中伊豆の名刹 最勝院 

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最勝院鳥瞰 右:北側の實成寺上空から見た最勝院一帯    画像をクリック→拡大表示
 
最勝院の寺伝に拠れば、第百二代花園天皇(在位:正長元年(1428)〜寛正五年(1564))の頃に上杉憲清(宅間上杉家の祖重兼の孫)が祖父のため開いたとしているが、実際には関東管領の上杉憲実が祖父憲栄の追善供養のため開いた寺院。例大祭として4月24日の火防尊と8月1日の施餓鬼が開催される。
地図はこちら、山門手前に広い駐車場がある。
 
  ※上杉憲実:応永17年(1410)〜文正元年(1466)、室町中期の武将で越後守護上杉房方の三男。
鎌倉公方の足利持氏に仕え関東管領、上野・武蔵・伊豆守護を務めた。優れた人物だったが室町幕府六代将軍義教と持氏の融和に苦しみ、結果として持氏を追討することになる。足利学校や金沢文庫を再興した文化人としても知られる。
 
永享五年(1433)に憲実は鎮守ヶ島にあった真言宗の西勝廃寺跡に堂宇を建て、寺領として七百貫匁を寄付し宗燦(さん)を開山和尚とした。本尊は室町時代の胎内釈迦牟尼仏、脇仏として文殊菩薩を祀っている。戦前までは三町歩(約3ヘクタール)の農地を所有した大寺だった。開山和尚の吾宝禅師宗燦は後深草天皇の末で、後深草天皇−久明親王−煕明親王(深草宮)−富明王(祥益)−宗燦(さん)と続く家系、と主張しているが裏付ける史料は見当たらない。
 
最勝院から国士峠に向って大見川の支流・地蔵堂川に沿いに遡ると貴僧坊という字に至る。地元の伝承に拠れば、永享の頃(1429〜1440)に天城湯ヶ島から国士峠を越えて旅の修行僧が訪れ法嗣茶屋(仏堂か)に一泊、その夜半に村人が女の死人を担ぎ込んだ。僧が棺の前で大般若経を読むと死人が生き返ったため村人は僧を崇め貴び、僧は喜捨を得てこの地に大久寺(だいきゅうじ)を開いた。この経緯から貴僧坊の名が付いた、と伝わる。この僧が2年後に最勝院を開いた名僧吾宝禅師である、と。別の伝承では、ある大晦日に茶屋の老母が急死したが年末のため葬儀ができず三日間大久寺に安置した。年が明けた正月に近隣の村人が寺に参詣すると老母がたすき掛けで茶の接待をし、三日目の夜には棺に戻ったため四日目に葬儀を営んだ、と。
 
出典が思い出せないし真偽も不明なのだが...安元二年(1176)10月に河津三郎祐泰が伊豆赤沢で殺され、下手人の大見成家と八幡行氏は直後に祐親が派遣した祐清の兵に討たれた。伊東での首実検後に首は大見に送り返されたのだが、それが最勝院の前身だった寺だと述べていた。まぁ、有り得るかも。
 
荘園志料には「中伊豆町貴僧坊は大見川の上流域にあり、東は地蔵堂村に接する。永享十年(1438)の大久寺上梁文に「伊豆国賀茂郡葛見荘貴僧坊村大久寺」とある。同寺は同年に最勝院開祖の吾宝が当地で越年した際に創建し...云々」とある。大久寺は遠い昔に廃寺となり、既に跡地も不明。
この頁の最下段には関連として「貴僧坊水神社」と狩野川台風による「筏場の大崩落」の画像を掲載してある。
 
  ※荘園志料:律令制国別に荘園の詳細を記載した資料で、昭和初期まで活動した歴史学者の清水正健が編纂し、昭和八年(1933)に出版された。
荘園研究の資料として特に貴重なため昭和四十年(1965)に角川書店から全三巻として復刻された。A5版で定価3万円・古書店などでは2万円台らしいけど、大きな図書館になら置いてあるらしい。

 
     

        左:大見川沿いの街道から山に向って参道が延びる。正式には妙高山最勝禅院、越前の永平寺と横浜の総持寺を本山とする曹洞宗(禅宗)。
本尊は室町時代に刻まれた釈迦牟尼仏、他に秘仏として火防大菩薩を収蔵するたび重なった火災から救い出されたらしい。
 
        中:創建は室町時代の永享五年(1433)、鎌倉管領上杉憲清が開基となり八十九代後深草天皇の曾孫の子・吾宝禅師宗燦を招いて開祖とした。
この寺伝は貴僧坊に残る伝承とも食い違っている。史料に拠れば吾宝宗燦は南足柄市の大雄山最乗寺(公式サイト)八世の名僧。
 
        右:吾宝禅師宗燦は五哲と呼ばれる優れた弟子を育て、それぞれが各地に寺を開いた。現在では末寺と孫末寺を合せて1400を数える、という。


     

        左:境内には心字池に架かる石橋や焼失した堂宇の基礎などが残っている。豊かな自然に囲まれた寺域の雰囲気はなかなか素晴らしい。
 
        中:開祖の吾宝宗燦は参拝した夫婦(実は裏山の天狗)に戒名を与えた。天狗は礼として境内に尽きることのない湧き水を残した、という。
 
        右:その経緯から火防大菩薩が祀られているが...文政十年(1827)と昭和十五年(1940)の2度も全伽藍が焼失したのは実に皮肉だ。


     

        左:本堂は昭和二十九年(1954)に始まった再建事業で旧に復された。なかなか豪壮な建築様式だが、今後とも火の元には充分のご注意を。
 
        中:本堂の左手を墓地に登る。自然のままに見えるが実際には手入れが行き届いている庭と苔むした石垣は流石に禅寺の雰囲気だ。
 
        右:北条氏康に敗れた関東管領上杉憲政の子・龍若丸(中央)と家臣の墓。人質として小田原に向う途中で逃げ、湯ヶ島で討たれた、とも。



     

        左:こちらは最勝院の北北西2km、城地区の来宮神社から更に500m東の城富院参道。50mほど登って曹洞宗・泉首山城富院の山門に至る。
天文十二年(1542)創建、最勝院七世笑山が開いた小田原北条氏五代の祈願所だった。
 
        中:明暦元年(1655)焼失、寛文十一年(1671)山崩れで埋没、延宝九年(1681)に再興され、現在は伊豆八十八ヶ所霊場の四番札所である。
 
        右:本堂の左には後北条氏三代氏康公手植えの梅(を植え継いだ樹)。若い頃は「うつけ者」と噂された氏康は善政と勇猛さで名高い部将だ。



     

観光案内みたいになるが...大見城趾と實成寺の前から更に最勝院入口を過ぎて貴僧坊に入ると左側の山裾に水神社がある。寛文十三年(1673)の創建で、神社が所有する山葵畑(収穫は神社の維持費らしい)の隅から清冽な地下水が湧き出し、自由に汲むことができる。数年前までは自然のままの湧水だったが最近になって整備され山葵畑のすぐ横を歩く飛び石まで設置された。また貴僧坊500mほど手前で川を渡り1kmほど遡るとキャンプ場を併設した 萬城の滝に至る。裏側に入れるため「裏見の滝」とも呼ばれているが、現在は崩落のため裏側には入れないらしい。



また水神社から更に国士峠に向う途中には「筏場の大崩壊」の跡地がある。昭和33年9月の狩野川台風の降雨により蛇喰(じゃばみ)山が崩壊して土石流が発生し、下流域に大きな被害をもたらした現場。もちろん既に復旧されているが説明看板などで自然の脅威を確認できるし、山道を少し歩けば残された崖を遠望できる。元々蛇喰山の一帯は天城山カワゴ平の大噴火(3000年前)で堆積した崩れ安い土質で、地中に埋もれた神代杉を掘り出した跡に残った無数の穴に雨水が流れ込み、飽和状態になった一瞬で山が裂けたと伝わっている。 土質や現地の紹介などの詳細はこちら(参考サイト)が判りやすい。

 
     

        上:大見川上流の筏場、蛇喰山が崩落した現場近くに建つ案内資料。立て札の右側から山葵畑を下に見て細道を歩くと更に近くから展望できる。
筏場とは天城で切り出した丸太を流すため川を塞き止めた場所を指し、中伊豆の各所に点在している。一気に堰を切り落として濁流と共に筏を押し流すことから名付けられた。筏場の一帯は伊豆でも有数の山葵畑が大見川に沿って棚田風に広がっている。