二代将軍頼家が殺された伊豆の古刹 修禅寺 

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建仁三年(1203)9月、ニ代将軍 頼家 は執権の 北條時政 との政争に敗れ病気を理由に弟の 実朝 に将軍職を譲り退位させられた。建久十年(1199)1月の 頼朝 死没により18歳で家督を相続し、僅か三年後の失脚である。10月には修禅寺に幽閉され、翌・元久元年(1204)7月18日には時政の手勢により暗殺(実行者は不明)。修善寺の伝承では「虎渓橋近くの筥湯(はこゆ)に入浴中に襲われた」 と。一方で吾妻鏡は頼家の死を一行だけ記録している。
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【吾妻鏡 元久元年(1204) 7月19日】
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酉の刻(18時前後)に伊豆国の飛脚が着き、昨18日に左金吾禅閤(頼家、満21歳)が修善寺で没した旨を報告。

    右:範頼幽閉の跡・信功院跡と修禅寺 鳥瞰   画像をクリック→拡大表示
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修禅寺は大同ニ年(807)に 空海(弘法大師)が創建した(単なる伝承)古刹で、伊豆八十八ヶ所霊場の結願寺でもある。創建から400年以上は真言宗だったが、南宋の渡来僧 蘭渓道隆 が臨済宗に改めた。
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この時に南宋の五代皇帝・理宋(在位:1224〜1264年)が蘭渓道隆に下賜して託した「大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺」と書かれた扁額(惜しくも文久三年(1863)に焼失)を持ち込んだ経緯から修禅寺の存在は中国にも広く知られており、大陸から団体でやって来た観光客も結構多勢見かけるのも面白い。
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蘭溪道隆は鎌倉の臨済宗建長寺の開山を務めた高僧だったが、元(モンゴル)による侵略の下調べを行なうスパイの疑惑を受けて修禅寺に幽閉となった。周辺は道路が狭くて全体に狭く、駐車場も判りにくいのが難点だが、(混雑を避ければ)落ち着いた雰囲気がなかなか捨て難い。
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修禅寺の堂塔は南北朝時代の康安元年(1361)に 畠山国清(wiki)に関わる戦乱で焼け落ち、更に応永九年(1407)には失火によって全ての建物を焼失。後に堀越公方を倒して伊豆韮山城主となった伊勢新九郎(後の 北条早雲(wiki) が遠州(静岡西部)から招いた叔父の隆渓繁紹をが中興し、曹洞宗に改めて現在に到っている。
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  ※蘭溪道隆: 寛元四年(1246)に33歳で弟子と共に渡来し臨済宗を広めた南宋の僧。五代執権 時頼 の帰依を受けて鎌倉に入り、常楽寺(別窓、開山は
退耕行勇)の住持を務め、建長五年(1253)に 建長寺(公式サイト)の開山を務めた。これ以後は渡来した高僧はまず建長寺に入って住持に任じる習慣となり、仏教の顕学・無住道暁(梶原氏の末裔で 宇都宮頼綱 室の甥)は「建長寺は中国語を常用する異国空間だった」と表現している。
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これが文永の役(1274)前後に蘭溪道隆が中国の間諜と疑われ甲斐→ 奥州→ 修善寺に流される端緒になったのだろう。
後に京都建仁寺→ 鎌倉壽福寺・禅興寺の従持を経て弘安元年(1278)に建長寺で没している。
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  ※隆渓繁紹が中興: 寺伝では延徳元年(1489)に再び曹洞宗に改めている。伊勢新九郎が伊豆に入ったのは明応二年(1493)で、その4年前から修禅寺に
影響力を持っていたとは考えにくい。近年の研究では伊勢新九郎の父は備中荏原荘(岡山西部)を領した伊勢盛定(足利義政の家臣)と考えるのが定説に近く、叔父が遠州(静岡西部)の高僧云々も俄かには信じがたい。
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修禅寺を訪れた 岡本綺堂 が鎌倉時代を題材に戯曲を書き上げ、明治41年(1908)に明治座で初演したのが夜叉王を二世市川左団次が演じた「修禅寺物語」。果たして大好評となり、修善寺温泉の名を一気に高めた。面打ち師の夜叉王と娘のかつら、そして幽閉された二代将軍頼家とかつらの思いを滅びゆく源氏の姿を背景に描いたストーリーで、岡本綺堂は修禅寺の寺宝である面を見て作品のヒントを得た、と言われている。
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頼家は「自分の顔を写した面を打て」(木から打ち出すので「面を打つ」と表現する、らしい)と夜叉王に命じたが、何度打っても面には死相が現れる。頼家はそれを強引に持ち帰るが討手に襲われ、身代わりになった娘かつら共々殺されてしまう。夜叉王は断末魔のかつらの姿を面に写しつつ、頼家の面に現れた死相は自分が面打ちの技を極めたためだった、と感嘆する...概略そんな筋書き。全文を読みたければ こちら(外部サイト)で。
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その他、修禅寺周辺の情報は  指月殿頼家廟所範頼の墓所修禅寺奥の院安達籐九郎の墓独鈷の湯横瀬八幡社 を参考に。(全て別窓)
関連して、2003年7月19日に修禅寺で行われた 頼家八百年忌の風景(別窓) で。


     

        左: 2003年当時の本堂。この後、過去の地震で歪んだ柱や梁などを組み直して補修するため瓦を降ろす解体工事が始まった。
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        中: 2006年11月、明治16年に建立された本堂の改修が完了し、扉や壁が新しくなった。やや味わいが失われてしまったが・・・
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        右: 2008年10月の日曜日、観光客で賑わう修禅寺境内。鎌倉時代に宋の禅僧 蘭渓道隆 が住持した関係もあって、中国人観光客も多い。


     

        左: 大宋勅賜大東福地肖盧山修禅寺の扁額(本堂と共に戦火で焼失したため複製)。本堂には元の渡来僧 一山一寧(wiki)の書と伝わる指月殿の
扁額も保存されている。その他の寺宝は最近アップされた 修禅寺の公式サイトで。
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        中: 本尊の木造大日如来坐像は高さ100.5cm、昭和五十九年(1984)に解体調査され胴に残る墨書から造像は慶派の大仏師 實慶 の作と
確認された。胎内に女性の髪二筋と承元四年(1210)8月の銘札があり、「二代将軍 頼家 の七回忌に母 政子 が寄進した」との寺伝を裏付けた。
髪の毛は共に女性のもので血液型はA型とO型、更に詳細な画像は(ポスターの転用だけど) こちらで。
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しかし兄弟弟子・運慶が彫った大日如来像との酷似には驚かされる。二つの像を並べた画像は こちら運慶 の刻んだ大日像の詳細は こちら
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        右: 同じく、政子が寄進した釈迦三尊仏の三幅掛け軸。釈迦如来を中心にして、右に文殊菩薩・左に普賢菩薩の三幅を八色の絹糸で刺繍
してある。南宋時代(1127〜1279年の中国王朝)の渡来品で、表装の黒地金襴は頼家の装束を使っているという。


        

        左: この4枚は拡大画像なし。左は「修禅寺物語」のヒントとなった面。入浴中に漆を流し込まれ爛れた頼家の顔で、後に二つに割れたものだ、と。
わざわざ漆を使わなくても暗殺すれば済む筈なので余り信頼できる話ではないし、たぶん神楽か田楽用のものだと思うのだが...。
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        中: 大日如来坐像の胎内から出た女性の髪、二人分。左のバサバサは像を寄進した政子の髪だと(勝手に)思うけど、もう片方は誰だろう。
愛妾若狭局(比企能員の娘)が一族と共に殺された記録はないから、柔らかなストレート・ヘアは若狭局か、足助重長 の娘・辻殿(公暁の母)か、
あるいは 栄實禅暁を産んだ 一品房昌寛 の娘の可能性もある。柔らかいのは若い女、悪役の政子はバサバサ...と考えるのは偏見か(笑)。
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【吾妻鏡 承元四年(1210) 7月8日】   大日如来開眼はこの年の8月だから、落飾の日から考えると、やはり辻殿の髪だろう。
      金吾将軍(頼家)の室・辻殿(善哉(公暁の幼名)の母)が落飾した。戒師は八幡宮供僧から寿福寺の長老となった 荘厳房 阿闍梨である。
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        右2枚: 本堂裏山から出土した神像と独鈷杵(とっこしょ)などの仏具が他の寺宝と共に宝物殿に納められている。弘法大師が門前の桂川で
石を打って湯を湧き出させた仏具が独鈷杵。主に真言宗で使うらしいから、空海が置き忘れた仏具かも(笑)。このサイトに記載した品は
いずれも境内の修禅寺宝物館で拝観可能(本尊は期間限定)。8時半〜16時前後・無休・300円、Pなし。


     

        左: 虎渓橋から修禅寺を。頼家は桂川の対岸にあった筥湯(はこゆ)で暗殺された。政子は頼家七回忌に虎渓橋の架け換えも寄進している。
たぶん簡素な木橋だったと思う。川床の岩盤は変わっていないのだろうが、昔日の雰囲気は既に見られない。
筥湯は昭和の中頃まで共同湯として続いていたが廃止になり、現在は観光用の立ち寄り湯として復活している。詳細は 観光協会のサイト で。
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        中: 道路が狭く、休日は車と観光客で混雑する門前から、両袖(指月殿から金剛力士像二体を移設)を付加した山門を撮影(工事前の古い画像)。
新しい両袖はまだ目に馴染まないが年月が過ぎれば違和感も薄れるだろう。かつては2kmも東の総門を守っていた金剛力士は数百年を経て
本来の場所に還った、ことになる。厳密には、惣門は2kmも離れた狩野川西岸の八幡神社(地図)近くにあったのだけどね...。
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        右: 下流側から虎渓橋を撮影。独鈷の湯周辺が工事で浅くなった以後はここが我が家の犬の水泳場になった。水泳中の画像はこちら


     

        左: 右上の画像と同じ場所から下流側の渡月橋を。この先には川沿いの道路が途切れ、数ヶ所の堰堤が観光会館近くまでの急傾斜に点在する。
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        中&右: 虎渓橋上流の竹林は人気の散策コース。修善寺温泉街の雑踏を離れて静かな雰囲気を楽しめる散歩道が上流の赤蛙公園まで続く。


     

        左: 竹林を抜け観光案内を兼ねた回廊のある対岸へ渡る橋から独鈷の湯に続く桂川の下流を。この先にも新しく有料駐車場が完成した。
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        中: ここも、来るたびに犬を水遊びさせた場所。竹下橋の下に深さ1mほどの淵があり、ここに投げた石を探すのが大好きだった。トホホ...
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        左: 散策路の西端の赤蛙公園入口。昭和19年に病気療養のため逗留していた島木健作が桂川の中州から対岸に渡ろうとする一匹の赤蛙を
題材にして短編「赤蛙」を書いたらしい。読んでいないので詳しい内容は判らない。
公園のすぐ右手には50台ほどの有料駐車場と清潔な公衆トイレが完成、ここから範頼の墓所まで徒歩5分ほどだ。

この頁は2019年 9月28日に更新しました。