珠洲市の山中に残る平時忠の墓所 

 
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平時忠 の墓は能登半島先端に近い珠洲市の北部、国道249号の山裾に残る。周辺には観音堂・薬師堂・守護寺・経塚・家臣の住居などと思われる痕跡が発掘調査されており、墓石は室町時代以降のものだが住居跡などの一部は鎌倉時代初期まで遡る、とされている。
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時国の嫡男で従四位だった 時実 は壇ノ浦で捕われ周防国(山口県)への流罪が決まったがこれに従わず、義理の兄弟となった義経に同行して摂津国大物浦(淀川河口)で難破、再び捕えられ鎌倉を経由して上総に流罪となった。文治五年(1189)には赦免されて政界に復帰し建暦元年(1211)には従三位に昇進した。
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二男の 時家 は平家が滅びる前に父・時忠の後妻の讒言が原因で上総に流されており、上総廣常 に気に入られて婿になった。寿永元年(1182)からは鎌倉で 頼朝 に仕え、翌・寿永二年12月に廣常が粛清された後も重用されて穏やかな晩年を送っている。
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流罪になった時の時忠は55歳、正妻の藤原領子が能登に同行したか否かは不明だが、時忠の子として時国が産まれた。時国は源氏を恐れて当初は配流地の大谷に住み、後に10kmほど西(輪島寄り)の町野川下流に移って平の姓を捨て、家名を時国に変えた。時国一族は室町時代から江戸期にかけて大いに繁栄し、名主を兼ねて海運業まで巾広く運営して巨万の富を蓄えたという。寛永十一年(1634)の十二代藤左衛門時保の時に二男千松が分家して本家が上時国・分家が下時国となり共に繁栄、県と国の文化財指定の豪壮な屋敷を残している。江戸時代には名字帯刀を許されたらしい。
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時忠が流された大谷地区には従者の子孫が大谷十二名として頼兼・頼光・頼正・兼正・則正などの家名を受け継いでいる。椿の花が落ちている林の中、画像右側の最も大きな五輪塔が時忠の墓と伝わっているが、調査の結果は室町時代以降の建立と推定された。後世の墓標か、あるいは先祖を偲んだ慰霊の塔だろうか。
墓所の地図はこちら、 時国本家と分家の所在地はこちら、邸宅の詳細は観光協会のサイトで。
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残念ながら大谷の廟所を訪れたときには時国家に向う時間の余裕がなかった。今度能登へ行ったら必ず、と思うが...遠いなあ。


     

        左: 国道沿いの駐車場から100mほど下った平地が時忠の住んだ跡と伝わる。まさに「烏に導かれて川の上流の則貞へ」に符合する地だ。
        中: 廟所の墓石は11基、傍らの碑には初代の大納言時忠から十一代時兼までの名が刻んである。右から2番目の大きな五輪塔が時忠らしい。
        右: 専門家(誰だか判らないけど)の調査によると墓石は室町以降のもの、らしい。時国以降の一族が繁栄した頃の慰霊墓、なのだろうか。

この頁は2019年 6月18日に更新しました。