畠山重忠の嫡子 六郎重保の館跡 

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重保は 畠山重忠 の嫡子。異母兄の重秀(寿永二年(1183)生まれ、母は 足立遠元 の娘)ではなく、弟の重保(生年不詳)が嫡男となったのは生母が重忠の正室となった 北條時政 の娘(後に 足利義純 に再嫁)だった関係だろう。娘婿だった重忠は舅の時政によって滅ぼされる事になる。
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源頼家 が殺された翌・元久二年(1205)6月22日、謀反の讒言を受けた重保は若宮大路の近くで討たれ、「鎌倉に騒乱あり」との連絡で誘い出された父重忠と庶長子の重秀も、義時の率いる大軍に二俣川で殺された。梶原一族・比企一族に続く政敵の粛清である。
畠山の名跡は足利義純夫妻が継承して源姓畠山氏を名乗った。重忠の子孫を称する系は幾つかあるが、いずれも裏付ける資料は乏しい。重保の末弟重慶も建保元年(1213)に謀反の嫌疑で殺されている。

右:由比ガ浜から、唯一自然石で造った一の鳥居へ   画像をクリック→拡大表示
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 【 吾妻鏡 元久二年(1205) 6月21日 】
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時政の継室 牧の方 は去年娘婿の 朝雅 と口論した件で畠山重保を深く恨み、重忠親子を追討する計画を練った。時政は義時と時房を呼んで重忠追討について語り、義時と時房は「治承四年以来忠義を尽くし、頼朝も子孫を守れと遺訓したほどの者である。頼家にも仕えたが、比企合戦の際には当方に味方したのは婿として父子の礼を重んじたからで、今になって反逆を企てる理由がない。度々の功績を考えず軽率に追討すれば必ず後悔する。まず謀反の真偽を確認するべきだろう。」と答えた。
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時政もそれ以上は言わず、三人は座を立った。牧の方は備前守時親(牧宗親の子。宗親は牧の方の父または兄)を使者として義時邸に派遣し、義理の息子を詰問する。
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「重忠の謀反は既に明白だから将軍や世の中のため夫の時政に話した。今あなたが重忠を擁護するのは継母を軽んじて讒言の輩にするつもりなのか。」と。義時は「それでは良く考えてみます。」と答えた。
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  ※朝雅の件: 元久元年(1204)4月、坊門信清 の娘 信子実朝 の御台所に迎えるため京に派遣されていた畠山重保と朝雅が口論になった。
その場は周囲の執り成しで収まったが、同年11月になって同行していた時政の息子政範(16歳・牧の方が産んだ唯一の男子)が病死する不幸が重なってしまう。この二重の鬱憤が「重忠一族憎し」に繋がって不合理な遺恨となった。
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ここで見逃せないのは、背後に北條氏の家督と権益を巡る思惑があったこと。病死した当時の政範官位は異母兄の 義時(後の二代執権)と同じ従五位下で、北條時政夫婦の嫡男扱いをされていた、と考えられている。このまま推移すれば、義時ではなく政範が家督を継承して執権の座に就き、時政前妻の子である政子・義時連合の危機となるのは確実だ。更に加えて平賀朝雅は京に常駐して 後鳥羽上皇 に重用されており、朝雅が任じていた武蔵国国司は時政が代行して行政権を握っていた。つまり、秩父平氏の棟梁として武蔵国で最大の勢力を持つ重忠と武蔵国に触手を伸ばす北條一族は完全に利害が対立し、北條氏の内部では時政・牧の方と政子・義時の利害が相反していた。
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 【 吾妻鏡 元久二年(1205) 6月22日 】
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早朝、鎌倉中が大騒ぎになり謀反人追討と称して軍兵が由比ガ浜付近を走り回った。畠山重保と郎従三人が合流すると、命令を受けた 三浦義村 の家臣・佐久間太郎らが包囲して戦闘になり、衆寡敵せず殺された。また鎌倉に向かっている重忠の追討命令が下され、義時が大軍を率いて出発した。
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「鎌倉に異変あり」の知らせで菅谷館から誘き出された重忠率いる百数十騎は二俣川で義時率いる御家人の大軍(数千騎か)に包囲され、4時間を越える激戦の末に全滅。翌月には 北條時政牧の方 の失脚と 平賀朝雅 追討事件に発展する。  詳細は こちら二俣川の合戦で。
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畠山重忠 謀反の嫌疑はすぐに晴れたにも拘わらず所領は没収され、追討に加わった御家人や北條の係累が資産を山分けにしている。更に命令に従って追討に参加した重忠の同族 稲毛重成榛谷重朝 (稲毛重成の弟)も重忠の冤罪を捏造した不逞の輩として討伐され、武蔵国は完全に北條一族の支配下に組み込まれた。これは 北條時政政子義時 が描いた「共有できる筋書き」だったと考えて良いだろう。
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そして、吾妻鏡の嘘も見逃せない。「義時には重忠一族を滅ぼす意図はなかった、時政や牧の方に騙されて重忠追討に加わった」と記録していること。史実を正しく書き残す努力を怠り、時の権力者に阿(おもね)って真相を歪曲する姿勢が史料としての信頼性を損なっている事実を忘れてはならない。この精神は一部のマスメディアや御用学者に継承され、住民の避難計画が杜撰な事実も無視して「原発安全神話」を垂れ流す現代に至っている。


     

        左: 鎌倉駅から600mほど南、和田塚駅近くに建つ一の鳥居左側が重保の館跡と伝わる。昔はここから段葛(古名は作道)が始まっていたが、
明治二十二年(1889)の横須賀線開通に伴って画像の二の鳥居(現在の段葛南端)までが撤去されてしまった。本来の一の鳥居(浜鳥居)は
既に痕跡が残るのみ。この鳥居は寛文八年(1668)に徳川幕府四代将軍家綱がそれまでの木材を石材に改めて寄進したもの。
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八幡宮を信仰していた二代将軍秀忠室の崇源院(最近注目の「お江」)が夢で「備前国犬島の石で建てた鳥居を寄進せよ」とお告げを受け、
嫡子家光からそれを託された孫の家綱が完成させた。高さ8.5mの花崗岩造りで、大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊したが、同じ産地の
石材を補充して昭和十二年(1937)に再建。鎌倉時代の建設当初には現在よりも北(八幡宮寄り)にあったらしい。
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        ※備前国犬島:備前国は現在の岡山県南東部、犬島は近代まで石材産地として栄えた。島の詳細は こちらのサイト で。
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        中: 3.4mを超える鎌倉でも有数の大きな宝篋印塔が畠山重保の供養墓。刻銘に明徳四年(1393)、死後約190年が過ぎた室町時代黎明期の
建立である。作風からは 忍性 が率いて東国に定着させた律宗集団との関係が思い浮かぶ。すぐ近くの 安養院 にある尊観上人の墓や箱根駅伝
ルートのすぐ横にある 箱根精進池の石仏群 に規模もスタイルも酷似している。(いずれも別窓で)
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        右: 横に祀ってある五輪等の素性は判らないが多分構成の供養塔だろう。他に重保の喘息に関係して宝篋印塔に願掛けすると喉の病に効果が
あるとの伝承から参拝客相手に開いた「六郎茶屋」の記念碑や、鎌倉青年団の建てた重保邸址の碑も見られる。
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        碑の文面は下記の通り
畠山重保は重忠の長子なるが 嘗て北条時政の婿 平賀朝雅と忿争す 朝雅其の余怨を畜へ 重保父子を時政に讒す 時政もと重忠が頼朝の
死後其の遺言に依り 頼家を保護するを見て之を忌み 事に依りて之を除かんと欲す 及ち実朝の命を以て兵を遣して重保の邸を囲む 重保
奮闘之に死す 時に元久二年六月二十二日 此の地即ち其の邸址なり 其の翌 重忠亦偽り誘はれて武蔵国二俣川に闘死す

この頁は2019年 10月 3日に更新しました。