奥州平泉から九郎義経が合流 

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【吾妻鏡 治承四年(1180)10月16日】
頼朝 は(15日に大倉の新邸に入り、その翌日に)鶴岡若宮(八幡宮)で終日勤行した。その後に駿河国に向って出発し、夜になって相模国府六所宮に入った。手越駅まで進出した 平惟盛(維盛)が率いる数万騎を称する平家軍に対応するためである。
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【吾妻鏡 同じく、10月17日】
頼朝は 波多野義常 追討の兵を送った。これを知った義常は討手の下川辺行平 が着く前に松田郷で自殺。嫡子有常は大庭景義 の許にいたため難を逃れた。義常の叔母は 朝長の生母である。
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  ※相模国府六所宮: 当時の相模国府は大磯の相模国総社 六所神社(別窓・地図)、その前は平塚市の 前鳥神社(別窓・ 地図)だった。
  ※手越駅: 安倍川西岸にあった東海道の宿駅(地図)。平安時代末期にはもっと北の藁科川と安倍川の合流点近く(地図)だったらしい。
  ※松田郷: 東名高速大井松田IC周辺(地図)。ICの西3kmの高速北側に松田城跡がある。地名は松田庶子、松田総領の地名もあるのが面白い。
  ※波多野郷: 松田総領から10kmほど東、現在の秦野市一帯(地図)。三浦義村の家臣武常晴が実朝の首を埋葬したと伝わる場所も近い。

波多野義通は保元の乱当時は義朝に従って戦い、妹(坊門姫)が頼朝の兄・朝長を産んだ。その後に義朝の正室・藤原季範娘(由良御前)が産んだ頼朝が嫡男の扱いを受け官位も朝長を越えた事などが原因で義朝と不和になり、波多野郷に帰って定住した。嫡男の義常は平氏に仕え波多野郷・松田郷を領有したが挙兵した頼朝の招集を拒んで使者の 安達盛長 に暴言を吐き、更に 大庭景親 の平家軍に加わった。これが17日に討手を向けられた経緯である。懐島の大庭景義邸にいた嫡男の有常は(母は大庭景義の妹)後に許されて遺領の一部松田郷を継承し、御家人として頼朝に仕えている。

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清水八幡と黄瀬川      右:清水八幡と黄瀬川・狩野川一帯の鳥瞰    画像をクリック→拡大表示
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頼朝率いる鎌倉軍は17日に大磯を発ち、松田〜関本(伊豆箱根鉄道の大雄山駅近く)〜足柄峠を経て御殿場に下り(ほぼ現在のJR御殿場線ルートで)黄瀬川沿いに南下して黄瀬河宿に本陣を構えた。
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富士川での本格的な衝突前日の20日には元々戦闘意欲の乏しかった平家軍が戦わずして敗走、調子に乗った頼朝は軍を進めて更に上洛を命じるが 千葉常胤三浦義澄がそれを諌めた。常陸の佐竹(義光の子孫・常陸源氏)が平家に味方している、東国を平定してから西に向うべきである、と。頼朝は諫言を容れて黄瀬河に本陣を戻し、安田義定 を遠江国(静岡県西部)、武田信義を駿河国(静岡県東部)の守護として派遣した。
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但し、前述してある通り富士川合戦前後の東国勢主力は武田信義を棟梁とする甲斐源氏であり、頼朝が「守護として派遣した」という吾妻鏡の記述は当らない。駿河と遠江は「甲斐源氏が武力で制圧・占領した」と表現するのが正しい。また千葉常胤の佐竹討伐進言は(東国平定優先は正論だが)上総と常陸の境界一帯の帰属を巡って長く争っていた経緯がある。要するに常胤は平家追討よりもライバルの排除が最大の関心事だった。
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本題に戻って...富士の湧水で知られた柿田川公園(公式サイト)から1kmほど西の 八幡神社(公式サイト・地図) の境内には再会した頼朝と 義経 が腰掛けて打倒平家を誓い合った「対面石」と、頼朝が捨てた渋柿の種が根付いたと伝わる樹が残っている。野宿している訳でもあるまいし、頼朝本陣で石に腰掛ける必要はないだろう、と思うのは余計なことか。祭神は鶴岡八幡宮と同じく応神天皇と比売神と神宮皇后の三柱、詳しい創建は不明だが平安時代中期と推定されている。
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その後は鎌倉幕府・今川氏・後北条氏・徳川氏などの保護を受け、天正十九年(1591)には家康が東海道の足柄道を箱根路に変更した際に本道の黄瀬河方向に向いていた社殿を東海道に面した南向きに改め、社領20石と武州住人康重の鍛えた2尺8寸の太刀(現存)を奉納したと伝わっている。

     

        左: 八幡神社一の鳥居は黄瀬川の東300m、旧東海道に面している。住宅密集地の中を120mの参道が二の鳥居まで続いている。
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        中: 短時間なら二の鳥居周辺の駐車場(参拝用か)に停められるが、道が狭いから時間があれば600m東のスーパー(エスポット)の駐車場を
利用する方が間違いない。西側の黄瀬川の風景と潮音寺(別窓)黄瀬川橋や更まで足を伸ばしても1時間程度で済む。
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        右: 一の鳥居から本殿の裏までは300m以上、二の鳥居奥には子供相撲の土俵や頼朝を祀る白旗神社もあり、かつての隆盛を感じさせる。


     

        上: 本殿の左奥が頼朝と義経の対面石コーナー。当初の本殿は西向きと伝わるから対面石の方向が参道だったらしい。更に30m左手には
かつての参道横に据えられていた随神石があるのだが、これは残念ながら気がつかずに見逃してしまった。
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鎌倉軍は足柄峠から南下し黄瀬川の東岸に本陣を置いて富士川合戦に備え、平家軍を敗走させた後に本陣に戻った。そこへ義経が合流...
という事か。吾妻鑑には「土肥實平が招き入れると果たして義経だった。ただちに御前に進み互いに昔を語り合った」とあるから、頼朝が宿泊
している急拵えの宿舎か徴用した民家に招き入れたのだろう。二人が腰掛けた石も頼朝が捨てた種が芽吹いた柿の木も後世の捏造と思われる。

この頁は2019年 7月26日に更新しました。