吾妻鏡から見る和田義盛の乱 記録 

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【北條九代記の記述】
 
謀反計画が発覚した。和田平太胤長(義盛の甥)・和田四郎義直(義盛の子)・和田六郎義重(義盛の子)・渋谷六郎盛重(畠山重忠弟)・上野の薗田七郎(足利系で薗田氏の祖)・渋河六郎兼守などが計画に名を連ねている。将軍実朝と執権義時を討ち、前将軍頼家の次男千壽を擁立しようとしたものである。
信濃の国の僧阿念房がその計画書を持ち回っていたのを千葉の介常胤の家臣粟飯原次郎が捕らえて一部始終が露見した。一味の中に和田義盛の弟と息子の両名が含まれていたため、義盛も計画に参加していたのではないかとの疑いが生まれた。
 
【吾妻鏡 建暦三年(1213) 2月15日】
 
千葉成胤が一人の僧を捕えて義時邸に連行した。謀反を企てている一味の使者で信濃国の住人青栗七郎の弟・阿静房安念である。謀反への協力を求めて甘縄の成胤邸を訪れたが忠義を重んじるため捕えた、と。義時は幕府首脳と協議して二階堂行村に引渡し真偽を調査するよう、金窪行親を副えて命じた。
 
【吾妻鏡 建暦三年(1213) 2月16日】
 
安念法師の白状によって謀叛を企んだ者がリストアップされ、それぞれ捕縛された。
   信濃国の住人・一村小次郎近村(匠作これを預かる)  信濃国の住人・籠山次郎(高山小三郎重親これを預かる)
   宿屋次郎(山上四郎時元これを預かる)  上田原平三父子三人(豊田太郎幹重これを預かる)
   薗田七郎成朝(上條三郎時綱これを預かる。後に逃亡)  狩野小太郎(結城左衛門尉朝光これを預かる)
   和田四郎左衛門尉義直(伊東六郎祐長これを預かる)  和田六郎兵衛尉義重(伊東八郎祐廣これを預かる)
   渋河刑部六郎兼守(安達右衛門尉景盛これを預かる)  和田平太胤長(金窪兵衛尉行親・安藤次郎忠家これを預かる)
   磯野小三郎(小山左衛門尉朝政これを預かる)
 
その他自白によると、信濃国の保科次郎・粟澤太郎父子・青栗四郎、越後国の木曽瀧口父子、下総国の八田三郎・和田・奥田太・同四郎、伊勢国の金太郎・上総介八郎・甥臼井十郎・狩野又太郎などが参加しており、中核は130人余りで関わりのある者は200人ほど。 それぞれを捕縛するよう各国の守護などに命令が下り、御家人の小山朝政・二階堂行村・小山朝光・金窪行親・忠家が担当奉行となった。計画を詳しく調べると信濃の国の住人泉小次郎親平が2年前から計画して仲間を集め、前将軍頼家の次男千壽を將軍にして義時を殺そうとしていたらしい。
 
【吾妻鏡 同年 2月18日】
 
拘留中の薗田成朝が脱走。知人の僧坊で出家を勧められたが「受領(官職)が望みだから剃髪はしない」と語って深夜から行方不明になった。
 
【吾妻鏡 同年 2月20日】
 
成朝と話した僧が呼び出されて取調べで詳細を語った。将軍実朝は受領を望んでいた事に関心を持ち、見つけ出して恩赦せよと命じた。
 
【吾妻鏡 同年 2月25日】
 
囚人の渋河兼守は明朝に斬首せよと景盛が命じられた。これを聞いた兼守は悲しみ十首の和歌を荏柄聖廟に提出した。
 
【吾妻鏡 同年 2月27日】
 
謀叛に加わったメンバーはそれぞれが流刑地に送られた。
 
【吾妻鏡 同年 3月2日】
 
謀反を企てた張本人の泉小次郎親平が筋替橋付近に隠れているとの情報あったため工藤十郎を派遣したところ、親平は工藤と郎従数輩を殺して逃走した。鎌倉中が大騒ぎして捜索したがついに見付からなかった。
 
【吾妻鏡 同年 3月8日】
 
鎌倉兵乱の噂が広まり各地から多勢の御家人が集まってきた。和田義盛は滞在していた上総国伊北庄から駆け付け御所で将軍と対面、現在までの功績に免じて謀反に加わった子息の義直と義重らの赦免を願った。実朝は心を動かし、審理することなく父の勲功によって子の罪を免じた。義盛は面目を保って退出した。
 
【吾妻鏡 同年 3月9日】
 
義盛が一族98人を率いて再び御所に参上し南庭に列座した。廣元を通じ囚人胤長の赦免を願うためだが、謀反の張本人である胤長は許されず、金窪行親と安藤忠家が二階堂行村に引き渡した。義時から重く処置せよとの指示があり、面縛して一族の前を引き立てた。これが義盛挙兵の原因になった。
 
【吾妻鏡 同年 3月19日】
 
今夜50数名の武装兵が和田義盛邸付近に集まっている。横山党の横山時兼が義盛邸に入った。
 
【吾妻鏡 同年 3月21日】
 
17日に陸奥国岩瀬郡に配流された和田胤長の娘(6歳)が父の流罪を悲しんで病に伏してしまった。胤長に良く似ている義盛の孫・朝盛が胤長が戻って来た振りをしたが僅かに頭を挙げただけで息を引き取った。同夜に火葬、母親は剃髪して仏門に入った。

 
【吾妻鏡 同年 3月25日】    
 
和田胤長の屋敷は荏柄宮の前で御所の東隣にあるため誰もが欲しがった。義盛は「前の将軍(頼朝)の時代から収公された所領は同族に下賜され他人に与えないのが習慣だった」と女官の五條局を通じて申請して許され、非常に喜んだ。
 
【吾妻鏡 同年 4月2日】
 
(実朝の決裁を変更させて)義時が胤長の屋敷を拝領した。これを金窪行親と安藤忠家に分け与え、既に下賜されていた和田義盛の代官を追い出して占有、義盛は為す術もなく引き下がらざるを得なかった。先日には一族を率いて願い出た胤長赦免が許されず面縛して一族の面前を引き立てられて以後は出仕せず、胤長の屋敷を下賜されて少し鬱憤を鎮めたのに再びこの措置となり、謀反の心が更に強まった。
 
【吾妻鏡 同年 4月15日】
 
和田朝盛は将軍実朝の寵臣だが一族は遺恨を抱えて出仕を止める状態になり、朝盛も同様に御所詰めの勤務を離れて蟄居した。一族と将軍の板挟みとなったため御所に参上して数首の優れた和歌を献じ将軍を感動させた後に浄蓮房の草庵で剃髪出家した。郎党二人と小舎人童一人も共に出家し京都に向かった。
 
【吾妻鏡 同年 4月16日】
 
朝盛出家の知らせが父の常盛と祖父の義盛に届いた。朝盛の書状には、今となっては反逆の企ては止められないが一族に加わって主君に弓を引く事も、主君に味方して一族の敵になる事もできないから出家して苦境から逃れる、とあった。義盛は激怒し四男の義直に連れ戻せと命じた。朝盛は軍勢を棟梁となる優れた武者なので失う事はできない、義直は鞭を揚げて朝盛を追った。
 
【吾妻鏡 同年 4月18日】
 
義直が朝盛を連れ駿河国手越駅から駆け戻り、義盛は一先ず安心した。朝盛はお召しにより僧衣のままで御所に入った。
 
【吾妻鏡 同年 4月24日】
 
和田義盛は帰依僧の尊道房(伊勢の者)を追放した。人々は追放と称して伊勢神宮での戦勝祈祷だろうと噂し、鎌倉は益々騒がしくなった。
 
【吾妻鏡 同年 4月27日】
 
三條公氏が将軍の使者として義盛邸に向った。これは義盛が合戦の準備をしている旨が聞こえたため真偽を確かめるためである。公氏が使者の趣を述べると義盛は「微力なりに忠節を尽くした。前の将軍頼朝が崩じて20年も経ないのに現在は納得できる処遇を受けていない。謀反の意思はないが北條の横暴に対して向おうとしているものである」と。(邸には)古郡保忠や朝夷奈義秀ら名だたる武者が終結し合戦の準備が進んでいた。
公氏は御所に戻って結果を報告、義時は鎌倉に駐在している御家人を御所に招集した。兼ねてからの義盛謀反の疑いが発覚したためだが、まだ甲冑を着ける段階ではないと指示した。夜になって使者の津々見忠季を義盛に向わせ「謀反の噂がある。とりあえず蜂起を止めて将軍の決裁を待つように」と。義盛は「主君には何の恨みもない、義時が横暴な振る舞いを続けており、その仔細を尋ねるため同族の若者が相談した結果である。私は参加せずこれを諌めたが既に結論が出ており、これ以上は私の力が及ぶものではない。」と答えた。
 
【吾妻鏡 同年 4月28日】
 
夜になって義時が御所に参上、大江廣元らも将軍に呼ばれて申し合わせがあった。また祈祷のため八幡宮で大般若経転読を供僧に命じた。他に勝長寿院の別当法橋定豪は大威徳法を、小河法印忠快は不動法を、浄遍僧都は金剛童子法を、天地災変祭は親職を、天冑地府祭は泰貞を、属星祭は宣賢を担当させた。廣元が上意を書類にし、山城基行・塩谷惟廣・三條公氏らが使者を務めた。
 
【吾妻鏡 同年 4月29日】
 
義時の次男朝時が三河から鎌倉に入った。建暦二年(1206)に将軍の怒りと父の義絶により三河で蟄居していたが飛脚で呼び戻された。
 
【吾妻鏡 同年 5月2日】
 
義盛邸近くに住んでいる筑後朝重が、義盛邸での軍兵集結を確認して大江廣元にその旨を報告した。来客中だった廣元は御所に駆け付けた。三浦義村と弟の胤義らは義盛に与して御所北門を警護するとの起請文を書いたのに心変わりした。先祖が八幡太郎義家に従って奥州を征して以来源氏の禄を食む家柄なのに累代の主君に刃向かえば天罰を免れないと考え、約束を翻して義時邸に入り義盛出陣を報告した。義時は落ち着いて衣装を改め御所に入った。
 
義盛と時兼の謀議は判っていたが決行が今朝とは思わなかったため御所の警護は手薄である。義村らの知らせにより政子と将軍御台所は北門を出て八幡宮別当の坊に避難した。16時頃に和田義盛が兵を率いて御所を襲撃、嫡男の常盛と次男の朝盛と三男朝夷名義秀・四男の義直・五男の義重・六男の義信・七男の秀盛、他に土屋義清・古郡保忠・渋谷高重(横山時重の聟)・中山重政と同行重・土肥惟平・岡崎實忠(真田義忠の子)・梶原朝景と景衡と景盛と景氏・大庭景兼・深澤景家・大方政と遠政・塩屋惟守ら、親戚あるいは朋友として去年の春から協力関係にある輩である。150の軍勢が三手に分かれ、まず幕府南門と小町にある義時邸の西門と北門を囲んだ。義時は御所にいたが留守居の武者が応戦して激しい戦いになった。義盛軍は義時邸を落し南西から御所に接近、波多野忠綱を先頭に三浦義村が加わった防衛側の御家人と合戦になった。
 
16時、義盛軍は遂に御所の四方を包囲して攻撃、北條泰時・朝時・上総義氏らが必死に防戦した。朝夷名義秀が正門を破って南庭に乱入して防衛する御家人を攻撃、更に御所に放火して焼き払った。将軍実朝は火災を避け、義時・廣元と共に頼朝法華堂に入った。この戦闘では朝夷名義秀が鬼神の活躍を見せ、立ち向かった武者は全て落命した。五十嵐小豊次・葛貫盛重・新野景直・礼羽蓮乗ら数人が討ち取られた。その中で高井重茂(和田義茂の子で義盛の甥)と義秀が互いに弓を棄て轡を並べ組み合い、落馬した末に重茂が討たれた。義秀を落馬させたのは彼一人であり、一族の謀反にも与せず独り御所を守って命を落した、これは人々の感嘆したところである。
 
義秀は騎馬せず徒歩のまま抜刀した朝時と斬り合った。互角の戦いをした末に朝時が負傷したが落命するほどの深手ではない。更に義秀は政所前の橋近くで足利義氏と出会い、追い掛けて鎧の袖を掴んだ。義氏は馬に飛び乗って逃れ、鎧の袖は千切れたが馬は倒れず義氏も落馬しなかった。数刻に及ぶ合戦で馬が疲労した義秀は堀の東側に留まり、橋に廻って義氏を追おうとした。野田朝季が間に入ってそれを妨げたため彼を殺したが義氏は逃げ延びた。
 
また武田信光は若宮大路の近くで義秀と行き遭った。目を合わせて戦おうとしたが子息の信忠が間に駆け入り父に代わろうとする気配を見せたため、そのまま行き過ぎた。義盛の率いる武者の強さは驚くほどである。幕府側では義秀の武勇を恐れず兵を指揮した北條時房の活躍が見事だった。
 
義盛勢は明け方になって矢が尽き疲れ切ったため前浜近くに撤退した。時房は旗を掲げ兵を率いて下馬橋付近に布陣し、各所で追撃戦を展開した。足利義氏、筑後尚知、波多野経朝、塩田實秀らが勢いに乗って義盛勢を攻撃、大江廣元は書類などを守るため御家人に警護されて法華堂から政所に戻った。
 
【吾妻鏡 同年 5月3日】
 
義盛勢は補給が絶たれ馬も疲れ切った。早暁に横山時兼、波多野義定(時兼の聟)・横山五郎(時兼の甥)ら数十人が腰越方面から援軍に駆け付けた。これは今日が合戦の予定だったためである。援軍を得た義盛側は勢いを取り戻して反撃、曽我・中村・二宮・河村らが武蔵大路から稲村ガ崎の一帯に布陣した。
 
(仮御所となった)法華堂からの召集命令には疑義もあるため御家人も軽々しく動けず、将軍の指示書を必要とした。波多野朝定が負傷しながらも御所に入って指示書を求め、将軍の印を得た。指示書を見た軍兵は御所に集結、千葉成胤も精兵を率いて駆け付けた。10時頃には御書を近隣の諸国宛に発行、将軍の判に加えて北條義時と大江廣元の署名がある指示書に曰く、
 
近辺の者にこの旨を知らせ召集するものである。和田義盛・土屋・横山らが謀反を起こし将軍を討とうとしたが成功しなかった。敵は散り散りになったので至急討ち取るべし。 5月3日 大膳大夫 大江廣元  相模守 北條義時
 
御教書発行と同時に大軍が浜に向って進発し合戦した。義盛は再び御所を攻めようとしたが若宮大路は時房と泰時が防衛し、町大路は上総義氏・名越は近江守頼茂・大倉は佐々木義清と結城朝光らが布陣したため突破する場所がなく、由比ガ浜と若宮大路で戦う他になかった。更に激戦が続き、御所側の兵が退却を余儀なくされるのも再三だった。このため義時は小代行平を使者として法華堂の実朝に派遣し更なる配慮を求めた。実朝は廣元を呼んで御願書を書かせ自筆の和歌二首を添え公氏に八幡宮に奉納させた。
 
土屋義清が甘縄から亀ヶ谷に入り窟堂前の路地を経て法華堂に攻め込もうとしたが赤橋のそばで北から飛んで来た流れ矢に当り落命した。これは神仏の意思だろうか。従者が首を取って義清が本願主である壽福寺に葬った。義清は岡崎義實の二男で母は中村宗平の娘、法勝寺五重塔造営の功績がある。
 
18時頃、和田義直(37歳)が伊具馬太郎盛重に討ち取られた。父の義盛(67歳)は愛していた息子の死を深く嘆き、戦意を失った末に江戸義範の家来に討ち取られた。五郎義重(34歳)、六郎義信(28歳)、七郎秀盛(15歳)らも討ち取られた。朝夷名三郎義秀(38歳)率いる約500人は浜から船6艘で安房国に逃れた。また常盛(42歳)、山内先次郎左衛門尉、岡崎余一左衛門尉、横山馬允、古郡左衛門尉・和田新兵衛入道ら指揮官6人は戦場を離脱して行方不明になった。
 
その後に泰時・行親・忠家が死骸などの検分を行った。由比ガ浜に仮屋を設け、松明を掲げて義盛以下の首を並べ確認した。義時と廣元は将軍実朝の指示を受けて朝廷に御書を送った。両人が署名し将軍が捺印したものである。
 
【吾妻鏡 同年 5月4日】
 
古郡左衛門尉兄弟は甲斐国坂東山波加利の東競石郷二木で、和田常盛(42歳)と横山時兼(61歳)らは坂東山償原別所で自殺。時兼は横山時廣の嫡男で伯母(時廣の妹)が義盛の妻、その妹は常盛に嫁したため加担したものである。両人の首は今日鎌倉に到着、固瀬河の辺に晒した首は234を数えた。
 
朝8時、将軍実朝は法華堂から東の御所(政子邸)に入った。その後に西御門に負傷した将兵を集め二階堂行村を奉行に・行親と忠家を副えて検分を行った。味方の負傷者はおよそ188人、その一人・相模次郎は義時に支えられて御所に入った。これは去る2日に義秀と戦って傷を負ったためである。
 
将軍は合戦に加わった者の勲功について尋ねた。波多野忠綱がこれに答え、米町と政所では何度も先頭で戦ったと報告した。三浦義村は政所前の合戦では自分が先頭だったと主張し、南庭では各人が自分の功績を主張した。 義時は静かな場所に忠綱を呼んで密かに話した。将軍家が無事だったのは偏に義村の忠節による。米町合戦での先頭が忠綱なのは間違いないから政所の件は義村に譲って穏便に納めたらどうか、と。忠綱は「勇士は戦場での先登が本意で、武者の家を継ぐからには何度でも先登に進むものである。」と。 真偽を確認するため将軍の前で義時と廣元と行光のみが立ち会って対決となった。義村は「義盛が攻め込んで来た時に私は政所の前に駆け付け南で矢を放ち敵を寄せ付けなかった」と。忠綱は「私一人が先登だった。義村は私の子息経朝と朝定の後方にいたのに忠綱が見えなかったのは盲目なのか」と。そのとき共に戦った皇后宮少進・山城判官次郎・金子太郎に確認したところ、赤皮威の鎧で葦毛の馬に乗った武者が先登だと答えた。これは忠綱であり、その馬は義時から拝領した片洲である。
 
【吾妻鏡 同年 5月5日】
 
義盛・時兼ら謀反人の所領と美作・淡路など守護職、横山庄などは没収して恩賞に充てる事となり、義時と廣元がこれを沙汰した。また義盛の侍別当職は義時が担当する。
 
【吾妻鏡 同年 5月5日】
 
岡崎余一左衛門尉親子三人が殺された。夕刻になって将軍実朝は廣元邸に入った。これは去る2日に御所が焼失したためである。将軍御台所と尼御台所も同様に入御した。また行親を侍所司に任命した。行村・行親・忠家らに命じて戦死者と捕虜などの姓名を表記した。
 
建暦三年5月2〜3日に討たれた者
和田左衛門の尉  同新左衛門  あさいなの三郎  同四郎左衛門尉  同五郎兵衛  同六郎兵衛  同七郎  同新兵衛入道  同八郎  同五郎  同宮内入道  同弥次郎  同弥三郎(この外小者・郎等は注さず) 以上十三人
横山の人々
横山右馬允  やないの六郎  平山の次郎  同小次郎  あいはら太郎  同小次郎  同籐五郎  たなの兵衛  たなの太郎  岡の次郎  小山の太郎  ちちう次郎   同太郎  同次郎  同五郎  古郡左衛門  同五郎  同六郎  同おい一人  同弟二人  同次郎  くぬきたの太郎  同次郎  同五郎  同三郎  同五郎  同又五郎  横山の六郎  同七郎  同九郎  以上三十一人
土屋の人々
大学助  同新兵衛  同次郎  同三郎  同四郎  薗田七郎  同太郎  同次郎  やきゐの太郎  同次郎  以上十人
山内の人々
山内左衛門  同太郎  同次郎  岡崎左衛門の尉  同太郎  同次郎  由井の太郎  高井兵衛  ふくいの小次郎  同七郎  大多和四郎  同五郎  大方小次郎  同五郎  成山の四郎  同太郎  同次郎  高橋の小次郎  土肥左衛門太郎  同次郎  以上二十人
渋谷の人々
渋谷せんさの次郎  同三郎  同五郎  同小次郎  同小三郎  小山の四郎  同太郎同次郎   以上八人
毛利の人々
毛利の太郎  同小太郎  同小次郎  同もりへの五郎  おい一人  むこ一人  渋河左衛門  同小次郎  同左衛門太郎  同次郎   以上十人
鎌倉の人々
梶原刑部  同太郎  同小次郎  宇佐美平太左衛門   大庭の小次郎  土肥の小太郎  豊田の平太  四宮の三郎  同太郎  愛甲の小太郎  同三郎  同五郎  金子の太郎    以上十三人
逸見の五郎  同次郎  同太郎  海老名兵衛  同太郎兵衛  同次郎  同三郎  同四郎  おきのヽ八郎  六浦の三郎  同平三  同六郎  同七郎  松田の三郎  同小次郎  同四郎  同六郎  同七郎  あいたの三郎   同四郎  さヽのふの六野太  波多野の三郎  同太郎  同彌次郎  こさの入道  同禅師八郎  同五郎   塩谷の三郎  同太郎  かせの彌次郎  しらねの與三次郎  さなたの春八  かたひうの彌八  同太郎  同次郎  同三郎  つくいの七郎   以上三十七人(この外小者・郎等をはしるさず)
いけとりの人々
愛甲右衛門  同太郎  おほちの三郎  村岡の五郎  同太郎  同三郎  同四郎  をきのヽ彌八郎  同太郎  富田の太郎  三浦高井の太郎父子(各々兼ねて出家す)   小高の太郎  同次郎  金子の與一太郎  同與次  宇佐美平左衛門  しぬきの野三  同太郎  ふかさわの次郎  こまの太郎  高田の太郎  同中八太郎  同四郎  こもの次郎(つくしの人)園田の六郎  同太郎  むかいの四郎     以上二十八人
御方の討たるる人々
筑後四郎兵衛  壱岐兵衛  同四郎  安東四郎兵衛  いなの兵衛  そめやの刑部  同太郎  こがの三郎  ひちかたの次郎  大ぬきの五郎  小河馬太郎  たかへの左近  籐次郎  ときかやの四郎  神野左近  うち山八郎  新平馬の允  富所次郎  同小次郎  同太郎  ぬまたの七郎  同次郎  五條の七郎太郎  林の太郎  黒田弥平太  平野の與一  とい岡の五郎  河井の籐四郎  山田の次郎  西山の太八  同太郎  片山刑部太郎  同八郎太郎  したかの小次郎  泉六郎  松本九郎  籐三  蓮乗坊  こんのヽ左近  たか井の兵衛  林内籐次  つくいのさい太郎  五十嵐の小豊次  籐五郎  富士の四郎  栗林加藤次  つくしの税所次郎  殿岡の五郎  足洗四郎  與田小太郎  おしたかの三郎    以上五十一人(この外手負い、源氏侍千余人)
 
【吾妻鏡 同年 5月7日】
 
勲功について、主だった分は本日決定した。波多野忠綱の功績は確かだが御前で義村と対決した際に盲目扱いしたため功績扱いせず罪に準じて扱う旨の沙汰があった。子息の経朝の勲功はそのまま認められた。
甲斐国波加利本庄は武田冠者  同新庄は嶋津左衛門の尉  同国古郡は加藤兵衛の尉  同国岩間は伊賀次郎左衛門の尉  同国福地は鎌田兵衛の尉  同国井上は大須賀の四郎  相模国山内庄は義時  同国菖蒲は義時  同国大井庄は山城判官  同国懐島は山城四郎兵衛の尉  同国岡崎は近藤左衛門の尉  同国渋谷庄は女房因幡の局  坂東田原は志村の次郎  武蔵の国長井庄は籐九郎次郎  横山庄は大膳大夫  上総国飯富庄は武州  同国伊北郡は平九郎左衛門の尉  同国幾與宇は籐内兵衛の尉  常陸国左都は伊賀の前司  上野の国桃井は籐内左衛門の尉  陸奥の国遠田郡は修理の亮  同国三迫は籐民部大夫  同国名取郡は平六左衛門の尉  同国由利郡は大貳の局  金窪は左衛門の尉行親
今日、義時は大倉から若宮大路邸に移り、その後に家臣らが勲功を与えられた。
 
【吾妻鏡 同年 5月8日】
 
山内経俊が義盛に与した山内先次郎左衛門尉(既に出家)を捕えた。兼ねてから知り合いだったため経俊の屋敷に出頭したものである。源(大江)親広が京都から到着した。去る2日に京を発つ際に合戦のことを聞いて行程を急いだ、と。
夜になって泰時が御所に入り、今回の勲功を辞退する旨を奏上した。再三にわたって固辞を重ねるためその理由を尋ねると「義盛は将軍に対しては逆心を持たず、相模守(義時)に敵対したのである。父の敵と戦って恩賞を得るのは筋が通らないから、私への勲功は合戦で落命した多くの御家人に宛てて欲しい。」と。人々はこの言葉に感嘆したが、将軍は重ねて勲功の授与を指示した。
 
【吾妻鏡 同年 5月9日】
 
廣元を経て判が載った御教書を発行。いわく、関東の状況は落ち着いたから在京の武士は鎌倉に向う必要なし、御所の守護に専念せよ、と。また佐々木廣綱に宛て、謀反人の残党が西に逃げた情報もあるため対応するように、と指示した。 夜になって近江・美濃・尾張などの御家人が鎌倉に入り、民が心配事が重なって農作業すら滞っている、と訴えた。 重ねて勲功の指示が結城朝光ら数人に与えられた。また和田胤長(31歳)が配流先の陸奥国岩瀬郡か鏡沼南の辺りで殺された。