下野国庁跡と下野国分寺を経て薬師寺跡と龍興寺へ 

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        上: 下野国庁跡と国分寺周辺の鳥瞰図。国庁と国分尼寺の距離は直線で約1.5km、平安時代の東山道は思川を渡る白線に近いルートだった。
もちろん直線ではなかったし、国庁跡地の標高48mに比べると1km西は標高47mで2km西は最も低い標高45mだから、思川が国庁よりる
西を流れていた可能性も捨てきれず、その場合は思川が国庁と国分寺を隔てている不自然さも解消できる。通常の地図も参考に。.
今回は下野(栃木県)に限定して東山道のルートと驛の位置をチェックしたが、いつか上野国エリアも歩いてみたい。
白河関から上野国府(伊勢崎市)までの驛家と官衙遺跡などを纏めて載せた 広域地図画像 を参考に。

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【 出土した木簡に拠れば、下野国庁の実務開始は天平元年(729)前後らしい 】

     

        左: 下野国府中枢部の鳥瞰図。築地塀で囲んでいた敷地は約90m四方、国庁敷地の全体は東西五町(540m)×南北六町(648m)程の規模だった
と推定されている。正殿跡の中心から東(右手)を南北に走る市道までの距離が約270mだから大体の広さが想像できる。
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        中&右: 駐車場から直進すると宮野辺神社の境内、幾分高くなっている社殿の一帯が官衙の中枢・正殿跡と考えられているが、神社との兼ね合い
もあって発掘調査はまだ行っていない。思川対岸の下野国分寺一帯(下野市)は広いエリアが整備されているから、国庁跡を管理する
栃木市教育委員会は何とかしたいと思ってるだろうけどね。


     

        上: 発掘調査によって国庁中枢部は一町(約90m)四方を掘で囲んだ中央に前殿を構えて儀式などの場とし背後(神社の位置)に正殿を置いた。
前殿を挟む形で東西に対峙していた長大な脇殿の位置には藤棚を設けて構造物の代用としている。復元した前殿は正面が7スパン(柱8本・
約22m)×で奥行が2スパン(柱3本・約4.8mの規模だった。四方の築地門中央にはそれぞれ門を設け、南の門からは9m巾の南大路が
南に向って延び、その西側に官衙の建物群が並んでいたという。


【 天平十三年(741)の聖武天皇詔で全国60数ヶ所に建てられた中の一つ、下野国分寺 】

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        左: 下野国分寺と国分尼寺の想像図。両方の築地塀は東西に約500m離れている。地形図では中間は数mの低地だから小川で隔離されていた
可能性もあり、各地の国分寺も同様の例が多い。創建当時にも私と同じような事を考えてた坊主(または尼さん)が居たんだろうね(笑)。
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        中: 寺域に入る南門の跡。クリックすると案内板の拡大図を表示する。
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        右: 堂塔の建つ一角に入る南大門の跡。同様に、クリックすると案内板の拡大図を表示する。


     

        左: 中国風だったらしい七重の塔跡。同様に、クリックすると案内板の拡大図を表示する。
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        中: 屋根付き回廊の跡。同様に、クリックすると案内板の拡大図を表示する。
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        右: 本尊を祀る寺の中枢・金堂の跡。同様に、クリックすると案内板の拡大図を表示する。


     

        左: 仏典を収蔵していた経蔵の跡。同様に、クリックすると案内板の拡大図を表示する。
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        中: 経蔵と同じ構造だったらしい鐘楼の跡。同様に、クリックすると案内板の拡大図を表示する。
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        右: 勉学と法要の場所だった講堂の跡。同様に、クリックすると案内板の拡大図を表示する。


     

        左: 坊さんたちの生活空間、僧房の跡。同様に、クリックすると案内板の拡大図を表示する。
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        中&右: 小金井駅に近い久保公園に復元した東山道。散々迷って辿りついた割には期待外れ、平凡な公園に過ぎなかった。
どうせ造るなら少しは当時の雰囲気を連想させる工夫をしてくれないと面白くない(地図)。駐車場はないが道路が広いので路駐可能。


【 下野薬師寺跡と、今に続く不動院の末・安国寺と地蔵院の末・龍興寺 】 下は下野薬師寺周辺の鳥瞰図



下野薬師寺の戒壇模型
右:戒壇の復元模型 下野薬師寺歴史館の展示   画像をクリック→拡大画像へ
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下野国分寺は西暦690年(持統天皇四年、明日香に都があった時代)の頃、代々下野国(栃木県)地域を支配した豪族下毛野古麻呂(下野国造家・正四位下・参議・大将軍)が氏寺として創建したのが最初、と伝わっている。
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古麻呂は40代天武〜41持統〜42代文武天皇に仕え、藤原不比等(鎌足の二男で嫡子、藤原氏の祖、兄は出家)らと共に大宝律令の成立(大宝元年・701年)に貢献した人物。
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和銅二年(709年・平城遷都の前年)に古麻呂が没した以後も下野薬師寺は国家の庇護を受け、仏教の隆盛に伴って大いに繁栄した。聖武天皇が「国分寺建立の詔」を発して各国に建立が始まったのが天平十三年(741)だから、当時の東国では最大規模の仏教施設だった。
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仏教の繁栄と共に権力の腐敗や民心の離反などにより戒律を守らない僧が増え、生活苦に耐えられなくなった庶民が勝手に出家して税を逃れるなどの問題が深刻化した。朝廷はこの状態を打開するため正式な授戒(仏弟子となるための道徳基準を授ける儀式)を行える高僧を唐から招き、統一したシステム造りに着手した。
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この招聘に応じたのが律宗の開祖 鑑真和尚(wiki)で、天平勝宝五年(753)の来日と共に、正式な授戒の儀式を行なう権限を持つ三ヶ所の寺院(三戒壇)が定められた。南都の 東大寺(公式サイト)、筑紫の 観世音寺(wiki)、そして東海道の足柄峠および東山道の碓井峠から東の授戒を受け持ったのが下野薬師寺である。宝亀元年(770)には 弓削道鏡(wiki)が左遷され別当に就任しているように、下野薬師寺は特定の教団を持たず、朝廷が庇護する官寺として更に隆盛した。
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延暦四年(786)には東大寺で受戒した 最澄 が比叡山に寺(後の 延暦寺・公式サイト)を開いた。第50代桓武天皇は平安遷都(794)に伴って最澄に帰依し、更に大同四年(809)に入京した 空海 が真言密教を開いて 東寺・公式サイト)の管理を担った事などを契機にして仏教界は分裂の時代を迎え、三戒壇は徐々にその権威を失なって衰退の時期を迎え、各々の流派は権力者と結託して戒壇の許認可に血道を挙げ始める。時代を越えて繰り返す、宗教戦争。
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下野薬師寺平安末期から鎌倉時代・室町時代にかけて数度の衰退と復興を繰り返し、戦国時代の1500年代後半の小田原北条氏と結城多賀谷氏による兵火で堂塔を焼失し廃寺同然の状態まで零落した、と伝わる。
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徳川幕府四代将軍綱吉の時代には二つの別院(不動院の末・安国寺と地蔵院の末・龍興寺)が薬師寺の正統を争って訴訟を重ね、「安国寺は戒壇を、龍興寺は鑑真墓所を守護し継承する」と和解をして現在に至っている。ただし鑑真は天平宝字七年(763)唐招提寺で死去しているから龍興寺の墓所も慰霊碑に過ぎない。


     

        左: 衰退を極めていた下野薬師寺き鎌倉時代中期の慈猛上人(1212〜1277)が復興、再び衰退した南北朝時代には 足利高氏(尊氏) が戦乱の
死者を慰霊するため全国の安国寺建立を発願、この際に下野薬師寺は安国寺に改称したと記録し、更に薬師寺縁起は「元亀元年(1570年の
織田vs浅井朝倉の年)11月に小田原北条氏と結城多賀谷氏が戦った際の兵火で焼け落ちた」と伝えている。
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画像は隣接する下野薬師寺歴史館(公式サイト)が展示している隆盛していた時代の復元想像模型。発掘調査により寺域を囲む築地は東西
250m×南北350m、回廊は東西110m×南北102mに及ぶ距離と確認されている。東西413m×南北457mだった国分寺に比べると
60%ほどのサイズか。
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        中: 歴史資料館の屋上から薬師寺寺域の西側を眺める。樹林の東側には安国寺と付属の墓地と戒壇跡と伝わる六角堂がある。
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        右: 当時の築地部分から土塁と生垣に変えて整地した部分の東西巾は50mほどだから、最盛期の境内はその5倍あった事になる。


     

        左: 現在の道路が囲んでいる一角は約200m四方、隆盛当時の築地は更に広く、もちろん現在の安国寺を含む東西250m×南北350mだった。
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        中: 発掘調査が終った回廊跡には礎石があった位置にレプリカが並んでいる。その西側から、復元工事が終った回廊の北端部分を撮影。
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        右: 回廊北端の東側から撮影。図面上ではこの辺に金堂があり、撮影場所の右手に講堂と僧坊が続いていた配置になるが...。


     

        左: 医王山安国寺(真言宗智山派)の山門。平安末期に衰退した薬師寺は鎌倉時代に中興され、再び衰退した南北朝時代に幕府の庇護を求めた。
足利高氏(尊氏) は全国に建立を目指していた安国寺利生塔(当時の代替国分寺)の下野版として安国寺と改名するのを条件に庇護と援助を得た。
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        中: 安国寺の本堂。室町時代には勢いを取り戻した安国寺も戦国時代の兵火で焼失したと伝わる。その後は佐竹氏の庇護を受け、薬師寺別院の
不動院の末・安国寺として再建し、寺領10石の寄進を受けている。江戸時代初期には同じく薬師寺別院・地蔵院の末・龍興寺との間で薬師寺の
正統を争う訴訟を150年続け、天保九年(1838年・徳川幕府四代将軍綱吉の時代)に「安国寺は戒壇を、龍興寺は鑑真墓所を守護し継承する」
との和解をして現在に至る。和解後200年が過ぎた現在もキャピュレット家(ジュリエットの実家)とモンタギュー家(ロミオの実家)の状態だろう。
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        右: 下野薬師寺の戒壇跡と伝わる場所に建つ安国寺の六角堂(江戸時代末期の建造)。内部には鑑真の画像を納めた厨子が置かれている。


     

        左: 唐の渡来僧・鑑真が天平宝字五年(761)に薬師寺の500mほど南に別院として開いた生雲山龍興寺(真言宗智山派)。薬師寺と別院がどんな
関係だったか判らないが、共に別院だった龍興寺と安国寺は江戸時代中期の天和元年から40年近く薬師寺の正当を争う訴訟を続け最終的には
安国寺は戒壇を・龍興寺は鑑真墓所を守護する合意を交わした。肝心の薬師寺は元亀元年(1571)に戦火で焼かれ廃寺になっている。
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        中: 左遷された弓削道鏡を葬った塚が境内に残る。江戸川柳が「道鏡は 座ると膝が 三つでき」と揶揄するほどの巨根を武器にして孝謙女帝を操った
との羨ましい(笑)風説は多いが、左遷の理由などは記録にない。
女帝の信頼に乗じて一族を引き立てたため、藤原氏が対抗措置として左遷したのが真相らしい。政争に敗れた道鏡は神護景雲四年(770)に
下野薬師寺の別当に任じて下向し、宝亀三年(772)に薬師寺で没している。
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        右: 道鏡塚の裾には奈良時代の堂塔礎石が残る。薬師寺礎石の一部か創建当時の礎石だろうか、詳細説明を確認しなかったのが悔やまれる。


     

        左: 礎石と同様に五輪塔や宝篋印塔なども無数に残っている。塚の周囲だけでなく、広い境内には創建当時の古井戸や中世墓石群なども多い。
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        中: 鑑真は薬師寺を開いた2年後の天平宝字七年(763)に76歳で死没。師の遺徳を偲んだ弟子が建てた供養塔が墓地の一角に残っている。
かなり古色蒼然としているので本物かも知れない。すぐ横の菩提樹は鑑真が生前使っていた杖が根付いたと伝わり、それが事実ならば樹齢
1250年余りだね。調べてみたら菩提樹を日本に持ち込んだのは鎌倉幕府とも縁の深い渡来僧の 栄西(臨済宗の開祖・1141〜1215年)で、
釈迦が悟りを開いた亜熱帯種の「インドボダイジュ」は中国では育たないため、全くの別種らしい。
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        右: 龍興寺全域の鳥瞰図。隣接する薬師寺小学校は全て境内だったらしい。次回はもう少し細かく探索して撮影しようと思う。

この頁は2019年 9月13日に更新しました。