大峯奥駈道で結ばれた吉野山系の山岳信仰 

左フレームの表示&「鎌倉時代を歩く 弐」 の記載ヶ所へ       「索引」 へ   当サイト 「旅と犬と史跡巡りと」 トップへ 

 
吉野山系 左:金峯山寺から大峯奥駈道を経て大峯山寺へ    画像をクリック→拡大表示
.
奈良県吉野町にある修験本宗本山が金峯山寺(きんぷせんじ)。開基は 役行者(役小角)と伝わり、蔵王権現を本尊とする。かつての「金峯山寺」は単独の寺院ではなく、 が彷徨った蔵王堂から吉野山系の尾根道(大峯奥駈道)を経て20km以上も南の山上ヶ岳(1719m)にある大峯山寺(おおみねさんじ)の間に点在する多くの社寺を含む総称だった。
.
明治初期の神仏分離令(神仏判然令)でそれぞれの社寺が独立し別個の寺院となる前には、吉野山金峯山寺は「山下(さんげ)の蔵王堂」であり、山上ヶ岳の大峯山寺は「山上の蔵王堂」と呼ばれていた。
.
従って吉野山系とは奈良時代から続く山岳信仰のメッカであり、義経 主従と静の逃避行ルートであり、南北朝時代には南朝初代の 後醍醐天皇 から同・4代の後亀山天皇まで50年以上続いた南朝の根拠地でもあり、近年では下千本・中千本・上千本に代表される桜の名所として名高い。
.
  ※厳密には: 都が飛鳥から平城京に遷ったのが和銅三年(710)、伝承に従えば役小角の生涯は舒明天皇六年〜
大宝元年(634〜701年)、平城遷都の年には既に没していた計算になる。
従って役小角が開祖であれば飛鳥時代の天武・持統朝の創建となる。明日香村と吉野は直線で10km(徒歩ルートで20km)だから平城京よりも遥かに至近距離に位置している。
【吾妻鏡 文治三年(1187) 2月10日】
.
前の伊予守義顕(義経)は様々な場所に隠れて再三追討を逃れ、遂に伊勢・美濃など諸国を経て奥州に入った。陸奥守 秀衡入道 の庇護を受けるためである。妻と子供らを連れ山伏や稚児に変装していた、と。
.
  ※義顕: 鎌倉では義経の行方が判明するよう呼び名を義行、所在が顕れるよう義顕 と変えている。馬鹿らしい!
.
義経記などに拠れば、義経は蔵王堂から500mほど南東の吉水神社に数日間隠れた後に僧兵に追われて雪山に入り、反転して10km北の多武峰(とうのみね)談山神社を経て行方不明になった。吾妻鏡に拠れば、義経が平泉に入ったのは文治三年(1187)2月前後だから、吉野山に入った文治元年(1185)11月から約15ヶ月を費やして秀衡の元に逃げ込んだことになる。
.
逃走ルートを示す具体的な資料は存在せず、北陸道の安宅関で山伏を装った義経主従が弁慶の読み上げた勧進帳によって危機を脱するなど数々の伝承を生み出している。伝・安宅関跡訪問の記録(別窓)を参照されたし。
.
吉野山に建つ代表的な寺社・他の公式サイトは次の通り(最初の三ヶ所は公式サイト、以後は「 wiki 」、全て別窓)
           金峯山寺   吉水神社   如意輪寺   大峰山寺   桜本坊   竹林院   喜蔵院   吉野水分神社   金峯神社


     

        左: 山上の蔵王堂(山上ヶ岳の大峯山寺)に対して「山下(さんげ)の蔵王堂」と呼ばれた金峯山寺堂塔群の中心部。
.
        中: ケーブル駅から200mほどに建つ黒塗りの高麗門が金峯山寺の総門。黒門と呼ばれ、俗世界と神域の区界を象徴している。
現在の門は昭和60年(1985)に再建されたもの。周辺の土産物店が少し煩わしい。
.
        右: 蔵王堂を中心にした地形図。近鉄の吉野駅から町営のマイクロバスで狭い道を金峯神社(通常ルートの一番奥)まで登るのがベスト。
見物しながら徒歩でケーブル駅までのんびり下ると良い。ただし桜のシーズンには酷い混雑で、2時間待ち程度はごく普通らしい。


     

        左: 国宝の仁王門は蔵王堂の北側に建つ瓦葺きの二重門で桁行(桁の巾)12.3m・梁間(梁の奥行)6.9m・高さ20.3mの壮大な規模。
現在の建物は室町時代の康正二年(1456)の再建で、蔵王堂(背後の茅葺き屋根)が熊野からの巡礼を迎えるために南を正面にするのに対し
吉野から登ってくる巡礼を迎えるために北を正面にしているのが面白い。両袖には高さ5.28mの阿吽仁王像が納められている。
南北朝時代までは蔵王堂の南にあった二天門(焼失)が南門とされていた。
.
        中: 国宝の山下の蔵王堂本堂。豊臣氏の寄進により天正十九年(1592)に再建された。木造としては東大寺の大仏殿に次ぐ規模である。
主祭神として内陣の厨子に巨大な蔵王権現三体(秘仏・平成29年の公開画像・別窓)を収蔵している。
中央に7.3mの釈迦如来、左に5.9mの弥勒菩薩、右に6.1mの千手観音像で、国の重要文化財指定である。
.
        右: 明治維新までは金峯山寺の僧坊吉水院だったが神仏分離によって仏教寺院を切り離し吉水神社となった。
後醍醐天皇 を主祭神に、南朝の忠臣・楠木正成と吉水院宗信を併せて祀っている。本殿は護摩堂で隣接する書院には義経が潜伏し、後世に
後醍醐天皇が住んだと伝わる部屋(重要文化財)が保存されている。


この頁は2019年 8月27日に更新しました。