箱根 精進池周辺の石仏群  

 
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湯坂道 右:足柄道以後、旧東海道以前の箱根越え 湯坂道    画像をクリック→拡大表示
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延暦二十一年(802)に富士山が噴火し流れ出した熔岩や土砂が足柄道(現在のJR御殿場線に近いルート)を塞いだ。一説にはそれ程大きな被害ではなかったとも言われるが、いずれにしても官道は鎌倉幕府の将軍が二所詣(箱根権現・三嶋大社・伊豆山権現)に使っていた湯坂道に変更になった。
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駒ケ岳(1356m)と上二上山(1091m)に挟まれた精進池北側の鞍部(874m)は箱根駅伝でも知られた国道1号の最高地点で、当時の湯坂道でも最大の難所だった。特に精進池の周辺には冬の厳しい寒さに加えて箱根火山群が噴火した痕跡をとどめる荒涼とした風景が広がり、上方から東国に向って箱根を越える旅人はここで地獄の入口や賽の河原の有様を連想したのだろう。
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鎌倉時代が半ばを過ぎて地獄に堕ちる罪人をも救済する地蔵菩薩信仰が盛んになると共に、地蔵講で縁を結んだ民衆が極楽浄土への救済を願って次々と磨崖仏や石塔を寄進した。それが精進池の周辺に石造物群が並ぶ最初となり、鎌倉を極楽に・精進池を地獄に重ね合わせる風習が定着した。以前は全体に荒廃していたが近年になって復旧・保存の努力が実り、今では静かなハイキングコースに変貌している。
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この石造物群は鎌倉幕府と律宗の高僧 忍性 の関係を抜きにして考える事は出来ない。幕府の安定期である建長四年(1252年・五代執権時頼の頃)、忍性は律宗布教のため奈良西大寺から関東に下り、その際に率いた石工集団の大蔵派(宋から渡来した石工の子孫・伊派の流れを汲む)は鎌倉で様々な石工・土木作業に携わった。律宗集団は土木・建築・教育・福祉・医療などを幕府に委託され、専門家集団として行政の仕事を代行した、と考えられている。

下:忍性の事跡と、箱根精進池の石仏群について    画像をクリック→拡大表示
精進池
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鎌倉に入る正元元年(1259)までの七年間、忍性は八田知家が知行していた常陸の三村寺(廃寺)を本拠にして、つくば市にある関東最古様式の宝篋山宝篋印塔(参考サイト)など数多くの石塔を残している。
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徳治三年(1308)造立の鎌倉安養院宝篋印塔(参考サイト)も大蔵派石工の作と推定され、この前後には関東様式の宝篋印塔として定着した事を物語っている。通称・政子の墓の右隣に建つ巨大な石塔である。
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旧東海道に沿って造られた石塔群保存整備記念館は「立体映像や迫力あるサウンドを駆使し歴史的背景を解説したガイダンス施設」とPRしているが、お化け屋敷みたいな雰囲気もあって特に面白みは乏しい。ただし江戸時代の絵図(複製)などで当時の有様が如実に再現された。史料を調べて復旧した努力と熱意には頭が下がる思いがある。
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記念館は管理者が常駐し、トイレ・休憩スペースを備えている。現地案内板から転載した地図はこちら、記念館から曽我兄弟の墓まで往復して約1200m、精進池周遊道路を含めると約2000m程度。地下道が完備しているから国道を横切る場合も危険はない。
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記念館は無休、3〜11月は9時〜17時・12〜2月は9時〜16時 入館無料で駐車場完備。JR小田原駅・小田急箱根湯本駅から路線バスあり(六道地蔵下車)


     
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平成九年完成の石塔群保存整備記念館      南側、整備記念館前から見た精進池         撮影は1月9日、岸辺の薄氷だけ。


     
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精進池の北西に聳える駒ヶ岳(1356m)     館内のテラスから精進池の東岸を見る     湖水と国道に沿って凍結した遊歩道が続く


曽我兄弟の墓と呼ばれる五輪塔について
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峠の最高地点から少し下った道沿いに三基の巨大な五輪塔がある。高さ250cmの左側2基は曽我兄弟の墓、少し離れた右のやや小さい五輪塔は
虎御前(兄・十郎祐成の愛人)の墓と言われてきたが、銘文に拠れば永仁三年(1295)に建てられた地蔵講の供養塔である。
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江戸時代になって浄瑠璃や歌舞伎で曽我兄弟の仇討ち物語が広まると、この五輪塔が曽我兄弟の墓に寄り添う虎御前の姿に見立てられ、やがて
「曽我兄弟の墓」として世に広まった。地輪(四角い基部)には梵字が、水輪(丸い塔身)には各々仏像が刻まれている、珍しい様式である。
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三基の配置と間隔を含め、江戸時代の絵図に従って復元してある。
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※地蔵講: 釈迦が入滅して56億7千万年後に弥勒菩薩が現れるまでの間、衆生を救済する地蔵菩薩(別名を妙幢菩薩)を信仰する法会。


     
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かつては曽我兄弟の供養墓と信じられていた巨大な五輪塔。少し離れた右側を十郎祐成の愛人「大磯の虎」に見立てたらしい。


     
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五輪塔に刻まれた銘は永仁三年(1295)、保存状態は良い。地蔵講の遺物としては最も古い石塔で、国の重要文化財指定を受けている。


磨崖地蔵菩薩群(二十五菩薩)について
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正確には一体の阿弥陀如来と25体の地蔵菩薩。国道の反対側に3体の地蔵菩薩、三基の五輪塔方向へ抜ける地下道の手前左側に突き出している
高さ3mほどの岩盤に1体の阿弥陀如来(98cm)と蓮台を持つ供養菩薩と21体の地蔵菩薩が彫り込まれている。
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右隅から2番目の像の横に永仁元年(1293)の銘があり、地蔵講で縁を結んだ人々が現世の功徳を願いつつ先祖の霊を供養して造った旨が併せて
彫り込まれている。土砂に半ば埋まっていたが発掘調査によって全体が出土し、鎌倉時代には古道を往来する旅人が仰ぎ見る形状だったと判明した。

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巨大な安山岩(火成岩)塊の東・西・南面に23体、国道の反対側に3体が刻まれている。最大は阿弥陀如来の98cm、最小は21cmの地蔵菩薩。


     
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安山岩は墓石などに使われている花崗岩(俗に御影石)よりも耐久性が高いらしい。700年以上も風雨に晒されたにも関わらず殆ど劣化していない。


多田満仲の墓と言われている石塔について
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高さ3.6m(基礎部分を除いて265cm)の巨大な宝篋印塔で、多田(源)満仲 の墓と呼ばれる。基壇には文永四年(1296)銘があり、大和石工の
大蔵安氏が造った旨の記載がある。精進池周辺の石塔群(仏像を除く)の中では最も古く、更に4年後の正安二年(1300)には忍性が開眼供養を
行なったとの追刻(石工・心阿の銘)も見られる。関西で発展した宝篋印塔が関東様式に移行する最初のものとされており、国の重要文化財の指定を
受けている。発掘調査によって鎌倉時代には自然石に囲まれた高みに築かれていたことが判明した。満仲の墓と考えた根拠は不明。
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相輪(トップ)は後世の補追、塔身の正面に釈迦如来の浮き彫り、残る三面には梵字を彫り込んでいる。バランスのとれた姿は実に美しい。

     
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多田満仲は 経基王(源経基) の嫡子説もある源氏の祖先。嫡男 頼光が摂津源氏、二男 頼親が大和源氏、三男 頼信 が河内源氏の祖となった。


八百比丘尼の墓と呼ばれる宝篋印塔(中央部を遺失)について
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観応元年(1350)の銘と「結縁之衆各尽力造立功成功徳」の文が刻まれている。失われた塔身部分は周辺の発掘調査でも発見されず、現存する
最古の資料である文化八年(1811)の「七湯の枝折」に描かれている状態に復元された。
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何とも異様な形から八百比丘尼を連想して名付けられたのだろうか。反花が彫られた基礎部分と縁取りのある上基礎部分は関東式の宝篋印塔だが、笠は明らかに形状が異なる。こんな笠を持った塔など見たことがないから余計に謎が深まってしまう。ひょっとすると笠だけが違う塔のものか?
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各地に残る宝篋印塔については こちらのサイトを参考に。詳細情報と画像が掲載されている。

八百比丘尼とは
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昔、ある漁師が人間の上半身を備えた魚を釣り上げた。誰も気持ち悪がって食べなかったが、20歳前の少女が知らずにつまみ食いをした。
すると少女は20歳前の姿のまま年を取らなくなった。何度か結婚するが、夫も父親も年月と共に年老いて死に、一人だけ取り残された。
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100歳を過ぎても20歳前の姿だったため周囲からは化け物扱いされ、悲しんで髪を落とし尼になった。その後は諸国を巡り、仏の教えを説き人々に
奉仕して過ごしていた。また僅かな代償で体を売り、さらに占い師としても広く知られた、という。
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不老不死のため蓄積する膿と男の精が毒に化して体内に蓄積し、30年に一度は毒蛇の姿に変えて吐き出す必要があった。そうしないと体内の毒が
悪霊になってしまう。彼女はその間にも幾度となく自殺を図ったが、何をしても死ぬことはでなかった。
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800歳のときに若狭国(福井)小浜の寺にあった洞窟に入り、そのまま行方知れずとなった。これが小浜市の空印寺(wiki)にある八百比丘尼入定洞
である...伝承によって多少の差異はあるが、これが概略の筋書き。


     
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八百比丘尼の墓と考えた根拠は塔身を失った異様な姿からだろうか。下は明らかに宝篋印塔、笠は五輪塔に似ているが、これも異質である。


磨崖仏 俗称:応長地蔵について
 
八百比丘尼の墓に向かい合っている。三角形の自然石に高さ約50cmの地蔵菩薩が浮き彫りにされ、左側に応長元年(1311)の銘が刻まれている。
左手に宝珠・右手に錫杖を持ち、右側には小さな地蔵菩薩(約16cm)が追刻されている。かつては死者の霊魂は精進池を越えて駒ケ岳に向かうと
考えられており、肉親に死者が出ると四十九日の内に六道地蔵に参拝し、応長地蔵の前で送り火を焚いて魂を送る習慣があり、そのため火焚き地蔵
とも呼ばれていたという。平成初期の調査の際は半ば土砂に埋まっていたが下を支えていた自然石を復元して沈下を防ぎ水平に直された。

 
     
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どれ程多くの人が応長地蔵の前で死者の霊を見送ったことだろうか。史跡が単なる史跡ではなく深い信仰に裏打ちされていた事に想いを馳せよう。


地蔵磨崖仏(六道地蔵)について
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国道を挟んで精進池の反対側、二子山の裾に位置する。発掘調査が始まった平成四年には下部を埋めていた2m程の土砂を取り除き、昭和八年に
修理された右手と江戸時代の野火で焼失した錫杖と白毫(眉間の上に生える白い毛)は鎌倉時代に建立された時の状態を推定して復元した。
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発掘調査で詳細が判明した覆屋遺構は室町後期の絵図に従って復元、堂の正面に座ると六道地蔵の目線とぴったり交わる角度に安置していた。
覆屋は杉材で巾2間半(4.5m)・奥行4間(7.1m)・高さ5間(9.1m)、蓮華坐を除く六道地蔵の高さは約3.5m。
像の左側に奉造立六地蔵本地仏・正安二年(1300)八月八日と彫ってある。

 
     
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 参道を登った正面から地蔵堂を眺める      左側にも多くの石仏や石碑が並んでいる     地蔵堂の下は精進池、山を越えると駒ケ岳


     
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          蓮華座を除く地蔵菩薩は約3.5m   露座だった地蔵は岩に食い込む杉材の覆屋で保護     室町時代の構造を推定して再建された


     
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左端は明治時代に来日したイタリア人写真家Adolfo Farsariが撮影した画像(長崎大学収蔵)。他の三枚は観光用絵葉書で、大正時代の発行か。
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            左から、19世紀末と推定される「statue of Buddha」、       箱根の地蔵 THE JIDO OF HAKONE
箱根名勝 STATUE OF KOBO DAISHI HAKONE    箱根名所 賽ノ河原石地蔵 Sainokawara Jido inHakone

この頁は2019年 6月26日に更新しました。