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     腐敗を繰り返し国費を盗み続けた総理&自公。行政府の資格があるか?
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    議事録も 残さない安倍内閣国政の怠慢に追従する 御用学者 が感染拡大を招いた。医療は逼迫してない、は明白な嘘
    特措法改訂は コロナ収束後に検討 は無能で無策!卑劣な安倍が 国会を開きたくない だけ、国費を盗むのは早い泥棒だ。
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    沖縄の医療体制を非難GOTOで観光客を送り込み米軍の感染を無視したのは誰だ?
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    資質に欠ける菅次期総理に浮上邪魔になる相手は上から目線で無視する 典型的ないじめ体質性格が醜悪すぎる
    沖縄の翁長前知事を侮辱 し続け、東京新聞記者の質問は無視 し続け、国会では 質問者を小馬鹿にした答弁 に終始した。
    「賢さ」 と 「ズル賢さ」を混同してるクズ男だ。「相手が強いか弱いか」 だけが基準で、「正義とは何か」 なんて考えていない。

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    #公明支持やめます運動 を続けよう!公明党は 臨時国会招集は不要 と主張する売国政党。
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    公明党=創価学会=カルト。選挙では 学会婦人部が総動員。憲法は明確に 宗教団体の特権と権力行使を禁止 している。
    GO TO計画の浪費、公明党は不正委託費2千億円の見直し 拒否!更に 政権批判を聞きたくないから臨時国会は不要 と。

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    創価学会とゼネコン各社教団施設建設を介して癒着し、公明党が国交大臣の椅子を独占
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    公明党は国交行政の裏で 学会に利益還元 してる。立法権と行政権を利用し、国費で安倍と乾杯した奴 が庶民の味方?
    鹿児島知事選で原発反対を偽装した三反園知事強く推薦した公明党こうもり党 )は、全員が嘘つき狂信者集団だ。

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    仮病森友昭恵加計前夜祭捏造検察私物化愚鈍機密費国費泥棒
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    血税で泥棒(自公連立)を飼っているのと同じ。記録を改竄し、隠蔽し、支援者の犯罪をモミ消し。国費を食い荒らしている。
    森友の赤文字 は 籠池氏の講演全録。安倍夫妻 関与の証言赤木事務官の遺書内容と 完全に一致 する。8月 26日 14時

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    首相補佐官 #和泉洋人(67歳)、厚労省大臣官房審議官 #大坪寛子(53歳)。安倍が重用している側近や補佐官はこんな奴らが揃っている!
    公費で出張中にコネクティング・ルームで公認セックスなんて理解できん。こいつらの交尾シーン、想像するのも嫌だ。 文春オンライン を参考に。
    身内 (セフレ)血税を使わせ 権限まで与える なんて 鯛は頭から腐る を絵に描いたような世界だ。 腐ったリンゴは 樽のリンゴを全て腐らせる
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    従来は http://23.pro.tok2.com/~freehand2/frame-000.html、今後はhttp://kamakura-history.holy.jp/index-aisatsu.html
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    現在は新旧両方にアクセス可能ですが 旧は障害が多発しているため2020年8月でレンタル・サーバーとの契約を打ち切ります。
    勝手ですが、早めのブックマーク変更と共に 変わらぬご愛顧と叱咤激励をお願いします。  1月 25日 サイト管理人 拝




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    〜 滑川橋から東勝寺跡へ。元弘三年(1333)5月に北條一族が東勝寺で自刃、鎌倉幕府が150年の歴史を閉じた。 〜
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            「鎌倉時代を歩く 四」は、まだ中身の乏しい不当表示・羊頭狗肉(笑)である事を最初に謝罪しておきます。
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    宝治合戦(1246年)で三浦氏が滅亡し北條氏の独裁体制が確立してから新田義貞軍が幕府を倒すまでの100年間に起きた出来事...北條一族の相次ぐ内紛、日蓮法華宗の興隆、モンゴル軍による文永・弘安の役などが主なテーマになりますが、今のところ進展の目処は立っていません。取り敢えずは日蓮さんの足跡や足利高氏・新田義貞の鎌倉攻め関連の資料を「弐」や「参」から移す作業から始めて、博多周辺に残る元寇攻防の跡を訪ねられたら素晴らしい、などと夢想中です。まぁ完成までに数年を費やしそうですが、たまに覗いてくれると励みになります。

               その壱.....新田荘 その成立から義貞挙兵までの歴史
               その弐.....討幕運動の背景と後醍醐天皇の画策
               その参.....義貞の挙兵、小手指ヶ原・久米川・分倍河原・関戸の合戦
               その四.....洲崎の合戦・極楽寺坂の合戦を経て北條氏滅亡

               その伍.....
               その六.....
               その七.....
               その八.....
               その九.....
               その拾.....
               その拾壱 ...

    レジャースポットとして訪れる人は多いけれど、平安時代の末期から鎌倉時代の初めにかけて伊豆の各地が中世日本史を彩る舞台になった事は余り詳しく知られていない。この紀行では1160年から1333年の間に残された歴史の跡、主として源氏の史跡を1ヶ所づつ自分の足で訪ね歩いている。平治の乱で平家に敗れた源義朝の子・頼朝が韮山の蛭ヶ小島に流されてから、鎌倉幕府が新田義貞によって滅ぼされるまでの約170年間の足跡。
    史跡以外のちょっとローカルな観光スポットや自然の香りや立ち寄り温泉などの情報も織り混ぜ、デジカメによる画像も少しづつ増やそうと思っている。
       ちょっと固い話、 平安から鎌倉の時代背景 も参考に。

     


     その壱 上野国 新田荘 その成立から義貞挙兵までの変遷 

     
    臣籍に降下して最初に源姓を名乗ったのが 経基王(源経基)で、その嫡男 満仲 は摂津国多田荘(現在の兵庫県川西市)に土着して勢力を伸ばし、強力な武士団を作り上げた。長男の 頼光(坂田金時の主人)は攝津源氏の祖となって 三位頼政 の系統に繋がり、二男 頼親 は大和源氏の祖となって残念ながらやや無名な石川氏の祖となり、三男 頼信 は河内源氏の祖となって 頼朝 の系と 足利義康 の系と 新田義重 の系と 佐竹隆義 の系(常陸源氏)および 武田信義 の系(甲斐源氏)に多くの子孫を残し、最も繁栄した。
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    頼朝が開いた鎌倉武家政権での源氏は建保七年(1219)1月の三代将軍 実朝 暗殺で血脈が途絶えたが、114年後の元弘三年(1333)には源氏から幕府の実権を奪った北條一族が頼朝と同じ河内源氏の末裔である 新田義貞足利高氏(尊氏) に滅ぼされるという皮肉な運命を辿ることになる。
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    下野国(≒現在の栃木県)と源氏の接点は経基王の息子または孫と伝わる源満頼が国司に任じた(960年前後)が最初で、以後は多少の変更はあるが 満仲頼信頼義義家為義義朝 など河内源氏の棟梁が着任する、謂わば既得権の扱いを受けていたらしい。
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    義家の三男 義国 は父から譲られた足利の荒地を開発して鳥羽上皇が建てた 安楽寿院(wiki)に寄進し、保延三年(1137)に八条院領(wiki)足利荘として立荘したのだが...義国は京都での乱暴狼藉が原因で常陸(茨城県)に下向し、更に叔父 義光 との合戦沙汰で勅勘を受け、久安六年(1150)に下野国足利への逃亡を余儀なくされた。この頃の足利は 藤原秀郷 の子孫である藤姓足利氏と源姓足利氏の義国が共存する形だったが義国の圧力を受けた藤姓足利氏が徐々に駆逐され、治承の兵乱(1180年〜)平家の衰退によって源姓足利氏が隆盛する時代が訪れる。

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    青蓮寺 左:義国の館跡 青蓮寺と義国神社(義国夫妻の墓)  画像をクリック→詳細ページへ
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    義国は支配権が概ね安定した足利荘の経営を次男の 義康(生母は村上源氏の源有房娘)に委ね、長男の 義重(義康の異母兄、生母は上野介藤原敦基の娘)と共に利根川と渡良瀬川に挟まれた広大な荒地の開拓に乗り出した。天仁元年(1108)の浅間山噴火の影響で荒廃し半ば耕作放棄となっていた土地の再開発である。
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    渡良瀬川の南東部を支配する藤姓足利氏を牽制しつつ、利根川の南岸を支配する秩父氏嫡流と結んだ帯刀先生 源義賢 の小競り合いを繰り返しながら、義重は相模国に拠点を持つ 義朝 の長男 悪源太義平 に娘の祥寿姫を嫁がせて連携を深めていく。開発した19郷を 金剛心院(wiki)に寄進して新田荘が正式に立荘したのは保元の乱の翌・二年(1157)、久寿二年(1155)に没した義国に代わって義重が下司職に任じられた。
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    荒っぽい性格のため父の義家が後継候補から外したと伝わる義国、勢力の維持拡大や荘園運営などには優れた才能を発揮する興味深い実務的な人物だったらしい。
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    詳細な記録はないが、保元三年(1158)前後に義重は渡良瀬川を強行渡河して藤姓足利氏を攻め(秩父足利合戦)、更に所領侵略を続けたため藤姓足利氏当主の 足利俊綱 は対抗措置として平家への傾斜を深めた。元々は源氏が上位の預所、藤姓足利氏が現地を管理する下司職として利益を分け合っていた存在だったのに、源平の対立は足利の平穏も容認しない。

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    水路と水源 右:新田荘 扇状地の水路と水源と郷の名称    画像をクリック→拡大表示
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    新田荘の北北西20kmには赤城山(1828m)・北東30kmには地蔵岳(1275m)があり南に向って下る扇状地を形成しているため、標高60m前後を中心に流れる多くの地下水脈が灌漑に利用された。豊富な水源は最盛期には56郷を数えた新田荘の繁栄の基礎だったと言える。
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    足利から新田に移った 義国 の菩提寺は岩松山義国院青蓮寺(しょうれんじ)で宗派は時宗、義国はこの一帯に館を建て、敷地に善光寺様式の阿弥陀三尊像を本尊とする堂を創建したのが始まり、とされる。元々は祖父 頼義 の守り本尊で、八幡太郎義家 から義国に伝わった像である、と。
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    義国 から続く二代 義重 と三代 義兼 もここに住み、元久三年(1206)に義兼が没した後は遺言書に従って後家の新田尼が相続した。尼は幕府に申請して貞応三年(1224)に館と岩松郷を孫の時兼に譲り、この時から分家した岩松氏が発祥、当主時兼は嘉禄二年(1226)に岩松郷地頭職に任じている。
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    【 三代将軍実朝が発行した下文 】  発行の日付は 建保三年(1215)3月22日
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    「源時兼(岩松時兼)を地頭職に任ずる件」  田島郷・村田郷・高嶋郷・成墓郷・二児塚郷・上堀口郷・千歳郷・藪塚郷・田部賀井郷・小島郷・米沢郷・上今井郷の郷々は蔵人義兼後家の申請通り時兼をその職に任ずる。年貢などの賦役については従来通りに処理すべき旨を申し下す。
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      ※時宗: 同じ呼称だが鎌倉幕府八代執権の 北條時宗 とは全く別の、一遍上人 を開祖とする浄土教の一宗派である「じしゅう」。総本山は箱根駅伝の
    ルートにあり、実況には「遊行寺の坂」として必ず名前が出る 藤澤山遊行寺(公式サイト)。徒歩圏内の 白幡神社(別窓)には何度も行ったのに、まだ立ち寄っていないのが心残りだ。
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      ※阿弥陀三尊仏: 善光寺様式の三尊像は全国に点在している。詳細は 甲斐善光寺と飯田の元善光(別窓)参照されたし。
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      ※新田尼: 新田義兼の娘で、最初は足利氏棟梁の 義兼(新田義兼とは同名異人)の庶長子 義純 に嫁した。義純は元久二年(1205)に追討を受けた
    畠山重忠 の名跡を継ぐ名目で重忠の後家(北條時政 の娘)を正妻に迎えることになる。
    理不尽に正妻の座を奪われた新田義兼の娘は離縁になり、二人の息子(時兼と時明)を連れて新田に戻った。義兼夫妻はこの孫を溺愛して岩松郷をはじめ多くの土地を分与したため宗家の所領は著しく減少した。
    こうして足利氏と北條氏の絆は更に深まり、一方では新田氏・特に岩松氏の系に足利や北條に対する敵意の伏線が芽生え始めた、と思う。
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      ※畠山の名跡: 武蔵国の実質支配を目指す北條義時 の戦略で、武蔵国留守所総検校職の地位にあった畠山重忠の権威を継承したかったのだろう。
    竹馬の友と言いながら大軍を動員して畠山一族を殺戮し、その後には「冤罪を企んだ」として討伐に加わった稲毛氏・榛谷氏(共に畠山の同族で武蔵国の実力者)を滅ぼした。更に冤罪の筈の畠山所領は側近で分配...「名跡を残したい」は底の見える猿芝居だ。
    畠山重忠滅亡の経緯と遺跡は二俣川の合戦(別窓)に詳細を記述してある。
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      青蓮寺の住所は太田市岩松町609(地図)、無料駐車場あり。 拝観は無料、畑の中にある義国神社を見落とさないよう注意。

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    空也上人 左:一遍が師と仰いだ浄土教の先駆者 空也上人の像    画像をクリック→拡大表示
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    右画像は 重要文化財の清盛像(別窓)も収蔵する 六波羅蜜寺(公式サイト)収蔵の重要文化財の 空也上人(wiki)像。
    運慶 の長男康勝による鎌倉初期の作で高さは約118cm、宝物館(600円)で拝観できる。
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    首に鉦を提げ右手に撞木、左手には鹿角を付けた杖、口から出ている六体は空也上人が唱える念仏「南・無・阿・弥・陀・仏」が小さな阿弥陀仏となって現れたという伝承を示している。藤沢の遊行寺宝物館も六波羅蜜寺の像を模した像(室町時代の作・高さ48cm)を収蔵している(拝観は400円)。
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    岩松青蓮寺(開祖は 鑑真、wiki)の開山和尚は律宗の僧源祐、元は400mほど東(義国夫妻の墓がある義国神社の近く)にあり、由良成繁が岩松館の場所に移したらしい。山門横には小さな歴史公園があり、建設に伴う発掘調査で多くの掘立柱など館があった痕跡が発見されている。寺伝は 「地頭に任じた岩松時兼の孫・新田政経が義国の法灯を伝承し岩松郷に一宇を建立、建治年間(1275〜1277)に 一遍上人 に帰依して時宗に改めた」 としている。
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      ※由良成繁: 先祖は新田庶流岩松氏に代々仕えた横瀬氏。享禄元年(1528)に岩松氏に離反して主人を追放し、
    金山城(wiki)を奪って関東管領上杉氏→ 後北条氏→ 上杉謙信→ 後北条氏と主家を変えつつ北関東に勢力を保った。権力欲か、造反有理か。桐生氏を滅ぼした後は金山城を嫡子の国繁に譲り桐生城(柄杓山城、地図) に隠居、善政を敷いたと伝わる。彼が居城の近くに遷した桐生青蓮寺(公式サイト、地図)および約2km上流の桐生城(柄杓山城)後の位置も参考に。
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      ※一遍上人: 文永八年(1271・32歳頃)から善光寺などで修行を重ねた一遍は建治二年(1276)前後に各地で布教を始め、弘安三年(1280)には
    奥州を含む東国を巡回して布教活動を重ねた。弘安五年(1282)には鎌倉入りを計画したが、宗教上の混乱を警戒した幕府が許さず、時衆(時宗の信者)と共に信濃から越後へ向かった。
    時宗の伝える逸話に拠れば、一遍は佐渡に流される途中の 日蓮 と面談し、宗教人として歩む道の違いを理解しつつ存在を認め合ったと伝わる。日蓮宗は全般に上から目線だから一遍上人が屈服したなどと言ってるらしい。
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    当時の鎌倉仏教の主流は武家の精神的支柱として幕府が保護した臨済宗と、政権に協力しながら貧民救済に尽力した忍性の率いる律宗(総本山は唐招提寺)で、勢力を伸ばし始めた時宗・法華宗・浄土宗・浄土真宗・曹洞宗などが絡み合う混沌とした状況だった。
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    創建当初の青蓮寺本尊は善光寺様式の阿弥陀三尊仏。新田荘を制圧し更に天正元年(1573)に桐生氏を滅ぼした太田金山城主の由良成繁は同三年に青蓮寺を桐生に移築し、同じ時宗の 仏守山義国院青蓮寺(公式サイト)を建立した。桐生青蓮寺の寺伝では、移築すると共に岩松青蓮寺にあった 頼義の念持仏である阿弥陀三尊(八幡太郎義家 を介して義国に伝わった)も遷し祀った、とされる。これは秋の彼岸中日の10時〜15時のみ開帳される秘仏で、中央の阿弥陀如来は台座を含めて44.6cm、左右に約33cmの勢至菩薩と観音菩薩を従えている。
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      ※善光寺様式: 画像と詳細は甲斐善光寺(別窓)で。本家本元の信濃善光寺本尊は永久に開帳しない絶対秘仏、前立仏でさえ七年毎の開帳である。
      ※桐生に移築: 新田岩松の青蓮寺はその後に改めて建立されたらしい。現在の本尊は何か、次に訪問した際に聞いてみようかと思っている。

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    冠稲荷神社 右:義国が建立したと伝わる冠(かんむり)稲荷神社    画像をクリック→詳細ページへ
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    冠稲荷神社(公式サイト)は創建が奈良時代まで遡る古社で、天治二年(1125)に 源義国 の館(約2km北の青蓮寺の一帯)から見て丑寅(北東の鬼門)にあった古い社で一族の繁栄を祈り、河内源氏の守護神である 石清水八幡宮(公式サイト)を勧請したと伝わる。幼稚園を併設しており、少し騒々しい。
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    元弘三年(1333)に 新田義貞 が挙兵した際に社前で兜(冠)の中に神霊を招き入れて必勝祈願した故事から「冠稲荷」と呼ぶようになった。祭神は宇迦之御魂大神(穀物を司る女神で、伏見稲荷大社(公式サイト)の主祭神でもある)、例大祭は3月の第三日曜日に開催される。
          冠稲荷神社の住所は太田市細谷町360(地図、無料駐車場あり 拝観無料
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    頼信嫡男の頼義が河内源氏の棟梁を継承し、更に武名の高い 八幡太郎義家 に続き...義家の後継を巡るトラブルを経て二男義親→ 為義義朝頼朝 と受け継がれていく。
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    義家の末弟 義光 の長男義業が佐竹を名乗って常陸源氏の祖に、三男の 義清 が甲斐に移って武田氏の祖に、四男盛義が義信→朝雅と続く平賀氏の祖になった。他に二男実光、五男親義、六男祐義、七男覚義がいるが 特に述べる程の記録はない。
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    一方で義家から河内源氏棟梁を継承した義親の次弟に当る 義国 は気性の荒さなどが影響して河内源氏の後継者からは外れたが、父義家の所領だった下野国足利に土着して歴史に大きな足跡を残した。義国の二男 義康が足利荘を相続して源姓足利氏の祖となり、庶長子(異説あり)の義重が父と共に西に隣接する渡良瀬川と利根川挟まれた広大なエリアを開拓して新田氏の祖となった。
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    厳密には、両家の初代は義国である。康治元年(1142)10月に義国は所領の足利を鳥羽上皇が創建した安楽寿院に寄進して立荘、下司職(実務担当の荘官)として運営管理権を確保した。
    その後に義国は足利荘を次男の義康(生母は正室の源有房娘)に譲り、庶長子の義重(生母は側妾の藤原敦基娘)と共に新田に移って利根川北部の荒地を開発、保元二年(1157)には開発した私領を藤原忠雅に寄進、下司職として実権を握り義重に継承させた。
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      ※安楽寿院: 鳥羽上皇が退位後の住居として建てた鳥羽離宮東殿の仏堂が原点。多くの荘園寄進を受け、娘の八条院ワ子が継承して八条院領と
    なり、大覚寺統(90代亀山天皇系の皇室。左フレームの「天皇家の系図」を参照)の財政的な基盤となった。
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      ※義康と義重: 源有房は正四位下左中将、藤原敦基も正四位下の文章博士。当時の風習では母親の出自の高さが嫡子を決める主要な条件だが二人
    の女性には特に身分の優劣はないようだ。「義国は本来の所領である足利を二男の 義康 に譲り、庶長子の 義重を伴って新田を開墾、新田で没した」との記録には通常の相続から逸脱した愛憎が隠れているようで気に掛かる。
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      ※藤原忠雅: 花山院流の公卿で従一位太政大臣。政略と婚姻で平家政権下で昇進を重ねた。娘の一人は後の関白太政大臣 松殿基房 の側室。
    道長−長男頼通(平等院鳳凰堂を造営)−六男師実と続いた藤原北家系で師実の二男家忠を祖とし、彼の邸宅花王院から命名された。南北朝時代に末裔の女性が第100代後小松天皇の寵を受けて誕生したのが一休禅師と伝わる。

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    岩松八幡宮 左:新田荘の総鎮守として栄えた岩松八幡宮      画像をクリック→詳細ページへ
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    祭神は第15代応神天皇(誉田別尊、在位270〜310年)。生品神社(wiki)、鹿田 赤城神社(参考サイト)と並んで新田の三社と呼ばれる古社である。
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    社伝に拠れば、第79代六條天皇の仁安年中(1166〜1168)、 新田義重 が大番役で在京した際に山城国久世郡の 男山(石清水)八幡宮(公式サイト)に参拝して松の実(松の苗、とも)を拾い新田に持ち帰って蒔いたところ芽が出て活着した。義重はそれまで犬間(猪沼とも。読みは「いぬま」)郷と呼んでいた本領を岩松郷と改め、男山(石清水)八幡宮を勧請して崇敬したと伝わる。
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    当時の犬間郷は岩松、押切、備前島、阿久津などを含む地域であり、その地の住人である源、平、紀、橘、藤原の各氏子は一族の氏神または郷社として崇敬し、岩松家代々の少年はここで元服の儀式を挙げた。室町時代の金山城主 岩松尚純の嫡男 夜叉王丸(七歳)がここで元服し、昌純と名乗った記録も残っている。
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    祭神の応神天皇像は秘神として公開せず、境内には尾島町で唯一の 新田義貞 を祭神とする摂社新田神社と、隣接して小さな公園が造ってある。南北朝時代になって新田荘の実権が新田宗家から岩松氏に移ってからは新田荘総鎮守として栄えたが、岩松氏の滅亡と共に衰退した。現在は無住で境内地も狭く、長い歴史を感じる雰囲気は失われている。住所は太田市岩松町251−1(地図)、無料駐車場あり 拝観無料
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      ※元服の記録: 世良田長楽寺の住僧松蔭西堂が書いた「松蔭私語」による。昌純は文明十七年(1485)生れ、新田宗家を継承した岩松家嫡子の元服
    だから岩松八幡宮への崇敬は地域のトップレベルだったらしい。この時に元服した昌純は後に家臣の横瀬泰繁に叛かれて自刃、泰繁の子成繁の代になって岩松氏は居館の 金山城(大田市のサイト)を奪われ横瀬氏(後の由良氏)に滅ぼされた。
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    宗家の新田氏も宗家を継いだ岩松氏も、中世以後の歴史に然したる名を残してはいないが、明治維新に若干の功績があったと思われる子孫の岩松俊純氏が新田姓に戻して男爵に叙任された。鎌倉幕府滅亡の際に勝敗の分岐点となった分倍河原の合戦場跡の碑に嫡子の新田忠純男爵が碑文を揮毫している。

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    重殿(じゅうどの)水源右:新田荘を潤した重殿(じゅうどの)水源    画像をクリック→詳細ページへ
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    現在では工場(三国製作所)の脇で石垣とコンクリートに囲まれた小さな溜池に見えるが、透明な水には鯉が泳いでいる一級河川・大川の源流である。湧水としての歴史は古く、矢太神水源の項でも触れた正木文書の「関東裁許状」に拠れば元亨二年(1322)には新田の支族である大館宗氏と岩松政経が「一井郷沼水」(重殿水源を差す)からの取水権を巡って争った記録が残っている。
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    岩松領の田嶋郷ではこの水を農耕に利用していたが大館宗氏が堀を塞いだため訴訟となり、北條高時は宗氏に対して旧に復せとの裁決を下した。これは重殿水源が下流にある岩松氏の所領各郷の灌漑用水で、確保するためには訴訟も辞さないほど貴重な存在だった事を示している。
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    前回訪問した2005年には水位がかなり下がっており湧水量の減少が気に掛かったが、その後は元通りに増えたらしい。右手の護岸には水神の石祠が三基祀られており、近世に至るまで周辺住民の生活にとって欠かせない貴重な水源だった。 重殿水源は太田市大根町253(地図)、路駐可 拝観は無料
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      ※大館宗氏: 愚行で失脚した新田宗家四代目惣領 新田政義 の二男で新田荘大館郷を領して大館氏の祖となった武士。
    鎌倉陥落の合戦では極楽寺坂の海辺側を突破して由比ヶ浜近くまで進んだが、深入りして後続部隊から孤立し、本間山城左衛門部隊の斬り込みを受けて主従11人が討死した。最後の地は長谷二丁目の大太刀稻荷神社(御嶽神社・地図)付近と伝わっている。
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      ※関東裁許状(正木文書)  新田下野太郎入道道定代尭海(岩松政経)申す上野国新田庄田嶋郷用水の事
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    右件の用水は新田二郎(大館)宗氏の所領一井郷沼水を受け田嶋郷を耕作せしむるの条往古の例なり。而して宗氏彼の用水堀を打ち塞ぐの由申すのところ、宗氏陳状の如くんば、打ち塞ぐの所見何事や、宗氏全く違乱せずと云々、向後のために御下知を成し給うべきの旨尭海これを申す、此上は異儀に及ばす、先例に任せて引き通すべきの状、鎌倉殿仰によって下知件のごとし
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         元亨二年(1322)10月27日  相模守平朝臣(北條高時)  修理権大夫平朝臣(金澤貞顕)
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      ※一井郷 生品神社に近い現在の市野井町一帯(地図)、田嶋郷はその水路を南へ約5km辿った現在の田島町一帯(地図)を差す。

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    矢太神水源 左:世良田地区を潤した矢太神(やだいじん)水源   画像をクリック→詳細ページへ
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    新田荘の北北西20kmには赤城山(1828m)・北東30kmには地蔵岳(1275m)があり南に向って下る扇状地を形成しているため、標高60m前後を中心に流れる多くの地下水脈が灌漑に利用された。中でも特に水量豊富なのが矢太神水源の湧水で、現在も水底から砂を巻き上げる自噴現象を見ることができる。
    矢太神水源は太田市新田大根町1000(地図、広い無料駐車場あり(ほたるの里公園内)。
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    仁安三年(1168)の新田義重置文(長楽寺収蔵)には「上江田・下江田・田中・小角・出塚・粕川・多古宇(高尾)などの郷を頼王御前(義重の四男 世良田義季の幼名、または生母(義重の孫娘))の生母に譲る」旨の記載があり、これらの郷すべてが矢太神を水源として利根川に流れ下る石田川流域にある事から、文字通り新田地域南部の新田(しんでん)開発に重要な役目を果した水源だったと判断される。
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    周辺では縄文時代の集落跡も確認され、現在は公園としての整備が進み初夏には蛍の群舞も楽しめる。
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      ※義重置文: 置文は現代の遺書に近い文書、一族の将来まで触れた内容が多い。長楽寺には下記画像の他に徳川八代将軍吉宗が寄進した義重の
    置文が一通あり、これは当時は浪人だった正木新五左衛門が先祖伝来の家宝を献上したもの(徳川氏が新田源氏の子孫を名乗った関係か)。簡略な文面は概ね同じ内容で、現在は群馬県立歴史博物館が収蔵する。国重要文化財指定、いわゆる「正木文書」の一枚。

    新田義重置文 右:新田義重置文 長楽寺文書      画像をクリック→拡大表示
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    下  (花押)
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    こまたあれど、らいわうこせのハハのことをおもへハ、にたのみさう(新田御荘)ハゆつりたるなり、ハハの事らいわうこせんをろかにあるへからす、それにとりてもこかんとてハ、らいわうこせんかハハにみなゆつるなり、ハハかためニおろかニあるへからす
    こかんのかす、おうなつか、えたかみしも、たなか、おおたち、かすかわ、こすみ、をしきり、いてつか、せらた、みつき、かみいまい、しもいまい、かみひらつか、しもひらつか、きさき、丁ふくし、たこう、やきぬま、このこうこうしたいにゆつりわたす、たのさまたけあるへからす、あなかしこかしこ、
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            仁安三年(1168)六月二十日    (花押)

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    義重置文は三人の異母兄(山名義範 と里見義俊(義成 の父)と 新田義兼 がいるにも拘らず、「頼王御前と生母」に本領の多くを遺している。19郷の名を具体的に書き連ね、最後尾に 「このように譲り渡すから他の妨げ有るべからず、あなかしこ」 と締め括っている。戦乱の世を生き抜いた武将が年老いて産まれた(曾孫か孫か子か)頼王御前とその生母を溺愛し確実に財産を分与したいと考えた、そのように読める。
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    「他の妨げ有るべからず」と書いたのは、そう明文化しないと相続にクレームが出る恐れがある...つまり頼王御前とその母(来王姫)が「常識的な相続人ではない」立場だった事を示している。ちなみに、頼王御前には別に6郷を与える置文を書いている。頼王を義兼(1139年生れ)の異母弟と考える説もあるが、それでは来王姫と二人の男児の存在が浮いてしまうから 足利義純 に離縁された孫娘が連れ帰った男児と考えるのが常識的なのだけれど...
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      ※頼王生母: 義兼は保延五年(1139)の誕生だから、彼の孫が29年後の置文(1168年)に相続人として載るのは無理(子供なら可能)。
    また頼王の父親である足利義純の誕生は安元々年1175)だから、彼が産ませた子が1168年発行の置文に載るのもあり得ない。
    つまり 「頼王の生母は義兼の娘ではない、という事。
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    相続人の「らいわうこせん」=溺愛する孫娘の来王姫と考えれば一部の辻褄は合うのだが「らいわうこせのハハ」は変だし「二人の男児が足利義純の子ではない」の問題が解消しない。また「庶長子の義純が新田荘で義重に養育された」との記録も少し気になる部分だ。腰を据えて考えないと変な結論に到ってしまうかも知れないね。
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    話は変わって。寿永元年(1182)7月の吾妻鏡に拠れば、68歳になった 新田義重 は娘の祥寿姫(悪源太義平 の後家、既に出家して妙満尼)を妾女に望んだ頼朝の要求に従わず、還俗させて師六郎(素性は不明)に嫁がせている。40歳前後になっている異母兄の妻に執心した 頼朝 の感覚も理解できないが、「らいわう」とその生母を溺愛した置文と併せて考えると義重の心の襞が窺えるようで、面白い。
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    【 吾妻鏡 寿永元年(1182) 7月14日  (5月27日に養和二年を改元)】  頼朝が鎌倉に入り東国を平定した後の、政子頼家 を出産する直前。
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    新田義重が頼朝の勘気を受けた。義重の娘は悪源太義平(頼朝の兄)の後家で、頼朝は 伏見廣綱 を介して艶書を送ったのに良い返事が得られず、直接義重に申し入れた。義重は御台所 政子 の思惑などを考えた末に急遽彼女を師六郎に嫁がせてしまったためである。
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    義重の子女は上から順に 山名義範里見義俊(wiki)、 新田義兼世良田義季額戸経義(wiki)、 祥寿姫(義平室)、他。
    さて頼王と「らいわうこせのハハ」とは誰だろう? 現在では 世良田義季(wiki)説が主流なのだけれど。

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    新田義重夫妻の墓 左:義国の庶長子で新田の始祖 義重夫妻の墓    画像をクリック→詳細ページへ
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    新田義重(永久2年〜建仁2年・1114〜1202)は新田氏の祖とされている。父の 源義国 は自ら開いた足利荘を次男(嫡男)の 義康 に譲って長男の義重と共に渡良瀬川の南に移り、新田を開墾した。
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    保元二年(1157)には平家に近い公卿・政治家の藤原忠雅を領家として正式に新田を立荘したが、この地は利根川を隔てて源氏の 帯刀先生義賢義朝 の異母弟)の本拠地・大蔵や秩父平氏の領域に接していたため、頻繁に武力衝突を起こしていた。そして久寿二年(1155)の8月、同じ秩父平氏の畠山氏や義朝と協力して義賢と秩父氏の棟梁重隆 を倒し、北関東の支配権を確立させている。
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    早くから頼朝旗揚げに加わった足利一族と違って新田一族は合流が遅れたため頼朝の不興を買ったが、これは源氏本流としてのプライド、領家の藤原忠雅が平家に近い立場だった事、北関東を実力で支配していた自負などが影響していた、とされる。また頼朝が義重の娘(義平の寡婦)を妾として望んだのを拒むなどもあり、鎌倉とは円満な関係を保てなかった。これが足利と新田の処遇の差となって尾を引き、一族の没落を経て最終的には新田義貞が幕府打倒に立ち上がる遺恨遠因を作った、とも言える。
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      ※源氏の本流: 河内源氏嫡流は 頼義義家義親(wiki)− 為義義朝 と続くのだが、四男ながら嫡子となった為義はやや異質な存在だった。
    義家の四男説もあり、他の兄弟に比べると官位も低く疎外された待遇が覗われる事から庶子とも見られている。武将としての能力も低く、嫡子の義朝も父親に敬意を払っていたとは言い難い。そんな背景が義重の意識に影響していたのかも知れない。
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    義重は次男(四男とも)の義季(後に世良田を名乗る)を特に愛した。得川・女塚・押切・世良田・平塚・三ツ木など新田荘南部の広大な地域を相続させ、晩年には夫人と共にこの地で暮らし、死後は邸内に葬られた。館跡などの遺構は残っていないが最も大きな石塔は高さ約140cm、割れた天蓋部分は切断面を整えられ鉄の帯(天保八年・1838年の銘)で補修されている。昭和45年(1970)に墓地を整備した際には3基の石塔下から火葬骨の入った灰釉陶器の骨壷が出土した。遺骨は元通りに埋葬され、骨壷はすぐ近くの 満徳寺(公式サイト) に収蔵されている(私自身は確認していない)。
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    徳川家の系図は世良田義季を遠祖としているが真実味は乏しく、徳川幕府による清和源氏系図の捏造と判断される。義季は得川郷の領主ではあるが正式には世良田の地頭であり、吾妻鏡に得川郷の領主として記載のある「徳河義秀」とは別人と判断される事、などによる。
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          廟所の住所は太田市徳川町396(地図、専用駐車場はないが満徳寺と徳川会館(公民館)が利用可 拝観は無料

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    妙満院大慶寺 右:「泣き不動」を祀る妙満院大慶寺    画像をクリック→詳細ページへ
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    「新田の三不動」とは、明王院が収蔵する「触れ不動」(山伏姿で 義貞 の挙兵を越後などの新田支族に連絡した)と、「御影不動」(盾に乗って軍勢を指揮した義重の像が一夜で不動明王に変じた)と、残る一つが大慶寺が祀っている「泣き不動」である。
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    大慶寺は新田義重の娘(悪源太義平の妻)が獄門に架けられた夫の首を盗み出して(現在の)清泉寺に埋葬し妙満尼と名乗って菩提を弔った、その庵が起源と伝わっている。
    後に新田庶流の綿打氏が庵の跡に館を建て、明徳五年(1394)に足利の鶏足寺から招いた空覚上人を開山和尚として建立された。
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    本堂西側の不動堂に納められているのが平安時代に彫られた「新田の守り不動(泣き不動)」で、正安三年(1338)に義貞戦死の報が新田に届いた際に涙を流した、と伝わっている。この不動明王は妙満尼が晩年に彫った像で父義重の姿を模していたが、一夜のうちに不動明王に変身したため「御影不動」とも呼ばれる。明王院が収蔵している「御影不動」(盾に乗った義重の姿が変じた)とは同名異物である。
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    大慶寺は「牡丹の寺」としても知られており、花期(5月前後)には3000株が花を咲かせ、この時期のみ参拝は有料(たしか300円)となる。
    本堂の裏手には新田一族の綿打刑部郷太郎為氏の墓があり庭園の各所に土塁の跡などがかなり鮮明に残されている。新田義重の嫡男が義兼、その嫡男が義房、その嫡男が政義、その次男が大館を名乗った家氏、その長男が為氏。為氏は綿打太郎を名乗り、大慶寺のある綿打郷を領有して綿打氏の祖となった人物。土佐国古城略史にも「新田綿打入道」として記録されている。
    「綿打入道は大平記に新田の一族綿打刑部少輔、蓋是の人也」、と。
    南北朝時代に入ると綿打氏の子孫も義貞に従って各地を転戦していた。 大慶寺の住所は太田市新田大根町1000(地図、広い無料駐車場あり 拝観は無料

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    長楽寺 左:世良田義季が開いた長楽寺と家康所縁の東照宮   画像をクリック→詳細ページへ
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    一般的には、義重 の四男とされる頼王は成長して 世良田義季 を名乗り世良田郷の地頭を併せて相続することになる。ただし系図に見える義季の名は吾妻鏡には記載が見えず、出生の曖昧さもあって確実な結論を出すことができない。義季=長男の頼有説など、諸説に加えて徳川が絡むから更に複雑化する。
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    義重の長男(庶長子)義俊は碓氷郡里見郷(現在の高崎市)に分家して里見を名乗り、二男の義範(庶子)は多胡郡山名郷に分家して山名氏の祖となった。本領の新田荘中心部は嫡子の義兼が相続して新田氏と岩松氏が継承し、義季が継承した世良田と繁栄を競う形になる。
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    そして義季の二男頼氏は世良田を相続して一族の実力者となり、その長男 頼有は世良田の東に隣接する得川郷を相続して得川を名乗った。この「得川」に着目した徳川氏が系図を捏造して「新田源氏の子孫」を僭称し、更に世良田に東照宮まで建造する暴挙に至る。
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      ※義重の子女: 長男は義俊(里見)、二男は義範(山名)、三男は義兼(新田惣領)、四男は義季(世良田)、五男は糠田経義。
    娘の年齢は不詳だが、嫁した相手の年齢順と書くと 武田信義 (1128年)室、源義平(1140年)室の祥寿姫、 足利義純(1175)室、 那須与一(1160年前後?)室(伝)。
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    時は流れ、織田信長と同盟を結んだ松平家康(24歳)は永禄九年(1567)に徳川姓を名乗り始める。ただし公認(勅許)は得られず、藤原氏や豊臣氏を称した後の秀吉死後になって(つまり権力の座に登ると共に)改姓が認められ、晴れて源氏の末裔となった。
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    要するに、家康の遠祖は世良田義季であり徳川氏の始祖は得川頼有という主張で、明らかな系図の捏造である。「征夷大将軍に任ずる要件として源氏の系図を必要とした」などは俗説に過ぎないが、権力を握った次に欲しがるのが家柄と出自なのは洋の東西を問わない。
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    閑話休題...承久三年(1221)、世良田義季は日本臨済宗の開祖 栄西 の弟子で上野国出身の栄朝を招いて開山和尚とし邸内に長楽寺を開いた。
    室町時代には関東十刹に挙げられ数百の塔頭が並ぶほど隆盛したが後に衰退、江戸時代初期になって徳川氏の帰依(もちろん系図絡みの優遇)を受け天海僧正を住職に迎えて天台宗に改め、末寺700を超える巨刹となった。
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    三代将軍 家光は家康の遺言に従い日光東照宮の一部を長楽寺に移設して世良田東照宮に改め、長楽寺を別当寺として庇護管理に当らせた。補助金など様々な恩恵を受けた地元としては「新田は徳川氏の先祖である」との新説を受け入ざるを得なかった。唯々諾々かどうかは知らないけど。

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    金剛院円福寺 右:新田氏四代目の政義が開いた円福寺      画像をクリック→詳細ページへ
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    新田義重 は更に周辺の開発に力を注ぎ、嘉応二年(1170)の目録に拠れば南北20km・東西13kmの面積を占める広大な荘園となった。本領の新田荘中心部は嫡子の 義兼 が相続し、周辺の所領は他の男子が受け継いで更に勢力を広げた。
    この経緯は 源義清武田(逸見)清光 父子が常陸から甲斐に移って勢力を扶植した姿に良く似ているが、幾つかの事件が重なって鎌倉幕府では足利氏の風下に甘んじる結果となる。
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    治承四年(1180)の 頼朝 挙兵に際しては足利の当主 足利義兼 が早くから参陣したにも拘わらず新田義重は合流が遅れて不興を買った。足利義兼の場合は生母が頼朝の従姉妹だった事、以仁王 の養母 八條院 に近かった事、京で鳥羽上皇に仕えていた事、平氏に近い藤姓足利氏と足利南西部の支配権を巡って争っていた事、などから選択肢は頼朝と行動を共にする以外に考えられなかった、のだが。
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    頼朝が覇権を握った後も新田義重の立場は弱く、足利氏に比べて処遇の差も歴然としていたが、源氏の血筋では最も 八幡太郎義家 に近い最長老だったためそれなりの敬意は払われていた。一方の足利氏は正治元年(1199)に頼朝が没した以後も北條氏との縁戚関係を更に深め、幕府での揺るぎない地位を確保し続けた。誠実だったと言うべきか、狡猾だったと評価すべきか。
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    新田の惣領は義重−義兼−義房−政義 と続き、政義の代になって致命的なトラブルが発生した。仁治3年(1242)に幕府から預かった囚人に逃げられたため怠慢を問われて罰金3000疋を課せられ、更に寛元二年(1244)には大番役を勤めた京都で幕府の定法に背く昇殿と検非違使任官を求めて拒否された。いったい何を考えていたのか...政義は許可なく出家して大番役を放棄したのみならず、幕府への出頭も拒み新田に帰ってしまった。
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    普通なら只では済まない行為だが、妻が 足利義氏 の娘(義氏の妻は 畠山重忠 の寡婦で義氏に再嫁した 時子北條時政 の娘で 政子 の妹)だから罪科の減免もあったらしい。我侭勝手の代償として政義は所領の一部を公収され、新田宗家の惣領権(代表権だね)を失い、円福寺を建てての隠居で許されたと伝わる。惣領権は義重の四男である世良田義季と頼氏父子および岩松時兼が継承して「半分惣領」となり、新田宗家は一族の支配権を喪失した。政義の愚昧の結果として、四代後の義貞が幕府を倒すまでの約90年間、新田本家は長い不遇の時代を過ごすことになる。
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    政義の四代後の 新田義貞 による鎌倉攻めの発端は 後醍醐天皇 の呼び掛けだが、長年の冷遇に対する積もり積もった恨みがあったらしい。政義の場合は自業自得だから幕府を怨むのは筋違いなのだが、義貞の時代の新田本家の領地は新田荘60郷のうち数ヶ所のみで当主の義貞も無位無官だった。
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    そして...鎌倉幕府を倒した合戦で主役を演じた新田一族は味方した南朝の衰退によって恵まれた境遇を得られず、江戸時代まで低い処遇のまま過ごしている。辛うじて明治時代になってから子孫の岩松氏が新田の嫡流と認められ、朝廷に尽した忠臣の子孫として男爵の地位を得ているのが多少の幸運と言えるだろうか。      円福寺の住所は太田市別所町400(地図)、参詣用の無料駐車場あり 拝観は無料。

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    台源氏館跡 左:義貞と弟の義助の生誕地と伝わる台源氏館跡    画像をクリック→拡大表示
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    隠居後に政義が一門の氏寺として円福寺を建て、東側の由良郷(北之庄)台地に館を建てたのが経緯で台源氏と呼ばれた、と伝わる。政義が剃髪後に建立した円福寺から400mほどの距離。彼の屋敷だったのは確実らしいが、隠居した政義の跡を継いだ嫡子 朝氏がここに住んだと確認できる資料は見当たらない。
    ちなみに、新田宗家の系譜は政義−政氏−基氏−朝氏−義貞と続いている。
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    一説には防衛用の濠に引き込む水の便が悪いという軍事上の理由か、あるいは全体が手狭で使い勝手が悪いなどの理由で 反町館地図)に移ったのではないか、と考えられている。
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    昭和十三年(1938)になって農地に残っていた土塁の一部を利用して石碑を建立したが、これは皇国思想が主流の時代だから発掘調査なども杜撰だったと思うし地権者などの思惑が大きく作用した可能性が高い。
    義貞生誕地には反町館説や世良田(総持寺)説や榛名の里見郷説などがあり、いずれも伝承である。
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    周辺は半分宅地化しつつある畑で鎌倉時代の面影はなく、二基の石碑が当時を思い出させるだけ。わざわざ訪問するほどの値打ちはないが円福寺参詣のついでと思えば特に失望する事もない。台源氏史跡は太田市別所町1599横 地図、円福寺の駐車場から歩くと良い。拝観は無料
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      ※里見郷: 義重の庶長子で里見の氏祖義俊の本領。義俊の嫡子 義成 が里見城(高崎市下里見、地図)を築き、義俊から四代後の義胤が義貞の
    挙兵に加わって鎌倉に攻め込んでいる。嘉吉元年(1441)には十一代目の里見義実が安房国白浜(南房総市)に移り、江戸時代後期に滝沢馬琴が描いた壮大な活劇「南総里見八犬伝」(もちろんフィクション)の舞台へと続く。
    以下、勾当内侍の墓と脇屋義助の墓と児島高徳の墓は鎌倉幕府滅亡後の話。新田荘のついで、という事で...

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    勾当内侍の墓 右:義貞の愛妾 勾当内侍の墓(伝・義貞の墓、とも)  画像をクリック→詳細ページへ
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    建武三年(1336)2月に 後醍醐天皇 の親政から離脱した 足利高氏(尊氏) の軍勢と 新田義貞 軍が衝突し(摂津豊島河原(大阪府箕面市)の合戦)、敗れた尊氏が九州へ逃げる事件が起きた。
    このとき義貞は勾当内侍との別れを惜しんで寝過ごしたため尊氏を追撃する好機を失い、結果として九州で勢力を回復した尊氏に滅ぼされる遠因を作った、という。そんな経緯のため、 勾当内侍 には「義貞を滅ぼした悪女」の評価もある。
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       「三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい」...そんな感じだったのかな。
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    その年の4月末になって義貞は勢力を回復した尊氏軍に追われ、尊良親王(後 醍醐天皇の皇子)を奉じて北陸へ逃げる際に琵琶湖西岸の今堅田に勾当内侍を残した。その後の義貞は足利尊氏に敗れて北陸の越前藤島で戦死し獄門に掛けられたが、勾当内侍は義貞の首を盗み出して新田の館に持ち帰り、落飾して菩提を弔った、と伝わる。
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    新田の南部を流れる利根川の支流早川に近い花見塚神社の横には内侍の墓と並んで義貞の伝・首塚が残る。義貞はここに内侍の館を建てて各地から集めたツツジを植え、花見塚の語源になった。周辺には江戸時代の初期まで花が咲き乱れていた、と。
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    勾当内侍 とは女官の官職名で、内侍司の女官(掌侍)の筆頭職。「勾当」とは「事に当たる、事を処理する」を意味し、帝の秘書的な存在として学問や礼儀作法に熟達した女性が任命される例が多かった。他の掌侍の俸禄が100石だったのに対して倍の200石を与えられ、正五位下の待遇を受けていた事から考えると才色兼備、現代なら上級専門職クラス、か。勾と匂は字も違うし、「香の匂いを当てる」調香師みたいな職業ではないのは無論のこと。
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      ※内侍司: 帝の近くで経理・総務・人事・礼式などを担当した女性だけの組織だったらしい。八咫鏡を模した神鏡を内侍所の温明殿に安置した経緯から
    神鏡の代名詞にもなった。元々は尚侍・典侍・掌侍(内侍)・女孺の四等官に準ずる職位があったが鎌倉時代になると尚侍は有名無実、典侍(従四位)は公卿の娘がメインの名誉職となった。定員6名で実務を取り仕切った掌侍の筆頭職が勾当内侍(こうとうのないし)。
    勾当内侍の墓は太田市阿久津町209(地図)。小さな公園の駐車場あり 拝観は無料

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    勾当内侍の墓  野神神社 左:琵琶湖に入水した勾当内侍を葬った野神神社    画像をクリック→詳細ページへ
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    ここに載せたのは 後醍醐天皇 の近くに仕えて寵愛を受けた固有名詞としての 勾当内侍 で、元弘三年(1333)に鎌倉を攻め落とした恩賞として 新田義貞 に下賜された女性を指す。
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    太平記に拠れば、彼女は世尊寺家(藤原北家系の書道に秀でた家柄で室町末期に断絶)の出身で、世尊寺経尹の娘(一条経尹または一条行尹または一条行房の娘)あるいは妹とされる。義貞の妻の一人として描かれているが、裏付けの資料がごく少ないため存在そのものをフィクションとする説もある。
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    ちなみに新田義貞の正妻には諸説あり、常陸小田城(つくば市・地図)の城主小田真知の娘、抜鉾神社(上野一之宮貫前神社(公式サイト)を差す)の神主 天野時宣の娘、安東氏(秋田氏の祖で 安倍貞任 の末裔を称する津軽の豪族)の娘、など。ひょっとすると勾当内侍を含む全員が妻妾だった可能性もある。
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    晩年の 勾当内侍 は嵯峨野の庵で義貞の菩提を弔った、或いは近江堅田で入水自殺したなどの伝承があり、どちらにしても京の近くで没したと考えるのが自然だろう。幾つかある勾当内侍の墓として最もポピュラーなのが今堅田の野神神社、義貞を死なせてしまった勾当内侍の、狂気にも似た悲しみを模したという 「きちがい祭り」 の俗称でも知られた社である。
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    延元三年(1338)の8月、義貞が越前の藤島で戦死(7月2日)したのを知った内侍は今堅田の琴が浜で入水自殺、哀れに思った村人は岸辺に塚を築いた。明応六年(1497)の150年忌に塚の場所に社を建てたのが野神神社である、と。道の駅・びわ湖大橋米プラザ(別窓)から徒歩200m、神社横にも路駐できる無住の社で拝観は無料(地図)。1.6km南には 堅田の浮御堂(市のサイト)もある。

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    善昌寺 右:討死した新田義貞の首を葬った太平山善昌寺    画像をクリック→詳細ページへ
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    南朝の指揮官として転戦した 新田義貞 は反撃に転じた延元二年(1337)に越前国府を落として南朝勢力を糾合し、更に奥州から参戦した 北畠顕家(wiki)と連携して京都進撃を計画した。しかし美濃国青野原で北朝軍を破った北畠顕家は義貞が制圧した北陸ではなく、伊勢に向けて進軍する。
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    北陸に合流しなかった理由には諸説あるのだが、取り敢えず青野原では勝利した北畠顕家軍も連戦の疲労が重なり、勢力を立て直した北朝軍に5月22日の石津合戦(堺市一帯)で惨敗して戦死、翌年7月には新田義貞も越前国藤島(福井市)の 灯明寺畷(wiki)で斯波軍に囲まれ討ち取られた。
    鎌倉を攻め落としてから僅か4年後である。
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    太平記は「意味のない軽率な行動が原因で名もない兵の矢を受け落命」、また北畠親房の神皇正統記も「上洛を躊躇して時を逸し、むなしく戦死」と描いている。後世の歴史家が行動の是非を論じるのだから当事者の心の襞には踏み込めないが、「部下を見殺しにできない指揮官」だった可能性がある。
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    義貞の首は京に送られ、朝敵として都大路を引き回されて獄門に懸けられた。脇屋義助(義貞 の実弟)をはじめとする南朝の残存勢力はその後も抵抗を続けたが既に勝敗の帰趨は明らかで、鎌倉幕府を滅ぼした際に得た源氏の重宝 鬼切丸(別窓)も足利氏の手に渡った、と伝わる。
    善昌寺の伝承に拠れば、新田家執事を任じていた舟田善昌は 勾当内侍 の侍女・丹局の手を借りて六条河原に晒されていた義貞の首を盗み出し館の裏山に葬った、と伝えている。

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    正法寺 左:脇屋義助の遺髪を葬ったと伝わる脇屋山正法寺     画像をクリック→詳細ページ
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    寺伝に拠れば、経基王(源経基)が開基となり京都 醍醐寺(公式サイト)の開山和尚である聖宝を迎えて延喜年間(901〜922)に創建した真言宗の古刹で、当初は萬明山聖徳院聖宝寺と称した。その後は荒廃したが元暦年間(1184〜1105)に 新田義重 が修復して中興、元弘年間(1331〜1334)には脇屋義助が寺領として由良郷の脇屋村と大般若経600巻を寄進している。
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    康永元年(南朝の年号は暦応三年・1342)に伊予国府で病没した義助は鳥取倉吉市の 大蓮寺(wiki)に葬られた(なぜ山陰鳥取なのかは判らない)。義助の死を看取った児島高徳が遺髪を新田に持ち帰りこの寺に葬っている。その後は義助の法名「正法寺殿傑山宗栄大居士」にちなんで正法寺と改め菩提寺となった。本尊は鎌倉時代初期の作である聖観音、12年毎に一度開帳する秘仏である。
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    元々の正宝寺は南東約1kmにあった脇屋義助の館(詳細は後述の「太平記に見る北條vs新田の攻防戦と鎌倉の陥落」に記載)近くだったらしい。ここの字名を転用した観音免遺跡からは板碑・五輪塔・層塔などが出土し、層塔は本堂左奥の義助遺髪塚横に移して祀ってある。
    正法寺の住所は太田市脇屋町562(地図)、参詣者用駐車場あり 拝観は無料
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      ※児島高徳: 太平記だけに現れる人物で実在した根拠は乏しい。桜の幹を削って 後醍醐天皇 に忠誠を誓い、零落の境遇を励ます漢詩(コトバンク)を
    記した逸話から戦前は忠臣の鏡とされた。太平記の編者で実在する小島法師がモデル、または存在が彼のフィクションとする説もある。
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    備前国児島郡(倉敷市周辺)出身の武士で、後醍醐天皇が隠岐を脱出して挙兵した際から参戦し数々の功績を挙げた...とされているのだが、論功行賞の記録には高徳の名前が載っていない。
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    高徳寺 右:児島高徳が没した高徳寺。画像は尾形月耕の「桜の詩」  画像をクリック→ 高徳寺詳細ページ
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    児島高徳はその後も義助の子・義治を助けて北朝側と戦ったが利あらず、建徳二年(1371)に新田荘に近い佐貫荘古海(大泉町)の古海太郎広房を頼って定住、その後は剃髪して備後三郎入道志純義晴と名乗り、弘和二年(1382)に医王山延命院高徳寺(群馬県大泉町古海2209(地図)に隠棲し72歳で没したと伝わる。
    高徳寺の200mほど南の利根川近くに墓が残されているが全国に多くの異説もあり、定かではない。
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    【 児島高徳公と高徳寺(参道の表示) 】
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    この高徳寺は後醍醐・御村上・長慶天皇の南朝三代の帝に仕えた児島高徳(剃髪して志純義晴)を開祖として開かれました。児島高徳は延慶四年(1311)備前国(岡山県)児島の尊瀧院で生まれ、元弘二年(1332)に後醍醐天皇が隠岐に流される時、院ノ庄の御館の庭で「天莫空勾践 時非無范蠡」(天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず)十字の詩を書いて自ら范蠡を以って任ずる意を奏上しました。
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    その後は 新田義貞 の傘下で戦い、義貞の死後は弟の脇屋儀助に従って四国征伐に赴き、義助の死後はその子・義治を擁し京都で再挙を計画したが功ならず、正平七年(1372年・南朝年号)摂津の天王寺に行宮せられた後村上天皇に召されて「関東に下って兵を集めよ」との勅命を受けて新田氏・宇都宮氏・小山氏などの協力で兵一万騎を京都に向わせるなど、新田氏との深い関係を保ちました。
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    建徳二年(1371)、上野国新田荘に御滞在中の宗良親王の許へ使いしたのを契機としてこの地古海に隠棲し軍中守護神だった摩担利尊像を安置し宗良親王に仕えたり南朝の再建にも苦慮した。永徳二年(1382年・南朝年号)11月24日享年72歳でこの寺で永眠されました。
     




     その弐 新田義貞による鎌倉攻めの背景 


    第92代後宇陀天皇は長男の第94代後二条天皇が即位した正安三年(1301)から院政を敷き、正安三年(1308)の後二条天皇崩御によって天皇の父としての地位を失い隠居した。持明院統の第95代花園天皇を挟んで文保二年(1318)にもう一人の皇子が第96代
    後醍醐天皇として即位すると共に再び復帰して元亨元年(1321)に隠居するまで院政を続けた。この隠居によって政治の実務を司る上皇が不在となり、後醍醐天皇による親政がスタートする。
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    しかし後宇陀法皇の遺言により、後醍醐天皇は大覚寺統である兄・後二条天皇の遺児・邦良親王が成人して皇位継承するまでの「中継ぎ」とされていたため実子への譲位ができず、その継承計画を承認して後醍醐に退位を求める鎌倉幕府への反感を募らせた。

    【 新田義貞挙兵までの簡単な年表 】
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          文永十一年(1274) ・・・10月にモンゴル軍が軍船900艘・兵3万人前後で第一次来襲。10月下旬の撤退途中で難破し兵の約半数が帰還せず。
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          弘安四年(1281)・・・・・・6月にモンゴル軍が軍船4400艘・兵15万人前後で第二次来襲。7月下旬の台風で難破し兵12万人前後が帰還せず。
    モンゴル軍の撃退には成功したが二度の戦役で日本が得たものは皆無、従って従軍した御家人の恩賞も不足したため不満が鬱積した。更に撃退後も北九州警備を警備するための動員が続き、御家人の財政状況は逼迫した。
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          永仁五年(1297)・・・・・・永仁の徳政令を発布。金融業者など債権者に債権放棄を命じる措置で、貧困に苦しむ御家人救済が目的だが結果的には
    「貸し渋り」を引き起こして更なる貧困の悪循環が続いていく。幕府の権威は低下し、宗教面では「立正安国論」で外敵・天変地異の危険を訴えた法華宗や末世を訴えた浄土教が興隆した反面、武士の精神的支柱だった禅宗は衰退期を迎える。
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          文保二年(1318)・・・・・・花園天皇が退位し第96代後醍醐天皇が3月29日に即位。天皇親政を目指し鎌倉幕府の打倒が必要と考えた。
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          元享四年(1324)・・・・・・9月19日に倒幕計画を六波羅探題が察知し首謀者は自刃または流罪、背後の後醍醐は無関係と釈明して処分なし。
    後醍醐天皇は残った側近と再び倒幕計画に着手する。
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          元弘元年(1331)・・・・・・8月に後醍醐側近吉田定房が六波羅探題に密告し再び倒幕計画が露見、御所を脱出した後醍醐天皇は笠置山(京都南部)
    に逃げて兵を挙げた。それに呼応して後醍醐の皇子護良親王が吉野で、楠木正成が河内の赤坂城で挙兵。幕府は大仏貞直・金沢貞冬・足利高氏・新田義貞らを討伐軍として派遣、9月には笠置山と吉野が陥落し後醍醐天皇を捕獲、10月には赤坂城も陥落して楠木正成は逃亡した。翌元弘二年(1332)3月に首謀者は斬首、後醍醐天皇は廃位→隠岐配流となった。
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          元弘二年(1332)・・・・・・潜伏していた楠木正成が11月に河内国金剛山の千早城で挙兵、吉野の護良親王も倒幕の令旨を発行し吉野で挙兵した。
    楠木正成は12月に赤坂城を奪還し翌年1月には六波羅探題の討伐軍を摂津国天王寺で敗走させた。幕府は大仏家時・名越宗教・大仏高直率いる討伐軍を派遣し赤坂城と吉野を鎮圧したが千早城は幕府の大軍を迎えて三ヶ月間も落ちず、倒幕の機運を全国に広げる結果となった。正確な時期は不明だが、大番役で在京していた新田義貞は千早城攻防戦の最中に病気を称して本領の新田に帰国している。
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          元弘三年(1333)・・・・・・播磨国での赤松則村らの攻勢を確認した後醍醐は閏2月に隠岐島を脱出し伯耆国船上山で挙兵、倒幕の綸旨を発行した。
    幕府側は足利高氏と名越高家を討伐軍として送ったが4月に名越高家は戦死、足利高氏は幕府に叛旗を翻して所領の丹波国篠村八幡宮で倒幕の挙兵、5月7日には六波羅探題を落として京を制圧した。六波羅の北條仲時・時益らは近江まで逃れたが自刃、反後醍醐派の光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇は後醍醐天皇側の捕虜となった。
    新田義貞挙兵の日には諸説あるが六波羅探題の陥落前後、5月5日〜5月8日の間と考えられている。

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    後醍醐天皇像 右:絹本著色 後醍醐天皇御像  藤沢の清浄光寺(遊行寺)蔵  画像をクリック→拡大表示
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    正中元年(1324)9月(12月9日の改元前なので厳密には元亨四年)、後醍醐天皇による倒幕計画が露見し、首謀者の後醍醐天皇側近 日野資朝日野俊基(共にwiki)は鎌倉に連行され資朝は佐渡流罪、俊基は京に蟄居。上洛していた武将の土岐頼兼と多治見国長は計画を察知した六波羅探題に討たれた(正中の乱)。
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    9月23日に決起する計画が露見したのは土岐頼兼の従兄弟 頼員が寝物語に妻に漏らしたため、と伝わる。
    彼女は六波羅探題の奉行斎藤利行の娘だった。朝廷の策謀に付き纏う計画の杜撰さと脇の甘さは、生死を賭けた緊迫感の欠如から。後醍醐天皇が「側近が独断で...」と主張して処分を免れるのも皇室の通例だが、承久の乱での執権 義時 は弁解を許さず 後鳥羽上皇 の側近をほぼ皆殺しにした。厳しさの欠如は北條得宗も同様か。
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      ※大覚寺統: 第88代後嵯峨天皇の子 第90代亀山天皇の系。亀山と後宇多の両天皇が再興した嵯峨野の
    大覚寺院政を執ったためこの名になった。これに対し同じ後嵯峨天皇の子で亀山天皇の兄・第89代後深草天皇の系が持明院統である。寛元四年(1246)に崩じた後嵯峨天皇の後継を後深草派と亀山派が紛争を起こし、鎌倉幕府の仲介で両統の子孫が10年を目処に交代で皇位継承する裁定となった。
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    文永・弘安の二度に亘る蒙古襲来によって幕府の土台が揺らぎ始めた徳治三年(1308)8月に第94代後二条天皇(大覚寺統)が崩御。持明院統の第95代花園天皇が後継となり文保二年(1318)に退位、そして大覚寺統の後醍醐が96代の帝位に就く。左メニューから「天皇家の系図」を参照されたし。
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      ※後醍醐天皇: 花園天皇を継いだ第96代天皇で、後に南朝(吉野朝)の初代天皇。鎌倉幕府を倒して天皇専制を目指したが政治的な能力不足のため
    公家と武家双方の支持を失い、足利尊氏の離反を招いた。湊川の合戦で 楠木正成(wiki)を失った後は尊氏に幽閉され建武三年(1336)に持明院統の光厳上皇の弟 光明天皇に譲位、天皇を擁して覇権を握った足利尊氏は室町幕府の初代将軍に就任した。
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    一方で、京都を脱出した後醍醐天皇は吉野に南朝を打ち立てて新たな朝廷を開いた。この時から明徳三年(1392)に南北朝廷が合体するまでの56年間が南北朝時代となる。後醍醐天皇は南朝の兵を率いて多くの犠牲を払い続け、四人の親王を各地に派遣して北朝に対抗したが北陸で新田義貞を失い、劣勢のまま義良親王(後村上天皇)に譲位して52歳で崩御した。
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    話が遥か先に飛ぶけれど...鎌倉幕府の滅亡によって朝廷による親政が実現し皇統が大覚寺統に一本化されたかに見えたが、後継者に実子の擁立を望むなど専制色を強めた後醍醐政権から最大の実力者足利尊氏が離反し後醍醐天皇が失脚し、吉野に逃れた大覚寺統 後醍醐天皇の南朝 vs 持明院統 光厳天皇の北朝という図式が定着した。新田義貞は南朝の武将として、足利尊氏は北朝の征夷大将軍として、源氏を祖先とする同族が争いを続けることになる。

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    後醍醐天皇御陵 左:吉野 如意輪寺裏山の後醍醐天皇御陵    画像をクリック→拡大表示
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    正中の乱は朝廷の敗北に終わったが 後醍醐天皇 は計画に関与していないと釈明し処分を免れた。
    しかしその後も倒幕計画は諦めず、邦良親王の病没後に幕府からも更に退位の圧力が強まったため、三種の神器を持ち比叡山を経て笠置山(地図)に籠城して敗北し、正慶元年(1332)に隠岐島に流された。
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    そして正慶二年(1333)閏2月(西暦の4月)、後醍醐天皇は名和長年らを頼って隠岐を脱出し、各地で倒幕運動を展開していた後醍醐天皇の皇子 護良親王 、河内の 楠木正成、播磨の 赤松則村(共にwiki) らと呼応して伯耆国の船上山(鳥取県琴浦町、地図)で挙兵(西暦4月23日)。これを追討するため幕府が派遣した 足利高氏 (後の尊氏)は突如として後醍醐天皇側に寝返り、六波羅探題を攻め落とした。
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    その直後の5月には 新田義貞が挙兵し、長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所を陥落させた。当初は寡兵だった義貞勢には間もなく越後・信濃・甲斐の新田一族や里見・鳥山・田中・大井田・羽川など諸族が参加、利根川を渡って武蔵国に入ると鎌倉の人質だった高氏の嫡子 千寿王(後の室町幕府二代将軍の足利義詮)が合流し、足利氏の参加を知った近在の武士が次々に加わって20万を越す大軍が鎌倉を目指す。
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      ※長崎孫四郎: 北條得宗家の執事(内管領)である長崎一族だが系譜は不明。上野国守護は得宗家が着任する習慣なので守護代と推定される。
    義貞が守護所を攻め落としたのではなく、義貞挙兵を知って出動した孫四郎が義貞の大軍を見て退却したのが事実らしい。
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    太平記には「義貞討伐のため鎌倉を出て小手差原(所沢市小手指)を目指した軍勢の中に長崎孫四郎の名があり、上野守護所から逃亡後に合流したのだろう。ちなみに上野守護所の場所は不明だが、国府(前橋市総社町)の付近と推定できる。
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      ※義貞の進軍: 5月8日に新田を出発して南下し利根川を渡河、近隣武士団を吸収して戦力を高めつつ本庄→ 岡部を経由して美里町付近から
    鎌倉街道に入り、11日には入間川方面から北進して来た鎌倉軍と小手差原(所沢市、古戦場跡碑の 地図)で衝突する展開になる。
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      ※鎌倉街道: 吾妻鏡や鎌倉室町時代の文献に「鎌倉街道」の呼称はなく、奥大道・下道・中路の記載があるのみ。奥大道は白河から陸奥への道、
    中路は白河から栃木の小山・埼玉の狭山を経て鎌倉に至る道、下道は中路の途中(河越付近?)で上野国を経て北陸道に合流する道。
    従って義貞軍の南下は下道で、鎌倉街道の呼称は江戸時代中期、新編武蔵風土記(1830年編纂)などが初見となる。
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    現在「鎌倉街道上道」と認識されるのは吾妻鏡の「下道」に近い。上道は「上洛の道」で、本来は中仙道と並行するルート。その都度注釈を入れるのが面倒なので本稿では「鎌倉街道」と記載する。鎌倉街道」に関しては 埼玉県の鎌倉街道(外部サイト)が詳しい。
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    5月11日に小手指原で 桜田貞国 (wiki)の率いる幕府軍と衝突、河越氏の援軍を得た新田軍は概ね互角に戦った。翌日、約7km東南の久米川まで退いて布陣した幕府軍を新田軍が奇襲、攻撃を予知していた幕府軍と激戦になり、やや押され気味だった幕府軍は多摩川北岸の分倍河原まで退却して陣を整えた。ここで北條泰家(九代執権 貞時の四男で十四代執権 高時の同母弟)率いる幕府の援軍が加わった。
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    15日早朝に新田軍は突撃したが新手を得た幕府軍に撃破され堀金まで退却、新田義貞は辛うじて死地を脱した。幕府軍は勝利を確信して深追いせずに義貞の退却を見送ったのだが、この判断が北條氏にとって取り返しのつかない痛恨のエラーとなる。
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    敗北直後の義貞は新田荘への退却まで考えたが、当日の夜に北條氏を見限った大多和義勝(三浦一族)が河村・土肥・渋谷・本間氏らを率いて合流した。力を得た新田軍は翌早朝に幕府軍の陣を奇襲して撃破、翌日には続く関戸(多摩市関戸、地図)の合戦で北條泰家軍を敗走させた。この後の新田軍は鎌倉の最終防衛ラインである切通しの近くまで抵抗を受けずに進み、更に激しい攻防戦に続く市街戦が展開される。
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      ※堀金(堀兼): 分倍河原の約25km北、狭山市の堀兼神社(地図)前を通っているのが現在の鎌倉街道。堀金は最初に衝突した小手指ヶ原よりも
    更に北だから、鎌倉軍が追撃の手を緩めたのに義貞は必要以上に遠くまで逃げたことになり、真偽はやや疑わしい。
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    吾妻鏡は文永三年(1266)11月2日に記載を終えているため、あまり好きになれない軍記物の代表格「太平記」に基づいて話を続けることになる。
    別に吾妻鏡が好きというわけじゃないけどね。小手指ヶ原・久米川・分倍河原・関戸の各古戦場にはいずれも記念碑と合戦に関係する地名が残っている。


     その参 新田義貞挙兵 太平記に見る小手指ヶ原の合戦から関戸の合戦まで 

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    長壽寺 右:北鎌倉 長寿寺 伝・足利高氏の鎌倉邸跡    画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記 巻十 その一 千寿王殿が大蔵谷を脱出した事 】
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    足利高氏が鎌倉を裏切り 後醍醐天皇 に与して挙兵(4月29日)した報告は鎌倉にはまだ届いていなかったが、元弘三(1333)年5月2日に高氏の二男千寿王が大蔵谷を抜け出して行方不明になったのが判明した。高氏は幕府を支える中枢の御家人なので鎌倉の人々は「これは大事件になる」と感じて貴賎を問わず大騒ぎになった。
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    (この数日前)、鎌倉幕府は京都の政情を確認するために長崎勘解由左衛門入道(為基)と諏方木工左衛門入道を派遣していた。兵士を従えた両名は駿河の高橋で六波羅からの早馬に行き会って「(六波羅探題の)名越殿(北條高家)は討死、足利高氏(尊氏)は敵に寝返った」との報告を受けたため、その場から直ちに鎌倉へと引き返した。
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    ちょうどその頃、高氏の長男竹若丸は叔父の宰相法印良遍と召使の少年と13人の側近を伴い山伏姿で伊豆山権現から都を目指していたが、鎌倉に戻る途中の長崎入道らに浮嶋が原で遭遇してしまった。生け捕りを恐れた宰相法印は乗馬のまま切腹して絶命、長崎入道は「企みがあるから弁明も出来ないだろう」と竹若を刺し殺して13人の首を刎ね、浮嶋が原に晒して鎌倉に戻った。

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      ※足利高氏: 後に鎌倉幕府を倒した功績として後醍醐天皇の諱「尊治」の一字を受け尊氏に改名。ここでは尊氏ではなく、改名前の高氏と表示する。
    高氏鎌倉邸の場所は確定していないが、山ノ内から亀ヶ谷坂に入る角にある長壽寺の南側(地図)らしい。
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    高氏の四男で後に初代鎌倉公方となった基氏が父の菩提を弔い、亀ヶ谷坂の下にあった古い寺の堂塔を整備し、建長寺住職の古先印元を中興開山として建立したのが 宝亀山長壽寺(紹介サイト)で、臨済宗建長寺派に属する建長寺の境外塔頭である。
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    塔観音堂の裏手の「やぐら」に尊氏の遺髪を納めた五輪塔が残っている。尊氏の正式な墓所は京都市北区の 等持院(参考サイト)、ここは足利氏の菩提寺として霊光殿に歴代将軍の木像を安置している。
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      ※駿河高橋: 現在の静岡市清水区。竹若が討たれた浮嶋が原(沼津市)は約35km東(地図)になる。更に2km東には 阿野全成 の屋敷跡で墓所も
    残っている 大泉寺、更に1km東には伊勢新九郎(後の 北条早雲)の 興国寺城址、共にwiki)がある。
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      ※古先印元: 13歳で円覚寺に入り23歳〜31歳まで元(モンゴル帝国)で修行。帰国後は建長寺、甲斐恵林寺、京都等持寺、長壽寺、京都天龍寺、
    陸奥国普応寺、京都真如寺、同じく万寿寺の開山や住持を歴任した後に延文四年(1359)に円覚寺二十九世、建長寺三十八世に
     任じた。出身地は薩摩国。

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    喜連川龍光寺 左:喜連川の龍光寺に見る尊氏直系子孫の興亡  画像をクリック→詳細ページへ
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    室町時代まで進む意思はないので、足利氏のその後(分裂と抗争)について簡単に触れておくと...
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    足利高氏 の子で関東支配の任に当った足利基氏は鎌倉公方として関東周辺を支配したが、基氏死後の一族は京都の本家・室町幕府将軍家と対立して抗争を繰り返し、四代公方の足利持氏は第六代将軍足利義教と衝突して永享の乱(1438)を起した。
    ここで敗れた持氏は義教の命令で自害し、鎌倉公方としての足利氏は滅亡した。
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    義教の死後、助命されていた持氏の末子・足利成氏が将軍義政に家名の再興を許され、第五代鎌倉公方となった。しかし成氏は関東管領の上杉氏と対立して鎌倉を放棄し下総古河に退去して古河公方を称した。
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    成氏の死没後には相次ぐ内紛によって古河公方家は衰退し、第五代の古河公方・足利義氏が天正十一年(1583)に死去すると共に古河公方家は断絶した。
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    一方で鎌倉に入れず伊豆韮山に本拠を構えた足利義政の弟政知に始まった堀越公方家(所在地は韮山の旧・北條邸跡の一帯)は第二代の公方足利茶々丸の時代に内紛を起こし、その治安維持を建前にして伊豆に攻め込んだ伊勢新九郎(後の通称・北条早雲)によって滅ぼされた。
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    また第二代古河公方足利政氏の次男義明から続いた小弓公方家(本拠は下総の小弓、現在の千葉市中央区)も天文七年(1538)に北条氏綱(早雲の嫡男)に滅ぼされた。こうして出自の地である関東の足利氏は国政の表舞台から姿を消し、正嫡の足利将軍家は15代義昭(没年は1597年)の男子二人が子供を残さなかったため、尊氏の血脈は絶えてしまう。この後は秀吉が覇権を握り、やがて新田源氏の子孫を僭称した家康の天下を迎える。

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    反町舘 右:義貞の反町舘と新田館跡(總持寺)と江田館跡    画像をクリック→詳細ページへ
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      【 太平記 新田義貞謀反の事 天狗が越後勢を召集した事 】
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    こんな情勢の中、去る3月11日(元弘三年・1333年)に 後醍醐 先帝から倒幕の綸旨を受けた 新田義貞 は病気と偽って千剣破城(千早城(wiki)、大阪府南河内郡千早赤阪村)から本国の新田荘に帰り、一族の親しい者を密かに集めて謀反の計画を練った。こんな企てがあるとは知らない相模入道(北條高時)は弟の四郎左近大夫入道(泰家)に十万余騎を与えて京に上らせ、畿内と西国の騒乱を鎮めるため武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野の軍勢を召集し、その兵糧と軍資金調達のため近国の荘園に臨時の納税を命じた。
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      ※千早赤阪村: 大阪府で唯一の村。ずっと昔、キャンピングカーで熊野を目指し京都から和歌山に
    向かう途中で立ち寄った小さな道の駅 ちはやあかさか のすぐ裏が 楠木正成(wiki)生誕の地で、下赤坂城(地図)で挙兵した正成はその落城後に要害の上赤坂城(地図)に籠り智略を尽くして善戦、城を奪われた後も再び奪還している。
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      ※千寿王: 成長後の室町幕府二代将軍 義詮(wiki)。生母は 足利高氏(尊氏)の正室で、鎌倉幕府最後の執権(16代)に任じていた 北條(赤橋)守時
    (wiki)の娘 登子。つまり、攻め手の 新田義貞 と 守備側の執権守時は義理の親子関係にあり、娘と外孫が鎌倉から逃亡した責任を問われ当時は先々代執権だった 北條高時 から謹慎処分を受けた。疑惑を武門の恥と考えた守時は義貞勢を迎え撃つ部隊の先鋒として出陣し、巨福呂坂(実際には 洲崎の合戦、別窓)で一昼夜に65回もの斬り込みを繰り返した末に自刃した、と伝わる。
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    なお、逃亡途上の駿河で殺された竹若丸は庶長子で生母は加古六郎基氏(足利泰氏の子、所領の足利荘加古郷は足利市南東部、渡良瀬川南岸)の娘。高氏の四男で後に初代鎌倉公方になった 足利基氏加古基氏(共にwiki)はもちろん同名異人。
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    高氏が後醍醐天皇側に寝返り所領の篠村(京都府亀岡市)で挙兵したのが4月29日で千寿王の鎌倉脱出が5月2日、鎌倉を出陣した時点で寝返り&脱出は計画していたのだろう。共に鎌倉を出陣した名越高家(義時 の二男 朝時 の五代後の子孫)の戦死が動機と考える説もあるが高家の戦死は4月27日だから、それから千寿王に脱出を指示しても絶対に間に合わない。
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      ※浮嶋が原: 吾妻鏡にも数ヶ所に記載がある東海道の要所で、阿野全成 の館跡 大泉寺(別窓)も近い。承久の乱首謀者の一人として間もなく斬首
    される藤原宗行が、同じ罪科で既に 加護坂峠(別窓)で斬られた藤原光親の遺骨を持って京に戻る下男と擦れ違った場所でもある。
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      ※大蔵谷: 最初の政庁大倉御所の周辺だと思うのだが、千寿王の居た場所は判らない。 護良親王(wiki)が幽閉されていた 鎌倉宮(公式サイト)の
    付近、瑞泉寺(公式サイト)辺りと想像するが、あの付近の呼称は二階堂谷だね。千寿王は人質の身分と言っても 足利高氏はこの時点では間違いなく鎌倉側だから粗略な扱いは受けない。私は賑わう場所よりマイナーな旧跡が好きなので、つい本題から逸脱してしまう。

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    二体地蔵塚 左:黒沼彦四郎らを弔ったと伝わる二体地蔵塚  画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記の続き 】  執権高時は軍費調達のため近国に過酷な税の徴収を命令。
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    中でも新田庄世良田には裕福な者が多いとして出雲介親連と黒沼彦四郎入道を派遣し「六万貫を五日以内に納めよ」と命じた。両名は新田に着くと直ちに大勢の部下を率いて荘家に入り苛酷な取立てを行った。これを知った 新田義貞 は「我が館の地を雑人が馬蹄に懸けるとは許せぬ」と激怒し手勢を差し向けて両人を捕え出雲介を拘留、黒沼彦四郎を斬って世良田の里に首を晒した。
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    北條高時 は大いに怒り、「九代に亘る治世で命令に従わなかった例はない。近頃は遠国は従わず近国は命令を軽んじる、ましてや使者を斬る罪科は重い。生半可な措置をすれば大逆の元になるだろう」と直ちに武蔵国と上野国の御家人に新田義貞と弟の脇屋次郎義助の討伐を命じた。
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    源氏の名門 新田宗家の主ではあったが当時の新田氏は幕府から軽視されており、義貞から四代前の 政義 以降は惣領の地位を剥奪され、庶流の世良田氏と岩松氏が「半分惣領」として一族を統括している(経緯は金剛院円福寺の項で述べた)。しかも経済力は世良田・大舘・岩松・得川氏らに比べて貧しく、新田荘60郷のうち僅か5郷を所有していたに過ぎない。
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    要するに新田宗家には既に一族の方針を独断で決定するほどの権威はなく、土地を巡って起きた同族のトラブルでさえ義貞の調停が無視された事実が伝わっている。挙兵の方針は一族の合議で決定し、宗家の主である義貞が総大将に任じた、挙兵当初はその程度の経緯だったと考えるべきか。
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      ※裕福な者: 新田荘の農地が肥沃で、更に世良田が 長楽寺(別窓)の門前町として賑わい、富裕な商人が多かったのが追徴課税(笑)の根拠に
    なったらしい。長楽寺も世良田氏(子孫が得川氏)の支配圏にあって義貞(宗家)の財政には寄与していないが、住持の任命権が北條氏にあったため実質的には幕府への没収である。
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      ※長楽寺: 何度も新田荘を歩きながら撮影が遅れた場所。東照宮の敷地内なので「系図詐称の徳川か」とパスしたのが失敗だった。空堀や土塁跡も
    残っているから、深く反省して今回は真面目に探訪した(地図、観光協会の 紹介サイト)。但し、徳川の先祖説は新田=詐称である。
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    【 太平記の続き 】
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    義貞は一門の主だった者を召集して対応策を協議したが様々な意見があって纏まらない。ある者は「沼田庄に籠って利根川を防衛線にして待ち受けよう」と言い、ある者は「同族の多い越後の津張郡の上田山で迎え討とう」と主張する。ここで脇屋義助(wiki)が考えた末に進み出た。
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    武門に生きる者は命を惜しまず武名を重んじるべき。北條一門は覇権を握った160余年もの間に武威の衰えを見せず、利根川を盾にして戦っても運が尽きればそれまでだ。越後を頼ったとしても方針が一致しなければ長くは戦えない。「新田の連中は高時の使者を殺して逃げ回った挙句に討伐された」と噂になるのも悔しい限りである。どうせ謀反人と言われて討死するのなら朝廷のために働くべきで、その為の綸旨を受けている。運を天に任せ例え一騎でも討って出て義兵を挙げ、うまく軍勢が集まれば鎌倉を落とすのも夢ではない。もし集まらなければ鎌倉を枕に討死しよう。
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    武士の本分を旨とした言葉なので集まった一族の30余人は全てこれに賛同した。
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      ※越後上田山: 当時は新田一族の勢力範囲だった魚沼郡南部にある上田荘の山城(地図)。現在は南北朝時代以後の遺構が残っている。
    越後府中(直江津市)と関東を結ぶ交通の要所であり、魚野川を利用した船運の要所として穀物の運搬に欠かせない拠点だった。

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    脇屋義助館跡 右:義貞の実弟で腹心だった脇屋義助館の跡   画像をクリック→詳細ページへ
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    脇屋町は反町館など新田宗家中心部の東側に隣接し、土埃の舞う畑の十字路にポツンと「脇屋義助館跡」の石碑が建っている。実兄 新田義貞 の挙兵以来共に転戦し、義貞の戦死後も遺志を継いで戦い続けた末に伊予国で病没した悲劇の武将の名を今に伝えている。住所は太田市脇屋町178(地図)。
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    太平記に拠れば、新田義貞は幕府に対抗して挙兵した楠木正成軍の籠る千早城攻撃の搦め手として参戦し、執事の舟田入道義昌を呼んで倒幕の挙兵を相談した。
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    平氏(ここでは北條)が世の中を乱せば源氏(ここでは新田)がこれを正し、源氏が朝廷を軽んじれば平氏がこれを正してきた。最近の北條高時の様子を見ると幕府の命脈も尽き掛けている。後醍醐天皇 を助けて挙兵を成功させるには、まず勅命を得る必要がある。
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    そのように意見が決まり、大塔宮護良親王から令旨を得ようとした。大塔宮は「天皇の意思である」として綸旨(帝の勅命)を発行し、義貞は病気を偽って千早城の戦線を離脱し、綸旨を携えて新田に戻っている。
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    この時の軍勢の中に脇屋義助がいたとの記録は見えないから、恐らくは腹心の部下として義貞が不在の新田荘宗家を守っていたのだろう。義助の墓所は鳥取県倉吉市新町の 大蓮寺(wiki)、菩提寺は後述の「触れ不動」を祀る明王院安養寺(一つ下の段に記載)とされる。


    生品神社 左:生品神社の社頭で新田義貞が挙兵  画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記の続き 】
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    方針が決まったら露見しないうちに行動せねばと、5月8日の卯の刻(朝6時前後)に生品明神社殿の前で旗を挙げ、披露した綸旨を三度拝してから笠懸野へ出陣した。
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      ※生品神社: 住所は太田市新田市野井町1923(地図)、拝観無料、裏には観光バス用の広い駐車場
    もあり、鳥居前には大きな樹木が日差しを遮る絶好の休憩場所となる。
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    祭神は大穴牟遅神(大国主神)、平将門 を祀るとの伝承もある。平安時代の上野国神名帳に「新田郡従三位生階明神」との記録が残り、新田荘遺跡の一部として国の史跡に指定される。例大祭は義貞旗揚げの5月8日、当日は挙兵を想起させる鏑矢祭などのイベントがあり、広い境内が大勢の参拝客で賑わっている。
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      ※笠懸野: 生品神社の10km北、みどり市笠懸町(地図)。この経路を進んだ理由は不明だが東山道沿いに幕府の施設があった可能性はある。
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      ※綸旨の発行: 新田義貞 宛の綸旨が大塔宮経由で義貞に渡ったとする資料はない。後醍醐 は綸旨を乱発したが、太平記も「義貞宛に綸旨を」とは
    書いていない。頼朝 挙兵の際も権限のない 以仁王 が令旨を称したし、勝者が史実を書き換えたか捏造した可能性がある。
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    【 太平記の続き 】
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    従う一族は大館次郎宗氏・子息の孫次郎幸氏と二男弥次郎氏明と三男彦二郎氏兼、堀口三郎貞満と弟の四郎行義、岩松三郎経家、里見五郎義胤、義貞の弟脇屋次郎義助、江田三郎光義、桃井次郎尚義らを中心に僅か150騎、心許なく思っていた夕刻に南の利根川方向から甲冑武者2000騎ほどが土煙を揚げ駆け付けた。敵かと警戒して確認すると、越後の同族に加えて里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々だった。
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    義貞は喜んで走り寄り、「以前から計画した決起が昨日今日とは考えず俄かに思い立ったため越後にも連絡はしていなかった、なぜ判ったのか」と問い掛けた。大井田遠江守は馬上に畏まって「挙兵を知らずに馳せ参じたのではありません。去る5日に使者を称した一人の山伏が天狗の装束で越後国中に挙兵を触れ回ったのを受け、徹夜で駆け付けました。続いて遠方の者も加わるでしょうから、それを待って進軍しては如何でしょう」と。下馬してそれぞれ挨拶を交わし、人馬ともに息を整えた。
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      ※山伏の連絡: 明王院安養寺に祀られている白金の小さな不動明王像(絶対秘仏)が山伏姿で義貞挙兵を知らせた「新田の触れ不動」とされる。
    義貞は既に千早城攻略に出兵していた河内で護良親王(後醍醐天皇 の皇子 大塔宮)から北條追討の綸旨を受け、病気を理由にして新田に帰国している。北條高時 は義貞が使者を斬った報復として「新田荘平塚郷を長楽寺に寄進する」との下文を発行すると共に、新田討伐軍の派遣を決定している。この間の遣り取りを時系列で考えれば、義貞側では挙兵の準備と越後の同族などへの連絡を並行して進めていたと考えるのがノーマルだろう。ただし徴税の使者を斬った事件が突発的で、挙兵の予定が早まった可能性はある。

    明王院安養寺 右:「新田の触れ不動」を祀る 明王院安養寺  画像をクリック→ 詳細ページへ
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    明王院の正式名は呑嶺山明王院安養寺、住所は太田市安養寺町200−1(地図)、見学は無料。
     
    新田一族の氏寺として栄えた明王院は南北朝時代に足利氏の兵火で焼き払われ、江戸時代になって再建された。境内には石仏や古い五輪塔が点在しており、昭和八年(1933)に境内から出土した脇屋義助を供養する高さ119cmの秩父青石製板碑を覆屋の中に保存している。
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    明王院の一帯には 新田義貞邸の一ヶ所があって出土した板碑も義助を弔って建てられたものと推定されたが、南朝の武将として生涯を送ったにも拘らず北朝の年号である康永元年(南朝は興国三年 )が刻まれていたため真贋が疑われていた。
    現在では本物(北朝側だった庶流 岩松氏の建立と推定)と判断されており、この刻印によって義助の正確な没年月(興国三年/康永元年5月11日)が明らかになった。
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      ※北朝の年号: 鎌倉幕府が倒れた後の義貞が一族を率いて後醍醐天皇 の南朝に属したのではなく、
    最大支族の岩松氏宗家は一部の庶流を除いて 足利高氏(尊氏)に味方し、北朝側で転戦している。
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    南北朝時代以後の新田宗家は没落したが、岩松氏は勝者である足利氏に迎合して新田一族の惣領権を確保した上で上野国での勢力を維持し、その後の戦乱時代に至って家臣の下克上で新田の所領を失ってしまう。
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    しかし...500年以上も岩松姓を名乗り続けながら江戸時代末に新田氏に改姓し、「皇室に尽した新田氏の末裔」とアピールして維新政府から男爵の地位を得た子孫の姿勢には釈然としない思いが残る。

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    水殿瓦窯跡 左:美里町に残る瓦窯の跡 鎌倉街道の道筋か  画像をクリック→詳細ページへ
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    利根川から5kmほど南西で鎌倉時代の瓦窯跡(地図)が発掘保存されている。
    鎌倉の 二階堂永福寺(解説サイト)の瓦窯の一つだったと推定され、付近には鎌倉街道の枝道もあったらしい。
    足利千寿王ら援軍と合流した 新田義貞 が鎌倉を目指したルートだった可能性もある。
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    【 太平記の続き 】
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    そこへ旗を連ねた後陣の越後勢と甲斐・信濃の源氏勢5000余騎が加わったため義貞と義助は喜び、「これは八幡大菩薩の加護だ、留まらず進軍しよう」と、9日には武蔵国に入った。
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    更に紀五左衛門と 足利高氏 の嫡子千寿王(満三歳・後の室町幕府二代将軍義詮)が200騎と共に参加、これを聞いた上野・下野・上総・常陸・武蔵の軍勢が次々と加わり夕刻には20万7千余騎が兜を並べた。
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    800里四方の武蔵野には人馬が満ち溢れ、鳥も獣も隠れる場所を失なう程である。
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    一方の鎌倉には状況を知らせる早馬が次々と駆け込んだが、深刻さが理解できない者は「鎌倉を滅ぼそうなど蟷螂(カマキリ)が牛車の邪魔をするようなもの、気に掛ける必要はない」と馬鹿にし、時勢の変化を理解できる者は「大変なことになってきた、西国や畿内の合戦が鎮まらないのに身内から大敵が現れるとは、幕府が内側から崩れる予兆ではないか」と状況の危うさを語り合った。
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      ※武蔵国へ: 新田を南下して利根川を渡ると武蔵国、武蔵七党の一つ丹党の本領。武蔵国北部の有力武士団だった丹党・児玉党・猪俣党は義貞に
    味方しており、鎌倉街道南進の障害になる勢力はなかった。ちなみに南北朝時代の丹党・児玉党・猪俣党はそのまま義貞の南朝に所属したため敗戦に伴って徐々に勢力を失ない、その中では丹党の阿保氏のみは足利尊氏に味方して優遇され、長く勢力を維持した。
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    鎌倉街道は 畠山重忠 の本拠だった 菅谷館木曽義仲 生誕地の 鎌形、武蔵大蔵の 源義賢館跡 などの近くを通り、清水冠者義高終焉の地(全て別窓)だった入間川へと南下する。
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      ※軍勢の数: 新田軍は小手指ヶ原合戦の10日後には公称・70万騎を越す大軍となって鎌倉に攻め込むのだが数字の信憑性をどう考えるべきか。
    例えば平家を滅ぼしてほぼ覇権を握った 頼朝 が奥州合戦(文治五年・1189年)で率いた軍勢は(吾妻鏡に拠れば)28万騎、これは事前に充分な準備を済ませ近国の御家人に動員令を周知させた上での数字である。
    足利高氏(尊氏)が倒幕勢力に加わったのが判って間もない時期に挙兵して、頼朝動員数の倍を集めるのは物理的に不可能だろう。
    実数には諸説あるが、戦闘員に限定すれば表示の10%〜30%の範囲内かな、と考える。
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      ※800里: 秀吉の時代に一里≒3927mと定めたが、ここでは律令制の里(約533m)だろう。それでも400Km四方、武蔵野はそんなに広くない。
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      ※身内から敵: 鎌倉幕府での新田一族の地位は低く、北條氏側から見れば歯牙にも掛けぬ存在に近かったが、足利氏が謀反したとなると話は別。
    足利氏の棟梁・高氏は源氏一門の中心として御家人に対する発言力も高かったし、足利氏と北條氏とは 頼朝 の時代から協力して幕府を支えた関係である。高氏が所領の丹波で倒幕の兵を挙げたのは4月29日だから報告は鎌倉まで届いただろうが、東国各地の武将はまだ半信半疑だった。高氏の嫡子千寿王が義貞の陣に加わった事、つまり高氏が鎌倉幕府を見限ったと知った武将たちは次々と義貞軍に加わった。治承の戦乱(1180年〜)で平家が滅びた時と同じく生き残るためには勝ち馬に乗る、それが大多数の鎌倉武士の打算である。

    小手指〜関戸合戦場の地図 右:入間川〜小手指〜久米川〜分倍河原〜関戸合戦場の地図    画像をクリック→拡大表示
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      【 太平記の続き 】
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    新田謀反の報告が届いたため、鎮圧軍を京都に派遣する筈だった幕府は義貞討伐を優先せざるを得なくなった。
    5月9日に軍議を開き、翌日の巳の刻(午前10時前後)には金沢武蔵守貞将に五万騎を与えて下河辺に向け出陣させた。まず上総と下総の軍勢を集めて東に迂回し、搦め手として新田勢を横から挟撃する作戦である。

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      ※金沢貞将: 北條義時 の五男 實泰 を祖とする金沢流北條氏五代当主。父の貞顕が15代執権(14代高時の次、
    16代守時の前)を務めている。下河辺荘を目指した貞将は六浦を経て北進したが鶴見川で義貞に呼応した千葉貞胤と小山秀朝の連合軍に敗れて鎌倉に撤退し、義貞軍を挟撃する作戦はこの時点で失敗に終った。貞胤が本領の下総から鶴見川(横浜)に進出していたのは、義貞との打合せ通りの行動だろう。
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      ※下河辺: 茨城県古河市から千葉県野田市・埼玉県加須市一帯にかけての広大な荘園。
    平安時代末期に 藤原秀郷 の子孫である下河辺一族が開墾開発し、源三位頼政 を介して鳥羽法皇(后の美福門院または娘の八条院 説あり)に寄進して立荘した。1450年代に鎌倉公方の足利成氏が政情不安になった鎌倉からi逃げて古河公方になって以後は、その支配下に入ることになる。
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      ※千葉貞胤: 貞胤は千葉氏十一代当主、秀朝は小山氏八代当主。共に北條(大仏)貞直に従って楠木正成討伐に
    参加し、帰国後は義貞に呼応して挙兵した。倒幕後の貞胤は義貞に従って転戦、劣勢になった建武三年(1336)11月に北朝に寝返って下総守護を安堵された。小山秀朝は下野守に任じたが建武二年7月に再起した北條時行が鎌倉に攻め込んだ中先代の乱(敗者復活戦だ)で大敗、武蔵国府中で戦死した。
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      【 太平記の続き 】
     
    大手の軍勢は桜田治部大輔貞国を大将に、長崎二郎高重・同孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道と武蔵・上野両国の6万騎を与えて鎌倉街道を武蔵国の方向に出陣させた。これは敵を入間川の渡河地点で迎え討つ作戦である。承久の乱(1221年)以後の東国は平和が続き人々は合戦を忘れていたため軍勢の出動が珍しく、兵も馬も武具も華やかに装った様子は一見の価値があった。
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    桜田貞国の軍勢は途中で2日間留まって兵力を整え、11日の辰の刻(午前8時前後)に武蔵国小手差原(所沢市小手指)に展開した。遠くの源氏勢を見ると雲霞のような大軍が進んで来るため、桜田貞国と長崎高重は予想とは大きく違う展開に馬を抑えて留まった。

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      ※桜田貞国: 五代執権 北條時頼の末子時厳(時宗の異母弟)の二男で武蔵国桜田郷(現在の霞ヶ関、桜田門一帯)が本領の桜田流北條氏の祖。

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    小手指ヶ原の合戦 左:新田軍と北條軍、最初の激突 小手指ヶ原合戦場   画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記の続き 】
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    義貞は直ちに入間河を渡って鬨の声を挙げ、陣を進めて矢合せの鏑矢を放った。鎌倉勢も同様に鬨の声を挙げ軍を進めて互いに激しい矢戦を展開した。両軍共に東国育ちの武者なので躊躇せず太刀・長刀を構え馬を並べて斬り込み、2百騎・3百騎・千騎・2千騎で30数回も戦いを繰り返した。
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    この合戦で義貞勢は300余騎・鎌倉勢は500余騎が討死した。やがて日暮れが迫り人馬共に疲れたため合戦の続きは明日にと約束し、義貞は3里退いて入間河に陣を構えた。鎌倉勢も同様に3里退いて久米河に布陣、両軍を隔てるのは僅かに30余町(3km強)で人馬とも休息しながら夜が明けるのを待った。
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      ※三里後退: 太平記が成立した14世紀中盤の一里は律令制の基準なら約5〜6町、記載通りならば
    双方が概ね2kmの距離を退いたことになる。ただし地図上では入間川から小手指ヶ原合戦場まで約10km、小手指ヶ原合戦場から久米川合戦場までは約7km離れている。
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      ※渡河地点: 鎌倉街道が入間川を越える「八丁の渡し」は現在の新富士見橋の近く(地図)。渡河地点に布陣して迎え撃つのが定石だが、義貞軍の
    進出が予想よりも早かったのかも知れない。桜田貞国率いる鎌倉軍が「途中で二日間留まった」理由は判らないが、これも勝敗の帰趨に影響を与えたのだろう。元暦元年(1184)の4月に鎌倉を脱出して武蔵鎌形を目指した清水冠者義高木曽義仲の嫡子)が追手に殺されたのも八丁の渡し近く。義高事件の詳細は 義高最期の地 清水八幡と影隠地蔵(別窓)で。

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    徳蔵寺の石造仏 右:小手指原に続く激戦、久米川の合戦    画像をクリック→詳細ページへ
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      【 太平記の続き 】  右側画像は徳蔵寺の板碑保存館収蔵の宝篋印塔など、詳細はリンク先に記述。
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    翌朝、新田勢は鎌倉勢に先を越されぬよう馬を進めて久米河の陣に押し寄せ、鎌倉勢も馬の腹帯を締め兜の緒も固く結んで迎撃体制を整えた。鎌倉勢は大きく展開して義貞勢を取り囲もうとし、また義貞勢は密集して敵陣の突破を狙い、両軍は入り乱れて決死の戦闘を続けた。
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    勝敗は時の運、新田勢に比べると鎌倉勢の損害が大きかった。加治入道と長崎高重は二度の合戦とも敗れた気がして分倍(府中市分倍河原)に撤退、新田勢は追撃も考えたが連日の合戦で多くの人馬が疲れていたため久米河に野営して一夜の休息をとった。
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    12日の小手差原合戦で桜田貞国・加治入道・長崎高重らが敗北との報を受けた鎌倉の 北條高時 は弟の四郎左近大夫入道恵性(泰家)を大将軍に塩田陸奥入道(北條(塩田)国時)・安保左衛門入道(実泰)・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明らと10万余騎を派遣、この部隊は14日夜半に分倍に到着した。
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    援軍を得た鎌倉勢が勢いを取り戻したのを知らない新田勢は15日未明に分倍に押し寄せた。
    鎌倉勢は優れた射手3000人を選び雨のように射掛けたために進軍を阻まれ、意気揚がる鎌倉勢は反撃を開始した。義貞は屈強な兵を引き連れて縦横に駆け回り7・8回も戦ったが、敵の新手は敗戦の恥辱を雪ごうと奮闘し、義貞は遂に敗れて堀金(狭山)まで退却した。
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    新田勢の死者と負傷者は無数、間を置かず追撃すれば義貞の命運も尽きたのだが、鎌倉勢は勝ちに驕って「敵は大したものではない、義貞は武蔵・上野の武士が討ち取って首を持参するだろう」と鷹揚に構えて時を過ごした。北條の命運が尽きる予兆である。

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    堀兼神社 左:分倍河原で敗れた義貞軍は堀兼まで退却    画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記 三浦大多和(義勝)が述べた合戦についての事 】
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    堀金に退いた新田義貞 が次の方策に悩んでいるところに三浦大多和平六左衛門義勝が参陣した。以前から義貞に志があったため相模の武将である松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷などと共に6千余騎を率いて15日の夜に到着、義貞は喜んで近くに席を設け合戦に着いての意見を求めた。
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    義勝が言うには「天下が二つに分れ互いの存亡を懸けて戦うのだから10回や20回の勝敗は当然のこと、しかし最後には天命に従うのだから新田勢の勝利には疑いがない。義勝の軍勢を併せて総勢10万余騎、敵の数には及ばないが次の合戦に勝負を委ねるべきでしょう」と。
    しかし義貞は 「我が方の疲弊した兵で勝ち誇った敵に当るのは如何なものか」 と答えた。
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    義勝は「勝ちは既に見えています。中国で秦と楚が戦って楚が滅びた史実を見れば、勝って油断した側が最後に敗れるのは明らか、昨日部下に敵陣を探らせると将兵が勝利に驕る姿は昔日の楚と同じであります。
    明日の合戦では私の率いる新手の軍勢が先頭で戦って見せましょう」と申し出た。義貞は心を打たれ、義勝の言葉に従って作戦の立案を彼に委ねた。
    .
      ※大多和義勝: 義行とも。三浦氏初代義明の七男(異説あり)大多和義久から五代後の子孫らしいが系譜は不明。軍勢は相模武士団、義勝率いる
    6千余騎は誇大表示だとしても、鎌倉幕府が足元の相模国から崩れる気配を見せ始めたのは間違いない。
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    この辺は中国の故事などを引用して情勢を解説する軍記物語の胡散臭い部分で、実際にそんな話をしたか否かは疑わしい。
    15日の第一次分倍合戦では増援部隊を得た鎌倉軍が勝利して義貞軍を撃退した、16日の第二次分倍合戦では大多和義勝の増援部隊が加わった義貞軍が大勝した...言葉にすると実に勇壮なのだが、本当に太平記の書いた通りの展開だったのか。
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    久米川で野営した義貞軍は15日早朝に13km南進して分倍の鎌倉軍を攻撃して敗れ、義貞は将兵と共に分倍から堀金まで25kmを退却し、翌早暁には大多和義勝の援軍と共に再び25kmを行軍して分倍の北條泰家軍を撃破したことになる。15日早朝から16日早朝までの24時間で完全武装の将兵が「13kmの進軍→半日ほどの交戦→25kmの退却・野営→25kmの進軍→半日の交戦」のハードスケジュールで「分倍に布陣したままの」鎌倉軍を殲滅できるのかどうか。しかも鎌倉軍が「見張りも不十分で敵襲を警戒していない状態」だった...そんな美味しい話があり得るのかどうか。

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    分倍河原駅前の義貞像 右:分倍河原の合戦 駅前の新田義貞像    画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記の続き 】
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    明けて5月16日寅の刻(早朝4時前後)に三浦の4万余騎を先頭に、敵陣深くに入るまで旗も挙げず鬨の声も立てず分倍河原(地図)に押し寄せた。敵を出し抜いて一気に勝負を決する作戦である。
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    案の定鎌倉軍は人馬とも合戦に疲れた上に敵襲の警戒もしていなかったので馬には鞍を置かず甲冑も着けず遊女と添い寝したり酒宴で前後不覚に眠る者など自滅を待つのも同然の有様だった。
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    分倍河原の前面に布陣した者が寄せ手に気づいて「前方から旗を巻いた大勢の騎馬武者が接近して来る、敵かも知れないから警戒を」と報告したが信用されず誰も対応策を講じなかった。義貞は義勝の先陣に合流して10万余騎を三手に分け三方から押し寄せて一斉に鬨の声を挙げた。
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    高時の弟・左近入道恵性(北條泰家)は驚いて「馬はどこだ、甲冑は」と慌て騒ぐところへ義貞と義助の兵が縦横無尽に駆け回る。大多和義勝はこれに力を得て江戸・豊嶋・葛西・河越、坂東の八平氏と武蔵の七党を七手に分けて攻め立てた。人数に勝る鎌倉勢は散々に敗れ鎌倉に逃げ帰った。
    この追撃戦での戦死者は数知れず、大将の左近入道(泰家)も関戸の近くで討たれそうになった。
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    分倍河原から多摩川を渡った南側が関戸合戦場で、敗走する鎌倉方が義貞軍の追撃により多くの損害を出した。150年前に倶利伽羅峠で敗れた 平惟盛軍が義仲の追撃を受けて壊滅し 斎藤實盛俣野景久伊東祐清 が討死した篠原の合戦を思い起こさせる。
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    軍記物語は「勝者が油断して逆襲される」例を再三描いているが、生死を分ける合戦の決着前に爆睡したり酒宴を楽しむ筈はない。もちろん私論だが、この時点で既に圧倒的な戦力差があったと思う。脱落者が出始めた鎌倉の動員力と鎌倉以外の動員力を比べれば一目瞭然だ。

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    関戸合戦 左:敗走する鎌倉軍を追って関戸の掃討戦へ  画像(関戸橋)をクリック→ 合戦のページへ
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    【 太平記の続き 】
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    主人の泰家(左近入道)を助けるため踏み止まった横溝八郎は敵23騎を射落した末に主従3騎が討死、安保入道父子3人と従兵100余人も討死、他に譜代の家臣や従兵300余人が引き返して討死する間に大将の左近入道は無傷で逃げ延び、山之内(北鎌倉)を経て鎌倉に帰った。
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    長崎二郎高重は久米河で組み合った首二つと斬り殺した首13を召使に持たせ、鎧に刺さった矢も抜かず傷から流れる血で白糸威の鎧を緋縅の様に染め、静かに鎌倉殿邸の中門に畏まった。
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    祖父の長崎円喜入道は高重を嬉しく出迎え、傷口の血を口で吸い出し涙を溜めて「古い諺に「子を見ること親に如かず」と言うが、私は今までお前は上様の役に立たない奴だと思い勘当同然の扱いをしたのは大きな間違いだった。今後も忠義を尽くし父祖の名を辱めぬよう高時殿の御恩に報いよ」と褒め上げた。高重も目に涙を溜めて平伏した。
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    さて、都には六波羅が陥落し鎌倉方の武士は近江の番場で全員自害との報告が届いた。敵が攻め寄せる最中に届いた知らせは北條一族にも知れ渡り、嘆きと共に手足の力が抜けるような思いである。大軍を前にして京に援軍を派遣することも出来ず、急いで鎌倉防衛の軍議を開いた。
    一方で六波羅の陥落は 新田義貞側も知るところとなり、こちらは喜び勇む結果となった。

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    ※横溝八郎: 泰家の郎党で安達一族の所領だった鶴見の武士だと思うが詳細は不明。
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    ※長崎円喜: 北條得宗家の被官(家臣・御内人)筆頭で執権を越える権力を握っていたと伝わる。十四代執権 北條高時 が正中二年(1326)に病気で
    退いた後は 金沢貞顕(wiki)(義時 の五男實泰(母は伊賀の方)の曾孫)が十五代執権に就任したが、高時の生母・大方殿の圧力などで間もなく辞任、赤橋流の 守時(wiki)が最後の十六代執権となった。実権は高時・大方殿ラインと長崎円喜・高資親子に握られ、足利高氏(尊氏)の嫡子千寿丸が鎌倉から逃亡した際には執権でありながら高時に謹慎を命じられたほど。
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    内紛に伴う指揮系統の乱れが鎌倉幕府の失政や反乱への対応遅れを招き、更には得宗被官などへの権力分散が滅亡の原因になったと考えられている。高重は高資の嫡男、円喜から見ると摘孫に当る。
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    右:北條仲時主従を弔った近江番場の蓮華寺五輪塔    拡大表示なし
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    【六波羅陥落前後の動き】
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    元弘三年(1333)2月24日に隠岐を脱出した 後醍醐天皇 は同月28日に伯耆(鳥取)の船上山で倒幕の綸旨を発行、各地で反乱の動きが激しくなった。幕府は混乱の元凶である後醍醐討伐のため足利高氏と名越高家を指揮官として追討軍を派遣した。
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    九州では3月13日に鎮西探題の赤橋英時が後醍醐側の菊池武時軍を撃破、更に六波羅探題軍は千種忠顕と赤松則村軍の京都侵攻を防いで勢いを取り戻すかに見えたが、4月27日には追討軍指揮官の一人名越高家が久我畷(こがなわて、京都南部・この辺)で赤松円心軍に討たれた。
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    そして、もう一人の指揮官だった 足利高氏(尊氏)が所領の丹波篠村で幕府に叛旗を翻した。
    幕府の中枢にあった足利高氏の裏切りに加えて、天皇と上皇の身柄(赤松則村の下を参照)を後醍醐側に奪われて「朝廷に弓を引く賊軍」の汚名を着たことが幕府側にとっては致命的な打撃となった。
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      ※千種忠顕: 後醍醐近臣の公家で倒幕後は新田義貞と共に足利尊氏と戦い京都で戦死した。
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      ※赤松則村(円心): 播磨の守護大名で当初は六波羅探題に勤め、元弘の乱当初から後醍醐側に加わった。鎌倉幕府滅亡後は政治力に欠ける後醍醐
    に従わず足利尊氏の盟友として南朝の新田義貞らと戦いを繰り返した。
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    5月7日に足利高氏・赤松則村・千種忠顕軍は六波羅探題を総攻撃、敗色が濃くなった六波羅探題北方の北條仲時は南方の北條時益と共に残兵を率いて光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を帯同し東国への脱出を図ったが、約80km先の近江で野伏の襲撃を受け時益が戦死、更に佐々木道誉の軍に囲まれたため天皇と上皇を引き渡し、番場の蓮華寺(地図)の本堂前で自刃した。
    上野国で 新田義貞 が挙兵したのは偶然にも六波羅陥落の翌5月8日である。蓮華寺には自刃した仲時を含む432人の五輪塔が残っている。
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      ※北條仲時: 義時 の三男 重時(母は姫の前)が極楽寺流の祖で、重時の五男 業時 が普恩寺流の祖となった。業時の嫡孫が第13代の執権が基時で、
    その嫡子が北方探題の仲時。極楽寺流は北條一族の中では得宗家に次ぐ高い家格とされていた。
    南方の北條時益は義時の四男で第7代執権となった政村流の 北條政村(母は 伊賀の方)の二男政長から時敦─時益と続く嫡流。
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      ※佐々木道誉: 近江を本領とし頼朝挙兵に功績を挙げた 佐々木秀義の長男 定綱 の四男 信綱 が近江国一帯の守護に任じ、その四男 氏信が近江
    六郡と京都の京極高辻邸を継承して京極を名乗った。氏信−宗綱−貞宗−宗氏と続き、宗氏の嫡男が京極高氏(佐々木道誉)。
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    所領の明細は判らないが、長浜から番場を含む坂田郡(六郡の一つ)を継承していたと思われる。当初は鎌倉幕府で 北條高時 の側近として仕え、後に 足利高氏(尊氏)に従って転戦した。南北朝分裂後も尊氏から離れず、室町幕府の重臣として六ヶ国の守護を務めた。
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    蓮華寺の五輪塔群は近年に整備されたもので、元々の蓮華寺を含めた所在地は400mほど東の旧街道に沿った六波羅山(地図)だったらしい(痕跡の有無は不明)。ここも訪問し残した場所なので、いずれ改めて。取り敢えず詳細は こちら(外部サイト)を参照されたし。この戦いによって天皇と上皇は全て後醍醐側に確保され、鎌倉幕府は「朝敵」として四面楚歌の窮地に陥った。残っているのは北條一族と縁が深く一蓮托生で過ごしてきた武将のみ、この時点で趨勢は明らかだった。「鎌倉防衛軍十数万」は太平記の誇張に過ぎない。    蛇足...歌人の斎藤茂吉は蓮華寺四十九世住職の門弟だったとか。


     その四 鎌倉攻防戦 北條氏滅亡と鎌倉幕府の終焉 

     
    鎌倉攻防戦 右:新田勢は鎌倉の西側から総攻撃を開始    画像をクリック→拡大表示
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    【 太平記 鎌倉合戦の事 】
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    新田義貞 が数度の合戦に勝利したと聞いた関東八ヶ国の武士は雲霞の如く義貞の旗下に加わった。合流した軍勢は新田軍が北條勢を撃破して関戸に布陣した一日だけで60万7千余騎を数え、義貞はここで軍勢を三手に分けて各々2人の大将を選んだ。
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    一手の左将軍は大館二郎宗氏(本領は大館郷)・右将軍は江田三郎行義(本領は世良田郷)とし、10万余騎を率いて極楽寺の切通しへ、一手の左将軍は堀口三郎貞満(本領は堀口郷)・右将軍は大嶋讚岐守守之(本領は大館郷)とし、10万余騎を率いて巨福呂坂の突破を目指した。
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    残る一手は新田義貞と脇屋義助を全軍の総司令官として堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川らの一族が前後左右を固め、50万七千余騎が(梶原から)化粧坂切通しに押し寄せた。
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      ※新田軍の将: 大館・江田・堀口・大嶋・堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川は全て新田系の一族。
    途中から「雲霞の如く」加わった東国武者の名は太平記には載っていない。
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    太平記の著者は益々調子に乗って嘘八百を並べ立てる(笑)。鎌倉時代末期前後の総人口は推定で一千万弱(米の生産量から推測するらしい)。女性が半分で残りの1割が武士なら50万、義貞挙兵の数日以内に合流できる東国武者に限定すれば5万騎でも多すぎる。例えば、梶原から化粧坂を目指して50万余騎じゃ、集まっただけで死人が出るよ。化粧坂切通しで実戦に参加できるのは敵味方あわせて5〜6千人が限度だろう。


    十間坂の風景  左:国道134号で分断された古道 十間坂    画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記 鎌倉合戦の事 の続き 】
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    鎌倉の人々は分倍河原と関戸の合戦で味方が敗れたのは聞いていたが敵の規模も判らず、大した事ではないだろうと思っていた。しかし討手の大将として出陣した四郎左近大夫入道(北條泰家)が敗北して昨夜山之内に退却し、更に搦め手の大将として下河辺に向った金沢武蔵守貞将が小山判官(秀朝)・千葉介貞胤に敗れて鎌倉街道下道から退却したのを知って思わぬ展開に慌て始めた。
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    加えて5月18日の卯の刻(朝6時前後)に新田勢が村岡・藤沢・片瀬・腰越・十間坂など50余ヶ所に放火して三方から攻め寄せた。武装兵が鎌倉中を駆け回り、貴賎を問わず避難して山野を逃げ惑った。
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      ※掲載の地名: 村岡(地図)と藤沢は現在の藤沢市、片瀬(地図)は江の島の手前、腰越(地図)は片瀬の
    東1km、十間坂(地図)は七里ヶ浜西端にある小動神社東の浜から浄泉寺の北側を龍口寺まで通じていた古道。村岡と藤沢は化粧坂に向う義貞軍が、片瀬・腰越・十間坂は極楽寺坂に向う大館宗氏軍が放火したらしい。久米川徳蔵寺にある合戦板碑の「飽間孫三郎宗長三十五(歳) 於 相州村岡十八日討死」は藤沢の村岡を指している。
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    新田軍に対抗して鎌倉側は軍勢を三手に分け相摸左馬助(北條)高成・城式部大輔景氏・丹波左近太夫将監(北條)時守を総大将に任命、金沢越後左近太夫将監(貞顕)が安房・上総・下野の軍勢3万余騎で化粧坂(地図)を守り、大仏陸奥守貞直が甲斐・信濃・伊豆・駿河の軍勢5万余騎で極楽寺切通し(地図)を守り、赤橋前相摸守守時が武蔵・相摸・出羽・奥州の軍勢6万余騎で洲崎(地図)を守った。その他に、劣勢になった前線に派遣する増援部隊として、北條一族に連なる80余人と諸国の兵10万余騎を鎌倉中心部に待機させた。

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    鎌倉攻防戦 右:洲崎古戦場の碑と「泣き塔」の風景    画像をクリック→詳細ページへ
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      【 太平記 赤橋前相模守々時が自害した事 本間が自害した事 】
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    赤橋守時は朝から洲崎で激しい戦いを繰り広げていた。一昼夜の間に65回も斬り合う白兵戦があり、数万騎の軍勢も次々に討たれたり逃げたりして僅か300余騎が残るまでになった。
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    守時は侍大将の南条高直に「今は劣勢だが合戦の帰趨は最後まで判らないし、北條一族の命運が今日尽きるとも思えぬ。しかし私は一門の安否を見届けずに此処で腹を切ろうと思う。私は 足利高氏 室の血縁なので相模守 高時 ら一門の者は心を許しておらず、これは武門の恥辱である。激戦が続いて兵も疲れ果てたが、ここを退却して嫌疑を受けつつ生き延びようとは思わない」と腹を切り、北を枕にして息絶えた。
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    南条高直は「大将が自害して士卒が命を惜しむものか」と続いて自害、従った武士90余人も折り重なって自刃した。こうして洲崎が最初に突破され、新田勢は18日の夜に山之内まで進出した。
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    ※高氏室の血縁: 守時の妹・登子は高氏(尊氏)の正室で嫡男の千寿丸(後の二代将軍義詮)と共に人質の扱いで鎌倉に置かれたが、尊氏が後醍醐側に
    寝返ると同時に母子は鎌倉を脱出して 新田義貞 軍に合流した。妹を介した高氏との関係を邪推されたくない守時(16代執権)は退却を潔しとせず自刃を選んだ。戦乱の倣いではあるが登子は実家を見捨てて尊氏に従い、室町幕府樹立後は御台所として従二位(没後に従一位)に叙されている。最高権力者であるべき執権が実権を奪われこんな形で死ぬなんて、滅ぶべくして滅んだという事だろう。
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    ※山之内: 当時は鶴岡八幡宮の西から大船に通じる現在の巨福呂坂洞門(切通し)の上を越え 巨福呂坂(別窓)が建長寺前(山之内)に下っていた。
    鎌倉七口の一つではあるが切通しではなく急峻な峠道だった。赤橋守時軍は鎌倉防衛線外側の洲崎(戦線は洲崎から東慶寺(地図)付近まで広がっていたらしい)を突破され、鎌倉北東側の戦場は巨福呂坂と化粧坂に移っていく。

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    成就院 左:極楽寺坂切通しに建つ紫陽花の名所 成就院    画像をクリック→詳細ページへ
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    改めて書くまでもなく、極楽寺坂は鎌倉と外の世界を結ぶ七口の一つで 新田義貞 による鎌倉攻めでは最も過酷とも言える激戦が繰り広げられた場所。当時は少しだけ切り下げた峠道で、現在の切通しは大正十二年(1923)から昭和元年(1926)まで三年を費やして新しく掘り下げた、文字通りの「切通し」である。
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    現在の切通しを真上から見下ろせる 普明山法立寺成就院(公式サイト)の寺伝などを要約すると、極楽寺坂の旧道は 「道巾一間(2m弱)、星月の井(地図)の辺りから登り始めて成就院門前付近で頂上を越え、桜橋(極楽寺門前)の近くに下っていた」、約400mの峠道である。「星月の井」から最高点の成就院山門までの距離は200mで高低差は30m、桜橋から見た高低差は約20mになる。
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    つまり大正末期までの「極楽寺坂」は現在の路面より10mも高い山頂近くを通っており、名越切通しと同様に「騎馬武者一騎なら何とか通れるが二騎並んで進むのは無理」 とされる狭路だった。
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    大仏陸奥守 北條貞直(wiki)が率いる鎌倉軍は成就院裏の霊山山(霊仙山とも)に布陣し、急峻な地形を利用した「五合桝」などの堅固な防衛線を構築して極楽寺坂に迫る新田の大軍を待ち構えていた。直下の狭い波打ち際を通る稲村路には逆茂木などの障害物を置き、崖の上からの矢石で阻止する強固な防衛線である。矢戦だけでは突破できず、決死の斬り合いで霊山山を奪い進軍ルートの確保を狙う新田軍の猛攻は18日から21日まで昼夜を問わず続き、敵味方とも屍の山を築いた、と伝わる。
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    明治十三年(1880)には1km北の大仏切通しの旧道を「五町(約550m)の山道を三丈(約9m)切り下げて人力車が通れるように改修した」との記録が残っているから、鎌倉中心部から西に抜ける主要道路は40年間ほど大仏切通しだった。平安時代からの利用頻度は稲村路→極楽寺坂→大仏切通し→極楽寺坂切通し、の順に変遷したと考えて良い。

    極楽寺坂 右:鎌倉攻防最大の激戦地だった極楽寺坂   画像をクリック→詳細ページへ
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    極楽寺(wiki)の開山は 忍性 とされるが、厳密には正元元年(1259)に 北條重時 が深沢または藤沢にあった念仏宗の寺院を現在地(当時は地獄谷と呼んだ)に移し、極楽寺の名に改めたのが最初らしい。
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      ※地獄谷: 疫病の死者などを投げ捨てる風習があった事からの呼び名だった、とも伝わる。
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    ただし真言律宗に改めたのが忍性なのか、或いは忍性入山前に改宗していたのかは諸説があって結論は得られない。重時と極楽寺の関係に関しては吾妻鏡の弘長元年に記載があり、極楽寺の開基を務めた関係から重時を祖とする北條一族は「極楽寺流」と呼ばれるようになった。得宗家に次ぐ家格である。
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    【 吾妻鏡 弘長元年(1261) 4月24日 】
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    六代将軍(宗尊親王)が騎馬で奥州禅門(重時)が極楽寺に新造した山荘に入った。相州禅門(時頼 )は少し前に出仕して(山荘に)控えていた。
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    最初に重時が別邸を建て、その敷地内に念仏宗寺院を移築して忍性を招いた...そんな経緯だろうか。将軍入御の翌日には臨席の元で笠懸けや小笠懸けなどが開かれた。連署を務めた重時はこの年の11月に、五代執権の時頼(1256年に退任)は2年後の弘長三年(1263)11月に死没している。
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    極楽寺坂古道を最初に整備したのは極楽寺の実質的な開祖の忍性である。忍性が 北條時頼 に招かれて鎌倉に入り極楽寺開山に任じたのは文永四年(1267)、同寺で死去したのは嘉元元年(1303)。極楽寺坂を整備した年代の記録はないが、鎌倉時代の中期以後だったのは間違いない。
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    更に推測すれば、第一次の蒙古襲来(文永の役)が1274年で、国書を携えたクビライの使者(2回目)は文永五年(1268)1月、つまり忍性入山の翌年に大宰府入りした。同年2月に幕府は御家人に対して 「蒙古が凶心を起して我が国を狙っているから襲来を警戒せよ」 との指令を出している。つまり忍性の鎌倉入りは、万一の蒙古襲来から鎌倉の西側を守るために極楽寺周辺を整備し防衛拠点と考えた(可能性のある)時期と、ほぼ重複することになる。
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      ※関東御教書: 一.蒙古国事 蒙古人挿凶心、可伺本朝之由、近日所進牒使也、早可用心之旨、可被相触讃岐國御家人等状、依仰執達如件
                            文永五年二月二七日 駿河守殿(北條有時) 相模守(北條時宗)左京権大夫(北條政村

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       関東御教書(みぎょうしょ)は幕府が発行する公文書で 下文、御教書、下知状の三形式があり、差出人と受取人の関係や内容により使い分け、
    執権と連署の署名が載る。この年2月までの執権は政村で連署が時宗、国難を迎えて翌3月に時宗が執権、政村が連署に入れ替わる。
    そして時宗は外敵に備えて国論を統一し指揮系統を明確化するため異母弟の 時輔 や名越流の 時章教時 兄弟らを粛清する(二月騒動・wiki)。
    個人的には時宗の判断を是としないが、党利党略や権力維持のため 国難解散 を詐称した俗物(安倍)とは本質的な違いがある。
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    極楽寺坂が拓かれるまでの本道は霊山山崖下の海沿いを通っていた稲村路で、稲村ヶ崎の西側から:現在の江ノ電ルートで極楽寺の方向に登り、霊山山の手前で鞍部を越えて坂ノ下の浜に下っていた(ルート地図、現在の坂ノ下エリアは近世の埋立地)。
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    現在は崖の崩落などで古道の大部分は不明確だが、鎌倉中心部から龍ノ口や腰越に向かうとき、或いは歴代将軍が二社詣で伊豆山を目指すとき、更には 相模川橋供養(別窓)で落馬し重態となった 頼朝 が鎌倉に戻ったのも極楽寺坂ではなく、この稲村路だろう。従って鎌倉に攻め込むために稲村ヶ崎の先端を干潮時に渡渉する必然性はなく、黄金造りの太刀を海神に捧げて引き潮を祈ったなんて、軍記物語が奇を衒った捏造に過ぎない。

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    つくば市 極楽寺 左:南都から常陸へ。忍性の拠点 三村山極楽廃寺  画像をクリック→明細にリンク
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    建保五年(1217)に大和国(奈良県)で生まれた 忍性 は幼くして仏門に入り、16歳の天福元年(1233)には 東大寺の戒壇院で受戒。後に真言律宗総本山の 西大寺(共に公式サイト)の再建に尽力していた 叡尊(wiki)に私淑して弟子となり、西大寺に入って英尊が率いていた律宗の布教と貧民救済運動に専念した。
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    建長四年(1252)、35歳の忍性は布教を目指して東国に下り宇都宮氏二代当主宗綱の四男 八田知家 の跡を継いだ小田城主八田(小田)朝重の庇護を受けた。常陸国小田郷に三村寺を建てて布教の拠点とし、常陸国内陸部の水運を利用して布教を続けた。弘長元年(1261)に北條氏の帰依を受けて鎌倉に入るまでの9年間をここで過ごし、その間に壮大な堂塔群を整備したと伝わっている。
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    小田氏の祖 八田知家が常陸守護に任じた文治元年(1185)に構えた小田城の北東、筑波山系南東端の宝筐山(461m)の山裾(地図)、常磐線土浦駅と水戸線下館駅のちょうど中間あたりに位置し、訪問するには車を利用せざるを得ない。公共交通機関が貧困な茨城県内陸部を散策するには辛いところだ。
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    室町時代を過ぎて戦国時代に入ると小田氏の没落と共に三村山極楽寺も衰退して廃寺となり、建ち並んでいた壮大な堂塔群は既に失われた。
    地蔵菩薩像や巨大な五輪塔や山頂に残る宝篋印塔(片道2時間のハイキングが必要、根性なしの私には無理)や、小田城址周辺に見られる石造物の残欠で当時の姿を想像することは出来る。
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    廃寺跡に続く小道を歩きながら、布教と貧民救済に生涯を捧げた忍性と、忍性に従って土木・建設・医療などに従事した専門家集団の生き様に思いを馳せて一日を過ごし、現世の垢を少し落としてみるのも面白い。極楽寺坂の合戦箱根精進池の石仏群(共に別窓)も参照されたし。

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    十一人塚 右:戦死した大館宗氏主従を弔った十一人塚    画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記 本間が自害した事 の続き 】
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    本間山城左衛門は長年に亘り大仏陸奥守貞直の恩顧を受け近くに仕えた者で、この時は主人の機嫌を損ねて自宅謹慎していた。19日早朝に極楽寺坂が突破され新田勢が攻め込んだと聞き、これが最後の御奉公と考え若党や中間など100余人を率いて極楽寺坂に駆けつけた。
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    新田勢の大将大館二郎宗氏が3万余騎で展開している真ん中へ斬り込んで勇名を誇る敵を八方へ追い散らし、大将の宗氏と組み合おうと素早く駈け寄った。激しい突撃を受けた新田勢は分断されて腰越近くまで退却、追撃を食い止めようと引き返した宗氏は本間の郎党と組み打ちになり、刺し違えて落命した。
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      ※本間山城左衛門: 村上源氏の末裔・相模海老名氏一族を名乗るが、実際は横山党系の武士らしい。
    佐渡守護に任じた大仏流北條氏の臣として守護代を務めた本間泰宣と推定され、佐渡流罪となった 日蓮 を監督した記録も残っている。
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      ※大仏貞直: 一途な腹心として兄の 義時 を支えた 北條時房 の末子 朝直 から始まる庶流が大仏(おさらぎ)流北條氏。
    朝直の孫で十一代執権に任じた宗宣の弟の宗泰の子が貞直(北條氏系図を参照)で、引付衆や引付頭人など要職を歴任した。
    和歌の巧みさでも知られた教養人だった、と伝わる。
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      ※大館宗氏: 愚行で失脚した新田宗家四代目惣領 政義 の二男で新田荘大館郷(地図)を領した大館氏の祖。極楽寺坂または稲村路を強行突破して
    由比ガ浜近くまで進んだが、深入りし過ぎて後続部隊から孤立し、本間山城左衛門部隊の斬り込みを受けて主従11人が討死した。
    最後の地は長谷二丁目の大太刀稻荷神社(御嶽神社、地図)付近と伝わっている。稲村ガ崎近くに十一面観音像を建てて菩提を弔った跡(地図)が史跡として残っているのは共に戦った一族による供養だろうか。
    ただし、極楽寺坂から腰越までは3km以上あるから、退却の距離としてはちょっと表現がオーバーだと思う。
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      ※合戦の記録: 太平記の記述を補完する史料として、合戦で挙げた功績の詳細を書き連ね、主として恩賞奉行に申請した 軍忠状(wiki)がある。
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    大塚員成軍忠状 : 5月18日に新田大舘殿(宗氏)に従って稲村崎で戦った。21日には新田大舘孫二郎(幸氏)配下として濱鳥居に攻め
    込み、多数の敵と戦って舎弟の三郎成光が討死。22日には葛西ヶ谷で合戦し若党の中野新三郎家宗が討死した。
    これらの事実は相模国の御家人大多和太郎遠明と同じく海老名河藤四郎が確認している。
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    この史料により鎌倉攻防戦が5月18日に始まった事、新田側の大将大舘宗氏が討死した事、指揮官が子息の幸氏に替った事、18日からの三日間で突破され若宮大路が戦場になり、21には北條一族が自刃した東勝寺のある葛西ヶ谷に迫った事、などが確認できる。
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    その他の文書も、21日に主戦場が鎌倉内部に移ったと記録している。また 梅松論(wiki)も「5月18日の未刻(14時前後)に 新田義貞 の軍勢が稲村崎から前浜(由比ヶ浜)に進出し民家を焼き払った。」と書いている。この時点ではまだ局地戦と思われるが、太平記の記述は(稲村ヶ崎の潮が引いた事と軍勢の数を除いて)概ね正しい、と推定できる。
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      ※戦後に布石: 大塚員成(常陸国大塚五郎次郎員成)は幕府滅亡後に提出した申状の内容が面白い。大舘幸氏指揮下で奮戦した功績を再度報告し、
    「自分は二階堂に本陣を置いた千寿王(尊氏の嫡子)に奉公するために馳せ参じた」と強調している。これは足利氏と新田氏の力関係や
    足利高氏新田義貞 の人柄などを比較して、倒幕後は足利氏に与した方が有利と判断したアピールだろう。
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      ※追加の情報: 治承四年の挙兵当初から 頼朝 に従った天野遠景 の子孫で周防国(山口県)の天野周防七郎左衛門尉経顕も軍忠状を提出した。
    去る元弘三年5月18日に経顕と経政は稲村ヶ崎の敵陣を突破して稲瀬川前浜の鳥居脇で合戦、若党の犬居左衛門五郎茂宗・小河彦七安重・中間孫五郎・藤次らが討死した、云々。
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    遠景はやや不遇な後半生を過ごしたが、嫡子の六郎政景(生母は 狩野茂光 の娘)は承久の乱(1221)で戦功を挙げ、長門国守護・和泉守を歴任し数ヶ所の荘園を得た。更に嫡子の義景も長門国守護を継いでいる。経顕も係累の一人だろう。

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    稲瀬川の碑 左:稲瀬川河口の碑 伝・大館宗氏討死の地    画像をクリック→詳細ページへ
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    稲瀬川の岸に建つ石碑に曰く、
     
    万葉ニ鎌倉ノ美奈能瀬河トアルハ此ノ河ナリ 治承四年(1180)十月政子鎌倉ニ入ラントシテ来リ 日並ノ都合ヨリ数日ノ間此ノ河辺ノ民家ニ逗留セルコトアリ 頼朝ガ元暦九年範頼ノ出陣ヲ見送リタルモ正治元年義朝ノ遺骨ヲ出迎ヘタルモ共ニ此ノ川辺ナリ 元和三年義貞ガ當手ノ大将大舘宗氏ノ此ノ川辺ニ於テ討死セルモ人ノ知ル所 細キ流ニモ之ニ結バル物語少ナカラザルナリ
                                   大正十二年 鎌倉町青年団 建
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    ※元暦九年: 鎌倉町青年団はミスを犯している。寿永三年(1184)は4月16日に改元して元暦元年となり、
    更に翌年(元暦二年)8月14日には文治元年に改元したから元暦九年なる年号は存在しない。
    範頼 の出陣を見送った」とは寿永三年(1183)8月8日の平家追討の出陣を差している。
    吾妻鏡は 北條義時足利義兼武田有義千葉常胤三浦義澄比企能員和田義盛 ら主軸となる武将の名を書き連ねた後に「頼朝は桟敷を稲瀬川の近くに構えて出陣を見物した」と述べている。これ、見逃すところだった! 何でも頭から信用しちゃダメだね、
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      ※正治元年: これも大間違い、史実との照合を怠ったらしい。義朝の遺骨が鎌倉入に入ったのは「正治」ではなく「文治」元年(1185)の8月30日。
    9月3日には南御堂(勝長寿院)で鎌田正清 の首と共に葬礼を行っている。そもそも、頼朝は正治元年(1199)1月に没しているからね。
    一つの石碑で二ヶ所も年代を誤記するなんて実に珍しい、私も注意しようっと。信じられない方は拡大画像 でご確認あれ。
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    【 太平記 本間が自害した事 の続き 】
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    本間は馬から飛び降り宗氏の首を獲って鉾に刺し、貞直の陣に駆け付け幕の前に畏まった。「この戦いで長年の恩顧に報いる事ができました。勘気を受けたまま死んだら後の世まで悩み苦しむところでしたが、お許し頂いて心安らかに冥土への案内を務められます。」と涙を抑えて腹を切った。良き武士の志とは本間の心を言うのだろう。大仏貞直は涙を拭き「本間の心を受け取ったぞ」と先頭に立って戦いに赴き、従う兵も涙を流さぬ者はいなかった。
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      ※本間の自刃: 敵将を討ち取ってから自刃するのは筋が通らない。態勢を立て直して再び極楽寺坂を突破した新田軍に討たれたと考えるべきか。
    新田軍の指揮は宗氏から嫡子幸氏と脇屋義助に替り、21日に極楽寺坂を奪われた北條貞氏は弟の宣政・嫡子顕秀らと共に討死。

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    稲村ガ崎 右:義貞の黄金太刀伝説の残る稲村ガ崎    画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記 稲村崎が干潟に変わった事 】
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    極楽寺坂を攻めていた大館宗氏が本間山城左衛門に討たれ、軍勢が片瀬・腰越まで退却したと知った 新田義貞 は21日夜半に1万余騎の精兵を率いて腰越を迂回し、極楽寺坂近くに兵を進めた。
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    月明かりの中で敵陣を見ると北側は切通しまで険しい山が連なり、狭い道に木戸と盾を並べて数万の兵が布陣していた。南の稲村崎は海沿いの道が狭く、波打ち際に逆茂木を並べ4〜5町(約500m)沖には矢倉を設けた軍船を置いて横矢を射る体勢である。
    寄せ手の苦戦も当然か、と見た義貞は下馬して兜を脱ぎ海上を伏し拝んで龍神に祈りを捧げた。
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    私が仕える 後醍醐帝 は国を拓いた天照大神の子孫であり本地佛大日如来の化身です。逆臣のため西海に追われ、私は臣下の道を尽すため武器を携え敵陣に臨んでいます。願わくば龍神が願いを容れて潮を引かせ、わが軍勢のため道を開き給え」と佩びていた黄金造りの太刀を海に投げ入れた。果たして龍神が義貞の願いを聞き入れたのだろうか、月が沈む頃になって稲村崎の潮が突然20余町(2kmほど)も引いて砂浜となった。
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    霊山山北側の鞍部が昔日の極楽寺坂切通しで、霊山山の最高地点は仏法寺跡付近の約66m。極楽寺坂から霊山山を経て稲村ヶ崎までは標高30m以上の急峻な高地が続き、少し低い鞍部を越えていた稲村路も、海辺に下った坂ノ下側も霊山山からの攻撃に晒される。
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    大部隊がこの山塊を横切って海岸に展開することはできず、霊山山の確保が最重要課題だった。「南の稲村崎は海沿いの道が狭く、波打ち際には逆茂木を並べ4〜5町沖には矢倉を設けた軍船を置いて」 の描写は、まさに霊山山直下の「坂ノ下近くの稲村路」を差している。
    霊山山争奪戦と稲村路確保の経緯が「新田義貞の黄金の太刀伝説」に姿を変えたのだろう。
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      ※軍船からの攻撃: 制海権を握っていた鎌倉軍も敵の侵入を防ぐため軍船を配置し横矢で攻撃していた。出典を思い出せないのだが、水軍を指揮した
    北條何某は極楽寺坂が奪われた後に安房に逃れ身分を偽って定住した云々を見たことがある。真偽は判らない。
     
      ※本地佛: 簡単に書くと、神仏習合を正当化するための思想。「神道の言う「神」とは仏教における「仏」の仮の姿(本地垂迹思想)」を根拠にする。

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    坂ノ下 左:坂ノ下埋立地から見た霊山山の要害     画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記 稲村崎が干潟に変わった事 の続き 】
     
    潮が引いて砂浜になったため横矢を射掛ける筈だった数千の軍船も潮に流されて岸に近付けず、はるか沖を漂う状態である。なんとも不可解な出来事で、義貞は「これこそ我が軍勝利の前兆である、この機会を逃さず進め!」と下知し、江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井の人々を先頭にした越後・上野・武蔵・相摸の軍勢6万余騎が一団となって稲村崎の干潟を駆け抜け、鎌倉に乱入した。極楽寺坂の防衛軍は稲村ヶ崎を抜けて背後から迫る敵に立ち向えば前から攻撃され、前の敵に向えば退路を塞がれる。どうにも進退を失って心が乱れ、とても敵と戦える状態ではなくなった。
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    繰り返しになるが、新田軍の鎌倉侵入を阻んでいるのは稲村ヶ崎ではなく、霊山山を押えて極楽寺坂と稲村路を封鎖している北條貞氏軍。稲村ヶ崎を抜けても霊山山を確保しない限り鎌倉には入れない。
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    血で血を洗うような激しい戦闘が防衛拠点の五合枡と仏法寺を巡って行われ、最終的には新田軍がここを占領した。こうして稲村崎崖下の海辺に沿った稲村路と極楽寺坂の2ルートから鎌倉中心部に入る軍勢の安全が確保され、霊山山から星月の井付近に退いた北條勢は極楽寺坂を突破した新田勢と稲村路を迂回した新田勢に挟撃され惨敗、北條貞氏らはこの乱戦の中で最後の時を迎える。こうなると降伏する将兵や逃亡者が出るのは世の常で...
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    【 太平記 稲村崎が干潟に変わった事 の続き 】
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    北條高時の陣中にいた嶋津四郎という武士は執事の長崎入道(円喜)が烏帽子親になった剛勇無双の武士で器量も優れていたため大事な場面で働かせようと考え、高時の近くに待機させていた。極楽寺切通しが突破され新田勢が若宮大路まで攻め込んだと知った高時は嶋津を呼んで自ら酌をして酒を勧め、三度傾けた後に関東無双の名馬と称される「白浪」に銀の鞍を置いて引き出させて与えた。
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    見る人には羨ましい限り、嶋津は白浪に跨り由比ガ浜の風に濃紅の大きな笠印をなびかせ、数丁の武器を携えて戦場に駆け付けた。味方はその見事さに感嘆し、新田の兵は栗生・篠塚・畑・矢部・堀口・由良・長浜など腕に覚えのある武者が組み合って勝負しようと馬を進めてきた。両軍が「さぁ一騎打ちだ」と固唾を呑んで見守っている中で嶋津は馬を降りて兜を脱ぎ、悠然と身支度をしてから降伏して新田勢に加わってしまった。
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    何とも恥ずかしい行為なのだが、これを契機にして幕府重恩の郎党や累代奉公の家人も主人である北條一族を見限り、親を捨てて降伏する様子は目も当てられない。源氏と平家が武威を奮って天下の覇権を争ったのも今日が最後かと思わせた。

    寶戒寺 右:三代執権泰時以後の北條執権邸跡 寶戒寺    画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記 巻十 その二  鎌倉が兵火にかかる事 長崎親子の武勇の事 】
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    (極楽寺坂を突破した)新田軍は浜に面した家屋と稲瀬河両岸に放火、吹き荒れる浜風に煽られた炎は黒煙を上げて10町・20町(1km、2km)にも燃え広がり、20余ヶ所にも飛び火した。その猛火を衝いて源氏の兵が市街に乱入し、狼狽した守備軍の兵士を次々に討ち取った。
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    煙に追われた女子供が火の中や堀の底に倒れ付す有様は、あたかも帝尺宮の戦いで修羅の眷属が天帝(帝釈天)に討ち滅ぼされ涙に咽ぶような有様である。
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    やがて煙が四方から吹き寄せて相模入道 北條高時 の館 近くまでも炎が広がったため、相模入道は1000余騎で葛西ヶ谷に退き、共に集結した軍勢が東勝寺一帯に充満した。
    東勝寺は父祖代々の墳墓であり、兵に防ぎ矢を射させる間に静かに自害するためである。
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      ※修羅の眷属: 戦闘の神 阿修羅の配下は帝釈天と戦って常に敗れる。この戦場が男女の別れ話
    の現場などを表現する「修羅場」の語源となった。合戦は兎も角として、男女の修羅場を招かないよう身を慎みましょう(笑)。
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    身を慎むと言えば...北條時政 が江の島の弁天堂に参籠した満願の朝、弁財天が美女の姿で現れ「北條一門に天下の覇権を与えよう。ただし身を慎んで正しい道を歩まないと滅びることになる。」と言い残した。夢から覚めた時政の前に残っていた三枚のウロコが北條一門の家紋・三つ鱗になった...なんて話があったっけ。これ、太平記だったかな。時政の没後100年を過ぎて予言が的中してしまったのだ。
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      ※相模入道の館: 八幡宮三の鳥居から金沢街道を進んだ突き当りにある寶戒寺の一帯が北條執権邸の跡。戦死した北條高時と一族の霊を弔うために
    後醍醐天皇 の勅命を受けた 足利尊氏 が差配して建てた、と伝わる。
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      ※代々の墳墓: 東勝廃寺は1230年頃に三代執権 泰時 が建てた菩提寺だが一族墳墓の地ではない。初代執権 時政 は伊豆の 願成就院(別窓)、
    二代執権の義時大倉山の東、三代執権の 泰時 は大船の 常楽寺(以上は別窓)、四代 経時 は材木座の 光明寺(公式サイト)、
    五代時頼名月院(wiki)、六代 赤橋長時 は扇ヶ谷 浄光明寺(wiki)、七代政村は不明、八代 時宗 と九代貞時円覚寺(公式サイト)に、それぞれ葬られている。十代師時から十三代基時までの墓所は不明なので、東勝寺(創建は1230年前後、泰時が一族の菩提寺として開基)に葬られていた可能性はある。これだけバラバラでは「父祖代々の墳墓」とは言えないだろう。
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    十四代 高時 の墓所は 円覚寺 塔頭の 続燈庵(参考サイト)だが山門内側の拝観は許可されず、縁者が遺骸を葬ったのか或いは供養の墓なのかは判らない。十五代貞顕は金沢の 称名寺(wiki)に葬られている。洲崎合戦で討死した十六代守時の墓所は不明。

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    下馬橋 左:長崎親子は極楽寺坂から小町口へ移動    画像をクリック→古道ルートの詳細へ
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    極楽寺から来た由比ガ浜通りが若宮大路を横切る下馬橋交差点には記念の欄干が建っている。かつては
    若宮大路西側沿いの用水堀に架かる小橋があり、若宮大路を横切る際には下馬する規則だった。
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    【 太平記 長崎親子の武勇の事 の続き 】
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    ちょうどその頃に長崎三郎左衛門入道思元と子息勘解由左衛門為基は極楽寺切通しで敵兵の侵入を防いでいたが、敵兵の挙げる鬨の声が小町口の方から聞こえ北條館に火が廻ったように見えたため、7000余騎の守備兵を防御陣に残し手勢の600余騎を率いて小町口に移動した。
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    これを見た義貞の兵は取り囲んで討ち取ろうとし、長崎父子は魚鱗の陣形に密集して突破したり散開して攻撃したりして七、八回も交戦した。義貞の兵は陣形を乱して若宮大路まで撤退、やや人馬の息を整えた時に天狗堂と扇ヶ谷の方向で合戦と思われる馬煙(疾走する馬が巻き起こす土ホコリ)が見えた。
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      ※天狗堂: 八幡宮から 壽福寺(別窓)や扇ヶ谷方面に抜ける窟屋小路の右手、窟堂東側にあった愛宕社(今も小さな祠がある)を差す。
    この時点には巨福呂坂と化粧坂を突破した新田軍が扇ヶ谷を過ぎ八幡宮近くまで迫ってきたのだろう。
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    【 太平記 長崎親子の武勇の事 の続き 】
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    長崎父子は左右に分れて馳せ向おうとし、息子の勘解由左衛門(為基)はこれが最期の別れと考え涙を浮かべて父を見ながら歩みを止めた。父も馬を抑え「一人が死んで一人が生き残るのなら名残惜しいが、共に今日死んで明日は冥土で落ち合うのだから悲しい別れではない」と大声で諭した。為基は涙を拭い「それでは冥土の旅にお急ぎ下さい、私は死出の山道でお待ちしましょう」と言い捨てて敵軍の中に駆け込んだ心の中は誠に哀れである。
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    こうして戦闘を続けるうちに為基に従う兵はわずか20余騎になった。敵は周囲を囲んで激しく攻め立てる。為基の佩く太刀 面影は来太郎国行が100日間の精進を重ね100貫の鋼から3尺3寸に鍛え上げた業物、向き合う者は兜を割られ胸板を斬り下げられて近付く敵もなく、離れた場所から遠矢で射殺そうとするだけだった。為基の馬には既に七本の矢が突き刺さり、敵に近付いて組み合うのも侭ならぬため由比ヶ浜の大鳥居前でゆっくりと下馬し、太刀を杖に仁王立ちした。義貞の兵はこれを見て尚も遠矢に掛けようと、近寄るものはいなかった。
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      ※来国行: 鎌倉時代中期の刀工。室町時代まで活躍した来派の祖で本拠は京都、為基の佩刀「面影」は明石松平家伝来の「明石国行」として知られる
    国宝(伝来の真偽は不明)。その他現存する来派の十数振は重文指定、もし来国行が市場に出れば9桁以上の値がつくとか。 ヒェ〜!

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    来国行の太刀 右:国宝 来国行の太刀 76.6cm 鎌倉時代の作      画像をクリック→拡大表示
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    【 太平記 長崎親子の武勇の事 の続き 】
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    為基は負傷した振りをして膝を折り倒れ伏すと輪子引両の笠印を付けた武者50騎ほどが少しづつ近寄り為基の首を獲ろうとした。為基は跳ね起きて「昼寝の邪魔をするなら首を呉れてやるぞ」と鍔元まで血に濡れた太刀を振るって追い回し、50余騎の武者は怯え切って逃げ回った。為基が大声で呼び戻す声が耳にこびり付いて、人も馬も同じ所を廻っているような心地で恐ろしさは限りなかった。為基は敵陣の中を駆け抜け走り回って今日(21日)を限りと奮戦し由比ヶ浜の敵を蹴散らしたが、その後の生死は不明である。
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      ※輪子引両: 「引両」は横棒の紋で○に一本は新田・二本は足利。「輪子」は胴を絞った鼓形だから「鼓形に横棒」の紋。
    実物を見た事はないけれど新田系だろうか、いつかどこかで実物に出会うかも知れない。
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    【 太平記 大仏貞直と金沢貞将が討死した事 】
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    大仏陸奥守貞直は昨日まで2万余騎で極楽寺坂切通しを防衛していたが今朝の海沿いの合戦で300余騎になるまで討たれ、更に背後を遮断されて動きが取れなくなった。鎌倉殿の館も燃えているように見えたため最早これまでと思ったのか或いは主人に自害を勧めるためか、主だった家臣30余人が砂の上に甲冑を脱ぎ捨てて腹を切った。
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    それを見た貞直は「例え千騎が一騎になっても戦い続けて敵を倒し名を残すのが武士の本分なのに、なんという愚行か。こうなったら私が最後の一合戦で意地を見せてやろう」と200余騎を従え、まず大嶋・里見・額田・桃井らが6000余騎で声を挙げている中へ突撃し、散々に戦って駆け戻ると僅か60騎ほどになってしまった。貞直は生き残った兵を集め「敵の雑兵とこれ以上戦っても既に無駄か」と、雲霞のような脇屋義助軍の真ん中に駆け込み、一人残らず討死して戦場の土に屍を晒した。
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    また800余人を率いて山之内で戦った金沢武蔵守貞将も殆どの兵を失い、自身も七ヶ所に傷を受けて相模入道高時の籠る東勝寺に戻った。高時は深く感謝し、両探題職に任命する御教書を作成して与えた。貞将は今日こそが北條一族の滅びる日であると思いつつ、書類の裏に「百年の命をこの一日の恩に報いる」と書き、鎧の胴に入れて敵陣に駆け入り討ち死にした。これには敵味方とも心打たれぬ者はいなかった。
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      ※山之内: 巨福呂坂で山之内から攻め込む敵を防いでいたのだろう。北鎌倉から山を越えるルートは北側の亀ヶ谷坂切通しもあるが、元弘の乱での
    激戦記録は残っていない。もちろん巨福呂坂と亀ヶ谷坂を併せて「山之内の戦線」とした可能性はある。

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    化粧坂切通しと海蔵寺 左:化粧坂(気和飛坂)の合戦と海蔵寺    画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記 信忍が自害した事 】
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    さて化粧坂を守っていた普恩寺前相摸入道信忍も五昼夜続いた合戦に兵の殆どを失って20騎程が残るのみになった。各所の守備隊が敗れ突破されたのを知って生き残った側近と共に自害して果てた。
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    子息の越後守仲時が六波羅から逃げ延びたものの近江の番場で自害したと聞き、最期の有様を想って御堂の柱に自分の血で一首を書き残した。最期の時を迎えても年来続けていた和歌の嗜みを忘れず、心の趣を後世に残した雅の心に人々は涙を流した、と伝わる。

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    待てしばし 死出の山辺の 旅の道 同じく越えて 浮世語らん  特に雅には感じないけど...
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    ※化粧坂: 元々は「けわいざか」、鎌倉中心部に入るため身嗜みを整える場所の意味で使われたとか、
    遊女が多かったなど様々の説が主張されている。
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    個人的には、女たちが「敵方の武者を首実検するため血糊を洗い落とし、胡粉などで傷を塞ぐ「化粧」を施した場所」の説が好きだ。首を実検する武者は斜に構え、生きている敵に相対するのと同じく鯉口を切った太刀に手を掛けて向き合うのが礼儀、だとか。
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    ※入道信忍: 十二代煕時と十四代高時の間で一年間、暫定的に十三代執権を務めた北條基時を差す。六波羅探題北方を務め、南方の北條時益と共に
    近江の番場で自刃した仲時の父。十一代大仏宗宣・十二代煕時・十三代基時は得宗家の高時(九代執権貞時の三男)が成長し14歳で執権に就くまでの中継ぎに過ぎなかった。化粧坂切通しを守った基時は新田軍主力の猛攻を5日間支え続けたが、極楽寺坂と巨福呂坂が突破されて敵兵が鎌倉中心部まで侵攻したため、生き残った家臣と共に自刃した。
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    【 太平記 塩田父子が自害した事 】
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    塩田陸奥入道道祐(北條国時)は息子の民部大輔俊時が父に自害を勧めるため目の前で自刃したのを見た。突然の別離に涙が止まらず、先立った息子の菩提を弔うため亡骸に向って身に着けていた経文を紐解き心静かに読経を続け、主人と共に自害しようと居並ぶ200余人の郎党を三方向へ配置して「読経が済むまで防ぎ矢をせよ」と命じた。入道道祐は家臣の中でも特に長年仕えてきた狩野五郎重光を近くに呼び、「私が自刃した後は敵に首を獲られぬよう館に火を掛けよ」と命じて近くに控えさせた。
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      ※塩田一族: 義時 の三男 重時(母は姫の前)の四男 義政 を祖とする塩田流北條氏。国府や国分寺が置かれた東山道の要衝 上田から西に広がる
    肥沃な塩田平一帯を含む信濃国小県郡塩田荘を本領とした。元々の塩田荘は後白河院妃の建春門院が建立した最勝院領で、文治二年(1186)には惟宗忠久(丹後内侍 の前夫)が地頭に任じて実効支配を行ったが、建仁三年(1203)の 比企能員 滅亡に連座した惟宗忠久が改易されて実権は信濃国守護の北條義時に移り、その後は義時の三男重時(極楽寺流)→ 四男義政の支配下に入った。
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    義政は幕府の要職を歴任し、文永十年(1273)からは連署(執権に次ぐ要職)として八代執権 時宗 を補佐したが、建治三年(1277)に突然辞職して善光寺で出家し塩田荘に隠居した。幕府内部の対立に嫌気あるいは健康上の理由など諸説がある。
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    嫡子国時(法名は道祐か教覚)は塩田荘支配を続け、正中二年(1325)には二男国時が塩田荘地頭に任じ、更に元亨三年(1333)に長男(国時の兄)の塩田越後守時治が砂金50両を 北條貞時十三回忌に寄進した記録があるから、義政の職務放棄に対して特に厳しい処分はなかったらしい。
    国時は一族を率いて鎌倉防衛に参戦、死力を尽くして戦った後に子息の藤時・俊時と共に名越邸で自刃、享年70歳程か。

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    大法寺三重塔 右:塩田流北條氏の本領に近い青木村の大法寺  画像をクリック→詳細ページへ
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    余りの美しさから振り返りつつ山を下るため「見返りの塔」の名で知られた国宝・三重塔は塩田流北條氏が本拠を置いた塩田平の前山地区から低い山を隔てた6km北西に位置する。現在の上田市中心部から西に広がる塩田荘の北端である。大法寺は大宝年間(701〜704年)の創建と伝わるが、なぜか三重塔は鎌倉幕府が滅亡した元弘三年(1333)の建立である。偶然だろうけど、この符合は気になるなぁ...
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    【 太平記 塩田父子が自害した事 の続き 】
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    入道道祐が法華経の五巻まで読経を終えようとしたとき狩野五郎は門前に走り出て四方を確認する振りをし、「防ぎ矢を命じられた者は既に皆討たれ敵が近付いています、早く御自害を」と勧めた。陸奥入道道祐は左手に経文を握り右手に持った刀で腹を切り息子に重なるように倒れ伏した。
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    狩野重光は長年仕えた重恩の郎党なのですぐに自刃するだろうと思われたが、主人の甲冑や太刀を剥ぎ取り館の財宝を掻き集めて下人に持たせ円覚寺の僧坊に隠れた。これだけあれば一生不自由しないだろうと思ったのだが、これを聞きつけた舟田入道が容赦なく絡め獲り、首を刎ねて由比ガ浜に晒してしまった。武士にあるまじき悪行の報いである。
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      ※舟田入道: 新田義貞 の執事で鎌倉攻めに従軍した舟田義昌。世良田に館跡、桐生市新里町新川に菩提寺の善昌寺(桐生市のサイト、地図
    善昌寺訪問記は新田義貞の首塚(別窓)で。ただし当サイトの別コーナーにリンクするため、閲覧後は「戻る」ボタンまたは「back」でこの頁に帰還されたし。 ここには義貞の首塚と伝わる五輪塔があり、匂当内侍の侍女・丹局に頼んで六条河原から首を盗み出して義昌に渡したと伝わるが、太平記に拠れば義昌は義貞討死より前に京で戦死しているから、良くある作り話か。舟田氏は帰化人・紀氏の子孫と伝わる。
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    塩田平には鎌倉時代前後に建てた多くの寺社があり「信州の鎌倉」として人気が高く、政義が中興した国宝八角三重塔のある 安楽寺(wiki)など見所も多い。数回に亘って散々歩いたエリアなのに撮り貯めた画像データは既に行方不明、この性格的杜撰さは悔やんでも悔やみきれない。
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    次回のために準備した 地図の簡易版 も参考に。青木村を見物してから峠を越えて別所公園に駐車し、温泉街周辺を徒歩でのんびり歩くのが面白い。別所温泉駅周辺では公共無線LANも使えるし立寄り温泉も楽しめるのだが、キャンピングカーを手放してからはすっかり足が遠のいてしまった。
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    【 太平記 塩飽入道が自害した事 】
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    塩飽新左近入道聖遠は嫡子の忠頼を呼び「鎌倉の防衛拠点は悉く破られ御一門は概ね自刃されたらしい。私も相模守高時殿に先立って忠義を示そうと思うが、汝は私の養育下にあり主家の恩を受けていない。ここで命を棄てなくとも忠義心がないとは思われないだろう。暫く身を隠して出家し私の菩提を弔いながら生涯を過ごしてはどうか。」と涙で語り掛けた。
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    忠頼は涙を溜めて言葉も出なかったが、やがて「これはお言葉とも思えません。確かに私は直接の御恩を受けてはいませんが、一族が続いてきたのは全て主家の恩であります。幼い頃から仏門に入る予定ならば兎も角、武門の家に生まれ名を連ねながら運が傾いたから出家するなど、この上ない恥辱とされるでしょう。父上が腹を切ったならば冥土への道案内をいたします。」と袖の下から隠れて刀を抜き自刃した。
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    弟の四郎も続こうとしたが入道聖遠は急いで押さえ、「まず私だ、長幼の序に従ってその後に自刃せよ」と命じたため四郎は刀を収め父の前に畏まった。入道は快く笑い中門に設けた座に結跏趺座して辞世をしたためた。
                  提持吹毛 截断虚空 大火聚裡 一道清風 (利剣を以って 虚空を断てば 業火にも 清風が吹く)
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    その後に手を合わせ首を伸ばして四郎に「討て」と命じた。四郎は両肌脱ぎになって首を斬り落とし、太刀を返して鍔元まで自分の腹を貫き打ち伏せた。これを見て駆け寄った三人の郎党は同じ太刀で体を貫き、あたかも串刺しになった魚の様に頭を並べて伏し果てた。
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      ※塩飽入道: 高時に仕えた得宗家の御内人塩飽聖遠(しあく・しょうえん)。姓からは、讃岐国の摂関家荘園だった塩飽荘に関わる出身と判断できる。
    塩飽荘は平安時代末期の「玉葉」に記載があり、その後の領主は判らないが建長五年(1253)・康永三年(1344)・応永十九年(1412)・弘治二年(1556)にも塩飽荘の名が史料に現われる。現在の丸亀駅と丸亀城の間に塩飽町の名が残っている。
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      ※提持吹毛: 吹き付けた細い毛も断ち斬るほどの鋭利な刀を以って虚空(腹)を斬る...の意味。漢文はむづかしいねぇ。

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    中の下馬橋跡 左:現在の段葛が始まる二の鳥居西側、中の下馬橋     画像をクリック→拡大表示
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    【 太平記 安東入道が自害した事 】
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    安東左衛門入道聖秀の姪である新田義貞室は聖秀に宛てた義貞の手紙に自分の言葉を添えて密かに届けさせていた。安東入道は三千余騎で稲瀬河を守っていたが稲村ヶ崎を突破した世良田太郎の軍勢に敗れ、更に由良・長浜勢に囲まれて100余騎に減ってしまった。
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    聖秀自身も多くの薄手傷を負って館に戻ったが巳の刻(10時前後)には既に焼け落ち家族の行方も不明である。北條館も焼け落ちて高時入道は東勝寺に落ちたと聞き「北條館では誰々が腹を切ったか」と尋ねると「誰もいない」との答だった。
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    聖秀は「何と口惜しい事よ、鎌倉殿(高時)の屋敷を馬蹄に踏み荒らされても千・二千の討死にすら無かったとは後世までの恥辱、どうせ失う命ならば館の焼け跡で心静かに自害して鎌倉殿の恥を注ごうではないか」と、生き残った郎党100余騎を従え小町口へ突き進んだ。
    通常の出仕と同じく塔之辻で下馬し北條邸の跡を見渡すと今朝まであった美しい建物は灰燼となり煙が残っているだけ。共に語り合っていた親類知己の多くも討死し戦場に盛者必衰の屍を晒してしまった。
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    ※義貞室の伯父: 安東聖秀は御内人(得宗被官)の有力者。姪が義貞の室で、一部系図では聖秀と同族である甘楽郡(群馬県)の地頭安藤重保の娘。
    彼女の息子義顕は20歳で父義貞に従軍、鎌倉幕府滅亡後も南朝の武士として転戦し建武四年(1337)に越前金ヶ崎城(敦賀市)籠城戦で討死した。「梅松論」では里見義俊から五代後の庶流・鳥山亮氏が葛西ヶ谷で安藤重保軍を破った、と書いている。
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    ※世良田太郎: たぶん世良田政義だろう(源氏の系図を参照)。この系が新田郡得川郷を領有して得川を名乗り、源氏の血筋を欲しがった家康が子孫を
    僭称して「得川=徳川だから私は源氏の子孫だ、征夷大将軍の資格あり」と主張した。得川は新田荘南東部、現在の徳川町 地図
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    ※塔之辻: この名前の場所は七〜十ヶ所あった。「小町口に進んで下馬」したのだから小町大路北端の交差点、つまり宝戒寺入口近くにあった塔の辻
    (鎌倉七辻の一つ)だろう。念のため七辻全てを地図に記載すると、円覚寺門前塔辻浄智寺門前塔辻鉄観音堂前塔辻建長寺門前塔辻
    宝戒寺門前塔辻下馬塔辻笹目塔辻 が所謂七塔辻。その他にも数ヶ所あるらしいが現物らしき石造物を確認できるのは「笹目」のみ。
    詳細は少し上の 長崎親子は極楽寺坂から小町口へ移動の中段に記載した。北の路地には鎌倉青年団の「塔辻碑」が建っている。
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    【 太平記 塩飽入道が自害した事 の続き 】
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    余りの悲しみに安東入道が茫然としていると新田義貞 室の手紙を携えた使者が着いた。何事かと思って見ると「鎌倉の有様は既に御承知の通りです。何はともあれこちらにお越し下さい、我が身に替えてもお助けします。」と様々に記してあった。
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    安東は酷く機嫌を損ねて「中国の故事にもある通り、武士の妻は気丈な心を持ってこそ一族と子孫の名を顕わす事ができる。私は今まで北條殿の恩を受けて人に知られる立場に登った。危急の時に臨んで降伏などしたら、全ての人が恥を知らない人物と思うだろう。義貞が武士の信義を弁えているなら、それが女性の心から出た提案であっても制止せねばならぬ。また義貞がこちらの様子を知るために指示したのなら、妻女は一族の名を汚す行為を拒まねばならない。」と述懐して手紙を破り捨て、怒りに任せて腹を切り我が命を絶った
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    【 太平記 亀寿殿が信濃に落ちた事、北條左近大夫泰家が自害を装って奥州へ落ちた事 】
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    相模入道高時の弟入道泰家に仕えていた諏訪左馬助入道の息子三郎盛高は数度の戦いで郎党を討ち取られ、わずか主従二騎になって泰家邸に戻って来た。「鎌倉での合戦もこれまでと覚悟し、最後のお供をするために参上しました、御自害されますよう。」と進み出ると、泰家は近くの者を退けて盛高の耳に口を近づけ「予期しなかった戦乱によって当家が滅びるのは確かだろう、これは高時殿の振舞いが人道に背き神慮も得られなかったためである。だが例え天が北條の驕りを憎み滅ぼそうとしても、代々積み上げた善行の功徳が少しでも残っている限り、子孫の中から廃れた家を再興する者が現れるかも知れない。ここは自害をせず恥を忍んでも生き永らえて恥辱を雪ごうと思う。お前も深く考えて降伏してでも生き残り、甥の亀寿(後の北條時行)を隠し通して将来の再起に備えよ。兄の万寿は既に五大院の右衛門に言い付けてあるので安心できる。」と語った。
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    ※北條泰家: 父は九代執権貞時、母は覚海円成、高時の同母弟。正中三年(1326)に十四代執権高時が病気で退任した際に母と外戚の安達氏は
    泰家を推したが、内管領(得宗家執事)の長崎高資(家政を司る長として幕府の実権を握っていた)が反対し、彼が推挙した貞顕(庶流の金沢流北條氏)が十五代執権となった。恥辱と感じて出家した泰家が貞顕を殺そうとしているとの噂が流れ、これを恐れた貞顕は僅か10日で執権を辞任して出家した。後任は最後の執権となった守時(赤橋流北條氏)。
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    ※覚海円成: 安達一族の出身。執権の母として安達一族と共に内管領と権力を争った。鎌倉幕府の滅亡後は一族の女たちを伴って伊豆北條に住み、
    氏祖の時政が住んでいた旧邸を安堵されて円成寺に改め一族の菩提を弔った。
    詳細は 北條館の跡 と、本立寺 に掲載した(共に別窓)。
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    ※亀寿(時行): 高時の二男。諏訪上社の大祝・諏訪頼重に庇護されて北條家再興を図り建武二年(1335)7月に信濃で挙兵、足利直義軍を破って
    鎌倉を占領した(この時に二階堂の土牢で 護良親王(wiki)が殺されている)。翌月には尊氏の援軍が攻め込んで時行軍は壊滅、頼重らは勝長寿院で自害し時行は逃亡した。時行は8歳前後、名目上の指揮官だった。その後は後醍醐天皇の南朝に加わって転戦、文和元年(南朝年号で正平七年・1352年)に捕われ鎌倉で斬られた。享年26歳前後か。兄の万寿は消息不明。
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    盛高は涙を抑え、「ご主人の前で自害して忠義心を見せることのみを考えていましたが、兎も角は仰せに従いましょう。」と邸を出て高時入道の愛妾・二位殿の御局の住む扇ヶ谷に駆け付けた。御局や女房は喜んで「鎌倉が陥落すれば女の私たちは如何様にも身を隠せますが亀寿はどうなりましょうか、兄の万寿は五大院右門衛宗繁が方策ありとして連れ出しました、あとは亀寿が気掛かりでなりません。」と涙ながらに掻き口説いた。
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    こうして北條泰家は忠義心の確かな郎党を呼び集め「私は考えがあって奥州に落ち延び再び天下を奪い返す計画を立てる。南部太郎と伊達六郎の二人は案内のため連れて行くが、他の者は自害し屋敷に火を掛けて私が自害した様に敵を欺け。」と命じた。20余人の郎党は誰も反対せず、伊達と南部は下人を装い、新田の家紋である中黒一つ引両の笠印に甲冑を着けた中間二人を馬に乗せ、泰家を輿に乗せて血の付いた帷子で覆って負傷した源氏の兵が本国へ帰る姿を装って武蔵国に落ち延びた。
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    残った郎党は門から走り出て「殿は自害したぞ、志ある者は供をせよ」と叫んで館に放火し20余人が一度に自害した。これを見た味方の兵300余人は負けじと腹を切って猛火に飛び込み屍も残さず焼け死んだ。こうして泰家が落ち延びた事は誰も知らず、自害したものと思われた。後に泰家は西園寺公宗家に仕え、建武(1334〜1338)の頃に京都で南朝の大将相模二郎時興と名乗っていたのは北條泰家入道その人である。
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    【 太平記 長崎高重 最期の合戦の事 】
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    長崎高重は武蔵野の合戦(久米川・分倍河原・関戸)から今日まで昼夜を問わず八十数回の合戦に先駆けし何度も囲みを破ったが、郎党は次第に討ち取られて僅か150騎になった。5月22日には源氏軍が方々の谷津に兵を進め、北條方の大将も殆ど討死したとの報告があり、敵が近付けば誰の陣であっても駆け付けて防戦し馬が疲れれば乗り換え太刀が折れれば佩き換えて自ら斬り落とした敵は32人、8回も敵陣を打ち破った。
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    こうして高時入道が詰めている葛西谷の東勝寺に戻って中門に畏まり、涙ながらに「先祖から数代のご奉公を続け、尊顔を拝するのも今日が最後でしょう。高重一人が何ヶ所で敵を倒そうとも方々の防衛線が突破され敵兵が鎌倉に満ちている状態ではどうする事もできません、敵の手に懸からぬように御覚悟ください。但し高重が戻って自刃を勧めるまでは無闇に自害なさらぬように。私はもう一度突撃して思い通りに合戦し、冥土の旅の話題にする所存です。」と言い残して東勝寺を出て行った。高時入道はこれが最後かも知れないと思って涙ながらに後姿を見送った。
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    長崎高重は兜を脱ぎ捨て帷子に硬い織りの袴を履き赤糸威しの腹巻姿で篭手を付けず、兎鶏という名の名馬に鞍を置いた。これが最期と考えて崇寿寺の長老南山和尚を尋ね、和尚は威儀を正して出迎えた。戦の最中のため高重は武装したまま庭に立って左右に礼をし「勇士の行いとは如何なるものでしょうか」と尋ね、和尚は「太刀をかざして進むのみ」と答えた。高重はこの言葉を心にとどめ、門前から150騎の兵を従えて笠印を捨てて敵陣に紛れ込んだ。味方の振りをして義貞に接近し接近戦を挑む考えである。旗もなく太刀も鞘に収めたままだから源氏の兵は敵だと思わずに道を明けて通したため高重は義貞の本陣まで僅か半町(50m)ほどまで近付いた。
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    さあこれが成功するかと思われたが源氏の運が強かったのだろうか、義貞のすぐ前にいた由良新左衛門が気づいて「旗を指さず近付く軍勢は長崎次郎らしい、彼ほどの勇士だから目的があってここまで来たのだろう。残らず討ち取れ」と大声で指示し、先陣を務めていた武蔵七党の三千余騎が包囲して先を争って攻めかかった。高重は計画の露見を悟り150騎の兵を密集させて突撃し、三千余騎の敵中を駆け抜け駆け入り火花を散らして縦横に戦った。義貞の兵は味方に紛れ込んだ敵兵を見極められずに多くが討たれ、その挙句に同士討ちまで始める状態になった。
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      ※崇寿寺: 材木座の補陀洛寺(地図)から東に延びる弁ヶ谷に北條高時が開いた寺(既に廃寺)。
    ここに屋敷がを構えていた 千葉介常胤 の官名「介」=唐名の「別駕」から「弁ヶ谷」殿に転訛した、それが地名の元と伝わっている。
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      ※由良新左衛門: 南北朝時代には義貞の二男義興に従い南朝側として転戦、一時は鎌倉を占領するが正平十三年(1358・南朝の年号で延文三年)に
    多摩川の矢口渡し(大田区蒲田)で義興と共に戦死。歌舞伎の「神霊矢口渡」でも知られている。
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    蛇足ですが、私は歌舞伎が嫌いです。歌舞伎だけでなく多少なりとも世襲の習慣を継承しているものは全て嫌いです。所謂伝統芸能も、世襲政治家も、某・世襲独裁国家やアメリカのブッシュ家も勿論嫌いです。要するに、才能を開く可能性をスポイルし血縁だけを優遇する社会は嫌い、という事。国政の質が低下しているのも世襲議員の増加に原因があると思っています。四代を辿るのが限界の全く由緒正しくない(笑)家に生まれた僻み、ではありません。
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    これを見た義貞側の長浜六郎が「同士討ちに注意しろ、敵は笠印を付けていないぞ。それを目印に組み合って討ち取れ」と命じ、甲斐・信濃・武蔵・相摸の兵がそれに応じたため高重の兵は次々と討たれたり捕虜になったりした。高重は主従八騎になっても討たれず、何とか義貞兄弟を討ち取ろうとして駆け回ったが、武蔵国の住人横山太郎重真が組み付こうとして馬を寄せた。高重は不足な相手と思いながらも兜の鉢から鎧まで真っ二つに斬り下げ、乗っていた馬も尻餅をついて倒れるほどだった。
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    続いて同じ武蔵国の住人庄三郎為久も良き敵だと考え、組み打ちで戦おうと両手を広げて駆け寄った。高重は笑って「物足りない敵を相手にする方法を教えてやる」と為久の鎧紐を掴み弓五本分ほど遠くに投げ捨て、ぶつかった武者二人が馬から転げ落ち血を吐いて死んでしまった。知られてはやむなしと思った高重は馬を止め「桓武天皇第五の皇子葛原親王三代後の貞盛から十三代目、前相模守北條高時の管領を務める長崎円喜の嫡孫次郎高時である。名を挙げようと思う者は組め」と名乗り、鎧の袖と草摺を捨て太刀を鞘に納めて両手を広げ髪を振り乱して駆け回った。
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    さすがに驚いた郎党が馬の前に立ち塞がり「なんという事を。敵は既に鎌倉中に乱入して放火・略奪を行っています、早く東勝寺に戻って高時様に御自害を勧めてください」と言うと高重は「敵を追い掛け回すのが面白くて高時入道様との約束を忘れていた、さぁ引き上げよう」と主従八騎が葛西谷に向うと児玉党の500余騎が「逃げるとは卑怯」と罵りながら馬で追い掛けてきた。高重は山之内から葛西谷の入り口まで17回も馬を返して追い掛ける500余騎の敵を蹴散らし、鎧に突き立った23本の矢が蓑のように見える姿で静かに東勝寺に引き上げた。
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    祖父の長崎円喜入道は「帰りが遅れたな、今はこれまでか」と問うと高重は畏まり「新田義貞に組もうと20数回も駆け込みましたが遂に近寄れませんでした。良き敵にも巡り合えぬため名もない武者4〜500人を斬り落とし、無益な殺生の後悔をせずに済むなら浜辺に追い込んで討ち果すところですが、高時様が気になったので帰参しました。」と、平然と報告した。この言葉を聞いて間もなく最期を迎える人々の心も幾らか慰められた。

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    腹切りやぐら 右:寶戒寺が管理する「高時の腹切りやぐら」     画像をクリック→詳細ページへ
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    【 太平記 高時と北條一門らが東勝寺で自害した事 】
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    高重は(東勝寺を)走り回り「私がまず手本を見せますから各々も早く御自害されよ」と胴の部分だけ残った鎧を脱ぎ捨て、高時入道の前に置いた盃を持って弟の新右衛門に酌をさせた。三杯を飲み干して摂津刑部太夫入道々準の前に置き「お飲みください、肴はこれに」と左脇腹に刀を突き立て右脇腹まで切り裂き、腸を引き出して道準の前に倒れた。
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    東勝寺の正確な創建時期は判らない。嘉禄元年(1225)に 義時 が死去し、三代執権として幕政を継承した 北條泰時栄西 の弟子 退耕行勇 を開山に菩提寺として建立したとも言われるが、これは出典が確認できない。また仁治三年(1242)に没した泰時本人は大船の 粟船山常楽寺(別窓)に葬られて墓石があるし、一周忌と十三回忌を執り行った記録も残っている。従って東勝寺を菩提寺と考えるのは理屈に合わない。嘉禎三年(1237)開基説もあるが、吾妻鏡に拠ればこの年に開かれたのは常楽寺なので、これも信頼性に欠ける。
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    【 吾妻鏡 嘉禎三年(1237) 12月13日 】
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    泰時は母の追福を祈るため墓の傍らに寺を建立、本日が落成供養である。導師は荘厳房律師(退耕)行勇、匠作と遠江守が説教に耳を傾けた。
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      ※泰時の母: 武蔵七党の一つ・丹党に属する安保實定の娘。寺とは大船の常楽寺(泰時 の墓と 志水(木曽)義高の首塚がある)を差す。
      ※匠作と遠江守: 匠作は修理職の唐名で 義時 の弟 時房 を、遠江守は 泰時 の弟 朝時 を差す。
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    【 更に太平記は続く 】
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    道準は盃を取り「見事な肴だ、如何なる下戸でも飲まぬ訳にはいかぬな」と戯れ、盃を半分干して諏訪入道の前に置き腹を切った。諏訪入道直性はその盃を取り心静かに三度傾け相模入道高時の前に置いて「若い連中は随分と達者な芸を見せてくれる。老人もまた、後に続く人々のために肴を残そうか」と腹を切り、その刀を抜いて高時入道の前に置いた。
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    長崎入道円喜は高時入道が気懸かりでまだ自刃していなかったが15歳になる孫の長崎新右衛門が祖父の前に畏まり「父祖の名を高めるのが子孫の孝行ですから神仏も許して頂けるでしょう」と年老いた祖父円喜の肘の付け根を二度刺し、その刀で自分の腹を切り祖父に乗りかかって共に体を刺し貫いた。この若者に武者のあるべき姿を教えられた高時入道も腹を切り、続いて城入道や本堂に列座していた北條一門また他家の人々も白い肌を曝して腹を切ったり自ら首を切り落としたりして思い思いの最期を遂げたのは立派な姿だった。
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    鎌倉幕府を滅亡に導いた悪役扱いされているのが政治的に無能の評価が定着している十四代執権 北條高時 と、幕府の侍所所司として軍事権を掌握すると共に得宗家執事として北條家の実権を握った長崎円喜・高資の親子。ただし高時に関しては、「闘犬と田楽が趣味」などを含む後世の恣意的な評価(太平記も同様)が多く、病弱だったこと以外の実像は判っていない。長崎円喜の場合は親子で組織の実権を握った場合の弊害を絵に描いた様なケースで、庶長子の高貞を含めた三人に殆ど全ての権限が集中し、まさに体制が崩壊しつつある北朝鮮金王朝を描くようなエンディングだった。
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     【 更に更に、太平記は続く 】
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    金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部大輔入道・伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞、加えて名越一族の34人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々46人、総じて一門に繋がる283人が次々と自刃して館に火を懸け、猛火と黒煙が天を焦がした。
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    庭先や門前に居並んでこれを見ていた兵も腹を切って炎に飛び込み、また肉親と刺し違えて命を絶った。鮮血は川のように流れ、道には屍が累々と並ぶ有様だった。焼け跡の死骸は判別できないほどだったが詳細を調べた結果、東勝寺一帯での死者は870数人だった。他に一門の者・恩顧のある者・僧俗男女を問わず恩顧を受けて殉死した者など、遠国は不明だが鎌倉だけで6000余人である。元弘三年(1333)5月20日は九代続いた平家(北條)の繁栄が一日で滅亡し、長く鬱積していた源氏の不満が一挙に解決した日となった。

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    ※戦死者数: 昭和28年(1953)に簡易裁判所の敷地(地図)で900体以上の人骨が出土、殆どが外傷を受けた成人男子だったため鎌倉陥落に
    伴なう幕府側の戦死者を集団埋葬したうちの一ヶ所の可能性が指摘されている。
    鎌倉(特に由比ガ浜周辺)には集団埋葬の跡が40ヶ所以上あり、最も多いケースでは1000体を越える人骨が確認された。昭和三十一年(1956)に調査した材木座遺跡では頭蓋骨283のうち191例に刀創が確認され、すぐ近くの静養館遺跡(地図)では頭蓋骨が完全に切断されたような刀創が91例中に6例確認された。集団埋葬の場合は疫病などの死者も含まれているし、合戦での致命傷は頭蓋骨の刀創だけではないから、実際の姿は謎に包まれている。
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    ※ 義貞挙兵から鎌倉陥落までの太平記現代語訳は終りました。これから場所・人名の注釈と現地の画像を添付していきます。
    ここから下は工事中の古いメモです。整理が終わっていないため残してあります。
     



    そして翌・閏月7月23日に政子の裁定が下る。一条實雅は妻(義時の娘)と離別し京を経て越前に流罪、伊賀光宗は信濃へ、義時の後妻伊賀の方は伊豆流罪。二ヶ月続いた騒乱はようやく決着した。
     
    【吾妻鏡 貞応三年(1224) 閏7月23日】  
     
    寅の刻(早朝4時前後)に泰時邸付近が騒がしくなった。珍しい事なので人は不思議に思ったが卯の刻(朝6時前後)になって一条實雅卿が上洛のため出発し、集まっていた武士も退去した。伊賀四郎朝行・同六郎光重・式部太郎宗義・伊賀光盛らが實雅卿に従って同行、また式部大夫親行・伊具馬太郎盛重らは指示は無かったが個人の立場で同道した。
     
    【吾妻鏡 同じく、 閏7月29日】  
     
    謀反に関わった伊賀光宗の罪は重い。政所執事を解任し所領52ヶ所を没収、身柄は外叔父の隠岐入道行西が預かった。親戚の担当には問題ありとも言えるが政子の指示で泰時が下した命令である。また籐民部大夫行盛が政所執事に補され、尾藤左近将監景綱(北條得宗の家臣)が泰時の後見となった。執権家令による後見は初の例で、景綱は藤原秀郷の子孫を称している。
     
    【吾妻鏡 同じく、 8月29日】  
     
    義時後妻の伊賀禅尼は二位尼政子の指示により伊豆北條に下向蟄居、また伊賀光宗は信濃国配流となった。弟の四郎朝行と六郎光重らは相模掃部助・武蔵太郎が預り京都から直接鎮西(九州)に配流の命令が下った。この両人は前の将軍頼経の更迭に従って在京したままである。
     
    伊賀氏と政村謀反計画に関して泰時が直接述べた記録はない。吾妻鏡は政子の言葉として謀反の計画云々を書いているが裏付けとなる根拠はなく、状況証拠として伊賀光宗兄弟と政村が会合を重ねた(らしい)との風聞を挙げているに過ぎない。
     
    伊賀光宗は翌年の政子死没後に赦免され所領を回復した。泰時としても政子存命中は復権を控えたのだろう。光宗は寛元二年(1244)に幕府評定衆に就任した。旧職の執事よりワンランク上、三権を司る幕府の最高機関(トップが執権)だから、完全な復権である。北條政村は長く冷遇されたが第五代執権時頼の時代に復権し、第七代執権として時宗の前任を務めている。彼らが本当に「謀反の首謀者」と「背後の黒幕」だったのなら有り得ない処遇である。
     
    家督継承者の異母弟が殺されるのは珍しくない。義時後妻の伊賀の方が息子政村を心配して尽力した...そんな所が真相か。泰時−時房ラインの影響力低下を危惧して過剰反応した政子が伊賀氏を潰し、北條嫡流(得宗)の独裁体制を維持するために謀反を捏造したのだろう。もちろん政子が「これは間違いなく謀反だ」と思い込んだ可能性もあるが、他人の意見を虚心坦懐に聞くようなタイプじゃないからね。いずれにしても「政子の最後っ屁」だ(笑)。
     
    【吾妻鏡 貞応三年(1224) 9月5日】  
     
    義時の遺領を子女に配分する詳細を泰時と二位尼が発表した。それぞれに回覧し所存があれば申し出よ、支障がなければ将軍下文で発表する、と。全員が喜んで異議なしとした。泰時が鎌倉に入ってから内々にリストアップして二位尼に見せた際に「概ね妥当だが嫡子(泰時)の分が頗る少ないのは何故か」と。泰時は「執権の任に就く者が所領を争っても意味なし、舎弟らに分与するのが妥当」と答えた。二位尼はその言葉に感涙を流し、今日彼の思いを披露したものである。また故義時は官位を受けるのを避け偏に「前の奥州」を称していたが、没後は右京権大夫を使うよう定めた。
     
    義時死没の半年後、伊豆北條に流されていた義時後妻(伊賀氏娘)が重態になっている。死没の記事はないが、政子が念を入れて手配した毒殺に違いない。長男の政村は当時19歳だから、伊賀の方はせいぜい40歳を過ぎた程度、自然死には早過ぎる。
     
    【吾妻鏡 同じく、 12月24日】  伊豆北條から飛脚が到着。義時の後妻伊賀禅尼が去る12日から病となり昨日巳の刻(午前10時前後)から重態、と。


     その九 大江廣元死没、続いて政子も鬼籍へ 

     
    以下は手付かずの工事中。しばしのご容赦を。



    弘長元年(1261年)4月に安達義景の娘の堀内殿と結婚。極楽寺での武芸大会で宗尊親王から褒め称えられた逸話もある。

    文永元年(1264年)7月、6代執権北条長時が出家、北条政村が7代執権となり、8月には時宗は14歳で執権の補佐を務める連署に就任する。執権政村や一族の重鎮北条実時と協力して、文永3年(1266年)に幕府転覆を計画していたとされる宗尊親王の廃位と京都送還、惟康親王の擁立などを行った。

    クビライ・カーンがモンゴル皇帝に即位した8年後の文永5年(1268年)正月、高麗の使節が元の国書を持って大宰府を来訪、蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。3月5日には政村から執権職を継承し、第8代執権となる。

    元寇への対応から晩年 [編集] 時宗は政村や北条実時・安達泰盛・平頼綱らに補佐され、モンゴルの国書に対する返牒など対外問題を協議し、大田文の作成、御家人の所領譲渡制限、異国警固体制の強化や、降伏の祈祷など行わせる。モンゴルからの度々の国書には一切返事を与えず、朝廷が作成した返牒案も採用せず、黙殺を続けた。三別抄からの援助要請も黙殺した。文永8年(1271年)、モンゴルの使節が再来日して武力侵攻を警告すると、少弐氏をはじめとする西国御家人に戦争の準備を整えさせ、異国警固番役を設置している。

    また、得宗家の権力を磐石なものとするため、文永9年(1272年)には六波羅探題の南方の別当で弟の時宗が執権になった事に不満を持ち、朝廷に接近するようになっていた兄の時輔や、一族の評定衆北条時章・教時兄弟を誅殺し、世良田頼氏を佐渡へ配流している(二月騒動)。文永11年(1274年)、『立正安国論』を幕府に上呈した日蓮を佐渡に配流した。

    文永11年(1274年)、モンゴル軍が日本に襲来した。いわゆる元寇である。この時の日本軍は元軍の集団戦法や新兵器などに苦戦したが、暴風雨の到来によるとも指揮官たちの方針の分裂が原因とも言われるモンゴル軍の撤退で全面的戦闘は回避された。翌年、降伏を勧める使節杜世忠らが来日すると、鎌倉で引見し、連署の北条義政の反対を押し切って処刑する。建治3年(1277年)に義政は程なく連署を辞して出家するが、弘安6年(1283年)に北条業時が連署就任するまで連署は空席となった。弘安2年(1279年)に来日した周福ら使節団も、大宰府で処刑させた。これらの処刑には元への示威行動の意図もあった。時宗はじめ幕府の首脳陣は高麗出兵を一時命じたが、軍事費などを勘案した末、結局中止となり、異国警固番役を拡充し、長門探題を新たに設置し、文永の役を教訓として博多湾岸に今でも残る石塁を構築するなどして国防強化に専念した。特に石塁や異国警固番役には、御家人のみならず寺社本所領などの非御家人にも、兵や兵糧の調達を実施し、鎌倉幕府の西国における支配権が拡大された。六波羅探題に対しても、御家人の処罰権を与えるなど機能を強化させた。また、北条一族を九州などの守護に相次いで任命して現地にも下向させ、時宗自身も小山氏の播磨守護を免じて、自身が就任した。また寄合衆には、平頼綱ら御内人の参加を広げ、将軍権力であった御恩沙汰などを行うなど得宗専制が強化された。その方針は時宗没後に具体化された弘安徳政にも反映されることになる。






    以仁王と源三位頼政が打倒清盛の兵を挙げた治承四年(1180)4月9日に始まった吾妻鏡は、86年が過ぎた文永三年(1266)7月20日の記述が最後となる。第六代鎌倉将軍の宗尊親王が更迭され、三歳の嫡男惟康親王が第七代将軍に着任、臣籍降下して征夷大将軍源惟康となった。九年には二月騒動 文永五年1月にはモンゴル帝国の皇帝フビライ・ハーンから服従を求める国書が届き、

    【吾妻鑑 文永三年(1266) 7月20日】  
     
    戌の刻(20時前後)に前の将軍(第六代宗尊親王)が京に到着、左近大夫将監朝茂朝臣の六波羅亭に入った。

    東勝寺 右:北條一族最後の地 東勝寺  画像をクリック→詳細ページにリンク

    1266年(文永3年)7月20日に第6代将軍・宗尊親王が京都に到着して将軍を退位するところで終わる。 太平記によれば、歴代の北條執権の治世は繁栄の時代、と賞賛しているが、最後の執権高時についてはかなり厳しい評価を下している。あたかも、「滅びる のは自業自得」と言うかのような・・・北條時政が江ノ島で参籠して授かった神託「道に外れれば、一族滅亡」が実現したのだろうか、八幡宮の東南方向約500mの 累代の菩提寺東勝寺では追い詰められた北條一族とその家臣 570余名(一説には800余名)が自決。こうして頼朝が幕府を開いた140年後に、鎌倉時代が終りを告げた。 一族の屍は裏山に葬られ「北條高時腹切りやぐら」の名で残っているが、東勝寺はただの草原として残っているだけで、往時の姿は想像するしかない。

    元弘三年(1333・改元して正慶二年) 旧暦の7月4日、北條高時は迫る新田軍を避けて千余騎とともに父祖の墓地である東勝寺に移動した。幕府軍は鎌倉の各所で敗れ、 すでに勝敗の帰趨は明らか。ここで時間をかせぎ静かに自刃しよう考えたのだろう。この戦乱の様子は太平記にかなり詳細に述べられている。双方の死者は多分、 万を越えたと思われ、鎌倉時代最後のそして最大の戦いだった。

    昭和28年、一の鳥居近くから簡易裁判所にかけて膨大な量の人骨が発見されている。刀創などが残る物が多いためこの合戦の戦死者と推定されたが巻き添えになった 庶民も多かったことだろう。勝利者の新田義貞も建武三年(1336)に材木座に九品寺を建てて死者の霊を弔っている。
    北條高時の「腹切りやぐら」の中には卒塔婆や石塔が沢山あり、周辺はいわゆる「鎌倉の高級住宅地」だが・・・比企一族が北条軍により皆殺しになった妙本寺から それほど離れていないのも怨念だろうか。

    小町大路との間に流れる滑川にかかる東勝寺橋の辺りも血で血を洗う死闘が展開された場所である。橋から川面を覗くと累々と重なる屍が見えてくるような...


    <参考までに・・・私の好きなお寺>

    北鎌倉の東慶寺のそばに 鎌倉五山 の第四位 浄智寺 があります。北鎌倉の混雑から少し離れた、心が洗われるような静かなお寺です。
    鎌倉で最も古く創建された 杉本寺 は坂東観音札所の一番でもある。 観音堂前の苔むした階段は、保護のため通行禁止になっている。




     その拾参 最終章 



    左:伊豆の踊り子の舞台、旧天城トンネル

    ここは河津側の出口で、反対側には峠の茶屋があった。この石造りのトンネルは明治38年に工期13年をかけて完成している。 全長446m、巾は約4mです。

    昔の本街道は更に西側の「二本杉峠」を越える道で、下田に上陸したハリス総領事もここを通っている。現在はこの峠は良く整備された ハイキングコースになっている。

    ちなみに「伊豆の踊り子」の時代設定は大正7年で、今では新天城トンネルの開通によって旧道となり、観光ポイントとなって いる(車の通行は可能)。



    これは「歴史の裏話」と言えるのか、どうか…。

    九郎判官義経が軍人として優れていた理由は彼の価値観にある。当時の戦いは互に名乗り合って正々堂々と一騎討ちから スタートした。名乗られて逃げるのは(たとえ相手が強くても)卑怯、武士の恥とされたのだが、この「常識」は義経には通じない。そもそも義経は小男で、甲冑を着けての戦いは大の苦手。 勝てそうもなければサッサと逃げ、それどころか当時はタブーだった非戦闘員への攻撃(例えば相手の船の漕ぎ手への攻撃)や騙まし討ちなども、戦いに勝つためなら当然と考えていた ようだ。

    ちなみに当時の合戦の基本的なルールは
    騎馬武者は徒歩の敵を攻撃してはならない、徒歩の武者は騎馬武者を攻撃できる、馬を傷つけてはならない、非戦闘員を攻撃してはならない...などが決め事だったらしい。その他の ルールもいずれ書いてみたいと思っている。

    高木彬光の歴史推理小説「成吉思汗の秘密」の中では、蒙古帝国の創設者ジンギスカン=義経のその後の姿であると推理した。義経の死は1189年・31才。 モンゴルでジンギスカンが帝位に就いたのは1206年で、もし彼が義経であれば働き盛りの46才。衣川を落ち延びた後15年かけてモンゴルに王国を築いたことになる。平泉から北海道 北部へは義経の逃走経路を示す伝承が点々と続いているが、逆に若い頃のジンギスカンに関する記録は、ほとんどないらしい。

    左:天城山心中の記事    画像をクリック→詳細ページにリンク

    主人公の名探偵・神津恭介が膨大な資料を分析して、ジンギスカン義経説を推理し終わった時、天城山心中(1957年12/4)が発生。日本にいた愛親覚羅溥傑氏 (満州国皇帝・愛親覚羅溥儀の弟)の長女で当時19才の慧生と日本人の大学生・大久保武道君(父親は青森の南部鉄道常務)が、交際を反対されたのをきっかけに 天城山で心中を遂げた。二人の遺体は自殺した一週間後の12/10朝、旧天城トンネル入口から八丁池へ登る道の、トンネルから約1500mの地点で発見 されている。

        @寒天橋から寒天林道を1500m進んだ地点、右側雑木林に約15m入った場所
        Aトンネルから上り御幸歩道を1500m進んだ地点、右側雑木林に約15m入った場所
       ・・・のどちらかが、二人が死を選んだ場所。
    この付近は天城屈指のハイキングコースで、天城トンネル付近から八丁池に向かうには「寒天林道」と「上り御幸歩道」の2ルートがある。当時の新聞の記載 は不明確だが二人が選んだのは多分「上り御幸歩道」と推測される。いつか歩いてみたい道である。


    左:行楽シーズンには八丁池方向へのバスも通る、秋の寒天林道

    定期運行のバス以外の車両は通行禁止。終点までは歩いても約1時間で到着する。一番素敵な季節は秋であろう。山好きは厳冬が最高だと言うが、ちょっとハードだ。

    愛親覚羅慧生は清王朝・ジンギスカンの末裔。大学生の身元を更に調べると、衣川から落ち延び北へ向かう義経が陸奥の国で恋を した、その相手の娘の血を引く家柄だと判明した、という筋だったような。娘は鎌倉の追手に討たれ、死んだ場所「椿山」は娘の 血で染まったためこの山の椿の花は全て赤いのだとか・・・。そして天城山は、源氏終焉の地修善寺から遠くない場所。

    天城山心中は、義経と陸奥の娘の「輪廻転生」であった。愛し合いながら異郷の地に離れて死んだ二人の魂が800年の歳月を 越えて生まれ変り、源氏ゆかりの地から再び悠久の時の流れに帰ったのだと神津恭介の謎解きは終わっている。


    右:初夏の天城山系・万二郎岳近くのブナの古木

    天城には手付かずの自然が豊富に残されている。ブナ、石楠花、馬酔木、姫シャラなどの群生も魅力的で、四季それぞれに楽し ませてくれる。車が入れず、徒歩以外に行かれない場所が多いのも自然が守られている理由の一つなのだろう。

    しかし神津恭介の描いた結末は少し強引で・・・静御前の献身的な愛はどうなったのだろうか?権力者頼朝を前にして義経を慕う心を隠さなかった 毅然とした態度を考えると(浮気者の義経はともかくとして)静御前の人気が高いのもよく理解できる。

    愛親覚羅慧生がジンギスカンの子孫(=義経の子孫)だと仮定して、もしも大久保武道が静御前の血を引いていれば「天城山心中」は明らかに輪廻転生であり、鳥肌が立つほどの説得力があるが...静御前が奥州の地を訪れた記録はない。辛うじて新潟県の栃尾に墓と伝わる史跡が残るのみで、彼女は義経を慕って平泉を目指し六十里越の峠(現在の国道252号)を前にして息絶えた、と伝わっている。





    ・・・ 終 ・・・





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