吉見 岩殿山安楽寺(吉見観音) 

 
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岩殿山安楽寺は 坂東三十三観音(公式サイト)の一つで、吉見観音として親しまれた十一番札所である。本尊は聖観世音菩薩で、吉見観音縁起によれば第45代聖武天皇(在位724〜729)の勅命を受けた 行基 が自ら彫った菩薩像を岩窟に納めたのが起源、と伝わる。
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約60年が過ぎた延暦年間(782〜806)には蝦夷討伐の際にこの地を訪れた 坂上田村麻呂 が吉見の総鎮守に定めたともされる。田村麻呂は延暦20年(801)2月に出征して蝦夷を平定し、延暦22年(803)7月に凱旋しているから年代は合致する。この時に伴ったのが蝦夷の頭領だった アテルイ と腹心のモレで、田村麻呂は約束に従って奥地への放還を求めたが、公卿らは「獣心は反復する」と主張し、結果として残材に処されている。
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当時の安楽寺と息障院は同じエリアにあったらしいから、特に分けて考える必要もない。鎌倉時代に至って吉見を領有した 範頼 が1180年代に中興して本堂と三重の塔を建立したらしい。元々の安楽寺は息障院を本坊とする大寺院の別坊で、息障院が明徳年間(1390〜1394)に1km東の現在地に移転した。南北朝時代が終り、やがて応仁の乱が始まる頃である。安楽寺も息障院も同じ真言宗智山派、これは発展的関係解消か、それとも価値観の差による離婚(笑)か。
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後の天文六年(1538)に河越夜戦で大軍の上杉・足利連合を撃破した北条氏綱が余勢を駆って松山城(3km南西の吉見百穴近く)を攻め、松山城は辛うじて落城を免れたが安楽寺の方は兵火を受けて堂塔伽藍の全てが焼失した。その後の安楽寺は著しく衰退し、江戸時代の寛永年間(1624〜1645)に杲鏡法印が三重塔を再建、寛文年間(1661〜1672)に秀慶法印が本堂と仁王門などを再建し繁栄を取り戻した。
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ほとんど全ての堂塔は「柿葺き」(板葺き・こけら葺き)だったが、大正十二年(1923)の大改修で銅板葺きに改められた。本尊の聖観世音菩薩の開帳は毎年6月18日(15時頃まで)のみ、観音像に供えた団子が疫病の蔓延を防いだ故事に倣った「厄除けだんご」を求める参拝客で周辺は早朝から大変な賑わいとなる。午前2時頃から売り始めて8〜9時頃には完売するらしいし、参拝時間が早いほど御利益も大きい、とか。
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安楽寺の撮影も息障院同様に駆け足で済ませてしまった。堂塔の彫刻なども見事なので、次回はもう少し落ち着いて参拝&撮影しようと思う。


     

       左: 緩やかな坂道(巡礼坂と呼ぶ)を登って山門の下へ。300mほど手前に参拝用の無料駐車場があり、数軒の土産物店も並んでいる。
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       中: 本堂は築後350年、敷地が丘陵の裾なので山門から更に石段を登る。右側には丈六の鋳造阿弥陀如来像、「吉見大仏」が鎮座している。
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       右: 築後400年近くが過ぎた三重塔は高さ24.3m、芯柱は一階天井の梁で支えるためか、一階部分の面積を大きくした独特の姿になっている。
範頼が創建・寄進した時は倍の16丈(約48m)だったと伝わるが、真偽は判らない。日本一高い東寺の五重塔さえ約55mだから...。

この頁は2019年 9月27日に更新しました。