征夷大将軍 源頼朝の肖像について 

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神護寺の絵像が 頼朝なのか足利直義なのか、或いは別人なのか。論争は今も続き、決着しそうもない。共通認識としては「作者は藤原隆信ではない」こと程度で、科学的な年代測定を試せば良いと思うのだが、そう簡単ではないらしい。現在では主として鎌倉時代中期(1225〜1230年)の作品説、同じく末期説(1300年前後)、室町時代前期説(1300年代中期)の三通りが主流を占めている。
 
木像として最も古いのは甲斐善光寺が収蔵する文保三年(1319)銘のものだが、銘が正しければ正治元年(1199)1月に没した実際の頼朝には会っていない。神護持絵像=鎌倉時代中期説が正しければ作者が実際に頼朝を見た可能性は(僅かに)あるが、それ以外は伝聞や想像で頼朝の姿を描いた(或いは彫った)ことになる。絵画史としてはともかく、頼朝の実像に迫るという意味では実に不毛な論争に思えるのだが...。
 
法華堂の前身は頼朝が文治五年(1189)に建立した持仏堂で、乳母の一人が清水寺に参籠して手に入れた二寸(約6cm)の銀製聖(正)観音像を本尊とした。これは治承四年(1180)挙兵の際には髷の中に入れて石橋山合戦を戦い、惨敗して土肥椙山を逃げ回った際に洞窟の隅に隠していた像である。さらに建久二年(1191)には京都で描かせた阿弥陀三尊絵像を安置している。

白幡神社 右:頼朝持仏堂は法華堂へ、そして白旗神社に変遷     画像をクリック→拡大表示
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  【 吾妻鏡 治承四年(1180) 8月24日 】  石橋山合戦に続く土肥椙山の記録。
 
(中略)...大庭景親 は頼朝の跡を追って山中を捜索した。この時に梶原平三景時 という者が頼朝の所在を知りながら心を寄せ、「この山には人が入った様子がない」と景親を別の峰へと導いた。この間に頼朝は髷に入れていた正(聖)観音像を取り出し、ある洞窟に隠し祀った。 土肥實平 がその意味を尋ねると、「私の首が景親に渡ってこの本尊が見付かったら源氏の大将らしくない所業だ」と嘲るだろう。この像は私が三歳の昔に乳母が清水寺に参籠して赤子の将来を祈った際、27日目に霊夢のお告げを受けて二寸の銀の正観音像を得た、それ以来護持仏として携えているものだ。」と答えた。
 
  【 吾妻鏡 文治五年(1189) 7月18日 】  19日に奥州へ出発する前日、持仏堂の建立を指示。
 
伊豆山の僧専光房を呼び奥州征伐の立願を告げ留守中の祈祷を命じた。出発の20日後に年来の持仏である正観音像を祀るため大倉の裏山に仏堂を開創せよ。工匠に命ずるのではなく自ら柱のみを建てよ、造作は後に沙汰をする、と。
 
  【 吾妻鏡 建久二年(1191) 2月21日 】  
 
阿弥陀三尊の絵像一幅を持仏堂に安置した。 文覚上人 に命じ京都で描かせたものである。導師の安楽房重慶と僧三人が開眼供養を行った。
 
明治維新に吹き荒れた廃仏毀釈運動の余波を受けて法華堂は破壊され、跡地は明治五年(1872)に頼朝を主祭神とする白旗神社となった。この時点での頼朝絵像は既に行方不明だが、法華堂は鎌倉時代だけでも数回の被災または被災した可能性が記録されている。最初は阿弥陀三尊絵像開眼のわずか半月後、大火事によって八幡宮や御所が全て焼け落ちた事件。この当時はもちろん頼朝は存命だし、法華堂ではなく持仏堂なので絵像とは関係ない。最初の災厄は頼朝の没後32年目の大火による法華堂焼失である。
 
  【 吾妻鏡 寛喜三年(1231) 10月25日 】  
 
夜になり強風が吹き荒れた。戌の四刻(20時半)に 北條泰時 邸と公文所が全焼、南風に煽られ東は勝長寿院の橋(大御堂橋か)付近まで、西は永福寺惣門の内門まで火の粉が吹き付けた。頼朝法華堂と義時法華堂及び本尊も灰燼と化し人畜の被害も夥しい。盗人の放火との噂がある。
 
同じ吾妻鏡は宝治合戦(1247)の際に三浦泰村らが「法華堂の頼朝絵像前で自刃」と書いているから、寛喜三年(1231)に「法華堂も本尊も灰燼と化した」のなら再建したことになり、実際に火災の翌日には評定所で再建に関する議論が行われた。ここで 中原師員 ・行西( 二階堂行盛 )・ 三善(太田)康連 (いずれも評定衆)が「墳墓堂が焼失して再建した例はない」と発言、管理する寺(八幡宮寺?)に資金を提供する旨を決裁した。
 
ただし寛喜三年の大火に関する記述はかなり杜撰で...火元は小町の南側、法華堂まで約600m離れている小町大路北端の泰時邸も「南風に煽られて延焼」し、法華堂から100m前後は離れている公文所も焼失した。頼朝法華堂と義時法華堂にも火が廻って焼け落ちたが、火災が広がるまでに本尊と頼朝絵像を住僧が持ち出す余裕はあった筈だ。それよりも吾妻鏡が「東は勝長寿院の橋付近、西は永福寺惣門の内門まで」と書いているのが気に入らない。勝長寿院の橋から見ると永福寺惣門の位置は東北東に約1km、東西を逆に記載しているのは何故だろう。
 
  【 吾妻鏡 宝治元年(1247) 6月5日 】  三浦氏が滅びた宝治合戦の際には頼朝絵像は法華堂にあったことになっている。
 
(安達勢が攻め寄せ、)その際に北から吹いていた風が南に変わり、安達勢は 三浦泰村邸南隣の民家に火を放った。風が吹き荒んで館を覆ったため三浦一族は煙に巻かれ館から逃れて頼朝法華堂に立て籠もった。泰村の弟 光村は(1kmほど東の)永福寺惣門内に80余騎で布陣しており、使者を送って「この寺で敵兵を迎え討とう」と申し出た。泰村は「鉄壁の城塞でも守り切れぬ。故頼朝将軍絵像の前で共に最期を迎えよう」と答えた。やり取りした末に光村は永福寺を出て小競り合いを経て法華堂に入った。西阿( 毛利季光 。娘が 北條時頼の室だが、妻が泰村の妹だった)・泰村・光村・家村資村(共に泰村の弟)・大隅前司重隆・美作前司(宇都宮)時綱・甲斐前司實章・関左衛門尉政泰らは絵像の前に列座し、思い出を語り合ったりして最後の時を迎えた。
 
  【吾妻鏡 建長八年(1256年・10月5日に改元して康元元年) 12月11日】
 
亥の刻(夜10時頃)に頼朝の法華堂(持仏堂・現在の白旗神社の位置)の前が火事となった。北風が激しく吹き勝長寿院と弥勒堂・五仏堂の塔などが全て焼け落ちてしまった。本尊と一切経のみ、辛うじて持ち出すことができた。
 
この火災から明治維新まで頼朝法華堂が史料に現れることはなく、再建されたのかどうかも確認できない。そして文永三年(1266)7月4日で吾妻鏡の記述は途絶え、元弘三年(1333)の幕府滅亡を経て鎌倉は動乱の時代を迎える。いずれにしても神護寺所有(京都国立博物館収蔵・国宝)の絵像が頼朝の肖像だった可能性はあるけれど、「拝礼の対象として法華堂に飾られていた像」と考えるには無理がある、だろう。ロマンとしては法華堂絵像の行方を追いかける方が遥かに面白いけどね。
 
それはさておき、絵像の作者は藤原隆信(康治元年・1142年〜元久2年・1205年、藤原定家の異父弟で歌人・画家)とされていたが、描かれたのは1205年以後と確認できたため、藤原隆信作者説は否定された。


      頼朝坐像

        左: 京都神護寺所蔵・伝頼朝絵像。神護寺三像の一つで、巾112×高さ143cmの絹地に毛抜型太刀を帯びた束帯姿で描かれている。
 
        中2枚: パンフレットを転載した甲斐善光寺所蔵の頼朝木像。胎内背面に文保三年(1319)銘があり、モデルが頼朝なのは確実らしい。
頼朝は信濃善光寺を復興した大檀那であり、後に上杉vs武田の戦火を逃れて実朝の木像とともに甲斐に移されたもの。
 
        右: 頼朝没後100年以上が過ぎた鎌倉時代末期〜室町時代の作。元は鶴岡八幡宮境内の白旗神社にあり、現在は東京国立博物館が収蔵する。
木像彩色・玉眼、像高は烏帽子先端まで70.5cm。天正十九年(1591)に秀吉が参拝した際に像の肩を叩いて「互いに天下の覇権を得たが、
貴殿は東国に基盤を持つ源氏の御曹司、卑しい身分から成り上がった私の方が上だな」と笑った、そんな話が伝わっている。
 
        ※白旗神社: 祭神は頼朝と実朝。現在は本宮(上宮)の右手にあるが元は上宮の西、現在の宇佐神宮遙拝所の近くにあった。現在地に建っていた
薬師堂が神仏分離令(神仏判然令・1868年)に伴って破却され、その際に柳営社に祀っていた実朝を合祀して上宮の西から薬師堂の跡地に移転した、それが現在の白旗神社。鶴岡八幡宮の建物群は神仏習合時代とは大きく変っている事を念頭に置く必要がある。参考までに、 八幡宮堂塔配置の変遷 (別窓)に享保十七年(1732)の古い絵図と現状の両方を記載しておいた。

 
神護寺は奈良時代末期の創建。唐から帰朝した 空海(弘法大師) が14年間住持した真言宗の古刹で、その後荒廃したが平安時代末期に 文覚上人 が再興した、と伝わる。建物は応仁の乱で焼失し江戸時代以降に再建された。専門家の意見によると...源頼朝像は他の絵とは異質な点が多い、らしい。まず画面が絹地で大きく、彩色がきわめて綿密。表情は威厳に満ち、俗人ではあるが充分に礼拝の対象とみなし得る表現となっており、その目的で制作されたに違いない、と。
 
甲斐善光寺が収蔵する「最古」の頼朝木像も没後約120年が過ぎてからの作だが、私が個人的に描いている頼朝のイメージには近い。襟やかぶり物や髭の部分が神護寺の絵像と酷似しており、どちらかが片方を模写したと判断できる、ような気がする。神護寺絵像のモデルが足利義満(1358〜1408)なら描かれたのは従一位太政大臣に登った1393年前後、足利直義(1306?〜1352)なら尊氏と共に権力を握った1338年〜出家した1349年の間だろう。
 
どちらにしても制作年代は甲斐善光寺木像の完成から20〜70年後となる。つまり、神護寺絵像が義満か直義なら甲斐善光寺の木像とは完全に無関係だし、頼朝がモデルならばどちらかが片方を模写した可能性がある。共通性を徹底的に検証し年代測定を行えば疑問は解消する...個人的にはそう思われてならない。

  
       絵像のモデルは頼朝である、という通説        絵像のモデルは頼朝ではない、という新説
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着ている衣装と帯びている武具を厳密に考証すると13世紀前半まで遡るのが可能である。
着けている冠は鎌倉末期以降の様式であり、帯びている毛抜型太刀は13〜14世紀のものと考えられる。
A
絹の裏から彩色する技法が使われている。これは平安時代末期から鎌倉時代初期の特徴的な技法である。
この大きさの絹が織れるようになったのは13〜14世紀。それ以前にはもっと小さな絹布を繋げて使っていた。
B
美術史の面から判断して絵像の画風は平安後期〜鎌倉時代初期であり、様式から判断して南北朝時代とは考えられない。
眉・目・耳・唇の表現方法は14世紀中期に描かれた肖像画の様式との強い類似性が認められる。
C
14世紀中期成立の神護寺略記に「神護寺に藤原隆信の描いた後白河院・重盛・頼朝・藤原光能・平業房の絵像あり」としている。
康永4年(1345)発行の足利直義の願文に「征夷将軍足利尊氏と自分の影像を神護寺に安置する」との内容がある。
D
大英博物館所蔵の模写の賛に頼朝像と明記されており、成立は南北朝時代〜室町時代初期と考えられる。
大英博物館所蔵の模写は添書きの内容などから判断すると江戸中期(18世紀)以降に成立したものである。
E
藤原隆信作ではないが隆信の原画を基に描かれた可能性は残る。
描かれたのは藤原隆信の死(1205年)以降で、彼の作品ではない。
F
美術史の側面から考えれば、中世日本の肖像画の場合は外見の類似を判断の根拠とするのは間違いである。
等持院(京都・足利尊氏の墓所)に所蔵されている尊氏・義詮の木像と神護寺絵像の外見が似ている。
結論
従来の検証は不十分だったが、やはり頼朝像と考えるのが妥当。
頼朝像は足利直義、重盛像は足利尊氏、藤原光能像は足利義詮。


この頁は2019年 6月1日に更新しました。