和田義盛の父 義宗の居館が裏山にあった二階堂の杉本寺 

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和田城址   右:六浦街道 杉本寺周辺の鳥瞰図     画像をクリック→拡大表示
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大蔵山杉本寺(公式サイト)は天平六年(734)に光明皇后(45代聖武天皇の后)の発願により藤原房前行基 によって開かれた、鎌倉では最も古い歴史を持つ寺である。本尊は三体の十一面観音像、現在では坂東三十三ヶ所と鎌倉三十三ヶ所霊場の第一番札所となる。
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  ※藤原房前: 飛鳥時代末期から奈良時代初期の公卿で大物政治家。不比等の次男で武智麻呂の弟。
藤原南家の祖。兄弟の中で随一の英才と伝わる。四兄弟の興した藤原四家(武智麻呂の南家・房前の北家・宇合の式家・藤原麻呂の京家)の中で北家が最も繁栄した。
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  ※十一面観音: 開山の際に行基が刻んだ像、仁寿元年(851)に慈覚が刻んだ像、寛和二年(985)に
恵心が刻んだ像の三体が本尊。鎌倉時代の初期に堂塔が焼けた時、観音像三体は境内の大杉の下に移動して火を避けたため「杉本の観音」と呼ばれるようになった。信仰心に欠ける者が観音堂の前を通ると落馬するとの噂があり、建長寺開山大覚禅師が自分の袈裟で観音像の顔を覆った後は落馬がなくなった。
この時から三体の本尊は秘仏として内陣に納められ、前立仏として頼朝が寄進した七尺(210cm)の十一面観音像を祀っている。
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【 吾妻鏡 文治五年(1189) 11月23日 】.
夜、大倉の観音堂が失火で焼けた。別当の浄台坊は煙を見て悲嘆し本尊を救うため身を捨てて炎に飛び込んだ。人々は浄台坊は焼死したと思ったが、腕と袈裟を焼いただけで本尊を運び出した。火も仏を焼くことは出来ないのだろう。
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つまり観音像が自力で避難したのではなく、浄台坊が尽力した話に尾鰭が付いたらしい。建久二年(1191)には頼朝が堂塔を寄進して再興している。
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【 吾妻鏡 建久二年(1191) 9月18日 】.
頼朝は大倉の観音堂に参詣した。これは鎌倉大倉地区が拓かれた頃に草創された伽藍である。長年の風雨に晒され屋根が破れ軒が傾くほど荒廃している事に配慮し修理に使う(物々交換用の)布200反を奉納した。

     

        左: 金沢街道に面した杉本寺参道。奥に見える二つ目の石段横で拝観料(200円)を納、仁王門を右へ迂回して本堂へ。仁王門には阿吽の
金剛力士像(運慶作を称しているが、違うと思う)が納められ、その先にある「苔の石段」は保護のため現在は通行を許されていない。
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        中: 茅葺きの本堂(観音堂)は延宝六年(1678)の建造。内陣と外陣に分れた中世密教様式である。内陣の手前に登って本尊の十一面観音を
拝観できる(前立仏だけどね)。残念ながら、堂内は撮影が禁止されている。
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        右: 本堂右手に累々と並ぶ五輪塔。杉本義宗の時代ではなく、南北朝時代の延元二年(1337)に北畠顕家が鎌倉を攻めた際に杉本城で防戦して
落命した 足利高氏(尊氏)方の斯波三郎ら300余人の墓標と伝わる。

この頁は2019年 10月 6日に更新しました。