曽我祐信供養塔と曽我の風景 

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【小田原市文化財課による、宝篋印塔の解説】
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  基壇を除き220cm。基壇の上に蓮座、基礎、塔身、笠、相輪(上部の輪)の順で積み上げられ、鎌倉期の関東での基本的な様式を備えている。
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   反花座: 10数個の切石を敷いた基壇の上に置かれ、上部蓮弁は複弁の反花、側面には輪郭を設け、その中に格狭間が刻まれている。
   基礎: 上端は二重の階段を設け、各側面は反花座と同様に輪郭で区分してあ.る。
   塔身: 創立当初のものか、後補のものか明らかでなく、四面ともに輪郭はあるが梵字などは刻まれていない。
   笠: 上端四段、下端二段の階段が刻まれ、四隅の隅飾突起には輪郭を刻んでいない。
   相輪: 上半分が失われている。下部の請花は単弁。
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   ※反花座: (かえりばなざ)は蓮の花を伏せた形の台座を指す。  ※格狭間:(こうざま)は壇の側面に彫りこんだ装飾を指す。

     

        左: みかん畑を縫って急傾斜で登る農道の高みに建つ、伝 曽我祐信 の供養塔。路駐のスペースはあるが、周辺の道が極端に狭いから六本松峠の
隅に車を停めて約700mの下り道をのんびりと歩く方が間違いない。城前寺からは約1.3km(正確な位置の地図)。
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        中: 保存状態は良い。表面の装飾などは箱根や鎌倉の宝篋印塔と比べると簡素で見劣りするが、この地域としては特筆できる。
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        右: 参考に、徳治三年(1308)銘の鎌倉安養院(別窓)の宝篋印塔(335cm)は関東様式で最古、浄土宗名越派・開祖尊観上人の墓とされる。
作者の心阿は忍性が率いた西大寺流の石工で、箱根精進池の石仏群(別窓)の宝篋印塔(通称多田満仲の墓)にも銘があり、類似性がある。
左は安養院の開基 北條政子 の供養塔。政子の没年・嘉禄元年(1225)の銘は追刻で、実際は室町時代の作らしい。


     

        左: 六本松峠の旧跡。北側の不動山と南側の高山の鞍部で標高は192m、下曽我駅との高度差は160mほど。5本の道が複雑に交差する。
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        中: 左が不動山への道、直進しているのが大山道で途中から未舗装の細道となる。ここが小田原市と足柄上郡の境で、鎌倉街道は右に下る。
天保年間(1830〜1843)には相生の松という名の一株が残るだけだったらしい。
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        右: 北東に伸びる大山道の古道。300m先を直進すると秦野中井を経て大山詣での道となり、右へ下ると虎御前の住んでいた大磯の里へ。


     

        左: 六本松峠から大山道を進むと東南の二宮方面に展望が広がる。北側は梅林で南側は一面のみかん畑、遠くに相模湾が広がっている。
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        中&右: 十郎祐成が山彦山(曽我山)の中村道を経て大磯へ帰る虎御前との別れを惜しみ腰掛けたと伝わる忍石(偲石)。また 五郎時致は仇討から
生き延び、富士の裾野から逃れてこの付近に隠れたとか、古い骨壷が出たとか、それは兄弟の遺骨だとか、そんな伝説も残っているらしい。
また兄弟の死後に何回か曽我を訪れた虎御前と兄弟の母親 満江 が二人して十郎時致を偲んだ、とも伝わっている。

この頁は2019年 6月26日に更新しました。