和田義盛の本領、三浦半島西岸の初声(はつせ)町和田 

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伝・義盛館跡に建っている表示板は次の通り。作成者には恐縮だが、三ヶ所とも相当の悪文なので勝手に修正した。
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和田小太郎義盛は16歳の秋に父の死を契機にして鎌倉杉本城から和田に移りここに居館を設けた。その頃の和田は三浦半島でも有数の穀倉地帯で、領民を守り水田を管理するために最適の位置と考えた義盛は和田を終生の根拠地と定めた。合戦の際にはこの地から多くの兵が出陣し食料を戦陣に送るなど重要な役割を果たしていたと伝わる。和田館は既にその跡をとどめていないが、この館を囲むように残る木戸脇、唐池(空池)、出口、赤羽根、矢作などの地名が往時を偲ばせる。また和田館には木曽義仲の妾巴御前が義盛の元で余生を送ったとの伝承も残っている。
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八雲神社の社頭に建つ案内板の文面は下記の通り。義盛所縁の神社に建てて郷土の英傑を顕彰したのだろう。
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鎌倉武士の栄枯盛衰の典型的な例は和田一族であると言われる。一族を率いた和田義盛は鎌倉幕府創建の功労者、半島の剛勇三浦大介義明の孫に生まれ、当三浦市初声町和田を領したことから和田氏を名乗り、武勇はことのほか優れ、弓矢にかけてはこの右に出るものがない程だった。
頼朝挙兵に参加したとき義盛は34歳、以後大いに活躍した鎌倉建府の大立者だった。その功によって侍所別当に任ぜられ、頼朝・頼家・実朝の三代にわたって忠誠をつくしたが、退潮する源氏に替って天下を狙う北條氏とことごとに対立するようになり、ついに北條義時の挑発と策謀にのり、いわゆる「建保の乱」を起した。同志と信じていた同族の三浦義村の北條方への寝返りもあって建保元年(1213)5月4日、鎌倉由比ガ浜で北條氏のために滅ぼされた。義盛67歳、この石碑は義盛の在所と思われるこの地に、郷土の武人として悲運の最期を偲び、その武勇をたたえて大正十年三月に建立した。
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神明白旗神社の社頭に建つ由来の文面は下記の通り。  祭神は天照大神と和田義盛
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神明社は後に白旗神社に合祀されたもので、神明を冠につけこれを神明白旗神社と呼んでいる。この神社の由来としては、鎌倉幕府侍所の別当であった和田義盛が北條討伐の兵を挙げたが利あらず破れ、鎌倉の和田塚に一族ことごとく自刃したが、義盛の善政をしのび、弘長三年(1263)和田の郷氏がこの地に社殿を設け白旗神社と称して祭祀をあつくしてきたものである。
また、白旗の名を得たのは、和田義盛が文治二年(1186)平家討伐に出陣して大勝を収め、城内を開放して紅白の幟を建て場内鎮護の八幡社に戦捷を報告したことに始まる。領民を交えた酒席で戦勝の舞「初声」を舞ったとされ、初声町の名もそこから始まったといわれている。相模風土記によれば神体は銅製の和田義盛像で、本地仏は和田党93騎の守護仏だったが今では損傷してわずか八体のみとされている。なおここの境内は和田、入江新田、下宮田の田園風景が一望に眺められる景勝地で、社殿は神明造りの社殿に拝殿、幣殿が設けられている。
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天養院の由来を伝える文面は下記の通り。
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天養院は和田義盛館の鬼門(北東)の護る寺として建立された。本尊は行基作の薬師如来像で義盛の身代わり薬師と伝わっている。和田合戦の折に総身に傷を負った義盛が苦痛を語らないのが不思議だったが、その時に薬師如来像は顔から胸にかれて傷付き鮮血を流していた。この像は元々は天養院に伝わるものではなく和田義盛の邸宅の鬼門鎮護に建立された安楽寺の本尊を昭和18年に天養院に移したものである。


     

        左&中: 京浜急行終点の三崎口から約2.3km、バス便あり。白旗神社〜天養院〜八雲神社〜館跡を回遊すると約2km、静かな散策を楽しめる。
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        右: 館跡の碑。周辺には既に遺構は見られないが鎌倉の二階堂に比べると土地も豊かで海運の便も良い。義盛が本拠地と定めたのも当然か。

この頁は2019年 10月 7日に更新しました。