洲崎の合戦と陣出の泣き塔 

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右:洲崎古戦場周辺の鳥瞰図    画像をクリック→拡大表示

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元弘三年(1333)5月、鎌倉に迫った 新田義貞 軍を迎え撃つため、赤橋守時は6万(実際は1000騎ほどか)の兵を率いて 巨福呂坂(別窓)を越え、洲崎(古名は須崎、現在は寺分一帯、地図)に布陣した。
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合戦は18日に始まり、堀口三郎貞満率いる大軍を相手にした16代(最後の)執権 赤橋(北條)守時(wiki) の部隊は一昼夜の間に65回もの斬り込みを繰り返したが、圧倒的な兵力差によって味方は次々に討たれ、生き残った90余人の兵と共に守時は自刃、と太平記は伝えている。
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湘南モノレールに面した市営住宅の片隅に州崎古戦場跡を伝える石碑、市営グラウンド(旧国鉄の工場)の一角には州崎合戦の戦死者を弔った宝篋印塔と数基の五輪塔が残されている。
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洲崎の防衛線を突破した堀口貞満軍は北へ迂回して鎌倉街道を山之内へ向い巨福呂坂から鎌倉中心部に兵を進めた。太平記は「北條方の長崎高重が山之内から葛西谷の入り口まで、17回も馬を返して戦った」 と書いているから、堀口貞満は赤橋守時に続いて長崎高重とも戦火を交えた可能性もある。
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「泣き塔」のあるグラウンドは立入禁止ではなく、泣き塔の周囲だけネットが巡らしてある。住宅密集地だから公共交通機関の利用がベストだが、車の場合には短時間ならモノレール湘南深沢近くの民間施設敷地に駐車できる(2013年5月現在)。ただし周辺は開発中で、数年で更に様変わりするだろう。
梶原一族の本貫地だった深沢の 御霊神社(別窓)まで500mほどだから、両方を巡回するのも面白い。
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  ※堀口貞満: 新田義重義兼−義房−政義−二男大館家氏−二男堀口貞氏−貞義−貞満 と続く。所領は新田荘東南部の堀口郷(現在の堀口町、地図)。
鎌倉幕府滅亡後は義貞に従い南朝の忠臣として活躍した。建武三年(1336)に勢力を取り戻した 足利尊氏 が京都を占拠、貞満は 後醍醐天皇 に従って比叡山に逃れたが、和睦の申し出を受けて下山しようとした後醍醐に「長年の忠臣を捨て京に臨幸されるなら義貞ら一族50人の首を刎ねてから」と迫り、後醍醐は皇位を恒良親王に譲り「新田一族は官軍である」と保証してから下山した。貞満に比べて後醍醐の無節操さが際立つ。
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  ※葛西谷: 北條一族が最期を迎えた東勝寺の谷津(地図)で、入口は小町大路の辺りか。頼朝 の御家人 葛西清重 が屋敷を構えたのが地名の起こり。
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        上: 洲崎古戦場碑。場所がやや判りにくいが、大船駅に向って左側のモノレール橋柱の裏、市営住宅に入る小道の横に建っている。
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此ノ辺リ古ノ洲崎郷ニ属ス 元弘三年五月新田義貞鎌倉攻ノ折 ソノ武将堀口三郎貞満 大島讃岐守守之洲崎口ヨリ攻ム 鎌倉方ハ赤崎相模守
守時ヲ将トシテ邀撃シ 戦闘六十数度 遂ニ敗レ守時以下九十余人自刃シタル古戦場ナリ   昭和三十一年三月建  鎌倉友青会


     

        上: 泣き塔が建つ場所は外から見ると樹木の茂みに見えるが実際には大きな岩塊で、JRに改編前の国鉄時代は広い工場敷地だった。
現在は鎌倉市の管理に移っており、一部の工場や民間施設が混在している。
前回来た時には全域が立ち入り禁止と誤解して素通りした場所だが、実際は特に規制していない。フェンスに囲まれた敷地は完全にフラットで、
工場になる前の土地の形状は全く想像できず、鎌倉幕府最後の第十六代執権・赤橋守時率いる防衛軍が全滅した「洲崎の合戦」の痕跡は
僅かに陣出の泣き塔が建っている岩山のみ。麓には半ば朽ち果てた国鉄時代の案内表示が残っている。
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泣塔の由来
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この塔は俗に泣塔といって夜毎に人のすすり泣くような声が聞こえるところからこの名が生れたのではないか、と言い伝えられております。
このあたりは州崎(須崎)といい、その昔(今からおよそ六百有余年前)に新田義貞の左翼の将・堀口三郎貞満が北條方の将・赤橋相模守守時
(太平記には盛時)の軍勢を討ち破った一戦の地として有名であります。〜中略〜
泣塔はこの戦闘から約20年後にこれら戦没者の供養のために土着の民が建立したのではないかと伝えられていますが(塔の年号を見ると
文の下に和という文字らしく見える)、文和年間であれば義貞の合戦から約20年後に当ります。大船工場の設立時、この岩をとりこわす度に
数多くの死傷者が出たと言われ、毎年12月1日を供養の日としております。  昭和26年12月1日 日本国有鉄道 大船工場


     

        上: 「陣出の泣き塔」は高さ203cm、「願主行浄預造立 石塔婆 各々檀那 現世安隠 後生善処 文和五年二月二十日 供養了」の銘が刻まれた
安山岩製の宝篋印塔である。文和五年は洲崎合戦から23年後の1356年だから二十三回忌に守時あるいは背後の「やぐら」に葬られた人物を
供養して建立したのだろう。宝篋印塔とやぐらを吹き抜ける風が屍人の泣き声の様に聞こえ、それから「泣き塔」と呼ばれ始めたらしい。
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また、時代は不明だが手広五丁目の 飯盛山仁王院青蓮寺(公式サイト)に移設された時期があり、その際に泣き声で「元の場所に戻りたい」と
訴えたのが起源、とも言われている。泣き塔が建つ岩山には登るための石段が掘り込まれているため周囲から単立した岩塊だと推定できるが、
工場の敷地を造成する際に周囲を破砕した可能性もある。古い資料を調べれば元々の形状が確認できるかも知れない。


     

        上: 宝篋印塔裏側の広い「やぐら」には数基の五輪塔と残欠が残されている。調査の記録も特に残っておらず、年代や被葬者など詳細は確認されて
いないのだろう。中央の大きな五輪塔は明らかに組み合わせが粗雑なので元々の「やぐら」がどんな形状だったのかは想像する他はない。
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宝篋印塔に刻まれた「文和」は北朝の年号であり、州崎で戦った新田の将・堀口貞満は鎌倉幕府の滅亡後も南朝の忠実な武将として転戦した。
従って宝篋印塔の施主は「北朝と北條氏の縁に繋がる者」と推定できるが、それ以上は判らない。

この頁は2019年 11月26日に更新しました。