義仲挙兵の地・白鳥神社と隣接の海野宿 

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以仁王 の令旨を 頼朝 が受け取ったのは治承四年(1180)5月10日、使者の 十郎行家 は常陸を経て甲斐から信濃・木曽を巡回しているから5月20日前後には 木曽義仲 の元にも届いている。頼朝挙兵が8月17日で義仲が市原近くに進出したのが9月7日なのを考えると、頼朝挙兵を知ってから僅か20日間で準備を済ませ150km(木曽〜海野〜市原)を移動できるとは思えない。異腹の兄 仲家 は養父の 三位頼政 と共に宇治で戦死(5月26日)しているから報復戦の意味合いもあり、令旨を受けて挙兵の準備を始めたと知った笠原頼直らが討伐軍を組織したと考えるのが自然である。
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この図式は 大庭景親 が頼朝挙兵の動きを察知して追討軍を組織した経緯に類似している。もしかすると源平盛衰記の描写が的を射ているのかも知れない。
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【 源平盛衰記 巻第二十六 兼遠起請 の一部 】    平家物語(延慶本)にも同様の記載があるが吾妻鏡にはない。鎌倉幕府の成立に無関係と見たか?
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義仲謀叛の情報に驚いた 平宗盛 は中三権頭(中原兼遠)を都に呼び、直ちに義仲を捕縛して連行するように命じた。兼遠が「時間を頂いて木曽に戻り連れて参ります」と答えると、「その旨の起請文を提出せよ、さもなければ家人に命じて義仲を捕縛し連行すれば帰国を許す」 と迫られたため、やむを得ず起請文を差し入れた。木曽に戻った兼遠は起請文にも叛かず義仲の将来にも役立つ方法を思案した末に、同国の住人 根井(滋野)行親 を招き、息子達と共に義仲の身柄を託した。根井行親は周辺諸国に呼びかけて軍兵を集め、帯刀先生 源義賢との誼みから上野国の武士や足利の一族が次々に加わった。


     

        左: 白鳥神社の前に建つ「海野氏発祥之郷」の碑。書は東部町長(当時)の保科俶教氏、町長を四期、県会議員を二期務めている。
碑のすぐ横にも海野氏の事跡について詳細を解説した碑があり、文面は下記の通り。

海野氏の出自については諸説があるが ここ東部町を中心とした往古の海野郷を根拠とした豪族であり 新張 望月等の牧の管理者であった
禰津・望月の両氏と共に東信濃にその基盤を築いた。平安中期に海野・禰津・望月の三氏は国司や牧官の資格で下向してきた中央の名門
滋野氏と関係を結び、やがてこれを祖と称するようになって滋野三家と称され、海野氏は本宗としてその中心的存在であった。
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平安末期、中央での政変「保元の乱」には源義朝の下で活躍し、治承五年(1181)木曽義仲の白鳥河原挙兵に際してはその中心的となって
奮闘した。また天下の実権が鎌倉に移ると源頼朝や北條氏に仕えて重用された。中央にも聞こえた弓馬の名家であったため、主家が亡びても
代った権力者にその力を評価され、平安末期〜鎌倉期の波瀾の時代を乗り切り安泰を保った。
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(鎌倉幕府が滅亡した)元弘の乱以後の騒乱の中では一族と共に北條氏の再興を図ったり、他の国人と共に守護に反抗したり、その基盤を守る
ために懸命の活躍をしたが、足利幕府が確立される中でその努力は報われず、苦難の道を歩む事になった。
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戦国時代に信濃国内でも守護小笠原氏の勢力が弱体化し諸豪族間の争いが次第に激しくなってきた。天文十年、信濃侵略を企図した甲斐の
武田氏は村上・諏訪両氏と連合して海野氏を攻撃した。「海野平の合戦」と称せられるこの合戦は海野氏の死命を制することとなった。
一族の禰津・矢沢氏は降伏し当主棟綱は上野に敗走、嫡子幸義は戦死し信州屈指の名族海野氏の正系はここに滅亡した。
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なお一族の真田幸隆も上野に敗走したが後武田氏に仕えその翼下として信濃攻略に活躍し、名門真田氏発展の基礎を築いた。
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                                         平成十四年十一月三日 海野史研究会建之

        中: 白鳥神社の主祭神は日本武尊、配殿に 清和天皇 の第四皇子貞元親王を祀っている。日本武尊は東征の帰路に海野郷に滞在した後に伊勢で没し、
白鳥となって飛び去ったと伝わる。白鳥は海野郷にも舞い降り、その遺徳を偲んだ里人が祠を建てて祀ったのが起源である。
第十四代仲哀天皇(日本武尊の子。実在は疑問)の二年に勅命を受けて白鳥大明神を号した。
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        右: 元々は海野一族の氏神的存在だった社が海野宿の発展と共に産土神(土地を守る神)に変化したらしい。本殿は寛政三年(1791)の建造、
境内東側の新海神社は海野氏宅から移設したもの。「義仲は白鳥河原で挙兵」とされており、義仲は養父中原兼遠の尽力により海野幸親、
(または根井行親)の全面協力を得て挙兵の地に選んだのだろう 。


     

        左:  
        中:  
        右: 海野宿の東側、駐車場に近い千曲川畔に立つ木曽義仲挙兵の地(上田市教育委員会建立)の塔。同じ趣旨の看板は依田城址北の通る砂原峠を
経て塩田平に下るルートの義仲館跡近く(地図)にもある。伝承に拠れば依田城に本拠を置いた依田二郎實信は義仲に居館を明け渡して挙兵の
手助けとした、つまり義仲の移動は木曽→依田城→白鳥河原の経路との考え方。依田城址訪問のレポートはいずれ、改めて。


   

        左&右: 白鳥神社近くに建つ「義仲挙兵の地」表示板。左は現在の東御市教育委員会の、右は2004年に北御牧村と合併して東御市になる前の
東部町時代のもの(現在もあるかどうかは判らない)、基本的に内容はほぼ同じだ。
義仲は樋口・今井・根井・盾ら 中原兼遠が与えて木曽から帯同した武士団を従え、東信濃を本拠とする海野・祢津・望月・小室ら滋野氏の
一族と上州の武士団と合流して2000余騎が横田河原を目指して進軍している。
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        右: 東側の白鳥神社前から早朝の海野宿を。古い宿場の家並みが見事に保存され、昭和末期に「日本の道百選」と「重要伝統的建造物群保存地区」
に指定された。白鳥神社に隣接して町営の駐車場(2015年から無料)が設けられている(駐車場案内図(別窓)を参照)。


 

        左: 例えば中山道の馬籠宿などに比べると観光色が遥かに薄い海野宿の町並み。最盛期には六町(600m以上)も宿場が続き、本陣一軒と脇本陣
二軒を中心に23軒の旅籠と多くの伝馬屋敷(馬を常備した幕府用の駅制度)が立ち並んでいた。現在も300m以上が当時の面影を残しており、
観光客向けの土産物野飲食店が少ないのも好ましい。広い道の片側に用水が流れるレイアウトはどこの宿場にも共通している。
更に詳細の宿場町地図はさわやか信州旅ネット(県の公式サイト・pdfファイル)を参照されたし。
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        中: 宿場から1kmほど北にある海野氏の菩提寺・瑞泉山興善寺。 
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        左: 宿場から1kmほど北にある海野氏の菩提寺・瑞泉山興善寺。 
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        左: 宿場から1kmほど北にある海野氏の菩提寺・瑞泉山興善寺。 
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        左: 信玄の侵攻を受けて滅びた海野氏最後の当主・小太郎幸義の霊廟。 
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