頼朝法華堂の跡 いわゆる頼朝の墓について 

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鶴岡八幡宮と並んで鎌倉観光のメインスポットが 頼朝 の墓なのだが...鎌倉時代の史跡としての存在価値は皆無に等しい。
頼朝の墓とされている層塔は頼朝の死後580年を過ぎた安永八年(1779年・徳川幕府十代将軍家治の頃)の建立で、それ以前にあったと伝わる五輪塔の詳細も既に不明。建久十年(1199)に没した頼朝は白旗神社の手前(現在の小公園)一帯にあった持仏堂(守護仏を納めた堂)に葬られ、後に法華堂と改められた。
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頼朝没後25年が過ぎた元仁二年(1224)、頼朝法華堂東の山上平場には遺言に従って二代執権 北條義時法華堂(別窓)が建ったが、これは数度の焼失を繰り返し鎌倉幕府が滅亡した元弘三年(1333)以後・南北朝の頃に消滅した、と推測される。
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また、宝治元年(1247)には 北條時頼安達景盛 の連合軍に奇襲された三浦一族580余名が頼朝法華堂に籠って自決している。

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源氏山公園の頼朝像 右:源氏山公園の頼朝像(鎌倉入り800年記念の昭和55年に建立)  画像をクリック→ 拡大表示
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現在の頼朝の墓から200mほど東の大倉山中腹、三浦やぐら(別窓) 横の石段を登った高台に嶋津氏系図が頼朝の落胤を主張している開祖 嶋津忠久墓所(やぐら)(別窓、大江廣元の墓所の中段を参照)がある。
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安永八年(1779)、頼朝の墓所を含めた一帯の荒廃を嘆いた島津重豪(二十五代当主・八代薩摩藩主)が周辺を整備しも併せて白幡神社裏山の中腹に平場を造成して現在の層塔を置き、新たに墓所を設けた。これが現存する「頼朝の墓」の最初である。1199年に没した頼朝の墓を580年後の1779年に造ったのだから歴史的な意味は皆無である。
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更に100年後の明治七年(1874)、頼朝と忠久の墓参に訪れた島津久光もまた墓地の荒廃を嘆き、家令の奈良原繁(後に議員を経て実業家に転身)に命じて参道を含む300余坪を購入して島津家の所有とした。
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当時の大倉山は 鶴岡八幡宮(公式サイト)の所有地に含まれており、頼朝と忠久の墓所を維持管理していた別当寺の相承院が明治維新後の神仏判然令に伴って廃寺となり、管理者不在になったのが荒廃の原因らしい。
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  ※頼朝落胤: 頼朝の乳母 比企尼(比企掃部充室)が産んだ娘は成長して二条院(第70代後冷泉天皇后)に仕えて
丹後内侍 を名乗り、京侍として 後白河法皇 に仕えていた惟宗広言に嫁して忠久を産んだ。
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この忠久が実は頼朝の落胤である、と島津氏は主張しているのだが根拠は薄弱である。忠久は生母が頼朝の乳母子だった関係から御家人として重用され、源平合戦の恩賞として得た南九州を地盤に勢力を広げていった。幼い頃の頼朝と丹後局の娘が姉弟と同様に仲睦まじく過ごしていた事から、嶋津氏が忠久=頼朝の落胤説を捏造し系図まで改竄した、そんな感じか。
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比企掃部充夫妻は伊豆に流された頼朝庇護のため領国の比企郡に下り(夫の比企掃部充はこの前後に死没)、母に同行した丹後内侍は 安達盛長に再嫁している。従って頼朝が丹後内侍を妊娠させるには平治の乱(1159年12月)より10ヶ月以上前、つまり1147年5月生れの頼朝が満12歳になる前に妊娠させ出産を見届ける必要がある。
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伊豆で妊娠させたと主張するなら「忠久は京で生まれ摂関家に仕えた武者」の経歴と異なるし、盛長に嫁した後の丹後内侍は嫡子 安達景盛 と 二男 時長 (大曾禰氏の祖) と娘 (源範頼の室)を続けて産んでいるから、忠久を出産するのは実質的に無理だし年代も整合しない。
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ただし、盛長から五代目の宗景が「曽祖父の景盛(安達盛長景盛義景泰盛−宗景と続く)は頼朝の落胤だから源姓を名乗る」と主張し、これが将軍の座を狙う謀反として討伐され、安達一族は滅亡した(弘安八年(1285)の霜月騒動)。景盛=頼朝落胤が可能性なしとは言えない。
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  ※島津久光: 島津氏二十八代当主斉彬の異母兄で、二十九代当主忠義の父。昭和天皇の皇后良子は曾孫に当る。
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島津忠久の墓は頼朝廟所の東側の平場に 毛利季光(廣元の四男・毛利家始祖)と 大江廣元廟所(別窓)に並んでいる。参道の石段が二つ並んでいるなど、毛利(長州)と島津(薩摩)の低レベルな意地の張り合いも面白いが、今では両家の所有を離れて鎌倉市が維持管理に任じている。
入口の石段下にある修復記念碑の碑文(現代語に変換)は下記の通り。
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頼朝の墓は鎌倉大倉山。吾妻鏡に載っている頼朝法華堂は西の山上で、大倉山南のやぐらに並んでいるのが島津家祖・忠久と毛利家祖・廣元の墓である。
安永八年(1779)、島津藩主重豪が墓域を整備して旧に復した。大倉山は鶴岡八幡宮の所有で管理は別当寺の相承院が受け持っていた。明治の神仏分離令の際に相承院は廃寺となり、頼朝の墓と忠久の墓は八幡宮の管理から離れ島津家の所有となったため墓守を置いて管理することに決した。
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明治七年(1874)11月6日、島津久光が頼朝と忠久の墓参をした際に墓地が狭く荒廃しているのを嘆き、奈良原繁(当時は島津家家令、後に議員を経て実業家)に修復を命じた。奈良原繁は山の上にある墓所から山下の参道までの約300坪を購入して島津家の所有に変更した。
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明治八年(1875)1月7日に奈良原繁と毛利家家令の柏村信は大倉山で立会って土地の境界を確定した。明治九年(1876)4月に公職を離れた島津久光は鹿児島に帰国し奈良原繁も同行した。奈良原を補佐していた有村国彦が後任となって墓域の整備工事を完成させた。必要な機材や墓守が整い広々とした墓地と参道を備えた昔の状態が蘇った。6月18日、有村は久光と嫡子忠義の代理として祭壇を設け墓を祀った。
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    奈良原繁と有村国彦は修復の経緯などを記録し、協力して任務を果たした事をここに書き残す。
          明治十年2月 議官従四位 水元成美 成文  篆額は従三位 島津忠義


     

        左: 頼朝の持仏堂は後に法華堂となり、明治元年(1868)発布の神仏分離令(正式には神仏判然令)を受けて破却されたらしい。その際に
堂内に祀ってあった如意輪観音像など(南北朝時代の作)は、300m北の満光山来迎寺(時宗、遊行寺の末寺)に保存されている。
明治五年(1872)になって白旗神社が建立され、昭和30年代になって敷地の一部に市が管理する「よりとも児童公園」が設置された。
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        中: 頼朝の絵像が祀られた法華堂の敷地は東西110m×南北70mと伝わっているから、地図に落し込むと完全に 大倉御所(別窓) の北隅に
含まれていた。流石に初代鎌倉殿の廟所だけの事はあるが、そもそも「西御門」の地名は「大倉御所の西門」が語源だもの、ね。
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        右: 白旗神社の横に建つ「法華堂跡」碑の前を通って観光名所となった「頼朝の墓」へ向かう。林立する源頼朝会の出陣旗が鬱陶しい。


     

        左: 山裾を開削したらしい平場に石柱で囲んだ廟所がある。運悪く修学旅行の団体とでも一緒になったら悲劇、落ち着いて撮影も出来ない。
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        中&右: 高さ186cm、五層の石塔がいわゆる頼朝の墓。鎌倉時代とは何の関係もない江戸時代(230年前)の建立か又は移設だと思うと
面白みはないが、香台部分に刻んである「丸に十字の島津紋」を確認して系図を詐称する島津氏の愚かさを笑ってやろう。

この頁は2019年 9月18日に更新しました。