甲斐源氏興隆の跡 武田の郷 

左フレームの表示&「鎌倉時代を歩く 弐」 の記載ヶ所へ       「索引」 へ   「旅と犬と史跡巡りと」のトップページへ

.
右:武田八幡宮から釜無川までの鳥瞰     画像をクリック→拡大表示
.
武田の郷の中心となる存在が 武田八幡宮(公式サイト・地図)。創設については諸説があり、社伝に拠れば弘仁十三年(822)に第52代嵯峨天皇(在位:809〜823年)の勅命を受け、武田王を祀る祠があった場所に 宇佐神宮石清水八幡宮 説あり、共に公式サイト)の分霊を勧請し、地名から武田八幡宮とした。また甲斐国史は同じ弘仁十三年に八幡大菩薩が武田郷に現れた夢を見た 空海(弘法大師)が祠を設けたのが始まりとしており、これは八幡宮を管理する別当寺である 法善寺(別窓)の寺伝を根拠にしている。
.
寺伝の中には「日本武尊(伝・仲哀天皇の父)の子である武田王(つまり仲哀天皇の弟ね)の館がこの地にあり、館の北東にあった祠を遷して祀ったのが最初」、とも書かれている。武田王は現在の諏訪明神と鰐塚(王仁塚)の中間にあった桜の御所に住んでこの一帯を統治し、没して王仁塚に葬られた、と。法善寺は 加賀美遠光 の居館跡だったとも伝わっている。
.
武田王が館を構えたのが地名の始まりであるなら、常陸の武田郷と甲斐の武田郷は偶然同じ地名だったことになり、これは如何にも作為的である。だが 「新羅三郎義光 の二男 義清 が常陸那珂郡の 武田郷(別窓)に住んで武田冠者を名乗り、後に嫡子の 清光 と共に甲斐国 市河荘(別窓)に移り、やがて清光が甲斐源氏の宗家を継承した。「その清光は甲斐国北部の八ヶ岳南麓に本拠を移して勢力を広げ、その嫡子 信義 が武田郷(韮崎)を相続して武田を名乗った」 のだから、一連の流れに従って信義が父の本拠だった常陸那珂郡武田郷の名を本姓にしたと考えるべきだろう。
.
甲斐国史が原典に使った法善寺(武田八幡宮の別当寺)の寺伝・武田王云々が作為に基づいていた、という事になるのだろうか。
.
保延六年(1128)に武田八幡宮で元服した龍光丸は名を信義と改め、武田郷を相続して武田太郎を名乗った。この時から武田八幡宮は甲斐源氏武田一族の氏神となり、信義から数えて18代後の勝頼が天目山(別窓)で自害した天正十年(1582)までの350年間、一族の崇敬を受けた。
.
社殿や鳥居は1130年代に信義が建立(年齢の面で信頼性は乏しいが)、そして最初の改修整備は信義死没34年後の承久二年(1220)に 信義 の弟 加賀美遠光「本社末社と一、二、三の鳥居まで造営した」旨を社伝が記録している。
.
江戸後期の神主・矢崎好貫が残した棟札に拠れば次の改修は天文元年(1532)、「武田信虎(信玄の父)が神殿をはじめ石の鳥居・木の鳥居まで残らず新たに造るのを命じた」とあり、神社本殿は天文十年(1541)に信虎を駿河国に追放して甲斐の覇権を握った信玄が同年に完成させたらしい。


     

        左: 信義館跡に掲示されている「武田乃郷」の旧蹟分布図。かなり詳細な地図なのでこの地域の史蹟の探訪には欠かせない。
        中: 釜無川の畔から願成寺の北側を抜けて武田八幡宮へ、真っ直ぐに2kmの参道が続く。中央奥は千頭星山(2139m)だろうか。
.
        右: 門前へ500mの距離に建つニの鳥居。横の「武田の郷ふれあいホール」(公民館?)駐車場は散策の拠点にも利用できる。一の鳥居の
場所はどこか、距離的には願成寺の近くだろうか。神社により社殿近くを壱とする場合と遠くを壱とする場合があるから、この確認も必要。


     

        左&中: 参道のニの鳥居は高さ6.4×笠木の巾8.7m、創建年代は不明だが扁額裏には元禄十四年(1701)再興、寛政元年(1789)年に
再々興した。その後は昭和初期の県道工事に伴い数m移動、昭和54年に屋根の修理、平成11年に大規模改修が行われた。
.
        右: 登り坂の突き当りに八幡宮の杜、本殿は国指定の重要文化財である。左手は信義が築城し信玄以後まで使われた要衝白山城址に続く。


     

        左: 門前の三の鳥居は山梨県の指定文化財。高さ約2.7mの石造りで柱の直径は46cm、天正十二年(1584)の修理銘がある。
石垣は巾6.6m・高さ1.6m、享保九年(1724年・八代将軍吉宗の頃)の銘があり、両側の石段へ迂回して登る独特の形状を持つ。
.
        中&左: 総門(随身門)も三の鳥居と同様に石垣の上に造られている。従ってここも左右に迂回してから総門を抜ける順路になる。


     

        左: 寺の仁王門に相当する総門の両袖にはそれぞれ神社を守護する神像が祀られている。衣装の胸には武田菱、江戸末期の作だろうか。
        中: 総門を過ぎ、石段の途中から舞殿を見上げる。右側には別棟(控え室の機能か)に続く回廊を設けた珍しい構造を持つ。
        右: 左側から舞殿を撮影。撮影場所の背後には参拝者用の駐車場から直接本殿に向う小道があるが、やはり総門へ迂回して参拝したい。


     

        左: 舞殿から拝殿を見上げる。格子を持つ板戸はここの社殿に共通のデザイン、石段はそれぞれの社殿を過ぎるにつれて急傾斜になる。
        中: 拝殿を通して奥の本殿を撮影。一般の参拝者が入れるのはここまでだが左へ迂回して本殿の建つ平場左側まで登ることができる。
        右: 本殿左(南側)の若宮八幡神社。詳細は不明だが室町後期から江戸中期頃の創建と推定されている。若宮についての解説はこちら(wiki)で。


     

        左&中: 本殿は天文十年(1541)に甲斐守護となった武田晴信(信玄)が造営寄進したもので、一棟に三柱の主祭神を祀る三社造り。
中央に誉田別命(15代応神天皇)、左に足仲津彦命(14代仲哀天皇)、右に息長足姫命(神功皇后。仲哀天皇の后で応神天皇の母)、
相殿に武田武大神(土地の神・武田王)を合祀する。
.
        右: 左手には為朝神社を経て白山城址へ登るフェンス付きの歩道。信義が詰めの城(最終防御ライン)として築いたと伝わるが現在の遺構は
信玄時代のもので、距離は南側の白山神社から登る方が近い。武田八幡宮→ 為朝神社→ 白山神社を巡るルートが効率的だ。
.
城址の風景は 城郭放浪記(参考サイト)に詳細が載っている。北と南西の山では信玄が軍事用に使った烽火台の跡を見学できる。



武田信義 の館跡はかなり目立たない場所にある。八幡宮のニの鳥居手前の信号を右折して左側に諏訪神社がある次の信号を右へ下り、なるべく広い場所に車を停めて宅地に囲まれた畑の中を50mほど歩かねばならない。しかも案内表示があるだけで、見るべき遺構などは皆無である。八幡宮西側の山地から釜無川に向ってなだらかに下る斜面、遠く北東に父 逸見冠者清光 の本拠だった逸見(谷戸)城のある八ヶ岳南麓の地に館を構えたんだな...そんな雰囲気を味わおう。
.
王仁塚(鰐塚)は武田八幡宮ニの鳥居から小川に沿って北へ約200m。武田王墳墓の伝承よりも、むしろ桜の名所として名高い。「韮崎 鰐塚 桜」で検索すると満開の画像がうんざりするほど眺められる。4月初旬の花期には八ヶ岳を背景に撮影するために都会の歩行者天国並みの混雑を呈する。
.
まぁ風景としては見事だが、桜単体で考えれば目の色を変えて訪ねる程ではない。狭い農道に駐車したり農地に踏み込んで我が物顔に振舞う無神経な連中(圧倒的に中高齢者)を見るのも不愉快なので、季節をずらして空気の澄んだ秋から冬に歩く方が遥かに楽しめる。


     

        上: 道に沿って雰囲気のある石塔が並ぶ背後が 信義 の館跡と伝わる。農地の奥に石柵に囲まれた10m四方ほどのエリアが保存されている。


     

         館跡の柵から200mほど西(山側)からは12世紀の青磁の破片も出土しており、周辺のかなり広い範囲が館の跡と推定されている。
お屋敷・お旗部屋・神酒部屋・お庭・的場・お堀・金精水・具足沢の地名も伝わっているという。
.
        中&右: 桜の名所として知られる王仁塚(鰐塚)。甲斐国史には「15間×10間、形が神前の鰐口に似ているため名付けたらしい」とある。
伝承に拠れば、諏訪神社南西の桜の御所でこの地を統治した日本武尊(ヤマトタケル)の王子武田王が葬られたため王仁塚とされた。
王子の名が地名として残り、武田太郎(源)信義 が武田を名乗った由縁になった、と。
.
         ※甲斐国史...文化年間(11代将軍家斉の頃)の1806年から11年を費やして編纂された甲斐の地誌。編纂の中心者は甲府勤番支配だった
松平定能、全部で124巻の貴重な資料で、現在は国立公文書館内閣文庫にある。
.


武田八幡宮と並んで武田乃郷の中核となっているのが武田氏の祖・武田信義が菩提所と定めた鳳凰山願成寺(がんじょうじ)。甲斐国史に拠ると開基は武田信義だが、寺伝に拠れば中興の祖が信義で、元々は宝亀二年(771)に心休了愚法印が開いた京都祇園寺の末寺が延長六年(928)に地蔵菩薩を奉じて願成寺となったらしい。信義の時代になって堂宇を整え都から阿弥陀三尊像を求めて安置したとされ、この際に 後白河法皇 に願って命名・下賜された鳳凰山の扁額が山門に懸けられている。宋の僧馗安の書を欅の一枚板に彫り込んだ市の文化財である。
.
本尊は信義の寄進と伝わる阿弥陀三尊像で、中央の阿弥陀如来は約142cm・左の観音菩薩像が170cm・右の勢至菩薩が169cm。11世紀中葉の京を中心に活躍した仏師・定朝(じょうちょう)の様式を模しており、信義が依頼して彫らせた像を都から持ち帰ったとされる。現在は本堂左手の高みに中尊寺金色堂に似せて建てた「武田氏累代御霊殿」に収蔵されている。武田の氏神は他の清和源氏同様に八幡神(神仏習合時代の八幡大菩薩)であり、その本地仏(仮の姿が神で、本来の姿は仏)が甲斐源氏武田氏が深く信仰した阿弥陀如来である。
.
創建当初は天台宗として繁栄したが、頼朝 による甲斐源氏排斥に伴って没落した。天文十年(1541)に信玄が父の信虎を追放して甲斐守護職となった後の永禄二年(1559)に中興され、信虎の甥(信玄の従兄弟か?)後虎和尚によって臨済宗となった。この時に阿弥陀三尊像を寄進したのは武川(釜無川上流)の領主曽雌定能、彼の子孫は武田遺臣となり旗本として徳川幕府に仕えている。延宝四年(1676)に母方の親戚である甲斐甲府藩主で甲斐一条氏の末である柳沢吉保(当時は保明)の正室となった賢夫人・曽雌定子が定能の子孫として知られており、彼女の墓所は 恵林寺(公式サイト)にある。
.
天正十年3月の武田氏滅亡後は遺領を巡って後北条氏と家康が争った天正十年(1582)の戦乱や慶長十二年(1607・二代将軍秀忠の頃)の火災で寺宝を失い衰退したが、二組の阿弥陀三尊像は辛うじて焼失を免れた。承応年間(1652〜1654年・四代将軍家綱の頃)に至り曹洞宗に改め再度中興したと伝わる。
.
本堂の左奥には廟所が設けられている。中央に建つ武田信義の五輪塔は高さ183cmの火山岩(角礫凝灰岩)製。元々は墓地の片隅に半ば埋もれていたもので鎌倉初期の形状を備えており、信義の没年(文治ニ年)の頃と一致するため廟所を設けて安置したもの。五輪塔の製作年代については異論もあり、信義の墓石である確証はない。背面の損傷は数百年に亘って放置されていた名残だろうか。
.
左側は信義正室の五輪塔、右側は後世(15世紀後半)に願成寺に隠棲した武田氏十六代信昌(信玄の曽祖父。義光を祖とすれぱ十六代目・信義 を祖とすれぱ十三代目)の息女の五輪塔で、共に後世の建立である。当然ながら家臣の墓みたいな雰囲気で周辺に並ぶ小型の五輪塔も信義とは無関係だろう。


     

        左: 天台宗から臨済宗を経て承応年間に曹洞宗に改めた鳳凰山願成寺。境内からは新府城のあった釜無川対岸の七里岩も眺められる。
        中: 寺伝では寛文年間(1661〜1672)に赫山和尚が庫裏などを整えた、とある。その時の建立であれば約350年を経た山門である。
        右: 後白河法皇 が 命名・下賜した鳳凰山の扁額が山門に懸けられている。宋の僧馗安の書を欅の一枚板に彫り込んだ市の文化財である。


     

        左&中: 本堂屋根は葺き替えられているが内側は萱葺きと思われる。左は山門の内側から、中は敷地左奥の信義廟所手前から撮影したもの。
        右: こちらがもう一組の阿弥陀三尊像、永禄二年(1559)の臨済宗改宗の際に寄進され現在は本堂に収蔵されているものらしい(確認中)。


     

        左: 本尊は信義の寄進と伝わる阿弥陀三尊像。中央の阿弥陀如来は約142cm・左の観音菩薩像が170cm・右の勢至菩薩が169cm。
        中: 阿弥陀三尊像は中尊寺金色堂に似せて建てられた本堂左手の「武田氏累代御霊殿」に収蔵されており、拝観には事前の連絡が必要。
.
        右: 本尊のある累代御霊殿前には信義を初代に、十八代信勝までの法名が並ぶ(二代は 信光)。別格として義光・義清・清光の名が最初だ。
一般的には信勝を二十一代とする例が多く、この場合は清光を始祖と考えている事になる。


     

        上: 良く整備された信義の廟所だが...甲斐武田氏の人気が高まってから素性の不明確な五輪塔を信義の墓と断定し観光資料に掲載した。
その経緯を知ると割り切れない思いは残るけれど、甲斐駒ケ岳や地蔵ヶ岳を背景にして建つ墓石は如何にも雰囲気がある。


     

        上: 中央の伝・信義の五輪塔は背面、特に笠石(火輪)は後ろ側半分が完全に失われている。周辺には小さな五輪塔も並んでいる。

この頁は2019年 7月30日に更新しました。