甲斐源氏の原点 義清館跡と義清塚 

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甲府市の中心街に近く、中央道・国道20号(甲州街道)・JR中央本線・身延線などに囲まれた住宅密集地だが敷地は東西50m×南北70mほど、右側の公民館まで含めると70m四方の広大な神域となる。かつては墳墓のある左側の住宅街までが境内だったと思われ、社殿の正面(南側)には濠、本殿の左手には土塁の痕が残っている(墳墓の地図)。鳥居の前を左へ歩き最初の路地を右折、70m先で左に曲がる道沿いの左側アパートの裏手にあるため案内標識などはなく、道路を歩いただけでは殆ど目に付かない。
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公民館の前にある数台分の駐車スペースは閉鎖している場合もあり道路が狭くて路駐もできないから、300m南にあるカインズの駐車場を利用すると良い。また400m西を通っていた古道「身延みち」に残る寛政六年(1794)の道標には「義清社」入口の表示があり、近くのドラッグストア駐車場経由でのアプローチも面白い。


     

        左: 北側の昭和住宅公園側から義清神社の森へのアプローチ。このルートは水路に阻まれ直接境内に入れないため迂回する必要がある。
画像の右隅に見えるアパートの裏手に義清を葬ったと伝わる円墳がある。
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        中: 狭い堀に囲まれて静かな佇まいを見せる義清神社。この堀を館の防御を兼ねた濠だったと見るべきか、或いは単なる水路と見るべきか。
        右: 境内はかなり広く管理も行き届いているが、無住。伝承に拠れば義清の没後に館の敷地に社殿を建て義清大明神を祀った、と伝わる。


     

        左: 左手には馬の石像(コンクリートか?)。一族が勢力を伸ばした八ヶ岳南麓の逸見荘(現在の北杜市)は逸見牧(古代からの官牧)が発展した
馬の産出地で、その経緯に依拠した奉納品だろう。確認はしていないが、もちろん古い物ではない。
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        中: 賽銭箱と鈴がなければ田舎の集会場に見える拝殿。戦前までは7月と9月に通し矢の神事が行われていた、と伝わる毎年7月末には
境内の大釜に湯を沸かして神官が笹の葉で振り掛ける神事を開催していたが、今でも続いているのだろうか。蛇足..祭りと言えば毎年4月の
初めに甲府駅前と舞鶴城(甲府城)一帯で行われる信玄祭り(観光サイト)の武者行列は(もちろん観光イベントだけど)それなりに見応えあり。
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        右: 落ち着いた姿を見せる本殿は江戸時代末期前後の建築と伝わる。強風などによる倒壊を防ぐため四方に打たれた支線で保護している。


     

        左: 境内には平塩岡にある歌碑と同じ義清の和歌が刻まれている。  いととしく 埴生の小屋のいぶせきに 千鳥なくなり 市河の森
「いととしき」の意味が良く判らんが...我が家のみすぼらしさに市河の森に住む千鳥も嘆いている...ほどの意味か。
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        中&右: 義清の墓と伝わる円墳は目視で高さ約3m×直径10m。墓石としての五輪塔が東国に波及したのは保元の乱(1156年)以後と推定され、
甲斐国でも元暦元年(1184)に没した一條忠頼や文治元年(1185)に没した秋山光朝の五輪塔が知られている。
義清死没は1149年だから円墳に葬られても不思議ではないが、明確な出土品がないため同時代以前の墳墓を取り違えた可能性が高い。
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ちなみに、年代が確認できる最古の五輪塔は平泉の中尊寺釈尊院(参考サイト)にある。刻まれた年号は仁安四年(1169)、残念ながら
現在は非公開との噂を聞いた(詳細は未確認)。金色堂の裏山にあり、800円を支払って拝観する有料エリアである。


        

        上: 社頭の濠から約400m西、西条二区交差点の西側の角に古い道標が残っている。ここが昔の河内路(身延みち)で、身延山参詣や富士川水運の
物資を運ぶ旅人に義清神社への道を示していたらしい(地図)。ドラッグストアかカインズの駐車場を利用しての巡回が良い。
石塔の建立は寛政六年(1794)7月22日、左の側面に「従是東江二丁入」、正面に「義清社」、裏面に「干時寛政第六甲寅歳」、右の側面に
「甲斐源氏祖御旧跡」と彫ってある。

この頁は2019年 7月30日に更新しました。