奥州と関東の境界 白河の関 

左フレームの表示&「鎌倉時代を歩く 弐」 の記載ヶ所へ      「索引」 へ   当サイト 「旅と犬と史跡巡りと」 トップへ 


いわき市の勿来の関、新潟県の念珠の関(鼠ヶ関)と並んで奥羽三関と呼ばれたのが白河の関。1200年代初頭に廃された後は長い間放置されて正確な場所も不明になっていたが、寛政十二年(1800)に白河藩主の松平定信が文献資料などから調査し、関の明神(白河神社)が建っている小山が白河の関跡であると論証した。
しかし...この話はかなり疑わしい。110年前の元禄二年(1689)には「奥の細道」を辿った松尾芭蕉が「白河の関跡を訪れた」と書いているんだから。
.
1960年代には大規模な発掘調査によって土塁や空堀が確認され、防御用の柵木を巡らした古代の軍事施設の存在が明らかになった。昭和四十一年(1966)9月に国の史跡として正式な認証を受けている。
.
  ※勿来の関: 中世以前の文献史料に記載がなく存在を疑問視する説もあり、正確な所在地も判らない。いわき市は 勿来の関公園(公式サイト)を整備して
いるが、この場所の根拠は薄弱(地図)、旅行記とスナップ(別窓)も参考に。
.
  ※念珠の関: 昭和四十三年(1968)の発掘調査で古代の関址が確認され鶴岡市指定史跡となった。頼朝に追われた義経が平泉に逃げる途中で通った
との伝 承が残っている(地図)。
.
  ※松平定信: 白河藩第三代当主、八代将軍吉宗の孫。十代将軍家治が没し田沼意次が失脚した天明七年(1787)から老中首座として十一代将軍家斉を
補佐した。寛政の改革を主導し財政再建を目指したが寛政五年(1793)に失脚して公職を離れ、白河藩主として財政再建に専念している。
.
治承四年(1180)に 義経 と息子二人を見送った 佐藤庄司基治 は関の手前で引き返しているし、吾妻鏡と玉葉には文治三年(1187)に没した藤原秀衡 の遺言について下記の記述がある。義経記などには(信頼性は乏しいが)「藤原秀衡は「白河関を錦戸に守らせ、判官殿(義経)を大切に扱え」と遺言した」と書いている。つまり奥州合戦の前後までは関としての機能を保っていたと考えて良いだろう。
白河の関は奥州藤原氏が滅亡した1189年から證空上人(1247年没)がここを通った50年ほどの間に廃墟と化し、草に埋もれてしまったらしい。

.
     右:関の明神、旧社名は「二所関明神」  画像をクリック→ 拡大表示
.
【 吾妻鏡 文治三年(1187)10月29日 】
.
陸奥国平泉館で当主の 秀衡入道が没した。日頃からの病が重篤で弱気になっていたのだろうか、伊予守義顕(義経を差す)を大将軍にして国務を執らせよと嫡子の 泰衡らに遺言していた。
.
鎮守府将軍兼陸奥守 従五位上 藤原朝臣秀衡法師。出羽押領使 の息子。嘉応二年5月25日に鎮守府将軍に任じ従五位下に叙さる。養和元年8月25日陸奥守、五位上。
.
  ※玉葉の記述: 伝聞に拠れば去年(文治二年・1186年)10月29日の死去に際して秀衡は息子らの融和を
図り、妻(泰衡 の生母)を国衡 に娶らせたらしい。更に国衡・泰衡・義経に起請文を書かせ、「義経を主君として兄弟はこれに従い、協力して 頼朝 の計略に対抗策を講じよ」と命じた。
つまり他腹の長男である国衡と当腹の嫡男である泰衡と義経の融和と団結である。
.
  ※国衡・泰衡: 謡曲などでは秀衡の長男国衡(錦戸太郎)は家督を相続した二男の 泰衡と協力して義経と三男の泉三郎忠衡を討った事になっている。
実際には国衡は義経擁護派で、追討を阻止できず容認せざるを得なかったらしい。阿津賀志山合戦(・窓)で敗走した国衡は 和田義盛 に討たれ、平泉を放棄して北に逃げた泰衡は裏切った家臣に殺された。泰衡の胴が埋葬されたのが秋田県大館市の錦神社(地図)で、後を追った夫人が死んだ場所に西木戸神社(地図 が建っているのを考えると、錦戸(国衡の居館が西の木戸だった)太郎は国衡ではなく泰衡になる。この部分は改めて述べる予定だが、泰衡の呼称は「当腹の太郎」、国衡は「他腹の嫡男」または「錦戸太郎」である。
.
  ※證空上人: 62代村上天皇の子孫で鎌倉時代の僧(1177〜1247)、西山浄土宗の祖で著名な歌人。新千載和歌集に白河の関を詠んだ和歌が載っている。
.
             光台に 見しはみしかは みざりしを ききてぞ見つる 白河の関
.
陸奥国白河を通ったとき、「兼ねて名を聞いていた白河の関はどの辺だろうか」と尋ね、同行の蓮生法師は「先ほど過ぎた所が関の跡です」と答えた。證空上人は話に聞くだけで見られなかった白河の関を光台(阿弥陀仏の説く極楽浄土)に例えて上記の和歌を詠んだ、と伝わる。
.

.
【吾妻鏡 文治五年(1189) 7月26日】 頼朝は奥州藤原氏討伐の途中で白河の関に立ち寄っている。
.
宇都宮を出発したところで 佐竹四郎秀義が常陸国から合流。頼朝は自分と同じ無紋の白旗を咎め、出月の扇を与えて旗の上に付けよ、と命じた。
.
  ※無紋の旗: 佐竹氏の先祖は新羅三郎義光義家の弟)。義家の没後に河内源氏棟梁の座を狙い義家の嫡子義忠を暗殺、その罪を実兄の義綱親子に
着せたのが露見して所領の常陸に逃れた。長男の義業は常陸に定住して佐竹氏の祖となり、二男の 義清 は甲斐に移って武田氏の祖となった。
.
【吾妻鏡 同年 7月28日】
.
新渡戸の驛に到着。奥州に近づいたため、御家人に命じて手勢の戦力を報告させた。城四郎が率いるのは200余人と知って頼朝は驚いた。梶原景時 は「城長茂に従う家臣は本来は数百人だが、囚人となった時に分散していた。元々の本領(越後)が近いので長茂が鎌倉の指揮下に加わったと知って集まったらしい」と説明。頼朝は城長茂の家臣が抱く忠義心に心を打たれた。
.
  ※新渡戸の驛: 旧五千円札で知られた新渡戸稲造の父祖の地は盛岡だが、奥州征伐に従軍した 千葉常胤 の孫 常秀 が泰衡が送った刺客の遠田三郎を
新渡戸驛で討ち取り、その功績で下野国の新渡戸郷・高岡郷・青谷郷を得たのが最初らしい。
.
常秀の子孫が下野に定住し後に陸奥に移って代々の盛岡藩主に仕えた、と伝わっている。ただし千葉常胤らは下総から常陸の海沿いを北上して多賀城に入っているから、頼朝と同じく下野の新渡戸駅を通った話には疑問が残る。新渡戸駅の正確な位置は不明、白河の関に向う奥州街道または陸羽街道沿いなのは確かだろうが、場所については諸説ある。
.
那須町伊王野の芋淵(地図)、更に5kmほど南の大田原市寒井(地図)、或いは那須塩原市杉渡戸(地図、更に40kmほど南の真岡市水戸部(地図)などが候補地だが、吾妻鏡のみを根拠にすれば翌日通過している白河の関から約90km離れた水戸部は考えにくい。20km離れた寒井か杉渡戸か15km離れた芋淵だろう。
.
  ※城長茂: 義仲に敗れて北越に逃げた越後平氏の当主。頼朝の囚人として景時が預かって庇護し、奥州合戦の前に許されて御家人に列した。頼朝没後の
正治二年(1200)に景時が失脚し討伐されると翌年に京で倒幕の兵を挙げ吉野で討たれた。浅利義成室の 坂額 は長茂の姉妹に当る。
.
【吾妻鏡 同年 7月29日】
.
関の明神に参詣し白河の関を越えた。初秋の候、能因法師 の故事を思い出さざるや、と頼朝。それを聞いた景季 が馬を止めて和歌を詠んだ。
.
      秋風に 草木の露を 拂わせて 君が越えれば 關守も無し

.
能因法師関守が居なかったのは関の機能を既に失っていたのか或いは頼朝の大軍を恐れて逃げたのか不明だが「おべんちゃら」が酷いね、景季。
安倍幕府(笑)に当て嵌めれば 萩生田 恥駄衛門か 西村 宴会奉行(笑)だろう。時代を問わず権力者に阿(おもね)って甘い汁を吸う輩がいるのは悲しい。
.
  ※能因法師の故事: 頼朝の時代から140年ほど前の歌人。陸奥国や甲斐国などを旅して多くの和歌を残し、その一つが白河の関を一躍有名にした。
.
都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関   春霞と共に都を出たのに白河の関に着いた時には既に秋風が吹いていた...
.
この歌を最初として「白河の関」は陸奥国の代表的な枕詞として世に広まっていく。

.
     

        左: 白河の関付近の略図。1200年代の初頭には境の明神を通る道がメインとなり、古い陸羽街道は廃れてしまった。境の明神のすぐ北、白坂宿近く
から旧道へ抜ける道は一度車で通ったが、芭蕉一行が歩いたルートなのかは判らない。
白坂駅の近くには奥州と京を往復する途上で盗賊に殺された(と伝わる)金売り吉次の墓がある。もちろん、本物かどうかは不明。
.
        中: 北に向って流れる川を挟んで山が迫っている場所に独立した小山があるのだから松平定信じゃなくても関の跡と考えるだろう。
周辺の農地と山頂の標高差は約20m、麓を巡る周回路も整備されている。
.
        右: 治承四年(1180)10月、信夫の庄司 佐藤基治 は平泉から頼朝の元へ向う義経を送って白河の関に至り、息子の 継信忠信 を家臣として
同道させた。別離に当って「二人が忠節を尽くせば根付くだろう」と語って突き立てた桜の杖は見事に活着し、天保年間の野火で焼かれた後も新芽が出て花を咲かせ続けた、と伝わる。何代目かな? ちなみに、兄の継信は屋島の合戦で討ち死に、弟の忠信は都落ちした義経と別れた翌・文治二年(1186)に追手を受け京都で自刃した。
.
  【吾妻鏡 元暦二年(1185) 2月19日】     屋島の合戦で継信が討死。
.
〜中略〜 義経 の率いる軍勢は昨夜遅くに阿波と讃岐の境・中山を越え、辰の刻(8時頃)に仮御所の対岸に到着し民家を焼き払った。義経は黒馬に乗り、田代信綱 ・金子家忠と近則 ・伊勢能盛 らと共に浜辺に押し寄せ、船で漕ぎ出した平家軍と矢戦を交えた。この間に佐藤継信と忠信・後藤實基と基清らが(安徳帝の)仮御所と宗盛らの館を焼き、煙が日光を遮った。平家家人の越中盛継・上総忠光らが軍船を降り御所の前に布陣して戦い、義経の家人・佐藤継信が射取られた。義経は深く悲しんで遺体を袈裟で包み松の根元に葬った。院から下賜された秘蔵の名馬・大夫黒を僧に与え供養を依頼、家人を思う姿に武者たちは感銘を受けた。
.
  【吾妻鏡 文治二年(1186) 9月22日】   忠信死す。女で身を滅ぼしたか
.
糟屋籐太有季が京に隠れていた義経家人の 堀景光を捕え、また中御門東洞院で佐藤忠信を殺した。忠信は強者なので簡単に討てず、多勢で襲い郎従二人と共に自殺に追い込んだ。義経と行動を共にしていた忠信は宇治で別れて京に戻り兼ねて通じた若い人妻に連絡、その女が書状を夫に見せ、夫が有季に知らせてこの結果になった。湯の庄司 佐藤基治 は鎮守府将軍 秀衡 の近親で、義経が治承四年に平泉から関東に向う際に勇士を選び、息子の継信と忠信らを同行させていた。
.
  平家滅亡後、鎌倉に無断で朝廷の官位を得た義経以下の武士を罵る下文を頼朝が発行している。その中に兵衛尉に任じた忠信の名も載っている。
  下文に曰く、秀衡の郎党ふぜいが衛府(兵衛尉)に任ずるなど聞いた事がない、身の程を知らずその気になっているとはイタチにも劣る。と。
.
※兵衛尉: 宮廷の警護などを受け持つ武官(四等級)の三位。平治の乱までの頼朝は二位の佐(すけ)、その関係で通称が「兵衛佐」や「佐殿」だった。
無断任官だけでも腹が立つのに「秀衡の郎党ふぜい」が源氏嫡流の自分とほぼ同じ官職だったから頭に血が昇った、のかも。


     

        左: 関の森公園を含む全体図。県道沿いの鳥居近くに駐車場()と食堂があるが、関の森公園(食堂・売店あり)の広い駐車場も近い。
.
        中: 同じく、発掘調査の案内表示。空堀跡や土塁が囲むA地区からは掘立柱の建物跡や奈良〜平安時代の土器、B地区からは竪穴住居跡や工房や
墨書き土器、C地区からは柵跡や門跡らしい柱穴が確認されている。下側(県道沿い)の緑のトレンチは「関の明神」前を通っていた旧奥州街道の
調査だろうか。出土品など詳細は 白河市歴史民俗資料館 で展示している。
.
        右: 鬱蒼と茂る樹木に覆われた関の跡(白河神社・関の明神・二所関明神とも)。全体が特別史跡名勝天然記念物の指定を受けている。


     

        左: 鳥居の前を蔦の絡んだ大木が斜めに視界を遮っている。関が廃された以後は所謂「村の鎮守」として崇敬された小さな社である。
.
        中: 樹木の間に長く延びる参道は巾が狭く特に立派とは言えない。現在の幹線道路から外れるため観光客が訪れる休日以外はほぼ無人。
.
        右: 拝殿も小さな本殿もそれほど古い時代の建築ではない。社伝に拠れば、第十三代成務天皇(在位131〜190年)五年に白河国造の
鹽伊乃自直命を祀り、宝亀二年(771)に天太玉命・住吉明神・中筒男命・玉津島明神・衣通姫命を併せ祀った、と伝わる。


     

        左: 古歌碑。白河の関を詠った代表的な和歌三首を刻んでいる。 拡大画像で確認を。
.
       便りあらばいかで都につけやらむ けふ白川の関はこえぬと   平兼盛
       都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関   能因法師
       秋風に草木の露をはらわせて 君がこゆれば関守もなし   梶原景季

.
平兼盛と能因法師は平安中期の歌人で共に三十六歌仙。景季は景時の嫡男、親に似たゴマすり男。
.
        中: 嘉禎元年(1235)に従二位に任じた鎌倉時代の歌人藤原家隆が手植した「二位の杉」。
幹の周囲は約5m、伝承通りなら樹齢800年。家隆は従二位に昇進した翌年(79歳)に病を得て出家し4月9日に没しているから、白河で杉を植えるのはどう考えても無理なんだけど。
.
藤原家隆は建久九年(1198年・41歳)に上総介に任じているから東国に下った可能性はあるが、白河の関を通った記録はない。建仁二年(1202)に詠んだ下記の二首は家隆が歌枕に利用しただけだろう。
.
       雲のいろは まだしら川の 関の戸に 明けぼのしるき うぐひすの声
       しらかはの せきのしろ地に からにしき 月にふきしく 夜半のこがらし

.
冒頭に書いた松平定信が編纂を命じた白河風土記には 「囲リ一丈三尺ト相傳フ従二位家隆卿住吉明神ニ奉ルトテ昔植玉ヒシ杉ナリト伝フ」 と記載され、江戸時代中期以降には「二位の杉」の名が定着していたと思われる。
.
ちなみに、芭蕉も白河の関で三つの句を詠んだ。「奥の細道」にはなく、随行した「曽良旅日記」だけに載っているのは完成度に納得しなかったのだろう。そう考えると平泉で詠んだ句   五月雨の 降のこしてや 光堂   夏草や 兵どもが 夢の跡  などに較べると、少し面白くない。
.
   早苗にも 我色黒き 日数哉   関守の 宿を水鶏に とはふもの   西か東か 先早苗にも 風の音
.
        右: 義経所縁の「矢立の松」(の残骸)。治承四年(1180)、頼朝挙兵に加わるため平泉を出発した義経が社前で戦勝を祈って旗揃えをし、
この松に矢を射立てたと伝わる。太平洋戦争の出征兵士が無事と戦勝を祈って木片を持ち去ったため、根元だけが残っている。


     

        左: 義経所縁の「旗立の桜(の残骸)」。治承四年(1180)、頼朝挙兵に加わるため平泉を出発した義経が社前で戦勝を祈願して旗揃えし、この桜に
源氏の旗印を立てた、と伝わる...でも、ちょっと待ってくれ、松や桜にそこまで鮮明な言い伝えがあるなら、松平定信さんが調査するまでもなく
関の跡の場所は周知の事実だったことになる。ましてや芭蕉が訪問した110年前の元禄二年(1689)には更に鮮明だった筈。
樹木などの遺構が後付けの捏造か、誰もが知っていた場所を松平定信さんが「確定した」か、どちらかだね。
.
        中: 白河藩主松平定信が建てた古関蹟碑。刻まれている内容は、
.
白河の関は埋没して久しく所在が判らなかった。旗宿村の西の叢の中に祠があり、白河がその麓を流れている。これを古い絵図や言い伝え
などと照合し地形を古老に聞くなどして、ここが関の跡だと判明した。ここに碑を建てて標する。
           寛政十二年(1800)八月一日 白河城主 従四位下 左近衛少将兼越中守源朝臣定信
.
        右: 幌掛けの楓の「源義家が貞任追討(前九年の役)のため、白河の関を通過する時、この楓に幌をかけて休憩したと伝えられる」は、間違い。
源義家 が通ったのは永承六年(1052)に陸奥守に任じた父の 源頼義 に従った下向で、安倍一族とトラブルが起きて前九年の役に突入した
のは頼義の任期が終りに近い天喜四年(1056)2月のこと。更に、樹齢数十年にも満たない楓が960年前に生えていた筈もない。
せめて「この「幌掛けの楓」は当時から○○代目」ぐらいの表示をすれば良いのに、と思う。


     

        左&中: 社殿右手の高み(関の中枢?)を囲む空堀と土塁の跡。長く放置された廃墟だったためか保存状態は良いが築造年代は判らない。
.
        右: 空堀や土塁の周辺を歩く小道とは別に、関跡を周回する遊歩道の裏側(東麓)。整備も行き届いており、散策だけでも雰囲気を味わえる。


     

        上: 隣接する関の森公園の風景。一部有料施設もあるが、数年前の4月上旬には関跡に咲く花にちなんだ「カタクリ祭り」も開かれていた。
(今も続けているかは未確認)。静かな自然公園だから関跡の見学を兼ねて過ごすのも悪くない。
.
左の背後に2013年に閉鎖された白河天体観測所の白いドームが見える。震災で望遠鏡や建物が破損し、大量に降った放射性物質の除染が
不可能になったのが主な理由、らしい。

この頁は2019年 9月12日に更新しました。