伊東の開祖とされる祐親の墓所 

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騎馬像 右:伊東市役所前の物見ヶ丘に建つ祐親の騎馬像   写真をクリック→拡大表示
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複数の姿を見せながら、動乱の平安時代末期を生きた武将である。
 
伊豆半島東部を占有して 工藤祐経 に嫡男の 祐泰を殺され、結果的に曽我の仇討ちを招いた人物、曽我兄弟北條政子 の祖父、北條時政三浦義澄佐原義連など実力者の舅、流人時代の 頼朝 の愛人だった 八重姫 の父、若き日の頼朝と親しかった 伊東九郎祐清 の父、平重盛に仕えて滅びゆく平家に殉じた忠臣、などなど。
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所領に固執した強欲な人物として描かれる例も多いが、見方を変えれば伊豆東海岸の伊東と河津の正当な継承者であり、関東の豪族の多くが平家を見捨てて源氏に与する中で節を曲げなかった誇り高い武者でもあった。年齢は不明、ただし娘(長女?)が北條時政の最初の妻であり、時政の生誕が保元二年(1138)なのを考慮すれば、祐親娘の生誕は1130年前後だろうから、祐親が産まれたのは1110年頃かと推定できる。享年は70歳前後か。
鎌倉幕府成立前の寿永元年(1182)に捕えられ自刃しているため吾妻鏡の記載はごく少ない。
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【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月23日(概略) 】  (詳細は石橋山合戦(別窓)を参照)
 
頼朝は300騎を率いて石橋山に布陣、大庭景親は相模と武蔵の精兵3000騎を率いて谷を隔てて布陣した。伊東二郎祐親法師は300余騎を率いて頼朝軍南側の山に布陣し、後方から襲う気配を見せた。
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【 吾妻鏡 同年 10月19日(前半) 】  頼朝が鎌倉に入り相模・伊豆を制圧した後
 
伊東次郎祐親法師は小松羽林に合流するため鯉名から船出しようとした。天野遠景が生け捕りにし、今日 黄瀬河の頼朝宿営(別窓)に連行した。祐親の婿である三浦義澄の申し出で頼朝は身柄を預けた。かつて祐親が頼朝を討とうとした際に二男の九郎祐泰(祐清の誤記)の連絡で難を逃れた、その恩賞を与えようと祐泰を呼び出したが「父は既に囚人、その子が恩賞を受ける理由はないので暇を取らせて欲しい」として京に向った。世間はこれを美談とした。
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原文は 「祐親二男九郎祐泰依告申之。令遁其難給訖。優其功可有勸賞之由。召行之處。祐泰申云。父已爲御怨敵爲囚人。其子爭蒙賞乎。早可申身暇者。爲加平氏上洛云々。世以美談之。」
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   ※小松羽林: 頼朝追討のため富士川まで進軍した平家の大将軍 平維盛重盛 の嫡男)。指揮能力は乏しく、率いた七万騎も寄せ集めで戦意は低かった。
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   ※鯉名: 現在の南伊豆町小稲漁港(青野川の河口)。伊豆半島の大部分が源氏の支配下に落ちたため祐親は伊豆半島の西岸迂回を試みたらしい。
それにしても全盛時代なら「下郎、さがれ!」と罵るレベルの遠景に捕獲されるなんて、祐親には屈辱の極みだろうな。
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   ※頼朝襲撃: 祐親が頼朝に討手を向けたのは安元元年(1175)9月。平家を憚って2年前に娘の八重が産んでいた頼朝の子を殺し北の小御所を襲った。
頼朝は当時28歳、韮山から伊東に移って祐親の庇護を受けていた。祐親が大番役で在京していた時に最初の子・千鶴丸を産ませた。
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   ※人名誤記: 吾妻鏡に散見される誤記は情報が伝聞であることの証左だろう。ちなみに祐清は平家軍に加わって北陸の 木曽義仲軍と戦い戦死した。
倶利伽羅峠合戦の後の篠原合戦だったと思われる。この時には斎藤實盛俣野景久 ら平家累代の家臣だった関東武者も共に討ち死にしている。
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【 吾妻鏡 養和二年(1182 5月27日に改元して壽永元年) 2月14日 】
 
伊東次郎祐親法師は一昨年三浦義澄に預けられていた。義澄は 政子 懐妊の機会を得て頼朝の気色を窺がっていたところ、頼朝から恩赦する旨の沙汰があり、これを伝えると祐親は「御所に参上する」と答えた。義澄が御所で待っていると郎従が走ってきて「祐親は「恩情のある言葉を得て過ちを恥じる」と言って自殺を図った」と報告した。義澄は急いで戻ったが既に死亡していた。
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   ※御所: この時の頼朝邸は大倉御所。八幡宮本殿の東600m、現在の清泉小学校一帯にあった。三浦邸は八幡宮敷地に隣接した北東側。
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   ※過ちを恥じる: 個人的には、祐親の自刃は「過ちを恥じた」のではなく「誇りに殉じた」のだと思いたい。過去が過ちかどうかなんて、結果論だもの。
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   ※祐親死没: 曽我物語の流布本(下記)には「鐙摺の三浦邸にいた祐親は怨めしげに伊豆の方角を眺めつつ斬首された。誠に欲深い醜態」云々とある。
つまり曽我兄弟の悲劇を招いた悪役の一人である、と。
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【 曽我物語 伊東が切らるる事 】
 
さても不忠を振舞ひし伊東の入道は、生捕られて聟の三浦介義澄に預けられけるを、前日の罪科逃れ難くして召し出だし、よろいすると言ふ所にて首をはねられける。最後の十念にも及ばず西方浄土をも願はず、先祖相伝の所領伊東・河津の方を見遣りて執心深げに思ひ遣るこそ、無慙なれ。
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   ※よろいする: つまり「鎧摺」は葉山の「鐙摺(あぶずり)」を差す。頼朝が三浦に出かけた折に馬で登った小山が鐙(あぶみ)を摺るほど急峻だったため。
曽我物語の編者は愚かにも元本の「鐙」を「鎧」と誤読して「よろいする」と書いたらしい。ベースは漢文の元本か、それとも別の書物か。
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【 吾妻鏡 養和二年(1182) 2月15日 】
 
義澄は 堀親家 を介して祐親法師自殺の件を頼朝に報告した。頼朝は心を打たれ、且つ嘆いた。伊東九郎を呼び「祐親の罪を許そうとしたのに自殺してしまった。後悔し切れないが今更どうしようもない。お前には恩賞を与えよう」と述べた。祐清は「父が死んだ今は子が栄誉を受けても意味なし、早く身の暇を」と願い、頼朝は心ならずも祐清を誅殺した。世間はこれを美談とした。頼朝が伊豆伊東にいた安元元年9月に祐親が頼朝に討手を向け、これを祐清が急報したため頼朝は走湯山(伊豆山)へ逃げた、その功績に報いようとしたのだが孝行の意思が勝ったためこの結果になってしまった。
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   ※祐清誅殺: この記載内容は祐泰と祐清を混同した治承四年10月19日の記載と重複・矛盾する。祐泰(河津三郎・曽我兄弟の父)は伊東祐親の嫡男。
二男が頼朝の危急を救い後に加賀篠原で戦死した伊東九郎祐清(妻は比企尼の三女)。なんで通称が「九郎」なのかは判らないけど。


  

左:墓所を撮影した大正初期の絵葉書。左側に立つ大木は既に枯死している。   右:五輪塔の基本的な構造を表示。   


     

       左: 墓所は伊東家菩提寺の東林寺や守護神の葛見神社を見下ろす高台にある。最近は家屋に囲まれてかなり狭苦しい光景になった (地図)
       中: 祐親の慰霊墓は三浦邸のあった葉山鐙摺の旗立山頂にもある。曽我物語には「伊豆の方角を望みつつ怨めしげに自害した」と伝えている。
       右: 法名は東林院殿寂心入道大居士。長男祐泰は横死・次男祐清は後に北陸篠原で戦死、廟を建てたのは娘の義澄室か、土肥遠平室か。


     

       左: 水輪(中央の丸石)の納骨孔は稀少例らしい。地輪(台石)の種字(呪文を表す梵字)の薬研彫り(V字形)は鎌倉初期の手法である。
       中: 右横から墓石を撮影。祐泰の眠る墓所を眺められる位置を選んで建てられた、と思うが...展望は既に望むべきもない。
       右: 市役所の近くに「伊東祐親馬乗石」なるものも残されている。馬に跨る際の踏み台とされているが、本物か否かを含め詳細は全く不明。

この頁は2019年 6月27日に更新しました。