光照寺に残る頼家の面と石和信光の関わり 

 
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北條氏関連の史跡が集中している守山の北麓に位置する光照寺は特に見るべき物のない地味な存在だが、目の前に観光客用の駐車場が完成して立ち寄る機会が増えた。この駐車場から守山を反時計回りに歩くと、政子産湯の井戸と堀越御所跡北條氏館跡真珠院と満願廃寺跡 → 信光寺(この頁の後半) → 願成就院守山八幡(それぞれ別窓)などの主要な史跡を巡って光照寺に戻る。参詣・参拝も含めても約2.5kmの周遊ルートの起点になるので、市役所も実に気の利いた場所に駐車場を造ったものだ、と思う。
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吾妻鏡には信光寺についての記載はないが、奥州合戦で藤原氏を滅ぼし鎌倉に凱旋した 頼朝 が永福寺造営に取り掛かる記事に関連して、時政が伊豆北條に宿館を建てる旨の記述がある。この宿館が後の光照寺であり、願成就院と光照寺の距離(約250m)を考えると、願成就院の浄土庭園は北側だけで現在より200m以上広かった、と推定できる。北條氏が幕府の実権を掌握した頃の願成就院は堀越御所から信光寺付近までを占める壮大な規模だった( 参考地図)。
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【吾妻鏡 文治五年(1189) 12月9日】
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永福寺の建立が始まった。平泉で見た豪壮な寺院を鎌倉にも造って(今までの合戦で死んだ)数万の霊を供養し、三界苦悩の救済を目指すためである。平泉の中でも特に感銘を受けた二階大堂(大長寿院)に似せて造るため二階堂と名付けた。屋根は天まで届くほど高く聳えて心からの感謝を表し、金銀などで飾り立てた比類ない姿を目指している。
また伊豆国北條に建築中の願成就院の北側に頼朝の宿館を建てるため造成した際に「願成就院」と書いた古い扁額が掘り出された。この寺は奥州征伐の成功を祈って時政が草創した寺である。無事に平定が終わって願いが叶い、前もって決めた寺の名を書いた額が現れるのは神慮と言えるので修理して使うことになった。寺院の繁栄と共に武家の繁栄も額の文字通りになることだろう。


     

        左: 北條時政 が頼朝のために建てた宿館(宿舎・別荘の意味か)で、後に寺となったと伝わる寿覚院光照寺(浄土宗)。願成就院山門の200mほど
北に位置しており、願成就院隆盛の頃には浄土庭園の一部だったと推定される。筋向いに観光用駐車場が完成して便利になった。
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        中: 由緒のある寺院なのだが現在は殺風景で、寺域の拝観を謝絶する表示もある。本尊は阿弥陀如来像、古くて風格があった木造の本堂は
2007年頃にコンクリートに変わってしまった。やや変わった情報としては明治24年(1891)に三島高等小学校の分校・堀越高等小学校が
設置された事、若き日の戦後派作家 武田泰淳(wiki)が「左翼活動のビラ撒きを契機に帝大文学部を中退して光照寺に預けられた」記録がある。
武田泰淳は本郷の浄土宗寺院の三男だから、その関係を頼っての謹慎処分だろう。
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        右: 光照寺に伝わる 頼家 を写した面。一説に入浴中に漆を流し込まれ爛れた顔とも伝わる。修禅寺宝物殿も同様の伝承を持つ面を収蔵しており、
これを見て(聞いて?)ヒントを得た 岡本綺堂 が修禅寺物語を執筆する契機になった、と。形状からは多分両方とも神楽か田楽の面と推測できる。
どうせ暗殺する相手に手間のかかる漆を使う必然性など、あり得ない。


     

        左: こちらは願成就院に近い熊野山信光寺(曹洞宗)。寺伝に拠れば建仁三年(1203)に修禅寺に幽閉された二代将軍頼家は厳重に監視され、
彼の動向を逐一鎌倉に報告する役目を受け持ったのが石和信光だった、と。
頼家の顔を刻んだ面を携え修禅寺から鎌倉に向う途中の韮山で頼家暗殺を知り、世の無常を嘆いてその場で出家して庵(方広庵)を結び、
持っていた面を近くの寺に納め供養した。これが信光開基の信光寺である。その面は火災で失われたが近くの光照寺(伝・頼朝の別邸跡)が
各所に残る十一枚の面の一枚を保存している。
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        中: 吾妻鏡に拠れば、武田信光の出家は延応元年(1221)で家督を長男信政に譲り、鎌倉名越で86歳の長寿を全うしている。
従って1204年に出家したとの伝承は合理性に欠けるし、この頃には甲斐武田氏の実権を握り伊豆守の要職にあった信光が郎党にも任せず
頼家の監視を直接受け持つとも考えられない。
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        右: 本堂の裏手には西国三十三霊場を巡拝して持ち帰った土を三十三体の石仏の元に納めた霊場が設けられている。その一角に武田信光の
供養墓があるのだが、最初の訪問時は裏山の崩落を防ぐ土木工事のため宝篋印塔は台座から離れ見るも無残な状態だった。


     

        左: 2012年2月に再訪してもう一度撮影。工事は完了し、三十三観音の周辺も整理が終わった。背後の急斜面も立派な石垣に変わっていた。
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        中: 廟所の石碑と信光の墓(たぶん供養墓)。信光の墓所は一般的には北杜市の信光寺とされているがこの寺にも位牌があるだけ、数度の
移転を繰り返したため既に墓石の所在は判らない。北杜市信光寺など、甲斐の信光遺蹟に冠する明細はこちら(サイト内リンク)で。
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        右: 塔身の材質にはやや違和感があるが、さすがに古色蒼然とした宝篋印塔。大きいものが一基と小型のものが二基(詳細は不明)建っている。
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その他、修禅寺周辺の情報は   頼家廟所指月殿修禅寺範頼の墓所修禅寺奥の院安達籐九郎の墓独鈷の湯 を参考に。(全て別窓)
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関連して、2003年7月19日に修禅寺で行われた 頼家八百年忌の風景(別窓) で。

この頁は2019年 10月 2日に更新しました。