伝・安田義定の墓所 甲斐雲光寺  

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吾妻鏡には、弟の 安田義定 と嫡子の 一條忠頼 を従えて富士川合戦とその前後を戦った 武田信義が、勲功として 頼朝 が駿河守護の地位を与えたとしているが、この時点では頼朝と甲斐源氏は同格の立場で、甲斐の精兵を率いた信義が実力で駿河を手に入れ頼朝がそれを追認したに過ぎないと考えるべきだろう。
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ただしこの後の甲斐源氏は頼朝による同族粛清と内部の分裂が重なって零落を続けてしまう。元暦元年(1184)6月には甲斐源氏棟梁を継承した一條忠頼が鎌倉で謀殺され、建久四年(1193)11月には義定の嫡男義資が艶書事件で斬罪。同時に義定も駿河守護を解任され、翌年8月には謀反の嫌疑により鎌倉永福寺で殺された。鎌倉大草紙では「法光寺(放光寺)で自刃」、尊卑分脈や甲斐国史では「馬木庄(牧)大井窪大御堂で殺された」 と記録している。
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【吾妻鏡 建久五年(1194) 8月19日】
安田遠州(義定)を殺して首を晒した。嫡子義資を殺され所領を没収されて以来しきりに不満を口にし仲間と語って反逆を企てたのが発覚したためである。遠江守五位上 源朝臣義定六十一歳、安田冠者義清の四男。寿永二年八月十日に遠江守に任じて従五位下に叙し、文治六年正月二十六日下総守に任ず。建久二年三月六日遠江守に還任、従五位上に叙す。
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尊卑分脈にある大井窪大御堂とは放光寺の阿弥陀堂、或いは山梨市の窪八幡神社(公式サイト)と考えられている。更に小田野山南麓の県道西保線(旧秩父裏街道)沿いには「腹切り地蔵」と呼ばれる石仏や「義定の生害石」とされる自然石が残されており、ここが義定終焉の地と伝わっている。鎌倉で殺された嫡子義資の遺品が雲光寺に葬られ、翌建久五年には、義定と三郎義季の遺骨を最期の地・小田野山から雲光寺に移して埋葬した、と。
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雲光寺の寺伝に拠れば、住僧の伊勢坊玄海法印が義定の遺骸を埋葬した。義定の家臣百余人が主君の墓前に座して殉死し、玄海法印が念仏を唱へつつ介錯を執り行った。その後に玄海法印は自分の墓穴を掘り、自ら首を刎ねてその穴に落ちた。現在もこの地を「災難田」と言い伝えている。
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本来は頼朝と同格の立場で軍事力では上位にあった甲斐源氏も、その後は鎌倉幕府の家臣として生き残っていく。自ら頼朝に従属した加賀美遠光やその支流の南部一族、更に甲斐源氏の棟梁を継承する代償に同族の零落を顧みなかった石和信光などは幕府御家人となり、頼朝に仕えた。天下の覇者になる直前に夭折した武田信玄は(信光を初代として数えると)15代目の後裔である。
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雲光寺の地図はこち、 恵林寺の北にある義定菩提寺の 放光寺、小田野山南麓の 腹切り地蔵(共に別窓)なども参照されたし。


     

        左: 参道入口には 甲斐百八霊場第十三番、臨済宗妙心寺派 神龍山雲光禅寺 と刻まれた石碑が建つ。甲斐百八霊場(wiki)も参考に。
        中: 果樹園に囲まれた小道を本堂に向う。周辺の道路が狭くて駐車スペースもないため東側に路駐して200mほど歩く方が間違いない。
        右: 850年ほどの歴史を持つ古刹ではあるが安田義定の滅亡と共に一族の遺物も失われ、本領の安田庄館跡の痕跡も既に明らかではない。


     

        左: 義定が領有した甲府盆地の西部・安田庄の中心部に近い。裏手(北側)に墓地を設けた雲光寺の本堂が静かな佇まいを見せる。
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        中: 境内には案内などを設けていないため、墓所を捜すのはやや苦労させられた。本堂の右側手前、林を背にした一角が一族の墓域である。
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        右:貞治ニ年(1363)、信光から六代目の武田信成が義定没後174回忌の供養と寄進を行って墓所奥の宝筐印塔(県指定有形文化財)を
建立し、同時に供養料の銀500文と永代供養として36石7斗3合分の寺領寄進を行った、と伝わっている。


     

        左: 大きな五輪塔の中央が義定・左が鎌倉で殺された嫡男義資、右が二男義季(公式な記録には記載されていない)の墓標とされる。
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        中: 右側手前の小さな五輪塔が義定と殉死した家臣を葬った後に殉死した雲光庵の僧侶伊勢坊玄海法印の墓標とされている。
墓所奥の宝篋印塔は貞治二年(1363)に武田信成が建立したもので、基台に「貞治二年卯十一月 武田氏・・(以下不明)」と彫ってある。
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        右: 右隅に並ぶ小さな五輪塔が殉死した家臣の墓標。雲光寺古文書には武田信玄が墓所で法要を行った記録も残されているらしい。

・・・・・・・・・・・・・・・ 追 記 ・・・・・・・・・・・・・・・

文治五年(1189)に奥州藤原氏が滅んで頼朝の全国制覇が完成した翌・建久元年(1190)、安田義定は朝廷の命令で禁裏守護番に任ぜられた。
内裏守護の 源頼兼頼政 の次男)を補佐する要職であり、幕府の統制から離れて朝廷と結びつく可能性もあるため頼朝にとって望ましい事件ではない。
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更に建久二年には 後白河法皇 に命じられていた伏見稲荷と祇園稲荷の修理が完成して義定は従五位に任ぜられ、左遷されていた下総守から遠江守に
復職した。頼朝は甲斐源氏の動向に対して警戒を深めたが、これは鎌倉幕府と甲斐源氏を離反させる後白河法皇得意の策謀だった、とも考えられる。
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頼朝が征夷大将軍に任ぜられた翌年の建久四年(1193)11月、梶原景時から「義定嫡男の義資が大倉御所の女官に艶書を送った」との報告が入った。
本来なら取るに足らぬ事件だったが、頼朝はその日のうちに義資の首を刎ねて梟首し義定の所領を没収、義定は本領の甲斐安田庄に蟄居を余儀なく
された。さらに翌・建久五年8月には再び景時が 「義定に謀反の企てあり」 と讒言、頼朝は 大江廣元三善康信 の諌めを振り切って梶原景時の指揮する
義定討伐軍を甲斐に派遣した、とされる。
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雲光庵住僧の伊勢坊玄海法印は義定の遺骸を埋葬した。義定の家臣百余人が主君の墓前に座して殉死し、玄海法印が念仏を唱えつつこれを介錯した。
その後に玄海法印は自分の墓穴を掘り、自ら首を刎ねてその穴に落ちた。現在もこの地を「災難田」と呼ばれて言い伝えを残している。

この頁は2019年 8月3日に更新しました。