義仲を育てた養父・中原兼遠の本領、木曽谷の遺跡 

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木曽義仲(幼名は駒王丸)の誕生は久寿元年(1154年、月日は不明)。治承四年(1180)9月の挙兵以前の義仲に関する史料は皆無に近く、平家物語や源平盛衰記などに各地の伝承を組み合わせて確認するしかない。父の帯刀先生源義賢大蔵館(別窓)で 悪源太義平 の手勢に討たれたのは久寿二年8月16日だから、駒王丸の生母の小枝御前(義賢の側妾)と共に 中原兼遠 に守られて木曽に逃れたのは生後9ヶ月〜20ヶ月の間、という計算になる。26歳の挙兵までは乳母夫である中原兼遠の庇護を受けて成長した。
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義仲の異母兄(生母は藤原宗季の娘)には 三位頼政 の養子になって宇治川合戦で戦死した 仲家、妹(生母は不明、義仲の娘説もあり)に宮菊姫がいる。参考資料として、仲家が没した宇治川合戦(治承四年(1180)5月26日)についての吾妻鏡と平家物語の記述、宮菊に関する吾妻鏡の記述を載せた。
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  【 吾妻鏡 治承四年(1180) 5月26日 】    宇治平等院で三位頼政自刃、仲家も共に討死した。
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卯の刻 (早朝6時前後)、以仁王 は三位頼政一族と三井寺の衆徒を従えて南都(奈良)を目指した。三井寺にも危険が迫ったため、東大寺と興福寺の衆徒を頼ろうと考えたためである。平知盛維盛 ら入道清盛 の一族は二万騎の兵を率いて追跡し宇治の辺りで合戦となり、三位頼政と子息(仲綱・兼綱・仲宗)と足利義房の首を獲った(頼政の首は偽物との風説あり)。以仁王は光明山鳥居の前で落命した(30歳)。
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    ※足利義房: 初代義康の息子は四人、長男義清と次男義長は備中水島合戦で平家に戦死したため三男義兼が嫡子となった。末弟義房は宇治川合戦で
平家に討たれたが、この時の平家軍には足利荘南部の領有を争っていた藤姓足利氏(藤原秀郷の子孫)の 足利忠綱が加わっている。
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  【 平家物語 巻第四 宮御最後 】    頼政一族最期の段
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三位入道七十に余って戦して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば心静に自害せんとて、平等院の門の内へ引き退いて、敵襲ひかかりければ、次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に唐綾威の鎧着て白葦毛の馬に乗り、父を延ばさんと返し合はせ返し合はせ防ぎ戦ふ。上総太郎判官が射ける矢に兼綱内甲を射させてひるむところに、上総が童の次郎丸といふ強か者、押し並べて引つ組んでどうと落つ。源大夫判官は内甲も痛手なれども、聞こゆる大力なりければ、童を取って押さへて首をかき、立ち上がらんとするところに、平家の兵者ども十四、五騎ひしひしと落ち重なつて、つひに兼綱をば討つてんげり。伊豆守仲綱も痛手あまた負ひ、平等院の釣殿にて自害す。その首をば下河辺の藤三郎清親取つて、大床の下へぞ投げ入れける。六条蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光もさんざんに戦ひ、分捕りあまたして、遂に討死してんげり。この仲家と申すは、故帯刀先生義賢が嫡子なり、みなし子にてありしを、三位入道養子にして不便にしたまひしが、日来の契を変ぜず、一所にて死にけるこそ無慚なれ。
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  【 吾妻鏡 元暦二年(1185) 5月1日 】
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故伊予守義仲の妹(菊)が頼朝の招きを受け京都から鎌倉に入った。御台所 政子 が特に憐れみの心を抱いていた。先日来の彼女は各所の土地を横領した嫌疑を受けていたが、これは悪い連中が私の名を騙ったもので関与していない旨を申し述べた。義仲は朝敵として滅ぼされたが罪科のない女性を責めるべきではない、従って美濃国遠山荘内の一村の贈与を受けた。
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    ※憐れみの心: 義仲の父 源義賢 は久寿二年(1155)8月に 義朝 の命令を受けた長男の 悪源太義平 に殺され、義賢の長男 仲綱頼政 の養子)は
宇治川合戦で討ち死に、次男の 義仲 は寿永三年(1184)1月に頼朝の命令で追討、義仲の嫡子 清水義高 は元暦元年(1184)4月に頼朝の命令で殺害。三代の親子四人が全て同族の河内源氏、しかも義朝と頼朝親子に殺されるのだから、冷血な政子が憐れみの心を抱いても不思議ではない、か。厳密には同じ清和源氏だが頼政の系は 源頼光 を祖とする摂津源氏で、頼朝の系は 源頼親 を祖とする河内源氏の違いがある、けれども。

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     右:中山道沿い、木曽町北部の史跡地図    画像をクリック→拡大表示
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      木曽谷の散策には地元の観光案内 「木曽路を歩く」 がお薦めできる。
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     山吹山...別名を狼煙山、義仲の側妾 山吹 が住んでいたとも伝わる。毎年旧盆には木曽義仲を
弔って伝統の「らっぽしょ行列(武者行列)」が行われる。戦国時代には鳥居峠の狼煙が栗本(原野駅近く)を経て木曽福島の相図ヶ峰に伝わっていたという。
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     巴ヶ淵...巴御前 が大石を礫(つぶて)のように投げ込んだ、巴が水浴を楽しんだ、巴の如く
渦を巻いている、また巴はこの淵に棲む龍神の化身である、などの民話が伝わる。
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     南宮神社...祭神は金山彦命(天照大神の兄)、例大祭は9月上旬の日曜。駒王丸が13歳で元服、
近くに館を構え移り住んだ際に古宮平にあった社を遷し、養父の 中原兼遠 と共に京に上った時に分祠した美濃関が原の南宮大社勧請した。
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     旗挙八幡宮...義仲はこの近くに館を構えて京都の 石清水八幡宮(公式サイト)を勧請したのが起源
と伝わる。挙兵に当ってはこの八幡宮で戦勝と武運長久を祈って出陣した。
拝殿横の欅は元服の際に植えた伝わるが、樹齢800年を越えたため枯死が近い。
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     宣公郷土館...徳音寺境内にある。義仲の愛蔵品や宮ノ越宿に伝わる文化財を陳列している。
無休、8〜17時・無料Pあり、志納。義仲の法名・徳音院義山宣公からの命名。
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     義仲館...義仲の生涯を絵画や写真・人形などで紹介する観光向け施設。9〜17時・月曜休(休日なら翌日)、300円。あまり面白くない。
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     徳音寺...義仲が木曽で没した生母小枝御前の菩提を弔って仁安三年(1168)に建立した一族の菩提寺。「徳音寺の晩鐘」でも知られている。
臨済宗妙心寺派で山号は日照山、境内の墓所には木曽義仲 ・ 小枝御前 ・ 今井兼平巴御前樋口兼光 の墓碑 (小枝御前の他は供養墓)がある。
木曽七福神毘沙門天霊場、中部四十九薬師二十二番札所でもあり、江戸時代には中山道を通る旅人の参詣で賑わった。
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     宮ノ越宿..中山道36番目の宿場だが本陣跡と脇本陣と旅籠だった民家が残るだけ、妻籠・海野・奈良井レベルの町並みを期待すると少し落胆する。
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     林昌寺...中原兼遠が開いた一族の菩提寺。奥の高みに兼遠らの墓石が残っている。北の鳥居峠に向って延びる木曽谷の眺めが美しい。
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     道の駅...中山道のドライブに欠かせない休憩&食事スポットで駐車場も広い。詳細は「道の駅 日義木曽駒」(別窓)で。
宿場の見物なら 「道の駅 奈良井木曽の大橋」、木曽漆器の見物なら 「道の駅 木曽ならかわ」 (共に別窓)が面白い。

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木曽町地図南部 左:木曽町南部の史跡地図    画像をクリック→拡大表示
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手習天神...昔は山下天神と呼ばれ、中原兼遠が義仲のため学問の神を勧請
した、と伝わっている。義仲には「粗野で乱暴な」のイメージが付き、
纏っているが果たして実像は?
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兼遠屋敷跡...川に囲まれた高台の要衝。元服するまでの義仲は樋口兼光や
今井兼平と共にここで育ったと伝わるが、遺構は残っていないから
雰囲気を味わうだけ。適当に路駐するか、関所資料館近くの
町営上町駐車場(無料)からの散策ルートに組み入れても良い。
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興禅寺...木曽氏・山村氏(江戸期の代官)の菩提寺で木曽三大名刹の一つ。
永享六年(1434)に木曽氏十二代信道が義仲追善のため整備再興
したと伝わる。枯山水「看雲庭」は日本一の広さ(ただし昭和の作庭)。
山裾に領家歴代の墓碑が並び、義仲の慰霊墓には巴に託した遺髪
が埋葬されている、と。木曽氏は南北朝以後の国人領主で初代の
基宗は義仲の五男(母は巴、真偽は不明)を称した。無休・8時半〜
16時半、500円。
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     代官屋敷...木曽の世襲代官で関守を務めた山村氏の屋敷を資料館として公開中。伝来の調度品や木曽駒ヶ岳を借景にした庭園が美しい。
冬の木曜日と年末年始が休館、概ね8時半〜16時半、300円。近接して無料駐車場あり。
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     福島関所跡...木曽川に沿った高台にあり、東海道の箱根関所と荒居関所、中山道の碓井関所と並ぶ中山道の要衝を270年間に亘って守った。
現在は資料館として公開している。冬の火曜日と年末年始が休館、概ね8時半〜16時半、300円。近接して無料駐車場あり。


     

        左: 中央本線原野駅から徒歩300m、山門は中山道(国道19号)に面しているから判りやすい。国道沿いの約600m南(木曽福島寄り)に
道の駅日義木曽駒高原があり、ここから歩くのも悪くない。義仲関連の史跡が集中している宮ノ越駅までは2km強、別コースになる。
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        中: 中原兼遠は下級貴族出身の実務官僚として信濃権守に任じた、東山道と中山道の物流で財を成した、宗像氏が領有する大吉祖荘の荘官を
務めていたなどの諸説がある。実直だが粗野な言動で知られる義仲の性格は天性なのか、あるいは優れた指導者に育て上げる教育環境が
充足していなかったのかも知れない。
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        右: 南側の山裾、杉林を背景にして墓地が広がっている。中原兼遠一族の墓所は右手奥に設けられている。


     

        左&中: 源平盛衰記の「木曽謀反附兼遠起請の事」に拠れば、義仲謀反を知った平宗盛は中原兼遠を呼び「義仲を連行せねば首を刎ねる」と迫った。
兼遠は「義仲謀反は噂に過ぎませんが、とりあえず帰国して捕えましょう」と答えた。宗盛は更に「ならば義仲を捕らえる起請文を差し出すか、
誰かに義仲を捕らえさせ連行すれば帰国を許す」と迫ったため、やむなく「連行する」との起請文を入れて木曽に帰った。
兼遠は懇意にしていた佐久の 根井行親 に義仲を預けて後事を託した。行親は各地に廻状を送って軍兵を集め、義賢の時代からの誼で馳せ
参じた上野国の武士や足利の一族らが集結して平家を滅ぼすため挙兵するに至った。
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        右: 兼遠墓所の前から木曽谷の北を眺める。正面が中央アルプス北端の坊主岳(1961m)か、その右には経ヶ岳(2296m)が続いている。


     

        左: 徳音寺が収蔵する木曽義仲像。残念ながら作者も制作年代も詳細は判っていないが、古くても室町時代以降の作と推定される。
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        中: 観光施設・義仲館前の義仲と巴の銅像。伊豆の蛭ヶ小島(別窓)に建てられた 頼朝 と政子の銅像と同じで史実を元に捏造した
フィクションを軸にして展示を構成している。歴史ファンには納得しかねるケースが多いが、まぁこれも観光振興にはやむを得ないか。
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        右: 中央本線鉄橋の下で大きく曲がる木曽川の深みが巴淵。巴が大石を礫の如く投げ込んだ、水浴を楽しんだ、巴の如く渦を巻いている、この淵に
棲む龍神の化身が巴である、などの伝承が残っている。
平家物語は「山吹と同じく義仲の便女」、源平闘諍録(平家物語の異本)は「樋口兼光(中原兼遠の子)の娘」、源平盛衰記は「中原兼遠の末娘」
と述べている。実在の人物だった可能性も皆無ではないが、平家物語以後の描き方は徐々に誇張が進み、最終的には「剛力の 畠山重忠 とも
互角に組み合う一騎当千の女武者」とまで尾鰭が付いてしまう。
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※便女: 直接的には召使の女を意味する。身辺の世話をすると共に軍陣にも同行し妻妾の役目も果していた。


     

        左: 臨済宗妙心寺派の日照山徳音寺、義仲が生母の小枝御前の菩提を弔って仁安三年(1168)に建立した一族の菩提寺である。
創建当時の義仲は14歳だから、元服に際して新たに館を建ててその近くに菩提寺を建立したという経緯なのだろうか。
徳音寺縁起では「山吹山麓の柏原寺を大夫房覚明が現在地に移し寿永三年(1184)に日照山徳音寺に改めた、としている。
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        中: 境内奥の石段上が義仲一族主従の墓所。右下には天明年間(1781〜89)に子孫・木曽義陳建立の廟所もあり、昭和50年(1975)に
笹村草家人(東京美術学校(東京芸大の前身)助教授)が作った等身大の義仲像が納められている。
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        右: 義仲を中心にして右に小枝御前と今井兼平、左に巴と樋口兼光の墓標が建っている。巴の墓には遺髪を納めたと伝わるが、それ以外は
遺骨とは関係ない慰霊の碑と考えられる。

※大夫房覚明: 海野氏の一族出身と伝わる。行家と共に鎌倉に入り、彼の離反に従って義仲に合流して祐筆を務めた。後に義仲と別れ各地を
転々とした後に 箱根権現(別窓)に入った。後に素性が露見して逐電するのだが、一説に箱根権現縁起絵巻や
平家物語や曽我物語の成立にも関わったともされている人物。

この頁は2019年 8月6日に更新しました。