで多くの死者を出した興福寺と東大寺が強硬に身柄の引き渡しを要求。平家一門は元暦二年(1185)3月に壇ノ浦で滅亡したが、南都衆徒との対立を避けたい頼朝は同年6月に引渡しに応じた。安福寺本尊の阿弥陀如来像は木津川河原で斬首された重衡が最後に拝んだ引導仏と伝わる。
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    【平家の敗因は何だったのか。もちろん戦力差もあったが、その他に】
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    1.下に記載した「後白河の休戦命令」を守ったこと。宗盛は合戦の後に後白河法皇に「法皇の命令に従ったら源氏に襲われ多数の一門が殺された」と
    抗議している。相変わらずの後白河の策略を見抜けず、加えて 義経 が「矢合せの約定」を守るような指揮官ではなかった事も平家の不運だった。
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    2.防衛拠点の選択ミス。福原を守るには源氏の攻撃が想定される数ヶ所への兵力分散を強いられた。
    攻める源氏側は劣勢になっても退却して体勢を立て直せば済むが、福原全体が包囲されている平家側は局地戦で勝っても敵を追撃して防衛拠点から離れる事はできない。劣勢になって一ヶ所でも突破されたら、他の部隊も背後を挟撃されるリスクが発生するし、実際にその通りになった。規模は異なるが後の鎌倉防衛戦と同じ。一ノ谷で戦力を失う前に地の利に配慮した総力戦を挑むべきだった。

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    左:天子摂関御影に載っている宗盛の絵像    画像をクリック→拡大表示
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    「天子摂関御影」は鎌倉時代中期以降に完成した肖像集。もちろん実物を見て描いたものではないから、例えば承久の乱直後に描かれた後鳥羽上皇の肖像などに較べると資料的価値は乏しい。
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    宗盛 の人柄に関しては芳しくない挿話が多く伝わっている。壇ノ浦では子息の清宗と共に入水後に死に切れず泳ぎ回って捕虜となり、鎌倉に連行されてからも卑屈な態度に終始して「これでも 清盛 の子か」と嘲笑された、と伝わっている。
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    死期を迎えた清盛はなぜ「天下の事、偏に前幕下の最なり(すべて宗盛に任せる)。異論あるべからず」と言い残したのだろうか。知勇に優れた傑物と伝わる四男の 知盛 や、鎌倉に連行されても落ち着いた態度を崩さず、頼朝に助命まで検討させた五男の 重衡 を選ばなかったのは何故か、やや気になる部分ではある。
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    時代は緊迫しており、危機を乗り切れる素質の有無で後継を選んでいたら平家の命運も変わっていたか知れなかったのに...清盛の晩年も秀吉と同様に正常な判断力を失っていたのかも。
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    ちなみに、早世した長男 重盛の生母はかなり身分の低い正六位高階基章の娘だったが、宗盛(1147年誕生)・知盛(1152年誕生)・重衡(1157年誕生)は三人とも 平時子(二位尼、堂上平氏の中級貴族・平時信の娘)が産んでいる。
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      【吾妻鏡 寿永三年(1184) 2月20日】  宗盛後白河に申し入れたクレーム文書
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      去る15日に使者を四国(屋島)に派遣し勅定の意向(安徳帝と三種の神器の返還)を宗盛に伝えた。その返書が(院に)届き、閲覧に及んだ。曰く、
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    15日の書状は本日(21日)に到着し、蔵人右衛門佐の書状と共に内容を理解しました。安徳帝 と国母(建礼門院)の京還御の件も承りました。去年の7月西海に向った際に還御せよとの院宣を受け、備中国下津井から船出しましたが洛中不穏の噂があるため延期し、去年の10月に鎮西(九州)を出御し還御に向ったところ、閏10月1日に院宣を称した 義仲が千艘の軍船を率いて備中水島で安徳帝の還御を妨害しました。これは兵を以って義仲軍を打ち破り、讃岐国屋島に着御して現在に至っております。
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    さて、先月26日に再び出航して摂津(一ノ谷)に遷幸し、院宣に従って京都近くまで行幸しました。去る4日は亡父清盛の三回忌でしたが法事のために上陸する事も出来ずに輪田の沿岸を巡っていると去る六日に修理権大夫の書状が届き、「和平交渉の使者として8日に京を出て下向する。安徳帝の勅答を頂いて京に戻るまでは合戦をしないよう関東の武者には伝えてあるから、平家軍にもその旨を徹底させよ。」との事でした。
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    この仰せを守り、元より戦う意思もないので院使者の到着を待っていると7日になって関東の軍勢が御座船の停泊する一ノ谷に攻め込みました。我々が院宣を守って撤退したのに関東の軍勢は勝ちに乗って攻め掛かり、多くの将兵が殺されました。これは何事なのでしょうか。関東の軍には院宣を待てと言わなかったのか、あるいは関東の武士がそれを承諾しなかったのか、あるいは平家を油断させるため策略を巡らしたのでしょうか。

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    右:清盛の四男 権中納言従二位 知盛の絵像    画像をクリック→拡大表示
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    優柔不断の傾向があった兄の重盛・宗盛に較べて優れた資質があるため清盛は大きな期待を懸けたらしい。九条兼実 が日記の玉葉に「入道相国(清盛)の最も愛でた息子」と書いたほどだが、後継はなぜか宗盛だった。絵像は赤間無神宮収蔵、狩野元信の筆と伝わるが確認には至っていない。
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      ※狩野元信: 画壇を席巻した狩野派初代正信の子で二代目を継承し1500年代前半(室町時代)に活躍した。
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    【それはそれとして、吾妻鏡は更に宗盛書状の内容を続ける】
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    京に向うたびに関東の武士が妨害するのではとても還御は実現せず、それは平家の責任ではありません。
    和平は重要ですが双方に対して公平でなければ実現する筈もありません、この事態を報告するより先に院宣で還御と神器の返還を命じるのは理屈に合わない事であります。
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    長い間忠義を尽くし御恩を得てきたのに不忠の疑いや叛徒の扱いを受けるのは何事でしょうか。西国に向ったのは義仲入洛に驚いたからではなく、法皇が平家を捨てて比叡山に逃げたため結果として反逆者扱いされたに過ぎません。
    更に源氏は院宣を称して西国を侵し度々の合戦を仕掛けたため、我々は防衛に当っただけです。
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    そもそも平家も源氏も互いに意趣はなく、平治の乱で信頼卿が叛いた時も院宣によって仲間の義朝らを追討したのも自然の成り行きで、宣旨・院宣に従ったのは怨恨ではないため合戦する理由もありません。長期間の合戦で世情も荒れ飢饉も深刻になり、安徳帝還御の行く手を源氏が妨げる状態が二年も続いています。今は早く合戦を停止して善政を行い、和平と還御について公平な院宣を願います。 二月二十三日
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    返書の内容は平家物語と吾妻鏡の間に大きな差異は見られない。宗盛の返事は少し愚痴っぽいし政治家としては正直に過ぎるけれど、言い分は一応の理に適っている。後白河宗盛 宛に「取り敢えずの停戦を命じた」のは幾つかの伝聞情報を総合すると事実で、平家側は6日以降の数日間は停戦と理解し概ね武装解除(つまり甲冑を脱ぎ弓の弦を外した)状態で源氏の攻撃を受けたらしい。その割には、良く戦った、と思う。
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    鎌倉に留まっている 頼朝 の関与は物理的にあり得ないし、義経範頼 にそれだけの策を弄する能力があるとも思えない。計画したのは後白河だろう。
    後白河後鳥羽後醍醐...「後」の付く天皇・上皇は歴史を歪めた人物が多いようで(笑)。まあ必ずしも「後」だけじゃないけどね。
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    いずれにしろ指揮官と侍大将クラスの多くを失った平家軍の戦力は著しく低下し、一族の命運は一ノ谷合戦で決まったと言える。

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    左:教盛の二男 従五位下 能登守教経の絵像 (赤間神宮収蔵)   画像