修禅寺 頼家(法華院殿金吾大禅閤)の廟所と十三士の墓 

 
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頼家 の幼名は万寿、頼朝 の嫡男である。頼朝が大軍を率いて鎌倉に入った治承四年(1180)10月の約2年後、東国支配がほぼ確立した寿永元年(1182)8月12日に産まれた。頼朝は浜辺から鶴岡八幡宮に至る 段葛 を造成して 政子 の安産を祈願した。まぁ実際には伊豆流人時代からの愛人 亀の前を呼び寄せたり、平治の乱で死んだ長兄 悪源太義平 の後家(新田義重 の娘)に艶書を送って口説くなど、妻の妊娠中に良くある毎日を送っていたのだけれど、ね。
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頼家誕生の翌年には 義仲 に追われた平家が都落ち、その翌年には義仲滅亡、その翌年の元暦二年(1185年・改元して文治元年)には壇ノ浦で平家が滅亡し、天下は名実共に頼朝に掌握された。最高権力者の嫡男として頼家には洋々たる未来が待っている筈だったが...
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将軍頼朝は正治元年(1199)1月13日に死没、26日に満17歳の若さで「鎌倉殿」を継承した頼家の運命は3ヶ月後に大きな転換点を迎える。

右:修禅寺の北側から頼家庵跡と十三士の墓を遠望   画像をクリック→拡大表示
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同年4月12日に頼家は「専横」を理由にして訴訟の決裁権を停止され、幕府重臣13人による合議制にシステムが変更された。重心十三人とは= 北條時政義時大江廣元三善善信中原親能三浦義澄八田知家和田義盛比企能員足達盛長足立遠元梶原景時二階堂行政
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この前後の事情について、吾妻鏡などには頼家の専横や独裁が記録され、如何にもトップとして不適格な印象を与えている。13人の合議制を決定する準備期間を考えれば、鎌倉将軍に就任してから2ヶ月程の間に異様な専横があった事になり、頼家排除の正当性を印象付ける後付けの理由と考えるのが妥当だろう。
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ただし、私の中では幾つかの大きな謎が未解決のまま残っている。
頼家に最も近い筈の舅・比企能員がなぜメンバーに加わっているのか、自他共に源家の忠臣を任ずる畠山重忠がなぜ外れているのか、頼家擁護の立場だった梶原景時が加わっていたのは何故か、など不可解な部分が残る。吾妻鏡編者の改竄があったのか、或いは頼朝死没の直後に御家人の暗闘が始まっていたのか。
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建仁三年(1203)7月に病を得た頼家は8月には危篤状態に陥った。北條時政は頼家の存命中にも拘わらず朝廷に使者(9月7日に都に到着)を送り、「頼家病死のため弟の千幡(後の 実朝)が継承するので千幡の征夷大将軍任命を要請」した。更に使者が鎌倉を出発した9月2日には比企能員を名越邸に誘い出して謀殺し、同時に比企ヶ谷を急襲して頼家の子 一幡 を含む比企一族を皆殺しにした。
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こうして時政は敵対勢力の一番手だった比企氏を滅ぼし、頼家を失脚させて幕府の実権を掌握。北條一族のために実子の頼家を見捨てた 政子 は更に16年後の建保七年(1219)1月には次子の三代将軍実朝の暗殺にも関与した、と推定される。しかも下手人は頼家の二男 公暁、孫を扇動して実子を殺させた可能性も考えられるのだから、何とも凄絶な権力闘争ではある。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 8月27日 】
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将軍頼家が重病のため関西の38ヶ国の地頭職を弟の千幡(実朝)に、関東28ヶ国の地頭職と守護職を頼家の嫡子・一幡に相続させると定めた。しかし比企能員は外戚の権威を振りかざして反逆を企んだ。
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【 吾妻鏡 建仁三年(1203) 9月2日 】
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頼家の愛妾で一幡の母である能員の娘(若狭局)が「国を二つに分ければ争いの元となるし北條一族に権力を奪われてしまう」と病床の頼家に訴えた。驚いた頼家は能員を呼び時政追討の相談をした。それを障子の陰で聞いた政子が時政に通報した。
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【 愚管抄(天台宗の僧慈円の著作)に拠れば、】
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重病の頼家は出家して一幡に家督を継がせようとした。比企能員の権力が大きくなるのを恐れた時政は能員を自邸に招いて殺した。更に頼家を大江廣元の屋敷に移し、比企館に軍勢を送って一族を皆殺しにした。病から回復して仔細を知った頼家は太刀を取って立ち上がったが病後のため意のままにならず、政子が制止して修禅寺に押し込めた。11月には母に抱かれて逃げた一幡を捕えて刺し殺した。
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【吾妻鏡 建仁四年(1204) 7月18日】  翌19日の日付で、頼家の死去を一行だけ記録している。
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夕刻に伊豆国から飛脚が到着、昨18日に左金吾禅閤(頼家・23歳)が修禅寺で薨じた旨を報告した。
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【 更に、愚管抄に拠れば、】   愚管抄は 慈円(天台座主)が著した史書。
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修禅寺で頼家入道が刺し殺された。激しく抵抗したため紐で首を絞め急所(ふぐり)を押さえるなどして殺した。勇猛でも力の及ばぬ事である、云々。
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吾妻鏡には他の部分でも「○○の陰で話を聞いた○○が...」などの恣意的な記述が散見される。簡単に盗み聞きされるのは常識として疑わしいし、吾妻鏡に権力者側の正当性を主張する傾向があるのは否めないから、前後の事情から判断すると愚管抄の方が事件を正しく捉えているのだろう。記録には残されていないが、頼家に向けられた討手を指揮したのは一年前に比企能員を討った殺し屋 天野遠景か、とも思う。
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その他、修禅寺周辺の情報は  指月殿修禅寺範頼の墓所修禅寺奥の院安達籐九郎の墓独鈷の湯横瀬八幡社 を参考に。(全て別窓)
関連して、2003年7月19日に修禅寺で行われた 頼家八百年忌の風景(別窓) で。


     

        左: 桂川から100mほど離れた丘に建つ指月殿のすぐ横に、真っ直ぐ修禅寺の方向を向いて頼家の廟所が残っている。
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        中: 中央には修禅寺十六世の筏山智船和尚の筆による「征夷大将軍左源頼家尊霊」の石碑は元禄十六年(1704)の没後500年忌に建立。
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        右: 肝心の墓石は、非常識にも廟所の中央を占有する石碑の裏、小さな2基の五輪塔らしい。どちらが頼家の墓石なのかさえ判然としない。
伝承に拠れば、左の墓石の一番上の石(空輪)を持ち上げて軽く感じれば願いが叶い、重く感じれば願いは叶わぬ、との事。


     

        上: 2014年10月撮影。、十三士の墓所は既に土石流に埋没しているが参道と頼家庵跡の碑(右画像の右隅に見える)だけは残っている。
そこから20mほど先にあった十三士の墓所までは道が荒れており、崩落の危険があるため入れない。修復する計画もないらしいから、
このまま廃墟になっていくのだろう。


     

     【吾妻鏡 元久元年(1204)7月24日】
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頼家御家人らが片土(辺鄙な地=修禅寺、の意味か)に隠れて謀反を企てた。相模国の住人金窪行親らを派遣して直ちにこれを討伐した。
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   ※金窪行親: 北條氏の家臣で義時に従って頭角を現した武士。武勇に優れていたらしく、暗殺や追討などに活躍している。
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        左: 2008年頃まで、頼家廟から500mほど東の山腹にあった家臣十三人の墓所は土砂崩れで流出、頼家庵跡の碑だけが残っている。
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        中: 十三士の墓のうち三基を残して他の墓石は全失われた。旧い場所は崩落の危険があり、継続して立ち入り禁止の措置が取られている。
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        右: 頼家廟の横に移設し整備された十三士の墓所。辛うじて助かった三基に新造の十基を追加した墓石が頼家廟の敷地隅に並んでいる。


     

        左: 頼家廟所から少し離れた斜面にあった家臣13人の墓。この場所は台風に伴なう土砂崩れで既に失われ、立ち入りも許されていない。
この中の三基が辛うじて回収され、上記した頼家廟近くの「十三士の墓」に加えられている。二度と見られない光景なのを考えれば貴重な画像か。
墓のあった場所は御庵洞と呼ばれ、地元の伝承では殉死だったと言われている。
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        中: 実際には謀反を企てたのではなく、念のため皆殺しにしたのだろう。北條時政の危機管理は無能な宰相・菅直人よりも遥かに緻密だ。
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        右: 墓所のやや下側に頼家の庵跡と伝わる窪地がある。周囲を竹林と崖に囲まれ、小さな滝が流れ落ちる殺風景な幽閉場所である。


     

        左: 庵跡に建っていた2基の石碑は何とか流失を免れた。かなりの急斜面で、草庵と表現するよりも完全に監禁目的の幽閉場所だろう。
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        中: 頼家の庵跡近くから修禅寺方向を望む。背景は桂山、800年前には幽閉された頼家も眺めていた筈の風景だ。
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        右: 頼家が病気平癒のため三嶋大社に納めた自筆の般若心経。建仁三年(1203)8月10日の日付がある。(国指定文化財、三嶋大社(別窓)蔵)。
般若心経は「大般若波羅蜜多経600巻」を集約し「空」を説いた経典。一般的には「悪霊を空ずる」或いは「病を軽くする」経典として信じられ、
病気のときに写経して治癒を祈願するケースも多い。
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日付の8月10日は旧暦の9月初旬に当る。頼家の発病が8月中旬で嫡子一幡を含めた比企一族の皆殺しが9月2日、病状がやや回復して
比企一族の滅亡を知り北條討伐を試みたのが9月5日、そして修禅寺に幽閉されたのが9月29日...従って納経は9月初旬の病気が少し
快方に向かった頃であり、巻末に記された通り「病脳の平癒を祈願して三嶋大社に納めた」写経だと判断できる。
直後に拘束され修禅寺に閉じ込められるとは夢にも思わなかっただろうが。

この頁は2019年 9月29日に更新しました。