酒折宮(さかおりのみや)と甲斐の九筋 

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左:酒折宮から延びる街道・甲斐九筋の概略      画像をクリック→拡大表示
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徳川幕府の直轄領(天領)だった甲斐国に甲府勤番として駐在した松平定能が文化十一年(1814)に編纂した甲斐国志には「甲斐国から他国に通じる道は九筋があり、全て酒折を起点にしている」との記載がある。
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これが奈良時代以前から甲斐にあったと伝わる古道「甲斐九筋」の総称で、時代の変遷により追加や変更はあったが行政・郡司・宗教・物流などの基礎ルートとなり、酒折宮(現在の甲府市酒折3−1)を起点にして甲斐国から周辺諸国に通じていた主要道である。
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武蔵国秩父を経て上野に向う雁坂口(秩父往還)、青梅から武蔵国南部に向う萩原口(青梅街道)、相模国に向う御坂路(鎌倉街道)、河口湖の西岸を通って駿河に向う若彦路、身延から駿河の興津に向う河内路(駿州往還)、若彦路と河内路の中間を田子ノ浦に南下する右左口路(中道)、信濃川上へ北上する穂坂路、八ヶ岳の東を北上する大門嶺口、諏訪へ向う逸見路(諏訪口)を指す。
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甲斐九筋の中では武田信玄が越後の謙信に備える軍用道路として整備した「大門嶺口」(棒道)、平成十年(1998)にトンネルが開通して「開かずの国道」を解消した「雁坂口」が良く知られている。また徳川幕府の成立後は江戸を結ぶ甲州街道の交通量が飛躍的に増え、幹線ルートとして整備が進んだ。
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酒折宮の祭神は日本武尊(ヤマトタケル)。景行天皇の皇子で父王に反抗的な双子の兄・大碓命を殺し、その強さを恐れた父王に遠ざけられ全国の土着豪族の制圧に転戦した(古事記の記述。日本書紀では大碓命は蝦夷討伐の命令を忌避して逃亡)。大和王権が全国を武力制圧した、その軍団の象徴である。


右:酒折宮を中心にした周辺の鳥瞰図      画像をクリック→拡大表示
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九筋の中で最も古くから通じていたのは若彦路で、日本書紀巻七には「景行天皇(第十二代)四十年(に東夷を征服した)日本武尊(ヤマトタケル)が常陸を経て(相模から)甲斐に入り酒折宮に留まった」と記載されている。
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時代の信頼性や日本武尊の存在や行軍ルートには諸説あるが、現在では日本書紀が成立した養老四年(720)には既に若彦路が使われていたのが定説となっている、らしい。
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酒折宮に入った日本武尊は宴を開き、この夜に歌を詠んだ。「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
従う武者は誰も歌を返さなかったが焚き木番の老人が「日々なべて 夜には九夜 日には十日を」と応じた。
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日本武尊は老人の賢さを褒めて褒美を与えた(古事記では国造(地方官の長)に任命)。大和朝廷が派遣した征東の軍団が甲斐土着の豪族を支配下に置いた、その事実を象徴的に描いたのだろう。
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古代の甲斐は渡来人が定住した甲府盆地西部の巨摩郡(高麗の転化?)が最初に発展し、後に国府(笛吹市春日居)が置かれた笛吹川沿いの甲府盆地中東部が行政の中心になった。酒折宮は巨摩と国府の境界域に位置した古社だった経緯から街道の基点に設定された、と考えられる。
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甲斐国史は「酒折宮は日本武尊を祀り、参道は200mほどで官道に接している。旧蹟は500mほど山中の石祠で地元では(月見山)古天神と呼び、いつの時代にか現在地に遷った」と書いている。この古天神社の周辺には古墳や大型の石造物が点在し古い歴史を物語っている。永正十六年(1519)に武田信虎(信玄の父)が4kmほど北西の古府中に躑躅ヶ崎館(現在の武田神社)を築いてからは周辺に城下町が形成され、東側の酒折宮一帯は甲府の東側入口となった。


     

        左: 甲州街道に続く城東通りから中央本線の踏切を渡るまでの参道200mは車一台分の巾しかない。対向車が来たらどうしようかね。
門前に駐車はできるが、時間に余裕があれば北東の善光寺に車を停めて歩いても面白いな...裏道を通って僅か800mだから意外に近い。
ちなみに、酒折宮(さかおりのみや)は「神社」ではなく「宮」でヤマトタケルを祀る、つまり天皇家所縁の神などを祀る「宮」である。
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        中: 境内はごく普通で、ヤマトタケルの歌碑(wiki)と連歌の碑が幾つか建っているのが眼を惹く程度。古天神に登りたかったが場所が良く判らないため
敬遠した。あとで確認したら酒折宮の裏を500mほどの山の中腹、酒折トンネルの真上辺りらしい。
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        右: 社殿は宝暦十二年(1762)に国学者の山県大弐(wiki)が建立したのが最初と伝わるから、それまでは古天神の地に在ったのだろう。
現在の社殿は大正五年(1916)に焼失した後に昭和十七年(1942)に再建したもの。

日本武尊(ヤマトタケル)伝承を追い掛けると地獄に嵌まり込むから足跡のみを辿ると...大王から東国12ヶ国の平定命令を受けた軍団は常陸から
(陸奥まで行ったのか常陸でUターンしたのか不明)秩父 武蔵を制圧して酒折宮に入った。前述の通りヤマトタケルは「新治筑波を過ぎて幾夜過ぎたか」と
詠み、焚き木の老人が「九夜と十日」と続けたのだから、常陸から九泊十日の行程で酒折宮に着いたことになる(道路地図だと約200km)。
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幾つかの伝承はあるが、結局のところ足柄峠を越えて若彦路に入ったのか或いは秩父の雁坂峠を越えたのか判らない。まぁ両方とも存在は確認されている
のだから、ヤマトタケルがどちらを通っても構わないのだけれど。
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     ※東国12ヶ国: 伊勢・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・上総と下総・常陸・陸奥 を指す。

この頁は2019年 7月25日に更新しました。