頼家を弔って政子が建立した指月殿 

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     岡本綺堂 の紀行文「秋の修善寺」の中に、次のような一節がある。
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東京の新聞二、三種を読んだ後、頼家の墓へ参詣に行った。桂橋を渡り、旅館のあいだを過ぎ、的場の前などをぬけて塔の峰の麓に出た。
ところどころに石段はあるが、路は極めて平坦で、雑木が茂っているあいだに高い竹藪がある。槿(むくげ)の花の咲いている竹籬(たけまがき)に沿うて
左に曲ると、正面に釈迦堂がある。頼家の仏果円満を願うがために母政子の尼が建立したものであるという。
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鎌倉の覇業を永久に維持する大(おおい)なる目的の前には、あるに甲斐(かい)なき我子を捨殺しにしたものの、さすがに子は可愛いものであったろうと
推量(おしはか)ると、ふだんは虫の好かない傲慢の尼将軍その人に対しても一種同情の感をとどめ得なかった。(〜中略〜)
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頼家の墓所は単に塔の峯の麓とのみ記憶していたが、今また聞けば、ここを指月ヶ岡というそうである。頼家が討たれた後に母の尼が来り弔って、空ゆく
月を打仰ぎつつ「月は変らぬものを、変り果てたるは我子の上よ」と月を指さして泣いたので、人々も同じ涙にくれ、爾来ここを呼んで指月ヶ岡ということに
なったとか。蕭条たる寒村の秋のゆうべ、不幸なる我子の墓前に立って、一代の女将軍が月下に泣いた姿を想いやると、これもまた画くべく歌うべき悲劇
であるように思われた。彼女がかくまでに涙を呑んで経営した覇業も、源氏より北条に移って、北条もまた亡びた。これにくらべると、秀頼と相抱いて城と
ともにほろびた淀君の方が、人の母としてはかえって幸であったかも知れない。
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     岡本綺堂は「修禅寺物語」の前書きでも政子の悲嘆を描いている。一族の既得権を守るため二人の実子を切り捨てた、その冷徹さを直視すべきだろうに。


     

指月殿は伊豆最古の木造建築で5間(寸法ではなく、5スパンを意味する)方形(9.09m四方・軒の出を含まず)、800年以上の風雪に晒されたとは思えない
ほど保存状態が良く、修禅寺本堂のように兵火にも遭わず往時の歴史を伝えている。扁額は渡来僧 一山一寧 の書によるものだが複製で、本物は修禅寺
宝物殿に展示している。南宋の理宋皇帝から下賜された大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺という扁額の方は文久三年(1863)に焼失してしまった。
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土産物店や民家が隣接した周辺は鬱陶しいが、桂川を挟み本堂と向き合う(修禅寺境内の)指月ヶ丘に建っていた往時の姿に想いを馳せるべきか。
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政子は指月殿(一切経堂・伊豆最古の木造建築)を建てると共に宋版大蔵経・釈迦三尊繍仏(修禅寺宝物館に収蔵)などを修禅寺に寄進し、更に門前の
虎溪橋も新たに架け替えたと伝わる。正確には「指」は経典、「月」は悟りを意味し大蔵経全体は数千巻にも及ぶが、現在は僅かに八巻が残るだけで、その
一部(放光般若波羅密多経)は静岡県文化財として修禅寺宝物館が収蔵、巻末には「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提、尼置之」の書き込みがある。
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  ※一山一寧: 二度の遠征(元寇)に失敗したモンゴル帝国の五代皇帝クビライは服従を要求して再三の使者を派遣したが成果はなく、六代皇帝となった
世宗(クビライの孫)が正安元年(1299)に高麗の補陀落山観音寺(開城市)住職の一山一寧(臨済宗)を正使に派遣、大宰府から国書を
九代執権 貞時 に呈上した。幕府はそれまでの使者を全て斬殺していたが一山一寧が高僧である事などにより処刑せず修善寺に幽閉し、
後に疑惑を解いて鎌倉の草庵に定住を許した。その後の一山一寧は貞時の帰依を受け建長寺の中興住職を経て名声を高め、正和二年
(1313)には第91代後宇多天皇の招きを受けて南禅寺三世を務め、臨済宗の興隆に大きな足跡を残している。
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  ※指月: 仏典にある「月を指せば指を認む」が原典。悟りの境地である「月」を示しているのに凡人は「指」(教理や流派)に拘泥して「月」を見ようとしない。
それでは仏の教えに近付けないよ、と諭している言葉らしい。政子が月を見て運命を嘆いた、そんな俗っぽい話じゃないのだ。
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  ※宋版大蔵経: 全体では数千巻にも及ぶが僅かに八巻が残っているだけ。その一部(放光般若波羅密多経)が静岡県文化財に指定され修禅寺宝物館に
収蔵している。その巻末には「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提、尼置之」の書き込みがある。
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その他、修禅寺周辺の情報は  頼家廟所修禅寺範頼の墓所修禅寺奥の院安達籐九郎の墓独鈷の湯横瀬八幡社 を参考に。(全て別窓)
関連して、2003年7月19日に修禅寺で行われた 頼家八百年忌の風景(別窓) で。


     

左: 金剛力士 吽行像(180cm)      中央: 政子寄進による釈迦如来坐像(全高203cm、像高120cm)      右: 金剛力士 阿行像(180cm)

二体の金剛力士は桂川と狩野川の合流点に近い瓜生野(修禅寺から2kmの狩野川より)の惣門を守護した像で、指月殿より更に古い藤原時代の作。
惣門の破損に伴って近くの社(既に失われた毘沙門堂か)に遷したが近在の老婆の夢枕に現れて「修禅寺に帰りたい」と嘆いた。
そのため寺に近い指月殿の釈迦如来坐像の両脇に遷し、現在は修禅寺山門に増設した両袖に遷されて終の棲家に落ち着いたことになる。
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  ※藤原時代: 一般的には、遣唐使が廃止された寛平六年(894)から平家が滅亡した文治元年(1185)までを差す。金剛力士の作風には慶派仏師の
持つ激しさや力強さよりも穏やかさが見られ、定朝 または父の 康尚(共にwiki)が活躍した時代の雰囲気が感じられる。
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平安〜鎌倉時代の寺領は広大で、総門(正確な位置は不明)は本堂から2km北東の瓜生野(うりゅうの・地図)にあり、寺領全体を歩くには丸一日を要した、
と伝わる。指月殿本尊の釈迦如来坐像は丈六(203cm)の寄木造りで鎌倉初期の作、このタイプとしては伊豆最大である。
本来の釈迦仏は手に何も持たないが、この像は右手に蓮の花を持つ独特のもの。また指月殿に掛かる扁額(複製)は南宋から來朝した名僧一山一寧の書
と伝わり、実物は修禅寺宝物殿が収蔵している。
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  ※丈六: 一丈六尺(約480cm)を意味する。釈迦は常人の倍の身長だったとの信仰に基づく。
坐像の場合は「立ち上がれば丈六」を意味し、従って240cm前後となる。
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  ※2014年10月追記: 久し振りに訪問した修禅寺は数ヶ所が様変わりしていた。その一つが指月殿の金剛力士像がなくなっていた事で、修禅寺山門に
増築した両袖に遷されていた。まぁ元々は惣門にあったのだから数百年を経て願いが叶ったとも言える。
一体だけ指月殿に残った釈迦如来坐像は少し寂しそうに見えたけどね。

この頁は2019年 9月29日に更新しました。